その1、
その2、
その3と続いて、その4です。
「そこそこでいい」というフレーズは、昨今の覇気の乏しさを象徴するようなセリフでありつつも、しかしそこには確かに時代の気分のようなものが潜んでいるような気がするぞ、というのが発端でした(その1)。で、もって時代の気分というのは、単にここ数年ではなく70年代以降数十年くらいのもの、もしかしたら1万年単位の人類史的な転換点なのかも、、と話はどんどん大きくなりました(その2)。
一言でいえば、これまで人類が営々とやってきた頑張る→成長→豊か→幸福というシンプルで一本道な方程式が頭打ちになってるということです。そんなことは「真の豊かさ」という問い掛けで既に70年代からやっていたのだけど、問いかけているだけでこれといった答や新方式が確立しているわけでもない。そこへもってきて環境や資源問題が出てきて、否が応でも成長ドグマに修正がかけられるようになる。といいつつも、新しい方向性がよう分からんまま過渡期に突入するから新旧価値観がごちゃ混ぜになって、あれこれ混乱も起きるよねという話でした(その3)。
まあ、結論的には21世紀中には目鼻がつくかなどうかな?、形になっていくのは22、23世紀頃じゃないかってくらい気の長い話だと思います。でも、この混沌とした時代にあれこれもがいてないと永遠に混沌が続きそうだから、あれこれ考えてみようじゃないかと。それが今回。
混沌としてるか
「そうかあ、そんなに混沌としてるか?と思われる方もいるでしょうけど、してませんかね。スッキリさわやかに未来が見えてますか?世界的によう分からんようになってるんじゃないかなあ?
オーストラリアでは、先日連邦総選挙が行われたのですが、これが1940年代以来久しぶりのハング・パーラメントになってます。つまり現与党も野党も単独では絶対多数がとれず、ほぼ全くの互角。3人の無党派議員と1人のグリーン(環境政党)議員を自陣営に取り込もうと激しい交渉が繰り広げられています。絶対多数を取った方が政府を組織するという、非常に珍しい事態になってます。もっとも、少数与党が政権を担うのはヨーロッパでは普通の話らしく、政策毎に合従連衡が異なり、とても微妙なパワーバランスのもと運営されているそうです。
今回の選挙で見えてくるのは、オーストラリア人もよう分からん状態になってるのではないかということです。与党は○○だからダメとか、野党は○○なのでダメとかスッパリ決めきれない。大体において政策の対立軸なんかありそうでないですもん。ベーシックには、大きな政府でリベラルな与党レイバー VS 小さな政府で経済重視のリベラルということですけど、個々の問題になるとこれが曖昧になります。似たようなことを言うし、また言わざるを得ないし。野党のトニーアボットも、最初は「温暖化なんか嘘じゃ」というとっても分かりやすい切り口で脚光を浴びたのですけど、野党党首となり、首相の座を狙えるようになると、「やっぱ環境も大事だよね」とトーンダウンせざるを得なくなってる。マジョリティの支持を集めようとすればどうしてもそうなる。
最近の選挙って、分かりやすい対立軸や選択肢がないとグチャグチャになっていく傾向があるように思います。明確な結果が出た選挙というのは、必ず何らかの分かりやすい選択問題があった。小泉首相の郵政選挙にせよ、民主党が政権を取ったときも、構造改革を進めるかとか、政権交代をするかとか。アメリカでオバマが政権を取ったときも、ブッシュに象徴される旧来の強いアメリカ的・白人的価値観に訣別するかという選択。オーストラリアの前々回も、長期政権になったハワード政権もそろそろ替え時かどうかという。こういう選挙は分かりやすい。しかし、さきの日本の参院選や今回のオーストラリアの総選挙のように、これといった「目玉商品」がなく、地味な政策論争になるとよく分からなくなる。与野党全くのイーブンという選挙結果は、オーストラリア人が「わかりましぇん」「決められません」と言っているのに等しいです。
なんでそんなに決めきれないのか?というと、やっぱり分からんからでしょう。混沌としているからでしょう。どっちの方向に進めばいいのか大局的なところが見えない。
そりゃさ、「グローバル時代を乗り越えられる強く豊かな日本の建設」とか言えるんだろうけど、言ってるそばから虚しくなる部分もあるのですね。
