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今週の1枚(2011/02/07)



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Essay 501 : 幻想の終身雇用と公務員  「ひとりぼっち」(6)

 
 写真は、ウチの裏庭で取った夾竹桃。英語ではoleanderというらしいですが。その左の緑の樹木は、葉っぱだけになったジャカランダ。

 

 さて、先週のシドニーは延々猛暑が続きました。土曜日がピークで41度に達しましたが、温度の絶対数というよりは、「延々続いた」という点がポイントであり、加えて夜になっても気温があんまり下がらなかった点も取りざたされました。なんでも過去150年で「5日以上続けて30度を超えた」ということはなかったそうで、今回は7日連続だから記録破りであるという。逆に「え、そうなの?」と思ったのですが、確かに暑いのも4日も続けばクールダウンしてくれてました。

 で、猛暑のあとはお約束の「冷たい南風」寒気団が到来し、垂直落下のように気温が下がります。わずか1時間に15度、20度一気に下がるという、いかにも荒っぽい大陸性気候です。
   右に気象庁のサイトからキャプチャーした気温変化グラフを掲示します。土曜日は最高41度になり、夜になってもせいぜい27度どまり、日曜日は朝から気温が上がり始め、12時半くらいに35度に達したあとは、急転直下、1-2時間の間に15度くらい下がり、19度までいってます。いかに凄まじい変化であるか、です。



 グローバル化など世界的な潮流から、これからの時代は「個人化」「単身化」していくと言われています。つまりは「ひとりぼっち化」していく。この一連のシリーズ(って呼ぶほどのものでもないけど)は、なんでそうなるの?実際にそうなってるの?これから先どうなるの?、じゃあどうしたらいいの?というお話です。
 過去回は、ESSAY 494ESSAY 495ESSAY 497ESSAY 498ESSAY 500です。


 今回は、終身雇用と年功序列、それと公務員の身分保障についてです。 

終身雇用と年功序列という「ありえない」システム

 なぜ経済のグローバル化が進むと、終身雇用や年功序列が崩壊していくか?については、これまでも述べましたし、巷間たくさんの解説が出回っているでしょう。しかし、考えてみれば終身雇用や年功序列というのは凄いシステムですよね。めちゃくちゃ大胆というか、グルーバル化云々以前に、こんなことありえないだろう?というようなシステムではないでしょうか。

 なぜなら、一人の従業員を雇ったら、定年までの30年〜40年、さらに退職金や、老後の年金、再就職斡旋まで含めれば文字通り「終身」面倒見なければならないんですよ?そんな約束できますか?一生レベルの約束なんか、結婚相手や子供・家族にするのが精一杯で(それすら果たすのは難しい)、従業員とはいえ赤の他人について一生面倒見るなんてことは普通出来ませんよ。

 また年功序列も凄まじい発想で、社内年数が長い=地位と給料が高いということですが、趣味のサークルや親睦団体ならともかく、株式会社などの利益集団においてこれを貫くというのも、普通に考えたらありえないです。民間企業においては「利潤の極大化」、公共的な団体においては「公正で効率的な事務の遂行」こそが至上命題であり、これらタスク遂行集団におけるメンバー配置の原理はたった一つ、「適材適所」しかない筈です。それはサッカーや野球チームのポジション決めやレギュラー/補欠と何ら変わりはない筈です。「在籍年数が一番長い人から順に4番を打つ」なんてことはしないでしょう。でも年功序列というのは、それをするわけです。「ありえない」というのはそういう意味です。

 もちろん、一般論としては経験年数が長ければそれに比例して「実力」もつきますから、多くの場合は長期在籍者/年長者ほど高度なタスクをこなしうると言ってもいいでしょう。それに年功序列といっても機械的にやっているわけでもなく、それなりに実力も判断されてはいるでしょう。しかしながら、常に実力に比例するというなら、別に年功制である必要はなく、単なる実力制でいいわけです。年功制が年功制らしくあるのは「実力が伴わないけど年功で出世できる」という現象があってこそでしょう。だからすごいなと。

