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Essay 981:「仕事したくないなー」と思って当然

〜日本人の「やる気ない度」が世界最低だとか
〜それは「いいこと」なのではないか


2021年03月14日
 写真は、一昨年行った上越オフの際の風景。ああ、また行きたいな〜。




仕事したくない


 仕事?なんでしなきゃいけないの?できりゃしたくないなー、って思いませんか?

 そりゃ、面倒な仕事なんかやらない方が楽チンであり、誰だってそうだよってことなんだけど、それ以上の深い意味で。特にここ5年、10年スパンでその感覚が強まってませんか?

 何というのか、仕事をする理由のリアリティが年々減ってきている、かのような。

仕事する理由

 改まって聞きますけど、仕事すべき理由ってなんですか?

 思いつくままに数え上げれば、、、
 (1)生きていくために必要(直接的に)
 (2)お金を稼ぐため〜生きていくために必要(間接的に)
 (3)楽しいことや、幸せになるための手段としてお金が必要だから
 (4)精神的・哲学的な理由

 (1)直接生存仕事は、ロビンソン・クルーソーみたいに無人島に一人暮らしのような状況では、生きていくために、やれ飲水を確保して運んだり、食料を探し回ったり備蓄したり、安全な住処を作ったり、衣服や靴、道具などを作ったりするのは、全て生存に直結します。そういったこと一切が「仕事」であり、やらないと死ぬか、非常に不快なことになるので、やらざるをえない。

 (2)は、分業社会、資本主義においては、お金があれば基本(1)直接生存部分はまかなえるので、(1)の代替としてお金が必要であり、そのお金を稼ぐために何らかの有給の仕事をしなければならならい。ま、普通の話ですよね。

 (3)は、稼いだお金で、生存以上の楽しみ〜美味しい物を食べたり、旅行にいったり、カッコいい服を着たり、お化粧したり、芸事をアート鑑賞などの楽しみを得られる。楽しくなるためにはお金が必要だと。

 (4)精神(哲学)的理由というのは、ちゃんと働いて社会貢献してこそ一人前であり、そういう人になりたいという欲求、あるいはそういう人だと思われたいという認知欲求。やればやるほど儲かったり、生活良くなったりする報奨性。または、世のため人のために役に立っているという充実感、自らが価値あると思うものを作り上げる自己実現感。社会に出ていって人々の中に入っていくという連帯感や一人前感。なんか意味あること、ある程度コンスタントにストレス負荷をかけてやらないと、腑抜けのダメ人間になってしまうとか、単に盲目的に洗脳されてそういうもんだと思いこんでるとか、そのあたりの理由。

 他にも沢山あるのでしょうけど、そういったリアリティが感じられれば感じられるほど、「おっしゃ、今日も頑張るぞ」「カーチャンのためならえーんやこら」となる。だけど、そのリアリティが薄らいでいくと、その分、熱量がさがっていって、「なんでやらなきゃいかんの?」と疑問になる。

 では、実際に働く意味(リアリティ)は薄らいでいるのか?というと、実際に薄らいでいると僕は思います。

薄らぐリアリティ

 どっかで自給自足生活でもしない限り、モロに(1)ばっかりでやってる人は少ないと思います。ま、日常的な家事など(自炊、洗濯、掃除、買い出し)も、これに入るとしたら、それはやります。大体において面倒くさいし、やりたくないような事が多いんだけど、それをやるべき必要性(リアリティ)はわかります。やるのは面倒くさいけど、やらないともっと不愉快になるから。ちなみにこの必要性(リアリティ)が薄らいでいくと、いわゆるゴミ屋敷になったりするのでしょう。この(1)に関しては、昔とそんなに変わらんと思います。だから今回は論議の対象ではない。

