シドニー雑記帳
■連載小説■===あなたがわたしにくれたもの===
●第9章
都心から私鉄の快速で40分、バスに乗り換えて15分。メゾネットタイプの洒落た2階建て住宅が並ぶ、こじんまりした住宅街。僕は、彼女を連れて、綺麗に整備された公園のような敷地をゆっくりと歩いた。風はまだ冷たいものの、少し霞んだうすあおい空には春の気配が感じられた。
彼女は顔を太陽に向けて、大きく息を吸った。
『桜が花開こうとしてるのね?』
やわらかい春の日差しが彼女の視力を失った瞳を射して、きらきらと輝かせていた。
『うん、蕾が膨らんでる』
いつだって彼女は僕より早く鋭く、いろんなことに気づくのだ。
『太陽の匂いがする...』
************
*藤森剛*
*理沙子*
*ひかり*
************
この表札に書かれた名前のうち、今ここに居るのはたった一人。僕たちが会いに来たのは、もうここには居ない人。
藤森理沙子さんは、几帳面な方らしく、一人暮らしには広すぎる部屋をきっちりと整頓させていた。通された居間は、華美な飾りなどはなく、白と薄いグリーンを基調とした趣味のよいセンスを感じさせる雰囲気だった。
『突然お邪魔して申し訳ありません。私、お電話でお話しましたように、ご主人にどうしてもお会いしたかったのです』
『ええ、せっかく来て下さったのに、残念です...』
『いいえ。生前、ご主人の近くにいらした方にお会い出来れば、それで十分なのです。』
ああ、僕は一体何のためにこんなところにいるのだろう?
僕は一体何を求めているのだろう?
『あの、ところで蜘蛛の巣をはる音、聞いたことありますか』
僕の唐突な問いに、理沙子さんは一瞬戸惑ったように窓の外に目をやったが、すぐに僕の目を見て、にっこり微笑んだ。
『蜘蛛の巣は聞いたことありませんが、オジギ草が葉を広げる音なら...』
『ああ、やっぱり』
僕は隣でコーヒーカップを抱えている彼女に目配せすると、彼女もこっちを向いて微笑んだ。
『主人が亡くなった後は、過労死ということで、あちこちから取材されまして、ずいぶん消耗しました』
『そうでしょうね。でも理沙子さん、お強いですね。ちゃんと筋通して訴訟までなさって』
『いえね、通すべきことは通しておきたかったものですから。単なる意地ですよ。私が言わなきゃ、社会がどんどんダメになっていく!って、けっこうしょっちゃってるんです、私。可笑しいでしょう?』
『いいえ、ご立派だと思います。私みたいのが言うのもおこがましいですが。きっとご主人も安心されてるでしょうね』
『ええ。まだ判決は出ていませんが、仮に負けても、ここまでやったんだからという気持ちにようやくなれたんですよ。彼の死を無駄にだけはしたくなかったから....』
僕はそのとき、明るく柔和な理沙子さんの表情が、別人のように変化したのを見逃さなかった。彼女は強い人だ。幼いわが子の最期を一人で見とり、また、最愛の夫の臨終に正面からぶつかる間に培ってきたその強さ。それは強さの源は、どこまでも透明な『愛』の力そのものなのだ、と僕には感じとれた。
『ご主人の死は無駄になっていなかったんですよ』
僕は唇を噛みしめた理沙子さんの表情を確認しながら、ゆっくりと語りかけるように言った。
『ああ、対人恐怖症の少女のこと?』
『ええ。その少女のこと、どれくらいご存知なのでしょうか?』
『主人のフロッピーは整理しましたので。残っているログは読みました。でも美奈ちゃんという子がどこの誰なのか、は結局わからず終いでした』
『パソコン通信にはアクセスなさらなかったのですか?』
『ええ、主人のパスワード、知りませんでしたから』
『あの、そのログを見せていただくわけには..?』
『ええ、どうぞどうぞ。そのつもりでしたから』
僕たちは2階の書斎に案内された。主人の帰りを待ったまま、時が流れが止まってしまった空間のように、その書斎は手つかずに放置されていた。大きな机の上は、旧型のパソコンがデンと構えており、周囲はビジネス書と資料の山で埋め尽くされていた。