だって、マジにグローバリゼーションが進展したら日本を含む先進諸国の一般市民の暮らしなんか木っ端みじんになりかねないです。今の地球は猛烈な富の不平等があるから、第三世界で餓死者が出ながら先進国では呑気にネットなんぞをやってられるんですが、グローバリゼーションでその不平等が是正されていくと、これは先進国においては途方もないレベルダウンを意味するし、現にそうなりつつある。
で、第三世界も底上げしながら、皆で豊かになりましょうという話もあるけど、それってどれだけの資源と環境の消費を伴うのか、本気でそんなことが出来ると思っているのか?さらに、「乗り越える」といっても、そんな全員参加のオリンピックみたいな激烈な競争で本当に個々の日本人が勝ち抜いていけるのかという疑問もあります。じゃあ、グローバリゼーションはダメだから反対しようといっても、決定権は僕らにないですから、お構いなしに事態は進む。いっそのこと鎖国しようといっても、これまた資源、食糧、経済いずれに観点からも大幅なレベルダウンを余儀なくされるのは必定。
目標や志は良いのですけど、これまでの方法論や発想(「頑張って〜豊か」という)だけからでは、やっぱ限界があるではないかな、と思います。
成長という悪魔のループ
豊かになる前は、豊かになるという目標があった。山を登ってる間はてっぺんを目指せばいいから精神的には楽だし、ハッピーです。でも本当に豊かになってしまったら、やることがなくなる。何をやってもヒマツブシ感覚が抜けず、あの燃えるような感動はない。どんな歴史、どんな組織も、一度ピークを極めてしまえば、あとはひたすらなだらかに下降していくだけで、落ちるとこまで(再び「上に行きたい」という感情が燃えるまで)落ちるという法則はあります。それを知らないわけではないのですけど、このまま「なんだかな」と言いながら、まったり死んでいくのもケッタクソ悪い気がします。もう少し僕はジタバタしたい。だから考えているのですけど。
でもねー、これ、難しいですよ。つらつら考えてみたのですが、成長&豊かという基軸でやっていくと悪魔のループのようになる。だいたい、成長とか豊かという言葉のムナしさは、既にここ何十年、僕もあなたもソコハカとなく感じているのではないでしょうか。幸福だったはずの高度成長時においてすら、公害や乱開発による自然破壊が叫ばれていたし、「飽食」なんて新語も出てきたし、バブルの頃は「カネ余り日本」とどことなく自嘲的な部分もありました。あのー、バブルを知らない若い人の中には、さぞかしあの頃は良かったんだろうなと思ったりするかもしれませんが、あの当時においても日本人はそんなに幸福でもなかったですよ。「なんだかな」って感じはあったな。お金はあったけど、あってもねえって。贅沢な悩みかもしれないけど「こんなもんか」って気分はあった。むしろその後の停滞時期が長引くにつれ、日本人ってカネカネ言うようになった気がする。
というわけで、「成長ねえ、豊かねえ、、ま、そうなんだろうけださ」みたいな形にならないモヤモヤ気分はあったと思うし、今もあるでしょう。数十億の豪邸をぶっ建てて、池に錦鯉を飼っているのが究極の幸福像か、ジャパニーズドリームか?と言われると、「そうかな」と思う。かといって、貧しければいいってもんでもない。貧しいのはやっぱりイヤだし、生活水準もそんなに下げたくもない。だからある程度の豊かさはキープしたい。上に行っても何にもなさそうなんだけど、とりあえず下には落ちたくない。だからテキトーに維持してようかと思ってたら、ところがそれすらも日に日に難しくなり、テキトーでは済まなくなってきて、必死にしがみつかねばならなくなる。でも、目標がハッキリしない頑張りってけっこう消耗しますよね。
だから成長とか豊かという基軸でモノを考えていくと、上にも下にも展望が見えないというパターンになりがちです。悪魔のループというゆえんです。なんでこんな馬鹿な話になるのかといえば、成長や豊かというのは上下しか基軸がなく、ヨコとかナナメが無い。これは一種の「山に登ろうゲーム」であり、とっても分かりやすくていいんだけど、登ってしまえばそれでおしまいという元来一過性のゲームなのではないかしらん。だから汎用性もなく、そんなものを基軸に据えるから煮詰まるんじゃないかと。日本の近代史にも明治維新後と大戦後という二つの時代にこのゲームはドンピシャとハマった。ゲームがハマってるうちはハッピーなんだけど、それが終るとダッチロールになる。
幸福ってなーに?
