タスマニア3000キロ爆走日記(その3)
【12月28日(木)】
ブリットポートとケープ(岬)巡り
泊まったリゾート風ホテル
絶好の海岸沿いドライブ日和。
ガソリンのキャップを紛失していたことに気付き、給油したガソリンスタンド巡りをするが見つからず。海岸線を一路西へ向かい、まず
テーブル・ケープ
(断崖の岬)を見る。これはかなり絶景。
この日の宿は、
ボートハーバービーチ(BOAT HARBOUR BEACH)
の、ボート・ハーバー・ビーチ・リゾート(そのまんまの名だ)。
チェックインの後、さらに西進し、まず
ケープ・ナッツ
を見る。ここではチェア・リフトがあって有料。帰りは歩いて下る。そのままスミストン経由で田舎道を走って植物園へ。帰路も田舎の裏道を走り、
ロッキー・ケープ
に立ち寄る。既に夕刻になっていたせいか、入場料徴収をされることもなく8ドル得する。
この日は都合3か所のケープ(岬)を見たことになるが、いずれも趣が違うしどれも素晴らしい。ずっと平らな海岸線に、そこだけポコンと盛り上がっており、遠くから見ると奇観。わざわざ景観のために作ったかのような。
ケープナッツ。海がメチャ奇麗。
後日注:シドニーのノースヘッドの断崖よりも2倍は素晴らしい。快晴の日に行くべし。海がメチャクチャきれいだし、断崖の高さもすごい高い。エメラルドに呑み込まれそうな快感。
夕食は、「美味しいことで有名」らしい、宿のレストラン(Jacob's Restaurant)で摂る。スープは美味だし、味もまずまずだが、「有名」なことに最も相応しかったのは値段かもしれない。
【12月29日(金)】
ルックアウトを潰しながらストローンへ
この日は、長駆
ストローン(STRAHAN)
へ。幸いなことに好天が続く。
ひーこら登る砂丘
山道、田舎道を淡々と進み、途中のルックアウト見物を楽しみながら、順調に進む。ダムで一息ついて、滝に挑戦するも、「往復徒歩1時間半」の表示に断念。ストローン付近になって、海岸線を望むルックアウトへ。
そして、海岸のサンド・デューン(砂丘)へ。スキー場のような白くてサラサラの砂が海岸まで(波打ち際までは遠くで見えないが)続いている。SF的風景。
宿は、西部劇に登場しそうなカントリースタイルのパブの二階、名前はHamers Craypot Inn。混雑しているレストランを辛抱強く電光掲示板の番号を見つめながら待つことしばし。出きたと思ったら、案の定、オーストラリア式の "too much" (多すぎる)であった。
美しい夕焼けを求めて、オーシャン・ビーチまで出掛ける。素晴らしく美しいとまでは言えないながらも(写真はきれいだけど)、そこそこの夕焼けと海岸線を見ることが出来た。また、全く予期していなかったが、その場所はマトン・バードという鳥が、ペンギンのように夕刻に上陸する場所でもあり、ここにも十数名の人々がのんびり待っていた。
【12月30日(土)】
リバークルーズ、そして「走れメロス」状態でウーズへ
いざ出航
大枚はたいたゴードン・リバー・クルーズの日である。複雑に入り組んだ湾内を遊覧船は進み、まず外洋からの入口である「地獄の門/Hell gate」を見て、さらに囚人の監獄の廃墟が点在するセーラ島(Sahra Island)を見る。ここでセルフサービス式の昼食が出る。船は湾からいよいよゴードン川のクルーズの始まりである。とは言うものの実のところ、徐々に川幅が狭くなる程度で、変わりばえのしない風景が続く。
注:もう一つのトラウマである囚人虐待の歴史です。もともとオーストラリアは囚人流刑地ですが、タスマニアはさらにその流刑地として、囚人達は開拓にコキ使われました。後ででてくるポートアーサーもそうですが、軍人と囚人がこの国の基礎を作ったのでしょう。
とある川岸で着岸し、レイン・フォレスト散策をする。
ここから帰路に向かうが、川から湾への入口付近で、朝から調子が悪かった船のエンジンがいよいよダメになって漂流状態になる。おおお。「助け船」がやってくるまでの1時間以上もの間ひたすらボケーっと待つ。状況を伝える船長らしき人がアナウンスで、「いやあ、”事故は週末に起きる”ってマーフィーの法則にも書いてあるけどホントだね」なんてのんびり言ってるのが妙に記憶に残った。
しかし、こっちは、朝に出した写真を受取る前に写真屋が閉まってしまったらどうしよう、これから夜道を200キロ以上ドライヴするのか、とか結構ドキドキものであった。
前方に見える不気味な山。これからあの山を越えるかと思うと.....
