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Essay 941:日本解体進化論〜思考実験の続き

 〜「中央」の消滅と分散ネットワーク〜二(四)権分立とか
 〜殺人(軍事)集団として最適化された中央集権は、もともと人を救うためには設計されていない
 〜K-POPファンダムなどにみる非組織ファクター


2020年06月29日
写真は、夜明けのManly Beach



K-POPファンダムの影響力

 ご存知かどうか、最近世界のK-POPファンやTikiTokユーザーなどSNSユーザーが、新しい国際的な勢力として注目されています。直近では、トランプの選挙活動に茶々を入れて影響を与えています。

 K-POPファンといっても日韓だけではなく、世界中におり、アメリカにもオーストラリアにも結構いるらしい。アジア系に限らず、白人系であろうが、イスラム系であろうが。公称では99ミリオン(9900万人)。彼らは、別にこれといった組織も指揮命令系統もなさそうに見えるんだけど、動くときは膨大な数で動くし、それだけ集まれば世界のあれこれに影響を与えることが出来る。トランプの選挙活動にフェイクのブッキングを入れて会場を空席だらけにしたり、多くの寄付を集めたり、あからさまにヘイト系のハッシュタグを潰したり(ハイジャック)するのも出来てしまう。はっきりいってその世界的な影響力は、国際プレゼンス(存在感)がほとんど無い日本国以上のものがあります。そして、彼らの行動原理は、「より良い世界にするため」という非常に抽象的なものです。それでも人が動く。ときとして一国以上の影響力を持って。

 キングダム(王国)じゃなくて「ファンダム(fandom)」というのですが、なにかのファンの集まり。まあ同好会みたいなファンクラブみたいな。でも、K-POP fandomの場合、単に誰が好きとか好みを言い合って喜んでいるという他愛のない集団(それはそれで素敵だし、意味あると思うが)にとどまらず、過去10年にわたって地味にチャリティとかやってたそうです。小さなことの積み重ねのように、寄付を募っては学校に寄付したり、動物シェルターを作ったり、災害復旧に協力したり。ネットを本拠地にしているだけに、"savvy"(異様に有能で詳しいこと)であり、特にSNSのアルゴリズムとかほぼ完璧に理解して使いこなせる(仲間の中にそういうのがいるのだろう)。そしてその潜在母数は全世界でほぼ1億まで膨れ上がっている。

 なんでこんなことしてるの?といえば、最初はアイドルがわりと真面目に社会的な関心や発言をすることから、ファンもまたって感じらしいんだけど、もっと本質的には政治的には無力だった個々人が、社会参加していく糸口になっていった点がポイントなのだと思われます。1:99で、強力な1に支配される無力な99だったのが、対抗するパワーを持ち得てきた、だから今まで「しかたがない」「これが現実」と諦めていた人々&物事が、諦めなくても良くなってきたという感じでしょうか。

 これは現在から未来の人間集団論(組織、システム論)において、とても示唆的だと思います。
 もう、国家とか企業とか、誰がトップでどういう組織でという発想そのものが古くなりつつある。そういう時代になってきている。

 こういう話って、すっと理解できる人と全然理解できない人に分かれるでしょう。
 僕は感覚的にわかりますし、そういうの好きです。というか、似たようなことを実はやってきましたから。

組織性のないネットワークの生産性

A僑とかパソコン通信とか

 APLaCではA僑とかAPLaC界隈とか極めて曖昧な、およそ定義することが不可能なくらい茫漠とした人間集団、「人のつながり」があります。帰国するときは各地で集まってオフやって、でも僕がいるいないに関わらず有志が集まったり、なんかやったり。遊んでるだけではなく、情報が欲しいときは呼びかけて集めたり、就職なんかの機会を作ったり、それが機縁で友達ができたり、恋人ができたり。場合によってはクラウドファンディングよりも速やかに数百万円集めてみたり。

 でも、そこに組織性はないです。誰が「長」でということもない。強いて言えば僕だろうけど、僕自身が組織化する必要性を感じないし、組織化してはダメだとすら思う。その都度、必要な限度で情報なり金なり人なりが駆け巡ればそれで事足りるのであって、それで十分だし、それ以上になんだかんだやりすぎるとなんか外れていきそうで、それがイヤ。

 はなはだ曖昧模糊としたものなのんだけど、その確かな実質と異様なまでの生産性の高さ・豊かさは、昔やったことあるから身体で覚えています。もう知らない人も多いだろうけど90年代にインターネットが一般化する10年前にパソコン通信というのがありました。富士通(+日商岩井)のNifty-Serve、NEC主催のPC-VANとかあって、そこに数十数百の趣味の集まり(フォーラムやSIGと呼ばれる掲示板)がありました。僕らは、真面目なビジネス系のフォーラム(義務ではないけど、最初に名刺を渡すように実名や所属など全部明らかにして参加する人がほとんど)でいろいろやってました。

 皆でマンション借りたり、新商品作って売ったり、会社作ったり。かなり先駆的な試みだったんで、マスコミの取材も結構ありました(というか各新聞社勤務の仲間がいるので彼らがネタとして書いた)。そのご利益は結構多くて、先端的な人達〜先端であることに妙な選民意識を持つような連中ではなく、「もっと新しく、もっと面白くなりたい」という子供のような感覚が強い人〜が多かったんで、とても良い刺激になりました。およそ全ての業界を網羅するくらい広がりがあったんだけど、普通の学生さんからリタイアした人までという立場のバラエティに富んだものでした。でも誰であろうがハンドルネームだけで呼び合って、人間関係が完全に対等だったというのも良かったです。上下関係とかほぼゼロでしたね。そういうの嫌いなヤツばっか集まってたし。そういう場で知り合うと人間関係は長続きしますし、今のカミさんもそのなかの仲間の一人でした。

