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今週の1枚(2011/07/11)



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Essay 523:B型起動スィッチ



 写真は、Haberfield。いいですよね〜、このうらびれたテイスト。ワンコが寝そべっているのも良い。ハーバーフィールドの商店街は、地味で小さいのだけど、ここ10年ほどチャラい商業主義に”汚染”されつつあるライカードよりも、イタリアン濃度が高い。昔はライカードもこんな感じだったんだけどな。

 真正面に写っているのは、知ってる人は知っているイタリアの老舗のパン屋さん、CASSANITI BAKERY。ほとんど店名なんか見えないし、単に”Haberfield Bakery"でも名前が通ってますけど。一応HPもあって(別窓)、典型的な戦後のイタリア系移民一家のお店でしょう。お父ちゃん(アントニオ)がお母ちゃん(アガタ)が頑張って、働いて、また頑張って、盛り立てて、3年前に息子二人が代を継いでます。勤勉こそが人生である、みたいな。この店も1969年からだから、もう40年以上。客も殆どイタリア系でしょう。40年も本場のイタリアンに支持され続けています。店内は殺風景なくらい昔のまんま。内装に凝るとか、そういうチャラ度はゼロ。素晴らしい。日本の下町の昔ながらの、でも美味しい、お豆腐屋さんみたい。

 パンそのものは、あまりにも本格的にイタリアンなので何を買えばいいのかもわからんし、それだけ食べても別に感動的に美味しいわけでもないです(というか僕の味覚が未熟なのでしょう)。無愛想なくらい素朴。その意味でも豆腐屋に似てる。それをどう美味しく食べるかは消費者の責任という。閑散としているようで、入れ替り立ち替り近所のイタリア系とおぼしきお客が入ってきて、「いつもの」って感じで買っていきます。
 でもって激安。チェーン店のBakaer's Delight(これも美味しい)あたりの価格感覚からしたら半額以下。先日もブリオッシュ6個と目についた揚げパン1個買って3ドル幾らでした。これだけ有名店になったら、もっと華美でボロい商売しても良さそうなのに、その気はなさそうです。ちなみにブリオッシュ(Brioche)は、最初なにげに買って美味しかったから名前を聞いて覚えた。調べてみたらフランスの菓子パンらしいけど、地域によって別物みたいにバリエーションがある。ここのは丸い、何の変哲もないコッペパンのようなものでしたが、ほんのり甘くて美味しかった。一個50セントくらいじゃなかったかな。揚げパンは、昔の給食の揚げパンみたいな感じだけど、これも意外とくせがなくて美味しかったです。


日本人Aと日本人B


 常々このエッセイでも書いてますが、日本人というのは人格分裂していて、同じ人間の中にA型遺伝子とB型遺伝子の二つがある。仮にABで呼ぶなら、Aは真面目な集団タイプ、Bはアクの強い個人タイプ。

 なにやら血液型のようですが、血液型と違うのは、誰もがその両方を持っていること、AとBの割合比率が50:50であること、別に血とは関係ないこと、です。
 これを別のキーワードでいえば、縄文 VS 弥生です。あるいは独立自営型 VS サラリーマン型といってもいい。何となく感覚的に分かると思いますが。

 「それがどうした?」というと、
 第一に、日本史と日本人を長いスパンで見ればABの割合比率は50:50、あるいはB型強勢になる点、
 第二に、それが日本人のあり方として最もナチュラルでバランスが取れていること、
 第三に、「日本史」という形で記述され始めた頃からA型が支配的になり、さらに400年前の徳川幕府によってA型シフトが強くなり、戦後の直近60年でまた一段とA型が強くなっていて、今日ではかなりトータルでバランスを崩していること、です。

 今の日本はどんどん衰退に向っていると言う人が多いし、そういう側面もあるだろうけど、それはA型的な視点や感性で見るからそう見えるだけでしょ?と。これをB型的に見れば「うわ、すげー面白くなってきた!」とも言えると思う。でも、衰退論が日本を覆っているとするならば、それだけA型シフトがキツイということであり、それだけバランスを崩しているということでもある。だから、本来の姿に戻せばいい。皆の中にホコリをかむって眠っているB型ソフトウェアを起動させればいいのに、というのが本稿の要旨です。

 以下、うだうだ歴史的展開とか書いてますが、別に読まなくてもいいです。上の命題を論証しようとあれこれ調べてて、「おお、そうだったのか」と思うことを備忘録的に書き留めているものです。色々書いてますが、これはあくまで一つの見解であり、どの一行をとってみても実は諸説入り乱れていて、本十数冊分のボリュームがあります。あくまで参考程度にとどめてくださいね。

農業のはじまり 米と麦

 この地球において人類が生きていくパターンは大きく二つあって、一つは稲作などの農業系、もう一つは狩猟(漁)や遊牧です。後者の場合、「このあたりはもう獲物が少なくなった」となればドンドン移動していきます。遊牧でも食べさせる草が無くなったら別の地を目指します。何を言ってるかというと、「土地に縛られるかどうか」です。一生移動し続ける人生と、死ぬまで同じ場所にとどまり続ける人生。この違いが人々のものの考え方や世界観、宗教、集団ルール、倫理などあらゆる面での違いになって現われてくるであろうことは、想像に難くないです。ジンギスカンなどの中央アジアの騎馬民族の人達は「農業はやらん!」というカルチャーが強かったため、他の農業人類とは違った文化を持ってます。

