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Essay 955:まったり鬱々コロナ期からその先へ展望


2020年10月05日
写真は、シドニー大学。もう大学はコロナ騒ぎで留学生激減で苦境に陥ってます。



不透明な未来と不安感

 ここ半年くらい、コロナだ、ロックダウンだで世界が止まってます。

 その間どう過ごしていたか、そしてこれからどうするかについては、人によってマチマチではあろうけど、妙に間延びした時間を持て余しつつ、ますかす強くなる不安定感や不透明感によって不安に苛まれているという人もよく聞きます。不安どころか既にどっかんどっかん実害が出て大変なことになってる人もいるだろうし、それが昂じて自ら命を経ってしまった人もいるやに聞きます。

増える女性の自殺

 下はNHKの10月02日の記事です。

 内容はクリックして読んでいただければよいですが、簡単に要旨を摘示すると、「ことし8月の1か月間に自殺した人は全国で1854人で去年の同じ時期に比べて251人、16%増加」「男女別では男性は去年より6%増ですが女性は40%も増加」「特に30代以下の比較的若い世代の女性の自殺は去年より74%増加、1か月間に193人が死亡」

 下のグラフは、産経新聞の9月21日の記事からです。上のNHKの記事よりも一ヶ月前の記事ですが、8月の統計速報をもとに書かれており、もととなるデーターは同じ。ただ韓国と同傾向にあり、異例ではあるが韓国当局と連絡をとって事態に対処しようという点がニュースになってます。

 「あれ?」と思ったことが2つ。
 一つは、少し前のエッセイで紹介しましたが、コロナ自粛初期においては意外と自殺が減っているというニュースがありました。嫌な会社に行かなくてもよくなったのが救いになったのではないかとか言われてましたよね。それがここにきて増えている。上のグラフでも3月から4月には減っているのですが、そこからグングン増えてきている。

 思うにこれは多分、原因が違うのでしょう。初期の自殺減少は、イヤな会社や学校からの逃避ができたプラス面が強い半面、経済的にまだそれほど致命的でもないし、始まったばかりで閉塞感もキツくなかったのかもしれません。その後に徐々に増えてきたのは、ロックダウンその他の経済的影響がシビアになってきて生活を蝕み、いつ終わるのか先が見えない不透明感が精神を壊していったのでしょうか。

 ま、自殺の原因なんか、実のところ自殺した本人にだってわからないとは思います。イタコさんに口寄せしてもらって本人に聴いたところで「なんかもう、どうでもよくなっちゃって〜」とかそんな話だろうなとは思います。だから周囲の第三者があーだこーだいってる「原因」というのも、どれだけ本当なのかわかりません。さらにこんな統計で何がわかるかって話もあります。ただし、現象として徐々に増えているのだとすれば、生きていこうという希望を失わせるような「なにか」が広く共通してあったんだろうと思いますし、周囲の事情を考えれば、経済的な問題、それに基づく将来への不安が一因をなしていたのだろうとは推測できます。また世界的にDVも急激に増えていることもあり、家庭内がスサんできたという面もあるのかもしれない。

 あれ?のその2は、自殺は男性がするものだということです。昔のエッセイで特集したことありますが(Essay 553 :「うつ」をめぐる風景)、日本においては中高年男性の自殺数が圧倒的に多くて、若年者は相対的に少ない。確かに若年者の死因の第一は自殺ですけど、それはまだ若くて健康だから他の原因が少ないだけです。中高年になると他の病因で死ぬから自殺は順位が落ちるんだけど、でも絶対数(人口比率)でいえば、中高年男性の自殺率は若年者の数倍、4倍くらいだったかな?日本の男性は「40歳過ぎると今の4倍くらい死にたくなるらしい」って書いた記憶があります。どの年齢層も男性が断然多く、相対的に女性は中々死なない。

 しかし、ここでは女性の自殺が語られている。強いはずの女性の自殺が急増している。なぜだ?といえば、まず今回のコロナ特徴として、一番社会的に弱い層に一番ハードに影響したことがあります。飲食店や観光、接客など、女性がもっぱら多く活躍してる職場、そしてとりあえず人数調整の犠牲になりやすい派遣やバイトなど立場の弱い人がまっさきに影響を受けました。それが大きな理由でしょう。

 だとすれば、前回のエッセイで(オーストラリアのだけど)統計を引用しましたが、女性の職場が被害を受けた初期は過ぎて、その後段々一般職男性に急速に広がりつつあります。ということは、もともとほっといたらすぐに死んでしまう男性、子育てでも「男の子は難しい」といいますが、精神がヘナチョコなんですぐ死んじゃう男性の自殺がこれから増える可能性はあります。前回も書いたけど、タイムラグというのがありますから。

 これはオーストラリアでも同じで自殺の増加が懸念されています。既にメンタルヘルス関係では患者の急増が「津波」レベルで、精神科医にアポを取ろうとしても3ヶ月待ちとか、来年まで無理とか言われているとか。


苦しいかどうかではなく、希望があるかどうか

 ところで、人はなんで自殺するのか?を簡単に言えば「この先楽しいことがあるとは思えないから」だと思う。楽しいことがある、それは絶対ある、待ち遠しいなあって思ってたら、まあ死なないんじゃないですか。仮に自殺するとしてもそれを体験してからでしょう。「生きていく原動力は「希望」である」と言われるけど、本当にそうだと思います。僕だって、この先いいことがイッコもなくて、ひたすら辛くて苦しいだけだったら、「こんなクソゲーやってられっか」って思うとおもう。

 巷では「人生なんかしんどくて当たり前」とか言われるし、それはそうだと思うけど、でもそれを言うときは無意識的に「人生にはそのしんどさを上回る(or 帳消しにする)大きな喜びがある」ということが大前提になってるんだと思います。だからしんどい/しんどくないということが本質ではなく、この先良いこと(希望)があるか・無いかこそが本質なんじゃないかなと思ったりもします。

 そして「希望」とは「この先良いことがあるだろうという将来予測」とも言い換えられるわけで、不透明感や不安感というのはこの希望を破壊してしまう。それが問題なのだと思います。

 ということでコロナで不透明になった世界と人生において、なにをどう考えたら「いいこと」が来るように思えるのか、また単に気休め的に思うのではなく、ちゃんと根拠と戦略に基づきながら、いいことを増やすようなやり方はあるのか、なんなのか、それを考えてみるのは無益ではないと思います。


具体的実例〜自分の場合 

 抽象的に心構えとかモノの考え方とか幾らでも書けますけど、敢えて具体的、事象的なことを先に書きます。「心構えなんか聞き飽きた、そんなんでどうなるもんでもないんだよ」って人もいるかと思うから。とりあえずワタクシごとを書きますね。

