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Essay 937:コロナ後の世界〜〜予想と願望と思考実験

 〜「生産力が向上したら、生活も楽になるべき」という原理にあくまでも固執しよう
 〜直近の経済現象からお金のない社会の思考実験まで


2020年06月01日
写真はPaddingtonの奥の方、Edgecliffとの境目くらい。

予想と願望は実はリンクしている


 コロナ後の「これから」の話です。ニューノーマルとかそんな「今年の秋物商戦」みたいなレベルではなく、もっと根本的でもっと飛距離の長い話を試みます。

 「こうなるだろう」という純粋予測と、「こうなるといいな」「こういう方向に行くべき」という希望とは違います。ただし、この2つは意外と混じり合います。知的判断が感情によって揺さぶられるという一般論以上に、構造的に関連があります。

 皆が「Aになればいいな」と強く思い、それが普通の発想になっていけば、実際にも社会はそちらに動くということです。この点で、願望と予想はリンクします。それは真逆の場合、皆が「もう死ぬしかない」と思ってたら、実際にもパッとしない方向に向かうだろうことから分かるでしょう。

 個人のレベルでも、「信ずるものは救われる」「病は気から」とか言います。「そう思ったり、そう行動すると、世界はその方向に確定する」という量子力学のような話ですが、これはオカルトではなく、きちんと論理的な根拠があると思う。なぜなら、何でもかんでもネガに思う人と、ポジに思う人とでは、毎日の生活の細かな選択肢の一つ一つで違った選択をするからです。「健康であろう」と強く思う人ならば、駅までの道が多少長くても、「おし歩こう!最近足腰なまってるしな」って素直に思いやすいし、歩いていてもそんなに不愉快には感じない。酒でもなんでも、ほどよいところでビシッと切り上げることをしやすい。それが何千何万と累積すればやっぱ結果に差が出てくるでしょう?

 受験でも「絶対受かる」「受かってみせる」と固く思ってる人は、どんな難しい問題が出て発狂しそうになっても、それでも必死にトライし、最後の最後まで集中力を持続させることが出来る。でも「ああ、今年もダメだ」「どうせ俺なんか」と心が折れてしまうと集中力が続かない。微妙な差であっても、全科目全解答でみると、どっかしら差が出てきても不思議ではない。てか絶対差が出ます。前に論文試験の採点のバイトをやってたんだけど、採点する側に立つと「あ、ここで心が折れたな」ってのが不思議と分かるんですよ。以後すごい投げやりというか、雑になるのですね。場合によっては大幅に減点せざるをえないミスをする。あるいは、今日車を運転するなら、「私は今日、絶対ミスって事故を起こす」と呪文のように言い続けて運転したらいいです。怖くてやってられないと思いますよ。ほんとに引っ張られるんですよね。

 なので、社会についても自分の未来についても、「こうなったらいいな」というビジョンはあった方がいいです。いや絶対必要って言いたいくらいだ。そして、「え、そんな考え方アリなの?」という初耳レベルから始まって、「いや、ほんとそうだよな」と納得と確信になり、そういう考え方のフォーマットが頭に染み込んでくると、現実の世の中の見え方も変わるし、自分の判断や行動も変わる。そんなもんかと流しててことが、流せなくなる。「え、なんでだよ?ふざんけんな」って腹も立つし、「こうすりゃいいじゃん」ってことも見えてくる。その積み重ね。

 まずはそのあたりの話から。

なんでまだ働かないといけないのだ?

 エッセイでも何度も何度も書いてますが、コロナ以上に大きくて根本的な疑問が頭から離れません。それは

 なんで、まだ、みんな働いているの?

 という点です。
 生産力の話は何度もしました。つい前回も書いてます。大昔は殆ど全員総出で食料生産をしても、それでも食えないという時期が長かったんだけど、生産力が向上して、今では百人に1-2人かそのくらいの人がやれば足り、圧倒的大多数は食料生産とは違う仕事をしている。僕もあなたも食料を作ってはいないでしょう?僕の知り合いの中でガチでやってるのは田尻くんくらいかな。ちなみに、日本の農業人口は長期低落&高齢化で消滅すら危惧されるんだけど、朗報は若手が増えていることらしいです。若者の就農が増加!日本の農業人口の現状。このへん展開していくと面白いんだけど、テーマが違うので。

 昔に比べれば、知識も技術も膨大に進化したので、昔千人がかりでやってた仕事も今では数人で足りる、どうかしたら全部AIがやるので一人も要らないって話です。どんどん楽になっているんだけど、「働いて→金ゲット→生活」というフォーマットが変わらないので、生活実感は何も変わらない。むしろ、ITやAIに職を奪われ、失業するリスクという話になっている。

 なんかおかしくないか?

