シドニー雑記帳
■連載小説■===あなたがわたしにくれたもの===
●第2章
美奈が学校に行かなく、いや、行けなくなって1ヵ月になる。
私は主人と相談して、かなり抵抗はあったものの、思い切って知人が紹介してくれた精神科医に連れていくことにした。11歳になったばかりの子供とはいえ、多感すぎて登校出来なくなった美奈には、「精神科」の看板はさぞやショックだったことだろう。美奈は黙ったままぎゅっと私の手を握って、精神科の門をくぐった。
「美奈ちゃん、いらっしゃい。さあ、そんなに怖がらないで。いつもおうちでおとうさんやおかあさんにお話しているように先生にお話してくれればいいんだから、ね。」渡辺さんの奥さんに紹介してもらった精神科医は、感じのよい40前後の男性で、噂通り子供の扱いに慣れていた。しかし、美奈は結局一言も喋らず終い。
美奈は『対人恐怖症』だった。先生は「始めはみんなこうなんです。諦めずに、しばらく通院するように」と明るく励ましてくれた。
家での美奈は、いつもと同じように、一人自分の部屋に籠もったきり。時々部屋を覗きにいくと、ぬいぐるみ相手に話かけていたり、何かノートに書いていたり。しかし、一日のほとんどの時間はぼんやりと過ごしているだけの様子だった。
ときどき、学校のクラスのおともだちが、やってきてくれた。でも、美奈は部屋を出ようとしない。誰にも会いたがらない。何度来ても顔すら出さない美奈に、親切だったおともだちも、次第に離れていってしまった。
かわいそうな美奈。たった一人ぼっち。なんとかあの子の心の中に触れたいけれど、あの子は殻を閉ざしたまま、母である私ですら入り込めない。どうしてこうなってしまったんだろう?
思えば、私のかわいい一人娘、美奈は生まれた時から繊細だった。いや、お腹の中にいる時から、環境の微妙な変化を察して、すぐに赤信号を送ってくるような胎児だった。触れたら壊れてしまいそうなほど、繊細なあの子に、私は気を使いすぎていたのかもしれない。いつも環境から守ることしか私の頭にはなかった。それが、あの子の精神を更に弱め、対人恐怖症にまでさせてしまったのかもしれない。
ああ、私は母として、何もしてやれないどころか、あの子の不幸の元凶にまでなっていたのだ。情けない。申し訳ないことをしてしまった。しかし、もう取り返しはつかない。これからのことを考えていくしかない。
当初心配したように精神科通いを嫌がるわけでもなく、美奈は毎日私の手を握って黙って家を出た。先生としばらく向き合い、先生の話を聞く日々を繰り返すうちに、美奈は淡々と口を開き出した。
「こわいの....」
「こわいの?そう。なにが怖いのかな」
「....わかんない....でも....会いたくないの」
「先生にも?」
「う...ん。先生は...よくわかんない」
「そう。じゃあ、おかあさんは?」
「おかあさんは....おかあさんは......わかんない...」
美奈の目から乾いた涙が、ぽろぽろとこぼれ落ちた。美奈は目を見開いたまま、そのまま、静止していた。たったそれだけの言葉を吐き出すために、美奈は小さな体からどれほどの力を振り絞っていたことだろう。美奈は初めて心をこじ開けようとしているのだ。私は美奈の一言一言を噛みしめながら、痛々しさといとおしさが混沌と渦巻く胸の高揚を必死に堪えていた。
その日、先生は私を診察室に呼んだ。
「おかあさん、今日の美奈ちゃん、がんばりましたね。わかりましたよね?少しずつ、外に出ようとしています。今がいいチャンスかもしれません。ただ、いきなり生身の人間と触れさせるのは難しいでしょう。まだまだ時間がかかります。焦らずにいきましょう。」
「はい」
「ところで、お宅にパソコンがワープロ、ありますか?」
「はあ?パソコンがワープロ??..ええ、主人のワープロがありますけど」
「そうですか。出来たらそのワープロを使って『パソコン通信』をさせてみた
らいかがかと思うのですが」
「え?なんですか、その『パソコン通信』って」
「あの、パソコンやワープロを使って、電話回線を通じて文字によるコミュニケーションが出来るメディアなんですが、ご存知ないでしょうか」
「ああ、少しは聞いたことがあります。だけど、そんなものを美奈にさせて、一体どんな効果があるというのでしょう。だいたい美奈はキーだって打ったこともないんですよ」
「ああ、操作は大丈夫でしょう。子供は覚えるのが早いですから。
いえね、実は精神科医の立場でこんなことをお勧めするのも不安ではあるのですが、事例があるんですよ、パソコン通信で対人恐怖症を治した患者を見ていたもので」
「へえ、そうですか。私はどんなものだかわからないので、先生を信頼するしかありませんが」
「ではね、ご主人とよくご相談なさってみてください。通信を始めるのに多少の投資が必要ですので。また、美奈ちゃんにとって、100%効果を発揮するとも私としては断言出来ません。逆効果になることもありえるとは思います。ただ、今の美奈ちゃんの様子を見ていると、今なら効果が期待出来るのではないか、と。単なる経験則なんですがね。そんな気がしたもので。何度もいいますが、これは精神科医として勧めているのではなく、私個人の美奈ちゃんをなんとかしてあげたい、という想いからひとつの案として勧めているに過ぎませんので。無責任なようですが、判断はご両親にお任せします。というか、お任せするしかないのです。ご理解いただけますね?」
「はい、わかりました。主人と相談してみます」
こうして美奈の『パソコン通信』世界への接触が始ることとなった。
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