本業は破壊されるわ、親の死に目にも会えんわ

 こちらは、ご存知のように国境閉鎖で、4−5月の新シーズンにブッキングしてくれてた案件(7−8件くらいあった)けど、全部ぶっ飛びました。アテにしてた収入もパーです。その代わり、政府のJobKeeperが4週間で3000ドルもらえるんで大事には至ってないけど、しかし、こんなのつっ返してもいいから新しい皆には会いたかったし、もとのままの方が全然良かったですね。

 ビジネスとか経営とかやってる側から言わせてもらえば、お金で補填すればいいんだろってモンじゃないですよ。企業体にも生体と同じよういリズムがあり、代謝があり、動かしていく中で調子を整えていくというか、動かしてないとダメなんですよね。センスも鈍るし。

 一方ではこの間、父親が亡くなって、だけど知らせを聞いてもこの時期行くに行けずで、そのままです。オーストラリアから国外に出るのに特別な理由で申請しないといけないのだけど、申請に2週間、審査に4週間とかアホみたいにかかるし、日本に着いたらどうも公共交通機関に乗れないから羽田や成田から京都までハイヤーとか?いくら掛かるんだ。でもってこっちに帰ってきたら、今度はホテルお泊りでこれが3000ドル。もう無理って感じ。弟がいるので連絡取りながらも全部やってくれててありがたいのですが、将来的にオフクロも世話もいるなー、どうしたもんかです。ちょい気弱にもなってるし、ボケつつあるので、けっこう頻繁に電話してますけど、将来的にはしばらく戻らんとならんかなって感じ。

 というわけでコロナ(のクソ対策)のおかげさまで、本業は壊滅だわ、親に死に目にも会えんわで踏んだり蹴ったりですけど、まあ、しかし、何とかやってます。

大局的に見れば変化なし

 というか、経済面=本業の斜陽化は、日本の若い世代の貧困化と歩調を合わせてますので、10年くらい前からかな、それを考えて徐々にソフトランディングできるように、副業の拡大〜クリーニングやらコールズやらデリバリーやらバイトを始めています。基本、本業収入ゼロでもベーシックに生活できるようにという感じできてるので、全体でいえば予定がちょい前倒しになったという程度の話です。

 一方APLaCを通じてせっかく気心の合いそうな人々がいるわけで、お互いに知り合うことで人生の原資にしたり互助組織めいた感じに育てばいいなと思ったのが、オフをはじめA僑とかやりはじめた原点でもあります。しんどい時代が来そうなのでその準備のための基礎工事って感じで、それは前々から書いてますけど、今で7-8年目くらいですよね。30年スパンくらいで漠っと考えて〜って。その意味でも大きなところではそう変化がないです。

 つまり、コロナがどうとかいう以前に、時代の不透明感(なんで不透明になるのかはさんざん過去に書いてるから今週は割愛)はあったわけですから、コロナでやることがそう変わるものでもないです。コロナという疫病という形であること、時期がこれほど早く瞬発的であることまでは予見はできなかったけど、大きくみれば想定内です。もっと悲惨なこと(金融破綻で全員破産とか)も想定してますし、それに比べればそう大したことではない。

 これらの対策を取るためにダウンサイジングしました。変化が激しそうなときに図体でかくしてると転覆しそうなので、身軽になって、小回り効くようにと。

 そのため時間をかけて、大きな家から小さなオフィスに転居しました。1−2年かがりで本棚7つ分の蔵書と書類のほとんど全てを自炊スキャンして7400ファイルくらいに落とし、手持ちのCDも全部パソコンに取り込んだり、もう散々ぱら苦労して手持ち道具の90%くらいは減らしました。Glebeに移転しても、さらにまた移転してもっと安くてコンパクトなところにしました。最近では今でもモノが多すぎるなと思って、さらに減らしていこうとしてます。ここのところ家賃もだいぶ安くなってきたし、また移ろうかなとか思ってます。

 固定経費が安くなるとすごい楽ですね。週700ドル以上の家賃が370ドルになるだけでもかなり楽でしたけど、それが今は255。家が小さいと電気代も比例して少ないし、掃除も楽だし。さらにもう200切ってもいいなとか、もう家具とか全部処分して家具付き200ドルくらいでもいいかなと思うようになってます。なぜなら、APLaCをやることに関しては、ほんとパソコンと自分がいればいいだけですからね。大した道具なんか要らないわってことです。削ぎ落として本質の結晶くらいまでもっていくと、意外とタネ部分はそう嵩張らないなーというのがわかった。

 これを推し進めれば、頻繁に日本に戻って親の世話して、またこっち来てという、行ったり来たりが結構できるんじゃないかって気もしてます。それが当面の目標ですかね。自分一人居ればいいじゃないかってことです。Lane Coveの7LDKのクソでかい家に住んでる頃はそんなの夢物語だったけど、ここまで時間かけてステップ切って落としてきたら、射程距離に入ってきました。

 いろんな面で効率化してて、例えばインターネットも固定観念で契約してたりしたんですけど、それもやめました。ここのところ最近普通の携帯電話のSIMの容量も増えてきたので、もうこれでいいやになってます。今までOptusで月70ドルで契約してルーターでWifi飛ばしてたんですけど、それを解約し(遅いし)、手持ちのスマホからデザリングして、デスクトップ、ノートパソコン、iPadでネット使ってます。ALDIが出してるテレストラ回線のやつですが、月25ドルで16GBです。それじゃ足りないんだけど、しかし、ALDIのSIMの良いところは積み残し分がどんどん合算されていくのですね。これまでの分が積もり積もって260GBも残ってる時点で、あまりにも馬鹿馬鹿しいので、これを使ってしまえってことで。いざやってみたら、思った以上に減らない。1ヶ月あたり10GBくらいしか減らない。そんなにダウンロードとかせんし。使い切るのは再来年かなー。使い切ったら35ドルプランに乗り換えればいいけど、その頃にはもっと安くなってるでしょ。

 ここまでダウンサイズ効率化すると、副業バイトも楽です。固定経費がでかいと、ちょっと働いたくらいでは焼け石に水って感じで気持ちが萎えますけど。前のFOODBYUSは時給が良かったので、週2〜3くらいやればOKでした。ただ仕事が入るかどうかよくわからいのが難点で。今はUber Eatsで段々効率がよくなってきたのですが、ほぼ毎日やってるんだけど、週日は夜明け前後の2時間くらい、週末は稼ぎ時なんで3−4時間くらいやれば、それで生計のベーシックな部分はいけますね。平均して週400-500はいきます。夜明け近辺の2時間なんかそう大したことないですよ。朝のジョギングとか新聞配達に毛が生えた程度だし、朝の空気は気持ちいいし、それだけで今日の仕事全部終わり〜!(APLaCのメールとかエッセイ書きとかはあるけど)ってのは楽ですよ。