 今のAPLaC界隈も、その頃と同じような感覚でやってるだけです。舞台が国際的になったくらいで、あとはそんなに変わらない。昔はフォーラムという掲示板に皆が書き込んでいたので情報求心力は強く、人間関係も密度が高かったと思うけど、今はそんなこともあまりないし、もっと茫漠と世界中に散らばってる感じですね。でも、根っこの感覚は同じです。

ネットワークと組織

 学術的にいえば、ネットワーク組織論とかいう話になるんだけど、これは理屈ではわからんと思います。やっぱ自分で体験してみないと。僕も体感的に数十年やってるからこそ「ネットワークってこんな感じ」というのはでわかる気はします。その昔、金子郁容さんの「ネットワーキングへの招待」と著書を読んでなるほどと思いましたけど、基本そのまんまですね。というか時代がまだそこまで追いつけていない感じ。もう正解は数十年前から提示されているんだけど、皆の頭が固すぎるのでそこまでいけてないという。でも徐々にひろがってるとは思います。

 このあたり、時代の流れが早すぎてついていけないという人もいるんだけど、その逆に、時代の流れが遅すぎて遅すぎて、イライラしながら待ちくたびれている人々もいるのですよ。僕なんかもそうだと思うけど、もう自分の目の黒いうちは無理だなーという感じ。なんで皆さんそんなに頭がダイヤモンドのように硬いのですか。


 で、K-POPファンダムがどうのというのも、「あー、なるほどね」って感覚的にピンとくる気がします。これわからない人には全然分からないかもしれないけど、そういう種類の人間集団というのは確かに実在するし、そこでの生産性の高さはものすごいものがある。反面、組織維持に関するコストは限りなくゼロ。また規則やシバリというものが殆どない。しかし、どんな規則集団(軍隊とか)よりも整然と動くときは動く。多分に中心的な存在はあるんだろうけど、そこで決めたことを全体に浸透させて動かすためには、その事柄自体の訴求力しかない。上命下服の権力関係や経済的制約(逆らったらクビ)とかいうのも一切ない。だから下らない提案をしたらシカトされるだけです。インフルエンサーとしての訴求力やカリスマ性を持ちうるかどうかですが、それは特定個人でなくても良い。テーマによって主人公が変わるし、場合によっては個人ではなくテーマそのものになったりもする。いずれの場合も共通するのは、全ては個々人の自由意思によって動き、それ以外の強制力はほぼ無いこと。じゃあ烏合の衆でてんでバラバラになるかというと、意外とそうならない。

 つまり、「人がたくさんいて何らかのつながりをもって何らかの行動に出る」という点以外には、従来の「組織」という概念から外れます。およそ「組織」ではないのですよね。でも組織以上の生産性を持つ。何に例えればいいのかわからんけど、今までの組織が例えば発電所だとします。原発も水力でもなんでもいいけど、とにかく膨大な設備をもった固定的な存在。一方、電気を発生させるという意味では、雷もそうです。瞬間的に発電所の数百倍の発電量をもつ。しかし、雷という設備があるわけではない。ただ普通に空があって水蒸気があってという普通の状態があるだけ。それが一定の条件が揃ったら雷という発電現象が生じる。組織に対するネットワーク的なものって、そういう感じ=本当に必要な時に雷が発生するような状態なのかもしれないです。

 逆に言えば、こういう”集団”では従来の意味での権力やら利権やらはありえない。主催者や中心人物が自分に都合が良いように動かそうと思っても、「大義」に訴求力がなければ動かない。特にK-POPファンのように世界レベルに広がってる場合は、ローカライズできない。K-POPだから韓国政府をプロモートしたり、逆に反対したりということも出来ない。もっと言えばK-POPはただの触媒であって、別に相互に集まるきっかけは何でも良いのかもしれない。ただ世界中の人が対等に参加してるから、賛否分かれるような微妙な問題については実効性がない。その代わり「およそ人類として」という物事には強い。

 振り返ってみれば、僕の過去のパソ通でのフォーラムのビジネスが基軸ではあったのだけど、自由闊達で公平対等で風通しの良いその場の雰囲気そのものが求心力であり、やってることは遊んでることが多かったです。別にそれで儲けようとかいう人はいなかったし、その意味では商工会議所とか異業種交流とかいうのとは全然違った。今のAPLaC界隈でも、一応APLaCなりオーストラリアなりキーワードはあるものの、「このクソ長いエッセイを読んでる人」というのが実質的な共通項かもしれないけど、より本質的には、その人間的な共通属性そのものこそが核心にあるのだと思います。だから僕なりAPLaCなりは、それら共通属性を引き出し、選別する触媒として機能しているだけです。おそらくK-POPファンダムも同じような人間力学があるのんじゃないかと思われます。

