シドニー雑記帳
■連載小説■===あなたがわたしにくれたもの===
●第3章
わたしは仕事に忙殺されていた。好きで選んだ仕事だったし、やり甲斐のある仕事だと誇りに感じてはいるが、時折、深夜に説明のつかない不安、焦燥感に襲われて身震いと共に目覚めることがある。
わたしは大学卒業後、憧れていた大手の商社に就職し、商社マンとして15年間、ひたすらわき目を振らずに働いてきた。仕事の成功は何にも優る喜びを味あわせてくれた。
順風漫歩に思われた30台前半、わたしは結婚した。やがて可愛い女の子が生まれた。わたしは彼女を『ひかり』と名付けた。それから、生きる楽しみが2倍にも3倍にもなった。彼女の存在がわたしにひかりを与えてくれた。わたしたち家族はしあわせだった。2年前までは....。
あれは出張中のことだった。音信も不自由なタイの田舎町、掘っ建て小屋のような熱と埃と虫が渦巻く事務所で、性能の悪いファクシミリから流れてくる読みづらい文字を辿った。それは懐かしい日本語だった。それは懐かしい妻の字だった。
早く帰ってきてください。
ひかりの葬式をしなければなりません。
理沙子
ひかり−−−−−−!!
まだ1歳にもならない幼い娘は、突然呼吸をしなくなり、妻が慌てる間もなく、わたしたちを置いてひとり、逝ってしまった。わたしにとって、このひかりを失った世の中は文字通り『闇』だった。そんな闇の中で、わたしは黙々と働いた。他にすることがなかった。そうしていないと、余計な「もし..」ばかりが頭を擡げてしまい、動けなくなってしまいそうだった。
そんなわたしは、幸か不幸か会社に評価され、この秋から韓国の企業との共同プロジェクトを任されることになった。これは億単位の金が絡む我社の命運を賭けた大きなプロジェクトであると同時に、わたしがリーダーを任された初めてのプロジェクトでもあった。わたしはプロジェクトのことで日夜頭が一杯だった。いや、一杯にした。寝る間も惜しんで熱心に仕事に励んだ。深夜まで資料を纏めたり、韓国で1泊して接待をしたり、のまともに家にも帰れない生活を続けていた。しかし、プロジェクトは難航した。難航すればする程、わたしはムキになって仕事に取り組んだ。意地以外の何者でもなかった。
深夜まで底冷えする事務所の部屋で、パソコンのキーボードを打っていた。さすがに疲れた。パソコンの画面だけが異様な光を放つ暗い事務所で、わたしは少しうとうとした。何時間経ったことだろう?うたた寝の後のどんよりした頭で、わたしは資料収集のため、パソコン通信のデータバンクにアクセスした。
−−本日のサービスは終了しました−−
そっけないアナウンスに舌打ちをして、気晴らしに『掲示板コーナー』を覗いてみた。仕事でパソコン通信を使うことはあっても、情報サービス以外のメニューに足を踏み入れたのは初めてだった。「どうせオタク野郎ばかりなんだろう」とタカを括りながら、それとなく掲示版のタイトルをざっと眺めた。
と、ある1つのタイトルに引きつけられた。
3491112820:57GPG05133 美奈 こわいんです
−−−わたしは小学校3年生の女の子です。
この頃、ずっと学校に行っていません。
お話もしてません。
よくわからないけど、こわいんです・・・・
たった4行のなんてこともないメッセージだった。が、そのたった4行が発しているこの少女の強いメッセージ、それは言葉を越えたところでどっしりと存在しつつこちらまで発してくる、そのメッセージに、生のどろどろした心を感じ取り、わたしは身震いした。無視出来なかった。
わたしは仕事のことも忘れて、一心不乱に彼女にメールを書いた。何物かに取り憑かれたように、熱にうなされるように、わたしは書いた。
美奈ちゃん。初めまして。急にお便りしてびっくりさせてしまってごめんなさい。美奈ちゃんのメッセージを掲示板で見ました。
わたしは38歳になるサラリーマンです。美奈ちゃんのおとうさんと同じくらいかな。おじさんにも子供がいました。今はもういないのだけど。
美奈ちゃんが「こわい」という気持ち、おじさん、少しだけだけどわかるよ。だから、お返事したくなったんだ。おじさんは、毎日会社でお仕事していてがんばっているけど、時々もう何もかもいやになってしまうこともあるんだよ。そして、そうなるともう何も出来なくなってしまうんだ。その時の気持ちが、そう、美奈ちゃんの言う「こわい」に似てるような気がするんだ。
だけどね、美奈ちゃん、こわいのは君だけじゃない。おじさんだけでもない。みんなこわいんだよ。それは仕方のないことなんだよ。おじさんはね、こわいけど、でもそんなこわさに負けないようにっ
て、いつもがんばってるんだ。
ああ、ごめんね。美奈ちゃん。君はまだ10歳なんだね。だけど、君にも出来るはずだよ。おじさんだって、ずっとそうやってがんばって来られたんだから。
変なおじさんから、急に変な手紙が来て、びっくりしてるだろうね。だけど、おじさんは美奈ちゃんのメッセージを読んで、無視できなかったんだよ。それがどうしてなのか、おじさんにもわからない。だけど、おじさんはね、美奈ちゃんが元気になってくれることを、なぜか願っています。遠くから願っています。
彼女からの返信はなかった。
わたしは後悔した。あの時感じた彼女のメッセージにある重みは、私の想像以上の重みだったに違いない。あんな軽々しい、メールを送るのではなかった。彼女を余計にナーバスにさせてしまったかもしれない。わたしはあんなに没頭していた仕事も手につかなくなり、夜もまんじりとも出来なくなっていた。
ちょうど1週間後、メールボックスに仕事関係の連絡メールに挟まれた彼女からの返信を見つけた。わたしは逸る気持ちを抑えつつ、彼女からのメールを開いた。
短い文章だった。
おじさん、お便りありがとう。
おじさんの「こわさ」、教えてください。
安心した。安心してるのに、なぜか、わたしの心臓は張り裂けんばかりに高鳴っていた。
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