過去3回書いた「ひとりぼっち」シリーズ(
ESSAY 494、
ESSAY 495、
ESSAY 497)に続きます。
前回の比喩を使えば、干潮で潮干狩りをしていたのだけど、時代が変わって満潮になりつつある、さあどうする?です。
日本人の生き方も二つの方向に分かれていくでしょう。あくまでも潮干狩りにこだわる方向と、新しい満潮メソッドを開発しようとする方向です。まあ「よくわからない」まま途方に暮れているという「どちらでもない」というのがほとんどかもしれませんが。
今のところ潮干狩り派が多いでしょう。だからこそこの現状を「チャンス」ではなく「問題」として捉える傾向が強いのだと思います。もちろん問題はある。山ほどあります。しかしそれは潮が変わったことが「原因」なのではなく、ライフスタイルというものを抜本的に考えてこなかったこれまでのツケが廻ってきたとみるべき、というのは前回述べたとおりです。
こういった潮流(時代)変化が良いことか、悪いことか?といえば、人によって色々な考え方があるでしょうし、プラス・マイナスそれぞれにありますけど、僕個人としていえば総体としてはプラスの方が強いと思ってます。嘆き悲しむ事態ではなく、むしろ喜び勇む時代が来た、と。というか、状況がどうあれ、それをプラス方向に持って行くべきでしょう。プラス「にする」と。
これは能天気なポジティブ・シンキングとして言ってるだけではなく、僕個人の素朴な感覚でもあります。なぜなら僕の場合は、スタンダード全盛時代に日本に生まれ育ちながらも、それに違和感を覚えて、勝手に「ひとり個人化」をやってたようなものです。誰も彼もが似たようなカッコして似たような生き方をしろという北朝鮮みたいな日本は好きではなかったし、今でも日本のそういう部分は好きではないです。どういう形であれそれが改まるのであれば、個人レベルの本音でいえば歓迎したいですね。もっとぶっ壊れちゃえばいいんだ、くらいに過激に思ったりもします(^^*)。
いずれにせよ、自然現象がそうであるように、潮流そのものには悪意はない。どっかの誰かが「意地悪したろ」と陰謀を巡らしているからそうなってるわけでもない。また、屋根の雨漏りや漏電のように、本来あるべき機能を果していないことが原因なのでもなく、あるいは集中豪雨で洪水が起きるような一時的なものでもないでしょう。いわば自然な流れとして「なるべくして」なっている。干潮が満潮に変わるように、夏が冬になるような変化であり、それ自体は「問題」ではないと思います。もちろん変化に伴って多くの問題は生じていますが、それは「夏服のままで冬になると寒いよ」という種類の問題であり、冬になるという変化そのものは「問題」ではない。
従ってここで求められる問題の解決は、「欠陥部分の修理」というよりは「変化への対処」だと思います。リペアメントではなく、アジャストメントだと。
どうしたらいいの?
ま、それはともかく、What should we do?です。どうしたらいいの?論です。
これに関しては、実はメッチャクチャ沢山あります。前回、「ここがヘンだよ」と指摘した点を変えていけばいいわけなんだから、ほとんど無限に思いつけます。いや〜、住んでないから本当のところは分からないんだけど、今の日本でなんで閉塞感が漂うのか、正直言ってよく分からんのですよ。やることなんか幾らでもあるじゃん!って。やることが幾らでもあるってことは、幾らでも良くなっていける!ってことでしょう?なんでせえへんの?と。ダメということが分かるということは、良くなりうる、素晴らしくなりうるということで、ダメ認識=希望なんだけど、そういう発想になぜならんのかと。
なんて吠えていたって仕方がないので、少しづつ書いていきます。
核心部分をズバリと言えば、
結局は「グローバル経済にどう対応するか?」論に尽きると思うのです。「個人化」「無縁社会」がなぜ生じるのかといえば、経済のグローバル化によって先進国と新興国との交易が活発になり、両者の格差が縮まってきたという潮流です。根本原因はそれしかなく、あとは全部その結果であり、因果の流れに過ぎないんじゃないかと。