 Uber Eatsは、うだうだ考えてないで「とにかくなんでも自分でやってみよ〜精神」でやってみたものです。そんなにアテにはしてなかったんだけど意外といけるかも。同時に、これって基本は同じなので、日本に帰ったときも出来るなーと思ったのですよね。もちろん細かなところで色々と違うだろうけど、全く違う職種をやるわけではないし、アプリそのものは日本でもオーストラリアでも同じなんですよね。登録も同じで、稼働場所の登録が変わるだけ。そもそもデリバリー業界が来るなというのは、コロナ以前からオンライン販売が増えていることからずっと前から予想はしてました(エッセイにも書いた)。ネットでも売っても、最終的には物流になるってことで。ドローン配送や自動運転とかになるだろうけど、コスト的に見合うのはかなり先だろうし。

 Uberのコツはまたまとめてあれこれ書こうかなとは思ってますが、僕としては仕事の調節が自分で出来るのが一番ありがたいです。特に親の介護なんかが入ってきた場合、固定的に何時から何時までとか決められるのは致命的でもあるので、こっちの一方的な都合だけでやれるのが大事だなと。その意味でいえば、Uberは、一旦はじめても「今日が気分が乗らん」で止められますからね。一回受けた仕事でも途中でキャンセルもできるし、かなり融通きくんですよ。これがDoordashだったか、Menulogだったかは、やり方が違って最初にこの時間とかシフトが入るとか聞いたことあります。それはヤだなと。もう直前まで、てかやってる最中でも、イヤなら即やめられるというのがいいですね。もうコレに慣れると、普通の仕事ができなくなるのが難点なくらいで(笑)。

 というわけで、大きな流れそのものは実はそんなに変わりません。10年前から予見できるようなことばっかりですし、10年前から予見できるなら、10年かけて対応すればいいだけの話ですし、実際にやってるし。コツはいきなり全てを変えようとしないで時間をかけて変えていくことでしょう。と同時に途中で止めないことです。「もうこれでいいや」とか、適当なところで落ち着こうとは絶対思わずに、常に変え続けること。変化の時代に生き残ろうと思えば、自分も変化し続けないといけないわけですからね。そして自分から進んで、迎えうつくらいの気持ちで変えていったほうが対応しやすいです。事態のほうが先に進展して、後手後手に廻ると、ほんと選択肢も限られてくるし、刻限も切られるから精神的な圧迫感が半端ないですからねー。

幸福値の見極め

 付言していくつか書きますが、この本業が減って(ビザ延長とかはぼちぼちありますけど)、まったりコロナ期間ですけど、この間、てかそれよりもずっと前の断捨離工程の間、そして将来的にもですけど、気をつけているポイントは、幸福感が下がらないことです。経費を圧縮しても幸福感がそれよりも下がったら、それはダメなんで、幸福感はそんなに下がらないけど、でも経費が減っていくのが理想です。

 そのためには、幸福の固定観念を徹底的に外すことです。家賃が高くてでかい家に住むほうが幸福に決まっているというのは固定観念ですからね。これは過去の経験なんかも活かせます。家賃8-9万でやってた弁護士時代よりも、家賃1.5万だった司法試験受験生時代の方が、純粋に幸福度や「楽しー!」感でいえば幸福でしたからね。金払えば幸福になるってもんでもない。てか、金と幸福感はほとんど無関係だと。

 だから何が欠けるとダメなのかとか、何があればゴキゲンなのかと、自分の快感のツボをいかに徹底的に知悉するかが勝負になると思うわけですよ。これもエッセイで常に言うことですし、ワーホリなんかそれを知るために来るようなものだと思います。とにかく幸福には固定観念が物凄く多いんですよね。

 逆にいくら安くなって、すごいお得だとしても、これはダメ、ありえないってものもあるのです。そっちの方が多いけど。例えば家とか部屋探しだったら、部屋からの眺めとか、周囲の環境があります。京都の実家はねー、周囲がつまんないから盛り上がらないんですけど(笑)。今の安いところは、裏庭に面して窓があって、そこで緑が見えるし、青空も見えるんですよ。てか、それが常に見えるようにパソコンやってる際の机の位置に気を配ったくらいです。今もここを書いてるとき、きれいな青空と新緑が常に見えてます。それがデカイのですよね。だから、もっと安くて便利で大きかったとしても、部屋に窓がないとか、その家の場所自体が気が滅入るようなところだったらダメっす。

こんな感じに見えてます


 自分がハッピーかどうかは自分が決めるという当たり前のことなんだけど、意外と世間の尺度と自分の幸福感とはリンクしてないのですよね。世間がありがたがること(値段の高いこと)でも、僕もいいなと思うものもあれば、全然興味ないものもあります。世間的に評価低くても、自分としてはめちゃくちゃいいと思うものもあります。てか、多いです。

 それは子供の頃からロックとか漫画とかなんでもいいけど皆もやってきただろうからわかると思うのですよ。そのジャンルから深い快感を得ている人ほど、世間の動向と趣味嗜好が違うでしょ?その世界を存分に楽しんでる人になるほど世間で流行ってるものが最高とは思わない。ベストテンやベストセラーだけチェックしてればOKだとは全然思わないし、むしろ誰も知らないような作者やミュージシャンを探し出してきては鑑賞してるでしょ?だから、世間と自分とでは尺度が違うのは当たり前です。ということは、値段は大してかからなくても、自分としては価値が高いものがあるってことです。実際あります。かなりあります。そこが狙い目でしょー、てか、それを狙わないでどこを狙うんだって。

ストレッチ

 体調関係ですけど、毎日早起きしてアドレナリン出してれば、そりゃ調子いいですよ(笑)。これ毎日ってのがいいんですよ。なんでもそうだけど、毎日やるのは効果が高い。

 最近ですねー、柔軟体操に凝ってます。ストレッチですね、ヨガみたいに。なんでか?というと、あるとき気づいたんですよ、筋トレよりもストレッチのほうが実用性高いなと。僕も60ですからねー、あれこれガタがくるというか、実際にも来るのですけど、例えばデリバリーって、頻繁に車に乗ったり降りたり、その都度携帯をホルダーに挟んで、また抜いて、シートベルトをして、外して、後ろをみて転回したり、車庫入れしたりがすごい多いんです。前にスマホをホルダーに入れてるときに変な角度でやってしまって、グキッと肩がいきかけたことがあります。おお、これが四十肩(60だけど)かあ、ついに来るべきものがとか思ったけど、どうもそうではなく、単に変な体勢でやったから一時的に筋肉痛が起きただけでした。体質なのかストレス知らずに呑気にやってるからか、肩こりって経験したことがほとんどない、肩こり童貞。