理沙子さんは机の引出しから、1枚のフロッピーを出して僕に渡した。
『どうぞ、ご自由にご覧になってください』
そういって、階段を下っていった。
書斎に残された僕と彼女は、パソコンの電源を入れ、ワープロを立ち上げ、藤森剛さんのフロッピーを読みだした。藤森さんが美奈に宛てたメール13通、美奈から藤森さんに宛てたメールが5
通が、保存されていた。これ以外にもメールのやりとりはあったのかもしれないが、僕は何故か、この
ログが、2人のやりとりの全てであるような気がしてならなかった。
藤森さんのメールは、自分の弱さを肯定しながらも、「がんばれっ!」といった熱いエールが籠められたものばかりで、その熱さは不安と迷いの中にも日を追うごとに深く濃くなっていった。まるで自分に言い聞かせているかのような、励ましのメールの数々。目の不自な彼女にも伝えたくて、僕は声に出して読んでいった。
−−美奈ちゃん、君のこわい気持ち、おじさんにもよくわかるよ。おじさんにだって生きてるのが辛くて仕方ないことがたくさんある。でも生きてるんだ。だから生きていかなくちゃいけない。すごく残酷なことだけどこわい気持ちは誰にでもあるし、それに負けていては命がすり減ってしまうんだよ。もったいないよ、君みたいにきれいで純粋なこころを持った子が、すり減ってはいけない。
−−おじさんの力が、どこまで君に届くかわからないけど、出来る限りのことはするつもりだ。どうしてこんなに一生懸命君に手紙を書いているのかわからないのだけど、君が元気になってくれないと、おじさんの気持ちは納まらないんだよ。君が元気になるまで、必ず側にいるから。
−−おじさんはね、1年前まで娘がいたんだ。大きくなったら、きっと君みたいな純粋な少女に成長していただろう。でも急に死んでしまった。愛するものを亡くした時のつらさ、こわさは、今は君が感じているこわさを何十倍にもくっつけてかためたようなこわさなんだよ。
おじさんはその時、知ったよ。「俺は弱い人間だ」と。人間なんかみんな脆くて弱くて情けない存在なのだと。でも、そんな弱さを抱えて、生きていかなくちゃならない。どうしてかって?いのちがあるからだよ。あるものを消すことは出来ないからね。美奈ちゃん、おじさんが言ってること、わかるかな?
−−君には会ったこともないけれど、会わなくてもいいと思ってる。だって君の気持ちがおじさんには手にとるように伝わってくるし、君もおじさんの言ってること、感じてるだろう?だから、おじさんが君に元気になって欲しいと思ってること、それだけを知っていて欲しい。無理しなくていいから。急に元気になることなんか、出来ない。ゆっくりでいいから。ほら、力を抜いたら、だんだん元気になっていくから。
彼女は僕が読み上げる藤森さんのメールに、いちいち鳥肌をたてては身震いしていた。読んでいる僕も突然、声が出なくなってしまう瞬間すらあった。
美奈からのメールはどれも短く、「ありがとう」「がんばります」といった2行ほどのメッセージばかりだった。
しかし、そんな短いメッセージに籠められた感情は、日に日に変化しているのが感じられ、やがて美奈は最後のメールで大きな決意を表明している。
−−おじさん、わたし、あしたから学校に行きます。こわいけど、こわいけど、でも、いつまでもここでこうしていられないから。おじさん、わたし、がんばります。ありがとう、おじさん。』
1992年3月10日。
藤森さんはこのメールを出勤前に受取り、そして外出先で倒れ、そのまま帰らぬ人となった。ちょうど、美奈が学校に復帰したその日、藤森さんは命を落としたことになる。藤森さんは、美奈に卵を産みつけると、自分のいのちを消してしまったのだ。
まるで、クロッカスにとまっていたモンシロ蝶のように....。
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