すなわち、先進国の企業活動がタイトになったり、海外シフトするなりして、結果として労働条件が劣化し、国内市場が衰弱、さらに不況になるという一連のサイクルがある。これによって雇用の安定、ひいては人生・生計の安定が損なわれ、会社という庇護を離れた労働者は個々人として分解され「個人化」が起きる。同時に、雇用・生活不安が結婚や家族形成を妨げ、ここでも人々は家庭という暖かい楽園から追われる。かくして職縁、家族縁が希薄化して無縁社会に陥る。ひとりぼっち、寂しい老後と、孤独な最後、、、ということです。さらに日本の場合は、高度成長時代に他の先進国よりも過剰に会社人間化していたので職縁以外の人間関係機会が衰弱しているとか、財政破綻や急激な高齢化によって政府セクターの生活保障が期待できないとかいう特殊ローカル要因も加算されます。
これに対する処方箋は、大きく二つの方向があります。
(A)グローバル経済そのものを逆転させる(潮の流れを逆流させる)
(B)新潮流を前提にして対処する
上の段で書いたように(A)は厳しいでしょう。潮の流れは変えられない。グローバル化は日本一国の力でどうこうなるものではないです。鎖国でもしない限り無理だけど、鎖国したらエネルギーや食糧その他で自殺行為です。干潮から満潮になってしまった問題を解決するのに、「もう一度干潮になれば良い」というようなものです。ドカンと第三次世界大戦が起きるとか、宇宙人が攻めてくるとかいう特殊事情でも起きない限り、やはりここでの論点はAではなくB、「満潮に変わるとしてどう対処すべきか」になるでしょう。
対処ですが、これも大きく二つ考えられます。
@、頑張って就職、起業する
A、仕事に就かなくてもハッピーになる
アホみたいにシンプルな方法論ですが、いずれも大事なことですし、どちらか一つだけというものでもない。これからの時代は、両方出来て当たり前くらいになるかもしれませんね。
@の「就活を頑張る」ですが、世界トータルでは仕事の数は増えているはずです。新興国が豊かになってきているのですからね。ライバルも増えますが、世界的には仕事そのものの絶対量は増えている。ただし先進国内での仕事の数は減っているということで、就活を国内に限定しないということです。世界レベルで就活すると。これは起業でも企業活動についても同様です。こんなの今さら僕ごときが指摘するまでもなく、多くの人達が新興国に目をつけてガンガン取り組んでますよね。気の利いてる人はとっくの昔に行ってます。アフリカあたりが結構ホットみたいで。
一方、日本国内の職種構成や業態もどんどん変化していくでしょう。日本にお金を落としてくれる「顧客層」が日本人だけではなくなり、世界レベルになるからです。観光客は来るし、消費者もビジネスの取引相手も増える。例えば国内旅館も外国人に使い易いように対応する。外国の旅行代理店と提携するとか、各国語でパンフレットを作ったり。旅館内に通訳を常駐させるのが難しかったら携帯電話で通訳してくれる人と契約するとか。逆に言えば「24時間携帯通訳サービス」という新業種もありうるでしょう。地方の普通の民家でも、比較的間取りに余裕があったら、外国人ワーホリさんや滞在客相手のファームステイ、ホームステイ、ペンションなどが出来るはずです。彼らはいわゆる「日本らしい風景や風情」を求めてくるのだから、ビルだらけの都会よりも地方の方が絶対有利とも言えます。なんせ潜在的な客は秒単位でどんどん増えているのですから幾らでも考え得るでしょう。
また、いきなり海外進出は難しくてもネット販売でやっているのだったら対応も比較的簡単でしょう。今の自分のサイトの英語ヴァージョン、中国語ヴァージョン、タイ語ヴァージョンなどターゲット層に合わせていくとか。大変なようだけど、こんなのオーストラリアの語学学校だったらどこでも当たり前にやってることです。
A「無職でもハッピー」ですが、結局は意識改革になるのだと思います。
しかし、意識改革くらい難しいことはない。単に「気持ちを切り替える」だけではなく、物心両面というか、内実を伴うライフスタイルの変革をしていかねばならない。大変です。だけど、これさえ出来れば恐いものなしです。グローバル化と個人化・無縁化の因果の鎖を断ち切ることが出来ます。グローバル化しても「それがどうした?」てなもんで、別段孤独にも不幸にもならなくなるでしょう。