 もっと突っ込んだことを言います。多くの組織は上位者が少なく下位者が多いというピラミッド構造をとっています。取締役は10人いるけど平社員は2人しか居ない等ということは普通ないでしょう。ということは、人数的に多いピラミッドの底辺が、時の経過とともに年功制によって徐々に上に上がっていくなら、膨大な数の上級ポストを作らないとならない。と同時にそれを支えるためには、さらに巨大なピラミッドの底辺を作らなければならない。今年新卒を100人採用したら、10年後には1000人採用しなければならない、、ということになります。猛烈な勢いで組織が膨張し続けなければならない。こんなの永遠にやり続けることは不可能です。この構造、何かに似てるなと思ったら、ネズミ講やマルチ商法のパターンです。ネズミ講がいずれは破綻するように、年功制もいずれは破綻するということです。


 このように終身雇用も年功序列も、素朴に考えればノーマルなシステムとは思えない。これらが成立するためには、極めて特殊な条件が必要でしょう。すなわち、@一生レベルの長期にわたって組織が拡大成長し続けること、A入社以降の経験年数が長ければ実力も高いという相関関係が認められることでしょう。さらにAを成立させるためには、(A)仕事の内容があまり変わらないこと、(B)従業員全てに水準以上の学習能力があること、などの条件が必要でしょう。コロコロ業務内容が変わってたら過去の経験は役に立ちませんし、いくら経験しても全然学ばないようなボンクラ社員ばっかりだったら経験年数は意味を持ちませんから。

 この@Aの条件が一定期間認められた時期があります。それは戦後の高度成長時期の、大企業の、しかも男子社員の場合です。一口に終身雇用といっても、真実終身雇用であったのは、日本の全労働者の一部にすぎません。これは50才以上の年長労働者の平均社内勤続年数の統計を見たら分るのですが、実際に長期間(20年以上)勤続している人が多いのは、従業員1000人以上の大企業であり、且つ男子社員の場合です。それ以下の規模になるほど、また女子になると、話は又違ってくる。それに入社時点で終身雇用を期待し、めでたく定年までいけたという幸福な世代は、せいぜいが1940年代後半から50年代後半入社組という、たかだか10年未満に過ぎないとも言われています。だから終身雇用が日本の伝統だとかいっても、それはごくごく限られた一部での話であり、比率からしたら圧倒的にマイノリティでしかない。「そーゆーこともあった」というだけの話。高度成長時期においてすら、そうでなかった勤務先や労働者の方がずっと多い。

 このあたりの詳しい説明は、NIRA総合研究所開発機構というシンクタンクが出している緊急提言 終身雇用という幻想を捨てよ―産業構造変化に合った雇用システムに転換を―(別窓)によく書かれていました。

 以上、終身雇用というのは、「一部において一瞬生じただけ」であり、もはや「幻想」といってもいいくらいのものです。なのに、なぜにこうも日本の労働システムの金科玉条として賛美されるようになったのか?といえば、おそらくは高度成長時代の神格化とその象徴としてでしょう。「ああいう風にやったから上手くいった」という過去の成功パターンへの過度の信奉ではないか。


 理論的にも無理があり、実際的にも幻想に過ぎない終身雇用や年功序列が、現代のように激しく動いている時代に適用されなくなっているのは当然すぎるほどに当然でしょう。例えば産業構造の変化です。ある時代には花形産業だったのが、次の時代には落ち目になっているというのは良くあることです。花形時代に大量採用したとしても、その後の20年で深刻な経営不振に陥り、下手をすれば倒産、そうならないために激しく整理解雇をするでしょう。また、職種内容や求められる個々人のスキルの変質という点もあります。その昔はタイピストというもっぱら女性の仕事がありましたが、これもワープロやPCの普及で見られなくなりました。また大人数でせっせと伝票整理していたのもOA化の進展で削減されていきます。アウトソーシングという手もあります。現場における製造技術がもてはやされてた時期がありつつも、やがて工場は全て新興国の現地工場になり、求められるスキルは「海外工場で外国人の部下達を管理掌握すること」に変質するってこともあるでしょう。どんどん時代は動いていく。

