「うつ」に興味はない、興味を持ってはいけないと思っていたこと
最近の日本では、よく「うつ/鬱」というコトバが使われるようになってます。
特にここ数年、非常によく見かけるようになったし、皆の日常用語にも出てくるようになった。
もともと自分では興味ない事柄だったのですが、あまりにもよく見かけるので、ちょっとお勉強してみようという軽い動機で書きます。
今、「興味ない」と書いたけど、昔はその種のことに興味あったのですよ。中学の夏休みの自由研究だったかに「ノイローゼ」を題材に選んだくらいで、岩波新書の心理学系の文献(宮城音弥さんの著作とか)を読み漁っていた時期があります。まあ、そのくらいの年頃には結構ありがちなパターンだと思います。原典にはあたってはいないものの、フロイト、フロム、アードラー、ユングあたりの古典についてもお馴染みになりました。理解しているのか?と言われたら全然してないけど、まあ「顔見知り」くらいの感じ。
中高生の頃にハマってたおかげで、性格論とか、勉強方法とか、メンタル管理とか、ある程度役に立ちそうな方法論を学べたし、その後の日々の生活でかーなり役に立ちました。このエッセイでもしばしば使ってます。で、使えそうな部分はあらかたゲットしたし、もうそれでいいかと思ったわけです。
なぜって、そこから先の病的気質や疾患レベルになるといきなり難しくなるし、人によって全然言うこと違うし、大迷宮になるからです。ちょっと進んでみて、「あ、こら、わからんわ」ですぐに撤退。素人が迷い込んでもデメリットの方が強いわと思いました。興味が失せたのはその時点です。というか、興味を持っては「いけない」って直感的に思ったのです。これ以上先に行くと底なし沼になるから、地面の固いうちにやめとけ、と。ミイラ取りがミイラになりそうな危険を感じた。
その後、興味の焦点は、ココロの状態ではなく、そういう精神状態を作り出している客観的な構造とその改善、つまりは社会構造=政治・経済・法律に向っていきました。中学の頃はわりと文学部とか心理学科に興味があったのですが、大学入試の頃はもう完全に法学部一本になってました。
その頃思ったのは、心の状態というのは、要するに「結果」であると。生来的・遺伝的なものは別として、多くの場合は客観的に不愉快な環境があるから、気持ちも不愉快になる。自分の家の前に美しい花畑があれば気分良いけど、ゴミの山があったら誰だって気分悪くなるだろう。だったらその「気分」そのものをあれこれ考えるよりも、どうしたらゴミを減らして花を増やすかという、社会システムを改善していった方が、より根本的な対処法になるんじゃないか?あるいは、個々人のレベルでも、なにもゴミ山に住まなくても花の多い場所に住めばいいわけだから、そのやり方論を考えた方がいいだろうと、そう思ったわけです。底なし沼に入る前に、地面の固いエリアでまだまだやることはあるんじゃないか。
今回、ネットでばーっと巡回してみたのですが、結論的にはあんまり変わらなかったです。つまり、一つは「わからん!」ということの確認です。とにかく、もう、めっちゃくちゃ難しい。昔よりもはるかに複雑になっているじゃないか。こんなもん「こうじゃ!」って言える奴なんかこの世にいるんか?というくらい混沌としてる。第二に、「結局”いい世の中”を作っていくしかないんだよな」という原点の確認です。日本は自殺者が多いと言われますが、健康と並んで自殺の二大原因と言われるものは経済問題です。早い話は経済が悪化すると自殺者も増える。お金がないから気分が沈むのであれば、経済を立て直すことが抜本的な鬱対策になるのでしょう。
ということで、結論的には中高生の頃とあんまり変わらないです。
ただ、今の日本で(&世界中で)語られている鬱をめぐる風景については、「ほう?」とか「そうなん?」とか思うところは幾つかあったので、それを書きます。
自殺の風景 日本のおっちゃんのしんどさ
ランダムに書きやすいところから書きます。自殺の話がでたので、まずは。
自殺者の統計というのは結構バラバラです。
例えば
平成21年版自殺対策白書、
社会実情データー図録、
