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今週の1枚(2010/08/23)




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Essay 477 : 「ボール探しゲーム」への転換   〜「そこそこ」ってどこ?(3)

 写真は、なにやらうらびれた小さな港湾。刑事ドラマの最後で犯人と撃ち合いをやらかしそうなココはどこでしょう?意外とシドニーの都心から近いです。ハーバーブリッジから直線距離で2.5キロくらい。正解はGreenwichの半島の先っぽ、BPの旧精油所の跡地です(Google Viewで見るとまだある)。今は遊歩道のある公園になってます。



 前々回から「そこそこでいい」というフレーズを起点にして考えを進めています。
 前回は人類数千年の歴史という大風呂敷を広げました。1970年代の冷戦構造が実質的に行き詰まってから、「これだ」という方向性を探しあぐねて「なんだかな」状態になってるのでは?という話をしました。80年代以降の新自由経済主義や市場原理主義も、とどのつまりは資本主義の先祖帰りであり、これといった決定打になっておらず、結果的に「おカネと保身」が時代の基本路線みたいになっちゃってて、これでいいのか?楽しいか?と。

 「そこそこでいい」という言葉の奥底には、「成長→豊か→幸福」という黄金のドグマに対する疑問や異議申立=それ60-70年代に萌芽し、現在まで連らなっている=が潜んでいるように思えます。何が「そこそこでいい」のか?その主語は何か?といえば「従来の成長路線は、そこそこで止めておいたらどうか」ということではないか。

 

環境&資源問題

 なぜ60-70年代からこのテの疑問が出てきたか。それは環境問題と資源問題が広く知られるようになったからだと思います。前回と重複しますが、この頃から公害や乱開発が新聞を賑わすようになりました。四日市ぜんそく、水俣病の被害実態や、おぞましいまでに堆積した東京湾のヘドロなどなど、ショッキングな映像が流れた。また、オイルショックが起き、それまでの「消費は美徳だ」という価値観が180度変わって「節約は美徳」と叫ばれ、「省エネ」という新しい日本語が出来たのもこの頃です。これらは人々に対し、成長することの醜さ、成長し続けることの難しさと危うさを示しました。

 これは日本だけの問題ではなく、世界的(少なくとも先進諸国)の潮流でもありましたし、規模を拡大しつつ現在に続いています。工場排水による一河川の汚染という局所的な問題から、広範なエリアの生態系破壊問題、さらには温室ガス効果による全地球規模での温暖化。また、オイルショック以降、化石燃料を主としたエネルギー資源枯渇問題は常に語られてきています。いずれにせよイケイケでやってていいの?という疑問を投げかける点では同じです。

石油は枯渇しない?

 ところで、石油は枯渇しないという意見も強いです。石油の埋蔵量というのは究極的には神のみぞ知るで、実際に我々が埋蔵量や「あと○○年」とか言っているのは、その時点での人類の技術によって探査できた埋蔵量です。昔っから「あと○○年」と言われ続け全然カウントダウンが始まらないのは、探査技術や採掘技術の進歩によって人類が新たに油田を発見しているからです。消費量も増えているけど、発見する量も増えている。だからあと数百年は大丈夫という説もある。もちろん悲観的な説も根強いですけど。

 そもそも石油ってどうやって出来るの?という部分でよく分かっていません。古代生物の遺骸から出来るという有機説が有力ですが、生物を起源とはせず、地学的な変成作用によって生じるという無機説もまた有力ですし、他にも説はあるようです。もし石油が今もなお自然に生成され続けているのであれば、理論的には無尽蔵であるという見方もあります。一応今の時点では「あと41年」と言われているようですが、その時々の技術やレポートによって変わります。

 だったら資源問題なんか無いじゃん、良かったあ!となりそうですが、そんなに話はシンプルではない。いくら新油田が発見されようとも採掘不能だったり、膨大な費用がかかったりしたら意味がないです。石油は無尽蔵にあるけど、ガソリンがリッター100万円になったら、それはもう無いも同じ。後で述べる地滑り的な社会変化を巻き起こすでしょう。石油に代わりうる新資源で、しかも日本近海に沢山あるという夢のようなメタンハイドレートも、現在の技術では採掘するのが困難すぎて全く採算が合わないといいます。