 でね、それらを防ぐには、結局身体を柔らかくするのがいいんじゃないかと。そもそも何故「変な体勢」になるかといえば、身体が固いからですよ。いっときギックリ腰やってネットを読み漁ってたときに個人のブログで一番納得するのが書かれてて、それは股関節が硬いと腰に来やすいという話でした。腰周囲(特に下)の筋肉が固くて十分に伸びなかったりすると、結局腰回りの筋肉が無理に伸びることになり惨事を招く。ならば周囲のストレッチを十分にやると腰への負担が減るだろうと。確かにいろいろ試したらそうなんですよね。前屈みの姿勢で腰がグキッとなるのはなぜか?といえば、立位体前屈でどこが痛い(固い)かといえば膝の裏あたりの筋肉で、そこが十分に伸びないから腰の筋肉を伸ばしさないといけない、だからブチッといくと。逆にいえば脚裏の筋肉が十分に伸びたら腰への負担は少ない。

 あとですね、こっちに長くいるからだと思うけど、正座ができなくなってました。そういう姿勢にならないからでしょうが、ひょんなことから正座ポースを取ったとき(掃除とかしてて)、めちゃくちゃ痛くてろくに出来なかった。もう10秒も無理って感じ。え?なんで?と思って、何が痛いのかを自分でチェックしてみると、足首から甲の筋肉ですね、ここのストレッチが十分ではないから、無理に引っ張らされる関係になってそれが痛い。外人は正座が出来ないとか嘘だろって思ってたけど、いや本当だわ。

 筋肉は収縮と伸展があり、前者が筋トレで後者がストレッチ。これまで収縮ばっかやってたんですけど、よくよく考えたら、そこまで筋トレしなきゃいけない現実的必要性ってないのですよ。デリバリーで重いものを持つこともありますが、筋トレしてまでやらなきゃいけないことではない。しかし、ストレッチは、やっておくと24時間ほぼ全ての局面で利益がある。得じゃん、って思ったわけです。

 ならばヨガとかやるべきかとかいうと、いや、そこは全然自己流。なんでかというと、こんなの半分以上遊びだと思ってますから。ヨガでもなんでも、他人にこうしなさいとか言われてやるのも面白くないんですよね。自分で考えて、工夫して、多分相当無駄が多いんだろうけど、でもそれが楽しい。パズルみたいで面白いです。自分の身体と対話しながら、なるほどココが痛いわけね、じゃあこうすればいいかなとかやるのがいいです。

 もともとストレッチというのは気持ちいいものです。痛くて辛いんだけど、でも気持ちいい。「のびのび」という言葉が気持ちよさを示すように、筋肉を伸ばして、存分に酸素なり代謝なりをさせてやるのは快感なはずです。最初は、ぐぎ〜とか痛いんだけど、痛いのをねじ伏せようとはしないで、それを「根性」だとか思い違いをしないで、また「今日はここまでいけた」とか安直な報奨快楽に転ばないで、軽く痛いくらいの段階で無理をしないで止めて、そこでゆっくり伸ばして、あー、気持ちええわーってところにもっていくのがコツなんじゃないかと。これ、本当かどうか知りませんよ。でも、そんなことを考えて工夫してるのが楽しいです。

 だもんで、まったり単調な日常のようでいて、ストレッチ一つでこんだけ能書きを言えるくらい工夫の余地は無限にあるし、楽しくなる余地も無限にあります。だから希望も無限にある。「ある」というよりも「作れる」。もともと日本人なんか、あんなクソ狭い部屋で単に茶をちょぴり飲むだけのことから、「茶道」とか銘打って人間関係と美のありかたを極めようとする民族なわけでしょ。その民族的遺産を僕らは持ってるんだから使わないと損じゃん。「微分美学」というか、ひたすら細かくみていって、そこに大宇宙の深淵に通じる世界を見出すっては僕らの得意技でしょ。

情報収集と立案こそが本業かも

 あ、当然のことながら、10年スパンでの予見とその修正をするべく情報収集は常にやります。その結果の一部はエッセイによく載せますけど、それこそが「本業」みたいなものです。つまり、今どうなってるのか、この先どうなるのか、なぜそうなるのか?を毎日考える。情報を集めて、吟味して、仮説を立てて、検証して、対策を立案して大戦略を立て、中小戦術に落とし込んで、それをまた毎日のように修正してって、それが一番の「本業」なのかもねって気もしてます。

 朝から晩までそれは常に考えてます。もう慣れっこで今更どうとも思わないけど。遡れば、15-6歳の頃からずっとやってますからねー。マジョリティに従って流れていくと自分はヤバいんじゃないのかと気づいたのがその頃で、それからは自分で調べて、考えて、実行〜というのを延々何十年もやってるわけですから、もう習性になってて、特にやってるという気もしません。

 でもコロナは不可思議な世界の動きがあることから、特に気をつけて世界的にまんべんなく調べてるので、英語力的には最近少し増強されてる感じはします。前に比べて読む量が増えましたし、それに伴って斜め読みするスピードは上がるし。

 あ、あと、そんなストレッチがどうの、裏庭の緑がどうのとかチマチマ&いじいじしたことで幸福とか人生とか語っていいのか?もっと派手にドンパチ暴れて、夢と冒険の旅をってことは無いのかよ?って向きもあるとは思うけど、それこそが幸福の固定観念でしょう?リア充だと偉いみたいな、いかにもな発想。別にそんな形なんかどうでもよくて、その時々で自分のやりたいことが出来れば良いわけだし、内容が常に決まってる必要もないわけだし、なにをしたいか、何をするとゴキゲンになれるかなんて、そいつの専権事項であって、他人が容喙(ようかい、クチバシを突っ込んで干渉すること)すべきじゃない。

 別に禁欲的なのが良いとは思わないし、「足るを知る」的なのがベストなのだとジジ臭い話をいうつもりもないし、ド派手なのも好きだし(でなきゃロックなんか好きじゃないですよ)、欲望も煩悩も肯定しますよ。ただ変な言語化をしてカッコつけたりするのはダサいなと思う。「充実した人生」とか「一人前の社会人として」とか、ハッキリ言って嘘じゃん。そういうフォーマットや型はあるかしらんけど、欲望の本質ではないよ。欲望なり幸福というのは、もっと生々しくて、身も蓋もなくて、どうかしたら恥ずかしくて他人に言えないようなものだと思いますよ。ほとんど妄想レベルな。でもそれでいいと思うし、それこそがリアルでしょう。なんだかんだカッコつけて誤魔化しても最後にはそこに帰着するに決まってるし。

