「最近の若者の安定志向」なんたらかんたら
「そこそこでいい」というフレーズを最近よく目にします。
最近の日本の若者は、安定志向で冒険心が乏しく、多くを望まない、、、とかいう文脈で語られる一連の風潮です。リアルタイムの日本人なら大体何となくお分かりかと思いますが、いくつかピックアップしてみると、、、
例えば、住み慣れた地元から離れたくないとか、入試に血道にあげたくもないから難関大学の志望者がむしろ減ってきているとか、無理に頑張って自分探しとかしなくていいとか。免許取るのが面倒臭いからクルマも買わない、練習がかったるいからスポーツもやらない。語学もしんどいからやらないし、旅行やレジャーも海外ではなく近場の温泉で十分。口説いて、セックスして、アフターケアして、、が大変だから彼女も作らないとか、草食男子がどうしたとか。
最近の調査では、新入社員の意識では「定年まで勤めたい」「実力主義よりは年功主義がいい」という回答が50%を越え、過去10年余で最高値になったとか。暮らし向きについても、別に貧乏だっていいじゃん、ユニクロ着てコンビニ弁当食べて、そこそこ暮らしていければいいじゃん、と。
総じて言えば、あまりアドレナリンが分泌されていない穏和でまったりした感じですね。で、そのアドレナリンの少なさを否定するのではなく、むしろ肯定的に捉え、「まあ、そんな必死にならんでも、、」という肩の力を抜いた感じなのでしょうか。「そこそこでいいんじゃない?」という快適な脱力感と現状肯定感覚。
ところで、今回はこういった世相風潮をメインディッシュにするつもりはありません。上のピックアップ事項に、イチイチ出典を明示しなかったのはあくまで話の前振りに過ぎないからです。メインに据えないのは、この「お題」がムチャクチャでかいからです。もう直径1キロの球体くらい巨大で、こんなものに真正面から取り組んだら収拾が付かなくなりそうで、そこが恐い。
「そうかあ、そんなにデカいか?」と思われる方もいるでしょうから、一例を挙げます。
多くの論調は、「日本の」「最近の」「若者」「男性」を意識 or 無意識的に念頭に置いているようですが、まずその出発点からして僕は疑問です。「最近」だって、具体的にいつから「最近」になるのか?これはメインテーマに絡むので後で述べるつもりですが、私見としては1970年代からそうなってるんじゃないかと。また日本だけがそうなってるのかというと必ずしもそうでもなく、先進国はどこも同じで、こんなものはポスト産業主義の一種の通過儀礼じゃないかとか(イギリスだって80年代に「英国病」というまったり時代があった)。「若者」という点についても、実は一番まったりしているのは、むしろ年長者や指導層ではないかという見方もありえます。世界史的視点や、戦前・戦後の日本の政財界の荒っぽさ=政治家や財界人は暗殺されるのも仕事のうちとか(2.26事件とか)、国会でマジで取っ組み合いの喧嘩やってた頃に比べれば、今そこまで命がけで切った張ったをやってるのか?と。一方、「努力なんてダサい」という風潮は、金ピカの80年代こそが最盛期で、今以上に声高に語られていたわけです。このように議論のしょっぱなから異論続出になり、進むにつれて無数に細胞分裂していきそうです。
これって本当にいろんなレベル、いろんな視点でモノが言えるテーマなのですね。ゆとり教育のせいだという人もいようし、経済的なグローバル構造の問題だとか、高齢化だとか、消費社会が限界を迎えたからだとか、デフレ閉塞社会の精神的影響だとか、管理社会が行き着くところまでいってしまったからだとか、いやそれは因果関係が逆だとか、いやニワトリタマゴだとか、、本当にキリがない。このあたりが自然科学と違う社会科学の難しさですね。各自が好きな局面を切り取って、好きな角度から、好きな深さで議論できる。それだけに取っつきやすく、誰でも参加出来るのですが、全体的に統合しようと思うと全然噛み合わなくなり、整理してて発狂しそうになるという。