 (2)(3)も基本昔と変わらないと思います。しかしそれを取り巻く状況、それに伴う心理的な変化(4)はあると思います。

 日本での生活についていえば、物的なレベルではバブルの頃にもう水準点(合格点)にいってしまっているし、利便性などについても2000〜2010年くらいにピークに達してるように思います。高度成長のあたりまでは、頑張る→物質的に豊かになる(家電製品が増える、新車を買うなど)→生活がハッピーになるというのが、今から思えばめっちゃくちゃリアリティあったのですよ。冷蔵庫とか洗濯機が無い生活なんか考えられないでしょうに。あると無いとは大違いです。

 でも、80年代でそこそこレベルまでいって、あとは枝葉の部分というか、プレミア付加価値部分で、ブランド品ブームになったりするわけです。それも90年代のバブルで一応の頂点に達した。ここから先は無から有が生じるような大きな飛躍はない。利便性というのは、インターネット回線が安く利用できるようになったとか、早くなったとか、どこでも動画が見れるとか(昔は激遅・激高で無理だった)いうこと。交通機関も、昔は新幹線開通、わー!とか無邪気にやってましたけど、今へ整備新幹線でも、無駄とか批判もあるし、今の日本のどこに新幹線が走ってるのか全部正確に知ってる人なんかマレじゃないですか?リニアモーターカーでも、あれって70年万博の頃は「夢の新技術」で皆キラキラ瞳で語ってたもんですけど、今は「まだやってんのか?」という扱いでしょ?新幹線の最高速度が更新されると、なんとなく誇らしい気持ちだったけど、最近話題にもならないんじゃないか。

 思えば単純で幸福な時代だったのですよね、昔は。量が豊富とか、速いとか、ビルが高いとか、大きいとか、今から思えば子供だましみたいなことでも一々ハッピーになれたわけですよ。でも、自ずとそれも限界があって、いくらお金が山程あっても、一回に食べられるのは一人前であって、金持ちになると百人前食べられるわけでもない。あとは美味さになるけど、これも一定レベルから先は、通(つう)の世界というか、虚栄の世界というか、そんな百倍の料金はらったら百倍美味しいってもんでもない。昔は、成功すると豪邸に住んで、庭には築山と池には錦鯉を、、なんてドリームがあったけど、今どき錦鯉とか別にいらんでしょ。それがドリームにはならんでしょ。

 つまり、ハッピーになるための絶対水準みたいなものがだんだん見えてきて、際限なく右肩上がりするわけじゃないよねってのが皆も分かってきた。またこれまでハッピーの条件のように言われてきたことでも、必ずしもそうとは限らないよね、自分のとってのベストであればいいだろうと。一言でいえば、「憑き物が落ちた」というか、オブセッション(強迫観念)がなくなった(人が増えてきた)。

 と同時に、時代の進展とともに、最新技術もコモディティ化(普通の日常品化)して、出たばかりのころは最新鋭・最高級機種30万円也だったのが、3万円くらいで、どうかしたら無料になったりもする(YouTubeで古今東西の名演を無料で視聴出来る)。だからそこまで必死こいてお金を稼がねばならないというわけではない。

 もっとも日本政府のお陰様をもちまして、国民負担率(年貢の重さ)が2倍にくらいに増えている(1970年で24.3%→2021年46.1%、潜在負担率は56%、出典はいくらでもあるが例えば 今年度「国民負担率」 過去最大の見込み 新型コロナで所得減少 NHK2021年3月8日)。100万稼いで24万税金&保険料持っていかれていたのが、今は46万も持っていかれている。しかもこれはマクロ統計であり、低所得者者の場合は相対的にもっとキツいと思われる(逆進的な消費税率があがってたりするし)。かくして「稼いでも楽にならざり、じっと手を見る」という金銭圧力は変わらないか、悪化してます。だから働かなければならない必要性はあるんだけど、昔のような「幸福になるため」ではなく、「死なないため」というお尻を蹴飛ばされて泣く泣くやってるという悲惨な話になってて、全然楽しくない。