人はなぜ「組織」を愛するのか〜組織と情愛

 ところが、人間関係=組織関係とか思い込んでるガチガチな人もけっこういるわけです。

 例えば、エリート志向や上昇志向なんかもそうかもしれない。某有名大学や有名企業という「組織」に入ることが成功であり、自らの自信とプライドは組織から与えられる。そしてその組織内で階段を上り詰めていくことが人生の成功にもなっているとか。それは確かにわかりますよ、何よりも非常にわかりやすいですから。わかり易いだけに嘘臭くもあるんだけど。別に社会の上辺だけではなく、暴力団でも暴走族でも組織性は強いです。別にお金が儲かるわけでも、他の現世利益がなかったとしても、なんたら同好会とか、なんたらの会とか、とかく組織にしたがる人はいます。で、会長とか事務局長とか名誉会長とか役職をわりふってみるとか。肩書大好きな人も沢山います。

 単なる利害を超えてる気がしますが、なんでそんなに好きなの?
 それは思うに、人間は社会的な動物だと言われますし、なんらかの意味で人とつながってないと不安に思ったりするからでしょう。そして組織志向の強い人の場合、そこで求めているのは案外お金とかの現世利益ではなく、基本的には「居場所」というポジショニングでしょう。多分それが一番強いかな。あとは報奨です。これだけ努力したんだからこのくらい気持ちよくなりたい、ちやほや称賛されたいという報奨欲求。それが人が組織を求める原動力かなって気がします。

 あと「自我の延長」という側面もありますね。「俺のバイク」みたいにバイクと自分は全く別物なんだけど、自分のバイクが傷つけられたり馬鹿にされたりすると、「自分」が馬鹿にされたかのように腹が立つという心理です。わかると思うけど。自我がぶわっと広がって、地縛霊のようにバイクに取り憑くわけですね。これによって自己愛(ナルシズム)の範囲もまたひろがる。愛社精神、愛国、ひいてはナショナリズムなんていうのも、要は拡大変形されたナルシズムだと言われます。組織にもそれはあって、長年そこで頑張っていると「俺の部局」みたいに愛着が出てきて、「○○課の連中には負けられませんよ」とかいうセクショナリズムが発生し、トラブルのネタになる。また、組織構成員の異様なまでの愛着があるから、無用な組織部局を廃止できない、行政改革が全然進まない。組織への偏愛ともいうべき心情が対立すれば他集団と険悪になったり、そしてひいては戦争の下地になったりする。

 思うに、組織というのは、基本的にゲゼルシャフト(機能集団)ではあるのだけど、それを構成するのは生身の人間、感情の動物である人間である以上、やってるうちにゲマインシャフト(機能よりに人間的親愛性がメインになる集団=家族のように)になっていってしまう。それで居心地いい思いを与えてくれるし、一生の満足感を与えてくれるかもしれないんだけど、本来の機能面からしたら支障も多い。最後には一体何のために組織を作っているのかすら曖昧になる。しまいには、ただただ存続することだけが自己目的化してしまう。「すべての組織は成立の時点で最頂点(ピーク)に達し、あとは下降するだけ」という有名なフレーズがありますが、本当にそうだと思います。

組織論と江戸期

 ちょい余談ですが、江戸時代の武士階級の人々、幕府なり藩なり家なりの組織は、戦闘集団という本来の姿は関ヶ原や大阪夏冬の陣で終わってしまい、あとの260年間は、ただただ存続することだけが自己目的になっていた。非エッセンシャルな存在。一応支配階級だから今の市役所や県庁みたいな行政業務はやっていたけど(治安、司法、灌漑など)、日本社会を動かす本当の原動力にはなっていない。江戸期を強力に推進したのは百花繚乱の町衆文化であり、アートでは能と狩野派だけだったのが、歌舞伎が起こり、浮世絵がおこり、歌舞伎イベントと浮世絵をカップリングして売りまくるという蔦屋の流通やマーケティングであり、屋台の蕎麦や寿司というファーストフード大衆食文化であり、落語や洒落本などの大衆エンターティメントであり、ビジネスにおいては樽廻船など全国規模のロジスティクスの構築であり、先物取引すらやっていた大阪市場の先進性であり、それらは事実上資本主義の先端をそうとは気づかず実現させていった(だから明治になって西欧文明をすっと受け入れられた)。一方幕府は、大井川の橋をかけさせなかったり、新規発明を禁止したり、無駄な節約令で不況をさらに悪化させたり、要するに時代の流れの邪魔ばっかりしていた。

 ただ逆説的に江戸期が良かったのは、徳川幕府の主命題が「徳川家の支配安泰」だけであり、「日本国の統治」までは考えなかったことです。だから、一部の直轄領以外の膨大な日本のエリアは全国300近く細分された各藩の地方自治に任せた。幕府がやることは、反逆しないように無理難題をいって金を使わせて疲弊させたり、参勤交代で人質を取ったり、公儀隠密というスパイを放ってアラ捜ししたり、場合によっては難癖をつけてお取り潰しにしてその利益を幕府が吸い上げるという、なんというか非常にセコいことしかしていない。それが逆に良かったのですよね。士農工商でふんぞりかえって、町衆などという下郎下女のやることなどどうでもいいと放置してくれたから、あれだけ豊かな、ほとんど今の僕らのライフスタイルの原型を作ってくれたくらいの町衆文化が育ったわけだと思います。

 だもんで、江戸期に「日本国」はあったのか?といえば、無かったと思いますね。これで幕府が変な色気や義務感を出して、下々の者たちにもあれしろこれしろとか直接統治をやってたら、もしかしたら黒船が来る前に日本人は餓死同然になってたかもしれないし、西洋文明を継受しようにもチンプンカンプン過ぎて理解できずにダメダメ植民地になってた可能性が高いように思います。