だもんで、今回はテーマをしぼって、「そこそこ」って何だろう?という点です。
「そこそこでいい」という言葉の持つネガとポジ、その思想的背景や世界史的な潮流、、、うわあ、こう書くとえらくご大層な感じで、本当に自分に書けるんだろうか不安になりますけど、まあ、いってみましょ。
「そこそこ」の語義
「そこそこ」という言葉は色々な場面で使われます。@「せいぜい1万円そこそこ」、A「挨拶もそこそこに本題を切り出した」、B「そこそこマトモな会社に入って」とか。
@の場合=「歩いても10分そこそこで着くよ」という言い回しは、10分「程度」「前後」「内外」という数値の大まかな範囲を意味する言葉です。辞書によれば「それに達するか、達しないかの程度」。英語でいえば"around"、「アラフォー」の「アラ」。なお、辞書には書かれてなかったのですが、僕が思うに、「身長160センチそこそこ」「30歳そこそこで部長になった」など、その数値の低さ・小ささを強調する場合によく使われるような気がします。
余談ですけど、このように日本語の意味を執拗に考えちゃうのは、オーストラリアに来たばかりの頃にやっていたエクスチェンジ(地元のオージー達と日本語と英語の無料の教えあいっこ)の名残です。外人さんに日本語をちゃんと説明するのは難しいですよ。「ああ、そう言い切ってしまうと違うか、、うーん、、」と頭を抱えてしまいます。
Aの場合=「食事もそこそこに出かけた」は、前の行為が十分に完了していないのに、すぐに次の行為に移ることを意味します。
今回問題になる「そこそこ」はBです。「そこそこな暮らし」とか、「そこそこ見栄えの良い」とかいう場合の「そこそこ」。辞書によれば「十分ではないが一応のレベルにある」「辛うじて基準に達するか達しないかの程度」、英語でいえば"not so superb but still acceptable"(そんなにメチャクチャ凄くはないけど、まあまあ許せるくらい)という感じでしょう。「まあまあ」「ほどほど」「ボチボチ」。
いずれにも共通するのは、「不十分」や「微妙」というニュアンスです。基準に達してるか、十分であるかどうか、完全であるかどうか、合否ラインすれすれで微妙なところに留まるという。Bでは、とりあえずいいセンまでいけてるのだから良しとすべし、「まあ満足すべき」という積極的な意味もあるけど、これにしたって妥協的なニュアンスはしっかりあります。少なくとも「余裕でクリア」「完全に満ち足りた」というニュアンスはない。ギリギリか、まあ妥協すべきか、という。
語義をチマチマほじくり返して、さぞや退屈に思われるでしょうが、これが後半の伏線になります。
ポジティブな「そこそこ」 中庸思想と謙抑主義
「そこそこ」という言葉には、ポジティブとネガティブの二つの顔があります。
まずポジですが、一言でいえば「足るを知る」という良い意味での現状肯定です。子曰わく「過ぎたるは及ばざるがごとし」という、中庸の教えですね。過激に走ってはダメ、エクストリームはダメよ、なにごとも「ほどほど」が肝要であるぞよ、という。
この発想は孔子の儒教にも、そして釈迦の仏教にも出てきたと思います。お釈迦様も、非人間的で過激な修行をするバラモン僧達を見て、「あんなにやらなアカンのか?」「意味あんのか?」と疑問になり、真理は真ん中にあると悟られたとか。
さまざまの宗教や哲学で、中庸、中道、中締、などという言葉で語られているこの「中」感覚。しかし、この「中」という概念はかーなり難しく、奥がマリアナ海溝ほど深くいようです。単に「足して二で割る」「50対50」という数値的な半値でもないし、ましてや「中途半端」な「中」でもない。この森羅万象のど真ん中、中心という意味での「中」なのでしょう。しかし、愚者はついつい中途半端の「中」を取り、賢者はド真ん中の「中」を喝破するのでしょうが、僕ら凡人は前者に陥りそうです。
難しいことはさておき、ここでは、過去の偉大な哲人達も「極端に走って良いことはないぞよ」と言っていたらしい、という点に留めておきます。