 僕としては子供の頃から、寝っ転がってカルピスとか飲みながら漫画読んでるのがサイコーって感じだったし(笑)、あと通学通勤の朝起きるときの鬱陶しさや軽い絶望感やら、5時限目とか死ぬほど眠くてここで思う存分寝れたら死んでもいいくらいに思ったこととかが原点になってて、好きなときに好きなだけ寝れたらそれでいいです。起きてるときはダラダラやってられたら最高だよねってかなりナマケモノ風味が核心部分にきますね。気ままにのんびりやりたいという慎ましい願望なんですけど、それをリアルに実現しようとするとかなり難しい、少なくとも他人と同じようにやってたらそれは不可能だなと。だもんで、かなり早い時期から世間とは袂を分かつしかないな、よく書くけど全世界を敵に回すくらいの根性でゲリラ的にやってくしねーなとは思ってました。とにかくのんびりを邪魔にしに来るあれこれが多いので、それらを撃退できる防衛戦力はいるし、つまんないレトリックに騙されないだけの知性もいるし、世間の動向に右往左往しないだけの内実もいるし、世の中のメカニズムや道理を知っておく必要はあるし、なかなか忙しいです。のんびりやるのも大変ですよね。でもどんだけ寝食削って努力しようが、その最終目的が「のんびり」だったらそれは納得できるし、そんなに辛くない。

 その意味でいえば、物心ついてから、少なくとも思春期以降から今の今までぜーんぶが個人的な闘争史であり、ぜーんぶひっくるめて夢と冒険の旅といえなくもないけど、「言えなくもない」程度の話で、そういう言語化をして納得してるわけではないです。「のんびり」というのも説明の都合上書いてるだけで、別にそういう形で思ってるわけでもない。言語化しにくいし、すべきではないくらいにすら思うのだけど、「そのときどきでやりたいこと」を「心おきなくやれる」状態が好きなんですよね。肝心の内容は「カッコ空白」で置いておきたい。「神聖なる空白」「聖なる虚空」とかいってもいいけど、御本尊には何一つ汚れてない、どこにも紐がついてない、シガラミのない空白な自由空間が欲しいんだろうなって気はします。でも、繰り返しになるけど、それは心で強く感じることだし、欲することだから、敢えて言葉にする必要性すら感じません。話の成り行き上、今こうして書いてますけど、それは成り行き上のことでしかない。

 だもんで、チマチマしてようが、イジイジ感じられようが、そんなの別にどうでもいい。問題は、それを強く欲しているか、よりピュアに欲しているかという感覚の強度や純度だと思います。形象的には、そのときどきの状況で変幻自在に変わるだろうから、形そのものには大した意味はないと思いますしね。

 さて、ワタクシ事はこのくらいにして、もう少しゼネラルにみましょう。

大局ベクトル

 時代はどっちからどっちに流れているか?の見極めですけど、思うに、復数の流れがあって、それがぶつかりあったり、干渉したり、相殺したりして、これだというハッキリした流れはないです。だけど、どういう種類の流れがあるかというのは押さえておいていいでしょう。

(1)古典的な流れ

 一つは、従来の流れです。高度成長そのまんまの古典的なやつ。これが日本では未だに強いし、将来においても完全に絶滅することはないと思います。それは「家制度」というのがオフィシャルに廃止されて75年も経つんだけど、未だに結婚式では「○○家」とか書いてるように、シキタリとしては残るだろうなということです。シキタリではなく実質的なところでは、超エリートの選別機能という形で残りはするでしょう。対象になるのはほんの一握りでしょう。プロ選手になるくらいの感じというか、昔に戻るのでしょうね。明治時代の大学みたいなもので、村一番の神童レベルでないと行けないという。

 これはもう皆さんお馴染みのやつだから、多言を費やす必要はないでしょう。頑張っていいガッコ入って、大きな会社入って、出世してってことが人生の果実を沢山収穫するには一番合理的だという発想です。特に何も思いつかないならこれをやっておけばいいかと思うけど、同時に、思ったとおりにならない可能性が大ですので、その場合も考えておくことですね。

(2)資本主義の極限化

 これ(資本主義の悪い面)があるから資本主義はもう終わりだとか言われるんだけど、だからといって素直に退場してくれるわけもなく、「利潤の極大化」という資本主義の命題でプログラミングされた自動運転みたいな感じでガシガシいくでしょう。

 ビジネスや企業のあらゆる側面で利潤の極大化を図るわけで、原理はシンプルです。売上を極大化するために、詐欺的な手法もつかえば、権力と癒着することもするし、需要を喚起するために戦争や暴動を画策してみたり、まあなんでもやると。同時に、経費の最小化であり、まず徹底的な人件費の圧縮。正社員や労働者の権利が付与されているポジションは極力少なく、雇用ではなく外注(アウトソーシングやコントラクト)形式にするし、下請けや取引先は徹底的に叩く。

 世界的に先進国の賃金は上がらないで低迷してます。日本だけではなくオーストラリアもそうです。なぜかといえば、企業が高給取りを減らして、安い外注やコントラクト仕事に転換しているからですね。単純にその方が儲かりますから。余ったお金は株主還元とCEOの数十億の報酬、そして内部留保。「トリクルダウンの大嘘」ということで数年前に流行りましたよね。でもまだそれを政府はやり続けるでしょう(景気対策と称して大企業優遇政策をやる)。

 日本も西欧も、労働法の厚い保障があるわけですけど、なんでそんなもんがあるの?と経済的に合理的にやれば疑問に思うでしょう。有給休暇とか働いてないのになんで給料払わないといけないんだ、無駄じゃないかと。オーストラリアは労働者の権利は厚く保障されてますし、日本は労働者の権利は事実上活用させてもらってないけど、その代わり正社員の身分保障は非常に強いです。いずれにせよ純粋資本主義、純粋ビジネスからしたら鬱陶しいシバリなわけで、なんで国がやるべき福祉政策を私企業が肩代わりしてやらないといけなんだ?という不満はあると思います。だから脱法的に切りやすい派遣にしたり、権利が発生しないコントラクトやカジュアルにしたりする。

 そこで派遣やコントラクトにも労働者の権利と同一のものを認めさせようという勢力と、あくまで切り離そうという勢力がせめぎ合うことになるし、この力比べはしばらくは続くと思います。

 このあたりはこれから就活の若い人なら弁えておくべきで、(1)の古典手法を取る最大のポイントは、この「会社が国家の福祉政策を肩代わりする」制度があるかどうかですもんね。安定した雇用保障、企業年金、傷病時の保障、働かないのに給料がもらえる有給休暇制度、どれもこれも激動する時代に機敏に対処したい現代企業からしたら邪魔くさいですからね。「大企業は福利厚生がしっかりしてる」なんてことがいつまで続くかはわかりません。