この点は難しいし、複雑なので、以下あれこれ書きます。
なぜ、仕事・家庭を持つと「一人前」とみなされるのか
「仕事をしていて普通」「家庭をもって一人前」という発想があります。特に前者は、日本社会においてはまだまだ強固ですし、将来的にも一朝一夕に消滅するようなものではないでしょう。だからこそ、仕事を得られない人は苦しい思いをする。これに対する簡単な解決方法は誰もが職にありつけるように経済が活性化することですが、それがたやすく実行出来るくらいなら苦労はないし、仮にある程度上手くいったとしても従来の仕事観・家庭観は変化を余儀なくされるでしょう。
この問題を考える前に、仕事や家庭を持つとなぜ「一人前」と評価されるのか、仕事や家庭というアクティビティの何がそれだけの評価を受けるのか、その実質的内容はなにか?を考えてみましょう。これにも二つの要素があると思います。
要素@は、いわゆる「責任あること」をしているので人間的に鍛えられるということです。仕事も家庭も、学生気分のような甘えは通用しません。泣いてれば誰かが助けてくれるというものでもないし、無能だったら罵倒される以上にクビや賠償責任など厳しい社会的制裁を受けます。しかも不可抗力でも責任を取らねばならない場合も珍しくない。かくして、運も不運もどんな理不尽も受け止めて、全部ひっかぶって、二本の足でしっかと立ってないとならない。これは人間を激しく鍛えます。毎日のジョギングやダイエットは中々続かなくても、仕事となったら二日酔いだろうが風邪だろうが行かねばならない。僕も仕事を始めて「病気だからしょうがない」という甘えが消えました。病気になること自体がプロ意識の欠如として痛罵されますから、点滴受けて法廷に立ったこともあります(天井グルグル廻りました)。その他社会の仕組みが分かるとか、技能が身につくとかいろいろな効用があります。結婚や家庭においてもラブラブ&スィートなのは最初だけで、あとは違う個性と24時間×一生付き合うのですから、鍛えられないはずがない。
こういった人間性&能力の向上という果実は、仕事をしていれば必ず得られるというものでもない反面、仕事をしなければ得られないというものではありません。仕事や家庭を持っていても、カタチだけのことで実質的はダメダメって人も沢山いるでしょう。逆に仕事も家庭も持っていないけど、人間性も能力も豊かだという人もいます。が、一般論で言えば、仕事や家庭と同じくらい鍛えられる場というのが少ないのも事実です。また、仕事でも正社員と派遣社員ではその責任の重さ、世間のシステムをより深く知る機会などで違いがあるでしょう。これは過去のエッセイでも書きました。
もう一つの要素Aは「会員認証」だと思います。仕事を持ち、家庭も持っている人が日本社会の中で圧倒的多数(全世代を通じればまだまだそうでしょ)を占める以上、彼らが「仲間」として認知するのは、同じ苦しみや悲しみ、喜びを体験しているという人、つまりは「話が通じる人」でしょう。共通の立場や経験が共通の価値観を生み、「大人」として、仲間として、すなわち「正会員」として迎え入れられる。会員に達していない人は、まだまだ仲間には入れない。「ガキはすっこんどれ」です。このように「一人前=仲間になるための資格認定」という要素です。
主観的要素
さて、ここで問題になるのは、実際に人間力トレーニング機会の有無という客観面よりも、「そう思う/思われる」という主観部分こそが大きな割合を占めるという点です。
つまり仕事・家庭のない人を世間が「どう見るか」「どう思うか」であり、自分が世間からどう見られていると「思うか」です。アケスケに言ってしまえば、仕事をしてない人間は「ハンパな二級市民」「ダメ人間」として世間から扱われ、また自分自身そう自己規定してしまうことです。こういった主観的影響が強いからこそ、精神失調を招いたり、ひきこもりになったりもする。実質よりも主観が大きい。上記のA会員資格でも、「どういう人間を正会員として扱うか(思うか)」という主観的判断の問題だといっていいでしょう。
問題が主観ならば、解決もまた主観です。「そう思わないようになる」ことです。
