前回
(essay494/ひとりぼっち〜個人化の不安)の続きを書きます。ウイリッヒ・ベック教授の「個人化」議論に触発されて書いているものです。
今これを書いている25・26日はクリスマスとボクシングデー。1年で一度休むのだったらこの日です。こちらでは殆ど「元旦」気分であり、一足お先に新年を迎えているような気分です。クリスチャンではない僕も、なんとなく気分が感染して、あんまり仕事したくないので(^_^)、今回のエッセイも手を抜かせていただきますです。
前回の最後に書いたメモ書きを設問とし、自分で答を書き込みます。簡単だし。なんか大学の試験みたいで懐かしいです。
、、と、ヘラヘラ書きだしたら、なんといつもの二倍の量になってしまいました(^_^)。余りに長いと見てくれが悪いので、javascriptをつくって折畳みました。時間のあるときに、テキトーにお読みいただけたら幸いです。
設問 1 「個人化」と「個人主義」
西欧流の「個人主義」と今回の「個人化」は同じモノではないのか?「個人主義」において人々が個人化していくのは当然ではないか?何を今さら騒いでいるのか?違うとするなら、何がどう違うか?歴史的、理論的、構造的にその差異を説明せよ。
書いてたらメチャクチャ長くなったし、余りに本題と関係なく趣味的なので、心底ヒマな方だけクリックしてお読み下さいまし。
個人主義と個人化はぜーんぜん違う!
歴史的にも、理論的にも、構造的にも全くレベルが違う問題であり、同じなのは「個人」という言葉だけである。
個人主義は近代人権思想の中核思想であり、その内容を一言でいってしまえば、「個人が一番大切なんじゃあ!」という価値判断である。その価値判断を「主義!」として敢えて声高に語るのはなぜかといえば、それまでの旧価値観に対して「喧嘩を売ってる」からである。すなわち、それ以前の価値であった封建制度、貴族制度、そして宗教権威に対する「宣戦布告」をしている点こそに個人主義の本質がある。よく曲解されるようなエゴイズムとか利己主義とかいうのは個人主義の本質でも何でもない。
この世の至高価値は何か?というのは、その時代の根本ドグマである。人類の長い歴史において、それは個々の人間ではなかった。それは、最強に喧嘩が強い奴(覇者、王者)、年月を経て権威の金粉をまとったその子孫や一族(王族、皇族)であり、その眷属(貴族階級)であり、彼らを中心とした階級ピラミッドを駆け上がって上位階層に辿り着いた人々(高級官僚)であった。古代から中世において、人間とは徹底的に不平等なものであり、不平等であることこそが秩序であり、絶対正義であった。王家の人間とそこらへんの庶民とでは価値に天地の隔たりがあり、比べることすら不遜なことであった。王族などピラミッドの上位者に対して、下位者が奴隷のように、あるいは家畜以下の存在としてその命を差し出すのは当然のこととされた。
そしてもう一つ、西欧においてはキリスト教権力がある。西ローマ帝国滅亡以来、巧みに権力者と連携することで徐々に権勢を伸ばしていたローマ教会は、神の専属代理人という特権的地位をフルに利用し、王権とは別体系の権力体系を構築し、栄耀栄華を極めた。宗教は人々の世界観や人生観と直結するだけに、うまく機能すれば王権以上に強力である。なぜなら王権はとどのつまり「暴力的優越」を根拠にするのであり、暴力的にさらに優越する新興勢力が出てくればあっさり倒壊する(異民族による征服や革命など)。しかし、神という目に見えない存在に対しては喧嘩も出来ないので、優越も超越もしようもなく、その意味では安泰だからである。
このように強力だった中世の封建体制やキリスト教権威がなぜコケたのか?は過去の世界シリーズでもさんざん勉強しました。メチャクチャ沢山の要因があるのですが、目立った「ことの発端」としては十字軍遠征を挙げたいと思います。壮大な愚挙とされる十字軍ですが、これによって当時西欧よりも遙かに優れていた東方オリエント(ビザンツ、イスラム)の文化が流れ込んできました。同時に珍しい品を運んで利益を挙げる(貿易)という商業形態が発生してきます。
知的好奇心と金儲け、人類の大好物ともういうべきこの二つが出現したから世の中が変わった、と。十字軍の地中海航海の拠点となった北イタリアのフィレンツェでルネサンスが発生し、大富豪のメディチ家が出てきたのは偶然ではない。この時期以降、ヨーロッパはギリシア、ローマ文明の後1000年にわたって沈滞していた知的退化から一転し、メチャクチャモノを考えるようになったし、「人間」という最高に興味深い存在に注目するようになります。あれこれモノを考え、探求し、道具を工夫し、技術を革新させるという流れ、そして機敏に立ち回って巨万の富を築く面白さという、近代人さらには現代人の原型がここに作られます。