(3)国家の役割の増減と中央集権 

 これだけ生産力があがり、エネルギーすらも地産地消が射程距離に入り、世界レベルで情報や物流が自由自在に流れている現在、なんでもかんでも中央に全て集めて、それで統一的なことを決めて、さらにまた地方に再配分するという中央集権システム、ひいては国家制度、それって必要なのか?という問題があります。

 ぶっちゃけ21世紀になってから色々な問題が出てきましたけど、国家が解決できたものがあったのだろうか?という疑問もあります。バブルなどの経済暴走をコントロールできてないし、破綻対策に天文学的な救済策を講じるから、なおさら世界で余りまくったお金が有利な投資先を探しまくって意味なく株価が暴騰し、結果的にどんどんバブルは激しくなっている。オーストラリアでも馬鹿みたいに不動産が上がり、普通の若年世代だったらもう手が届かない値段になってしまったけど、それに対して有効な策も講じられていない。そもそもが一極集中や集権システムそのものが不動産の不自然な値上げを促しているのであり、ならば完全分散してしまうのが最も有効な対策なんだけど、それも進めようという気配もない。貧富格差の是正もまったく出来てないし、少子化や貧困化の歯止めも出来ていない。コロナ対策だって、実務は小回りのきく自治体レベルでやってるのが実情で、国レベルでこれといった有効な策も打ててない。

 何も機能しないくせに、お金だけはうなりを上げるくらいに集まってくる中央集権国家は、大きな金儲けをするには格好の舞台です。これまでは一応は真面目に政策も実行してて、それに加えて多少の「役得」があるくらいだったのが、今はもう何もしないのに利権だけを漁る、だんだんそれを隠そうとすらしなくなって利権争奪戦特設リング会場としての国家みたいな感じ。

 人によっては、こんなおいしい国家システムを捨てるはずもなく、なにがなんでも国家維持でやっていこうとするでしょう。そういう勢力と、あんま意味ないから廃止とはいわなくても、そこそこ調整は必要なんじゃないかって勢力がぶつかっていくでしょうね。


 その他にもいろいろな潮流はありますが、それは各自お考えを。例えばAIの進展で仕事がなくなるという潮流もあるし、賛否いろいろありますが気候変動で海岸線が変わるとか、天災続発でライフスタイルやロジスティクスなどが変わっていくとか、LGBTなどライフスタイルの多様化がどんどん進んでいくとか。すごーく大局的にいえば、遠心分離機にかけたみたいに個人バラバラになっていくミクロ化の流れと、世界は一つになっていくマクロ化の流れが相互補完するとか。

(4)コロナの影響

 こういったもとからある流れに対して、今回のコロナ半年まったり期間はどういう影響を与えているか?ですけど、複雑にプラマイ拮抗してますね。

 古典的な流れでいえば、世の中不透明になるからこそ大企業とか安心できるとかそういう保守的発想が強くなる反面、その企業そのものがボコボコ倒産するかもしれないし、リストラその他は一層激しくなるかもしれない。特に今から入るような人に対しては、名ばかりの正社員で給料は全然上がらんわ、大した保障もしてくれないわってところも増えるかもしれない。だから、そういうことに見切りをつけて、地元でのんびりやってるほうがいいんじゃないかって人も増えるでしょう。

 テレワークの実験的導入があって、その影響がどう出てくるかも注目で、もちろん業界により会社により違うのでしょうけど、これを奇貨として積極的に推進していく流れと、喉元過ぎれば熱さを忘れるで、またもとのオフィスに戻る流れがあるでしょう。推進派は、主体が企業の場合は、もっと少ない人員で回せるという可能性に気づくでしょう。それに恐ろしいことに、テレワークって直に対面しないだけに首を切りやすいんですよね(笑)。毎日一緒にいたら言いにくいことも、全然会わないなら通知一本で済ませられますから。まあ法的な規制もあるから一概には言えないけど、心理的には格段に楽ですよね。また、実力性とか報奨性とか仕事単位にして、給料ではなく一件いくらでカウントしますってやって、最初は普通にやってるだけでいままでの給与額の倍くらい貰えて美味しいんだけど、そっちに契約移行したら、今度は仕事そのものがこなくなってフェイドアウトって手も使えますしね。

 推進派が社員である場合は、この機会にもっと環境が良くて安いエリアに引っ越して、通勤地獄から逃れる、人間らしく暮らせるというプラスはあります。が、職が不安定になるリスクはあるので、同時に、他のテレワークを積極的に探すことや、移転した先での地味な仕事を探すことも併用していく人もいるでしょう。

 これらの流れは脱古典派ってことになるかと思いますし、資本主義の先鋭化にある意味通じるところもあります。だけど、社員が地方でのんびり暮らすというのは、脱資本主義の流れでもあり、そのあたりは錯綜しますね。いろんな流れがぶつかり合う。オーストラリアに永住してる高齢の方々は、昔オーストラリアに会社の命令で駐在したけど、こっちの生活が気に入って、スピンアウトしてこっちに住んでるという人が多いとききます。コロナやテレワークなんかも、それと似たような現象を生じさせるかもしれませんね。

 こういう流れは中央集権とは逆になります。なんでもかんでも真ん中に集まって、一つの鋳型に皆押し込めてっていうのではなく、地方は地方、個人は個人で個性的にやっていく流れになるから、感じとしては脱国家、ないし小さな国家ベクトルになるかなって思います。

 まあ、内需を拡大して人々が暮らしやすい感じにするのであれば、大都市の住人が地方に分散してくれた方がいいんですけどね。限界自治体とか消滅危惧とまで言われてる各地方都市は息を吹き返すでしょうし、ビジネスが成り立つくらいの人口になれば色々出来ることも増えるでしょう。また地方独特の下らない因習旧弊も大都市帰りのバリバリの連中がそこそこの比率を占めることで打破されるかもしれないし。

 その種の地方回帰の流れはこれまで数十年、特に直近10年は盛り上がってましたから、さらに広がっていくかも知れないです。地方の方が面白い仕事があるとか。ただし、これも自治体やエリアによってかなり違うだろうと思います。全然ダメダメなまんまのところもあるだろうし、進取の気風でどんどん進んでいく自治体もあります。すでに巷には田舎暮しの自治体人気ランキングとかが出てきて久しいのですが、これから将来の日本においては、そのあたりが案外一番面白いかもしれませんね。