厚生労働省・諸外国の自殺死亡率(右の表)を見比べてみると、韓国が日本以上の自殺率を示していたかと思えば、別の統計によると日本の半分になってたり、ようわかんです。ま、統計なんかそんなもんよ、と言ってしまえばそれまでですが。
でも個別に見ていくと興味深いです。例えば、右の表の日本とオーストラリアを見比べてみると、
15歳〜34歳の若年層(男性)に関して言えば、オーストラリアの方が日本よりも自殺率が高いのです。意外でしょ?オーストラリアに比べれば日本の若者(男性)は案外と自殺しないのだ。掲示板で
「急増する20代の自殺 理由はやっぱり」なんて言ってるけど、日本の若い男の方がまだ死んでないのだ。ただし女性は日本の方が高い。というか、全年齢通じてオーストラリアの女は中々死なない(さらに、よく見るとアメリカの女はもっと死なない)。
さて、日豪比較で一番違うのは中高齢者です。オーストラリアの中高齢者に比べて、日本の中高層は非常によく自殺する。この差は歴然としていて、ダブルスコアで違う。オーストラリアのおっちゃん、特に55-64歳(男)なんか、15-24歳よりも死なない(21.3対22.1)。でも、日本はすごい真逆で、65.9対16.5です。ダブルスコアどころか、トリプルを超えクォドラスコア。つまり、日本のおっちゃんは若者の4倍も自殺する。日本で年を取ると、単純に若いときよりも4倍死にたくなるような社会環境なのかどうか知りませんが、とにかく日本のおっちゃんはしんどそうです。ところが、オーストラリアのおっちゃんは、もう笑っちゃうくらい元気。すっごい違いです。
ま、それもこれも、この統計が正しければ、の話ですけどね〜。
ところで、今述べたように、日本の自殺者で圧倒的なメインプレーヤーになるのは55-64歳と45-54歳の男性という年齢層です。何のことはない、つまりは僕です!仕事柄、若い人と付き合う機会が多く、書いてるもの読んだり、話したりすると元気になるとか過分なお言葉をいただくこともあるのですが、日本の統計的には、あなた方が僕を「田村さん、元気出すんだ!」と励まさなきゃいけないんだべ(笑)。
なんでそうなるの?オーストラリアの場合
ただ、なんでこうなるのか?の読み解きは難しいですよね。
なんでオーストラリアはおっちゃんが若者よりも元気で、日本はその対極にあるのか?
本当かどうか証明できないまでも自分なりに推論するなら、、、、
まず14歳以下の子供はどちらも同じということから考えると、生来的要因ではなく社会環境の差だろうと思われます。社会環境といっても色々ありますが、一つは経済状況の差、もう一つは時代の差です。オーストラリアの場合、おっちゃん強し↑若者弱し↓になってるのですが、ベーシックな国民的ライフスタイルや価値観が、高々20-30年くらいでそうそうガラリと変わるものでもないでしょうから、経済的な差だと思う。実際、オーストラリアでは老いも若きも相変わらずBBQでビール飲んでガハハとやってますから。だから、おっちゃんが精神的に「強い」というよりは、たまたまその世代が社会経済的に恵まれているからではないかと。
ここ30年で経済の何が変わったかといえば、より先鋭に効率的になった資本主義でしょう。何となくよさげな人をとにかく雇って、あとは現場で仕事覚えてもらって〜という牧歌的な経営から、研ぎ澄まされた経営と人事管理になっていったことです。もうボクサーのように減量減量で会社の機能をシュイプアップし、不採算部門はカットし、アウトソーシングする。人事においても適材適所を徹底し、キャリア重視の採用をする。このキャリア重視がクセモノで、基本的に若年者には圧倒的に不利です。だってキャリア(実務経験)がないんだから(学歴はキャリアにカウントされない)。そしてキャリアが少なくても出来る仕事=現業的な業務はどんどん海外にアウトソーシングされるし、工場を持つ製造業そのものが下火になっていくから職そのものが減る。
そしてこの問題は僕がオーストラリアに来た十数年前から既に生じていました。このHPのかなり初期のコンテンツ、誰も読んでないと思うけど、1998年10月10日付の地元新聞の記事
