エッセイ495/APLAC 「個人化」に関する8つの設問 

?c?C?[?g

今週の1枚(2010/12/27)




写真をクリックすると大画面になります



Essay 495 :「個人化」に関する8つの設問 

 
 写真は、言わずと知れたハーバーブリッジ。
 ブリッジ中央に細かな足場のようなものが組まれてますが、例年そこにテーマとなるマーク(センターピース)が浮かび上がります。何が出てくるのかは見てのお楽しみ、”トップシークレット”らしいのですが(^_^)。今年のテーマは、”Make Your Mark"だそうです。「あなたのシルシをつけろ」のココロは、アボリジニの伝統から来ているらしいです。シドニーハーバー周辺にはアボリジニに遺跡がそこここにあり、岩に何らかの刻みをつけて自分が生きたことを次世代に伝えるという(手形とかよくある)。そこから来ているらしいです。「自分が生きたという証を作れ」と。そのため、シンボリックなシルシ=「X」マークが今年のNYE(New Year Eve)のデザインに取り入れられています(ココ参照)。打ち上げられる花火の中にも、シルシを意味をする稲妻マーク、三日月マーク、ダブルハート、ボウタイなどの形のものもあるそうです。おそらくは今年のセンターピースも、何らかの「シルシ」なんだろうなと思われるのですが、これで単なる「X」だけだったらもうちょっとヒネれって気もしますが、はて何でしょう。

 NYEビギナーの方に。日本の花火のように延々1時間も2時間もやってません。15分から20分。短いです。その代わり集中的にやるので見応えあります。9時からファミリー用の小規模の花火が行われます。12時が本チャン。見物場所(Vantage Pointという)は、ココに紹介されています。が、僕個人はここ数年、Lavender BayのClark Parkで見てます。電車でいくのが意外と便利です。  


 前回(essay494/ひとりぼっち〜個人化の不安)の続きを書きます。ウイリッヒ・ベック教授の「個人化」議論に触発されて書いているものです。

 今これを書いている25・26日はクリスマスとボクシングデー。1年で一度休むのだったらこの日です。こちらでは殆ど「元旦」気分であり、一足お先に新年を迎えているような気分です。クリスチャンではない僕も、なんとなく気分が感染して、あんまり仕事したくないので(^_^)、今回のエッセイも手を抜かせていただきますです。

 前回の最後に書いたメモ書きを設問とし、自分で答を書き込みます。簡単だし。なんか大学の試験みたいで懐かしいです。
 、、と、ヘラヘラ書きだしたら、なんといつもの二倍の量になってしまいました(^_^)。余りに長いと見てくれが悪いので、javascriptをつくって折畳みました。時間のあるときに、テキトーにお読みいただけたら幸いです。



設問 1   「個人化」と「個人主義」

 西欧流の「個人主義」と今回の「個人化」は同じモノではないのか?「個人主義」において人々が個人化していくのは当然ではないか?何を今さら騒いでいるのか?違うとするなら、何がどう違うか?歴史的、理論的、構造的にその差異を説明せよ。
書いてたらメチャクチャ長くなったし、余りに本題と関係なく趣味的なので、心底ヒマな方だけクリックしてお読み下さいまし。

設問 2  個人化は経済学の問題なのか

 この「個人化」は、グローバル資本主義という経済状況と不可分の関係にあるように見えが、これは経済によって引っ張られている社会現象なのか。だとしたら、経済学の問題として処理すれば足りるのではないか。

クリックして読む(面白いし、見た目がスッキリするので他もやっちゃいました)

設問 3  一部か、全体か

 個人化がある程度進展しているにしても、全員がそうなっているわけではない。絶対数でいえば未だ少数派であろう。このことは、大勢はほとんど変化はなく、ごく一部において変化が生じているとみるべきか、それとも顕在化するかどうかはともかく、一人残らずその影響を受ける根本的・全体的変化とみるべきか。
クリックして読む

設問 4  どこかで歯止めはかかるのか

 今後、さらに個人化が進展するとして、ある程度のところまでいったら自然に歯止めがかかるのか。それとも一人残らずひとりぼっちの完全原子化、全員孤立化という凄いレベルまでいってしまうのか。YESにせよNOにせよ、その論拠はなにか。
クリックして読む

設問 5  保護という名の監獄

 国家と企業による雇用保障、職場集団や家族という安定的な中間団体に個人が保護されてきたというが、本当にそうか?「家庭がリスクの場になる」のと同じ理屈で、これまでの職場や家族もまたリスクだったのではないか。

 周囲に親しい仲間が居なくなる→守ってくれる人が居なくなるという理屈はわかるが、周囲にいる人間が必ずしも好意的で親密であるとは限らない。周囲の人間に攻撃されることもある。つまり、緊密な職場の人間関係は、ぬくぬくした保護環境である場合もあろうが、逆にイジメの温床やら鬱陶しい人間関係の巣窟でもある。家族についてもしかり。個人が職場や家族によって保護されているというのは、「囚人が刑務所によって保護されている」と言うようなもので、プラマイ両方の意味があるのではないか。
クリックして読む

設問 6  孤独死と寂しさ

 思うに、人間は周囲に他人が多すぎると「鬱陶しいストレス」を感じ、周囲に他人が少なすぎると「寂しいストレス」を感じるものではないか。「鬱陶しいストレス」の方が比較的強いときは、人々はむしろ「ひとりぼっち」になることを望んでいるが、「寂しいストレス」が「鬱陶しいストレス」を超えるようになれば、またくっつき出すのではないか。
 例えば、若いころは自由勝手に振舞える独身環境を好ましく思い、結婚にストレスを感じたりもするが、老後が徐々に視界に入り、孤独死などの記事を見るにつれ「寂しいストレス」が徐々に高まり、結婚を強く希望するようになるようなものか。
クリックして読む

設問 7  宿命的集団から選好的集団への変化〜類友タコツボ化

 家族や職場という宿命的・運命的な人間集団が薄らいでも、趣味の仲間やらSNSやフェイスブックなど選択的・自発的な人間関係はありうるのだから、必ずしもひとりぼっちの孤独になるわけではない。いわば、ひとりぼっちでない形態(集団形態)が変化するだけのことではないか。

 しかし、宿命的集団→選好的集団という比重の変化は、「好きな人としか付き合わない」「類は友を呼ぶ」という近似性を招き、自分とタイプが違う人間との接触機会を大きく減らすということでもあるが、そこに何か問題はないか?
クリックして読む

設問 8  個人化とは何か、なぜ起きるのか

 「個人化」はグローバル経済の進展という経済環境の変化によってのみ生じたのか?他の要因はないのか?

 個人化現象の原因や構造を、具体例を挙げつつ、さらに深化して私見を論ぜよ。
これも結構長いので、本当にヒマな方だけクリックしてお読み下さいまし。




文責:田村




★→「今週の一枚ESSAY」バックナンバー
★→APLaCのトップに戻る