過去二回書いた「ひとりぼっち」シリーズ(
ESSAY 494、
ESSAY 495に続いて、もうちょっと書きます。
おさらい
皆がひとりぼっちになる「個人化」がなぜ進むのか?といえば、おおよそのところは過去二回に書きました。世界的な潮流でもあるし、日本独自の理由もあります。グローバル経済の進展、少子高齢化による国内市場縮小、家庭のリスク化などです。以下、簡単におさらいしておきます。
グローバル経済というのは、要するに昔よりも外国と簡単に取引できるようになったということです。日本で作るよりも海外で作る、海外企業に外注する、あるいは海外の人材を雇用する、さらには海外で販売した方がより多くの利潤を生むとなれば、企業活動も勢い海外にシフトします。これにBRICsをはじめとする新興国・途上国の怒濤のラッシュが重なります。戦後の日本がそうであったように、これらの国々も経済発展すればするほど、もはや「途上国」などと上から目線で言われるような存在ではなく、かなり良質な製品、人材、市場が登場してきます。購買層も増えるし、教育水準も高くなる。どうかしたら日本と同等、あるいは日本以上に優秀な部分も出てくる。
この傾向が進めば進むほど、逆に日本(というか先進国一般)ではどんどん閑古鳥が鳴くようになります。雇用主である企業も工場も減るから失業者が増え、購買力はやせ細る。市場は元気がないまま不況が慢性化し、だから益々外に出るという悪循環。これが一つ。国外に出て行かない企業でも、国際競争に勝たねばならないから、雑巾を絞るようにリストラするし、かつて日本の社会保障の不備を補っていた手厚い企業福利も薄くなっていく。終身雇用と年功序列の徹底崩壊です。かねてから崩壊してましたが、ここにきてほぼ完全に崩壊しつつあります。最後の牙城は公務員くらいでしょうが、これも長い目で見れば時間の問題でしょう。これがもう一点。
この経済面での影響が個人化を引き起こします。とりあえず就職難、賃金低下、リストラ不安ということで、以前のように会社は「あたたかいお布団(組織集団)」ではなくなってきました。かつての日本の会社は、入社て大過なくやっていれば一生面倒を見てくれました。豪華客船とは言わないまでも滅多に沈まない大型フェリーくらいの安心感はあった。しかし今は違う。そもそも就職難で船に乗れないし、乗ったところで賃金ジリ貧や労働条件などの乗り心地が悪くなっているうえに、いつ放り出されるかわかったものではない。そもそも船自体がいつ沈むかも分からない。かくして、人生と生活を守ってくれた職場がカゲロウのように消滅しつつあるので、人々は個々人に原子分解され、冷たい世間という海原に個人として放り出される。
これだけでもトホホな話なのですが、さらに悪いことに、世界でもぶっちぎりの速さで進行していく日本社会の高齢化そして人口減というローカル事情があります。これが上のメカニズムをいやが上にも加速させます。お年寄りが増えること自体は別に悪いことではないのですが、純粋経済的に言えば、老齢層は若者のようにバカバカお金を使わないので経済は沈滞します。お金というのは明日にも稼げるという確信があればあるほどバンバン使えるもので、現在バリバリ稼働中の人は将来の収入予定もあるので使えるけど、乏しい年金頼みだったら、そりゃあ財布の紐も固くなるでしょう。また老齢者には、教育、就職、恋愛、遊び、結婚、出産というイベント支出機会が少ない。かくして同じ人数でも高齢化が進めば、お金を馬鹿遣いする人が減る→トータルの消費量が減る→景気が悪くなるということになります。で、実際にも人口は減ってます(昨年は戦後最大の12万3000人の減少)。他にも医療・福祉介護という政府(そして家計)支出の増大、増税という景気冷却要因もあります。
