シドニー雑記帳
■連載小説■===あなたがわたしにくれたもの===
●第4章
−−あ〜あ、今日も退屈な授業だった。
今日は高山くんとデート。彼はアルファロメオに乗ってるボンボンだから、連れて歩くのには最高。だけど、なんか違うのよね...。
キャンパスには落ち葉がしゃらしゃらと音をたてて舞っている。もう秋なんだな。あっという間に大学生活も3年が過ぎようとしている。
−−この3年、何をしてきたんだろ、私。遊んでばかりで、恋にうつつを抜かしてばっかりだったな。それも実のない恋ばかり。たくさんの男とつきあったけど、彼氏と呼べるような男なら何人もいたけど、どれも、どこか違った。本当の私は誰にも見せられないまま。本当の私はさみしがり屋なのに。
傷つくのが怖かった。自分を晒け出して拒否されてしまうのが怖かった。だから誰にも心を開くことが出来ないまま、楽しい毎日が上滑りしていった。このままでいいのだろうか?そんな疑問がいつも頭を掠めていた。でも、どうにも打開出来ずに、時は残酷に過ぎていった。
−−そろそろ卒論のテーマ、決めなくちゃ。
今まで逃げ腰でいた勉強だけど、学生生活の終止符に、また私自身のターンニングポイントになるように、本腰入れてがんばってみようと思い立った。このままでいいわけはないのだから。何か契機を掴まなくては。
とはいえ、今まで授業もさぼりまくり、遊びまくっていた私には、専攻の心理学の知識など蓄積されていようはずもなく、困惑した。だいたい、心理学ってなんなのか、それすらわからない。私は一体何をやっ
て来たのだろう。情けなかった。
基礎知識を吸収すべく、学術本を買い込んで来て読みふけった。最新の論文にも目を通した。今まで没交渉だった担当教官にも、面会に行った。しかし、どの情報も私の心を震わせなかったし、虚しいだけだった。
ふと、3年前を振り返った。大学受験の真っ最中のことを。私はどうして心理学科を選んだんだっけ?
ああ、そうだった。私は私の意思で心理学を勉強しようと決めたのだった。
高校3年の秋。私は遅ればせながら、いよいよ本格的に大学受験の準備に取りかかり出していた。毎日必死に勉強していた。睡眠時間を削って机に向かう日々が重なったけれど、自信はちっともつかなかった。苦しくて、イライラしていた。私は家の中で八つ当たりしていた。母の白髪は急激に増えていた。しかし私はそんなことにはちっとも気づかずに、情緒不安定な日々を送っていた。
ある日、それは深夜だった。静まり返った空間から、嗚咽が響いてきた。はっと気づいてスペリングを綴る手を止めて、その嗚咽に聞き入った。それは、母の声だった。私は母の寝室に飛び込んでいき、布団の中でかすかに揺れている母の体を上からそっと押さえ込んだ。
「おかあさん、おかあさん」
「あ....綾子...」
「どうしたの?夢でも見ていたの?」
「ううん。なんでもないのよ」
「なんでもないって。今、おかあさん、泣いてたじゃない」
「本当に、なんでもないのよ。おかあさんのことはいいから、あなたは早く部屋に帰って勉強しなさい。」
「う....ん」
どうしたんだろう、おかあさん。そう思いながら、いつものように早朝まで机に向かい、そして眠った。
翌日も、また同じ嗚咽を聞いた。私はまた母の寝室に飛び込んでいった。
「おかあさん....」
「あ....綾子...ごめんね、今日も邪魔しちゃって..」
「そんなこと、いいから。それよりどうしたの?何か悲しいことでもあるの?」
「ん...うまく言えないんだけど....」
「なに?おとうさんのこと?」
「ううん。おとうさんのことはもう大丈夫。きっとどこかで私たちのこと
見ていてくれるから」
「うんうん。そうだよね。おとうさんの魂は死んでいないもんね」
「あのねえ、綾子。おかあさんね、なにか、こわいのよ...」
「こわいって、何が?私が大学に落ちるのが?」
「ううん。そんなことじゃないとおもう。たぶん。」
「じゃあ、なに?」
「それがね、おかあさんにもわからないの。わからないんだけど、涙がね出てくるのよ。おかしいでしょ」
「おかあさん.....」
「綾子....あのね、おかあさんが今感じているこわさは、おとうさんが死ぬまで苦しみ続けたこわさと同じなんだとおもうの。綾子にわかるかしら」
「おかあさん......」
この夜、私はずっと母の言葉を反芻しながら、一睡も出来ずに朝を迎えた。正直言って母の気持ちが理解出来なかった。ただただ、あの時の母の頼りなく儚げで、それでいて強く何かと戦おうとしているかのような裏寂しい笑顔が頭にこびりついて、いつまでも離れなかった。そして、私は母の気持ちを、そして父のこわさ、母のこわさをとても理解したい、と思った。
この夜だった。
『心理学科に進もう』と決めたのは。
そうだ!
私は母の「こわさ」を知りたかったのだ。
今はもういない、母の「こわさ」を解明してみようじゃないか。
こうして、卒論のテーマが決まった。
私は「恐怖」に関する資料に当たっているうちに、「対人恐怖症」に行き当たった。ここに、母のこわさのヒントが隠されているような気がした。だが、私の性分からして、単に文献だけで論文を書くことは不可能だろうと思った。何か実例が欲しかった。
教授に頼んで、カウンセラーとして活躍している精神科医を紹介してもらった。私はその医者を訪ねていって、研究テーマの説明と研究協力依頼をした。温和そうな表情をした中年の医者は、快くこちらの意図を汲んでくれた。
「患者に対する秘密厳守の義務がありますから即答は出来ませんが、あなたの研究に協力できるようなデータを提供出来るように準備してみましょう。1週間、時間をください。こちらからご連絡しますので」
ところが、待てど暮らせど、医者からの連絡はなく、私は焦った。他の医者を紹介してくれるように教授に頼んでみたが、「もう少し待ってみなさい」と諌められるばかりだった。早くしないと....。
ようやく念願の電話がかかってきた。
「あなたの研究のお役に立てるかどうかわかりませんが、ある少女をご紹介出来ることになりました。遅くなってすみませんでした。親御さんに承諾していただくのにちょっと時間がかかってしまいましたので...」
「あー、どうもありがとうございますー。」
私は「らっきーーー!!」と飛び上がって喜んだ。
なにか、この電話が私にとってのすごい契機になるような気がしていた。
−−おかあさん、私、きっといい論文書くよ。
こうして私は美奈ちゃんと出会い、美奈ちゃんの登校拒否、対人恐怖症との闘いのレポートを記すことになる。
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