 それに加えて経済や政治のファクターが入ります。産油国の石油戦略は、技術の進展で世界中に油田が広がったのでいっときほどの影響力はないですが、その代わりグローバル化する政治や経済の影響を受けます。やれイラク戦争やサブプライム問題で高騰するとか、不況によって需要が低迷したら安くなったとか、景気が回復したらまた高くなったとか。このように資源問題というのは、そのときどきの科学技術、経済や政治情勢によって変わるので、ややこしいのですね。

 ただ、このまま人類が資源を消費していけば、自然生成量が消費量を上回らない限りいつかは尽きるというのは言えるでしょう。また採掘し易いところから取っていくので、後になるほど取りにくい場所が残り、採掘不能ないしコスト割れを起こす可能性がある。この数十年間、技術の進展でそれをクリアしつづけ、結果として石油は枯渇するんだかしないんだか微妙なところを進んでいますが、この種のリミット(枯渇)問題はついてまわるということです。

 この環境や資源問題は、単に「地球に優しく」というスローガン以上に、これまでの人類のパラダイムのアンチテーゼになります。
 これまでの人類の基本OSは、煎じ詰めれば金と暴力だったと思います。豊かな経済と強い軍事力。モノ・カネで解決するか、暴力でケリをつけるかです。この二大要素がグローバルな人類史を織りなしてきました。大航海時代に何故あんなに頑張ったのかといえば儲かるからであり、なんで他人の国を植民地に出来たかというと強大な軍事力があったからです。日本だって軍事的危機を感じだからこそ明治維新から日露戦争まで突き進み、さらに南方資源を得るために第二次大戦に突入した。戦後は経済成長と冷戦構造、それが終れば新自由主義経済の市場&マネーゲーム。どこまでいってもモノ・カネ・力です。

 ところが環境や資源というは、いくらカネがあっても、いくら喧嘩が強くても関係ないです。そーゆー問題ではない。ぜーんぜん関係のない次元にある。もちろん資源や環境が「悪化」しているというレベルだったら、より希少価値になった環境や資源の奪い合いという形でこれまで以上にカネや力がモノをいうでしょう。しかし希少どころか無くなってしまったらもうお手上げです。これまでのような発想ややり方ではダメってことです。

 もうちょい突っ込むと、植民地時代にせよグローバリゼーションにせよ、ゲームの基本はゼロサムでした。Aさんが増えればBさんが凹む。他人のモノの争奪戦であり、ゲームの本質は「競争」です。局地的には相互補完のWin-Win取引もあるし、技術革新によって物財そのものの総量が増えるということもありますが、でも大きな枠組みが国家単位の覇権争いや資本主義である限り、「他国よりも強く豊かに」とか「より良いモノをより安く提供する」というゲームに還元されます。「より」というのはライバルを前提にした「比較級」であり、それはすなわち「競争」原理です。物財やカネをより多く持ってる者がより幸福になれるから、物財というボールを追いかけ、奪い合いをするサッカーやラグビーみたいなものです。しかし、環境&資源問題というのは、ボールそのものが消滅するということです。ボールがなくなっちゃったら競争なんかしても意味がない。てか出来ない。

 だから環境問題というのは全然レベルの違う問題だと思います。皆で野球をしてたら、いきなり大地震が起きてグランドが破壊されたとか、飛んだボールがどっかに行っちゃって見つからなくなったようなものです。ゲーム続行不可能だから、全員総出でボール探しをしなきゃいけないという。環境・資源というグランドやボールの保護・復旧をやらねばならない。

 ということは、これまで慣れ親しんできた競争ゲームから「皆でボール探しをしようゲーム」へゲームの本質が変わっていくということでもあります。それはサッカーがラグビーになる程度の違いではなく、もっと根本的にサッカーやってたのがジグソーパズルをやるくらい大変化といっても言い過ぎではないと思います。大袈裟ですか?でも、原理が変わるんですよ。価値観も、求められるモノも変わる。野球をやってるときは、球が速いとかバッティングセンスがモノをいいますし、技術で相手を上回ることが至上命題でした。しかし、「ボール探し」になったらバッティングセンスなんか役に立たない。フォークの切れ味が良くても意味がない。そもそも相手を上回る必要さえない。だから「競争」の原理ではなく「協調」の原理に価値シフトするでしょう。敵も味方も一緒になって探す。