話がモヤモヤしているときこそ原点回帰です。
なんだかんだ言って、要は皆が幸せになれればいいわけでしょ? 成長しようがしまいが、エネルギーが枯渇しようが、環境がヤバくなろうが、それでも皆のハッピー度が増進してたらそれでいいわけでしょ。国家も、資本主義も、ゲームのルールも、みなハッピーになるための手段やダンドリに過ぎない。
物財とか金銭というのは、個々人が幸福になるための必要条件かもしれないけど十分条件ではない。全然無かったら困るけど、あればそれで万事OKというものでもない。こうなると「幸福ってなーに?」というトメドもない話になりそうなんだけど、敢えて簡単に言ってしまえば、消極的には「不幸でないこと」であり、積極的には「おお〜っ!て思うこと」でしょう。
「不幸でない」というのは、いきなり親兄弟を殺されたり、食糧が無くて餓死したり、病気になってもただ死を待つだけだったりというフィジカルな部分での苦痛が少ないことです。このために国家やインフラ、そしてカネは威力を発揮します。物財の豊かさが幸福を約束するのはその限りにおいて正しい。が、食えたらそれでOKかというと、そこが人間が動物と違うところで、それだけじゃ物足りない。なんか「いいな」という感じ、心のプラス方向への振幅、つまりは感動が欲しい。大富豪になって大宮殿に住んでも、友達が一人もいなかったらやっぱり寂しい。
だとしたら物財やカネは「不幸ではない」という消極的な手当としてだけ機能すればよく、あとの半分はまた違った原理で達成するべきであろうと。で、実際問題、後者(精神的満足感)が大きければ、前者(物質的充足)はボチボチでも良かったりします。後者が大きければ大きいほど前者は少なくて済む。極端な話、後者が100あったら前者はゼロでもいいという。愛する者の為に死ぬとか。そこまで極例でなくても、寝食忘れて創作に没頭する芸術家とか。それに超多忙なビジネスマンとかもそうです。お金はあるけど遣うヒマがないとか、何のために何をやってるのか。前者(お金)の為に働いているはずが、「このプロジェクトを実現しなければ死んでも死にきれない」とか段々ムキになって病院のベッドから抜け出してきたり、壮絶な戦死を遂げたり、要するに完全に後者にシフトしてるってことですよね。
じゃ、人はどうなったら後者(精神的充足)を得るかというと、これも曖昧な話だけど、早い話が「やりたいことをやる」ことでしょう。何故「やりたい」って思うのかといえば、何となく面白そうだから、楽しそうだから、いい気分になれそうだからでしょう。要は「いい気分」になれたらそれでいいんですわね。だとしたら、石油が枯渇してクルマが動かなくなろうが、日本列島が半分水没しようが、何があろうがなかろうが、本人が「いい気分」だったらそれでOKだということであり、皆の「いい気分」の総量が増えれば、それは世の中良くなってるってことでしょう。よくいわれるGDPならぬGDHですね(グロス・ドメスティック・ハピネス)。
ただ、この「いい気分」道は深いです。何をもって面白いと思うかは人それぞれです。それに、最初は面白くても、段々子供だましのものでは飽き足らなくなるという変化もあります。どうも人間には快感エスカレートの法則というのがあって、それは人間の学習能力と表裏一体になるのでしょうが、同じ事をずっとやってたら飽きてしまう。なにかの形で進歩なり、前に進む変化が欲しい。そこにこそ快楽を感じるという。皆の「いい気分」をコンスタントにキープしたり、増強させ続けるのは難しいです。
モノによる空洞化 ココロの逸失利益
もうちょいミもフタもないことを言ってしまえば、人間というのは全力を発揮して生きていたら「とってもいい気分」になれる=幸せを感じるように出来ているようです。上に消極・積極と書きましたが、消極的幸福を追い求めるだけ(不幸にならないように頑張る)だけで全力が尽せるのだったら、それで同時に積極的幸福も満たされちゃうんでしょうね。