 生産が楽になったんだったら、生活も楽になるべきであって、そうならないのは、いつまでたっても昔のフォーマットをバカの一つ覚えのようにやってるからでしょ?つまり、「働いて生活する」というフォーマットも変えなきゃダメ、いかに就職できるか、いかに高収入の仕事に〜ってのはもう古いわけで、これからは「いかに働かないで(金なくして)ゴキゲンに生きていくか」論こそが真剣に語られなければならない。「働かない」とかいっても投資で儲けるとか、相続を期待とか、宝くじとかそういう話ではないですよ。これらは結局金というジャンクションを経由することに変わりはないですから。

 でないと、どんどん仕事のパイが減ってくるんだから、将来的には絶望しかないっしょ?子供が考えてもそうでしょ?それとは別の背景として、人類史的にいえば今は技術進化の踊り場みたいなもので、画期的なモノゴトが出てきてない。18-20世紀にあれだけ出てきた「画期的」(蒸気、石油、電気、電波、自動車、飛行機、パソコン、インターネット)と呼ぶべきものは、21世紀にはせいぜい2007年のスマホ(iPhone)くらいで、他に何がある?という感じ。ということは、「新たにやること」がない=仕事が増えないということ。殆どが二番煎じ、三番煎じ、もう百番煎じ(ダイエットとか)であり、しまいにはそれも尽きて、詐欺や騙しのようなことしかやることがない(政治にせよ胡散臭い金融商品にせよ)。それに加えて先頭を突っ走っていた先進国が前方の道路渋滞に捕まれば、すぐにあとから追いつかれるし。もーね、二重にも三重に頭打ちになってるんだから、僕らの仕事は減るのが当然。そして仕事=生計というドグマを外さない限り、将来破綻は火を見るより明らかでしょー。

河口真理子さんの大和総研のレポート

 ちょい長い余談に入ります。このあたりは面白くも大事な話なので、毎回書く度にいろいろ調べるんですけど、今回は「成長神話からの脱却を考える」という河口真理子さんの大和総研のレポートを見つけたので紹介します。人類史的に経済をみつめなおして、経済「成長」ってなによ?そんなもん要るの?という本質的なところを書いているものです。全文PDFになってダウンロードできます。時期的にはリーマンショックの頃かな。エコとかサステナブルとかが珍しくなくなってきた時代。なお、「経済成長神話からの脱却」クライヴ ハミルトン (著)という類書もあります。てか、この種の経済哲学書みたいなジャンルは非常に豊富にありますよね。

直近だけが超異常

 河口さんがご紹介になっているグラフがなかなか面白いです。まず、基本として


 人類史5万年のうち、産業革命後の「現代ぽい感じ」になってきたのは、わずか直近0.5%でしかないこと。圧倒的大多数の人類というのは、今とは違う生活、違う感覚を持って生きていた。これ、もし死後の世界やら天国やらがあって、皆、生前のまま居るとしたら、僕らが天国にいっても「話が合う」人なんか0.5%しかいないってことですよね。ましてや直近数十年なんか0.1%くらいだから、すごい疎外感を味わうんじゃないかなーって、変なところで心配になりますね(笑)。

 んでも、その人類5万年なんか、地球全史からすれば、超超微小の10万分の1のタイムスパンでしかない。もし惑星同士が世間話してて、「おい、地球さんや、お前のところに人類ってやつがいただろう?」「え、そうだっけなあ?」みたいな話でしょうね。10万分の1レベルの超瞬間的出来事なんか覚える以前に知覚できないんじゃないかな。地球からしたら人類なんか発生しようが滅亡しようが全く無問題。ま、その程度の存在なんですよね。

 で、直近250年の大変動ですが、この種のグラフは見慣れてますよね。


 産業革命以降の上昇カーブは、ひたすら「異常」ですね。こんなアブノーマルを前提にものを考えてたらそりゃ発狂してもしょうがないですよ。

 ちなみにここに書いてある「マルサスの罠」というのは、食料生産は等差級数的に増えるが、人口は等比級数的に増えるということらしいです。つまり食料は足し算でしか増えないけど、人口はネズミ算のように倍々ゲームの掛け算で増える。ウィルスも人類も同じことです。そうなると、なんか農業的なブレイクスルーがあって(灌漑方法が向上したとか、鉄器が普及しとかとか、新しい農法ができたとか)食糧生産率があがると、どっと人口が増える。でもって人口のほうがすぐに増えすぎてしまって、また食糧危機が起きて厳しい時代になる。人類史はその繰り返しだと。ところが、産業革命はそれをブチやぶってしまって、もう無制限の人口大爆発が起きます。「人類のオーバーシュート」ですね。だから産業革命ってそのくらい画期的だったのでしょう。

70年代が曲がり角だったのではないか

 もう一つ興味深いグラフがあって、

 これはこのように爆発的に資源を食らってて、全然サステナブルじゃないよって問題意識を喚起するグラフなんですけど、でも、僕は本来の趣旨とは違う点で気になりました。

 1950-2000年の50年間の前半25年(黄色で塗ったところ)と後半25年(緑に塗ったところ)で、伸び率がガクンと落ちている点です。人口そのものは、前半160%増、後半150%増で大差ないんですけど、自動車は470→220、石油470→130、天然ガス540→210、発電量1040→200、パルプ830→170、アルミ800→190という具合に、増えてはいるんだけど、増え方がガクンと減っています。

 これが何を意味するのかよくわかりません。しかし、1950-75年のような伸び方ではない、そういう種類の成長の仕方ではなくなったとは言えます。単純に量的に減ったというよりも、省エネ技術の進展とかもあるでしょうし、最近の傾向などをみても消費者のニーズやライフスタイルの変化もあるような気がします。これも前々から言ってますが、物財幸福主義は70年代に終わってて、量が多ければいいんだというよりも質の時代に、さらに物質よりも目に見えない経験などの精神的価値にシフトしてることの現れなのかもしれません。ま、そこはもっと調べないとわからないんですけど、事実の問題として、75年以降、資源ドカ食い傾向の伸び率減ってきてる(絶対数としては増えてるんだけど)のは面白い兆候だと思います。