この近代合理主義は二つの果実を生みます。一つは、商業によって生計を立てるという新しく自由なライフスタイルです。それまでの封建制度は国王-諸侯-騎士というエリート階級が農村と農奴を私有収奪する荘園システムであり、一般庶民(農奴)は大地を耕してナンボの人生でした。風景的には城下町+農村しかありえず、個々人のライフスタイルも農奴に生まれたら一生その村から出ることすらなかったと言われます。固定的で引きこもりな中世です。ところが商業がガンガン発達していくと、「都市」を生み、自由な「市民」という非封建的階級を生みます。経済力を蓄えたブルジョワジーが勃興し、後の市民革命の布石になります。
もう一つの果実は宗教改革と近代科学でしょう。ルネサンス以降の明哲な合理精神は、内部腐敗していたローマ教会のダメダメぶりを、普通にダメとして認識させるようになります。宗教というのは催眠術みたいなもので、信じている人には最強だけど、信じない人には全く無力。ドイツの、空気の読めない堅物学者ルターが、ローマ教会の霊感商法(免罪符の乱売)を見て、「そんなん聖書に書いてあったっけ?」とボソッと言ったが最後、ローマ教会のインチキぶりを非難する動きが世に満ちて宗教改革が起きます。ローマ教会の宗教的呪縛が解けるにつれ、ガリレオになされたような弾圧も薄くなり、近代科学が発展していき、後の産業革命の下地を作るようになります。
西欧、あるいは近代における「個人主義」とは上記のような歴史的背景の中で出てきた思想です。
この世で最も大切なもの、最高の価値を有するものは、王様でも司祭者でもなく、国家でも組織でもなく、一人一人の人間であるという発想です。ルソーなどの啓蒙思想ってやつですね。政治的には、君主主権ではなく人民主権を唱え、国家は自然現象のように最初からあるのではなく「あった方が便利だから」作っただけのものである社会契約説は有名です。
「個人が一番大事」という意味で「個人主義」とネーミングされているわけですが、「人間主義」と呼んだ方が誤解が少ないかもしれません。ただ、「人類」とか言うと抽象的になりすぎちゃうので、「ひとりひとりの人間を大切に」ということで「個人」と呼んでいるだけのことです。法学、憲法学ではお馴染みの議論ですが、「個人の尊厳」こそが至高価値であり、それ以上の優越価値はないという点から出発し、さまざまな第二原理が出てきます。つまり、イッコの人間として成り立たせるために必要な条件を「人権」と呼ぶとか、最高価値である個人を邪魔するものは何もないから原則として人は自由なのだとか(自由主義)、最高価値同士を比べることは出来ないから人は全部同格として扱うしかなく、ここから平等原則が出てくる、、などなど。ともあれ、「個人主義」とは、封建制度や教会権力の理不尽に対する喧嘩概念として叫ばれ、徐々に世の中のスタンダードになっていたということですね。
今回の「個人化」というのは、2000年以降のグローバル資本主義の展開によって、それまで個々人が会社や家族など所属集団によって生計や人生を保護されてきた況が変わり、「ひとりぼっち」の個人として放り出される現象を意味します。
よって歴史的にも、理論的にも、構造的にもぜーんぜん違う。個人主義は「主義」であり、思想であり、価値判断であり、主張であるけど、個人化は現象であり、現象の認識である。現象だから良い/悪い、正しい/間違っているというレベルの問題ではない。個人主義は確かに「一人の人間」を基本ピースとして考えるが、その個人がひとりぼっちになる/ならないという話ではない。個人を尊重しようということと、その個人が集団に守られて人生を進むかどうかとは根本的に別問題である。それは確かに中世封建制度の下では、農奴は農奴と「一山なんぼ」の集合概念としか見られず、個人は階級という強力な集団に組み込まれていた。その意味では「ひとりぼっち」ではなかったのかもしれないが、逆に言えば「ひとりぼっち」になることすら許されなかったのである。
したがって個人主義と個人化とは全然レベルの違う問題であり、「違う」とかいう以前に比べること自体愚かしいとすら言える。
設問 2 個人化は経済学の問題なのか
この「個人化」は、グローバル資本主義という経済状況と不可分の関係にあるように見えが、これは経済によって引っ張られている社会現象なのか。だとしたら、経済学の問題として処理すれば足りるのではないか。
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戦後の資本主義が大家族から核家族化を招き、グローバル資本主義が先進諸国の企業の活動=雇用形態を変え、これによって個人化が生じているという意味では、経済によって引っ張られ、経済と不可分の現象と言える。しかし、だからといって経済学だけ考えていれば良い、というものではない。
大きな船の運航に例えるならば、経済というのは船が進んでいく原理やシステム(浮力、推進力、造船技術)であり、船の針路と予想=西に進むと暴風雨に遭って船が揺れたり、沈没するかもしれないなどを考えるものである。一方社会学は、船内にいる人間がどういう影響を受け、何をどう考え、どう動くかを考えるものである。いくら大きな船でも船内は閉鎖空間であるから、拘禁性の精神的影響が出てきたり、逆に閉鎖されていることから活発に恋が芽生えたり、ヒマだから食事に対する期待は通常の倍以上になるなど。確かに時化に遭って船が揺れたら中にいる人々は船酔いするだろうから、その意味で経済学とは密接な関係はある。しかし、あくまで視点が異なるし、研究対象も異なる。