その「極端に走る」ですが、てっぺんや頂上を目指すイケイケ感覚ですね。宮本武蔵のように天下無双でありたい、俺が一番でないと気が済まないというアドレナリン全開の感覚です。「そこそこ」の対極にある、ガムシャラ、必死、猛烈、バリバリ、ギラギラした感覚。
これが行きすぎてエクストリームになると、昔から「亡者」「餓鬼」と言われて戒められていました。病人の布団をはいで持って行く高利貸しに対して「銭の亡者」と罵声を投げつけ、あらゆる汚い手段を使って階段を駆け上がっていく人を「権力の亡者」と呼んで忌み嫌う。食っても食っても満ち足りない無間地獄を「餓鬼道」という。人間の強欲には限りがなく、100を得たら200欲しくなり、200を得たら400欲しくなる。その欲に突き動かされ、人の道を外れ、互いに殺し合うさまを修羅道という。
「そこそこでいい」=「足るを知る」というのは、人間の際限のない強欲さを戒めるアンチテーゼ、強力なストッパーとして語られてきました。
そう、「そこそこでいい」というのは、適正な抑制原理です。野放図なケダモノ的欲望をつないでおく鋼鉄の鎖のようなもの。知性と悟性の上に語られるこの謙抑主義は、人類の文化の本質的部分ですらあります。ムカつく奴がいたらブッ殺せばいい、腹が減ったら他人のモノでも奪って食えばいい、女が欲しければ力づくで犯せばいい。こういった人間の獣欲に対する強力な統制システムとして、戒律や宗教があり、国家や警察があり、法律が作られた。これらの統制システムの本質はクサリでありブレーキです。スローガンは「そこそこにしておけ」。十分に老後の蓄えもあるのに遺産分割で尚も主張してみたり、幸福な結婚をしていても浮気に走ったり、「得ても得ても尚も欲しがる」のは僕ら人間の本性であり、だからこそ「ほどほどにしておけ」という抑制ブレーキは、常に僕らの耳元で語られる必要があるのでしょう。
以上、無間地獄に堕ちかねない僕らの強欲さを戒める意味での「そこそこ」は、数千年にも及ぶ人類の叡智に照らして正しいし、純正ポジティブな意味をもつでしょう。
ネガティブ「そこそこ」 人間臭くない生理的な気持ち悪さ
上で見たような人倫の正しいありかたとしての「そこそこでいい」が社会に浸透しているのだったら、「日本も立派になったものだ」という歓呼の声が街にコダマしているでしょうが、あんまりそんな感じではない。
「別にそんな汗水垂らして必死にならなくなって、そこそこでいいじゃん」という物言い、「別に〜でいいじゃん」構文には、正直言って妙にカンに触る部分があり、それが吹っ切れないモヤモヤとして春の霞のようにたなびいていたりします。だからこそ、やれ安定志向とか、覇気がないとか、ひきこもり傾向だとか、ややもすると批判的に取り沙汰されるのでしょう。
立派な中庸思想であるはずの「そこそこ」が、なぜにこうもカンに触るのか?といえば、僕が思うに「気持ち悪いから」だと思います。何となく人間として、あるいは生き物として不完全な感じがして、それが生理的に気持ちが悪いという。
妙にお行儀が良い幼児とか、なんか不気味じゃないですか?いや「よい子」なんだろうけどさ、でも「よい子」って本質的に嘘臭くないですか。本当かよ?って。異様に品行方正な人とか、異常なまでにキチンと整理整頓されている男の部屋とか、なんか冷んやりした不気味さを感じませんか?子供は多少ゴンタ(関西弁でいう腕白)くらいの方が良いというか、それはそれで目の前にいたらムカつくんだろうけど、不気味さはない。部屋も「あーあ」とため息が出るくらいとっ散らかっていてくれた方が、汚くてイヤなんだけど、不気味ではない。この感覚を凝縮していくと、結局のところ、人間臭いかどうかです。「そこそこで〜」なんて言ってる人って、どこかしら人間臭さがなく、その分嘘っぽく、不気味な感じがする。そこに生理的な違和感が生じる。
