シドニー雑記帳
■連載小説■===あなたがわたしにくれたもの===
●第7章
3人で息を潜めて蜘蛛の巣を眺めていると、美奈の母親がティーポットと温めたカップをテーブルに運んで来て、紅茶を注いでくれた。まろやかなアールグレイの香りが部屋に拡がっていった。
「さあ、どうぞ。寒かったでしょう。お茶でも召し上がって暖まって。」
「あ、はい。いただきます」
と、蜘蛛から目を離したのは僕だけだった。
僕は今更、蜘蛛の巣に目をやるのも白々しいと思い、照れ隠しに、母親に向かって話しかけた。
「美奈ちゃんは、もう、学校に行ってるんですよね」
「ええ、もうすっかり元気になって。といっても、他の子とはちょっと違っててるみたいで、たくさんお友達がいるわけじゃないようですけど...。ああ、そうだわ。登校拒否してたのは、もう1年も前のことになるのね。綾子さんが来てくださったのも、かなり久しぶりなんじゃないかしら。」
「ああ、そうですか。そうですよね〜、笹野さんの論文、たしか1年くらいの記録がありましたもんね。」
「ええ。綾子さんが初めて美奈に会いに来てくださったのは...え〜っと、去年の冬、ちょうど今頃だったかしら。それから美奈はだんだん対人恐怖がなくなってきて、3月には学校に行けるようになってましたから。」
「え?、じゃあ、笹野さんが来てから、たったの1〜2カ月で、美奈ちゃん、学校に行ってたんですか」
「そうよ」綾子の冷めた声が隣から割り込んできた。
「私が美奈ちゃんに会った時には、もうかなりよくなっていたのよ。ね、美奈ちゃん」
まだ蜘蛛の巣から目を離さずにいた美奈は、綾子に肩を叩かれ、ビクッとして振り返った。
「ん?なあに?」
「あ、あのね。美奈ちゃん。美奈ちゃんが学校に行けるようになったのはどうしてだったの?」
僕は思い切って、単刀直入に聞いてみた。
「わたしにもよくわからないの」
美奈はさらりと答えた。僕はその短い回答の中に、美奈の精神がかなり強く成長している手応えを感じた。
「でもね、わたし、そんなこと、わからなくてもいいの。だって、もっとわかりたいのに、わからないことが、いっぱいあるんだもの」
「わかりたいのに、わからないことって?どんなことなのかな?」
僕はしつこく突っ込んでみた。それは、挑戦でもあり、博打でもあった。
「たとえば....たとえばね。」
そこで美奈の声は途絶えた。そこで僕は一瞬、やはり聞いてはいけないことを聞いてしまったものと悔やんだ。しかし、彼女の表情を改めて観察してみると、精神的に追い込まれた苦悩の表情ではなく、綺麗なものを探し求めるかのような表情で、そこから発散させている輝きが僕を安心させた。
美奈は蜘蛛の巣の方に向き直りながら、ゆっくり、とぎれとぎれに、しかし、ハッキリと重みを持った落ち着いた声で言った。
「どうして、伝えたいと思うのか。
どうして、伝えきれないことがあるのか。
どうして、伝わるのが怖いのか。
どうして、間違って伝わるのが怖いのか。
どうして、わかりたいと思うのか。
どうして、知りたいと思うのか・・・・・・」
僕は身震いがした。
これが11歳の少女の口から出てくる言葉とは....。彼女は対人恐怖症を克服する過程で、人間関係と真っ正面からぶつかり、凄惨な体験の中にも、大切なものを発見してきたのだろう。
そして、しばらくの沈黙の後、最後のワンフレーズに僕は心が凍った。
「どうして、あの人はいなくなったのか。」
このワンフレーズに、美奈が一番言いたかったことが凝縮されていることは、直観的に感じられた。たぶん、そこに立ち会っていた美奈の母親にも、綾子にもわかっただろう。
あの人−−−−−
いなくなった−−−−−
体中にこのフレーズが共鳴して回り、しばらく全ての思考が中断していた。小春日和の温かい陽が窓から差し込む、明るいフローリングのリビングは、タイムトリップ中の時空間のように、宙に浮いたまま全ての流れがストップしていた。
蜘蛛の巣に目をやった僕は、その『音』を聴いた。
蜘蛛が巣を張る音を聴いた。
それは『音』というより『うた』という方がふさわしかった。
僕はその時、決意をした。
−−美奈の「どうしてなのかわかりたいのにわからない、いなくなったあの人」を捜し出そう。
宙に浮いたタイムトリップ世界から現実に戻すべく、僕は必要以上に大きな声で言った。
「おかあさん、美奈ちゃんが回復していく途中に出会った人を教えてください」
「え、ええ。いいですよ。そうですね、といってもそうたくさんはいないんですけどね。え〜っと、精神科医の先生と綾子さんくらいかしら。」
「あの、パソコン通信...じゃあないかしら?」
脇から綾子が切り込んだ。
「ああ、そうね。あれは、先生に勧められて始めたんだけどね、あれがよかったみたいにね。私はよくわからないんだけど」
「笹野さんは、そのパソコン通信のやりとりについても、たしかレポートしてましたよね」
「ええ、美奈ちゃんが取ってあるログは、見せてもらったから」
「じゃ、君、何か知ってるね。今、美奈ちゃんが言った意味、わかってるんだろ?」
僕は思わず問い詰めるように、攻撃的な挑発的な言い方をしてしまっていた。
「まあ、落ち着いてよ、高原さん」
「ああ、すまない..」
綾子は静かな声で話始めた。
「美奈ちゃんはね、パソコン通信である人と出会ったのよ。それが回復の大きなきっかけになってる。それは彼女自身も気づいてるわ。私、そのログを美奈ちゃんから見せて貰ったこともある。だけど、あまりにプライベートなことだからレポートにもそう詳しくは書かなかったし、書けなかった。私なんかがしゃあしゃあと書いてしまえるような類のもんじゃなかったから。だから、今でもその内容について、私の口から言うことは出来ないの。ただ、わかっているのは....」
「なに?」
綾子は口籠もった。
「ここから先は美奈ちゃん自身に聞いた方がいいわ」
美奈に視線を移す間もなく、美奈は喋り出した。
「私を助けてくれた、おじさんがいたの。おじさんもいろんなことで悩んでたわ。私はおじさんの気持ちが、それとなく通じてると思ってたし、おじさんもそうだと思う。で、私はだんだん元気になっていったの。自分でも驚くくらいにね。ある日、学校に行くって決めたの。すごい勇気を出して、その日の朝、おかあさんに言ったわ。『私、今日から学校に行くね』って」
美奈の母親の方に目をやると、ハンカチで顔を隠しながら、肩が小刻みに震えていた。
「それでね、学校から帰ってきたらね、その日から、おじさん、いなくなったの.....」
そこで、美奈の声は途絶えた。
蜘蛛の巣を作る音だけが、浮き上がって聴こえてきた。
エンドレスかと思われた凍りついた沈黙を美奈自身が破った。
「でもね、いいのよ。わからなくっても。私にはもう、おじさんはいらないから。もうおじさんの存在は、私の中で生きてるの。だから、もう、いいの。もう、だいじょうぶだから」
僕たちは美奈の唐突な発言に、彼女の顔に目をやった。ふっきったようなハッキリした強い口調とは裏腹に、美奈の乾いた目はから、大粒の涙がボロボロ溢れだしていた。
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