これって極限状況になると分かります。無人島のサバイバル生活とか。もう一日中苦労して飲み水を探したり、手製の銛で魚を突いたりして食糧をゲットしないと死んじゃう。物質的には極端に不幸なんですけど、しかしそれで魚が取れたら「やった!」とメチャクチャうれしい。そのうれしさ、幸福感、脳内快楽物質の分泌量は、豊かな筈だったそれまでの日常とは比較にならないくらい強力でしょう。
海外で一人ぼっちでやっていくというのも一種の極限状況です。どなたかの体験談でもありましたけど、英語が不慣れなままショップに入っておっかなびっくりランチを注文してゲットできたら、それはすごい達成感であり、喜びです。僕も着いた初日、地図もないままフラフラと歩き、商店街を発見し、スーパーに入り、肉を買い、使い方が分からないオーブンと悪戦苦闘しながらステーキを焼いて食べたとき、「おーし、これで今日は生き延びられたあ!」ともの凄い達成感を感じたものです。17年経ってもまだ覚えてる。あのとき僕はまごうことなく幸福だったし、めちゃくちゃ自己実現してました。
つまりそーゆーことなんでしょうね。買った方が遙かに安い魚を、早起きして金と労力使って釣りに行くのも、家庭菜園で野菜を育てるのも、わざわざ不自由極まるキャンプ生活を楽しむのも、アメリカの資産何十億のCEO連中がリタイアしたら農場を経営して牛のウンコまみれになって喜んでいるのも、そーゆーことだと思います。
逆に言えば、あまりにも簡単に衣食住の基本=消極的幸福が満たされてしまうのは問題だということです。これらベーシックな部分が満たされ、尚も余力があったら、その余力の分だけココロにポッカリ穴が空いてしまう。本来得られる筈だった達成感を得られなかったという「逸失利益」が生じるからです。で、ココロに空いた分だけ、また新たに積極的幸福を創造しなければならなくなる。
これもまた悪魔のループで、必要以上に便利で豊かにし過ぎると、それだけココロは空洞化し、同じ分だけ抽象的に頑張らないとならない。しかし「食糧ゲット!」に匹敵するだけの新しい精神的幸福を創造するのは難しいですよ。容易じゃないです。最近更新した動画館のラウンド帰りの人も放浪生活を振り返って、モノが無ければないほどハッピーになると実感されてましたし、それは僕もよく分かります。でもって、ココロの隙間をモノで埋めようとしても、又その分だけ空洞化が広がるのだからイタチごっこです。
だからといって道端に餓死者が累々としている状況が幸福かといわれたら、そういうわけではないですよ。モノには限度があります。
ここでいいたいのは、物質的にドンドン充実させ、豊かに豊かにしていくと、ある地点を越えると逆効果になっていくということです。豊かになるほど不幸になっていく。適当なところで敢えて留めておく、あんまり便利に豊かにし過ぎないでおいておくという叡智こそが、成長や豊かさに代わるべき基軸になっていくのではないかということです。
その叡智を一言でいえば、だから、それが「そこそこでいい」ってセリフになるのではないかな、ということです。
このテーマは考え出したらキリがないくらいに面白く、幾らでもテーマが分岐していくのですが、本当にキリがないので以下ラフスケッチしておきます。
ドラスティックで革命的な幸福追求
前回に70年代以降、人類は迷走を続けているのでは?と書きましたが、十分なカロリーが摂取できるようになって、メジャーな疾病に対応できる程度の医療その他のインフラがほぼ整った時点で(先進国においては70-80年代)、消極的・物質的幸福の整備は一段落させて、後者の精神的な部分、「楽しいな」「生きてて良かったな」と思える方向をもっとマジに開発するべきだったような気がします。実際にそういう自然主義とか精神主義は出てきたのですけどサブカルチャーどまりの扱いで、メインストリームにはなってない。「そこそこでいい」というのは70年代にこそ、もっと自覚的に言うべきだった。