 農業、とくに黎明期における穀物農業の場合、麦系と稲(米)系があります。本当は「五穀」というくらいだから、粟とかヒエとか小豆とか色々あるのですが、メジャーなところでは麦と米です。これにトウモロコシを加えて世界三大穀物。いずれにせよ農業の発見で人類史は変わります。それまでに比べて驚くほど大量の人間を養えるから、人々はせっせと農業マシンと化していきます。

 米と麦の違いですが、付け焼き刃の知識では麦は乾燥地帯、稲は湿潤地帯に適しており、中東や欧州では麦が主流になります。キリストも「一粒の麦が〜」と言ってますよね。一方アジアモンスーン地帯は米です。今でも世界の米の90%はアジア産だそうです。米作の中にも水稲と陸稲(おかぼ)という二方式あって、陸稲は水の少ないところでも栽培できるし、水稲ほど手間がかからないが、地力を消耗するので連作障害が起き、また単位収穫量も低い。だから水の豊富なエリアで治水をし、手間暇かけて水田を作るのが良しとされる。

 かくしてアジアにおいては稲作、それも水田ベースのカルチャーが起きます。耕作に適している高級一等地は、山から水が下りてくる過程、すなわち谷地です。中国の老子にだったかな「谷神ハ死セズ」というフレーズがあるそうですが、まず谷なのでしょう。くだって平地になると川がありますが、これは川から水を引っ張ってきたり、川が氾濫するので治水が必要だったりして難易度が上がります。逆にダメなのが丘で、低地から水をひっぱってくるにしてもポンプがないと難しいし。だから昔の日本では丘は劣等地。逆に麦民族のヨーロッパでは、丘は水はけの良い優良地だからイメージは良いです。明治以降、異人さんがやってきて好んで高台に住みます。長崎のグラバー邸、横浜外人墓地、神戸異人館、どれも高台にあります。戦後、欧州文化に憧れた日本人は丘にナイスなイメージを持つようになり、新興住宅地のネーミングは高級イメージを出すために「〜丘」が多くなります。僕が昔住んでいた百合ヶ丘とか、ひばりヶ丘とか、自由が丘とか。

 さて、弥生時代になって日本にも農業がやってきた、、のではなく、実は縄文期からも農業はやっていたらしいです。麦とか陸稲はやってらしい。麦は今日にいたるまで日本で連綿と作られ続けてますが、当初においてはあまり流行らなかった。水稲に比べて作るのは比較的楽なんだけど食べにくい。炊いただけでは固いわパサパサだわ、時間も水もかかる。つまりは不味い。現在では健康食としてブームですが(精白米ばかり食べてた江戸の大都市ではビタミン不足で脚気になった)、炊くだけで食べられるようにするためには、予め「押し麦」という蒸気をかけながら押しつぶすという工程が必要です。めんどくさい。麦は世界で食べられてますが、日本のように米みたいに炊く(いわゆるバクシャリ)のはマレで、多くは挽きます。粗挽きにしてか粥にするとか、きちんと挽いて小麦粉にしたり、発芽させて麦芽をとりパンにしたりします。日本でも小麦粉食(うどん、お好み焼き)がありますが、あれは技術の進展で庶民でも挽き臼が使えるようなった江戸時代以降の話らしいです。だから麦はセカンドビジネスで、米収穫後の裏作として麦を作り(だから6月を「麦秋」というらしい)、穫れた麦も馬の飼料などにしていたらしいです。

 ということで、古代(縄文期)における農業(麦、陸稲)というのは、水耕ほど魅力的な食料調達方法でもなかったと思われます。ときに世界が寒冷化したのは今から3000年前。縄文晩期です。それまでは東北地方も温暖で、森や海の恵みに溢れていたといいます。だから敢えて面倒臭い水稲などしなかったという点もあります。この点はまた述べます。

弥生式水稲=A型システムの発端

 いわゆる弥生時代が画期的だったのは、水稲栽培を持ってきたことです。これは深い意味があって、水稲は作るのが滅茶苦茶難しいから、水稲が伝わるというのは、単純に苗サンプルが届けられただけではなく、作り方がワンセットになって伝わります。一括パックですね。手間暇がかかることをやりとげられるだけの集団の作り方、規律、価値観、倫理、宗教全てが変わります。そこからA型日本が始まったと思います。ベトナムのように稲の原産地だったら気温も水も豊富ですが、それよりも劣悪な気象条件の日本で水稲をやろうと思ったら、かなり大変。何をやるにも団体行動になります。集団秩序というのがとても大事にされるようになる。

 また、初期においては天候次第で飢饉や冷害も頻繁に起き、その都度大量に餓死したりしただろうから、天気イノチになります。それまでの狩猟・果実採取、ときどき農業だった縄文人(日本人B型)も、天候が大事なのですが、左右のされ方が違う。漁師さんやマタギのように、自然を見抜く力は抜群に鋭いけど、タイムスパンは短い。「明日は海はシケるぞ」「あの山頂にああいう雲が出るときは」という時間単位で自然と向き合うし、向き合い方が能動的です。しかし、水稲の場合、ダメだといっても土地に縛られ、作らないわけにはいかないから、どうしても考え方が受け身になる。なすべきことは天気の神様に「お願い」することであり、「お祈り」することになる。だから気象=神になり、神々と交感できるシャーマンが神の眷属として敬われ(卑弥呼もそうだったのでしょう)、やがて最も力の強いと目された一族が天皇家になっていったのでしょう。