企業経営が厳しくなり多くの解雇者を出す場合、解雇された者が何を考え、どう人生に絶望し、その後どうする、、ということは経営学の範囲外である。また大量の失業者のための国家対策(失業手当や再雇用援助)が国家財政の負担になるとかいうことは経済学、財政学の範囲であろうが、彼らが何を考え、人生をどう再定義し、何に生き甲斐を見いだし、どういう生き方をしていくかまでは経済学は考えないし、これを解明するための方法論を持っていない。
社会学とは、多感で、思い悩むリアルな人間が、そしてその人間の集合体としての社会が、今何を思い、どちらに向けてどう動いているか、なぜそうなるのか、をリアルタイムに正確に補足しようとするものである。
設問 3 一部か、全体か
個人化がある程度進展しているにしても、全員がそうなっているわけではない。絶対数でいえば未だ少数派であろう。このことは、大勢はほとんど変化はなく、ごく一部において変化が生じているとみるべきか、それとも顕在化するかどうかはともかく、一人残らずその影響を受ける根本的・全体的変化とみるべきか。
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根本的且つ全体的変化であると考える。
確かに、絶対数でいえば、「個人化」が完全に顕現している人=企業による職と人生の庇護を失い、無力な個人として世間に放り出され、しかも家族というクッションを持たない人=が過半数になっているわけではない。決して珍しい存在ではないとか、少なからず居るという程度ではあるが、殆ど全員がそうなってるというわけではないし、過半数を超えているわけでもないだろう。その意味では確かに「一部」である。
しかし構造変化自体が経済という全体的なものである以上、その影響から免れる人もいない。大雨という現象が起きた場合、その影響はその地域の人々全てが被る。しかし、床下浸水したとか、床上に及んだという被害程度はマチマチである。それはその人の家が高台やマンションの上層階にあるか、川の近くにあるかなどの要素によって決まる。今現在、自分の家が浸水しておらず影響はないといっても、このまま豪雨が続けば翌日には浸水するかもしれないし、新たに家の近くの堤防が決壊するかもしれないし、高台だから大丈夫といっても丘陵地であるから土砂崩れが起きるかもしれない。さらに、雨天が延々続くことにより、激しい気象変化を招き、農作物が全滅して飢餓を迎えるという新たなパターンも生じうる。いずれにせよ豪雨という現象の影響は、大なり小なり皆が受けるのである。現時点で被害が分かりやすく顕在化しているかどうかとは別に、その影響そのものは全体的と見るべきである。
設問 4 どこかで歯止めはかかるのか
今後、さらに個人化が進展するとして、ある程度のところまでいったら自然に歯止めがかかるのか。それとも一人残らずひとりぼっちの完全原子化、全員孤立化という凄いレベルまでいってしまうのか。YESにせよNOにせよ、その論拠はなにか。
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自然と歯止めがかかる方に一票。
映画「マトリクス」みたいに、人類全員がカプセルの中で夢を見るという、総ひきこもり状態になるとは思えない。
個人化といい、グローバル資本主義といい、数万年の人類の歴史からしたら一瞬の「ゆらぎ」にすぎない。人類はアリやミツバチのような社会的な生物であり、それがどんな形であれ社会を構成することを望む。それは遺伝子レベルでの本能であり、本能や遺伝子レベルが改編され、次の進化ステージに進むにはまた数万年以上の時間が必要である。仮に完全孤立化するとしても、はるか先のことであろう。
マズローの欲求段階説においても、食欲や性欲など原始欲求の後には、他者に認知されたい、賞賛されたいという社会的・人格的欲求がくる。つまり人間が幸福になるためには、他者の存在が不可欠である。この他者への欲求は時代が経つごとに衰えるどころか相対的に強くなり、現在が最強とも言える。世間体や見栄、虚栄、後述するピアプレッシャーなどは、他者あって初めて出てくるものである。早い話が「ええカッコしい」「他人に良く思われたい」は人類の本能であり、ええカッコをした自分を賞賛してくれる他者は絶対必要。
ではなぜ現在、人々は個人化、孤独化、ひきこもり化しているのか?といえば、自分が思うほど他人が賞賛してくれない、逆に傷つくのが恐いからである。つまりマイナスだったらゼロの方がマシという消極的なもので、そこにおけるプラマイ勘定法則そのものは何の変化もない。むしろ他者欲求が強くなりすぎたが故に、欲求不満もまた激しくなり、それが全面拒否を招いているとすら言える。