やっとの思いでストローンにたどり着いたのは午後5時過ぎ。写真は無事に受領し、晩飯用のパン等を買い込み、ガソリンを入れて、夕方5時半から200キロ以上の長距離ドライヴの出発となる。
ストローンを出るや、いきなり羊腸のような山道が続き、気は焦るのだが、しんどい割には距離が全然稼げない。
さらに、鉱山の町クィーンズタウン付近の、死の世界のような荒涼した鉱山風景が追い打ちをかけるのであった。
どっかの惑星のような荒涼とした風景。
町もない、人もいない、羊もいない、国立公園の中を、沈みゆく太陽と競争するように「走れメロス」状態で疾走し、セント・クレア湖に到着。まだ道半ばではあるけど、折角だということで、セントクレア湖で一服。労をねぎらうかのように、またカンガルー君達が登場。
ここでドライバーは福島に交代。日没後の残照の中、一路、今宵の宿であるウーズに向かう。薄明だった視界も、ライトを頼りに走るようになってしばらくした頃、ワラビー(小型のカンガルー)が車のライトめがけてピョンピョコ飛び出してくるというTVゲームの画面のような走行状態になる。そして、遂に恐れていた事態が勃発する。いきなり飛び出してきて、路上中央で立ち往生したワラビーと衝突。しかしもともとスピードを落していたので轢過はせず数メートル押していったような恰好になった。ワラビーは一命を取り留め、自力で森に帰る。4WD車の前面にあるカンガルバーは、あれは飾りではなかったのだということを実感したヒトコマであった。
水力発電所のパイプがうねる山道を前照灯頼りに進み、ようやく
ウーズ(OUSE)
へ到着したのは既に午後10時近かった。
この晩の短い逗留は、
ROSECOT
というコテージ。要するに「大草原の小さな家」である。いわゆる伝統的な開拓民の家。本物の暖炉もあり、素朴な肌触りが魅力的であった。「本物」という意味ではこの宿がピカイチであった。しかし、疲れているので、暖炉にあたりながらパンをちょっと齧ってすぐに就眠。
【12月31日(日)】
ウーズ→ニューノーフォーク、ホバート近郊
お父さん早朝ドライヴ。本当に「大草原の小さな家」であることを確認。
チェックアウトの時、150年前の当時の囚人労働者が建築したという(現在は使われていないが)ミル(粉挽所)を見せて貰う。観光地になっていないだけ本物の迫力があった。大きな円形の石があり、これがミルストーン(これでゴリゴリ粉を挽くのでしょう)。『"Millstone round one's neck"って言うでしょ、知らない?こんな石が首の廻りにあるような状況、つまり厄介な重荷のことをそう言うんですよ。わかるでしょ?』。わかります。勉強になります。
ホバートのマリーナ
この日は、昨日に比べれば近距離の
ニュー・ノーフォーク(NEW NORFORK)
の
モーテル(Amarroo Motel)
に、早々にチェックイン。
一服してすぐに
州都ホバート
に向かう。
折しもヨットレースのお祭り騒ぎの中、ここ数日の田舎暮らしの目には、ホバートは人酔いする程の「大都会」に見えた。そして、これまでの大牧場風景の魅力に拮抗しうるほどの「都会の魅力」を特段見出し得ないまま、「ま、いっか」で早々にホバートを後にする。
海岸線に沿って南へ進み、まずショット・タワー(弾丸製造所)を見学。60メートルの煙突状の建物の中を、木の螺旋階段がグルグルとうんざりする程続く。この塔の上から溶けた鉄の滴を落とし、表面張力(だっけ?)で自然に球体になったところを急速冷却して(水の中に落すんだっけな)、丸い弾丸を製造するというダンドリだったという記憶があります。
左手に島を眺めながら、海岸線を南進し、グルリと半島を廻って、高速道路からホバート経由で、ニューノーフォークの宿に帰る。午後から徐々に天候が曇天になる。
これ曇天にならなければ、入り江あり、島ありで、いいリゾート地域だと思います。ただ、荒々しい自然を見てきてしまった後では、「なんか町だなあ」という印象の方が強くなってしまいます。
昨日の素朴な肌触りのする開拓民の一軒家に比べると、この宿は、良くも悪くもビジネスライクな、ごく普通のモーテルである。とりわけ、身体が沈降して寝返り打つのが大変と悪評だったのがベッド。それでも、大晦日に係わらず、少人数でキリキリ働いて営業していてくれたレストランに感謝すべきか。
そういえば大晦日なのである。しかしなんの実感も感慨もなかった。
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