実際にも、こういう旧来の発想は段々と通用しなくなりつつあります。いや、そういう価値観を持ち続ける人は今後も大量にいるでしょうが、仕事にも恵まれず、家庭を持たない人々、つまり旧来の基準では「一人前ではない人」が徐々に増えていくに伴って、この法則への信奉も少しづつ揺らいでいくでしょう。極端な話、仕事も家庭も両方持っている人が人口の1割しかいないのであれば、そんな意識はぶっ飛ぶでしょうし、3−4割になるだけでももうかなり崩れていく。また既に結婚や家庭に関しては、それほど強烈な劣等感を抱かずに済むような時代になっていると思います。
しかし、それだけでは足りない。
それらはマイナスの度合いが多少減じるというレベルであって、これまで「マレに見るダメ人間」だったのが、「そんなに珍しい存在ではない」程度になるくらいでしかない。逆に、仕事や家庭を持たない人の方がカッコいいとか尊敬されるというようなことはない。まあ、そこまで完全に逆転する必要はないですけど、それでも五分ないし四分六くらいにはいくことが、意識改革には必要だと思います。
でも、第一線でパリパリ働いている人と何の仕事経験もないニートさんとを同等に見ろというのは、世間的にはやっぱり無理があるでしょう。サブカル的にはそういう価値観もアリでしょうが、サブカルはしょせんサブカルであり、メインストリームになることはない。なぜ無理があるかといえば、やっぱりそれだけの実質、客観的な差があるからです。
だから客観差を埋めていかないとならない。ここが埋まらない以上、この世にニート人口が90%になり、「決して珍しい存在ではない」どころか「それが普通」になったとしても、だからといって尊敬されることはないでしょう。士農工商における平民階級になるだけのことで、「普通だけど二級」という扱いになる。何のことはない、要するに新しい階級社会が生まれるだけのことです。これではアカンと思います。
プライドスキル&生き甲斐スキル
なぜアカンかといえば、この問題は究極的には個々人の自尊心、プライドの問題だと思うからです。
世間に対して、そして何よりも自分自身に対して何ら負い目も引け目も感じないという点こそが大事です。「別に〜、俺は全然コンプレックスなんか感じないぜ!」と言い放ったり、虚勢を張っても意味がなくて、心の底から自分でそう思えるかどうかです。そのためには自分自身のプライドの持ち方、いかにして正しいプライド(虚栄心ではない)を持つかどうかであり、ひいては自分の価値観をどう組み上げていくかというという点になっていくでしょう。
正しくプライドを立たせるためには、
自分のやってることにちゃんと意味を見出せること、意味を感じられるようなことを実際に実行することだと思います。誰に何を言われようが、俺のやってることは意味があるんだ、正しいことなんだって思えるかどうか。現実にそういうことをしていない限り、本当のプライドなんか持てないと思いますね。
他人にあれこれ言われて凹んだり、怒ったりするのは、それだけ自分に自信がないことの現われでしょう。だからこそ他者のレスペクトを渇望する「虚栄心」とプライドとは似て非なるものです。自分に自信があれば、世評など気にならなくなる。それだけではなく、そういった自信に溢れた生き様が他者に対する説得力になり、やがては世間の「承認」を生み、尊敬を勝ち得るのだと思います。
例えば「芸術家」と呼ばれる一群があります。彼らのなかには、社会常識もあり円満な人格者もいますが、奇人変人も多いし、はっきり言って生活(性格)破綻者も多いです。他人からみたら理解に苦しむような「作品」制作に没頭しながらも、それでも人類の遺産と呼べるだけの傑作を産み出す人もいる。そして、彼らの日常生活の貧困 or 裕福度は、その作品の優秀度とあまり関係がない。生きている間に認められ、大家として祭り上げられる人もいれば、生きている間は失意のドン底、貧乏のドン底で野垂れ死に、死後100年してから脚光を浴びる人もいる。だから世間でいう「仕事してる/してない(収入の有無)」とは全くレベルの違う世界に生きている。ましてや家庭の有無などエピソードに過ぎない。そして多くの「一人前」だけど「凡庸」な一般人は、人間離れした作品の完成度に驚嘆し、その妥協のない生き様に感動し、承認し、尊敬し、神とあがめるようになる。作品の持つ力で、力づくでも承認させてしまうのですね。