 でも、そんな大変化が一夜にして生じるわけがない。だから過渡期の混迷が生じる。

過渡期の混迷

 環境保護が人類のコンセンサスになったとしても、だからといっていきなり新世界秩序が出来るわけもない。取りあえずは各国の代表が集まって議論し、京都プロトコルのように国家単位で努力目標を決めて、条約のように合意し、各国内であれこれ知恵をしぼって実行していってます。経済的にもこれまでの枠組みの中で、温暖ガス取引税とかエコポイントとか、ガス排出権が独自の金融商品として世界的に投機売買されるとか、そういう話もあります。また省エネの新技術を開発するなり、画期的な代替エネルギーを模索するという方向性もあります。

 これらは全て現状の枠組みで処理しようというものです。国家という単位で動き、資本主義経済のフレームで処理し、従来通りの技術革新でクリアしようとする。それはそれで間違ってないでしょう。なんせそれが現在の我々のシステムであり、手持ちの駒なのですから、フル活用して頑張っていくのは正しいでしょう。

 ただし、それだけでは足りないように思います。いくら頑張っても先進諸国の人々が現在の生活水準を極端に下げることはリアルに考えれば難しいだろうし、BRICSをはじめとする新興国家団(数ではこっちの方が圧倒的に多い)は、今が楽しい盛りですから、イケイケムードで突き進むでしょう。だからもっと根本的に「ボール探しの時代」に適合した新しい価値観や生き方を開発しなければならない。と同時に、新旧価値観の転換点においては多大な混乱も予想されます。

一過性のものか 

 まず気になるのは、この資源環境問題が一過性のものか、それとも決定的なものかです。これまでのゲームを一時中断して全員でボール探しをやっていて、ボールが見つかったらまたゲーム再開になるのか。それとも、もうボールは無いという前提で新しい方向に移行していくのか。各国が一時的に協調してこの環境資源危機に取り組み、それがクリアしたら又競争ゲームを再開するのか、それとも新しい人類の歴史に進んでいくのか。

 これ、今の時点では何とも言えないですし、22世紀くらいまでは分からんのかもしれない。一部の論者が言ってるように、温暖化は太陽黒点その他の周期変動に過ぎず、炭酸ガスは関係ないという楽観論もあるし、逆に既に頑張ってどうにかなる地点は越え、破滅しかありえないという悲観論もある。エネルギー問題も、上述のように石油など資源枯渇の危機が付いたり消えたりしてよう分からないし、あるいはいっとき持て囃された常温核融合みたいな革命的なエネルギー打開策が出てくるかもしれない。

 結局ところ「よう分からん」のですね。1000年スパンで見れば人類というのはいつかどっかでクァンタムリープ(大飛躍)はやらかすでしょうが、100年程度のスパンだと分からない。だとすれば、和戦両様の構えというか、一過性 or 永続的、いずれの場合にも備えておかねばならないでしょう。しかし、こーれが難しいわ、分かりにくいわ、、、

分かりにくさ、腹の括りにくさ

 「あるかもしれないし、ないかもしれない」というのは腹が括りにくいです。絶対ダメというのが確定したら=極端な話、あと10年で石油はほぼ枯渇し、温暖化によって東京の半分は水没するというのが絶対確定!ということになれば、腹の括りようもあります。石油ゼロ時代に対応して電力は殆どが原子力にせざるを得ないし、輸送が抜本的に変わるし、石油化学製品(プラスチック、化繊、洗剤など身の回りの多くのモノ)も無くなる。列島面積も大分減るし、人やモノの移動が難しくなれば一極集中など愚の骨頂にもなろうし、「都市」という存在それ自体が旧体制の遺物になるかもしれない。もう何から何まで変わるでしょう。大騒ぎになります。