GDPと幸福感とは何の関係もない件

 で、さらに興味深いのは、GDPの変化と幸福感にはな〜んの関係もない、という事実です。

 下はアメリカの場合のグラフで、GDPの変化と、国民の幸福感の変化が時系列で表されています。

 
 アメリカ一人あたりのGDPは一貫して増えているものの(90年までだけど)、幸福感の上下動が激しいですね。特に60-70年代の変化が凄い。まあ、キューバ危機があって、ケネディ暗殺(63年)、ベトナム戦争泥沼、カウンターカルチャーとしてロックや学生運動などの盛り上がり、それも下火になってなんか地味な感じに〜ってところでしょか。90年以降が知りたいですね。

 日本はある意味では衝撃的です。


 これも90年くらいまで(バブル直前くらい)の古い資料なんですけど、一貫してGDPは増えてます。みんな金持ちになってる。でも、驚愕すべきことは、国民の生活満足度(≒幸福感)は一貫してなにも変わらない

 これ、ちょっと、気持ち悪いくらいなんですけど。ほとんど「脳死状態」というか、何がどうなっても幸福感には変化ないわけ?まあ、これは、いろいろな解説がありうるでしょう。日本人らしい「足るを知る」「欲張らない」という慎ましやかな態度、身近なところ(花鳥風月やら愛する人々やら)で幸せを感じるという達観した大人性もあるのでしょう。しかし、「欲しがりません勝つまでは」「人生=我慢、辛抱」「自我の抑圧が常態化して麻痺している」という奴隷的禁欲性の現れだと読み解く人もいるでしょう。全部含んでるような気がしますが、あなたはどう思いますか?まあ、これも90年までだから、その後はまた変わってるのかもしれませんけど。

 ともあれ、ここで言えるのは、経済と幸福感は、ほとんど関係ないということです。

 これはポストコロナを考える上でも一つの指標になると思います。


踊り場〜来し方行く末

 「来し方行く末(きしかたゆくすえ)」って言葉があります。これまで歩いてきた道を振り返り、そしてこれから歩いていく道を遠望するという意味で、山登りのときに尾根道や峠みたいなもので、思えば随分歩いてきたなーというのが見えるし、同時に、あそこまでいくんだーというのも見える。過去・現在・未来がビジュアライズされているような感じです。

 賭博場の警察の手入れのように、「全員、そこを動くな!」でストップモーションになったのが、コロナによるロックダウンのようなものでしょう。「だるまさんがころんだ」みたいに、動いている瞬間にビタッと静止し、ぐらぐらバランスを取りながらも動けないという。そのうちバランスを崩した人(業界)から先にコケていくという。

 強制自粛(←形容矛盾。「他粛」というべき)のような世界で生活も社会も止まるか、スローモーになります。昔のSF漫画によくある「時間を止める力」みたいな(加速装置とか)。そうなると、図らずもヒマになって、なんだかんだ色々考える時間も出来るし、「こんな生活でいいの?」という反省や展望をする人もいるでしょう。

 とりあえず大都市圏の人格摩耗的な通勤電車に揺られていた人にとって、テレワークの実施やら、通勤免除は、ある意味では大きな福音だったでしょう。自殺者が20%減ったということからも(辛い職場や学校に行かずに済むからと言われている)、それはなんとなく分かります。

 同時に、全ての会社・業種でテレワークがうまくいくものではないけど、全ての仕事がダメだというものでもないです。なかには結構いけちゃうやつもある。これまでテレワークとか在宅勤務とか労働形態のフレキシブル化とか、いつもの日本の「菜っ葉の肥やし」で、掛け声(掛け肥)ばっかで、いざとなるとまるで実行してなかったのですが、今回、それをやらざるを得くなった。やってみた、出来ちゃった、という大きな体験をします。

 これはいい「種」にはなると思いますね。それで全てが変わるものではないですけど、解除になって何もかもが復旧したかにみえつつも、「種」というのは地中に残ります。ある種の体験をして、それが「頭の中に入ってしまう」ともう一生抜けない。

企業サイドの展望

 テレワークは、企業側にも大きな種を残したでしょう。こんなにネットでできちゃうなら別に高い金を払って都心に大きなオフィスなんか借りなくてもいいんじゃないか?という経費節減がその一。いっそうんと地価の安いところを拠点にしてネットで出来るのは全部そうしちゃえばいいかもと。

 もう一点は人件費節減です。日本のホワイトカラーの生産性の低さは世界でも指折りですからね。みんな仕事をしている「ふり」をしているだけで、実質的にどれだけやってるのかというと心もとない。僕も弁護士事務所時代は、ガチで仕事をするのは、皆がいなくなった夜の9時以降とかそんな感じでしたね。もう昼間は、あっちゃこっちゃの法廷行ったり現場行ったりの「外回り」で、事務所にいるときは絶えず電話はかかってくるわ、なんだかんだでゆっくり集中しての知的作業なんかできるわけないです。だから事務所内でいるときは、「○○先生の北陸出張のお土産がありますよ〜」「え、羽二重餅?食べるし!」とかいって、みなで和気あいあいと親睦を深めるオフ会みたいな感じの時間が多かったです。あれはあれで楽しかったですけどね。でも、もっと効率的生産的に仕切ることはできるよなーと、これは昔から思ってました。