 したがって弥生以降のA型日本における基本コンセプトは「五穀豊穣」に尽きます。そしてその頂点に立つのが天皇家であり、彼らの仕事はお祈りです。天皇家が司る神道とは、基本において農業宗教であり、それゆえ新嘗祭が重要な神事として今日まで伝えられています。新嘗祭は、天皇がその年に取れた五穀を神に捧げ、豊作を感謝するもので、収穫祭ですね。11月23日。戦前は新嘗祭といっていたけど、戦後の天皇人間宣言のあとは勤労感謝の日になってます。今日では、天皇が代替わりをした一回目の新嘗祭を大嘗祭といってます(昔は毎年やってたらしい)。神嘗祭、相嘗祭などもあります。

 米=神思想は、以後の日本に連綿と伝わります。水稲により余剰生産ができれば、強大な軍事力(田んぼで働かなくてもいい人口)を生みます。かくして徐々に強大な国家が生まれ、ヤマト朝廷なり大和政権ができます。大化の改新以来、大陸直輸入の律令制度を取り入れた中央政府は、徐々に版図を広げます。つまり日本の西方から伝来した弥生式A型カルチャーは徐々に東へ、東北へと進んでいったということです。

水稲と人民支配システム〜律令制と封建制

 ここで注意すべきは、中央大和政府の覇権が広がったといっても、アレキサンダーの遠征のように大軍団がドドドと席巻したわけではないという点です。当時にそれほど強大な軍事力は無かったでしょう。坂上田村麻呂が東征にいって、東北の英雄アテルイと戦いますが、東北地方の半分くらいまでしか行ってません。大和政権が軍事的に版図を広げたというよりも、水稲というシステムが伝わるかどうかが大事だったのでしょう。A型カルチャー(生き方)がインフルエンザのように感染していくかどうか。なぜそれが大事かというと、これに感染すれば人々は土地に縛られるし、中央政府は徴税できるからです。みかじめ料を取るヤクザの縄張りと同じことですね。権力者にしてみれば、支配する民衆は土地に縛り付けられた方が都合が良いです。収穫も頭数もキッチリ把握できるし。これがマタギのように険しい山中に散在されていたら、誰がいるのかも、収穫高もよう分からない、徴税事務も大変。

 ところで、日本人は戸籍があるのが当たり前だと思ってますが(僕もそう思ってた)、オーストラリアには戸籍も住民票もありません。てか、今の時点で戸籍がある国って世界的に珍しい。韓国もつい先日(2008年かな)、違憲判決を受けて廃止したし、台湾でも事実上使われてないし、戸籍があるのは日本くらいかもしれない。権力者にとっての民衆というのは、いわば家畜みたいなもので、いかに効率的に収奪するかがポイント。大和政権の租庸調、太閤秀吉の検地、徳川幕府の人別帳、、、いずれも資産目録みたいなものです。だから戸籍というのは奴隷制度とニアリーなものとして世界的には廃止されている。個人情報というのは、目的を達するために必要最小限伝えればそれで良い。

 筆を滑らしてさらに敷衍すれば、日本にはやたら個人情報を知りたがり、自分のテリトリーに囲い込み、管理したがる弊風があると思います。戸籍だけでも無駄なのにさらに住民票までダブルで設置し(廃止すればどれだけ経費節減になるか)、それでも飽きたらず住基ネットを導入し(結局どういう福利があったのだろう)、国民総背番号制度なども言われている。お上だけかと思えば、民間でもその傾向が強い。ネットでなんか記事を読もうと思ったら、やれ入会しろだの言われるし、記入欄をみたら年齢から住所まで根掘り葉掘り聞いてくる(しかも海外という項目がなかったりして)。だー、鬱陶しいって思うのは僕だけか。

 閑話休題。さて、奈良時代の律令制土地&民衆支配システムは平安時代の荘園という植民地体制に受け継がれます。が、科学技術の進展(製鉄技術の進化と低価格化→農具の改良と普及)によって新田ブームになります。各地で新田を作った開拓者は、せっかく汗水垂らして開墾した田んぼの収穫を、また中央に持って行かれるのがケッタクソ悪い。彼らが徐々に力を付けていって、武士階級が勃興し、頼朝を押し立て、日本の律令制度は崩壊します。「武士とは何か?」といえば、鎌倉時代の「一所懸命」思想に象徴されているように、自分の田んぼは自分のものであること、農地の私的所有権を認めてもらいたい人達であり、封建制度とは何かといえばローカル地主豪族の連合(&地方分権)体制でしょう。

 以後ずっと武家支配の封建制度ですが、ここでも水稲栽培がベースにあるのが分かります。江戸時代までは、経済の単位はお米であり、大名も○万石と米単位だし、サラリーマンの原型である江戸武士のサラリーは米。○石○俵で示された。