 さらに、金融市場のグローバル化によって、日本企業に多数の外国人投資家が関与するようになります。今や東証の外国人の株保有比率は70%を超えていると言います。そうなると株式相互持ち合いとかシャンシャン総会というこれまでの慣習が通用しにくくなり、油断していれば敵対的買収を食らうし、総会で配当比率が少ないことをビシバシ責められ、下手をすれば経営陣全員クビというスゴイことにもなりえます。そうなると、企業は利潤を出すために必死にならざるをえず、これまでのように終身&年功の保証、手厚い社会福祉=それこそが「個人化」を防ぐ安全ネットであったのだが=がガンガン削減されていきます。従業員からみたら良い制度であったとしても、投資家からみたら無駄以外の何物でもないです。つまりは、「使えない人材に高給を出して雇い続けている」ことでもあり、「利潤に何の寄与もせず維持費ばかりがかかる無駄な保養設備」として断罪されてしまう。2007年ころに日本企業は史上空前の利潤を記録しつつも、従業員の給与がピクリとも動かず、むしろ下がっているのは、資本主義というものの本来の(グローバルな)「儲けてこそなんぼ=儲からない行為は全部無駄」というドライなシステムが徐々に日本に浸透してきていることも原因になっていると言われています。

 生き馬の目を抜くような国際市場で勝ち抜いていくため、いまや「何でもアリ」状態になっています。リーマンショックのときも明らかでしたが、100年以上の伝統を誇る欧米の老舗企業ですら、一夜明けたら突然死のように倒産するわ、メンツも何もかなぐり捨てて、国内&海外の企業と合併するわという時代になっています。バリバリの日本企業に入社したと思ったら、いつの間にか外資に買収され、激しいリストラが行われるかも知れない。また、見た目は全然変わらなくても資本構成が変わっていつのまにか外資になっていたということもあるでしょう。大体、先ほど書いたように外国人が株の70%を持っているのだから、単純な資本原理でいえば、日本の上場企業はほとんどが「外資系」とも言えるわけです。

 世界規模のバトルロイヤルをやっているのですから、情勢の変化に応じて機敏に動ける企業が生き残っているでしょう。自社業務のうち○○業はもう成長性がないと見切った時点で、その部局の人員をバッサバッサと解雇整理し、迅速に体制を再編していくことになるでしょう。それを「可哀想だ」でグズグズしていると、いずれ企業そのものが市場から落ちこぼれて倒産、あるいは外資に安く買いたたかれて、スクラップ車のように部局別パーツ別に切り売りされてしまうという厳しい現実。これは将来像ではなく、10年、20年前から既に生じている現象です。要はフットワークが軽い企業が有利だということです。軽ければそれで良いというものではないにせよ、有利であることは否めない。一方、終身&年功というのはフットワークを激重にするシステムですから、こんなものがいつまでも存続するわけはない。


 以上はオサライのようなものですが、時代の変化をキモに銘じて腹を括るためにも、そして過去への未練をスッパリ断ち切るためにも、また皆の不公平感を無くすためにも、終身雇用と年功序列は完璧に崩壊しちゃった方がいいと思います。その上で建設的な対策を考えた方が理にかなっているのではないか。実際あらかたぶっ壊れてますし、それは民間企業になればなるほど、そして世代的に若くなればなるほど新常識となっていってるでしょう。新卒で採用された人で、30才時にまだ同じ会社に継続して働いている人の割合は大体3分の1に過ぎないようですから、終身雇用を前提としない動き方になっているといっていいでしょう。

 しかし、それでもまだ「最後の牙城」みたいに終身&年功が残っている一群があります。一番大きなエリアは言わずとしれた公務員です。ここがネックだと思うのですね。

終身雇用と年功序列の崩壊の徹底化

 僕は昔から思っているのですけど、なんで公務員があんなに身分保障されているのか?と。そのための人事院とかありますが、これは公僕たる公務員には職務に精励する強い義務を課し、争議権などの労働権を奪っている埋め合わせとして、強い身分保障が必要であるということだと言われます。また、時の権力者の不当な指示によって行政が左右されないようにするためだと言われています。それはそれでよく分かるけど、しかし、今のような強い身分保障が本当に必要なのか?という疑問は強くあります。結果として明治以来の官尊民卑の弊風が残っているとさえ思える。

 ここの論点は多岐に亘るのですが、順次潰していきます。

公務員は本当に身分保障されているのか〜法律上の根拠

 国家公務員法第75条は、「職員は、法律又は人事院規則に定める事由による場合でなければ、その意に反して、降任され、休職され、又は免職されることはない」と定めています。そして、「法律又は人事院規則に定める事由」というのは、「1、勤務実績がよくない場合、2、心身の故障のため、職務の遂行に支障があり、又はこれに堪えない場合、3、その他その官職に必要な適格性を欠く場合、4、官制若しくは定員の改廃又は予算の減少により廃職又は過員を生じた場合」となっています。これはさらに「人事院規則十一−四(職員の身分保障)」によって詳細且つ具体的な用件を定めています。