 国家なんかない方がマシよね〜っていつも軽々と僕が言ってるのは、そういう面もあります。国にまかせておくとロクなことにはならないよね〜。戦後の高度成長でも、世界レベルに通じたのは、結局自動車と家電だけだったけど(家電はもうダメだけど)、あれも当時の国(通産省)が、従来の財閥系重厚長大産業を護送船団でやるのに忙しく、日本人が車?電器?はあ?GMやGEに対抗しようってか?無理無理って馬鹿にしてほったらかしにしてくれたからだという説があります。だから国から特に保護もされなかったけど、口出しもされなかったので、自由にやれて、世界レベルになれたと。大きくなって口出しするようになってからは(もはや尻拭いだが)、東芝にせよ日産にせよ国がちょっかい出してるところはダメっすよね。


 余談終わりで、本題に戻しますが、組織と人間的情愛の関係でしたね。
 
 だけどね、と思うのですよ。
 だけど、人とのつながりは別に組織である必要はないのですよ。
 と言うよりも、組織でない方がより良くつながれる、と思いますよ。
 また下手に組織にすると、組織にすることによる機能性の上昇と、組織にすることによる機能性の障害とがあって、長い目で見てると後者の弊害の方が強くなる気もしますね。だから物事を動かす場合、組織がベストであるとは言いにくいと思います。

 

ではどうするの?思考実験のつづき

 さて、これらのことを今の社会にあてはめて考えてみます。
 以前書いたようにお金廃止論などの思考実験の続きです。

 現在の国家組織論では多分そんなに長くはもたないし、もったところで悲惨な生殺しが延々続くだけだし、よろしくない。ならばどうすれば?ですけど。

 以下、全体的&体系的にこうすべきってほど考えが成熟してないので、断片的に書き散らします。てか僕自身の思考を進めるために書きます。

近代国家=軍事集団

 はっきり認識すべきは、人類は古来から国家というまとまりのある集団を、全て暴力によって作ってきたということであり、志向すべき方向は、もういい加減それは卒業して、非暴力によって作ってもいいんじゃないかという点です。

 大和朝廷にせよ、ムガール帝国にせよ、秦王朝にせよ、フランス共和制せよ、日本の明治政府にせよ、その前に、なんたらの戦いとか(明治前だったら戊辰戦争)とかいう戦乱(暴力沙汰)があって、その喧嘩の勝者が国を作ってきました。例外は、植民地が開放されて独立するようなものですが、そもそも植民地形成の段階で暴力はあったし、それで独立してもあとで内戦になったりしてます。

 ならば結局、人類は暴力団レベルの論理から上にいけないのか?です。暴力的に無理やり言うことを聞かせて、征服して、統治するという、そういうアホみたいなやり方しかないのか。この先、何千年も人類は同じように結局は暴力かよって話になるのか、です。

 でも、そもそもなんで暴力を使うのか?です。多くの理由は生産のためでしょう。なぜ原始において隣村を襲撃しようと思うのか?です。それは襲撃して、その村の備蓄してる食料をゲットし、捕虜を奴隷として労働させるという点、つまりは生産です。生産目的で喧嘩が起きた。一粒の麦の奪い合いです。大航海時代とそれに続く植民地収奪もそれ。

 それが段々、資源エネルギーに変わります。ちょい前に書いたけど、産業革命以後、生産力が桁外れにあがってきたんで、そこまで必死になって食物や産物を奪い合わなくてもよくなっている。その代わりに資源エネルギー(石油)の争奪戦になった。2つの大戦の基本はそれ。でも、だんだん省エネとか、もしかして石油ってほぼ無尽蔵にあるんじゃないの?てか石油そもそもいらないんじゃないの?という昨今、資源だけで戦争するには無理が出てきて、だから大きな戦争はほとんど起きてない(内戦とか境界紛争とかくらい)。でもそれだと軍事系の人達がホームレスになるから、なんかかんか理由をでっちあげて喧嘩やってるという、僕からすると戦争やら暴力は、すでに古典芸能のような時代遅れの存在ではないかと。身近なレベルでの治安などについては暴力(警察力)は尚有効ですけど、国家成立のための大きな動機になるのか、勝負の決め手のツールになるのかというと微妙ですね。

 大体ですね、いつも書くことですけど、現代の国家体制というのは、18-20世紀の帝国列強、植民地争奪戦、資源争いの際、その環境を前提に最適化した形態でしょう。つまりどうすれば一番喧嘩が強くなるのか?です。軍事国家です。なので、現代のあらゆる国家体制は、基本、軍隊組織をベースにしてると思います。世界の中には、国家成立の原型(軍事性)が今尚色濃く残っている国々があります。色が濃いほど、まだナマというか、成熟してない。中国なんかも人民解放軍の力が強い。北朝鮮は国自体が軍隊でしょう?ミャンマーも軍事性が強いし、多くの第三世界はそう。だいたいクーデターは軍隊が起こすので(民衆が起こすのが革命)、クーデターやってる国は、まだナマですねー。日本の場合は、学校教育において軍服(詰め襟やセーラー服)を着せ、軍事教練(整列、行進、前へ倣え)をやってる点からして、ナマ度は結構高い部分もありますね。いつまでやってるんでしょうね、こんな古典芸能。