また、宗教的あるいは人道的使命感にかられて一生を捧げた人々、例えばマザーテレサであるとか、良寛さんであるとか、異国の海の藻屑と消えた宣教師であるとか、「いわゆる仕事をして=生計が立てられてこそ一人前」という世間の価値観に対抗しうるだけの強靱な価値観を樹立し、生き甲斐を感じ、したがってプライド(=使命感)も感じ、世間の承認と尊敬を勝ち得るパターンは幾らでもあります。
何やら途方もない偉人や天才ばかり引き合いに出して、現実感がないようですが、これらは説明の便宜上分かりやすいから出しているだけです。別に著名な業績を上げなくても、エラくなくても構いません。行為としてはささやかなものであっても、はたまた世間から承認されなくても、自分にとってそれで良い、意味があると思えるかどうかが大事であるということです。世間とは違う価値体系を持つかどうか。それさえあれば、その営為が報われなくても、賞賛されなくても、あるいは冷笑されようとも、妙な説得力オーラを発します。続けていれば、「なんだかんだ言うけどさ、でも、やっぱアイツはエラいよ」という承認が芽生えていきます。それが大事だと言っているのです。
何らかの生き甲斐を見いだし、真のプライド(自分のありようへの確信)を持ちうることが、世間的な「仕事一人前説」に対抗する道であり、次の時代にそれに代わりうる王道になるんじゃないかと僕は思ってます。
そんな確信ありげな生き方など到底出来ない!と思う人もいるかもしれません。しかし、そこで確信=価値観を作り上げられなかったら、結局いつまで経っても世間一般の旧来的な価値観(仕事してない奴はダメ的な)を乗り越えられず、自らのよって立つ地盤を築けず、自己否定のネガティブスパイラルから抜け出せないのではなかろうか。
それに、そんなに難しいことじゃないようにも思うのですよ。
何をもって「意味」があると思うか/思わないかという自分の価値観を築くことが前提条件になるわけですけど、価値観というのは要するに「好き嫌い」ですから、こんなもん誰だってあるでしょう?その好き嫌いを体系化していけばいいだけのことでしょ。何が難しいのだ。
そして、これは純然たる「スキル」だと思います。特にこれまでの「他人様と同じく」という判断停止気味だった日本においてはそうでしょう。何となくほけーと生きてきたり、「み、みんなは?」と絶えず周囲をうかがい、ヘコヘコ右顧左眄してたら、「百万人といえども我行かん」という強力な価値観や行動指針など産み出し得ないでしょう。
またそこまで強力な価値観(好き嫌い)を産み出そうにも、視野や世間が狭かったり、ガビーンと感動した回数が少なかったら難しいと思います。なぜなら良し悪しのサンプルケースが少な過ぎ、物事を深く考えたり、感じたりするとっかかりを掴みにくいからです。
そして、こんなことは大昔から何にも変わってないと思います。たまたま戦後の日本が、「皆と同じにやればそれでいい」「仕事さえしてればいい」というアホな思考停止状態だったから(前回参照)、直近過去に比べて大変そうに感じられているだけだと思います。要は不慣れだから難しく感じられるということで、縦列駐車みたいなものです。毎日やってりゃそのうち慣れます。あるいは長いこと正座してたので足が痺れているだけのことです。
ところで、そういった主観的な確信があればそれで全て良し、なんて大雑把なことを言ってるわけではないですよ。確信があっても全然行動が伴わないとか、やり方がヘタクソ過ぎてなかなか形にならないとか、次のステージがあります。なにしろ仕事と同等かそれ以上の客観的実質を産み出さねばならないわけですから。それを練習する機会や、果敢にチャレンジしていけるだけの社会インフラなども必要でしょう。ただ、何をするにも自分なりの好き嫌い哲学みたいなものは必要だろうし、又それだけの価値観を持ってたら、自然と行動は伴うだろうし、動いていれば実質もついてくるだろうってことです。まあ、一気に全ては述べられないので、ここでは自分なりの意味を見いだすことが大事であり、それには相応のスキルがあるんじゃないかという指摘に留めておきます。
文責:田村