これは余暇の充実とか政府広報みたいなレベルで言ってるのではなく、産業や政治構造の地滑り的変化、ひいては価値観自体を変化させるくらいドラスティックに腹括ってやるべきじゃないかと思いますね。抽象的に言っててもわかりにくいでしょうから、例えば、企業はなんのためにあるの?といえば、これまでは「利潤の追求」でした。要するに「儲けるため」にやっている。そうじゃなくて、「皆がいい気分になるために」企業はあるのだということを、キレイゴトでもなんでもなくマジに捉える。「皆」には株主や消費者だけではなく従業員や近隣住人も含まれますから、結果としてこの企業があることで皆の「いい気分」の総量がUPしたら存在価値があるとされ、マイナスだったら潰される。いくら収支決算で黒字であろうが、資産が山盛りあろうが、破産宣告が出される。皆が幸せにならないんだったら無い方がマシだという。だから法律も改正して、破産宣告の要件である「債務超過」に加えて「不幸超過」という新条文を付加する。
憲法も改正すべきでしょうね。今のままでも13条の幸福追求権など、もともと新時代に対応できるだけの優れた憲法ではあるのですが、より旗幟鮮明するために変える。幸福であるのは国民の(権利ではなく)義務だくらいにしたらいいです。国民の三大義務(教育、納税、勤労)を「教育、納税、幸福」に変えちゃう。その代わり勤労の義務は外す。ニートでもいい。冗談みたいな話だけど、でもね、一人ここに不幸な人がいると、これって公害みたいに波及するのですよ。例えば働くことでストレスを溜め、ココロが壊れてしまった親に育てられた子供は不幸だし、成長してからまた不幸が再生産される恐れもある。自分の幸福は自分で責任持って実現する、それがまっとーな社会人の務めであると。
まあ、このあたりは何倍も書かないと意を尽くせないので、冗談みたいに聞こえるでしょうが、少なくとも「豊かな時代」「余暇の充実」みたいな、「ちょっと一休み」みたいなヌルいレベルでの話ではない。皆が不幸になるなら国なんかぶっ潰しても構わん!くらいの価値転換です。大体「余暇」なんて言い方自体がヌルいじゃないです。「余ったヒマ」だもんね。週休二日制の導入とかさ、甘い!原則と例外を逆転させて、週労二日制、一週間に二日だけ働くくらいの感じ。だってさー、基礎カロリーの摂取くらいだったら、現在の技術水準だったらそのくらいで十分じゃないの?古代から生産効率化で必死にやってきて、実際にも飛躍的に効率的になったのに、朝から晩まで働いているんだったら意味ないじゃないですか。働く以上にもっと大事なことがあり、それは単に働く以上に高級難度でチャレンジングなことです。
消費量=幸福量
今までは高度消費社会でした。というのは、社会のゲームが物財中心の競争社会であり、企業はあの手この手で消費者の心をくすぐる新商品を開発し売り上げを伸ばそうとしてきたからです。それが行きすぎると、面白いことを考えるのは企業の役目になり、僕らはただそれをお金を出して消費すればいいという奇妙な分業体制になっていきました。豊かな時代になって、物財幸福から精神幸福への価値転換や追求を一番真摯にやったのは、実は企業であり、マーケティングだったと思います。儲けるためというこれまでの枠組みでそれをやった。
しかし、企業活動ばかりが突出すると、自分では面白い遊びを思いつく能力も感性もなくなり、楽しいことはお金を遣わないと得られず、お金を持ってるかどうかが楽しさ(幸福)の総量を決めるという倒錯した状況になります。幸福量=消費量という。それでも経済が成長し続けているなら、それはそれで一つの調和を保つでしょうが、日本自体がグローバル競争で苦戦に陥り不況になれば、お金がない=不幸という妙な状況が蔓延することになる。でもって、世界的に競争というパラダイムそのものが変わろうとしているのならば、二重にも三重にもピントがズレていることになります。
