シドニー雑記帳
■連載小説■===あなたがわたしにくれたもの===
●第6章
綾子に会ってから2度目の日曜日。今日もまたおだやかな小春日和だ。
僕はまた茗荷谷の喫茶店で綾子と待ち合わせて、少女の自宅へ向かった。郊外へ向かう急行電車の中でも、駅から商店街を抜けて閑静な住宅街への道を歩く間も、僕たちはずっと無言だった。
僕が綾子と会うのは、2週間前の日曜日に初めて会って30分程必要な用件を話しただけだったので、これが2度目になるのだが、彼女には何故かまだよく打ち溶けていない人に対する遠慮というか気遣いというものの必要性を全く感じなかった。いや、本当はそういった気遣いが必要だったのかもしれないのだが、僕の頭の中には他にやることがいっぱいあって、それどころではなかっただけなのかもしれない。
しかし、彼女はそんな無愛想な僕を、無愛想とも思っていない様子で、淡々と黙々と少女の家に向かって歩いた。
少女の家は、新しい家の匂いが漂う新興住宅街の中にあった。土地はそう広くはないが、車庫と小さな庭がそれなりのスペースをとっており、犬を飼っている家もよく見かけられた。どの家もどこか凝った部分があるようで、といっても、門を中国の天安門みたいなデザインにしてみたり、ダミーの煙突をつけてみたり、ベランダの柱をロココ調にしてみたり...といった成金趣味的な凝り方とは違うのだけど、ちょっとした趣味のよいこだわりを感じさせる家々が並んだいた。
少女の家も例外に漏れず小さな庭があり、そこには桃の木がうすピンクの花を正に咲かせようとしていた。玄関脇には小さなプランターが置いてあり、そこにはバジリコやレモンパームなどのハーブが小さな芽を出し始めたところだった。
綾子が玄関のチャイムを押すと、インターフォンから品のよい女性の声が洩れてきた。
「ああ、綾子さん。お待ちしてたのよ」
彼女は本当に綾子が来てくれるのを待ちわびていたように、挨拶した。色白で少女のような面影を残した表情は繊細そうで、これから僕が会う彼女の娘の繊細さを連想させた。
オープンキッチンと繋がったフローリングの居間には直角に並べられたオフホワイトのローソファが堂々と、しかしやわらかに違和感なく陣取っており、その存在の自然さに、その上にあるものに気づかなかったくらいだ。そう、そのやわらかなソファの上に、足を折り曲げて斜めを向いて窓の外を眺めている、小さな生物....それが美奈だった。
美奈は僕たちを見ると、やわらかく頬を崩して微笑んだ。その笑顔が生き物としてあんまり自然だったので、僕はあの登校拒否児の美奈とは結びつかずに、一瞬動転した。
−−この子は美奈の姉なのかも?いや、彼女は一人っ子だったはずだ..。
しかし、美奈はその自然な笑みを浮かべると、また窓の外を向き直り、なにかぼんやりと眺めている様子だった。
「美奈ちゃん...だね?」
「うん」彼女は目を逸らさずに答えた。
「はじめまして」
「しぃっ...」
「えっ??」
「ちょっと静かにしてて」
「あ、うん...ごめんね。」
僕たちは、美奈が見つめてる方向に目をやり、美奈の視線を追いかけた。
窓の向こう側では、蜘蛛が巣を張っていた。一生懸命糸を吐いては器用に移動しながら、綺麗な巣を作りあげていた。
「ね、綺麗でしょ?」
美奈は夢でも見ているようなおだやかな声で、目も逸らさずに呟いた。
「うん、綺麗だね」
「あのね、ほら、静かにしてるとね、聞こえてくるのよ」
「え?なにが?」
「蜘蛛が糸を出して織っていく音」
「そ...そう?美奈ちゃんには聞こえるの?」
「そうよ。おじさんたちも耳を澄ませてみて」
僕たちは本気で蜘蛛の糸の音を聞くために、全精神を耳に集中した。だけど、残念なことに、僕には何も聞こえなかった。
「ねえ、君、聞こえる?」僕はこっそり綾子に聞いてみた。
「ええ、聞こえるわよ」綾子は当然のことのように、さらりと答えた。
僕はなにか自分だけが片端に思えてきて、なんだか焦った。
「あなた、耳で聞こうとしてるでしょ?それだから聞こえないのよ。」
「どこで聞くの?」
「どこって言われても....。あのね、この音はね、耳が聞こえない人にも
聞こえるのよ」
「ああ...」
僕は彼女のことを思い出した。目が不自由な彼女は、視覚以外の感性で視覚以上のものを感じ取る。その感性は僕なんかにはとても及びがつかないくらい、鋭く、正確で、しかもやさしさに満ちあふれたものなのだ。
−−こういうものを感じることが出来る人って、けっこういるんだな...。
相変わらず僕にはなんにも聞こえなかったけど、それでもなんだか妙に納得していた。
僕は蜘蛛の作業を眺めているうちに、綾子がどうやって対人恐怖症だった美奈に接していったか、また美奈が見ず知らずの他人である綾子にどうやって心を開いていったか、が、想像出来るような気がしてきた。
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