後でも書くが、今回の個人化は、資本主義の進展という経済基盤はありつつも、同時に「人々がそれを望んだから」という部分もまた見逃せないと思う。なぜ望むのかといえば、より良く他者とつながりたいからであり、しょーもないつながり方はしたくないからであり、より良いつながり方を模索している最中とも言える。したがって、最終的に完全孤立化するとは思えない。
設問 5 保護という名の監獄
国家と企業による雇用保障、職場集団や家族という安定的な中間団体に個人が保護されてきたというが、本当にそうか?「家庭がリスクの場になる」のと同じ理屈で、これまでの職場や家族もまたリスクだったのではないか。
周囲に親しい仲間が居なくなる→守ってくれる人が居なくなるという理屈はわかるが、周囲にいる人間が必ずしも好意的で親密であるとは限らない。周囲の人間に攻撃されることもある。つまり、緊密な職場の人間関係は、ぬくぬくした保護環境である場合もあろうが、逆にイジメの温床やら鬱陶しい人間関係の巣窟でもある。家族についてもしかり。個人が職場や家族によって保護されているというのは、「囚人が刑務所によって保護されている」と言うようなもので、プラマイ両方の意味があるのではないか。
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確かに両方の意味があると思う。
ひとりぼっちで大海に投げ出されるというのは、周囲の強力なグループ圧力、ピア・プレッシャーから「自由になる」という側面もある。企業生活=人生だった昔は、日常の喜怒哀楽や人生の春秋を企業と共に過してきた。それは安心できる「人生の保障」ではあったが、封建領主に囲い込まれた農奴人生と似ていないこともない。昼食時のグループ行動、退社後のノミニケーション(懐かしい言葉だ)、接待ゴルフなどの日常に始まり、忘年会、花見、運動会、盆暮の贈答などを会社の同僚上司と行い、長期休暇も会社所有の海の家や保養所を利用し、あまつさえ引越においても手伝いに駆り出される。本来プライベートであるべき各イベントの殆ど全てを会社単位で行う。会社とは中世以前の村落共同体のようなものであり、その日常は、一日の終りに囲炉裏を囲んで過し、村祭りなどの祭礼を行っていた時代とよく似ている。
仲間に囲まれ、常に行動を共にすることで大いなる心の安らぎを感じる人もいるし、その逆に常に馴染めずに不快な気分を抱く人もいるだろう。前者にとって「個人化」現象は大地が崩れ、空が落ちてくるような凶事として捉えられようが、後者タイプにとっては、むしろ鬱陶しいピアプレッシャーからの解放という慶事であろう。
ピアプレッシャー(peer pressure)とは日本語では「同調圧力」と訳されている概念。peerとは「仲間」の意味で、少数意見の存在や発言を許さず、暗黙のうちに全員一致を要求され(「空気を読め」といわれる)、これに逆らうと村八分的な強烈な制裁が課せられる。少年非行などに良く見られ、周囲の仲間の全員が万引きや売春をやっている中では、一人だけこれに逆らうことは雰囲気的に許されず、グループ全員が非行化するのであるが、なにも少年少女に限らず、大人においてもサービス残業や有給休暇の消化において自由意思が制限されたり、「世間体」の名のもとに不本意な行動を強いられるなど、あらゆるところに発現する。
ピアプレッシャーを100%喜んで受け入れている人はマレであり、誰でもそれなりに不快に感じてはいよう。だが、人生や生計保障の消滅という大きな犠牲を払ってでもそれからの解放を願うか、そこまでは思わないか、そこは個人差である。
設問 6 孤独死と寂しさ
思うに、人間は周囲に他人が多すぎると「鬱陶しいストレス」を感じ、周囲に他人が少なすぎると「寂しいストレス」を感じるものではないか。「鬱陶しいストレス」の方が比較的強いときは、人々はむしろ「ひとりぼっち」になることを望んでいるが、「寂しいストレス」が「鬱陶しいストレス」を超えるようになれば、またくっつき出すのではないか。
例えば、若いころは自由勝手に振舞える独身環境を好ましく思い、結婚にストレスを感じたりもするが、老後が徐々に視界に入り、孤独死などの記事を見るにつれ「寂しいストレス」が徐々に高まり、結婚を強く希望するようになるようなものか。
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大綱については同意するも、論理構成が大雑把すぎ。
人間が他の人間について「居ると鬱陶しく、居ないと寂しい」という相矛盾した感情を抱く点に異論はない。というよりも、欲求というものは常に両極に振れることを嫌い、ほどよいバランスを求めるものであろう。しかし、そういう一般原則だけ振りかざしても今回の「個人化」は解き明かされない。