大体ですね、数千年の長きにわたって、「足るを知れ!」という中庸思想がお説教のように相も変わらず繰り返されてきたのは何故か?というと、人間というのは、もともと足るを知らない生き物だからでしょう。セコい欲にかられて、いつも愚行を繰り返しているお馬鹿な生き物であると。不完全で愚かであることが人間らしさ、人間臭さでもある。だから、「そこそこでいい」なんて悟り澄ました顔で言ってられると、逆説的な意味で「人間」としてのリアリティに欠けるという。
友達なんかでも、その人のプラス面(思いやりがあるとか、優秀であるとか)だけではなく、「バカだから」というマイナス面も好きではないですか?オッチョコチョイであるとか、ドジであるとか。旅費が足りないから、「よーし、倍にしてやる」とパチンコ屋に出かけて結局全部スッたという友人のエピソードを聞いて腹を抱えて笑ったりするけど、でもその笑いは温かいです。僕らは人間のダメでお馬鹿な部分も又好きなんだと思います。少なくとも僕は嫌いじゃないよ。度が過ぎたらムカつくけど。
だから、ニコニコ穏和に笑いながら「人生、足るを知れ、ですよ。そこそこでいいんですよ」と言ってられると、それも若いときにさんざん極道してきた人が老境に達してそう言うならともかく、まだ始まってすらいないような若年者に言われると、根性の曲がった「リアルな人間」としての僕の耳には嘘臭く響くのですね。「本気でそう思ってんの?」と。
なんか無理してないか?その涼しい顔の下には、実はドス黒い怨念が抑圧されてるんじゃないか?と。仕事柄、やれ遺産分けだ、離婚だ、倒産だ、犯罪だと人間の怨恨、憎悪、愛情のスープを毎日のように飲んでいた身としては、一個の人間の感情エネルギーの巨大さについては身に染みてます。虫も殺さぬような可憐な奥様が、自宅の風呂場で返り血を浴びながら、ダンナの死体をノコギリで切断してたりするわけですよ。そういう事件あるでしょ。
あのー、大袈裟に言ってるように思われるかもしれないけど、ほんと人間の情念って凄いんだって。外面的な体格や腕力の差や、能力の差に比べて、内面である精神パワーの差というのはそんなに個体差が無いと思います。だからあなたからみて取るに足らないザコキャラのような人だって、内面の感情パワーはプロレスラーや相撲取りと変わらないのだ。だからこそ、時々、地味で影が薄い人がびっくりするような大犯罪に至るでしょ?いきなり銃を乱射して何十人も殺したり、通り魔的に通行人を何人も殺傷したり、何年にもわたってストーキングを続けたり。「あれは犯罪者だから特別」なんてのは大嘘で、生来的な犯罪者はもっと子供の頃からハデに悪いことやってます。犯罪者の圧倒的大多数は僕らと同じ人間だし、それは自分が何かの過ちを犯してみたらわかります。ということで、「よくそんなことが出来るな」と絶句するようなことをやらせてしまうのが人間の情念パワーであり、それは核融合並に強力です。
だもんだから、そのドロドロ情念を、スッキリ爽やか完全に解毒できたりするもんかい?という疑問があるのですよ。
「そこそこ」と言ってる底になんか不健康な屈折があるような。いや、屈折は誰にでもあるし、屈折こそがその人の個性だとすら思うから屈折そのものはいいんです。むしろその屈折が「ない」かのような部分が不健康に感じるんだわ。ものすごい抑圧がキツくて無意識の下の方に折り畳んでいるのか、初期の鬱病患者のように感動(情念や欲望)が乏しくなっているのか、いずれにせよあんまり健康な感じがしないのですよ。それが時として目を背けたくなるような奇怪さ(骨折して指が一本だけ変な方向に飛び出てるような)として感じられるという。
「そこそこ」の嘘と誤解
本来、「そこそこでいい」というのは、勝者&強者が吐く余裕の発言だと思います。勝者の嘯(うそぶ)き。
やろうと思えば幾らでも豊かに、ゴージャスになれるんだけど、そこまでの必要性を感じないから敢えて二級品レベルに留めておくような場合。例えば、富裕なエグテクティブが出張先のホテル予約を秘書に依頼するようなときに、「どうせ夜中まで接待だろうし、寝に帰るだけだろうから、宿のグレードはそこそこでいいよ」というような感じです。