そしてこういった事情が社会の他の側面に波及し、さらにはニワトリタマゴ的に円環フィードバックしていきます。まず、こんなに先行き不透明だったらうかつに結婚も出来ないと思う人も出てくる。また結婚したくても、こうも経済基盤が不安定だったら苦戦せざるを得ない。リストラをチラつかされてキリキリ働かされるから出会いの場もない。一方「結婚しない奴、子供を作らない奴はハンパ者」という社会的圧力は引き潮のように急激に減っています。見回せば誰も彼もが結婚してないから一人でいても気楽。おひとりさまマーケティングの隆盛で一人でも暮らせるようになる。他方では結婚・家庭のハードルが高くなっている。出産しても残業ばかりで育児も出来ない。こんな世相だから皆も我が子だけはエリートに育てたいとして教育費がうなぎ上りになり、とてもじゃないけど払いきれない。それらをクリアできたとしても、相手の親の介護の問題とかを考えると二の足を踏む。要するに昔ほど結婚や家庭が温かく、美味しい存在ではなくなってきている反面、結婚・家庭そのものがリスキーなイトナミになる。だからビビる。無理もないです。かくして少子化が起こり、高齢者層の相対的増大に拍車がかかるという悪循環フィードバックが生じます。
そんなこんなで職場と家庭という二大保護集団が希薄化しつつある昨今、人々は個人化しひとりぼっちになりつつあると。ここまでは復習。
無縁社会と孤族の国
こういった傾向は、「個人化」という表現ではなく、別の表現、つまり「無縁社会」などの表現で既に知れ渡っています。
「無縁社会」というのは、2010年にNHKで放映された報道番組のタイトルらしいのですが、今では社会状況を表わす一般用語にもなり、2010年の新語大賞にノミネートされるくらい盛んに使われたようです。調べてみると、NHKの報道は、丁度1年前の2010年1月頃に放映が開始された
シリーズ“無縁社会”ニッポン [1]〜[13] (2010年1月6日〜2月11日・ニュースウォッチ9)(
別窓)を皮切りに、
シリーズ 絆はじめよう [1]〜[11] (2010年1月12日〜2月4日・おはよう日本)(
別窓)、さらには
無縁社会 私たちはどう向き合うか (2010年4月3日)(
別窓)とボリュームのある報道特集が組まれているようです。いま挙げたリンクで大まかな放映内容も書かれています。
もう少し内容を見てみると、「シリーズ“無縁社会”ニッポン」では、「名前を変える人」ネットで盛んになる戸籍売買、直葬(通夜や告別式を行わず、ごく身近な肉親だけで、火葬に立ち会うスタイル)、働き盛りの突如のひきこもり、結婚式の代理出席、子供の置き去り、孤独死整理の特殊清掃業、呼び寄せ高齢者、高齢受刑者、先祖代々の家の墓ではなく他人どうしが一緒に埋葬されるお墓「共同墓」、孤立する高校生、などがフィーチャーされています。
「シリーズ 絆はじめよう」では、里親という新しい親子の絆、親なき若者が育む絆(親を知らない若者達が集まって「団らん」を楽しむNPO)、離島を訪れた外国人と地元の子どもたちの絆(長崎県池島とインドネシアとの交流)、路上で生活する人や外国人を支え続けた医師の絆、支援住宅が結ぶ絆、過疎地域で広がるお年寄りの絆(徳島県三好市東祖谷)、冬を共同生活で乗り越えるお年寄りの絆(岐阜県高山市高根町)、子どもたちの更生を助けようという絆、ホームレスの人たちを支えようという絆、過疎地医療の絆、住民の半数以上を高齢者が占め存続が危ぶまれている「限界集落」での絆など。
「無縁社会 私たちはどう向き合うか」では、もっぱらこれまでの総集編と現場で頑張っている人々の対談討論だったようです。