 知的作業は基本ひきこもり作業だから、人が居ないほうがいい。昔から、裁判官でも「宅調(たくちょう)」といって週に1-2日は在宅勤務が普通でした。一方、あんまり頭を使わないでいい手作業系、現場作業系も、やりようによってはかなり在宅でも出来るし、アウトソーシングも可能。例えば破産関係なんか膨大な手間暇がかかるんですけど、ダンボール箱ギッシリ状態の請求書や督促状を仕分けして、債権者目録をつくり、債権者の氏名、住所、連絡先、担当者、契約年月日、元本、利率、破産申立時の債務残高などを一覧表にするのですね。これが数百社、数千社になるとえらい作業なんですけど、独立した普通の仕事になるので、これらも分離可能です。債権者や関係者全員に受任通知を送るにしても、昔は全員手分けして手書きで宛名書きとかいう凄いことをやってたんだけど、今はメールリスト作ったら一発同報だし、郵送宛名だって名簿があったらラベルにプリントできますしね。

 オーストラリアの話ですけど、僕が1年半くらいやってたデリバリーのバイトでも(Foodbyusというベンチャー)、発送受注を受けて、AIで最適化し、ドライバーに電話して割り振って、しかも深夜配送の間の電話(とSMSとWhatsAPP)で絶えずサポートしてくれてたスタッフ達が居て、もうお馴染みなんですけど、、僕は一人も会ったことがないです。1年半働いて親しくなってるけど見たことがないという。深夜のサポートだって、あれは多分、皆シフトで割り振られて、自宅のノートパソコンかなんかでやってるんだと思いますよ。というわけで、営業企画とかそのあたりはまだ雁首揃えてなんかする必要があるかしらんけど、ルーチン実働部門に関して言えば、今はほんとオフィス要らないですよね。あー、いつも帰国時に掲示板で各地のオフの企画をやるのだけど、あれも全部オンラインで出来ちゃってますからね。あのくらいのことだったらオフィス要らないですよね。

 労働形態のフレキシブル化というのは、今回のことで10年から20年前倒しで進んだような気がします。特に最近の日本のように、なにもかも老人化して新しいことをやるのを億劫がるような社会では、待ってたら永遠にやりそうもないので、この強制実行みたいなことは大きなステップになるかと。

個人レベルでの展望

 一方、労働者の側からも、いろいろ考えさせられていると思います。ポイントをいくつか示すと、、

ライフスタイルのキーノート

 「あー、早く職場に戻ってバリバリ働きたいなあ!」って思う人は少ないんじゃない?

 まず以前から書いてることの確認。例えばEssay913で孫引き紹介した、デービッド・グレイバー著(18年5月)の『Bullshit Jobs』Newsweekの紹介記事では、「かなりの人が自分の仕事には社会的有用性や価値がないとひそかに確信しつつ働いている」「アメリカ人の70%は今の仕事に本気で関わっていない」「社会は仕事を人間の尊厳と価値観の基礎に据えるように仕向ける一方、人口のかなりの部分が自分の仕事を嫌うような環境をつくり出している」「いま必要なのは「仕事のない世界」を創造的に考えること」と鋭い考察がなされています。いや、ほんとそうだと思うよ。僕に言わせれば、本質的にやることないのに無理やり仕事をひねり出してやってるようなもんなんだから、そりゃつまらんよ。本気で意味のある仕事(本当に皆の役に立っている)は賃金安いかNPOだもん。だいたいですね、面白そうなNPOがあんなに世界中にあるってことは、そして世界の超キレる人材になればなるほどエリート企業を蹴ってそっちにいくってことは、いかに経済が人々の役に立ってないかの証拠じゃないのか。

 半分休暇のようなロックダウンやらステイホームの間に、「なんでこんなことやってんのかなあ」「一生これかよ」って思う人も結構居たでしょうけど、そうだ、もっとそう思えんだ!って言いたいですね(笑)。詰まんないもんは詰まんないんだよー。逆に面白かったら、いくら禁止されても人はやります。犯罪になると言われても、それでもやる人は後をたたない。そのくらい詰まらないか・面白いかというのは人間の存在に遡るくらい重要なことです。

 別に大して社会の役にたってるとも思えない会社で、なんの創意工夫もないまま、「よそもやってるからウチも」だけで見様見真似でパクリ展開して、現場にだけは、ありえないような数値目標を押し付けられ、それが(当然ながら)達成されないと、根性がないとか、やる気がないとか、社会をなめてるとか説教されて、いったい何が面白いんだか。社会を舐めてるのはお前(本社のエライさん達)だよって言いたいでしょう?