 しかし、そうやって皆が中央集権にそっぽを向いてくると、国家があれこれやるのがウザったく感じられるようにもなるでしょう。古い世代は「国にやってもらう」という感覚がまだあるだろうけど、年金諦め世代(って50歳以下は大体そうじゃないの)にしてみれば、国なんかアテにしてないだろうし、年金やら税金やら持っていくだけの、やらずぼったくりの迷惑な存在になっていくかもしれないです。

 でも、国としてはそれでは困るのであれこれ旗振って、国家「らしさ」を強調しようとするでしょう。コロナのロックダウンなんかもその流れで見れると思うのですが、オーストラリアでも独裁的だとか、権力的過ぎるとか、そういう批判も出てますし、偉そうに皆の自由を制限するわけには、大した仕事もしてないじゃないかって不満もあります。だから、いっそう危機感を煽ったりするのかどうかは知りませんけど。

ではあなたはどうするの? 絶望と希望の虚妄性

 このように潮流がいくつもあって、それぞれに連関し、干渉し、あるいは相殺しあったりするので、かなり複雑です。頭がウニみたいになるでしょうね。

 なので、あんまりこういうことを考えない人に言うなら、「これからは○の時代」みたいにワンフレーズにまとめないことが大事だと思います。そんなにシンプルじゃないのよね。分からなかったらわからないままでいいです。でも、妙にわかった気にならないように。また全てのことが統一的に説明できるわけもないですので、統一的に説明しようと思わないことです。つまりよく分からない部分がかなり広がってるわけですけど、それが普通で、それでいいです。

 そして、それこそが冒頭に書いた「不透明」「不安」の実体なんだろうけど、だからといってクリアにしようとか、妙に安定させようとしないほうがいいと思います。全てが可変的で動いているんだから、先が見えないのも、安定しないのも当然の話であり、それでいいのだと。常に動いている海の上に船を浮かべていれば、ごく自然に揺れるのは当然であり、固定してる方がおかしいです。

 発想を逆転して、先がよく分からないこと、固定してないことを悪いことだと思うのは止めたらいいです。むしろイイことだと。到底そうは思えないから自殺するんでしょうけど、でも、ここを誤魔化してても仕方ないですから。船に乗ってるんだから、船酔いするのは当たり前だけど、しばらく乗ってたら慣れるよ、と。

 もうちょい歴史的に補充すれば、かつて先が見えて、安定していた時代なんかろくすっぽないですし、あったとしたらガチガチの封建制度で、下民の子孫はどこまでいっても下民という恐ろしく救いのない状況ですよー。そんなんでいいのか?それに、高度成長の前提段階である日本復興期なんか、めちゃくちゃ不透明で不安定でしたよ。またしばらくしたら大戦争が起きると結構皆さん思ってたといいいますもん。だって、日清戦争、日露戦争、第一次大戦、第二次大戦とコンスタントに起きてきたら、また10年か20年かしたら起きるだろうなと思って当然じゃないですか。朝鮮戦争はあるわ、ベトナム戦争はあるわで、戦争すらあって当たり前の時代ですよ。そのときやってた世代が今は後期高齢者(一部は富裕層)なわけで、別に最初から全てがクリアに見通せて、万全に安定してたわけじゃないです。むしろ逆です。逆のときの方が伸びやすいんですよ。変化しやすいということは、伸び盛りでもありうる(ダメになりやすくもあるが)。また、その後の時代になんとなく固定パターンが見えたかのように思えた時代も、期待はずれの空手形が多いでしょ?だもんで、不透明で不安定なことは、必ずしも悪いことではない。てか、良いくらいなんですよね。

 そもそもですね、「希望」というのは変化でしょう?同じ状態がずっと続くのを希望とはあんまり言わない。何かが今よりもずっと良くなるという見込み、願望、予想をもって希望というわけでしょ。それは当然そうならない可能性もありますよ。絶対にそうなるなら、それは希望とは言わないです。「○時になったら特急列車が三番ホームにやってくる」なんてことが「希望」の対象にはならないでしょう。いつの日か、本当に心を通わせられる素敵なパートナーに出会って、、とかいうのが「希望」でしょう。だとすれば、不透明で不安定であることは、「真っ白な未来」だったら常にそうであり、それが希望の大前提でもあるのですよ。煎じ詰めれば、不透明で不安定であることは希望を抱くための必須条件であるといってもいい。

 だから不透明で不安定であることで絶望することはないです。

 というかね、もっと言ってしまえば、不透明で不安定だから希望を失ったり、絶望しているわけじゃないと思いますよね。絶望の未来が、クリアに透明に見えて、どうにも動かしがたいくらい固定されていると思ってるからでしょう?人が死んだり病んだりするのは、そのくらい絶望度が高い心象になってるんじゃないかと。でも、そんなにクリアに透明に未来が見えるもんかね?「絶望が虚妄なのは、希望が虚妄であるがごとし」というけど、良くも悪くも先のことはわからないのが事実だと思います。まただからこそ面白いし、だからこそやる価値がある。これからゲームをやろうというときに、100%結果がわかるようなゲームを誰がやるか?です。

 とは言いつつも、自殺するくらいになると、予測もヘチマもなく現実が絶望色に塗りつぶされているような主観であり、そう思っても不思議ではないくらいの客観状況なんだと思います。考え方一つでどうなるもんでもないって感じなんだろうけど、でもそこを敢えて言えば、考え方一つでどうにでもなります。多分考える範囲が狭いし、そもそも知らないんだと思いますが、極論すれば全てを放棄して逃げ出して、全然知らない街にいってゼロからやっていくってことも出来ないわけではないです。てかそういう人って結構いるし。CIAから命を狙われているとか、体内に発信機を埋め込まれててどこを逃げても無駄とかいうならともかく、100%リセットって出来ますよ。またそこまでしなくても、単に借金がかさんだとか、生計維持できるほどのお金がないとかいうなら、正規の社会保障を利用するだけでかなりのレベルまで改善できます。ただし、徒手空拳でお役所に向かっていっても撃墜される可能性が高いので、それ専門のNPOとかにヘルプを求めたらいいです。弁護士もそうですけど、そのエリアの専門家だったら、お役所との付き合い方は知ってますし、またお役所の方もそういうのが出てきたら勝ち目が無いことも知ってます。また役所でなくてもヘルプのインフラは、完全ではないにせよあります。あるところにはあるのですよ。それを知らないから、考えても無駄とか、絶望でしかないように現実が見える場合が多いと思います。

 

自分の視点

 もう一点は、いろいろな潮流が複雑に入り乱れているときは、自分だけのお気に入りの視座を作るといいです。チームがやたら多いプロリーグでどこを応援すればいいのかわからんとか、やたらメンバーの多いグループをどう見るかとかと同じで、とりあえず自分の好きなチームなり人を見つけて、それを追いかけ、それを固定視座にしてしまうとわかりやすい。満遍なく全体を見渡してとかやってても、いろんな情報が錯綜しまくって何がなんだか、になっちゃうので。