 それに加えて心理的なもの。一つは報奨性の減少。どんな馬鹿でも、よほどのことがなければクビになることはなく、また定年までには誰でも課長にはなれたという夢のような時代はとっくに終わって、どんなに頑張っても派遣止まりとか、正社員でも昇給昇進希望薄、そもそも会社が存続するかどうかすら怪しい状況では、頑張り甲斐がないです。

 また、とっても自然に「他人は他人、自分は自分」という個人主義が普通に行き渡ってきて、結婚は社会人資格の当然の条件みたいな発想もない。いっときみたいな猫も杓子も同じ格好して、同じ流行歌を口ずさんでという感じではない。

 まあ相変わらず隠微な同調圧力はあるし、マスクなんかもそうだけど、よく考えるとあれって、同調圧力じゃないかもしれないですよ。たまーに、サイコパス的なマスク警察や特高みたいな「面倒くさい奴」がどっかにいるかもしれないから、それ対策にマスクしてるだけでしょ?丁度、学校に超ウザい生活指導の教師がおって、とっ捕まるとパワハラ・セクハラされ放題という恐怖があるから、一応形だけでも従っておこうかという程度。だから「皆がやってるから」ではなく、どっかに鬼みたいなのがいるから、だと思います。

 なんかで読んだのだけど、講師から見ると、今の大学生って共通の話題が殆ど無いとか。雑談とかで、みんなの知ってる話をしよう、マンガの話はどうだ、ワンピースはどう?とか振ってみても、「ワンピースってなんですか?」って知らない人も結構いる。だから同世代だったら全員知ってるという昔の「普通」は既に無い。だから、仕事についても、昔ほどの圧力はない。

 一方、企業レベルにおいても、売れる新商品のネタがほとんどないので(何度も述べているが、今が技術開発の踊り場みたいな状況)、いきおい売り方とか、半分だましみたいな姑息な商法になってしまうし、自社の製品を売り込むについても、昔ほど、世のため人のためになっているとは思いにくい。

 これは日本だけではなく、これも何度が紹介したように、アメリカの調査でも、ホワイトカラーの70%くらいが、自分の仕事に本当の意味など無いと思ってるという。ま、実際、意味なんかないような仕事が多いしね(またそういう仕事に限って高収入だったりするジレンマがある)。

 例えば、儲かる金融会計コンサルティングなどでは、いかに節税するかで、国際企業を巧みに分社化し、本社を法人税の安いところに移転し、どういう勘定項目でどういう連結財務にするともっとも節税効果があるかという難しい計算をやったり、実行したりするといいます。年収数千万のいいお仕事なんですけど、しかし、それって「意味」あんのか?世のため人のためになっているのか、社会に貢献しているのか?むしろ、社会に貧富格差を拡大し、一般庶民の生活をますます苦しくするだけの所業ではないのか?とか。だから、超エリートくんでも、最初はそこにはいって達成感!でも、だんだんバカバカしくなって辞めて、どっかの国でNPOがやってるとかいう話が、それこそ2000年頃からあります。

 今は公務員といっても窓口にいるのは派遣の方が多い。特にパソナとつるんでる大阪の場合は、窓口はパソナ派遣(あとは富士通だっけな)が多い。でもって、お金が無くて困ってる人を追い返したり、就職先でまたパソナを紹介して一粒で二度美味しい(竹中氏にとっては)ことをやり、且つ給付を打ち切りにしたらボーナス6万円とか報道がありましたわね。救命ボートに必死にしがみついている人を、ガンガン蹴り落とすようなことは、誰だってやりたくないと思いますよ。寝覚めが悪いし。そんなものにモチベーションを抱けというのが無理な話。

 それに自己実現で言えば、自分で創作活動して、路上ライブなり、YouTuberなりやればいいし、そういう発想や行動、発表のチャネルは増えている。なにがなんでも仕事でなければ自己実現や充実感を得られないってもんでもない。また、ボランティアやNPOが根強い活動をしているのも、本当に世のため人のためになること、やっていて充実感を持てるものは、金にならない(仕事にならない)ということでもある。