 かくして日本史とは米にまつわる歴史であり、日本人とはお米を作ってなんぼの民族であり、だから「米は日本の心」と言われるでしょう。

そんなの「ごく最近」の話にすぎない

 でも、ちょっと待った。それは弥生以降の比較的「最近」の話に過ぎないでしょう。弥生以降の水稲A型カルチャーに染まった人々が日本史を書き残したのでそれが日本史の全てだと思いがちだけど、それ以前にも日本列島には人々は住んでいたし、本当はそっちの期間の方がずっと長い。諸説あるけど、縄文時代は紀元前1万4500年前〜紀元前1000年、弥生時代は紀元前1000年から紀元後300年(卑弥呼の頃)と言われています。つまり紀元前145世紀からの135世紀は縄文であり、弥生はわずか13世紀。1000年以上かけてゆっくり水稲カルチャーが広がり、やがて強大な国家(邪馬台国)が出てくるまでです。時間的にいえばB型縄文式のほうがずっと長い。「米は日本の心」という米作国家体制下における「日本史」はわずか2000年もない。全体からすれば10%程度の「ごく最近の風潮」でしかないのだ。

 言葉で「135世紀」とか言ってても感覚的にピンとこないから図にしてみましょう。

  縄文時代弥生12

 延々赤の縄文時代があって、オレンジ色の弥生時代は水稲がゆっくり広がる変化期、ヤマタイ国など強大な国家が出来てからが青(1)で、ここがいわゆる「日本史」の始まりで、その次の「2」という緑色が徳川幕府の江戸時代260年。さらに一番右のピンク色は明治維新〜現在までの150年間です。1(青)以降のA型的日本史が僕らの意識の上での「日本」であり「日本史」だけど、実はその後背地には途方もないB型遺産があり、これらが消えて無くなるわけはないでしょう?ってことです。

 しかし、もうモノの見方がA型に染まってるから、邪馬台国以前(赤とオレンジ)はまるで猿みたいな原始人がウホウホやってたかのように錯覚するし、弥生式に染まりにくかった東北や北海道はいつまでたっても「蝦夷(辺境の野蛮人の意味)」呼ばわりされる。

 しかし、三内丸山遺跡発掘などで最近よく話題になっていますが、実は古代においては東北が先進地域だったという話もよく聞きます。前述のように世界の寒冷化が始まったのは縄文後期からであり、以後、東北=寒冷という図式になりますが、それまでは温暖で豊かな森林の恵みがあり(世界遺産に指定された白神山地をみよ)、海や川ではほっておいても鮭が群れをなしてやってきてくれる彼の地では、あくせく水稲なんかやる必要がなかったと。また米という南方系植物を植えても育ちにくい。最後まで稲作に染まらず、また染まってからも寒冷気象条件(品種改良するのは明治以降)で「やませ」冷害に襲われる東北は、あたかも日本の後進地域であるかのような汚名を着せられている。

 汚名を着せられているのは他にもあって、例えば日本海側。「裏」日本などと蔑称まがいに言われるが、本当は大陸に近い先進地域であった。特に出雲は、神話世界の「因幡の白兎」や「大国主命の国譲りの話」などからうかがわれるように、ヤマト政権によって滅ぼされたものの、それまで日本を統べる由緒正しいエリアだった。滅ぼした側も寝覚めが悪く、また怨霊を恐れたか、奈良から見て西にあたる出雲を死者の方角とし、出雲大社など鎮魂に励んだ。その一方で貴族的面影を残す出雲美人は上代においても朝廷で重用されたという。その後も大陸との密接な連携により、ハイテクであった製鉄もここから来た(良質な砂鉄を算出するので)。

 長い歴史上、どこが日本で一番ド田舎だったか?といえば、多分東京でしょう。関東ローム層で耕作に適してないわ、広大な沖積平野で江戸あたりはただの湿地帯でしかなかった。だからこそ無人の野のようなもので、だからこそ荘園支配を逃げ出してきた人々が関東に集まり、開墾をし、武士階級の勃興となった(坂東武者)。要するに一番使えない場所であり、それを江戸時代に埋め立てして使っているだけ。もともとが水たまりみたいなエリアだから、地震かなんかで液状化が起きるのもある意味では当然。よくまあ、あんなところを首都にするわという気もする。

江戸期における閉塞的A型主義(武士・農民)

 長々と書いたのは、日本人はA型日本観に洗脳されすぎてないか?です。
 特に江戸期以降は、Bがあるにも関わらず、無理矢理A方式でいくからバランスが崩れてきている。江戸時代というのは、農本主義的米経済がメインでありつつも、近世の貨幣経済が発達しています。実質的には貨幣経済になってるといっていい。全国の産物が全て大阪に届けられ、そのための樽廻船などの全国流通網も完備されていた。だからコンブなんか取れるわけがない京都人や沖縄人がコンブ大好き民族になっている。大阪堂島では世界で一番最初に先物取引をやってたくらいなんだから、バリバリの最先端をいってたし、その実質は殆ど資本主義といってもいいくらいです。

 もし信長というB型系の人間がやった楽市楽座などの経済改革がその後も継承されていたら、日本はとんでもない超先進国になっていた可能性があります。大英帝国くらいにはなれたかもしれない。しかし三河の農村文化を濃厚に持つ家康が、徳川家を保存するというただ一点の目的のためだけにA型に固定してしまった。しかしそれでも経済は止まらない。独自にどんどん発展を遂げる。米経済と貨幣経済という、中国もビックリという一国二制度を無理矢理やり続けているから、だんだん歪みが溜まる。貨幣経済は発展するから自然とインフレが起きる。しかし、米の収穫量はそんなに上がらないから米で給料を貰っている武士階級はたまったものではない。まず藩の財政が傾き、大阪商人あたりに大名貸を頼む。もう赤字まみれの借金体制になる。そうなると「武士は食わねど高楊枝」で節約節約になる。