 軍事組織の特徴、つまり暴力最適(強)化ですけど、まず構成員を服従させること。徴兵とか兵役を皆が嫌がってたら話にならないです。そのために教育やらライフスタイルやらで洗脳しますよね。その洗脳が薄ければ薄いほど自由国家であり、成熟してるとも言えます。次に、指揮命令系統です。号令とともに整然と全体が動かないと喧嘩には勝てません。また、軍隊の備蓄、兵站(流通)などなど強力な組織的統制が必要です。これらはいずれも強力な中央集権システムを志向するでしょう。軍備をまかなうには、膨大な金が必要ですから、これも中央集権を志向します。とにかく日本中の金を吸い上げて中央に集めて、そこから予算配分をしていくという方式をとる。

中央集権というのは本当に必要か

 では、戦争とか暴力という大前提を抜きにして、今の中央集権というシステムは必要か?というと、僕は必要ではないと思います。むしろ非常に無駄が多くて有害性の方が強い。

 中央集権というのは全国一律に決めたほうが良い場合には有効です。では全国一律に決めたほうが良いケースというのは、具体的にどんな場合でしょうかね?思うに、「大まかなスタンダード」くらいかな。秦の始皇帝がやったという「度量衡の統一」は必要でしょうね。エリアによって1センチの長さが違ったら面倒くさいですから。あとは「大体こんなもん」という全国的なスタンダードを決めれば足りるんじゃないかなー。

 あとは全部、江戸期における藩のように、全部ローカルに振ってしまえばいいでしょ。
 なぜそんなことをいうかと言うと、これも前に紹介したように、国民が国に求めること(関心のあるトピック)は、殆どが福祉系です。教育、医療、介護、年金、そこらへんです。でもって、実際の予算支出も多くはそれです。でもって、そういうことって、別に全国一律にやらなきゃならない必要はないし、全国一律にやっちゃダメだとすら思います。だって、エリアによって実情は全然違うんだもん。冬になると雪かきの苦労で疲弊している雪国の人達と、沖縄のように台風の方が遥かに深刻なエリアもあって、そこでの福利厚生が一律であって良いはずはないです。そして同じエリアによっても、北部と南部では違うだろうしね。それに今だって、国民保険料などは地方自治体によって激しく違いますしね。

 もともとですねー、軍事組織を前提に作った現在の国家は、そういう福祉などの行政事務をやるために作られてないから、そういうのはめちゃくちゃ苦手なんだと思いますよ。だって原理的に極論してしまえば、「効率的に人から収奪し、人を殺す(戦争をする)組織」なんですから、「公正に分配して人を救済する」ための組織ではないのですよ。最初からそういう目的で設計されていない。現にそうでしょ?年金はどっかいっちゃうわ、基金で株買ってるわ、生活保護を受けようとすれば門前で激しく拒否られるわ、今回のコロナでも国レベルで何をしたというのか?という。

 福祉などもまあ中央集権でもやろうと思ったらやれるんだろうけど、でも、あんまり向いてないと思うなー。てかさ、「一回中央に全部集めて、それから全国に戻す」という面倒くさい手間が一体何の意味を持つというのか?ですよ。今現在における中央集権の身も蓋もない「意味」は、とにかく一旦日本中の富を集約しその使徒を決められるという強烈な権限があることから、必然的に強烈な利権も発生し、そこであれこれ錬金術が使えるって点でしょ?要は利権構造を生み出すための、その利権構造で一儲けするための中央集権であって、それ以外の存在価値は少ない。ゼロではないが弊害の方が強いと思うよ。

 なので、中央国家とか中央政府というのは、現在のような段階においてはそんなに重要ではないと思います。だもんで、今は三権分立で、国会(立法)、内閣(行政)、司法(裁判所)ですけど、内閣っていらなくね?って思いますね。中央官庁全部いらんね。国全体でやるんだったら国防と外交くらいかなー。

 全国のスタンダードを決めるんだったら、国会でスタンダード法律を決めれいい。教育だったら、大体この年令にはこのくらい知っててもらいたいなって標準を定めることで足り、具体的な実施はエリアやローカルごとにやればいいです。エリアによっては教えるべき優先順位も違ってくるでしょうしね。実働部分は全部ローカルがやるなら、内閣はいらないです。総理大臣もいらない。もっといえば「権力」なんか殆どいらない。権力がなくなれば、汚職も減りますよ。

 内閣とか中央行政府が殆どなくなるなら、二権分立でいいかもしれないですね。
 それじゃ「三権分立はどうなるんだ?」という話もあるでしょうけど、あれだってそれ自体に価値があるわけではなく、要は単なる手段ですからね。ジャンケンのように三すくみになってバランスを取るためという手段的制度なんだけど、実際問題、日本では全く機能してないもんね。絵に描いた餅じゃん。司法なんか基本政権の言いなりだし。ああいうチェック&バランスは、和を重んずる、というか保身と事なかれが身上になってる日本には向かないかも。アメリカのように、大統領がなんか決めたそばから最高裁で違憲判決出して全否定をしまくるというくらい喧嘩腰で出来る連中でないとチェック&バランスなんか機能しないですよ。

 それに3というのがマジックナンバーでもないのですよ。孫文は考試権(官吏登用)と監察(弾劾権)を加えて五権分立を提唱したし。この種の国内の法制度というのは、僕のプロパーですけど、一種の建築設計みたいなもの、あるいはプログラミングのようなものです。新しい社会を設計するなら、新しい設計思想が必要でしょう。