 しかし、そんな大変化が本当に起きるのか?というと、なんかニワカには信じられない。上の例は極端にしても、どの程度の変化がどの程度の確度で生じるかがわからない。またそれが大変化であればあるほど逆に現実的にピンとこない。だから結果的に対応が遅れるということもあるでしょうし、あまりにも変化が激しすぎると、「ほんとかな」「なかったらいいな」「ないかもしれない」「ないよね、多分」みたいなノリにもなるでしょう。

 付言すれば、現在の世界を牛耳っているのは、現在の体制における勝者であり強者です。産油国であったり、金融経済のてっぺんに立ってる連中だったり、軍産複合体だったりするわけです。時代が変われば彼らのアドバンテージも崩壊するわけですから、必死になって逆プロパガンダ(温暖化なんか嘘っぱちだキャンペーンとか)をカマしたりもするでしょう(お金持ってるし)。そういえばオーストラリアでラッド元首相が資源税をかけようとして敗退し、退陣に追い込まれたのも、オーストラリアの資源会社が潤沢な資金力で反対広告を出しまくって世論を誘導したからだと言われています。今日の強者は明日の弱者になるとしても、強者が「はいそうですか」と言うわけもなく、抵抗するでしょう。そういえば現代最強であるアメリカだけが頑として京都議定書の批准を拒んでいますが、これも象徴的ですよね。

逆に振れる

 もう一点、破壊だ枯渇だといってもある日突然ゼロになるわけではないから、だんだん乏しくなっていくという漸減過程をたどるでしょう。ということは、先ほどちょっと書いたように、奪い合いが激しくなるということです。熾烈きわまる超競争社会になる。経済が崩壊し、失業率50%だ、食糧自給50%だということになれば、勝って勝って勝ちまくらないと生き残れないことになる。

 時代の大きな流れは競争→協調へという原理シフトを示しているにもかかわらず、その過渡期においては逆に激しい競争時代になるという、皮肉というか、ものすごい大矛盾があります。日々の生活においては壮絶なバトルを展開しつつ、「皆で仲良くやろうね」なんてやってられのるか?という。

 A→Bに徐々に変化する場合、普通に考えたらAがだんだん減ってきてその分Bが増えてくるという、なだらかなグラデーションを描きそうなものですが、必ずしもそうはならない。むしろBに近づくほどAの濃度が高くなるという妙な現象があるように思います。例えば、僕の身近なところでは、語学や国際性を獲得したくて海外生活を始めるような場合です。自分の中の日本濃度をなだらかに下げ、海外濃度をあげていけばいいんだけど、これが案外と難しかったりします。むしろ周囲の非日本的な環境に逆触発されちゃって、日本的なものにしがみつく。海外に出ると誰でも愛国的になるってやつです。日本にいるときはハンバーガーとかパスタばっかり食べてたくせに、海外に来ると日本食、それも里芋の煮付けや切り干し大根など地味な日本食がえらく恋しくなったりします。あるいは、やたら日本人同士とつるんでみたり。同じように、どこの国でもグローバルな流れが激しくなればなるほど、逆にナショナリスティックな動きが強くなったりもします。

 話を戻せば、公害や環境保護に目覚め、成長神話が崩れ、物質的豊かさよりも心の豊かさが叫ばれ、さらに地球環境などで時代は競争から協調・共生へと流れている。みな、頭では分かるし、口ではそういうのだけど、じゃあそーゆーライフスタイルになっているかというと意外とそうでもない。むしろ経済がジリ貧になるほどにお金や物質的なものにしがみついたりするし、心が豊かになるどころか逆に鬱病が蔓延したりもする。逆に振れているという。

 このあたり書きだしたらなんぼでも書けますが、ともあれここでは、よう分らないので腹が括りにくく、右往左往するし、逆風も吹くだろうということ、またいよいよ変化するとなったら、その過渡期で思いっきり逆に振れる(協調しなきゃいけないときに大競争になる)という矛盾があることを指摘するに留めておきます。

 あー、今回で終らそうとして全部書いたのですが、この倍くらいの分量になっちゃったのでここで切ります。



文責:田村






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