 そんなわけで、緊急事態宣言なんかも、一生続いてくれたらいいなあって密かに思ってた人もいるでしょう(おおっぴらには言えないだろうけど)。

 で、「世界的に」と書いたように、これは日本だけのことじゃない。オーストラリアでも、Why for some people returning to ‘normal’ feels scarier than coronavirus lockdown(ある人々にとってはロックダウンよりも「ノーマル」に戻る方が恐い理由
で記事になってました。


 都市封鎖などの規制措置は、オーストラリア人のメンタルに非常に悪影響を与えているんだけど、その内容を聞いてみると、コロナそのものについては皆さんさしてビビってなくて、それよりも経済とか失業のほうが遥かにメンタルに影響を与えていた。と、同時に、3分の2以上の人が規制措置は少なくとも1つ以上のメリットはあったと答えていて、大きな点は家族と過ごせる時間が増えたから。また、「テディベアを探せ」(FBで広まった遊びで、窓辺にテディベアを飾っておいて、子ども達(大人も)はそれを散歩かたがた見つけて「あった!」といって楽しむという他愛のないゲームだけど、メンバー2万人)など、自分らの住んでるエリアをもっと楽しもうという機会にもなった。そして半数以上の人が、「社会はもっと多様な形になっていくべき(society will have improved in one or more ways)」と考えている。

 以下、日本みたいに職場恐怖症ではなく、ひろく対人恐怖症一般について論じられていて、人と交わるのが恐いとか、潔癖症のような強迫神経症(obsessive compulsive disorder)とが入り混じって、それまで普通だった人でも多少その気になってしまうとか。なんせ、「人が恐い」と「バイキンが恐い」 が合体するんで、誰でも大きな人混みとか見ると多少ビビると。

 なお、この記事でも日本について言及されていて、”Japan experienced a 20 per cent decrease in suicides in April 2020 relative to April 2019. Yet predictive modelling raises concerns about suicide rates potentially rising after the pandemic recedes.”(日本では、2019年4月に比べて今年の4月の自殺者は20%も減ったという。しかし、このパンデミック騒ぎが引いていったあと、また自殺者が増えるのではないかと懸念されている)。

 いろんな観点から書きましたけど、ひっくるめていえば、「なんか、もっと、のんびり生きたいなあ」って感情が前よりも高くなったのではないかしら。

 ライフスタイルのキーノート、憲法、基本理念みたいなもの、「人並みに」とか、「世間様に(SNSで)後ろ指さされないように」とか、「どうしても勝ち組とまでは思わないけど、露骨に負け組になるのはいやだ」とか、いろいろあるでしょうけど、それに「もう少しのんびり」が加わるか、あるいはもともとそういうのもあったけど最近勢力を伸ばしてきたって感じ。


 そこで出てくるのが「のんびり田舎暮らし願望」です。東京圏在住者の5割「地方暮らしに関心」ということで、5割って凄いですよね。


 田舎暮らしは、実は70年代のヒッピーブームからずっと根強くあるんですけど(専門雑誌もあるくらい)、でも、5割というのはすごいですね。

 過去にさかのぼって調べてみたら、2018年の段階で、都会の若者、4人に1人地方移住に関心 国土交通白書というのがありました。


 これは日経の記事、2018/6/26で約2年前なんですけど、2年前は4分の1で、今は2分の1ならば、わずかな期間に倍増なのかな。ちなみに、オーストラリアでもこの傾向はあります。仕事がイヤっていうよりも、大都会の不動産の高騰とか通勤時間とかに嫌気がさしているという理由が大きいです。


 ただ、「のんびり」とかいっても、どんどん失業するわ、金ないわで、のんびりどころの騒ぎではないわって話もあろうし、田舎暮しとかいってメシはどうやって食うんだ?って問題もあります。そこが悩みどころなんだけど、それ、ちょっと後に書きますね。

具体的な経済の流れ

不況ドミノ倒し

 コロナ、というよりもおバカなロックダウンの悪影響は、壮大なドミノ倒しやガンの進行みたいなものですから、これからどんどん出てくるでしょう。経済というのは因果の流れですから、比較的追いやすいのですが、日本でもアメリカでもオーストラリアでも倒産件数がどんどん増えてきました。いちいち個別に書いてたらそれだけで終わってしまうので書きませんけど、ああ、そんなところにも影響が、、というのはあります。

 例えば、ルパート・マードックのメディア帝国がありますが、オーストラリア傘下の地方ペーパー、なんと125紙にも及ぶのですが、それら全てを廃刊ないしデジタルオンリーに移行し、多くの地方の仕事を切っています。


 なんで感染とメディアが?と思うでしょうが、理由をきくと納得です。大きな理由が、広告収入という収入源の激減。なんせ広告打っても店閉めてるんだから意味ないし。もう一つは不動産広告収入。なんせインスペクションとかオークションのように人混みが禁止されてた時期があるので、それでガタ減り。また不動産市況そのものが低落してるし。さらにNewsCorpはFoxtelを持ってるんだけど、スポーツイベントのライブ中継が売りだっただけに、イベント禁止でこれもガタ減り。三重苦のようななかで、もう地方の小さい新聞は切り捨て!って決断になったらしいです。

 まあ分かるんですけど、そこからまたドミノ倒しです。これでただでさえ過疎化貧困化が言われる地方経済が落ち目になります(オーストラリアもそうで、だから永住権で田舎優遇になってる)。その地方での印刷関係の仕事、広告のデザインを描くデザイナーの仕事、エディターとかライターの仕事が無くなってしまいます。

 ここで関連して思うのは、初期の頃からロックダウンや自粛の被害を受けているのは、カルチャー系の仕事だということです。なんせイベントが禁止されてるから、音楽にせよ、演劇関係は全滅に近い。それに関連する広告、パンフレットなどの作成、デザイナー、WEBデザイナー、カメラマン、エディター、ライター、コンサートやら会場設備関連、さらにスポーツ関連、、、軒並み大打撃です。並べてみて気づくのは、皆に人気のあるクリエイティブで面白そうな仕事から先にどんどん沈没していってることです。