Marginal Men / 片隅に追いやられる男たちを紹介しました。ここでは低所得のために自信を持てない男達が引きこもったり、社会の片隅に押しやられている状況がレポートされています。英語圏であるオーストラリアは、日本よりもダイレクトにアメリカ流の資本主義が押し寄せますので、日本よりも早く問題状況が起きる。オーストラリアの若い男性の自殺率が高いと言いましたが、本当に高いのは25-44歳のレンジです。
一方オーストラリアのおっちゃん達は、まだ牧歌的な間に職に就き、キャリアを積むことが出来、持ち家率が非常に高いオーストラリアでは、今から思えば信じられないくらいの低額で不動産を購入した。だから今となっては資産バリバリで裕福です。オーストラリアの2009-10年の平均世帯資産は$83万9000ドル、ローンなどの負債を控除した純資産でも72万ドル。ドル100円換算で7200万です(
統計局2011調査)。景気も先進国の中ではかなり良い方です。国家財政もリーマンショックまでは大黒字、今ですら来年までに黒字に戻すと言っているくらいです。
また、中でも不動産価格がアホみたいに上がっているのは、単純に人口増大でしょう。移民政策で選別した優秀 and/or 裕福な移民が増えていることが一つの原因になっていると思われます。このエッセイでも過去何度も書いているように、シドニーは人口増えすぎて困ってます。不動産価格は上がるけど、家賃はもっともっとあがっている。年間2度家賃が上がることも珍しくない。ただ、この移民政策は、白豪主義から思い切って転換し、数十年かけて精錬してきたものです。世界中からやってきた人々をオーストラリアに溶け込ませるために、途方もない費用と労力を費やして築き上げてきています。24時間無料通訳サービスにせよ、その行政努力と一般国民の努力は、これは素直に凄いと思います。
まとめれば、ここ30年のビジネスパターンの変化によって先進国では職が減っており、一番割を食うのは未経験の若年層であること。中高年層ももちろんリストラされているけど、まだキャリアがあるので再就職が可能であり、仮に失業したままでも資産形成に成功している場合が多い。且つ、移民政策や世界の多極化に適応するような長期的な国策によってサステイナブル(持続可能)な成長システムと、世界の次世代成長エリアにリンク出来ているという強みがあることです。
なんでそうなるの?日本の場合
これの鏡像のような左右逆パターンが日本だと思います。
先鋭的な資本主義の波は同じように日本にも押し寄せてますが、それまでの終身雇用や年功序列という日本型システムが防波堤になっていた。その防波堤が波浪エネルギーを吸収したのだけど、同時に防波堤そのものがボコボコに崩壊していった。その過程では、中高年層がリストラで一番最初に割を食いました。思えば国鉄の分割民営化がその第一歩だったのかもしれません。あのとき凄いリストラもやったし(リストラという言葉も概念もまだなかったけど)。転職や再雇用が難しい日本での労働環境もありますし、ここ20年間一貫して下がり続けている不動産価格という資産形成問題もあります。そんなこんなで、若年層よりも中高層の自殺率が4倍高いのでしょう。
なお世界の地価の推移ですが、面白い表があったので右に掲示しておきます。出典は
ニッセイ基礎研究所の分厚いレポート(PDF)「欧米と日本の不動産価格の長期動向比較より」です。75頁あるうちの61頁目に出てきます。
これを見て分るのが、91年のバブル崩壊から今日まで、日本だけが一度も上がっていない。ほぼ横ばいorジリ貧状態です。他の国はギザギザを描きながらも上がっている。
こと資産形成という意味でいえば、日本の場合もっと厳しいです。新築信仰が強い日本市場では、建物の価値は年々減少していきます。どこだってそうなんだけど、日本の場合は特にその傾向が強い。オーストラリアの場合「築○年」という表示はあまりしないし、新築が素晴らしいとも思ってない。ちゃんと手を入れれば高く売れますし、出回ってる殆どが中古物件です。でも日本の場合、更地価格が一番高いと言われるくらい建物の価値が低く見積もられる傾向にある。だから日本で不動産を購入するということは、年々下がる建物価格というマイナスを引き受けることであり、それを補うくらい地価が上がってくれないと投資効率が悪いということですよね。つまりは「地価神話」です。でも、肝心な地価がこの状態では、資産形成といっても中々思うようにはいかないのが実情でしょう。