先にチマチマ語義分析をしたように、「そこそこ」という言葉には、「理想の状態ではない」「最高ランクよりは落ちる」というB級感覚、妥協感覚がニュアンスとして含まれています。したがって「そこそこでいい」というのは、「敢えて二流で良い」「ベストじゃなくてもいい」と言っている「妥協宣言」であり、それ相応の理由がなければ人間ちゅーのはそんなセリフを吐かんでしょう。
それ相応の理由を伴う「そこそこでいい」というのは、意訳をすれば、「取るに足らない些細な事柄であるからどーでもいい」ということでしょう。That's not the point, not a main issue. これはありますよ。沢山あると思う。全然乗り気ではない宴席の幹事を義理でやらされて、参加者への引き出物は何にしましょう?とか聞かれても、情熱が湧かないから、「なんでもええわ」と。でもあまりにもいい加減なのはさすがに問題なので、一応世間体が取り繕える程度のものであれば何でも良いと。つまり「そこそこでいい」と。こんな感じの使われ方が本道の筈。
だとしたら、自分の就職とか、給与とか、配偶者など人生の重要な骨格部分について「そこそこでいい」と言い放ってる人がいたとしたら、これはかーなり大胆不敵な発言だと言うべきでしょう。それすらも枝葉末節な、どーでもいい事に過ぎないと断じてしてしまうわけだから、他によっぽど凄いテーマを抱えているんだろうなと。錬金術にとりつかれたマッドサイエンティストとか、全てを捨てて復讐を誓った男とか、かなり凄まじいことになってるんだろうなと。ところがそんなモノもないのに「そこそこ〜」とか言われると、自分なんか二級品でいいって言ってるに等しい投げやりな印象があります。
で、本当かよ?って疑問が湧きますよね。本気でそんなこと言ってるのか?と。
嘘でしょう。自分自身が「そこそこ」でいいわけ無いじゃん。
以下、「そこそこ」使用例の嘘というか、誤用というか、誤解みたいなものを幾つか指摘しておきます。
嘘のその1は、本来持てる者が吐く「そこそこ」を、持たざる者が吐くという僭越な嘘。「そこそこでいい」どころか、そこそこレベルすらも危うい人が、「そこそこでいい」と言い放つことによって、あたかも自分自身を大きく見せようとしている虚栄。ま、見栄ですよね。イソップ物語の「酸っぱいブドウ」パターン。
もし本気で「そこそこでいい」「多くは望まない」というポリシーを貫くなら、たわむれで買ったロットが当って100億円入ってくることになっても、「私の人生には過分のものです」と辞退したり、寄付したりする筈。また超絶的な美男美女から告白されても「悪いけど」と辞退するはず。その気になったらいとも簡単に手に入るとなったら話は別じゃないですか?結局多くを望んでるんじゃないですか?多ければ多いほど良いと思ってるんじゃないですか?それでも尚「そこそこ」を貫いてこそのホンモノの「そこそこ」道であり、真の「足るを知る」です。
これは嘘その2に連なり、「やらないための言い訳/予防線」というのが考えられます。
「戦わなければ負けはない」「チャレンジしなければ失敗しない」というヘタレの正当化ですね。やれ英語なんか勉強してもどうせネイティブにはかないっこないからやるだけ無駄とか、しょせん三流大学だからいくら就活しても無駄とか、だから「そこそこでいいのさ」と。まあ、この種の言い訳なんか無限に考えつけるものだけど、戦ってボコられたり、失敗して恥ずかしい思いをするのが恐いチキンハートの人の誤魔化しでしょう。こういう言い方のほうが、一見ネガティブクールに見えてカッコ良さげだったりもするのだけど、それって中坊レベルのしょんべんニヒリズムでしょ。しょせんは中坊レベルだから、誰からも見抜かれてしまう。カッコつけようとして、逆に最悪にカッコ悪くなってしまうという、よくあるパターンですね。