 もともと仕事がつまらなくなってる大きな流れのなかで、さらに面白そうな仕事から消えていってしまってるという。また、どんな仕事をしていたとしてもこれで安泰ということはおよそ無さそうだというのもなんとなく感じるでしょう。それらがメンタルや世界観、人生観に与える影響というのは、決して少なくはないと思います。


 ところで、同時に注目すべきニュースもあって、As newsrooms disappear and shrink across Australia, these 'invisible' multicultural newspapers are going strongというやつです。


 地方紙がどんどん減らされていく中で健闘しているのがエスニック移民紙です。世界各国の移民が集まるオーストラリアですが、民族ごとにコミュニティがあり、それぞれにメディアがあります。ギリシャ語やら、ベトナム語やら、アラビックやら、中国語やら、もちろん日本語のものもあります。こういうエスニック系は強い。

 なんで強いのか?で、Neos Kosmos氏というギリシャ語ペーパーのベテラン編集者が答えてましたけど、"We don't just exist for commercial reasons ... What we provide, there's a community need for it," he said.という言葉で象徴されるように、「商業的理由、金が儲かるからやってるだけじゃないんです。(移民)コミュニティにおいてそれが必要だからなんです」ということで、ゼニカネだけではない使命感ともいうべきものですね。これはこれからのことを考える上で一つのヒントになると思います。


 あとオーストラリアで最大の問題ともいえる不動産価格ですが、やはり将来的に落ち目になるだろうと予想されています。専門家によってさまざまだけど、今後2〜3年で10%ちょいって人もいれば、30%って人もいます。

 また、小売業が今回かなりダメージを受けてますが、もともとコロナ前から現場リテールはしんどい状況で、オンラインに押されていた。それが今回特にそっちの方向に押しやられていってる感じです。もう現場で店舗展開してられないから、オンライン一本でいくとか。

 で、それと不動産とが絡み合って、ショッピングセンターというデベロッパービジネスがありますが、これまで結構高い家賃を取ったり殿様商売でやってきたんだけど、どんどんテナントが出ていってしまって、逆に不況業種になりそうな勢いでもあります。


 これは日本における百貨店の絶滅寸前傾向と根っこは同じなのかもしれない。だけど100%オンラインになるとも思えないのですな。ウィンドウショッピングの楽しさもありますし、イベントや行楽としてのニーズもあるでしょう。かたや量販店が嘆いているように、最近の客は現物触ってアドバイスを聞くためだけに訪れて、買うのはオンラインだから、他のオンラインショップのためのショールームみたいな存在になってしまっているという話もあったり。いわばオンラインと現物との適正比率みたいなものはあるんでしょうし、これから実際に模索されていくのだと思います。

 そのあたりの経済の未来予想はかなり難しいですね。なにしろこの不況がどれだけの規模で進行していくか、誰も本当のところは予想できてないです。オーストラリアの経済予想は段々時とともに複雑になってきてます。

 これに対するオーストラリア政府の対応は50点くらいかなあ。JobKeeperという大決断は偉かったと思うのだけど、それ以外はもう大したことなくて。これも書いていくと長くなるので割愛します。また別の機会に。総じて言えば、弱者に対する目配りが全然きいてないし、将来に対するビジョンも見るべきものがないです。JobMakerとか新しい移民戦略とか言ってるけど、いかにも官僚や政治家が考えそうな話で、実効性に疑問アリアリです

ミックス!

 さて、冒頭の「なんでいつまで働かないとあかんの?」という素朴な問いかけと、細かい経済やら心理やらを考え、レベルの違う問題を強引にフードプロセッサーに入れて強引にガリガリとミキシングしてみてます。


田舎暮らしの実現性 

 田舎でのんびりってのはいいんだろうけど、問題は実現可能性であり、その最もネックになるのは、「食えるの?」という、職の問題です。もともと日本の場合、過疎化が問題になっており、2050年にはもの凄い数の地方自治体が破産するとか、限界集落以下になるとか、荒野に戻るとか言われてるくらいです。

 ま、このへんはニワトリ卵で、人が少ないから経済的に食えない→食えないから人が居なくなる→ますます食えないという悪循環をリヴァースして、人が来るから食えるようになるという逆回転にしたいわけですよね。人というは、労働者・生活者でもあるけど、消費者でもありますから。なかでも「働かないけどお金を使ってくれる人」=ビジター、観光客、インバウンドというのが一番美味しくて、もう世界中どこでもそれに賭けるしかない感じ。その昔は炭鉱とかあったけど、それもないでしょ。あとは原発誘致だけどこれも無いでしょ。企業誘致だけで、日本の場合は海外行っちゃうしね。あとは加計学園みたいな話とかさ。だから観光客はおいしい。

インバウンド

 今は国境封鎖でインバウンド死んでますけど、また蘇るでしょう。今回のコロナで、みな引きこもりになって、国境こえて移動するという流れが変わるとかいう意見もあるけど、僕は違います。むしろ前以上に盛んになるとみてます。