なお、この表を見て分るのは、日本で「狂乱地価」「一億総不動産屋」とか言ってたわりには、他国の変動の激しさからすれば、日本の地価変動など穏やかなものです。他はもっと凄い。緑色のイギリスなんて「なにそれ?」というくらい激しく変動している。また、バブル崩壊が戦後最大の激変のように言われますが、地価に関する限り1974年頃のオイルショックの方がはるかに激しかったことがわかります。世界的に見ても、また戦後日本史をみても、バブル崩壊など「まろやかな変化」に過ぎないこと分かります。あの程度で騒いでいてはいけない、と。それより何より、その後こんなにも長くジリ貧が続いているのは、戦後の他国をみてもまさに日本だけであり、その異常性こそが最も問題にされなければならないということでしょう。
いずれにせよ日本のおっちゃん的に言えば、会社ではリストラされ、必死に買ったマイホームも年々目減りしてローン負担だけが重くのしかかるわで、そりゃあしんどいでしょうという気もします。
ところで、日本のおっちゃんをジェノサイドした世界の新型経営の波浪は、時とともに防波堤が低くなった分だけ若年世代にも押し寄せてきます。それでも今はまだ、やれ新卒採用だ、就活だ、リクスーだと牧歌的なことをやってられる段階にいます。それは日本における若年賃金が相対的に低いので企業側に若い人を雇うインセンティブがあるからという説もあります(オーストラリアはその差が少ないので、似たような給与を払うならどうしても経験者優遇になる)。つまり年功序列の名残が、結果的に日本の若年者を支援しているという皮肉な現象です。日本の若年失業率は先進国においては群を抜いて低いのだけど、多分そういうことかもしれませんね。
しかし経済のグローバル化が企業の存亡レベルで求められるようになるにつれ、牧歌的な余地は益々減っていくでしょう。経営スタイルが先鋭化すればするほど、キャリア重視、エリートマネジメント重視になるでしょうし、日本の若年給与が安いといっても、新興国へのアウトソーシングや海外進出、外国人雇用が常態化すれば、そうも言っていられない。現在の若年失業率10%前後が、いきなりスペインのような48%になるとは思わないけど、トレンドとしてはそうだ、ということです。
以上、単なる思いつきの仮説ですが、なんで日本ではおっちゃんの方が若者よりも4倍死んでいるのか?です。
何度も言うけど、それもこれも上の統計表が正しければ、という条件付です。
まあ、統計数値としては正しいんだろうけど、今度はその統計にどれだけ意味があるのか?ですよね。数字に引っ張られすぎない方がいいです。自殺率65.9!とかいうと途方もない数値のようですが、人口10万人中ですからね〜。100,000人のうちの66人です。若年層自殺率16との差は66/100000と16/100000であり、これをミリに直したら10万ミリ中66ミリ、てことは100メートル中の6.6センチと1.6センチの差でしかない。ビジュアルに想像すれば、競技場の100メートル走トラックに置いた一円玉一個の長さと4個の長さの差くらいですか。だから絶対数値や現象としてどれだけの意味があるのというと、どれほどのもんなの?という気もしますね。この手の社会問題で統計を出されると、ついついマジに受け止めてしまいがちだけど、針小棒大にし過ぎるのもモンダイですよ。「ま〜、そうも言えるかもね」くらいに留めておくのが賢明かと。
「うつ」のある風景
以上、鬱をとりまく客観的な外部構造について、ちょびっと見てみました。
それこそグルーミーな(憂鬱な)絵であり、家の前の花畑がどんどんゴミためになっていくわけで、そりゃあ鬱にもなるわなって感じですな。
しかし、この外部構造は、まだしも地面が固いエリアで、それだけに分かりやすい。
話はいよいよ底なし沼に近づいていくのだけど、ジャブジャブ入っていく気はないです。あくまでビビリながら、その周辺をソロソロ歩いていきたいです。
なにをそんなにビビってるのかというと、鬱って本当によく分からないのですよ。幾つかのレベルにおいて、そう。例えば------
@、「うつ」ってなに?