 一方民間企業の場合は、労働基準法上「30日の予告手当」を出せば自由にクビを切れることになっているのですが、戦後の判例の積み重ねにより、解雇権は原則自由ではなく原則不自由であり、特に正当な事由がない限りクビには出来ないというのが判例法上の現実です。

 だから法律(判例)上、公務員と民間とでそれほど労働者の権利保護に差があるとは思いにくい。要するに「勝手にクビは切れない」ということであり、クビにするためには「それなりにもっともな理由」が必要であるという点は同じです。公務員においても、心身の故障や適格性の他、「無能(勤務実績がよくない場合)」や「リストラや経営難(改廃や予算減少)」も立派な解雇(公務員では「免職」という)事由になっているわけです。懲戒免職などと対置させて分限免職と言われます。だから、使えない職員や、行革によって公務員だってバンバン解雇できるのが法律上の定めでしょう。

 しかし、法律上は官民とも似たようなものなのに、なぜか公務員の方が優遇されているような気がします。これが錯覚ではないのは、一般的なリストラに相当する分限免職が、実際にはほとんど聞かないことからも推察されます。国家公務員についての分限免職は1964年の姫路城改築工事の際の以降、一度もないそうです。今回社会保険庁の組織改正(日本年金機構への移行)に伴って約1000人ほどが再雇用などの難しさから、ほぼ半世紀ぶりの分限免職になるかどうかが注目されているようです。地方公務員での分限免職は、教員関係でよく裁判になってますけど、その数は民間のリストラ嵐に比べたら微々たるものでしょう。

公務員は本当に身分保障されているのか〜実際の運用

 なぜ民間ではビシバシ首切りが行われるのに公務員ではそうではないのか?いろいろな理由があると思いますが、結局のところ「慣行&運用」なんだろうなあって思います。これまで滅多なことではクビにしなかったから、よっぽどのことでもないクビにできない。逆に言えば、うかつにクビにでもしようものなら蜂の巣をつついたような大騒ぎになるので手出しできない。いかにも前例とか人目を気にする日本社会ならではですし、「無事これ名馬」の公務員世界のカルチャーだったら尚更でしょう。

 もう一つの理由は労組が強いからでしょう。公務員というのは争議(スト)権が無いなど労働権が弱く、それゆえに人事院で手厚い保障をするのですが、皮肉なことにこの労働権が弱い筈の公務員において、活発な労組活動が展開されています。厚生労働省の平成18年労働組合基礎調査結果によると(別窓)、全産業で労組組織率が50%を超えるのは公務とガス電気など公共事業体くらいであり、組合員数においても日本の労組員の20%は公務員関係です。労働環境が過酷な民間でこそ労働運動が活発になっていなければならないのだけど、事実はその逆で、労働運動をしかけた時点で有形無形の圧力を受けたり、仕事がこなくなったり、労組があったところで労使協調路線でコトを荒立てなかったりします。急成長しているソフトバンクや楽天などにも労組はなく、非正規雇用にも保護がなく、人材派遣業にも労組は少ない。要するに労働環境が過酷すぎて、うっかり「労働者の権利」などとと口走って厳しいしっぺ返しを食らうことを恐れる。一方クビになる心配のない公務員は、だからこそ活発な労働運動が出来るわけで、これは本当に皮肉な話です。労働者の権利が侵害されればされるほど権利救済が出来なくなっているという逆転現象が起きているということです。

 だから公務員は優遇されている、ズルいぞといって公務員の労組活動を批判する向きがあったりしますが、それはスジが違う。批判すべきは、日本の民間労働の、およそ先進国とは思えない前近代的な労働環境でしょう。過酷な職場環境の企業を「ブラック」と呼んだりしますが、その意味でいえば、日本のほとんど全部の職場はブラックといってもいい。あとで述べる機会があると思いますが、グローバル資本主義による職場環境の劣化という潮流に対しては、的確なカウンターパワーをブチ当ててバランスを取るべきだと僕は思ってます。労働運動もその一つです。オーストラリアは、不十分とはいえ、日本に比べれば遙かに労働者の権利が保護されていますが、それでも順調に経済成長しています。「私生活や権利を犠牲にして働かないと経済が発展しない」というのは、終身雇用と同じく幻想であるといってもいい。またそういった職場中心&私生活ナシみたいな日本の職場環境が、日本人の私的幸福の達成をどれだけ妨害しているか。残業手当もつかない、有給も取れない、バカンスなんか夢のまた夢、育児もろくすっぽできない、要するに人間としての幸せを実現しにくくしている最大の元凶とも言えるわけです。またそのような旧弊が、海外での企業活動=優秀な現地外国人の採用と管理を難しくしているし、逆に海外企業で活躍する能力のある日本人を日本から流出させている。いずれにせよメリットよりもデメリットが大きい。