 江戸期の武士というのは家業である戦闘行為がないから、手柄を立てたり加増を得るチャンスもない。人口の7%いたという武士集団は、それ自体がなんの生産性も持たない穀潰し集団、ニート集団みたいになる。それでもプライドやエリート意識は高いから、高度な精神性(武士道)を持つ一種特殊なカルト集団と化する。その閉鎖社会の内部では、閉鎖集団独特のカルチャーがはびこる。すなわち藩や家中という集団の中で、いかにお家取り潰しを受けないでサバイブするか、いかに集団内部の派閥力学に乗るかということに汲々とする。同時に、そこでの評価は、「戦場での武功」があり得ない状況下では、武芸とは関係ない事務処理能力であったり、もっと言えば集団内部の「評判」になる。それも「武士にあるまじき」という立居振舞の美学や単に「仲間内でウケが良い」というようなことで決まる。江戸城では「大奥」という女同士の戦いがある。

 はい、段々何が言いたいか分かってきたと思うけど、江戸期の武士というのは、要するに「サラリーマン」なのだ。そして江戸武士のサラリーマンカルチャーは、今もそっくり日本の高級官僚や大企業のサラリーマンカルチャーに継承されているということです。ある意味では、江戸武士というのは、エリート版A型日本人を結晶化したようなものです。一方庶民A型は、全国各地の農民です。土地に縛り付けられ、五人組やらでガチガチに相互監視し、お上を恐れ、ひたすら働き、昨日と同じ日が明日もつづくことをひたすら願う。これがA型日本人庶民版です。

開放的な江戸町人のB型文化

 では、江戸期のB型日本はどこにあるかというと、江戸や大坂などの大都市の町人階級です。彼らは農民のように土地にも縛られないし、武士階級の米現物支給による貧困化もエリートサラリーマン根性にも無縁でした。勃興する貨幣経済の下、日銭仕事を貰い、生活をエンジョイしていたといってもいい。彼らは商人、職人です。商人においては、機を見て敏でなければならず、昨日と同じ事を明日もやっていたらダメだという先進性と機動性を持ち、紀国屋文左衛門の蜜柑運搬のように強力なリスクテイカーでもあった。職人世界においては、幕府が新規発明の禁止なんかするもんだから、勢い技の追求は内向化し、新規ではない従来の改良、それも徹底的に凝り倒した改良に強くなり、以後の日本の技術文化に影響を与えます。

 彼らの自由なB型流は、江戸期に大きなサブカルチャーを起こします。当時のメインカルチャーは「能」であり狩野派のような「お芸術」ですが、町人達は歌舞伎や浮世絵という、今で言えばロックと漫画のようなサブカルチャーを作り上げた。食文化も、路傍でそのまま食べられるような、およそ武士階級の発想ではない、蕎麦、寿司などが発達した。だからちゃんとB型は生きていたのですし、結果的にいえばB型カルチャーがその時代の典型的なカルチャーにもなってます。このように町人社会では近世の時代変化に適応し、どんどん前に進んで新しいものを生みだしていったのだが、肝心の武士階級が「下に下に」の参勤交代とかやってて、なんの生産性もないまま260年進歩してない。それどころか時折「倹約令」「華美を禁じる」を打ち出してはせっかくの好景気をポシャらせていた。またそれが名君と呼ばれたりもした。もう「経済一流・政治三流」という日本の傾向は、実はその頃からそうだったのだ。

明治〜現在

 幕末〜明治維新は。A型ではどうにもやっていけなくなったとき、各地で鬱屈していたB型(の武士階級)が一気に爆発したようなものでしょう。変革期になるとB型は強い。しかし、その後の発展期には地味に頑張るA型パワーがものをいいます。とにかく黙々と頑張る殖産興業です。「ああ、野麦峠」の滅茶苦茶な労働環境でも頑張る。203高地の自殺行為のような突撃命令にも可憐なぐらいに従順に守って死んでいく。とんでもない窮乏生活に耐えながらも、気違い染みた軍事費負担に耐え日露戦争まで進んでいきます。一方エリート階層でも、直前にB型の薫陶を受けているから、既成概念に縛られずどんどん新しい制度を開発していく。この時期、A型とB型が結構うまいことバランスがとれていたのではなかろうか。

 しかし、日露戦争後の40年徐々にダッチロールが始まり、A型と化した軍部のエリート参謀やらが大陸にのめりこみ、政府のコントロールがきかなくなる。A型エリートだけに仕切らせると大体失敗しますよね。調子に乗って突き進んで方向性を見失う。でもプライドが高いから絶対にミスは認めないし、組織大事で仲間内の批判も手控えるから軌道修正がきかない。で、行くところまでいって敗戦。

 戦後のB型的改革は殆どGHQがやってくれたので、日本人はお得意のA型ガンバリズムで、産めよ増やせよ、追いつき追い越せでやっていきます。でもってA型エリートの中央官僚やら企業エリートが調子に乗ってバブルとその崩壊。はい、じゃここでまたB型の登場ねとなっているのに、掛け声ばっかりで、なかなかB型的な動きにならないまま今日に至る。