実際に番組を見てないので何とも言えないのですが、いい意味でNHKらしい調査報道番組のようですな。昨年は「ゲゲゲの女房」とかNHKは頑張ってたみたいですね。なおこの無縁社会シリーズは、大きくは「あすの日本」シリーズの一部局であり、他にも「日本再設計」では財政再建のギリギリの現場を、「環境」、そして「グローバル戦略」ではアジアに対する日本の新しいインフラビジネスを放映しています。
朝日新聞では「孤族の国」という連載が始まっています。
総合トップはココです(
別窓)。
昨年末から始まったばかりで、まだ第一部の「男」編。すなわち、「第1部男たち」の第一回「55歳、軽自動車での最期〜引き取り手のない「行旅(こうりょ)死亡人」と孤独死の実情」以降、「還暦、上海で婚活したが(高齢者婚活の現状)」、「失職、生きる力も消えた(失業と生きる希望)」、「39歳男性の餓死」、「彼は無表情だった(茨木取手バス事件)」、「少女のような目の母と(孤立しやすい高齢の親と同居する独身の息子)、「聞いてもらうだけで(有料の話し相手サービス10分千円)」、「最後に人とつながった(山谷地区での介護医療)」、「ひきこもり抜けたくて(平均年齢30歳をこえてきたひきこもりとその親世代の高齢化)」、「自殺中継 ネットに衝撃」、「動かぬ体 細る指 外せぬ指輪」と1月6日まで続いてます。今後も続いていくのでしょう。
あえて異なる視点で
これら調査報道はさすがに力が入っており、傾聴すべき点も多いです。
多くの方々が社会との接点を見失っており、その点で苦しんでおられる。原因やなりゆきは人によって様々でしょう。20代30代で就職に苦労し、人生のキッカケをつかめないままワープア的環境で孤独に生きていたり、仕事的にはめぐまれつつも鬱ぎこんでしまったり、孤独死に連なる「ひとりぼっちの老後」を過していたり、なかなかに考えさせられます。
しかし、総じて言えばネガティブな描かれ方をしています。ベクトルがマイナスである傾向がある。まあ、「問題提起」こそがジャーナリズムの使命的DNAである以上、そういた切り口になるのはある意味では当然です。また、こういう現実がある以上、「大したことはないよ」とは言えないでしょう。
それは間違っていないし、大事なことだと思います。しかし、ここでは敢えて視点を変えて考えてみたい。
問題の深刻さや重要性を否定するのではなく、またことさらに矮小化するのでもなく、反対の方向から見てみたり、視点をパンして俯瞰的にみてみたいです。日本の現状のデテールは、リアルタイムに日本に居ない僕には究極的には分からんし、逆に日本の視野とは異なるものが見える地の利をいかして、異なる発想を書く方が議論の深まりと広がりに役に立つだろうと。ま、かなりかしこまった優等生的な物言いですが、ぶっちゃけた話、「うーん、そうんだろうけど、でも、、、」とムズムズと言いたくなるサムシングがあるということです。
無縁社会といい、孤族といい、いずれも「個人化」といわれる大きな潮流の一環に位置づけられるものでしょう。しかし、「個人化」という現象は、必ずしも分かりやすく孤独である必要もないし、不幸っぽい感じでなくても良いと思います。「個人化になって滅茶苦茶ハッピ〜!」ということだってアリだと思うのですよ。
社会の趨勢や現象というのは、ある意味では自然現象に近く、季節の移り変わりや、干潮満潮、長雨や旱魃、冷夏と暖冬みたいなものです。変化そのものは客観的であり、善も悪も、幸も不幸もないと思うのですよ。問題は、それを見据えてどう対処していくかです。潮が満ちたらシュノーケルをして、潮が引いたら潮干狩り、、、という感じで、状況が変われば対応も変わる。旧状態のまま何もせず、単に懐かしんでるだけだったら、それは不幸になるでしょう。干潮時に磯遊びをしていたら、いつの間にか潮が満ちて帰れなくなった!みたいなものです。だから「不幸だ」と感じる。つまりは対処が下手だったら不幸に感じ、対処が上手だったら幸福に感じるという。
はたして個人化が原因なのか?