「ひとりぼっち」がなぜ忌避されるかといえば、@メンタル的な寂しさという精神面、A人生の保障という経済面の両面がある。「個人化」がもっぱら指摘しているのはAの経済面である。生活の保障がなくなる、それも生涯にわたって望めそうもない、という索漠とした経済環境が不安をもたらすのだ。@メンタル的な寂しさ云々は必ずしもメインテーマではない。
中年期にさしかかり老後を思うとき、それも孤独死など「わびしい老後とその行きつく果て」を思うとき、人の心は何とも言えない寂しさにおののくであろう。メンタル的な「さみしい」要素が前面にイメージされるが、しかし、それとてA経済基盤と密接に結びついている。孤独死のビジュアルイメージは、通例、安アパートの一室など経済的にあまり恵まれていない情景であろう。資産数兆円の大富豪が宮殿のような自宅で孤独死することはあまり考えられていないし、逆に仙人のように達観した老大師が、山野を遊行し、大自然に抱かれながら一人で天に帰るのもあまり「さみしい」感じもしない。
個人化が進展する以前、”鬱陶しい”会社文化と家族圧力にあえいでいた頃だって、老後の孤独とその不安はあった。にぎやかな孫達に囲まれ好々爺然として遊んでいたり、五〇年連れ添った老妻と二人で静かに茶を喫する午後、、などからしたら、ひとりぼっちの老後は寂しいものがある。しかし、それは社会的な保障があるかどうかとは関係なく古代からあった感慨であり、格別新しいものではない。
要は、老後の悠々自適生活を保障する、子供や配偶者など係累縁者のサポート、企業年金などのサポート、さらにいえば年金その他の国の手厚いサポートが望み薄であるという、お寒い未来像なのである。ただ、サポートという援助の手を受けるとき、身近に他人の存在を感じ、それが孤独感を和らげるという精神的な充足をももたらす。「物心両面」という言い方があるが、まさに心と物とが一体化しているように感じられるために、精神性に引っ張られた感じ方をするのだと思われる。
設問 7 宿命的集団から選好的集団への変化〜類友タコツボ化
家族や職場という宿命的・運命的な人間集団が薄らいでも、趣味の仲間やらSNSやフェイスブックなど選択的・自発的な人間関係はありうるのだから、必ずしもひとりぼっちの孤独になるわけではない。いわば、ひとりぼっちでない形態(集団形態)が変化するだけのことではないか。
しかし、宿命的集団→選好的集団という比重の変化は、「好きな人としか付き合わない」「類は友を呼ぶ」という近似性を招き、自分とタイプが違う人間との接触機会を大きく減らすということでもあるが、そこに何か問題はないか?
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確かに「ひとりぼっち」に伴うメンタル的な寂しさを和らげる方法は、何も会社や家族が専売特許ではない。釣友やら碁会所のライバル、同人誌など趣味のつながりは昔からある。個人化により職縁や血縁が薄くなった分、これらカジュアルで趣味的な世界が広がるのは十分にありうるし、また一概に悪いことではない。
ただし、弊害も大きいと思われる。
すなわち、旧来の宿命的人間集団はそれが宿命的であるがゆえに、個々人の好き嫌いとはお構いなしにあらゆるタイプの人間と付き合うことを強制した。たまたまその家に生まれ落ちたというだけで○○家の一員として振舞うことを強制され、職場においても会社の一員であることを強いられる。徴兵によって軍隊に配属された場合など典型的であるが、そこでは「気のあった人とだけ付き合う」などという贅沢なことは許されず、どんな奴とでも上手くやっていかねばならなかった。それは場合によっては多大な苦痛を伴ったであろうが、同時にあらゆる人間と付き合うことで、人々の視野を広め、対人能力を鍛えられた。また、結果的に多くの人間が同じ現実を共有することで、そこには自ずと「常識」という共有経験則が育まれ、日本人全体としての均一性をキープ出来た。
しかし共通趣味による仲良しグループ=「好きな人としか付き合わない」という選好的な集団は、類友的な近似性ゆえに、自分と全然タイプの違う人間との接触機会を大幅に減らす。結果としてタコツボ的な人間関係になりがちであり、視野狭窄、対人能力の劣化という副産物も生むであろう。このようなタコツボ社会においては、未開時代の部族社会のように、部族が違えば人種が違うというくらいかけ離れていくかもしれない。ギャル族があり、腐女子族があり、ひきこもり族があるかのように、同じ日本人同士でありながらも”部族”が違えば、「話が通じない」「理解できない」「人間としての接点がまるで感じられない」という現象は起きるかもしれない。
実際にも、タコツボ化に伴う人間関係の劣化、脆弱化は既に生じているであろう。
しかしそれによって「日本人」という共同幻想が瓦解したり、「常識」が全く通用しなくなるとは思えない。それは民族や文化意識というのはそんなに浅いものではないからである。