 以上、他にもいくらでもあるんだけど、駆け足でばーっと見てきた感じで言えば、いまどき、仕事「ごとき」に高度成長あたりのモーレツ的な気合が入らなくても、そりゃあ無理ないだろって気がします。

日本人の活力が世界最低だとか

 ちょい古いニュースですが、「日本人の活力が世界的にかなり低い(ほとんど最下位レベル)」という刺激的な話が出回りました。

  それほど網羅的な調査結果があるわけでもないようですけど、例えば、世界でダントツ最下位!日本企業の社員のやる気はなぜこんなに低いのか?というマーケティング会社の記事があります。

 要旨を抜書きするよりも、キャプった画像を読んでもらった方が早いので貼り付けておきます。


 あるいはG8の中で最下位。日本人の「やる気」が低い理由とは?では、こんな感じ。

 これらの論稿は、もっぱらマーケティングや企業経営というビジネス視点のものです。企業理念がぼやけてるとか、将来に対する希望がしょぼいのでモチベーションがあがらないとか、その種の話です。

 そのことの当否はここでは論じません。
 面白いのは、この傾向を全然別の視点から捉え、むしろ「よいこと」「新しい可能性」として捉える論説群があることです。

 例えば縄文体質は未来を拓く〜第7回 なぜ日本人は世界でダントツに活力がないのか?から引用すると、

島国である日本はこれまで太平洋戦争を除けば略奪戦争の経験がない。それ故に15000年前から持ち続けた縄文体質が今でも濃厚に残っている。この縄文体質は相手を肯定視し、集団で課題に取り組む事に長けている。西洋が個人主義で自分以外は敵という私権社会の中で数千年生きてきた歴史があるのに対して日本では大衆まで広がる私権社会の歴史は明治以降でたかだか150年、遡っても1500年しかない。つまり、元々縄文体質の日本人が西洋に勝つために私権社会に付け焼刃で向かったが故に、私権社会の根本構造も関係性も肉体化できておらず、70年代に貧困が消滅、豊かさが実現するや否やその活力は私権もろとも一気に衰弱してしまう。


 あるいは、【実現塾】活力どん底の日本人の可能性(本能編)によれば、
 
 5500年前イラン高原で始まった皆殺しの略奪闘争が、西洋にも東洋にも伝播して原始共同体が悉く破壊され、大陸全体が力の原理=私権原理によって統合されることになった。
 他方、日本は大陸から離れた島国なので、共認原理の原始共同体のまま残存していた。
 しかし2300〜2200年前、中国での戦乱で敗れた呉や越の軍団、あるいは始皇帝配下の徐福の率いる大船団が、日本各地に上陸し各地に小さな国を作っていった。
 私権原理を知らず共認原理しか持ち合わせていない縄文人は、力の原理の渡来人に簡単に服属し、あるいは歓迎して受け入れた。そして、彼ら渡来人が支配者となっていった。
 続いて1500〜1400年前、高句麗に敗れた新羅や、唐・新羅に敗れた百済の王族・貴族たちが、次々と日本に渡来。天皇を頂点とする国家を形成した。
 しかし、共認原理の縄文人は、力の原理に対応する術を持たないので、彼ら支配階級をお上として切り離し、自分たちは村落共同体を形成して相変わらず共認原理で生きてきた。
 しかしそれは、村落共同体を超えた社会や国家のことは「自分とは関係ない」と捨象する意識を根付かせることになった。

◎結局、朝鮮から来た支配階級は3000年前から私権収束しているが、大半の農漁民はほぼ縄文体質のままで、庶民が私権収束を強めていったのは、せいぜい明治以降150年に過ぎない。
◎縄文体質と自我・私権はもともと背反するので、私権の衰弱スピードは日本人が段違いに速い。私権が衰弱すれば、私権と一体化されてきた独占欲の性も、どこよりも速く衰弱する。
◎それが、日本人の活力がダントツで世界最下位である理由である。と同時に、日本人の私権収束が段違いに弱いということは、脱私権⇒本源収束の可能性をどこよりも豊かに秘めているということでもある。