誰でも両方持っている

 以上が日本史1万6000年の概略だと思うのですが、最近は例外にしても、いよいよとなるとB型の起動スィッチが入って世の中をドカンと変え、後に続く頑張り期にはA型が起動して伸びていくというパターンです。変化に強いB型は、ちゃらんぽらんで無節操なくらい変化するが、それだけに視野が広く、既成概念に囚われないしなやかな発想と、時代をつかむ動体視力は良い。一方、A型は決まったことをキッチリやる勤勉さはピカ一であり、お行儀も良く秩序感覚にも優れているので、ホームストレッチの長い直線においては爆発的な強さを発揮するし、安定した社会を作る。しかし、その分保守的で、融通がきかず、リスクを恐がり、集団内部での立ち位置を気にし、視野や発想が狭い、という弱点を持つ。水稲集団のカルチャーだからしょうがないけど。

 これだけだったら変革期に強い人間と安定努力期に強い人間という、どこにでもあるお話なのですが、僕が言ってるのは、日本人には一人の人間にこの二つのソフトウェアが標準装備されている、ということです。

 だってそうでなければ明治維新も戦後もなかったでしょ?
 お隣の中国(清朝)や韓国(李朝)では、折り目正しいA型儒教文化に染まっており、日本がそうであるように貨幣経済などの近世のインフラが整備されなかったし、なによりもメンタルが許さなかった。お金を汚いものであるかのように扱う風潮は強く、商人を卑しんだ。日本のように「下品」な町人文化もあそこまで炸裂しなかったし、一夜開けたら「文明開化だ!」で長年の民族風習を捨て上から下まで「西洋かぶれ」に走るような軽薄極まりないことは到底出来なかった。だから日本と同じ問題意識を持った優れた個々人を産みながらも、中韓においては社会がついてこず、ついには維新はならなかった。

 でもそれが普通だと思うのですよ。昨日まで士農工商だ、刀は武士の魂だとか言っておきながら、いきなり、はい刀捨てて〜、チョンマゲ切って〜だもん。よほど軽薄なミーハーでないとそれは出来ない。でもやってるんだわ。廃仏毀釈なんか、昨日まで本尊として拝んでいた仏像を叩き壊すばかりか、風呂の焚きつけにして「ほとけ風呂」とかいって坊さんが入ってた、それも興福寺のように今の東京大学に相当するような名刹でそれをやっている。この異様なまでの節操の無さはなんなんだ?戦争中だって、さんざん鬼畜米英だ、英語は適性語だからコーヒーを「炒り豆の出し汁」と呼べとか、生きて虜囚の辱めを受けずで小学生に自殺の訓練までさせているという超カルト集団だった筈なのに、終ってしまえば、手の平を返すようにアメリカ万歳!民主主義万歳!になっているという。ハッキリ言って二重人格ですよ。

 一部の数少ないB型人間が大変革をするのは分かるけど、それをあっさり受け入れてしまう大多数の民衆の精神構造はなんなんだ?だからこれは先ほど書いたB型の特質=「ちゃらんぽらんで無節操なくらい変化するが、それだけに視野が広く、既成概念に囚われないしなやかな発想と、時代をつかむ優れた動体視力」でしょう。まぎれもなくそうだと思う。「これからは○○だ」と得心がいくと、あっさりそちらに乗り換える。そこでは旧来の思想も信条も生き様も、古靴のように脱ぎ捨てる。僕が殆どの日本人にはB型が標準装備されている(ただ起動スィッチが押されていないだけ)というのは、そういうことです。

 そういえば日本人が、世界でも稀な無神論者の群れであるのも納得がいきます。もし本当にバリバリA型だったら、もっと宗教が広まって良いはずです。親和性高いんだし。でも熱心な信者が少ないというのは、「心の底から何かを信じる」ということをしたがらない民族であり、熱狂したふりをしつつも、どっかで醒めた徹底的なリアリストであるということでしょう。そして、リアリストというのはB型の重要な資質だと思う。

連綿と続くB型気質〜大阪における温存

 なぜ日本人はそうなのか?といえば、やっぱり弥生A型文化以前にその何倍もの時間続いてきた縄文的特質が残っているからでしょう。縄文的特質というのはいわば狩猟生活だから、これは世界に共通する。ただ日本では強烈なA型弥生がそれに「上書き」しているだけです。また、これは単なる推測だけど、敢えてわざわざこの辺境の列島まで移り住んだというご先祖様は、相当に変わり者というか、冒険心が強いのか、弱いから追い立てられたのか、悪さをして逃げてきたのか分からないけど、それなりに一癖あるようなB型連中でしょう。そして狩猟採取時期において自然淘汰されていったのだから、B型のなかでもかなり腕の立つ連中だったでしょう。彼らのDNAを受け継いでいる僕らが、単に勤勉なだけが取柄の質朴で愛らしい民族である筈がない。実はもっとクセがあるはず。

 日本列島の各地でいえば、北海道のアイヌや沖縄の琉球民族は最初から弥生A型の洗礼をあまり受けてないし(被害は受けているが)、熊襲や隼人という南九州それに高知なんかも縄文B型カルチャーが強いと思われます。しかし何と言っても、A型の典型なのは東京、そしてB型の典型なのが大阪だと思います。