翻って考えてみれば、日本人が皆そろって同じ日本人概念を胸中に抱いていた時期などは、日本史1500年間においても戦前のファシズム時期くらいであり、その他の時期は今以上に強烈な部族社会だったと思われる。江戸期においては士農工商の身分社会であり、武士族と町人族は文字通り住む世界が違った。明治期においても○○男爵が鹿鳴館で踊り、人力車夫がいたわけである。若い世代を新人類だの異星人扱いするのは連綿と続いており、もっともギャップが強烈だったのは終戦後のアプレゲールあたりだったと思われる。このように同じ時代にいながらも、てんでバラバラな日本人がいたわけであり、それでも日本・日本人という一貫したアイデンティティを保っていられたことを考えれば、かつてなく情報が均一化している現代においては、多少の”部族”の差などものの数ではない。
「日本人だったら皆こう感じる」という物事は、日本人ばかりの集団にいたら逆によく分からない。むしろ海外に出た方が、それも一人ぼっちで出たら、日本人という強烈な同一性に気づくだろう。例えば、どんなにド厚かましい日本人でもそこまでは言わないということを平然と主張する外人に会ったりしたら、それもその集団に取り囲まれたりしたら、よく分かると思う。あるいは、他人の家に来て平気で絨毯の上に痰を吐くような不作法な真似は、日本人だったらまず絶対しない(日本人以外でもしない)が、それが別に不作法でもなんでもないカルチャーもまた世界にはあるのである。多くの日本人にとって味噌汁は懐かしい味であり、温泉は快楽そのものであるが、味噌という発酵臭を伴うがゆえに味噌汁をウンコ汁呼ばわりしたり、見知らぬ他人と全裸で入浴することに露出狂&同性愛の所業として忌み嫌う人だって世界にはいる。
人間関係というのは、同じタイプだから親しく付き合えるだけではなく、違っているからこそしっくり付き合えるという摩訶不思議な化学変化を持つ。日本人内部で種々の部族が乱立することは一向に差し支えないと僕は思うが、同じでないと付き合えない、違っていることにビビるという精神傾向は、ある種の劣化なのかもしれない。
設問 8 個人化とは何か、なぜ起きるのか
「個人化」はグローバル経済の進展という経済環境の変化によってのみ生じたのか?他の要因はないのか?
個人化現象の原因や構造を、具体例を挙げつつ、さらに深化して私見を論ぜよ。
これも結構長いので、本当にヒマな方だけクリックしてお読み下さいまし。
個人化という現象は、グローバル経済の進展によって否応なくそうなっているだけではなく、@それが可能になったこと、Aそれを人々も望んだこと、という二つの要素もあると思われる。
一人で孤独に暮すという、「おひとりさま」ライフスタイルは、古代においてはまず不可能であった。たった一人で飲み水や食糧を確保し、野獣や天災から身を守りつつ逞しく生きていく、、なんてことは、抜群に身体能力が高い個体にのみ可能であり、平均的な人間にはまず不可能である。不可能であるからこそ、人々は集落を作り、共同生活を営んだ。農耕が伝わり、集落は大規模化し、やがて国家が出来る。複雑化した社会と洗練された分業体制のもと、人々の協働・共生度はますます高まっていった。
しかし社会があまりにも高度になっていくと、いちいち分かりやすく「他人と共に汗を流して働く」という機会が少なくなった。昔のSFが描いた未来像のようにマシンが全部やってくれるから、他者と武骨に接触しなくてもよくなり、結果として個人化が進む。商船のオートマ化によって、巨大タンカーでもわずか十数人で動かせるようになる。かつて工員さんがひしめいていた工場も、黙々とロボットが深夜操業し、数人の夜警のような保守要員がポツンと佇むようになる。
コンピューターやネットによるデーター処理が向上するともに、企業が人材を求めるにしても、細かく条件を指定し、全世界にプールされている人材情報から検索すればたちどころにヒットするようになる。日本ではまだ不器用に新卒一括採用などをやっているが、他の先進国のマネージャークラス以上の採用においては、極力ムダが省かれ、ピンポイント採用活動をするようになる。まるでコンピューターによる結婚紹介みたいだが、結婚という極めてパーソナルで定式化しにくい領域は難しいにせよ、そこまで人間的相性を求められない職場・人材マッチング程度だったら、データー処理だけでかなりのことが出来るようになる。こういった流れが経済的に個人化を推し進める背景になった。すなわち、省力化と海外外注、空洞化などにより人を雇わなくても済むようになったため、社会全体から求人数、JOBの絶対数がどんどん減ってゆく。だからこそ就職難になり、日本においては20年間給与が上がらないという惨状になっている。