なにが問題にすべき「うつ」病であり、なにが誰にでもよくある気分の落ち込みなのか、その境界線が曖昧であり、そもそも境界線なんかあるんか?という内実の問題。
もともと分かりにくい上に混乱に拍車をかけているのが診断病名の付け方の変更です。本来は、一般の疾患と同じように原因によって種類を分けていました。しかし、精神というのは”病因”がわかりにくいので、出てきた結果から分類しようという「操作的分類」が流行になり、一気に広まったそうです。アメリカ精神医学会のDSM、WHOのICDという診断マニュアルがそれです。
しかし、これだと「お腹が痛い」という症状から「腹痛病」と言ってるようなもので、盲腸も食べ過ぎも胃潰瘍も全部同じ病気になってしまい、治療法が混乱するというデメリットもあります。たとえば、ものの本によると、いわゆる「うつ」的な症状を発症し、操作的分類からは「鬱病」になったとしても、従来の原因論からみれば、内因性うつ病(典型的うつ病、古典的うつ病、大うつ病性障害)、躁うつ病(双極性感情障害、双極性障害T型、双極性障害U型)、非定形うつ病、パーソナリティ障害(自己愛性・境界性・回避性(不安性)・情緒不安定性等の人格障害)、神経症(抑うつ神経症、パニック障害、強迫神経症、対人恐怖症、社会恐怖等)、摂食障害(過食症、拒食症)、適応障害、気分変調症、軽症うつ病、、がひとまとめになっているだけだったりします。
これが「うつ」の概念を爆発的に拡大させ、なにがなんだか状態を生みだしているのではないか?という気がします。気分が落ち込んだら→「うつ」という。しかし、従来の原因分類が正当なのかというと、結局これも他の臓器疾患のように病巣が目に見えるわけでもないので、症状を細かく見ていき、絶えず補正しながら試行錯誤しているのが現状です。
これは精神的な疾患、もっといえば「ココロ」を分析、分類、治療することの本質的な難しさなのでしょう。
A、精神医療への信頼性の問題
「ココロの風邪」なんだからすぐにお医者さんに診てもらえば良いのだという専門治療推奨論と、真っ向から対立する見解=医療が鬱病を作り出しているという意見を持つ人も多い。また医療内部でも精神科と心療内科とで微妙に違ったりする。
鬱病以前に、精神医療そのものに難しい問題があります。1983年の
宇都宮事件が有名ですが、精神病棟内部での患者への人権侵害が摘発され(同事件では患者二名がリンチで死亡)、それを受けて旧精神衛生法から改正精神保健福祉法になっています。何がモンダイかというと、医師が入院に必要アリと判断すると、本人の意思に反して収容され、ある意味では刑務所に収容されるのと同じです。ただ、逮捕や収監が刑訴法など手続法で厳密に決められており、救済手続も整備されているのに対し、精神医療においてはそのあたりがかつては曖昧で、しかも終期が決められていません。家族と主治医がその気になってグルになれば、健康な人でも強制収容し、薬漬けにして抵抗できなくし、一生飼い殺しということも出来ないわけではない。
ただし一方では、患者の意向を尊重して退院させて、その後、その患者が何か犯罪を犯したら、世間から「危険な患者を野放しにした」ともの凄いバッシングを受けます。病院としてもそれを恐れる。しかし、健常者だっていつ犯罪を犯すか分からんのに、そんな予想つけられるわけがない。結局この問題は、迷惑がかかるような精神疾患者を出来れば永遠に隔離しておきたいという、いわゆる”健常者”社会の身勝手なエゴも背景にあります。このように日本の精神医療は、僕が日本にいた20年近く前から事情を知る人々の間では問題視されており、僕が読んだ(「日本の論点」だったかな)精神科医の評論では「”絶望”以外の表現はない」とまで語られてました。これが前提。
次に、鬱病をめぐる情勢ですが、「うつ」が社会に認知されるのはいいのですが、同時にポップな存在になってしまい、中途半端な知識や自己診断で「自称うつ」が増えているらしいこと。そもそも精神科と心療内科の違いすらよく分かってなくて(僕もようわからんかった)、ストレスなど精神的な原因で身体に変調を来し、その変調に対処するのが心療”内科”で精神そのものを対象にするのが精神科。だから鬱病そのものは精神科が本道。しかし、精神科よりも心療内科の方が何となく敷居が低い気がするという一般人の意識がある。