 インバウンド、出発国からすればアウトバウンドですけど、これって先進国の視点で見てると外すと思います。一昨年ドバイ空港で実感しましたけど、オーストラリアも日本もド田舎なんだって。もう信じられないくらい膨大な数の人々が海外旅行に出ている。それも見慣れた先進国ではなく、中国インドのその次、そのまた次くらいの連中が多い。そこまで皆豊かになってるし、そこまで豊かになったら夢の海外旅行はしたいもんですよ。日本人だってそうだったんだし。そんなもんちょっとやそっと恐いとかそのくらいで萎れるような願望じゃないですもん。

 だもんでインバウンドで食ってる人は、今はしんどいけど、淘汰の時期だから、雌伏して生き延びるべき。しばらくしたら反動ですごいことになると思います。それに、世界やメディアの通説みたいなものは、大体において間違ってるから、逆張りしてて正解でしょ。テロがどうのとか散々鳴り物入りで騒ぎまくったけど、だからといって海外旅行やめとこうかみたいな感じにはなってない。実のところ誰も大してビビってない。万年衰退期で発想が老人&事なかれ主義で、半ば即身成仏化している日本人ならともかく、イケイケの国の連中はイケイケだもん。

ホワイトカラー・ギグ・エコノミー

 あともう一つ、ここでテレワークが絡んでくるのですが、仕事がどんどん解体され、デジタル化され、外注でもいいし、テレワークでもいいし、なんでもいいって感じでバラけてきたら、逆にいえば田舎にいてもデジタル&ネット仕事をゲット出来る可能性が増えるということでしょう?

 この点が一番の成長株というか希望だとは思います。それがどの程度進むのかは全然わからないけど、ホワイトカラーのデスクジョブこそ、分散化、アウトソーシング化、断片ギグ・エコノミー化がしやすいです。既に10年以上前から、CADの作成とか、ソフトのプログラミングとか、データー入力とかはどんどん第三世界に外注に出てますよね。そういうサイトも多いし、なんせ費用が桁外れに安いから、ちょっとペイを良くするだけでいい仕事もしてくれる。

 今、オーストラリアの電話サポートセンターは大体フィリピンとかそのへんにあるとか言われてます。不動産屋のテレホンサポートも、フィリピンのコールセンターがコロナで閉鎖になったからしばらく休業ですってことだし、UberEatsの電話サポートもこの2ヶ月くらい事実上開店休業で、いいかげんにしろって感じです。英語圏というのは、そこが恐くて、どんどん仕事を海外に取られる。日本語は、まだ日本人以外は殆ど喋ってないから、それがジョブ保障のバリアになってるんだけど(小説とか音楽もそう)。

 突拍子もないようで、やってみたら意外とできた、それもすごく安くできた、出来はそんなに良くはないけど、まあ我慢出来る範囲だったら、その方が得です。今の企業は、金融支配(株主への利益還元と株価維持)を受けてるから、なにがなんでも利益を出さないといけないから、安くなるならなんでもやるでしょう。

 日本の場合は、固定観念が服着て歩いているような老害勢力がいるから、なかなか進まないけど、これも日本の常で、誰かがやりだして、後に続くやつが出てきたら、一斉にドドドと民族大移動しますから、もし変わり始めたら早いですよね。そのあたりは注目です。

 逆に言えば、二人に一人くらい田舎暮しを考えているなら、仕事付きで田舎暮らしを斡旋するコンサル&不動産業などをやるとビジネス的にはかなり有望ですね。とりあえずは現在の社員のなかで、テレワークを希望する人と、その人に任せられるおあつらえ向きの仕事があったらマッチングさせ、そういう雇用形態にしていくところから始め、次に最初からそういうポジション(通勤義務は月に1度で、あとは世界のどこにいても良くて、一件あたりの出来高払い)を募集し、ひいてはAirTaskerのような汎用性の高いプラットホームができていくとか。

日豪の田舎性

 今回のコロナでよくわかったのは、田舎は感染が少ないということです。人の行き来が少ないから当たり前のことなんだけど、それが最初はプラスに、しかしあとになるほど大きなマイナスになりうることです。

トラベル・バブル

 オーストラリア国内でも、NSWやVIC、ACTのようにシドニーやメルボルン、キャンベラを擁する州は州境の封鎖を解くべきだと主張し、それ以外の州は頑固に州境を閉じています。そんなことしてると、NSWからQLDに行くよりも先に、NZに行けてしまうよって冗談があるくらいなんだけど、それが冗談でも無くなってきてます。


 NZとオーストラリアでは、「タスマン海(両国の間にある海)バブル」というのがあって、なんで「バブル」なのかといえば、泡(シャボン玉)のようにこうなるといいなと夢のような話なんだけど、実現するかもってニュアンスで言ってる感じです。どちらの国も感染者が少ないし、経済的な必要性は相互にあるから、両国に限って国境を開いて行き来自由にしましょうという話です。

 これは多分そうなると思います。9月とか言ってるけどもっと早くしないとほんとにヤバいんじゃないかなって思うけど。それに加えて、オーストラリアの農場の労働力である近隣太平洋諸国(フィジーとか)も感染が少ないからそれに加えよう、留学生を増やしたいからアジア諸国(日本も)増やそうとかいう話もあります。構想段階だけどね。