また、ピンポイントで採用できるようになるほどに雇用におけるムダが排除される。旧来、人材というのは「使ってみなければわからない」という要素が大きかったので、とりあえず10人採用し、ビシバシしごいていって最後に3人残ればいいわという極めてアナログ的な処理をしていた。そのため求人数が3人であっても10人雇ったので就職それ自体は楽だった。また就職した後のシゴキはキツかろうとも、それは有意義な社会教育になりえた。10人も雇えば、同じ企業といえども多種多様な個性が集まり、そこでぶつかり合うことでコミュニケーション能力は鍛えられ、また個々人の視野も広がり、人間として成長できた。つまり、ムダの多い荒っぽい雇用をやっていたからこそ、出来が悪かろうがとりあえず雇って貰えたのであり、社会人教育を受ける機会にも恵まれた。チャンスと成長機会は広く与えられたのである。
現在はその逆であり、将来的にはもっと進むことが予想される。雇用のグローバル化に伴い、日本企業においても外国人を積極的に雇うだろうし、またそれが出来るだけの世界的な人材斡旋システムが構築されつつある。極度に洗練された雇用システムにおいて、人材などは企業という大きなマシンのパーツに過ぎず、必要なときに必要なだけ揃え、用済みになれば終わりという合理的な雇用形態になりがちである。もともと大企業の社員は「歯車」と自嘲していたが、それでも昔は生きている歯車であり、使えなくても辛抱して使ってくれたし、使えるように鍛えてもくれた。しかし、これからは本当にメカニカルな歯車になる。新卒一括採用は愚劣なことだと思うし、将来的には流行らなくなるだろうが、それでも一括採用というアナログで地引き網的なことをやってくれているだけ、若い人にとってはまだしもチャンスである。これが西欧諸国のように純粋に適材適所方式でいくなら、経験(キャリア)がなければ採用の土俵にも登れず、しかし採用されないとキャリアを積むこともできないという、「失われた第一歩」症候群になる。今はせいぜい10%の日本の若年失業率が、ヨーロッパ並の20%以上になるのも、もしかしたらそう遠いことではないかもしれない。
コンピューターによる計量的な合理化、ネットなどデータ通信環境の進展、、、、、要するに「科学技術の進展によって世の中が変わる」というありふれた出来事なのであるが、実際にそうなってみるとキツいものはある。昔のSFでは、社会が極限まで進化し、人々は働かなくても安楽に暮らせていけるというバラ色の未来像が描かれた。しかし、JOBの絶対数が減ったというところまでは同じだけど、働かなければ(所得がなければ)生活していけないという部分が変わらない為に、人々の暮らしは単純にしんどくなっているのである。
アナログ的雇用&職場環境は、皆で力を合わせて漁網を引っ張るのようなアナログ的な人間関係を育んだ。おしくらまんじゅうのように人と人が密着するので温度が上がる。それが暑苦しくもあるが、温かくもある。それによって人間的な幸福も(苦痛も)得られ、ともあれ多くの場合、一人でぽつねんと部屋に籠もっているよりは刺激も多く、人間的成長も出来た。ストレス耐性も向上しようし、また他者への理解と寛容性も高まる。要するに人付き合いが上手になるし、コミュニケーション能力も高まる。
ところがそういう錬成機会が相対的に減ってくるに従って、人付き合いが下手になり、コミュニケーション能力も劣化してくる。大体において「コミュニケーション能力」なんて当たり前の能力が、今更ながら脚光を浴び始めた頃に斜陽が始まっていたのであろう。対人的な苦手意識が生じると、どうしても消極的になるから経験不足になり、経験不足は打たれ弱さを招き、些細なことで大きく傷ついてしまうナイーブな魂を量産することになる。
結果として不登校児を生み、非モテを生み、ニートやひきこもりを生んだ。しかしこれは合わせ鏡のようなものであり、何も彼らにだけ100%帰責されるべきではない。クラスで不登校を産むということは、他のクラスの構成員や教師、親など周囲の人間が手を差し伸べるのがヘタッピになったということの現れでもある。社会全体にひきこもりを生じさせたのは、社会にもその責任の半分はある。昔だったら、「来いよ!一緒にやろうぜ!」と屈託なく誘っていたことが出来なったことでもある。自分らとちょっと波長が違う人間と付き合うのが面倒臭くなっているのであろう。これは新世代だけがそうなのではなく、旧世代も昔の我が身に比べれば劣化しているだろう。つまりイヤな奴や面倒臭い奴と我慢してまで付き合いたくないという気分が以前よりも強くなり、より自分の趣味嗜好にドンピシャと合った人とだけつきあいたいと思うようになる。全員が共謀共同正犯。しかし、これは悪循環スパイラルになりうるし、現になっているのではないか。
そして、その傾向(対人選り好み傾向)はネットの進展などでどんどん可能な環境になりつつある。何のことはない、企業の採用と同じであり、企業だけではなく個人も他人の選り好みが激しくなり、またそうしうる技術的環境にあるということである。このように個人化の流れは、企業経済活動によってそうなってきた面もあるが、個々人においてもそれを望んだという側面もある。いわば合作である。