 もっとも、今はマスメディアが権力作用をもつから、内閣に換えてマスコミを入れてもいいし、より広く電通などの広告も含め、SNSも含め、情報全般を司る権限にしてもいい。そのかわり長は選挙で選ぶとか、国民の厳しい批判にさらされることになる(国会でなんでこんな情報流通をしたのかを厳しく批判される)。あるいは、オンブズマンを併置させて四権にしてもいいかな。行政機関を監視する公的代理人のことで、行政にかぎらずあらゆる政治作用の公正さをチェックする機関。今の日本にも市民オンブズマン全国連絡会議というのがあるから、そのへんのを集めて一権にしてもいい。

 いずれにせよ近代国家というのは喧嘩には強いんだけど、きめ細かな作業は苦手でしょ。あと商売もへたね。だから、中央国家(ここでは行政府)は福祉とかそういうのはタッチしない。あと経済にも口出ししない。だいたい、ビジネスと国家が関係もって良いことなんかあんまり無いもんね。てか、明治期の政商とか、今のパソナや電通みたいに、越後屋的な話になって税金ダダ漏れするだけで、ろくなことに使わないし。

 そんなにローカルに振って中央で決めなくていいのか?ですけど、今だって大してやってないでしょ?警察だって教育だって都道府県レベルで実務をやってますからね。度量衡の統一でいえば、未だに出来てない部分だってありますよ。電気の周波数は東西で50/60Hzって違うもん。

 それに今の政府は、水道だって民営化しようとかさー、政府が国民に援助金を配るという基本的な作業すら外注に出してるくらいなんだからさー、全部外注で出来てしまうやん?それに中央官庁が一手に握ってるから、アメリカとか外圧にそこを押さえられたらもう何もできない。一方で、公的サービスが全てという領域は意外と少ない。警察だって物足りないからこそ民間警備会社が流行ってるんだし、公教育がダメっぽいから民間の私塾が流行ってるんだし。インフラとして全国の鉄道網はどうするんだ?とかいっても、JRはとっくに民営化してるし、新幹線だって私物でしょ?私鉄やバスも昔からあるし。

 歴史から学べば、ヤクザと半グレの主立つ組織の長を警察の協力者にしてしまったほうが早いというやり方もありますね。海外マフィアについても。「銭形平次」ってあるけど、あれは岡っ引きという設定で、岡っ引き(目明かしなど名称はいろいろ)というのは正式な公務員ではなく、正規職員(同心)なんか30名しかおらず、それで百万都市江戸の治安と捜査なんか出来るわけないから、数百人に及ぶ岡っ引き、その下の数千人の下っ引きと協力体制を敷いていたわけですよね。銭形平次だって「親分」って呼ばれてるじゃん。形に囚われないという意味では江戸時代の方が全然合理的だよ。消防だって「め組」とか民間がメインにやってたし。

ローカル政府

 実権はローカルに移譲するとしてどの程度?っていえば、もう準独立国くらいでいいと思いますよ。刑法もローカルによって違うくらいでも。今だって条例で結構違うんだから。徴税権は100パーでも良い。そうすると過疎自治体の財政力がゼロになるから、機械的に人数割で割り振った方がいいかな。「中央」という概念がないのだから、税金は全て一旦クラウドに納め、それから「共益費」を控除した分を各自治体が引き出せるようにしてもいいかな。大体地方財源の少なさと中央からの金の流れが日本の政府を不透明にしてきてるわけだしね。

 中央というのが存在するとしてもせいぜい事務局程度のものであり、ローカル政府が国に代表を送れば良い。いやそれも無駄かな。24時間ズーム稼働でデーターベース共有の全国ローカル政府連絡協議会みたいなのを作って随時決めれば良い。全員一致する必要など殆ど無いのだから、全国レベルの議論を参考にしながら個々に決めればいい。あるいは、参議院をローカル政府代表にして、衆議院は今までのように一般国民から選挙で選ぶのでもいい。ただ国政でやることなんか殆ど無いと思いますけど。

 区分の仕方は都道府県よりももっと細かくていいです。小さい方が不正が発見しやすいので。ローカル政府の議員の顔を半分くらいは皆が知ってるくらいの方がいいかも。もっとも、日本の地方政治、それも小さくなるほど(町長選挙とか)、国政なんか及びもつかないくらい利権まみれでドス汚かったりするのですよね。でも、それもこれも資源(財源)が少ないから奪い合いという点もあるでしょうね。また、地方財源だけでやっていけるんかといえば、やっていけないエリアが大分出てくるでしょうね。

 でも、それは遅かれ早かれ過疎化して消滅するのだから、それを前提に生き残りを考えるべきだと思いますよ。田舎にいけばいくほど旧態依然としたものが強いのだけど、危機感もまた強いですから、新陳代謝を図るためにはそのくらいの方がいいかも。

 あと、東京くらい巨大になったら、もう23区と市町村で独立させたらいいです。あとは東京連合という半グレみたいな連合議会で決めればいいし、長は互選で出したらいい。だから都知事選やってるけど、知事なんかもいらない。都庁舎もいらないから、あれは大きなホームレスやら年収200万以下、貯金30万以下の人なら誰でも入居できるセンターにしちゃうとか。

 大体ですねー、世田谷区だけで94万人いるんですよ。アイスランドなんか全部で35万よ。新宿区が34万だからそんなもん。十分に区だけで一国分ありますよ。それを1300万中央集権でやる必要なんかないでしょ。国から都へ、都から区に財源をもっていったら、区のなかでかなり自由度の高い行政が出来るし、そのくらい狭いほうが皆の監視の目も行き届くし、皆の意見も採用されやすい。