まず、これら社会接点欠乏症みたいなものは、今回の個人化潮流によって引き起こされたのか?という疑問があります。必ずしもそうではないんじゃないかと。つまり、もともと僕らの社会にはこういう問題が存在していて、それがこれまでの日本型企業経営とその成功によって覆い隠されていただけはないか。グローバル化や不況、就職難、失業などの経済要因によって孤独現象が起きたかのように表面的には見えますが、それは単に「ベールが外れた」だけのことで、本当の原因ではない、と。
考えてみれば、単なる就労の有無・性質だけで、社会との接点が失われてしまうとか、死に至るような孤独に落ち込むということ自体がヘンではないか。仕事以外に社会との豊かな接点はないんか?そもそもそれがおかしい。企業の手厚い福利厚生や、職場での同僚上司との温かい連帯感は良いことでしょう。しかし、本来的にいえば、企業が国家がなすべき福祉業務を肩代わりする必要もないし、技能的人間的教育を施したり、生き甲斐につながる職場環境を提供する義務もないです。それは、純粋に言えば雇用、労務という「契約」の一形態に過ぎない。売買契約において、売主が買主の全人生をケアするなんてことがないのと同じように、雇用契約における一方当事者が他方当事者にそこまでしてやる必要はない。少なくとも原理的にはない。
確かに仕事をめぐる状況については「昔は良かった」と言えるかもしれない。でも、良かったかもしれないけど「正しかった」のか?あるいはノーマルなことだったのか?明らかに技量的に劣る人材であっても、窓際に追いやりつつも定年まで雇用を続け、冠婚葬祭、春夏秋冬イベントの全てを会社ぐるみでおこない、引越の手伝いまで社員が駆り出されるという、公私混同を通り越して「公私一体」みたいな状況がノーマルなのか?たかが仕事、たかが金稼ぎの場でしかないのに、そこに人生の全てのエッセンスを放り込むことが果たして正常な形態と言えるのか?しかし、まさにその公私一体性こそが、温かい「会社というお布団」の源泉であったのでしょう。
ハッキリ言い切っちゃえば、こんなの異常だと思うのです。しかし、異常なんだけど合理性はあった。それは、敗戦焦土というゼロリセットから始まった戦後日本においては、物財の激しい窮乏ゆえに生産と労働こそが物財幸福の基礎になった。また、復興して右肩上がりだった社会においては、働く機会は幾らでもあったし、働けば投下労働量以上に報われた。激流と順方向に泳いでいるようなものであり、クロールひとかき10メートルくらい進めたのでしょう。だからやってて面白い、楽しい。全般にポジティブだから職場の人間関係も、今に比べれば良好だった。給料上がれば誰でも嬉しいし。こんなに面白くて、こんなに豊かになるアクティビティがあるなら、皆こぞってそれをやるし、基本コンセプトは「頑張る」だけだから、誰でも参加できた。したがって会社への人生一極集中をすればそれで足りるし、それが一番合理的でもあった。異常なんだろうけど、合理的だった。
しかし、世界史的にいえば、こんなことは復興型経済における重商主義の一形態、それもごく短い期間の過渡期的形態でしかないです。「30分だけバーゲンタイム!」みたいなものです。30分ではなく30〜40年だっただけの話で。
過剰適応の弊害 〜全体主義と思考停止
しかし、そうはいっても30〜40年といえば人の半生に相当しますし、これだけ長く続けば、それを当然の前提として社会の全て〜システムから深層心理まで〜が変容していきます。それは当時の情勢においては優れて適合したのかもしれないけど、日本人の傾向としてついつい過剰気味なところもある。そして、もともとがアブノーマルな過渡期形態に過ぎないものに、そこまで過剰適応してしまった場合、ノーマルに戻ったときに適応できなくなってしまうという弊害もあると思います。そのあたりをもうちょっと書きます。
最大の弊害=思考停止
心理面においていえば、「皆と同じにやっていれば幸せになれる」という盲目的な発想があるでしょう。このエッセイでもしばしば新興宗教「皆教」とか「普通教」とか茶化して書いてますが、大体と皆と同じにやってたら大過なく過ごせた。本当に実証的にそうなのかどうかは疑問だし、そもそも「皆と同じようにやる」ことが出来ないとか多大な苦痛を生む場合もあるのだけど、そーゆーことは考えず、「人並みに」「普通に」あろうと努め、そうしている限り大きな過ちは犯さないで済むという発想です。