 第三に、親方日の丸で潰れる心配がない、という点があります。陳腐な表現ですが、でもこれが一番大きいかもしれない。結局、日本の民間がなんであんなに厳しい労働環境になるかといえば、市場における激しい競争があるからです。悠長なことをやっていたら会社ごとブッ潰れてしまうし、現場においては上からハードなノルマを課されている。企業だって好きでリストラやってるわけではなく、やらないと生き残っていけないからやるわけです。企業の存続=「潰れる心配」との戦いです。しかし公務員世界はそうではない。労組や身分保障が強いだけではなく、そもそもリストラ圧力という環境そのものが無い。昨今の財政破綻した自治体や、事業仕分けやらでようやくそういう環境になりつつありましたが、大勢はまだまだ安楽だといっていいでしょう。

 以上、公務員の身分保障というのは、法律上の規定がどうとかいうことよりも、そもそもの構造論や実際の運営という現実レベルでの特徴ではないかと思います。

理想の公務員像

 そもそも論でいえば、公務員というのは「皆のため」の仕事です。憲法15条所定の「全体の奉仕者」です。だからこそ、私的信条を抑えて、没個性的な歯車的な人材がいいのだ、官僚が出しゃばるのは良くないといわれますが、僕は逆だと思います。「皆のため」にやるというのは、ある種ボランティア的な精神がバックボーンになければなりません。政治家なんて最たるものですが、一命を賭しても皆のために動こうという部分が大事なのではないか。

 まあ、末端職員にまで「一命」なんて大袈裟なことを求めるつもりはないけど、「ゼニカネではなく社会を良くしたいんだあ!」という意欲のない奴に公務員になってもらいたくはない。これをもっとも平易な言葉でいえば、「男気」みたいなものです。弱い人、可哀想な人がいたら見てられない、「おし、俺にまかせておけいっ!」て男前な人格態度&能力こそが、公務員に最も求められる資質なのではないでしょうか?これは軍人だって、消防員だって、警察官だって、教師だってあると思いますよ。プロとしての意地と誇りです。とても大事なことです。

 その意味で言えば、「安定しているから」「一生安泰だから」みたいなモチベーションで公務員になってられたら困るわけです。熱意があるスタッフが頑張ろうとしても、組織的にやんわりと殺される。積極的に生徒と対話をしようとするいわゆる熱血教師がいたとしても、「キミ、あまりやりすぎないように」「○○先生のスタンドプレーにも困ったもんだ」みたいなことになる。実際なってるでしょう。やれ教育委員会が恐いとか、PTAが鬱陶しいからで、事なかれ政治を好む。挙句の果てに子供が教室でいじめられ自殺したとしても、公式的には「いじめは無かった」とか言って、残された遺族や親に悔し涙を流させるという現状が、立派なことだとは僕にはどうしても思えないのです。

 だから「男気学園」みたいになったらいいと。校長先生には最強の男気人材を配し、モンスターペアレンツや教育委員会がうだうだしょーもないこと言ってきたら、ガツンと一喝できるくらいの人材が欲しい。もうヤクザの組長くらいの迫力が欲しいですわ。当然反発もキツイだろうし、教育方針をめぐって殴り合いの喧嘩になったり、訴訟合戦になったりするかもしれないけど、それでもいい。思うのですが、教育において一番大事なことは多々あるのですが、やっぱり「信念を賭けて戦う大人の姿」ではないか。100%本気の、背筋が寒くなるくらいガチの大人の喧嘩も見せてやればいい。なぜなら、これからは「平穏無事に生きるというメソッド」が役に立たなくなる時代なのだから。自分で考え、自分で突っ張り、場合によっては喧嘩も辞せずというスキルと精神性が必要なのだから。これは海外でやっていくために必要な資質ですし、従ってグローバル化における必要な資質になるでしょう。

公務員は終身雇用である必要があるのか?