縄文共生文化と弥生競争文化

 細かな部分ではツッコミどころもあるんですけど、そこはスルーして、大体似たような論理展開になるみたいで、僕がエッセイで折に触れて書いてることとも重なる部分も多いので、やや我田引水気味に展開してみます。

 日本にはもともと縄文文化的なベースと、渡来系(弥生)文化が混じり合っていて、縄文文化は原始共同体的な傾向をもち、「私権」「私有」という発想がわりと薄い。だから競争や戦争をして他者を打ち倒すことが自らの幸福になるという発想もまた薄い。しかし、こういうのほほんとした共同体では、強力な組織集団も作れなければ、細部に渡って緻密な論理構造を持つ法社会体系も築けない。そこまでする必要がないから。

 その点、昔から食うか食われるかでやってきた大陸渡来系は、生き残るためには競争や闘争が不可避だったため、強力な組織構築力や軍事力を持ち、のほほんとした縄文集団は渡来系集団に支配されてしまう。まあ、このあたりの騎馬民族制服説やら、天皇権力や大和朝廷の発足の経緯などは諸説入り乱れているでしょうし、僕もよく知らないので深くは立ち入りません。ただ、稲作(農業)やら仏教やら、生活技術体系と文化と論理が外部(大陸)からやってきたのは確かにそうだろうし、「ヤマトタケルの全国制覇伝説」「神武天皇の東征」が残ってることから、「征服」的な現象はあったのだろうと思います。

 日本史って本当は1.6万年以上あって、90%以上が縄文時代のものなんだということを書きました。(Essay 523:B型起動スィッチ〜1万6000年の日本史)。日本人の本当のベースを作り上げた縄文時代だけど、文字や記録が無く古墳群や遺跡によって推知されるだけだから存在感がない。僕らが「日本史」だと思っているのは、征服王朝によって書かれた日本書紀やら古事記以降の話で、全体の比率でいえばわずか直近10%=1500年でしかない。

 長い時間をかけて縄文&弥生がミックスして、同じ日本人のなかに縄文的な共生原理と、弥生的な競争原理が同時存在することになった。逆に言えば、渡来系の原点であった獰猛な闘争原理は、徐々に柔らかくなっていって、国内の争いにおいても、負けた方は皆殺しか奴隷化とか苛烈なことをしなくなった。

 中国でも欧州でも、古来、城壁というものは集落全体をすっぽり覆い尽くすように作られていて、それが外敵に突破されたら、中にいる支配者王族・戦士だけではなく一般民衆も皆殺し(or 奴隷)にされた。闘争=皆殺し。しかし、日本の場合、一番激しい戦国時代でも、町をすっぽり高い城壁を巡らせることはなく(周囲にお濠をめぐらした環濠都市である堺くらいか)、一般にはせいぜいお城の石垣とか堀とかそんなもん。城下町やら農地はまったく無防備。戦乱になると城下町を焼き払ったりとかやられたけど、その代わり、負けたとしても支配者層が殺されるだけ。一般民衆は支配者が変わるだけのことで殺されはしなかった。また、どうかすると敗軍の将兵達も新しい親分についていけば命は保証されるどころか、新たに出世することもできた。

 生ぬるいっちゃ生ぬるいし、平和ボケと言われたらそうなんかもしれないけど、「殺すか殺されるか」という苛烈な風土ではないです。

 ただし、これはもともと日本人がそういう優しい人格類型を持ってるとか、そういう人種論ではないでしょうね。種としてのホモサピエンスの特性なんか世界共通で、あとは環境に適応することで生活形態が変わり、世界観や価値観、文化も変わるだけのことだと思います。