それに加えて、国のキャンペーンなどもあるけど、副作用が少ないという触れ込みの新しい抗うつ剤(SSRIやSNRI)の製薬会社の販売促進、操作的分類のマニュアル診断化も相まって、病院経営に難儀している内科医が、いわばマーケティング的に心療内科の看板を掲げるという風潮もあるとか。そこでは、マニュアル判断で抗うつ剤を出しておけばいいやみたいな安易な治療もないわけでもない、という批判もありました。
もちろんそんな医師ばかりではなく、真面目に取り組んでいるお医者さんが殆どだと思うけど、一部の不心得、あるいは波長の違いなどによって、修復しがたい医療不信を抱く患者さんもおられ、疑心暗鬼が高まるという悪循環もある。ただし、患者側の批判も首肯できるものもあれば、ややエモーショナルに坊主憎けりゃ袈裟まで式のものも散見され、そのあたりはまだら模様。
ただ、こういう”問題論”というのはエクストリームな事例だけが取り沙汰されるので、普通にいいお医者さんにかかり、順調に推移し、快方に向ってめでたしめでたしという事例が(数から言えばそっちの方が多いのだろうけど)、話題性や問題性がないので取り沙汰されないという、いつものノイジー・マイノリティVSサイレント・マジョリティ構造もあるのではないか。
B、鬱に対する世間の反応が千差万別
単なるナマケ病だという人もいれば、世間の無理解を批判する人もいるし、また、「几帳面で完璧主義、自己犠牲的」という「従来型うつ」から、「人間関係に過敏、打たれ弱い、自己愛が強い」という「現代型うつ」というものまで様々であり、且つ対応方法も「頑張れと言っちゃダメ」とかいう一行知識が教条的になって一人歩きしているキライもある。また、なんでもかんでも「うつ」とかいって騒ぐことが、結局「うつ」を悪化させているという指摘もある。
仮に疾患レベルの鬱病だとしても、それに至る過程がいわば自業自得である場合と、なにかの被害者的な場合とで対応は違うべきか論。つまり「可哀想な事例」とそうでない事例があるのか。こういった区別や議論をするのはイイコトなのか、区別をするとしてもどうすべきなのか。
いずれにせよ「うつ」の概念が曖昧になればなるほど、あらゆる形態が「うつ」というカテゴリーに組み込まれ、真逆な反応を世間に生みだしていく。紫外線赤外線のように、スペクトラムの極限においては、限りなく単なるワガママに近い「うつ」もあれば、真剣に生命にかかわる重病疾患もある。しかし、たまたま自分が見聞したケースがそのうちのどれかによって、その人の「うつ病観」は決められ、結局は偏見のバリエーションが増幅し、混迷に拍車をかけている。
C、主観なのか客観なのか
不登校や出社拒否など、場面的に健康が害される場合も多い。「会社には行けないがディズニーランドには行ける」ということで、仮病だとか「偽うつ」だとか言われる領域だが、選択的障害も実際にある。さて、そのような場合、転職や離婚など客観的な環境改善をするのが根本的に望ましいことで、医療自体がしょせんは対症療法に過ぎないという見方もある。つまり「不本意な人生」を「気にしなくなる」「我慢できる」ことが本当の「治癒」なのか?という根本問題であり、これは病気という主観なのか、人生の組立てという客観なのかが分かりにくいし、その両方を含んでいる。
D、結局どうすればいいのか分からない。
@〜Cの結果として、何をどうすればいいのか結局わからない。なぜこんなにも見えにくいのか?「うつ」という概念を取り入れることによって何かが見えてくるよりも、何かが見えなくなっていくという弊害の方が大きいかもしれない。
最近、長めなので今回はこのくらいで切っておきます。
また、まとまりのある続きが書けそうだったら書きます。
以下、オマケとして、ばーっと見たサイトのリンクを張っておきます。別に厳選したオススメというわけではなく、ちょっと探しただけでもこれだけ出てきたという例証として。
文責:田村