非組織的構成原理

 ここで最初の部分とつながってくるんだけど、ローカル政府も、出来るだけ組織化しない方がいい。どんな問題も、それに非常に関心が深く、実働も行い、それゆえに実情をよく知ってる人達がいます。役所や各組織の担当者であったり、NPOであったり、関係者とかです。自分の人生のテーマをそこに据えている人だっています。

 だもんで一般職地方公務員とか一般議員みたいなゼネラルな組織編成をしないで、介護問題研究会とか、待機児童を考える会とか、多くの団体や有志がいるんだし、彼らが一番良く知ってる(当事者でもあるし)んだから、そういった人々と一緒にやっていくようなフレキシブルな組織、それはもう組織という定義から外れるかもしれないけど。

 今は、現地ローカルの当事者がまず現場で悲惨な目にあって、延々耐え忍んで、ついに意を決して役所に言っても門前払い。ようやくやってくれる人がいても、上にダメ却下され、さらに上までいき、その上までいき、県議会までいって、ようやくそこから中央政府におずおずと陳情にいって、霞が関の廊下で死ぬほど待たされて、聞いてはくれるけど、やってくれるとは限らないという、無限の回廊を経るわけですよ。

 だったら当事者に近い連中が積極的に行政の中核に入っていったほうが早いだろ。もちろん、それで内紛はあろうし、理念の対立はあろうし、大きなローカル内部での予算編成を巡って野球部とサッカー部が対立するみたいなことはあるけど、それでもいいです。今よりはずっとマシ。トラブルゼロなんてことは絶対にありえないんだから、だったら、トラブルの内容と解決がいかに可視化できるかでしょう?

 そうこうしているうちに、ローカル政府でも失敗するのと成功するのが出てくるでしょう。ダメダメなところでは、昔ながらの地主様の天下が全然変わらず悲惨な行政をやってるとしたら、今は、どんどん皆動いて他のローカル政府にいってしまう。

 あ、そういえば、魅惑の旅先として人気度一番だった函館が、同時に絶滅危惧すらあるくらいの衰退自治体になってるんですよね。なんで?って調べてみたら、函館周辺の他の自治体(北斗市と七飯町)は、子供の医療費が無料なのですね(高校卒業まで)。だから子育て家庭にしてみれば函館市よりもずっと暮らしやすい。ゆえに大規模な人口流出が起きているといると。

 つまりローカル政府の成功不成功は、市場原理で矯正できるかもしれない。あんまりアホばっかりやってると、人がいなくなって死んでしまうという。

 いずれにせよ生活=政治というくらいわかり易いレベルにステップダウンさせて、皆がやってることが結果に反映されやすくする。そうすれば、多少は生きがいも出てくるだろうし、「お上の慈悲をお願いする」ことと「仲間内で助け合う」こととどっちがやりやすいか?でいえば、後者だと僕は思うんですけどね。中央政府をなくすことで、膨大な利権が消滅しますからね、税金だって、多分半分くらいで済むんじゃないですかね〜。半分というのはいい加減な数値ですけど。

 そんな各個バラバラになっててカオスになって、それでいいんか?っていえば、僕はいいと思いますよ。人間が多数生きてれば、多少のカオスはあるくらいの方がいいし、それでもなんとなくバランスみたいなものは取れていくと思います。

 その中で生き残りを図るとしたら、いかに公正で透明なことをやって部外者を惹きつけるか、そしていかに魅力的な個性を出すかです。東京だって、東京とひとくくりにしたら可哀想なくらい各エリアによってローカルの個性差がありますから、もっともっと個性を打ち出せるようにしたらいいです。

現物給付と仕事認定

 いつも言ってるようにそんなに働かなくて楽に生きれるようになりたいなーということです。そんなあくせくしなくて。と同時に、どうせ仕事をやるなら、意味のある仕事、今やってることがちゃんと世のため人のためになるのだと確信できるものがいいでしょう。

 楽って意味では、ヘリマネやベーシックインカムです。これはかなり実現しそうな気もしますけど(それが日本で生じるかどうかは微妙だが)。理想論を罪もなく語れば、お金でなくても現物支給でもいいかも、ですね。日本全国津々浦々どこにいっても給食センターがあって、誰でも無料で食べられる。それもある程度の質のものを(ランチ千円、ディナー1500円相当くらいの)。でもって、安いビジネスホテルくらいのレベルの宿だったら、どこでも無料で泊まれると。

 誰でもっていったけど、例えば会員にならないとダメだとします。会員は誰でも登録できるけど、会員権を維持するために、週に何時間か実働しないとダメだとする。その多くは給食センターや宿の運営実働業務でも良く、また他の仕事でも良い。こんなんスマホのアプリとQRコードで出来るでしょ。

 さらにその「仕事」は、民間の普通の仕事でも全然OK。またそれが採算の合わないボランティアでもNPOでも個人事業でもOKにしたらどうか。世のため人のために意味のあることやってるなと認定されたら「仕事」認定される。問題は誰が認定するかで、そこが一番ネックになるのだが、それは各エリアから満遍なく選ばれた代表が「仕事認定委員会」を作って認可する。認可そのものは基本100%OKにして、その代わり継続監視をする。今なら、スマホのアプリでできるでしょ。例えば「公園の草むしり」というボランティアを仕事認定してもらいたかったら、レポートを書くかわりに、ボタンを押してONにして、GPS記録を残して、Before/Afterの写真を送らせて、これだけ草むしりをしましたという証拠にすると。申請だけして何もやってないところは取り消しになると。まあ、そこらへんはなんとでもできるでしょ?

