シドニー雑記帳
■連載小説■===あなたがわたしにくれたもの===
●第5章
小春日和の日曜日。白く曇る窓ガラスを手でさっとこすると冷たい水滴が滴り落ちた。曇りガラスのわずかな面積から庭を覗くと、白梅の蕾が膨らみ出していた。僕は目印のピアノの鍵盤を形どったショッキングピンクの派手なマフラーをコートの上から首に巻いた。
今日は、あの登校拒否症の少女の経過を記録した論文を書いた、女子大学生に会う約束の日だ。僕のあの論文に記されている少女への『激情』とも言える強い興味を抑えきれず、なんとか彼女と面会しようと動いてみたところ、あの論文を書いた大学生にコンタクトをとることが出来たのだった。彼女は少女とほぼ毎日面会して、少しずつではあるがコミュニケーションをとりつつその過程を記録し、論文に纏めていたので、あの少女についてのかなり深い情報を得られるものと、僕は期待していた。
僕らは茗荷谷の喫茶店で待ち合わせしていた。僕は待ち合わせの時間よりも10分程早めに行って、ホットレモネードを頼んだ。日曜日の午前中の喫茶店はすいていた。僕は内ポケットからメモ帳を取り出し、今日の質問項目を整理しようとした。が、それは無駄だった。
僕の目的は只ひとつ。少女に会うこと。あの少女は精神不安定なのだから、そう簡単に他人を紹介したりは出来ないはずだ。しかも僕のようにマスコミの取材という形なら、尚のこと拒否されるだろう。仮に彼女が少女の住所を教えてくれたところで、ご両親に玄関先で追い払われる可能性が高いのだ。どうしたらあの少女に会えるのか、その情報を彼女から如何に入手するか。まずは彼女にこちらの意図を伝え、理解してもらうことだ。それさえ出来ればなんとかなるはず。僕は彼女に意図を伝えていく段取りを練った。
11時ぴったりに彼女は現れた。ロングヘアが紺のピーコートの肩に揺れ、紺のハイソックスにローファーという出で立ちは、いわゆる女子大生よりはずっと地味で幼げに見えた。彼女は僕の目印の派手なマフラーを見つけると、ゆっくりと親しげに微笑んだ。男好きする笑顔なのだが、芯の強さをも感じさせる笑顔だ。
「はじめまして。笹野さんですね。お電話では失礼しました。高原と申します」
「あ、どうも。笹野綾子です。」
彼女は差し出された名刺を珍しそうに覗き込んだ。
「高原さんって、○△テレビの方なんですね。社会問題をテーマにした番組を作ってるっておっしゃってたから、てっきりNHKの方かと思ってた..」
「ああ、民放だって社会問題関係の番組、作ってるんですよね、マイナーですけど」
「ああ、そうでしょうね。ただイメージがね、なんかNHKっぽいから」
「NHKっぽいって、それ番組のこと?それとも僕のこと?」
「両方です」
今度は彼女は顔をくしゃっと崩して、いたずらっ子のような笑顔を見せた。
−−第一段階クリアだ...。
「そうか、僕はNHKっぽいのか...。あんまり深く意味を考えないようにしとこ。」
僕はちょっと安心して、営業用の砕けた笑顔で返した。さて、いよいよ本題に入らなくては。
「ところでね、僕は、君の論文を読んでから、あの少女のことが頭から離れないんですよ。なんとかあの子に会いたいんだけど。」
「美奈ちゃんに会ってどうしようというの?」
「....わからない。」
僕はつまった。その的確な答えを自分の中から発掘するように必死に探した。もうさっきまで練っていた段取りは、どこかへ飛んでいってしまった。
「本当は君の論文を読むまでは、僕はただ人間の神髄に触れるような番組を作りたいと、そう思っていたんだ。」
「人間の神髄??」
−−まずいな。俺すっかりコンロール効かなくなってる。もう感情表現しか出来なくなってる...。
「そう。人と人との関わり合いがどんなに素晴らしいかを伝えるような番組をね。なんか言葉にするととってもクサイんだけど」
「ええ、たしかに。クサイけど、おっしゃることはわかるような気がします」「だけど、今は番組なんかどうだっていいんだ。ただあの子に直接会って、直接話をしたいんだ」
「ずいぶん、唐突なのね。あなたの話を聞いてると、なにがなんだかわからないわ。ただ、私がわかるのは、あなたはとても美奈ちゃんに会いたがっていて、それはあなたの心が欲していることだということ。違いますか?」
僕は面食らった。たったこれだけの話で、しかもコントロールが効かなくなってる状態で、こんな唐突な感情表現しか出来なくなってたのに...。どうやら、彼女には姑息な小理屈を並べる作戦より、素直な感情表現の方が却って効果的だったようだ。彼女は想像以上に勘が鋭く、感情の豊かな女性だった。
話はたったの10分で済んだ。彼女から少女のご両親に連絡をとってもらい、面会を依頼し、そして了承がとれたら少女の家へ彼女と同行することになった。
「ただね、高原さん。余計なお世話だとは思うけど、言っておきます。あなたが美奈ちゃんに何を期待してるのかわからないけど、期・待・は・し・な・い・でくださいね。少なくとも、あなたの仕事には役に立てないと思うし、もし役に立つとしても、あなたのそのワケわからない感情欲求への対応上の話でしょうね。とにかく具体的な効果なんか、絶対ありえないわよ。」
「うん、わかってるよ。それは」
本当にそれはもう十分自覚していた。
「それから、もうひとつ」
彼女は僕の両目にキチッと焦点を合わせて言った。
「あなたのその感情の欲求は、美奈ちゃんに会っても決して解決されない。それはきっとキリがないものなのよ」
僕は彼女の言わんとすることが掴めないまま、虚空を這うように無意識に頷いた。僕が彼女のこの忠告を理解出来る日が来るまでには、しばらく時間がかかることになる。
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