シドニー雑記帳
■連載小説■===あなたがわたしにくれたもの===
●第8章
それからの僕は、美奈の「おじさん」を探すことで夢中だった。会社には番組制作の為の取材ということで時間を作り、少ない手掛かりを頼りに連絡をとり、多少でもヒントになりそうならコンタクトをとって出向いて行った。
わかっていたのは、美奈のログファイルから得られた数少ない情報。IDと本名(と思われるハンドル名)、都内在住の大手商社マンで、家族は奥さんと2人。1年前に娘さんを亡くしている。ただそれだけだった。
僕は当たれるところには全てアタックしてみた。夢遊病者のように、このおじさん探しのことで頭が一杯だった。僕は絶対にこのおじさんに会わなくてはならない義務感のようなものに突き動かされているようだった。
パソコン通信をサービスしている企業にIDを問い合わせたところで、「プライバシーに関わるので」という最もな理由で教えてくれるわけはない。今、僕がどうしてこの「おじさん」の情報を必要としているのか、を正直に話したところで、疑われるのが関の山だ。なにしろ僕自身が、なぜこんなにまで「おじさん」を探さなくてはならないのか、わかっていないのだから。適当な話をでっち上げてもみたが、この会社からはいかなる情報も得られそうになかった。第一、この会社だって会員のプライベートなまでは掴んでいないのだから、無理もあるまい。
そこで、僕は大手商社の人事部に片っ端から電話して、「藤森剛という人から商談のコンタクトを貰ったのだが、うっかりしてことにどこの方か聞き漏らしてしまった。御社にはそのような人がいないか」などと、しょうもない話をでっち上げては、冷や汗かきつつ、この人物の存在を確認していった。
しかし、どんな商社に電話しても、そのような人物には行き当たらなかった。『藤森剛』は本名ではなかったのかもしれない。商社から転職してしまったのかもしれない。
不毛な日々がいたずらに過ぎ去っていった。僕は焦った。僕はあれから「取材」と銘打って「おじさん」探しに没頭したままだというのに、新番組の企画提出の締切りは目の前に迫っていた。
もう、今回は頭を下げてしまおう。それで許されるものとも思えないが、そのことで減給処分なり、退社処分なりになっても、それはそれで仕方がない。今の僕にとっての最重要課題は「おじさん」を探すこと以外の何物でもないのだ。
何の手掛かりのないまま1週間が過ぎ去ったある朝、僕はふっと思いついた。
−−そうだ、美奈が彼と出会ったパソコン通信に、何かヒントが隠されてるかもしれない。
僕はすぐさま入会手続きをし、掲示板に『尋ね人』を出してみた。2日後、僕のメールボックスに1通のメールが届いた。
−−藤森剛さんを知っています。電話ください。
メールを読むやいなや、電話機に飛びついた。
−−トゥルルルルトゥルルルルカチャ
はーい、お電話ありがとう。アヤノでーす。あなたは?
それはテレクラの番号、メールはいたずらだった。あんまり気が抜けたので、怒りの感情も生まれてこなかった。
精神的に逼迫した日々に疲れ果てた昼下がり、僕は一人で公園のベンチでボーッとしていた。すっかり春らしくなってきた公園の庭には、クロッカスが上品な紫の花をつけ、モンシロ蝶が頼り無げにハタハタと飛んでいた。
−−あの蝶はたまごを産みつけると、やがて死んでしまうのだな...。
「あっ!!」
突然、ある想像が頭に拡がっていった。
−−「おじさん」は、もう死んでいるのかもしれない。
美奈にたまごを産みつけて、そのまま死んでしまったのかもしれない。
僕は公園のすぐ隣りある図書館に駆け込んだ。美奈と通信が途絶えたのは、去年の初春のことだったはず。僕はその頃の新聞の縮小版をひっぱり出し、紙を嘗めるようにしてその小さい字面を追いかけた。『藤森剛』という文字を探して。
僕の脳味噌は完全にハイ状態で麻痺しており、周りのどんな環境の変化も僕に影響を与えなかった。僕はその日、図書館の管理人さんに肩を叩かれるまで、必死に『藤森剛』の文字を探し続けた。
家に帰っても相変わらず眠れないままだった。僕は「おじさん」が美奈とパソコン通信でコミュニケートしていた気持ちを想像してみた。2人の出会いがどんなものだったのか、知らない。どうして彼がいなくなったのかも知らない。ただ、この『藤森剛』という商社マンは、美奈という対人恐怖症の少女に通信上で出会い、意思を通わせ合い、そしてどんな理由にせよ、美奈から離れていった。それが僕の彼と美奈との関係に関する全情報だ。
彼はきっと、なんの不足もない毎日に得体の知れない不安感を持っていたのではないだろうか。そして、美奈と出会い美奈を知るうちに、美奈の繊細すぎる純真な気持ちに触れた彼は、人間の原点にある、とても新鮮なものを感じとったのではないだろうか。そして、それはきっと僕が美術館で彫刻をまさぐる彼女を初めて見た時と同じようなパッションだったのではないだろうか。だから美奈の側にいてあげたいと思ったのではないだろうか。僕が彼女の側にいたいと思ったのと同じように。
みんな仮定だった。だけど、根拠はないのだが、このうち半分くらいは当たっている自信があった。そうでなかったら、どうして今僕はこんなにも「おじさん」のことで頭をいっぱいにして寝不足になって仕事をふいにしてまでも、彼を探そうとしているのか、説明がつかないじゃないか。こんな得体の知れない力に突き動かされている僕は、不安感と充足感とが混在した不思議な気分を抱え込んでいた。
僕は翌日も図書館に通い、新聞の縮小版を捲った。緊張感と疲労感で頭が張り裂けそうになった夕刻、僕は遂に見つけた。『藤森剛』の3文字を。
−−元商社マンの妻、亡夫の死因を『過労死』として訴訟
今年3月5日に急性心不全で急逝した藤森剛さん(38)の死因を『過労死』であるとし、妻理沙子さん(36)は○○商事を相手取り、1千万円の損害賠償金を求めて訴訟を起こした。
やっぱり、彼はもうこの世の人ではなかった。
それでも僕はここで終わりにすることが出来なかった。
僕の旅はまだ、終わらない....。
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