 苛烈さでいえば、世界史上最強のモンゴル帝国(ジンギスカンとか)は、中国であろうが、インドであろうが、ロシアであろうが、東ヨーロッパであろうが、またたくまに征服してるのですけど、彼らの激しさは降伏とか捕虜を許さず、ひたすら皆殺しにする点だといわれます。中国だって古来万里の長城を設けるくらいだから、超ビビってたわけだし。ただしそれは彼らが鬼畜民族だというわけではなく、それなりに合理的な理由があった。一番大きいのは農耕をやらない(土地に縛られない)という点だと言われてます。彼ら遊牧民族は、戦争とともに家財道具(テントと羊)をつれて移動するから、兵站(ロジスティクス)という問題がなく、だからいくらでも戦線を拡大できた。それが強さの秘訣。国家ごと移動していくから、下手に降伏や捕虜を認めると、その地方を鎮圧する軍隊を残しておかないとならず、それは出来ないから、皆殺し無人化の一択しかないのでしょう。付随理由としては、遊牧民族だから家畜屠殺は日常業務だから殺すということへの躊躇いが少ないとか。常に馬に乗ってるから、地べたに這いずり回ってる農民はバッタみたいな存在にしか見えなかったんだろうという説もあります。でも、生活形態から出てくる部分が大きいと思いますね。

 日本人の特性を形作ったのは、多分これも地形と気候でしょう。中国大陸だって欧州だって、日本に比べればめちゃくちゃ寒い。農業やるにしても、生き残るにしても環境が厳しいから、必死にならないといけない。それでもよく餓死寸前までいっただろうから、略奪してでも生き残らないとならないという初期設定の条件があったのかもしれないです。一方、熱帯のジャングルとか、ほっといてもバナナやマンゴーがなったり、魚がいくらでも取れるところは、そこまで他人を殺さなくても(必死に軍備増強とかやらなくても)飯が食えたので、巨大な殺戮集団を作る必要性がないのでしょう。部族単位であれこれ喧嘩はあるけど、殺さないと生きていけないというほどでもない。日本はその中間くらいで、適当に豊かな自然があったし、そこまで酷暑寒冷でもない。

 さらに地形でいえば、非常に複雑な山岳、丘陵、海岸線が入り組んだ地形であって、スカッとした大平原は少ない。だから、ごく自然に、小集団の部族化していったんだと思います。山超えて隣村まで支配するのは、面倒くさいし、そこまですることもないし。いかにもスカッと広がってそうなペルシャ、エジプト、中国は古来大帝国が出来てます。

 つまり、そこそこ人に優しい自然環境で育つと、そこそこ人に優しい人になるんじゃないかってことですし、ごく自然に居住エリアが分割されていたら、そのサイズの世界観になるんだろうなーってことです。僕の仮説ですけど。

 縄文時代についていえば、縄文時代で栄えていたエリアは、まあ全国にまたがるのですが、青森の三内丸山遺跡に大集落があったことからも、日本海側や甲信越エリアが栄えていたみたいです(時期によるが)。縄文時代は、(農業は実はあったと最近言われてたとは思うけど)基本、漁労採集文化で、海で魚を取ったり、山で果実や山菜取ったりという。そこそこ食い物があったからこそですけど、当時は氷河期の関係で、わりと暖かい時期だったみたいですね。だから日本海側も温暖で実りが多かったのでしょう。それが寒くなって、収穫が減ってヘタれてきたところに、農業という生活技術が入ってきて、支配文化も入ってきたという感じなんでしょう。


 で、話を戻すと、長い時間をかけて混交されて、独特な日本的な調和のままのほほんとしてたら、幕末になって、今度はもっと苛烈な殺し合いをやってきた西欧諸国がやってきた。彼らは持ち前の合理性を極限まで活用して、強力な軍隊、科学技術、社会統治の技術を極めているので、明治政府は一足飛びにそれに追いつかなければならなくなり、ここから近代から現代日本の西欧化というか、西欧的な私権原理や競争原理が日本人の価値観や世界観になって、現在に至ると。幕末以降の直近150年が超駆け足になってますが、1.6万年の僕らの歴史からすれば、直近150年など比率的には1%に過ぎず、微々たるものですから、そのくらいでいいのだ。