そしてこの状況を固定化するかのように、ひとりでも暮していけるように消費環境がどんどん整っていく。おひとりさまマーケティングの隆盛であり、小売店のおばちゃんとダベるよりも無機的なスーパーを好むようになり、スーパーでも一人分の野菜を小分けパックにするとか、ワンルームマンションが出現するとか、誰とも面談せずに利用できるラブホテルであるとか、誰と顔を合わせなくてもお金が借りれるむじん君とか、、、、その種の萌芽は遡れば30年以上前から認められ、徐々に大きなストリームになっていっている。
つまり個人化とは経済環境だけではなく、人々が無意識的にもそれを望んだという意思、さらに個人化を可能にした技術&商業環境という三位一体によって生じていると思われ、この三者が縄をあざなうごとく相互に結びつつ、スパイラルをなしているのが今日の状況でないかと思われる。
環境的可能性についての補足。
個人化の問題を考える場合、視点を逆にして「ではなぜ、これまでの時代は個人化しなかったのか?」と考えてみることも有効だと思われる。ここで「昔の人は人情味があったから」としがちであるが、それは誤りであろう。人情味があったかどうかというレベルの問題ではなく、また人情味があったにせよ、何故人情味が濃かったのか?こそが問われなければならないからである。
一言でいえば個人化「出来なかった」からだと思われる。単純に生活物資の絶対量からいってもそうである。日本の場合、終戦直後はわかりやすく「東京都民全員ホームレス」だった。なんせ一面焼け野原だったので、家そのものが少なかった。昭和30年代ですら、一家四人に四畳半なんてのはスタンダードだった(ウチもそう)。「子供部屋」なんて贅沢なものが一般化してきたのは昭和40年代であろう。この段階においては「個人化」もクソもない。個人化できるスペースもない。今でこそ一家団欒を「心がける」という言い方になっているが、24時間同じスペースに存在するしかなかったのであり、いちいち団らんなどと考えることもなかった。また、高度成長においては、だんだんリッチになるお父ちゃんの給料によって、住む家もどんどんヴァージョンアップしていった。一家そろって家を見に行ったり、新しい家で雑草を取ったりした。いわばナチュラルに開拓民一家みたいな暮らしをしていたのであり、家族=生きていく基本単位であった。
今でこそ一家一人づつに個室は当たり前、個室にTV、PC、携帯があるのは当たり前であり、思う存分個人化出来る環境が整っている。昔は全然整ってなかった。高校生が彼女に連絡を取ろうとしても、携帯もメールもないから、馬鹿正直に自宅に電話し、彼女のお父さんの不機嫌そうな声に向って、「あ、あの、○○さんは、ご、ご在宅でしょうか」などとやらねばならなかった。プライバシーもヘチマもない。
また社会的なプレッシャーも相当に強力であった。結婚しない男女はただそれだけで人間的に不良品であるかのように扱われ、「片輪」などという差別用語がバリバリまかり通っていた。20代後半になっても結婚しない女性は、オールドミスとか冷感症とかいかず後家として社会的な迫害を受け、なかにはただそれだけの理由で会社をクビになったりもした。子供がいない女性も大きな引け目を感じ、嫁ぎ先においては舅姑から真剣に片輪と面罵された。「石女(うまずめ)」という古い言葉もあり、「三年子なきは去れ」として離縁の正当な理由とされた。男性においても、いい歳して結婚していないと社会人として「信用できない」とハッキリ明言され、昇進差別も当然のようにあった。要するに、結婚してない、子供がないというだけで、殆ど犯罪者や前科者と同様に扱われており、誰でもいいから結婚するしかなかった。やや大袈裟に書いてはいるが、当時を知る人、自らがその圧力を受けた経験のある人は必ずしも大袈裟だとは思わないだろう。ここにおいても「個人化」もクソもないのである。個人化「できない」のであり、仮に個人化できたとしても人生の失敗者として嘲笑される存在であった。
これが職場においては、そもそも派遣やフリーターという就職形態そのものがなかった。アルバルトは学生において辛うじてあった。その他の不安定な雇用形態は、いわゆる土木現場の「日雇い人夫」くらいであり、昭和40代になると「パートの主婦」という存在が出てきた。大多数は当然のように正社員であり、あまりも普通だったので「正」という文字が付かなかったくらいである(正社員でない場合などありえないから)。
昔においても、もちろん進んで「個人化」していた人達はいた。日本社会のメインストリームではありえないことを百も承知でゴーイングマイウェイの人々も多数いたが、あくまで例外的な存在であった。「風来坊」とか「放浪者」「流れ者」といった、ジプシーのような存在であり、もっといえば「無宿渡世人」「旅ガラス」みたいなレジェンド的な存在ですらあった。「あしたのジョー」の第一巻みたいな。旅芸人一座とかストリップ一座とか、寅さんのように香具師とか、それはそれで田楽猿楽、白拍子や阿国歌舞伎以来の連綿と続く日本の伝統ではあるが、今回の「個人化」とはあまり関係がない。いずれにせよ、ハンパな根性では「個人化」など到底出来なかったのである。
文責:田村