 江戸時代の両都市の人口の特徴は、江戸においては圧倒的に武士が多い。もう二人に一人?というくらい多い。それは江戸の武家地の面積からも、また全国の藩に江戸屋敷を用意させていることからも、かなり高かったと思われます。しかし、直轄地(天領)であって城下町のような地元政権を持たない大阪の場合は、最初から商都として位置づけられ、武士の数が異様に少なかったといいます。一つの奉行所のもと北・南・天満の三組が組織されているだけで、あとは町衆の年寄り達が代理自治をしているようなゆったりした気風だったらしいです。なんでも数十万人の町人に対して武士はわずか200人程度だったという。殆ど武士の姿など見ることがなく一生を終える大阪町人もいたでしょう。

 かくして大阪は、A型フリーの属性を持ち、ほぼ必然的に町人文化が炸裂します。江戸期を特徴付ける元禄文化は上方発です(ただし江戸後期になると江戸も盛んになり化政文化は江戸発です)。これが今日にいたるまで大阪人の強烈な個性になって残っています。とにかくA型的な要素が少ない。

 当時の武士というのは町人にとって恐ろしい存在だったのでしょう。なんせ刀持ってるし、強いし、政治権力もあるし。僕らが町人で、目の前に「お武家様」が立っている状況というのは、今でいえば目の前に暴力団員が立っているくらいの恐怖心があったでしょう。いやそれにプラスして、警察官でもあり税務署でもあるという。無礼なタメ口などきこうものなら「斬捨て御免」で、その場で殺されてしまう。幼児が大名行列の前を横切っただけで、無礼者!で惨殺、横で悲鳴をあげる母親も不行届きの角で惨殺。一方的に殺されて文句も言えないという、とんでもなく恐い存在です。ただし、実際にはそういう場面は少なく、後期になると各藩とも財政悪化でリストラしたいから、迂闊に市中で抜刀なんぞをすれば、それを口実にリストラされかねない。だから抜けない。それを見越してタチの悪い町人などは、武士を面罵し、「抜いてみやがれ」と挑発したという話もあります。真っ赤になって屈辱に耐える可哀想な武士は、しかし必死に我慢。ああ、サラリーマンの世界です。戦国時代だったら速攻殺しているでしょうけど。しかし、それでもそんな恐ろしげで、しかもやたら謹厳でビシッとしたオーラを漂わせている武士がウヨウヨしていたのが江戸です。町人といえども、その武士文化に染まっていったとしても不思議ではない。

 これが両者の世界観に差をもたらしたでしょう。この世には自分の力ではどうにもならない恐ろしい存在があるという世界観、この世は全て自分の才覚ひとつで何とかなっていくと信じる世界観です。前者においては人々が生きていく術は、より大きな組織に入り、コツコツと真面目に勤務し、その中での地歩を築いていくことです。つまり人生に飛躍はないし、必要ない。他人と同じようにやっていくのが大事だとされる。A型的東京文化で何よりも重視されるのは「格」です。ランクです。いかに格の高い会社にはいっているか、どこの大学を出たか、服を着ているか、何が流行ってカッコいいと言われているか、どのブランドがいいのか。格というのは他者との比較において出てくる概念だから、「他人の目」「世間」をして自らの批判者、採点者として位置づける。他者や世間とシンクロし、その一部となり、その中でハイランクの位置を狙うというのがA型的人生コンセプトであり、処世訓になる。カッコつけてなんぼなのだ。

 一方、大阪では町人がのびのびリラックスしている。ヘラヘラしながら冗談ばっかり言ってるんだけど、実は抜け目がなく、常になんかいいアイデアは無いかと考える。人と同じではダメで、「前に出なあかん」「目立ってなんぼや」と育てられる。階級らしいものがあんまりないし、全国から商品や商人が集まるので、見知らぬ他人とのコミュニケーション能力も高まるし、その技術も磨かれる。だからギャグが上手。なによりも「お上」意識が乏しい。B型大阪の基本にあるのは「個」です。他者と同調して、集団内部に埋没したら負け。そこでの他人や世間は「オーディエンス」であり、常に相対して、唸らせたり、金を払わせたりする対象です。格や権威などさほどのものと思わず、それを振りかざす人間をええカッコしいとして嫌う。

 損得勘定や情勢動体視力に優れ、かつお上の権威をありがたがらない大阪兵は、日本最弱と言われていたそうです。なにしろ「またも負けたか八連隊(大阪)、それでは勲章九連隊(くれないよのシャレ)」と唄になってたくらいです。実際には、それほど弱いわけでもなく、またそんなに負けているわけでもないのだけど、そういうことになっている。僕の親父(大阪出身)もそう言ってた。自虐ギャグなんだけど、でも卑屈ではなく、なんか妙に誇らしげななところが大阪人なんでしょうね。これって、実はそんなに弱くないけど「阪神タイガースは弱い」という前提で話が始まるのと似ている。

 蛇足ながら注意書き。エリートサラリーマンとか大阪人とか言ってるのは、あくまでステレオタイプとしてのそれ、理念型やイデアとしてのそれであって、大阪人だったら全員そうだとかいう無茶な話をしているわけではない。A型企業人や官僚でもバリバリB型仕事をしまくってる人はいるし、B型的な立ち位置にいても思いっきりA型の人もいる。話を分かりやすくするためにそう言ってるだけです。