ほんでもって行き着くところは、何をやっても面白いとは思えない、どうやったら面白くなるか、何がやりたいのかすらよく分からないという人も出てくるでしょう。でも、これって子供が自然に遊ぶように、もともと人間には本来備わってるものであり、感じるしかない。その感性が麻痺してしまってたら、何やっても詰まらんでしょう。もっとも、心配するほどのことはなく、単に長いこと正座してたから足が痺れたようなものだと思います。だったら、機能回復のリハビリをしてやればいい。騙されたと思って、TVもネットも全て遠ざけて、1日ぼけーっと何もしないで退屈してるのもいいでしょう。何もない小さな町の旅先の宿とか。退屈のあまり「なんか」やり始めますから。その「なんか」がまさにオリジナルな遊びになるから、大事なんですね。あるいは、子供の遊びでもやったらいいかも。ドッジボールとか(一人じゃ出来ないけど)。
貨幣経済の見直し
経済学の初歩ですが、「経済」というのは別に「カネ」がなくても成立します。人間のイトナミ全てを対象としますから。物々交換も立派な経済です。子供の頃に親に「肩たたき券」なんぞを渡したりしますが、あれだって立派な「経済活動」。経済の中にバーターをメインとする交換経済という分野があり、交換経済のなかにまた貨幣経済がある。経済>貨幣です。
こういう時代になってきたら、カネを媒介としない経済活動というのを、もっと意識的に重視してもいいような気がします。モノによる幸福創造機能が頭打ちになってきたら、皆がモノを買わなくなり、(貨幣)経済が沈滞しますし、今そうなってますよね。このまま進んでいったら、どんどん経済は沈降し、単純にカネが廻らなくなって皆さん不幸になる。それじゃアカンので景気対策とかやるわけですけど、それと平行して、カネ以外の分野をどんどん充実させていく、もっともっと自覚的になり、システマティックにしていってもいいんじゃないかと。
夢みたいなことを言ってるようですけど、でもボランティアなんかもカネ以外の経済活動だし、考えてみれば家族や恋人、親友などの人間関係の多くはゼニカネ抜きです。そう思ってみればスポーツだって、音楽だって、僕らが面白いな、楽しいなって思うコトって、あんまりカネに関係ないです。カネがないととりあず出来ないという部分はあるけど、カネの流通そのものがメインになるわけではない。
なんでもかんでも貨幣経済に引き戻して経済を考え、ひいては生計や暮らしを考えているので、カネの循環が悪いと即不幸になりそうなんだけど、それって大きな部分で錯覚じゃないか。景気は悪くて、経済は沈滞しているけど、でもハッピーということはありえると。その昔、旅芸人の一座とか、虚無僧とか全国をラウンドしてたんだけど、あれってどうやって生計を立てていたのか不思議じゃないですか?ジプシーとかさ、宮本武蔵とかさ、どうやって生計をたててたのか。カネ以外の部分が大きかったと思うのですよ。例えば修行僧だったら、全国ネットワークの寺社の宿坊で無料で衣食住を提供して貰えたとか、その代わりに働くとか。そういうフレキシブルな関係というのをもっと広めたらいいんじゃないかしら。
これを応用すれば、例えば、一方で人手は欲しいが雇うカネがないところがあり、他方で失業してヒマはあるけどお金がないという人がいる。どっちもそのままでは不幸だとしたら、無料で(あるいは激安で)働いて貰うけど、その代わり衣食住は提供するというパターンもアリでしょう。オーストラリアの失業保険は日本と違って無期限に支給されるけど、そのための条件としてコミュニティサービスとかボランティア活動が義務づけられたりしますが、これなんか上手な方法だと思います。高齢化で介護の人手が必要になりますが、お年寄りの介護を一定無料でやると介護センターで無料で寝泊まりできるとかさ。あるところにいけば、取りあえずは衣食住も労働もあるという。で、そこでの居心地がムチャクチャ楽しかったら、別にそれでいいじゃんってことです。