でも、まあ、気持ちはわからんでもない。誰だって、失敗したりボコられたら惨めだし、恥ずかしい思いはするだろうけど、でもそれは断じて「恥」ではないですよ。「恥ずかしいこと」と「恥」とは違う。車内でからまれている女の子を助けようとして、逆に叩きのめされたら、そりゃ恥ずかしいでしょうけど、やってることは全然恥じゃない。見て見ぬふりをすることが恥なのでしょ。
嘘その3は、本当にそれで良いと心から思っているのならば、人は「そこそこ」という妥協的表現はしないです。
客観的にはショボく見えようとも、本人にとってはそれがベストであるという確信があるのならば、それは決して「そこそこ」ではない。「最高」である。例えば、年収数千万で将来も嘱望されていたビジネスマンが、ふと我に帰って、家族との時間や自分の人生を奪回するために敢えて年収激減の田舎に引っ越したような場合。彼はそれを「そこそこ」だとは思っていない。むしろ理想の生活だと思っているでしょう。ただし、自分の価値観が社会一般と違うので、謙遜と通訳の意味を兼ねて、「そこそこでいいんです」と言うことはあるでしょう。でも、その場合は「それよりもっと大事なことがある」という確固たる信念が続いて語られるでしょうし。年収やステイタスを枝葉末節として断じられるだけの信念と実績が明らかに窺われるような場合です。結局のところ、この場合もまた前述のように「勝者の嘯き」としての「そこそこ」です。
嘘のその4、これは「誤解その1」と言うべきかもしれないが、「そこそこなんかじゃ満足できない」とチャレンジしていく連中は、競争社会に侵された哀れな中毒患者というわけではなく、その行動原理は単純に「楽しいから」という快楽原則に従っていること。
例えば、富士山に9合目まで上って、まだまだ時間も余力を十分に残っていたら、どうせだったら頂上まで登ってみたいと思うのは自然な人情でしょう。別に頂上まで登ったからといってお金が貰えるわけでもないし、誰からも褒められるワケでもないけど、やっぱりそこには達成感という快感がある。そこを「そこそこでいい」として下山するのは釈然としない。ジクソーパズルで、あと1ピースで完成というところまできたら、やっぱり完成させて「やった!」と感慨に浸りたいでしょう。
要は快楽原則に従って、楽しくムキになってるだけのことで、立派だとかエラいからやってるわけではない(そういう言い方をする人は多いけど)。高度成長時代のモーレツ社員も根っこの所では「楽しいから」やってただけです。イケイケというのは、とりあえず分かりやすく楽しいものであり、「そこそこ」というのは本質的に詰まんないものだと思う。だから「そこそこでいい」というのは、楽しくなくてもいいと言ってるようなもの、この快感=それは身体中の血が酸っぱくなるような、ときとして脳味噌がとろけそうになるような生理的な快感=を大きくミスっているのではないか、もしかしたら本当に楽しいことを知らないだけなんじゃないの?という疑問もあります。
嘘その5、これも誤解その2かもしれないが、「そこそこでいい」なんて余裕ぶっこいていられるのも、これまで蓄積してきた日本の貯金と幸運が尽きるまでの話であること。
昨今話題になっている日本国債暴落の真否は別として、どう考えても年収の十数倍の借金(国債残高)を抱えている今の日本財政は健全と言うにはほど遠い。また日本経済の実力も、単に不況というに留まらず、未だに20年前の株価レベルに回復どころか4分の1あたりをフラフラしている状況。にも関わらず日本の国力に応じた円暴落が起きていない。これらは(メカニズムはともかく)現象面としては不自然な事態が続いているわけで、裏を返せば、いつ何が起きても不思議ではないということです。
加えて日本が今日の生活水準になれたのも、国民の勤勉さの他に、今をときめくBRICsなどライバル達が冷戦や内乱で忙殺されて欠場していたというライバル不在のラッキーが大きい。多くの歴史の偶然と幸運に支えられてこその現在の「そこそこ」であり、前提条件が変わる将来においてはこの限りにアラズ。今までと同じような努力量で同じようなリターンがあるとは限らない。今でも日本のGDPは世界2−3位だけど、国民一人当たりのGDPになると転落の一途を辿り、17位とか23位とか落ちています。絶対値そのものは実は90年代以降も伸び続けているのですが、世界はもっと伸びているから相対的に落ちている。