そして「普通」の内容はといえば、学歴でいえば中卒よりは高卒、高卒よりは大卒となり、また職業で言えば圧倒的にサラリーマンになることです。それが戦後日本社会のメインストリームを形成していき、言わば「猫も杓子も」という状況になっていく。猫も杓子もと言いだした時点で全体主義的な傾向を帯びますし、日本が「世界で最も成功した共産主義国」と揶揄されるゆえんでもあります。
しかし、こんな発想、これまでの日本社会にあったのだろうか?ここまで金太郎飴的に均一で、ホモジーニアスな社会だったのだろうか。だいたい、「働く=サラリーマンになる」というスタンダードも戦後になって登場してきた新しいパターンに過ぎないでしょう。それまではサラリーマンという言葉もなかったし、それに該当するのはおそらく俸給生活者でしょうが、その数はいまほど多くはなかったでしょう。それは例えば官尊民卑の弊風の強いなかでの「官吏様」だったし、誰でもなれるようなものではない。じゃあ皆は何になっていたのかといえば、今ではほとんど消滅した「丁稚」「徒弟」「弟子」「書生」だったりするわけです。また、明治以降、学業・才気煥発な奴は軍人になったりしてました。だからいわゆるサラリーマンというのは、戦後登場したチャキチャキの新型だと思われます。でも、新人のクセしてかなりデカい面をして社会のスタンダードになってしまっています。
このように戦後になって数々の「思いこみ」が生じたわけですが、それによる最も大きな弊害は、思考停止だと思います。
「大企業に入れたらそれで人生OKさ」という発想は、人生舐めすぎてないか?あまりにもモノを考えなさすぎてないか?もっとキツイ言葉でいえば、ふざけた発想だと思いますよ。
人にはそれぞれ適性があり、個性があり、自分だけの聖域のような価値観があり、興味があり、感動がある。方法論についても流儀というのがある。人が千差万別である以上、その生き方も千差万別であるのが自然の姿なのに、誰も彼もが大企業のサラリーマンになるのが当たり前、よほど何か特殊なモチベーションやチャンスがない限り、「そうなるもんだ」と思ってしまうというのは、考えてみたら不自然なことではないですかね。でも、そこをあまり考えない。だから思考停止だと。
大学と教育の空洞化
企業は企業で、個々人の個性や有能さよりも、部品としての優秀さを求める。すなわち優秀な事務処理能力、ソツのない社会的態度、常識的で従順な人格。「使える」人材よりも「使いやすい」人材を求める。かくして人生の成功失敗を決定づけるのは一にも二にも就職であり、そのために遡って有名大学に入ることになり、さらにさかのぼってお受験になる。大学は、就職のための「踏切板」としての機能(のみ)を重視され、人材の優秀さの証明は大学内での学業、例えば卒論の席次などではなく、4年前の入試結果、どれだけ入りにくい大学に入れたかを基本的に見る。つまり、入試を制する者は就職を制し、就職を制する者は人生を制するという黄金の方程式がガッチリ出来てしまう。というわけで入試は頑張るけど、大学内では遊ぶか就活をするかだけという、世界的にみても異様に学力の低いバチャロー(学士)が日本では大量輩出されるという異常事態を招いている。
また、学校教育でも家庭でも、「人の生き方」という枢要部を占めるべき教育がほとんどなされず、単純に「入試頑張れ」に置き換えられる。これら大学の空洞化、教育の空洞化はなぜ生じたのかといえば、要するに「大企業に入りさえすればいい」という思考停止でアホアホなメソッドを金科玉条のように奉じていたからではなかったか? そして今日何が生じているかと言えば、お馬鹿なメソッドがお馬鹿であるということが日々明確になっているということだと思います。金メッキがだんだんと剥げてきたということですね。
視野狭窄と序列化、そして多様性環境の欠落
この人生メソッドは、単に大学や就職だけではなく、およそ全ての社会局面に波及していきます。学業=就職=安泰という鉄のリンクが生じた社会、そして労働者=サラリーマンという暗黙の図式が成り立つ社会では、人生とはこの最強のカードの争奪戦であり、他のカードについては省みられなくなった。
これは二つのことを意味します。一つは徹底的な視野狭窄と序列化です。十代でオリンピックに出るとか、アイドルになるとかいう特殊事例を除き、普通の国民の生き方はもうそれしかないと思いこむという。実際には農業漁業、職人さんなど、幾らでも人生のあり方があり、1秒考えたら「しかない」なんて大嘘であることは分かるのだけど、わからなくなる。ゴールが一つしかない場合、次に出てくるのは「順位」です。東大文T→官僚・大企業を最高位の横綱として、大関、関脇、小結、、、、、と序列化されていく。要するに勉強出来ない奴、いい就職ができなかった奴は、端的にいって馬鹿であり、人間として二流、三流なのだという物凄い発想が出てくる。それで全てが廻るから、結婚式の席次、スピーチの順番、さらにはマンションの奥方族の席次すらそれで決まる。日本の大好きな格付けですわね。これはもう趣味というか、業というか。