AとBのバランス

 ああ、もうかなり長くなってしまったからシメなければならない。
 ここで「実はB型もある」とか「A型にシフトし過ぎててバランスが悪い」という例証を幾つかひくつもりだったのですが、なんぼなんでも長すぎる。一点だけあげておくと、もし本当にA型万歳!で皆が満足しているとするなら、どことなく感じているA型であることの「居心地の悪さ」はなんなんだ?という。前回書いた詰め込み教育・ゆとり教育でも、受験戦争や詰め込み教育が「よくない」という認識が出てきたり、「より創造性に溢れた人材を(まさにB型的人材)」なんて叫ばれる筈がない。心の底からA型だったら、受験戦争歓迎!もっと詰め込め!従順な人材こそが一番!と臆面もなく思えた筈でしょう。それにサラリーマンや会社人間もネガティブに捉えられることもなく、社畜万歳!それの何が悪い?と開き直っていても良いはず。でもそこに何らかの居心地の悪さやカッコ悪さ、忸怩たる思いを感じるのは、根っこにB型があるからでしょう。で、改革しようとしてゆとり教育とかやり始めるんだけど、ちょっとでもA的濃度が薄まってきたら、慌てて撤回するという。トータルとしてのバランス感覚が崩れているというのはそういうことです。

 なお、日本が閉塞しているのはA的世界観だからそう見えるだけで、B的には「面白い!」と冒頭に書いたのは、世の中が乱れてくれた方がチャンスが増えるということです。ビシッと安定していたら「個」がつけいる隙間なんかないし。もうグッチャグチャに乱れてくれた方が都合がいいっす。B型狩猟人にとっては、世間とはすなわち「獲物」ですからね、世間が弱体化してくれた方が都合がいい。もともと20年前のバブル崩壊に一発ドカンとB型変革が来なければならなかった筈なのに、それが不発に終って無理矢理A型をひきずっている昨今、なんぼなんでも制度疲労も限界に近づいている。また、今回の地震によって、B型スィッチが入った人もいるでしょう。それがどういう連鎖反応を引き起こしていくのか、そのあたりは純粋に興味深いです。


 まあ、誰でも持ってる二つのABソフトウェア、時宜に応じて使い分けたらよろし、って話ですわな。ってかなり無理矢理なマトメですね。

 ちなみに僕個人はB型が強いように思われがちだし、実際にそういう面もあるけど、冷静にみればA型B型半々だと思います。どっちかといえばA型の方が強いかもしれない。もともと家庭環境がB型(親父は年中転職するし引越だらけだし)ということもあり、「人生はいくらでもカスタマイズできるもの、またすべきもの」という貴重な教えを受けて育ったのが大きかったのでしょう。つまりB型の起動スィッチを教わっていたのですよ。言葉で教わったわけじゃなくて、生きざまでです。親が子に教えられるのは、畢竟親自身の「生きざま」以外にないでしょ。

 B型起動スィッチというのは、要するに「変えられると思うこと」です。イヤだったら変えたらいいじゃん、それだけじゃんという。ほんとそれだけのことですわ。それ以外はA型ですよ〜。だって「コツコツ努力する」のは滅茶苦茶得意ですからね。高校時代の適性テストで「弁護士」というのもあったけど、「農業従事者」というのも適性だったのだ。実際農業に向いてると思うし、空気読むのも嫌いじゃないし。大体A型が入ってなかったら司法試験なんかやらないですよ。それより何より、毎週こんなエッセイを523回も書き続けているというのが、ド典型なA型じゃないですか。

 A型はエンジン、B型はステアリングだと思います。ここぞという軌道修正の時にB型ソフトを立ち上げればいい。そうそう四六時中B型を立ち上げてたら大変ですもんね。というか、ハンドルなんかそうそう切るものではないし、切りすぎればただの蛇行運転。同じ方向に切り続けていたら、それはグルグル同じ所を廻ってるだけになる。だからBの出番はちょっとでいい。といっても、立ち上げて「常駐」はさせておくのですよ。漁師が潮の変わり目をみるように、じーっと世の中を見ている。ここだ!と思った瞬間に、ハンドルを切る。

 B型でハンドル切っても、前に進む力はA型です。「根性論」を言うのは、実はB型系の人が多い。芸人さんとか職人、プロ、フリーランス、起業、個々の現場はめっちゃ体育会系だしね。自分の個性やワガママを貫くのは一にも二にもパワーだもん。一方でB型なきA型だけだったら、ずっと直線的な動きしか出来ず、そうなるとどっかで壁にブチ当るでしょう。無限に真っ直ぐな道なんか無いもんね。だからどっちも必要なんでしょうね。

 日本人というのは、ドカンとなにかが起きるとB型スィッチが入るようです。戦争に負けたとか。しかし、スィッチ一つ入れるのにイチイチ戦争に負けなきゃいけないんじゃ大変過ぎます。使い勝手悪すぎ。もっとスムースに押せる筈です。このHPは全編がB型スィッチの押し方論みたいな性格があるし、日常やってる一括パックも、本質を突き詰めていけばB型起動スィッチを押してあげることに尽きると思います。押すためには一定の儀式というか手続きというか錬成陣みたいなものがいるけど、でも、誰にでも出来ます、こんな簡単なこと。



文責:田村




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