 なので、これからこの世はこうなる→だから自分はこうするという思考の流れにしないほうがいいです。なぜなら、前半の「この世はこうなる」の段階で自爆しちゃうからです。思考の流れを逆転して、世の中がどうなろうが、自分はこんな感じで生きていくのが好き、って固定視座をまず作る。そのうえで、その生き方はやりやすくなっているのか、やりにくくなっているのかという視点で見ていくとわかりやすいと思います。多くの場合は、そのどちらでもなく「やり方次第」だとは思うけど、その場合は、じゃあその「やり方」ってどんなんよ?で考えればいいです。

オーストラリアへ来る場合の段取り

 最後にオーストラリア留学やワーホリがお預けチワワ状態になってる方々へ。

 問題は国境が開くかどうか、開いたとしても使えるかどうかです。まず開くかどうかですが、世界レベルで開けようという流れになっているのは確かですね。開けたり閉めたり忙しいんだけど、それでも開けたい、出来れば開けたい、早いところ開けたいというのがメインの流れのように思います。

 なぜって話は簡単、経済がもたないからです。内需でやってても限界あります。前回書いたように相互ドミノ倒しのように不況の連鎖反応やってたら、いつまで経っても埒が明かないどころか、どんどん縮んでいってしまう。てっとり早いのは、外部からお金という「真水」を持ってくることで、それが最も即効性がある。それが観光客であり、留学生であり、その他多用な貿易などです。こんなことは最初からわかっていたことだし、コロナ対策をやるにしてもそこを踏まえてやると思ってたけど、なんか全然考えてないっぽくて、呆れましたけどね。でも、いよいよとなってきたら、やらざるを得ないでしょう。

 オーストラリアの場合も、NZとのトラベルバブル、片面的だけどやることにしました。

 片面的というのは、NZからオーストラリアに入るのはいいけど、オーストラリアからNZに行くのはダメという一方通行です。10月16日から開始。オーストラリアといってもNSWとNTだけですけど、それでも前進です。大事なのは、「バブル」というのは、14日のホテル検疫「なし」ということです。

 世界的に、相手国のリスクを見て、この国だったらOKとかやりはじめてます。完全OKな国だったら14日ホテルは要らないです。といっても完全フリーではなく自宅引きこもりにするとか条件をつけてるところもあります。

 オーストラリアとしては、とにかく「蟻の一穴」でもなんでもいいから実績を作って、徐々に広げていきたいでしょうし、近い将来日本もまた対象国になりそうではあります。一応世界的にみれば感染の少ない国ということになってますからね。補強証拠としては、全日空のフライトですけど、現在はシドニー発週5便、羽田発週3便なのですが、11月1日から11月30日まで往復週5便に拡大するそうです。ま、羽田発週3が週5に、片道合算8便が10便に増えるだけなんだけど「増える」というのがポイントですね。「減る」「現状維持」がこれまでの通例だっただけに。

 というわけで多少視界は開けてきたんですけど、ただし、これも一進一退するだろうなということは見ておくといいです。また感染が増えたら、きゃーとかいって閉めるかもしれないし、そういう開いたりしまったりってのがあるのは当然予期しておいてください。そうなるとですね、盗塁みたいなもので、開いてるときにばっと走り抜けるのが賢いかも。

 一方、入った後のことも考えておくべきです。ホテル検疫は不要だけど、自宅14日が必要とかになったら、自宅なんかないわけですから、結局ホテルになって下手したら定額の3000ドル、予算ぶっとびます。バッパーだったら400ドルくらいで済むのに。そこで、その検疫の自宅を提供をするというサービスがありえますよね。ホームステイでもそれを込みで引き受けるとか(やるところがあるのかどうか)。そのあたりはまた学校にも聞いてみようかな。

 ただ一番いいのは、自宅引きこもりもなにも条件をつけないことですね。単に開いただけではなく、そこまで条件が撤廃されることです。

 一方、語学学校に入る場合、今はすごく安くなってるのですが、でもそれってオンショア(オーストラリア国内からの入学)の場合なんですよね。オフショアは相変わらず高いところも多いです。だから一回ワーホリないし観光ビザで入国してからオンショアで申し込んだほうが得です。だけどいつ入れるかわからないし、入れるまで待ってたらこのプロモーションが終わってしまうかもしれないです。

 もう一点、いつもの一括パックをやる場合、近所のYHAなどバッパーに泊まってもらうのですが、ここのところバッパーが閑古鳥で閉業してます。隣のThe Villageも閉鎖して、どちらも個室の学生寮みたいになってます。これが結構綺麗なんですよね。下の賃貸広告はThe Villageが変貌したもの。


 といっても、また回復してきたらバッパーが増えてくるとは思います。いま時点でもGlebeの他のAlishanとかは頑張って営業してるみたいだし、Airbnbも増えてくるだろうし、誰かのところに泊めてもらうようにアレンジするということも出来るかなとは思います。ま、いずれにせよ過渡的なことだとは思いますけど。

 そのあたり、個別に言ってくれたらその時点での見通しを言いますけど、きめ細かにみておいてください。普通にやるよりは考えるべきことが多くて大変なんですけど、将来海外でビジネスとか考えたら、いい練習になりますよね。予めいろいろな条件を設定しておいて、全部青信号、GO!となったときにダッシュで動くという。物事を理路整然と考え、そして情報を常に収集し、注意深く観察し、動くときは一気に動くという、風林火山のような(笑)。カッコいいじゃん。ま、難しいっていっても、本当の海外ビジネスに比べたらどってことないですけどね。失敗したら数億円ぶっとぶとかいうリスクもないしね。

 そうそう、日本からでもオンライン授業なら格安のままになってます。暇でやることがないなら、日本で受講しておけばいいかもって気もします。英語力が足りてる人なんかほとんどいないし、僕自身でも足りてないくらいなんだからやっておいて損はないです。

 いずれにせよ、回復基調に乗ってきたら、わりと美味しいかなーという気はしますね。なんでもそうですけど、一番風呂的に美味しい。学費も安いだろうし、シェア代も今は安いし、逆にジャパレスのバイトなんかも店もしまってるところもあるとはいえ、それ以上に労働者(学生さんやワーホリ)が減ってるからゲットしやすいし、ファームなんか喉から手が出るくらい人手不足だし、なにをやるのにもかなり条件いいですよね。これが半年とかしてくると、また飽和してきて平常状態に戻っていくんだろうけど、そうなる前の一番風呂的なのがいいかなって(笑)。




文責:田村


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