シドニー雑記帳
■連載小説■===あなたがわたしにくれたもの===
●第1章
僕が美奈ちゃんのことを知ったのは、次の番組制作の企画中のことだった。
その頃、僕は『人と人との関わり合い』にとても興味を抱いていた。人と人とはコミュニケーションによって親交を深めていくわけだが、そのコミュニケーションのツールはいわゆる5感によるものばかりではなく、何かもっと深いものが通い合うことがあるのではないか、という想いが僕の心を捉えて離さなかった。これを伝えなければ....。どういうわけか強い衝動が体を走っていた。
僕は恋をしていた。僕はいわゆるギョーカイのディレクターということで、実力以上に女にもてたし、それをいいことに美人アナやモデルや芸能人相手に火遊びもしたし、勿論本気で恋におちたこともあった。しかし、彼女は違った。僕にとっての彼女という存在は、これまでのどの例にも含まれない種類のものだった。
僕が初めて彼女に会ったのは、ある美術館の彫刻展だった。番組編集で徹夜続きの明けの休日の昼下がり、僕は銀杏並木を通り抜けて一人ぶらぶらと散歩に出掛けた。途中、通りかかった美術館にふらっと入ってみた。なんとはなしに彫刻を眺めていると、一人の女性が目にとまった。
色白で、体は細く頼りなげで、ずいぶん流行遅れのファッションを身に纏った女性は、その場からなにか光を発しているかのようだった。僕の5感の全ては彼女に集中した。ゆっくりと白い手を伸ばし、石の彫刻をまさぐっていく。と同時に、白い頬は次第に紅潮していく。目は作品の方ではなく、どこか遠く虚空にある。が、視点はしっかりと1点に定まったまま。
けっして美人とは言いがたい彼女の、その表情は、矛盾するようだが、とても美しかった。きらきらきらきら、その光が僕には眩しかった。僕はその光に導かれるように、彼女に近づき挨拶をした。そして、僕たちはその場からとても親しくなった。
彼女は全盲だった。しかし、彼女は視力に替わる、いや視力以上の素晴らしいものを吸収して感じ取る特別な『能力』を備えていた。それを『能力』と呼ぶのは、ちょっと抵抗があるのだが、他にちょうどぴったりとはまる言葉を思いつかない。彼女は感じ取るばかりではなく、彼女自信からキラキラ輝く素晴らしいものを発散していて、それが僕を魅了した。彼女と過ごしている時間に、彼女の不足した視力を補ってあげようとは僕は一度も思ったことはなかった。彼女には不足したものなど、何もないのだ。不足どころかあふれんばかりの感性に充たされているのだから。
そんな彼女との人間と人間としての触れ合いは、僕がこの30年間に経験してきたどんなものとも異なっていて、彼女と心が触れ合うたびに、僕は心が振動し、今まで聴いたこともないような美しい響きを生み出してゆくのだった。それはまるで、美しい音を共鳴させる名器を手にして、最初の1弦を弾いた時の感動を味わっているかのようだった。
僕にとって彼女は『居る』だけで十分だった。そこに存在していてくれさえすれば、心が休まる。そんな人だった。恋愛感情には違いないのだが、男女間の色恋沙汰を越えた気持ちを僕は初めて満喫していた。
僕はそれまで特に社会問題を取り上げたドキュメンタリー番組のディレクターとして、それなりの評価を得てきていた。だが、彼女の存在が僕を刺激し、これまでの作品とは違う、なにか人間の神髄に触れるような番組を作りたいと思うようになっていた。
彼女によって覚まされたこの想いをどうしたら伝えられるのだろう....?僕は考えた。資料もあたった。人にも話した。いっそのこと、彼女自身をテーマに取り上げようとも思った。しかし、それはなにか反則のような気がして、その考えは僕の中ですぐに却下された。
そんな矢先、ある大学生が書いた論文に遭遇した。それは、ある登校拒否の女の子の心理を研究したものだった。そこには対人恐怖症と葛藤しながらも、少女を応援する人たちと知り合い、少しづつ交流を深め、そして少しづつ心を開いていった少女の心理の変遷が細やかに報告されていた。
僕はピンときた。
これだ!
この少女が心を開いていった過程にあるものこそ、僕が表現したいと思っていたものがあるはずだ。この論文には全ては語られていないけれど、きっとここには僕が彼女から受けた刺激を表現するヒントが隠されている....。いわれのない自信と衝動が僕をつき動かした。僕は、少女に会うことにした。
この論文に報告されている少女を探し出すのに、だいぶ手間取った。僕は諦めなかった。しかし僕の執念はついに少女との面談を現実のものとさせた。
こうして翌年、春、僕は美奈ちゃんという少女に出会うことになる...。
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