第二に、それ以外の生き方の探索、認知、整備が極端に遅れてしまっている。つまり学校に行かないという選択をしても、豊かに楽しく人生を送れるという方法論や環境が整っていない。就職しないという選択も事実上許されない。認知されず、尊敬もされない。古来人間社会においては、職業なんだか、趣味なんだかよう分らないというポジションは山ほどあります。例えば、最後に「家」のつくもの。政治家、銀行家、法律家、、などは仕事といってもいいでしょうが、「発明家」とかになると微妙でしょ?音楽家、芸術家になると生計を立てられている人の方が少ないですよ。「篤志家」なんて、宿命的におよそ儲かりそうもないポジションもある。革命家なんてのもあります。○○愛好家ともなると、殆ど趣味の世界でしょう。
このように、この世で生計が立てられるかどうか、商業的に成功するかどうかとはぜーんぜん別の視点、「人の生きざま」という視点で「〜家」というカテゴリーがあるわけで、それでいいのだ、と僕は思うのです。あなたの人生のテーマというか、あり方というか、ほんとの姿というか、要するに「マイ・ライフ」ですね、それと生計、商業的成功とは、一回徹底的に峻別して考えるべきだと思います。べきなんだけど、実際にはそんなに考えられていないし、認知もされていない。
没個性化、保守化
さらに深層心理に植え込まれていくのは、動かぬ事が善であり、動くことは悪であるといった発想でしょう。親に言われるままベルトコンベアに乗り、そのまま粛々と進んでいくのが人生の成功の秘訣であり、下手に個性を発揮して動いてベルトから落ちてしまったら、あとは地獄が待っているという世界観ですね。この海の果ては巨大な崖と滝になっていて、、というコロンブス時代の世界観に似てるな。
そうなると挑戦よりも安定、自由よりも安心、改革よりも保守を選ぼうというメンタリティになるがちです。
人生の成功とは、波乱の生涯を激しく生き抜くことではなく、大過なく安定して天寿を全うすることであるという価値に傾く。日本社会は、いかに個性を発揮して自分らしく生きていくかという精神スキルにおいて劣等であり、逆にいかに個性を殺して周囲と同調するかというかスキルにおいては優秀であり、このスキルを習熟していない者は、好意的には「天然」として珍重され、平常ないし悪意的には「空気の読めない奴」としてハブかれる。とかく人と違っていることが犯罪まがいに指弾され、嘲笑され、いじめられる。これから最も個を確立せねばならない時代を迎えながら、個を抑圧する風潮が最も高まっているというこの皮肉。
対人スキルの劣化
これらの結果として、戦後日本の人間同士の接触方法も変質したと思います。会社関係の人間関係は激しく重視するくせに、それ以外の人間関係については、もう徹底的にシカトといっていいくらい等閑視してきた。忘年会や接待には絶対出席するくせに、マンションの自治会には出ない。PTAにもでなけりゃ、法事も、同窓会にも出ない。そもそも家族と話す時間もない。ま、これは人によって様々でしょうが、決定的に劣化しているのは、「全くのストレンジャーへの対応」です。なーんの社会的接点もない、なーんの利害関係もない、個人データーもなにも分からない、にも関わらず、たまたま列車の座席に隣り合わせたというだけの「縁」で、自宅に招いて泊めてあげるという行為が出来る日本人が、いまどのくらいいるか?これは結構スキルが必要で、どんな人ともにこやかに談笑できる話題の広さ、それを面白おかしく話せる話芸、無用な心配をかけない開放的で信頼できるオーラ、そして相手についても見ただけでその人の善性・悪性を見抜けるだけの洞察力。さらにはトラブルが起きたときに、場合によっては融和的に、場合によっては毅然と主張し、対決すら辞さないというスキルです。
オーストラリアでは、この種の行為は結構普通にあります。つい先日、年末にたった5日間シドニーの周囲を自転車で走ってきた人でも、うち一泊をたまたま知り合った地元の人の家に泊めて貰っています。田舎にいけば、無料で一ヶ月も二ヶ月も泊めてもらったという話もある。なんでそんなことが出来るのか?リスクに関して無頓着なアホだからか?そうではないでしょう。彼らは泊めてもいい人を、泊めても支障のない範囲で泊めているだけで、その見極めと実行が上手なんだと思います。