ネットで世界の実質経済成長率ランキングというのを見つけたのですが、2009年度の成長率だけでいえば何と日本は世界159位。まあ心配せずとも、リーマンショック直後の統計だから、先進諸国は軒並み日本レベルに沈んでます。それよりも、BRICsという第二集団のあとには、100カ国を越える巨大な後続集団が追いかけてきているという現実にゾッとしました。その中では、あの中国ですら6位であり、エチオピア、アゼルバイジャン、カタールなど何処にあるのかよう分らんような国々に成長率では負けている。世界経済危機の年でありながらも成長率5%以上の国が20カ国を越えるというのが世界の現実。
結果における「そこそこ」レベルを維持しようと思ったら、行為においては死に物狂いの努力が必要で、実はこれまでもそうでした。高度成長期の日本人の合い言葉は「人並みになりたい」であり、到達点こそ今の「そこそこ」は似ていますが、出発点が下なので上昇志向の鬼になって崖をよじ登るようにして達するのが「そこそこ」でした。その結果、勢い余って国富が蓄積されてバブルを生んだわけだけど、バブル崩壊後は貯金の食い潰しでしょう。国力というのは経済力だけではなく、識字率とか、治安とか種々の要素のミックスであり、その意味では日本はまだまだ大国だけど、それにしたって伸びてはいない。学力、文化力、先行投資、いずれもお寒い。他が伸びまくっている以上、これでは貯金の食い潰しであり、それが食い潰しである以上、いつかは尽きる。
「ネオそこそこ」への転章
あれこれ「そこそこ」のネガティブ面を書いてきましたが、誤解して欲しくないのは、別にバッシングすることが目的ではないことです。
なぜなら-----
@、本当に「そこそこでいい」なんて言ってる人がどれだけいるのか、実際の所は不明。時代のムードとしてはそれらしきものはあるかもしれないけど、本当のところはどうなのかは分からない。また本稿においては、「本当のところ」など実はどうでも良くて、「そこそこ」という不思議なマジックワードをこねくり回すところにある。
A、もし目の前に「そこそこでいい」と言う人がいても、その人がどのような思惑でそういう発言に至っているのかは分からない。必ずしも上記のネガティブパターンに則っているとは限らないし、僕自身その種の物言いをすることは良くある。
A的に見れば「そこそこ」であることが、B的に見れば極めてチャレンジングだったりすることは良くある。自分自身、弁護士として独立開業をして、さあこれからというときに、何のアテもなくポーンとオーストラリアにやってきている。ステイタスや収入等については「そこそこ」どころか全くのゼロになったし、現在の仕事にしても事業拡大欲など殆ど無いわけで、いわば「そこそこ」派の元祖を名乗ってもいいくらいである。しかしながら、同時に「外国で行き倒れても本望」くらいのクレイジーなワクワク感に取り憑かれてきたわけだから、「そこそこ」派の対極であるイケイケ派の権化であるといっても良い。要するにああも言えるし、こうも言えるのだ。他人に貼るレッテルは一枚では足りない。しかし、二枚以上貼った時点でそのレッテルは意味を失うのだ。
という諸点の他、もっと重要なポイントとしては、
B、これから未来にかけては、自覚的に「そこそこ」であろうとすることがむしろ望ましいこと。それも日本だけではなく、世界レベルでそうあるべきこと。しかし、それは脱力的な「そこそこ」ではなく、エネルギッシュで攻撃的な「そこそこ」であり、いわば「ネオそこそこ」とでもいうべきものであること。
という点があります。
ということで、Bについてこそが本論になり、目指すべき新しい「そこそこ」というのは一体「どこ」なのかと、引っ張りながら次回。
文責:田村