 そうなるとですね、全く金にならない考古学的な研究とか、近所のおばあちゃんのお買い物の代行とかいうのも仕事として認定されれば、それで最低限のメシと寝床はついてくるわけです。これまで多くの有用な試みが、資本主義ベースでは採算が合わないとか儲からないということでボツになってたわけですけど、それで食える、暮らせるってすれば、全体として良いのではないの?です。もちろん、従前どおりの仕事を続けていて、給料ももらえるし、認定もされる。だから失業保険も年金も基本いらない。

 逆にいかに大企業であろうが何であろうが、個別的な事業が「社会的に意味がない」と判断されたら、仕事認定されないわけです。それでもお金は儲かるだろうからいいんだろうけど、まあ、カッコ悪いよね(笑)。

ネットワーク性 

 最後にK-POPファン的なネットワーク性ですが、これは至る所で応用可能です。ローカル政府同士の比較とかでも、ネットの口コミやら、その評価には定評のある集団やらが出てくると思います。ローカル政府で悪代官のような悪政が行われていると、全国(全世界)から抗議が殺到して対応に追われるとか。

 この種の非組織的影響力という存在は、雷のように一定の条件が整ったら出現し、それなりに強い影響力を行使する。最初から組織としてカウントしたり組み入れたりすることは出来ないが、物事がなにかおかしな方向に進む時に補正や潤滑剤として機能するでしょう。ゆくゆくは、そっちをむしろメインに持ってくるくらいのパースペクティブがあってもいいかも。

 テーマ性のある領域は、実働はローカル個別で動くのだけど、そのための意見や情報交換は広く全国&世界でやったほうがいい。今のように、中央で情報を一元管理して、全てにあてはまる最大公約数のようなフォーマットを作っても、そんなの毒にも薬にもならないから、結局また現場で臨機応変にカスタマイズして運用するなんて無駄なことはやめて、あらゆる現場の原データーからレポートから何から全て流通している状態を作り、個々の現場で必要に応じて参照したりフィードバックを返したりってやってった方がずっと早い。今でもその種のことはおこなれてますが、行政事務全般についての原則とする。

 あとですねネットではないオフですが、学会のような報告会やらを地区大会、県大会、全国大会、世界大会みたいに重層的にやってもいいし、ネット空間に地域限定は意味ないから24時間随時って感じでもいい。まあ、学会やシンポジウムと同じように、慰労会や懇親会、人のつながりをひろげるためにやるのもいいですけどね。

 

別に現状を変えなくても良い〜てか無理だし

 もうこんなもん考え出したら、いくらでもアイディアが浮かんできて収集つきません。つかないからとりあえず一部だけでも吐き出そうかと、今回書きました。

 でもね、こんなもんが目の黒いうちに実現するとは思ってないですね。若いあなたの時代にはなんとかなるかもだけど、僕は無理かも。

 もっとも、これも前に書いたけど、世の中を大きく良くしてその恩恵をこうむるように自分も良くなるという王道とは別に、国や世間がどうなろうが、自分とその周囲だけでもうまくやっていけないかって意味では、このネットワークは使えます。それは中国本土が清王朝→日本の植民地→国共合作→中共一党独裁になろうがなんだろうが、世界の華僑ネットワークはそれとは別の原理で存続運営されているのと同じことです。同じ時空間に二重にも三重にも同時存在できるし。

 今回の話に共通するベースとしては、一つは人々の才能を信用することです。世界は、そして日本は広いですからね。ものすごい連中がいるんですよ。キッレキレの。ただ折角の能力も、組織にガンジガラメになってて活かせてないという場合がすごい多いように思います。必要あるところに人物ありって感じで、そういう状況になったら、不思議とそういう人が出てくるんじゃないかなー。それが一つ。

 関連して言えば、思考実験的にでも「中央」という存在を消してみたら、今中央(官庁とか大企業)にほぼ飼い殺しのようにされている有為な人材が野に放たれるわけです。今は東京住人の二人に一人は田舎暮らしを夢みたりしてるのだから、仮に地方分散拠点が昔の藩のように300くらいに分割したら、その種の能力を発揮できるポジションが300倍(そう単純ではないだろうが)増えるわけだし、大きな所で老害圧政下で貝のように押し黙っているくらいなら、小さな所でのびのび力は発揮した方が面白くはないかね。一方、スッカスカになった東京は、のんびり昔ながらの江戸風情や明治大正風情を取り戻し、区別に個性を競い合うようなエリアになれるし。

 もう一つは、同じことかもしれないけど、その時になって考えればいい、です。あれもこれも仮説のシュミレーションでやってると、もう頭が限界になるし、大体思ってたのと違う展開になります。でも、なったらなったで、また思ってもいない解決策があったり、出会いがあったりするんで、そんなに何もかも綺麗に絵図面がかける必要はないと思いますよね。

 根っこにあるのは、いつも言ってるように、「もう少し僕らは楽してもいいんじゃないの?」「もう少し意味ある人生になれるんじゃないの?」ってことです。やり方一つじゃないのかなと。なら「やり方」ってなによ?ですよね。

 いずれにせよ「あきらめる」という単語はないですね。どんな状況であろうが、工夫次第で1ミリでも1センチでも良くなるなら、それをやった方がいい。




文責:田村


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