この対人スキルの劣化は、あらゆる点に波及していきます。例えば、不動産の賃貸借においては、運転免許などの身分証明証のほか、住民票やら、保証人やらが必要だったりするし、だからこそ、これらに欠ける人が結果的には割高なネットカフェ難民になってるわけでしょう。住所がなければ就職できず、就職できなければ住所も出来ないというジレンマ。ましてや外国人なんか論外だったりします。オーストラリアでは、そもそも戸籍も住民票もありません。保証人らしきレフリーという制度もあるけど、それとて法的保証責任を負うわけでもない。僕が最初にオーストラリアで部屋を借りたときも、ビザもパスポートも提示すら求められず、また国籍すら聞かれませんでした。カミさんが最初の事務所を借りるときも、数秒間じっと顔を見て、それでOK、でした。自分の目で見て決める。同じくビジネスにおいても銀行スキルの劣化が言われてますよね。バブルの頃からそうだけど、人材の有能さと社会的意義を鋭く洞察して融資を行い、もって資本の円滑な運用と社会の発展に寄与するから銀行員は「銀行家=バンカー」として芸術家並の尊敬を受けたのに、「担保がなければダメ」「保証人がいなきゃダメ」という子供でも出来るような基準で融資をし、最近はそれでも事欠いてきてせっせと国債を買うしかない。
以上、なんだかんだ述べてきましたが(まだまだ沢山ある)、総じていってしまえば、思考停止です。アホ、ということです。強力なスタンダード、強力なメソッドがあるから、それにばかり頼り切り、自分で考えようとしなくなり、それ以外の場合の対処については技能も経験もないという。
ノーマルな姿への回帰
個人化や無縁社会は、個々の人々にとっては深刻な問題でしょうし、それに対しては激しくシンパシーも感じますが、全体的な傾向としていえば、徐々にあるべき姿に戻っていっているのだと思います。
あ、無用な注意かもしれませんが、僕は何も社会との接点を失ったり、孤独に寂しく暮したり死んだりしていることが「ノーマル」だとか、「あるべき姿」だなんて言ってるわけじゃないですよ。わかりますよね。もともとが過渡期的で特殊な状況だったのだから、いつかはそれが終るのも当然だと言ってるだけです。だって現に終りつつあるじゃん。今日指摘される問題点は、これまでの状況への過剰適応という過去のマイナスの遺産によって生じているだけであり、こういったマイナス状況そのものが、ノーマルだとも理想的だともいってるわけではないです。
潮の流れが変わってきたのだから、いつまでも潮干狩りやってる場合じゃないよと、そういうことです。いままでは「とにかく大企業、とにかくサラリーマン」みたいな思考停止で済んできたけど、これから自分の頭で考えなきゃならない。他人の行動なんかあんまり参考にもならないし、これだという定番メソッドもないままに、自分でゴールを組んで、自分でルール作って、自分でやっていくしかないでしょう。そして、自分なりのやり方が現実世界とうまいことマッチングするかどうか検証して、ダメだったら適当に挫折するなり妥協するなりして収めていくしかない。大変なようだけど、しかし、人間が「生きる」って本来そういうことじゃないのか?これまでのように干潮時だったら歩いて行けたけど、満潮になってきたら「泳ぐ」というスキルがないと溺れてしまうよと。
とはいうものの、そんなに皆それって「なるほど、よーし」で考えや生き方が切り替わるってものではないでしょう。というか普通に考えたらそうそう切り替えられるものではない。だから、無縁社会を論じる視点も、「昔(干潮時)はあそこまで歩いていけたんだけどね」みたいな後ろ向きな発想が多いですからね。潮干狩り懐かしや、ほうやれほ、みたいな。
さて、では、こういった時代、どのように生きていけばいいのか論、「人はいかに生きるべきか」みたいな大上段の論点がドカーンと残ってしまうわけです。しかしこんなのは究極の哲学テーマで、メソッドとか定番とかいうチャラいものではない筈です。それぞれが抱いている「荒ぶる魂の赴くままに進め!」くらいしか言いようがないです。
でもでも、この過渡期において、考え方やスキルを整理するのは無駄ではないでしょう。冬服から夏服に替わるみたいに、「これはもうしまってしまおう」「これはまだ着るかもしれないから残しておこう」みたいな。そういうあたりの話を余力があったら次回にやります。
文責:田村