 でもって、明治の初動やら、戦後の高度成長など、頑張れば生活が豊かになるというリアリティを感じられるうちはまだ皆も頑張れたのだが、バブルの頃を頂点にして豊かさが飽和状態になってくるにつれ、本質的にやる意味を見失っていく。だから「おー、仕事を命を捧げるぞー」という気分になれない。まあ、ここまで歴史を通観したり、言語化して思うわけではないんだけど、生き物の本能としてにわかるんじゃないかな。だって、そんな必死こかなくなって、今のテクノロジーのレベルを活用すれば、そこそこ食っていけるんだもん。むしろ妙に肥大化した資本金融政治システムが、進歩の果実を広く行き渡らせることを阻害している。

 ここで冒頭で書いたのとつながるのですが、単に状況的にリアリティが無くなってきたという理由だけではなく、日本人には今なお、縄文体質が色濃く残っていて、それほど骨がらみに私権・競争原理が浸透していない。だから、一過性の熱が冷めるのも早いし、冷めたらもとの縄文気質に回帰していく。

 そして人類の未来を考えると、そんな理屈と競争と戦争ばっかやってるのが素晴らしい生き方とも思えないところ、縄文的な共生方向に回帰するのはむしろ良いことであり、「やる気度最下位」はむしろ未来志向であって、良いのだ、というという感じですね。

 これは、ちょっと前に書いたこととに重なるんですけど、欧米は何でもかんでも理論化しがちなんですよね。てか、理屈(理念)という接着剤を使わないと、煉瓦を堅牢に積み上げるような社会が出来ない。中世までは宗教(キリスト教)という理屈を接着剤として使ってたけど、ルネサンス以降はまた別の合理精神などの理屈を使う。国家制度、法律、政治や人権、民主主義、いずれも理屈です。資本主義も共産主義も理屈です。この世界は理屈で極められると思ってるところがある。だから、理論、理念や正義の毒に自家中毒のように当たってしまう。あるいは暴走してしまう。その昔の魔女狩りしかり、帝国主義や奴隷制度しかり、今日のコロナ騒ぎにせよ、過度のポリコレやキャンセルカルチャーにせよ、「命よりも理屈が大事」という本末転倒感があるのですよね。

 別に理屈がダメだと言ってるわけではないのですよ。近代法から理論的展開とか法律論だったら僕の専門領域だから、いくらでも語れますし、また人間の感情が本来持っている毒性(差別感情や攻撃欲求など)を適切に抑えていくには、非常に良いシステムだとは思います。だけど、人間というのはもともとが矛盾のカタマリみたいな存在だから、一つの理論・理念、一つのシステムで全てを統括することは不可能だと思うのですよ。どっかしらズレてくる部分がある。フレキシブルなレシピー、ある程度の混沌カオスを織り込んだ方が良いと思うのです。水も漏らさぬ緻密な論理を構築するだけの能力も行動も持ちながら、それでも「今日は気分が乗らん」とかいって全部ひっくり返すのもアリ、みたいな感じ(笑)。

 その点、いい感じで、縄文ケ・セラ・セラ(何とかなるさ)気質が残ってる日本人(西欧でもラテン系はそうかな)、本気で国家や政治が自分らの問題を解決するとは思ってないし、どっか他人事。自分らのことは、自分らの原理で解決しようと思ってる部分がありますよね。何が何でも巨大な集団を構築して、厳しく統制することで生存戦略を果たすのだという必要性そのものが、今はそんなにない。そこまで必死こかなくても生きていけるだけの物的環境があるという意味では、縄文時代に似てると言えます。もっとも、その母体となる縄文的母集団がなくなってしまっているから、自発的にでも作らないといけないかもねというのが先週の話です。

 この手の話は、無限に続いていくんだけど、長くなるので今週はここまで。
 というわけで、「仕事?かったるいなー」と思ったとしても、それはあなたが怠け者の人格破綻者だからではなく、むしろ「いいセンスしてるな」ってことだと思いますよ、僕は。






文責:田村


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