 でも、そんな男前な教育現場は、今の状況ではあり得ないです。短気を起こして上と衝突して、それで一生パーだったら失うものが多すぎます。でもちょっと待って。「失うもの」にビビって、本来の職務を全うしないことは正しいのか?個々人の生き方レベルならば、そういう苦い経験もまたアリなのかもしれません。しかし、国民の立場からしたらどうなのか?「失うもの」にビビって、イジメがあっても見て見ぬふり、自殺があっても強引にバックレてもらうために国民は税金を納めているのか?そういうことをして欲しいのか?

 しかし、個々人のレベルで「一生を棒に振っても職務に忠実に」なんてことは言えない。一人の人間にそこまで過大な要求は出来ないし、したところで非現実的です。だとしたら、最初から「失うもの」を無くしてしまえばいいのです。つまり、「安定してる」とか終身雇用とか、そういう環境そのものを無くしてしまえばいいじゃん、と。

 大体ですね、人間の一生のサイクルを考えてみれば、やたら金が欲しくなる時期もあろし、逆に仕事に意味性を求めたくなるときもあります。子供の進学期、親の介護期はお金が欲しいから高給を目指したい。でも自由な若い時期、あるいは一段落した時期ではやり甲斐を求めたい。全ての人がそうなるとか限らないけど、時期によって変わるでしょう。そして公務員のように「全体の奉仕者」というクラス委員みたいな仕事は、時限付きで「燃えている時期」だけに区切った方がやりやすい。男気を一生続けろというのはキツい。何によらず「一生そればっか」というのはキツイですよ。人生にメリハリがなくなる。

 では10年経ったらお払い箱で、その後どうするのか?ですが、だから、そんなことでビビるような人は公務員に向いてないのではないかと言っているわけです。一定期間だけでいい、いや一生やるつもりはないから一定期間こそがいい、俺にやらせてくれいって人を求めたいです。公務員の仕事って、仕事としてみたらかなり魅力的です。「日本のメンテ」をやるわけですから、面白くないわけがない。またトヨタも大手商社もメじゃない超大企業なわけで、億どころか兆単位のビジネスが出来る。市井の町役場だって、人々の悲喜こもごもに直に接することができる。だって、ボランティアやNPOだってやってることは公務員領域とカブるわけで、つまりは「無料でもいいからやりたい」と思わせるだけの内容がある筈です。

実現のダンドリ


 そんな理想的なことばっか言って、実行出来るんかい?と冷笑的な向きもあるでしょう。でも、それは話が逆で、目標設定が良いかどうかをまず考え、それがOKだったら、今度は実現ダンドリを必死に考えるべきでしょう。今日明日には出来なくても10年後、100年後にはどうかです。要は無限の未来に向ってチャレンジし続けるか、永遠にあきらめ続けるか、どっちがいい?ってことでしょ。

 中途で解雇(契約年限切れ)になるのが恐いのなら、その恐怖感を実体で打ち消せばいい。再就職の道が開かれていたらいいわけでしょ。時限尽きだけど、保身的にならずに公的業務をバリバリ10年もやってたら結構なキャリアですよ。教員であれば、他校や私立校への再就職、予備校への再就職、私塾の経営、教育関係の仕事は多々あるでしょう。また、子供が好きで子供の扱いが上手であれば、それなりに生計を立てるルートはあると思うし、積極的に開発していったらいい。インフラ業務、例えば原発管理の仕事をしてたら、新興国へのインフラ輸出貿易において立派なキャリアになると思います。

 これは他の公務員でも同じ事です。市役所を10年勤めて退官したら行政書士の資格を付与するとか、法務局や裁判所に勤めたら司法書士資格を付与するとか、試験のうちの相当科目を免除するとか、やりようはあるんじゃないかな。今でも税務署に勤めていたら税理士になれますから(一定の要件はあるけど)、それをもっと広げて、なんせ「現場を知ってる」という強いアドバンテージがあるのだから、その職歴とキャリア、スキルを野に埋もれさせるのは惜しい。