中世的世界
(その2)でエネルギー危機や頭打ち感覚が時代を中世に向わせると書きましたが、中世になるならなるで、中世をエンジョイするっきゃないでしょう。中世というのは、人や物があんまり移動しない時代で、その村で生まれたら一生その村から出ないみたいな暮らしになったりします。強烈な中央集権になりにくく、群雄割拠になる。ものすごく地方自治が強い時代です。今、皆さんあんまり県境を越えないようになったと言いますが、これも一種の中世的な時代の気分なのかもしれません。
中世って、迷信深そうで、暗黒っぽくて、あんまりいいイメージは無いのですけど、でもよく考えてみたら、物語とロマンの世界でもあるわけです。白馬の王子様という童話の世界、あるいは日本昔ばなしの世界です。童話でもやたら王子様が登場すると思いませんか?お姫様とかさ、多すぎない?多分、群雄割拠で小国が乱立していたので、それだけ王子様も王女様も数が多かったのでしょうね。
何の話かというと、カルチャー的にもどんどん地方分権していくんじゃないかなってことです。政治的なこと、地方自治の権限とか道州制とかは政治に任せておいて、民衆レベルで、もっともっと強力にローカル色を打ち出してもいいような気がしますね。似たり寄ったりの都市計画じゃなくて、県庁所在地のJRの主要駅がなぜかワラ葺き屋根になってるとかさ、秋田弁のヒップホップとかさ。日本って、オーストラリアからみたら、信じられないくらいローカル色の差が激しいし、カルチャーの奥行きの深さはもの凄いモノがあります。せっかくあるんだったら、味わえばいいじゃんという。
それと前項の介護センターでのバーターボランティアみたいなのをミックスすれば、例えば、都会でワープアやってるくらいなら、日本全国北から南まで10年くらいかけて、数ヶ月づつ、いろんな施設に逗留して、日本のあれこれを学んでくる。それで取りあえず衣食住は満たされ、且つ日本全国のカルチャーをつぶさに体験できるし、お年寄りの話も沢山聞けて見聞が広まると。そういう人生だってアリじゃないですかね?
だからこんなのアイディア一つ、やり方一つだと思います。
幸福感度
要は、これらの構造や問題点をふまえ、幸福であることにもっと敏感で自覚的になっていったらいいということです。「それで幸福になれないんだったら意味がない」と。逆に言えば景気が悪かろうがそれで皆のハッピー度が上がったらOKであるくらいに。そしていい気分(幸福)になるオリジナルな方法を皆で独自に開発したり情報交換したり、一緒に遊んだりということを積極的にやったらいいんじゃないかってことです。資本主義って、さきほどの”前者”=物質的消極的幸福を実現するには良くできたシステムなのですが、後者(ココロ部分)に関してはそんなに性能が良くないと思います。
環境、資源問題は、70年代から40年間積み残してきた宿題をやるためのいいキッカケになるでしょう。ただし、環境問題を解決するにしても、その過程でみなの幸福度がUPするような形でやらないと、やっててシンドイと思います。我慢して節約するとかいってもストレスたまるだけですので、むしろ無いこと、不便なことを楽しむくらいの感じ。
なお、こんなことを考えたりするのも僕がオーストラリアに住んでいるからだと思います。先ほど書いたこと、あなたには冗談にしか聞こえないようなことが、こちらでは結構マジに、しかし自然に、実践されていたりするのですよ。さすがに「不幸超過」が破産要件になってるということはないけど、例えば、幸福であることは国民の義務くらいに思ってるフシがあることも、「人間が幸福であること」にかなり敏感であり、全ての基準がそこに置かれ、それで社会が廻ってるような部分も、また個々人のオリジナルで当意即妙な幸福開発能力も。
文責:田村