 一方雇用面はどうかといえば、メインを中途採用の転職組くらいにして、雇用最長年限を10年とし、特例があれば延長するくらいでいい。ともあれ他のビジネスや職人社会を知ってる人をどんどん教師にしたほうがいい。もちろん研修は受けて貰うし、それなりに資格を得なければならなくするけど、今みたいに大学で教職取らねば、、とかハードルを高くしすぎない。3か月みっちり研修受けたら使えるレベルになるようにする。人材を選べば、他の分野でそれなりに頑張ってきた良質な人材だったら行くはずです。本来、専門のスカウト班を組織し、全国的に優秀な人材をスカウトするくらいでもいい。

 教師に限らず、どのような職場でも周辺の人達を積極的に雇用したらいい。同じ業界にいつつ、立場が違うということをたくさん経験させてあげたらいい。介護ボランティアを10年やっていた人は優先的に市町村や厚生労働省職員に採用するとか、本当の意味での「キャリア重視」でやればいい。公務員世界の内部であれば、他省庁への出向やら交流やらは盛んにあるし、外国機関との交流や留学もある。私企業とジョイントすることすらある。今だってやってるだし、現場においてはその有用性を評価しているのだから、全く根拠のない絵空事ではないのだ。

 と言うことで、終身雇用みたいな制度ではなく、太く、短く、潰しのきく制度にしたほうがいいと思うわけです。
 公務員ですらそうしろというよりも、公務員だからこそ終身雇用じゃない方がいい。これは過激な主張のように見えて、欧米では結構普通のことです。政権変わったら課長職以上は自動的にクビになるとか、一定以上のポストは公募採用しかしないとか。およそ組織というのは自然に保守性を持つものですが、いかにそれを持たせないかが組織管理の要諦であり、ことが全体に波及する公務員なら尚更です。

 バリバリ保守性が強くなった組織は、例えば警察組織なんかもそうだと言われますが、やれキャリアだノンキャリだとか、本庁と所轄とか、警視庁と警察庁そして検察庁、さらには警視庁と神奈川県警が仲が悪いとか、公安と刑事部とか、、セクト主義過ぎ。で、口を開けば「警察の威信」ばっかだし。やってることは、天下りの先を必死に開拓し、パチンコ業界に寄生し、やれプリペイド導入だ、景品交換産業に再就職だという、、、どんどんイビツになっていくばかりじゃないか。

 天下りといえば、僕が言っているのは形の上では天下りを奨励するような案ですよね。活発な再就職とか言うんだから。でも、あまりにも再就職が普通になったら、逆に天下りの意味がなくなるでしょう。現職でもボンボン転職してくるなら、また転職するくらい流動性の強い職場になったら、「モト局長」というモトカレみたいな人物の組織への影響力なんか微々たるものになるでしょう。誰もいうこと聞かんし。子飼いの部下も皆いなくなったら、意味がない。天下りが無くならないなら、天下りの意味そのものをぶっ潰してしまえばいい、それも最高に生産的な形で。

 これは公務員が憎くて言ってるのではないですよ。むしろ逆。僕が個人的に知っている公務員の人は、人間的にも良好な人が多いです。職務 も一生懸命やってる人が多い。世間からはどう見えるか知らんけど、現場は現場で頑張ってるという場合も多いのですよ。だから、それをもっと評価して、他の人生で転用できるようにしたらいいし、またなまじ終身保障なだけに一回なってしまったら辞めることに多大な勇気が要るのもおかしなことだと思います。一回辞めて、それでまた再就職できるようにして風通し良くした方が彼らのためにも良いのではないかと。余計なお世話なんですけどね。



 しかし、こう書いてきてツラツラ思うに、要するに日本の急所というのは労働環境なんでしょうね。ココの良し悪しで皆の人生が明るくなったり、暗くなったりする。なかなか就職できない、出来たところで非正規雇用では将来性もない。じゃあ正社員は天国かといえば、「天国という名の地獄」みたいなもので、なまじ待遇が良いだけに辞められない、不本意な仕事と生き方であっても軌道修正がきかず、心を病んだりする。これじゃあ閉塞感を通り越して絶望感に至ったりもするでしょう。もともと終身雇用自体が幻想だったのだから、これらの絶望感も本当は幻想なのですが、なかなかそうも思えないという。

 なぜかといえば、うーん、結局、マネージメントのまずさと「思いこみ」でしょうか。マネージメントいうのは政財官界のオエライさんの舵取りもそうですが、個々の人々の人生マネージメントです。何が悲しゅうて、そんなに選択肢を狭めてモノを考えねばならんのかという。このあたりは、また考えます。



文責:田村




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