 でもこのトラベルバブルと呼ばれる傾向は世界でどんどん増えてきてます。

 まず、バルト海三国(ラトビアとか)で域内の自由交通のバルティック・バブルがあります。



 次に、オーストラリアが門戸を広げるとかいう以前に、逆に門戸をあけてもらってます。ギリシャです。
 

 ギリシアは不思議と感染が少なく、そのこともあってタスマンバブルにギリシアも入れたらいいかもとか言う話もあったんですけど、ギリシアの方から先にオーストラリアは来てもいいよって招かれています。

排他性と後進性

 このへんオーストラリアは動きがとろいんですよね。
 一方国際的にはどんどんそういう話が進んでいるのに、QLD州内ではまだまだ9月まで州封鎖をすべきだとかいう州民が多いといいます。

 あー、田舎だなーと思うのですが、これと同じ現象が日本でもあります。
 都会の人が地方にいくと殆どバイキン扱いとか、他府県ナンバーの車だと嫌がらせされるとか、狭い世界の排外主義があります。まあ、わからんでもないのですが、感染少なくクリーンなエリアは、それゆえに都会の雑菌が恐いのでしょう。

 しかしこれは表裏一体で、なんでクリーンなのかといえば、それは田舎だからでしょ。オーストラリアもNZも感染数が少ないことが政府の数少ない自慢の種になってて、その成功体験から離れようとしないですが、それって政府が成功した部分よりも、最初から田舎だったからという部分が大きいと思う。いくつかの空港と港を閉めればそれでOKという、絶海の孤島のようなド辺鄙なエリアにあったからこそ出来ることであり、ヨーロッパなどの全部地続きで国境越えて毎日通勤してるようなにぎやかなエリアにはついぞできないことです。

 でもだからこそ、都会は常に前進し、常にいろいろ問題は孕みつつも、独自のダイナミズムやら先進性がある。都会エリアや都会の国が感染数が多く犠牲者も多いのは、それに伴う必然的な税金みたいなもので、車の数が多ければ交通事故も多いのと同じことです。

 そしてですね、都会は都会の道、田舎は田舎の道をいけばいいなら、それはそれでアリですけど、違うでしょう?どんどん仕事がなくなって、日本の場合は高齢化も激しく進んでいく現状から未来においては、都会の一極集中、どんどん都会以外はメシが食えないという状況になっている。だからこそ、限界集落やらで、いずれは日本の半分以上が原始の荒野に戻り、おびただしい自治体が死の村になると言われているわけですよ。てか、日本そのものが限界集落化するという予測すらある。なにがなんでも金と人を引っ張ってくるのが焦眉の急の任務だとも言えます。お金中心の経済社会を維持して、生き延びたいならね。

 

 オーストラリアも同じこと。とにかくクソド田舎にいるという自覚がないとダメだと思う。コロナの成功を世界中が称賛とか、誰もいってない幻聴のような自画自賛をしてる場合じゃないんだよな。伸びている産業といえば、留学くらいしかないというしょぼい国で、オーストラリアブランド優秀な工業製品なんかサーフボードとかブーメランくらいでしょう。それを留学生やテンポラリービザの連中をサポートもせず、追い返して、どんな未来があるというのか。

 挙げ句の果てに、狡猾なトランプに唆されて中国に喧嘩売って、中国の逆鱗に触れて、大麦は80%の関税かけられ、牛肉輸出は制限かまされ、鉄鉱石ですらなんだかんだ逆ねじを食らわされて、オーストラリアの地方経済に大打撃を与えている。発端となったコロナ調査の独立委員会も、ウザがっているEU諸国にお願いしまくって設置させたはいいけど、当初の目的だった中国を調査対象にすること、WHOから独立した組織にするこという骨子は全部骨抜きにされ、WHO内部の組織で、且つ世界全般を対象にするという、どうでもいい玉虫色の組織ができただけで世界的にはニュースにもなってない。それをオーストラリア政府は外交的大勝利とか大本営発表してるけど、中国の外交官から嘲笑されているという。こんなに国際音痴では話にならんわって感じで、そのあたりも日本に似てる。

 

 都会の人、ないし外国の人、要するに「よそ者」に来てもらう以外に生き延びる道が無いにも関わらず足蹴にするようなことをしている日本の地方も同じ。これによって、日本の都会人を敵に回したもんね。根深い軽蔑と憎悪の種を撒いてしまった。個々の局面においてはやむを得ないような場合もあるのだろうし、マナーの悪い都会民もいるだろうけど、問題はそういう是々非々ではなく全体の構図が見えているかいないかです。

 自分で何をやってるのかわかっているのかという気がしますね。
 このあたり,オーストラリアにおいては僕ら世界からの移民達の方がよく見えてると思います。移民連中は最低でも母国と二カ国は知ってるし、ステレオでものが見えている。それなりに皆さん苦労人でもある。また、先進国からオーストラリアに移住してくる連中は、経済やステイタスで言えばグレードダウンしてるわけで、オーストラリア自体が「田舎暮らし」でもある。僕なんかまさにそのつもりで来たし。適当に田舎で、自然も豊富でのんびりしてて、でもシステムとか先進性は日本以上にあるのが魅力だったんだけど、その先進性を捨ててしまったら魅力半減ですし、将来的な経済的な見通しもやばくなります。一歩間違えたらあっという間に衰退しますからね。

 

 という論考がつい先日ありましたけど、ほんとチャンスを棒に振っているパターンが多い。ただし、これは自治体によりけりというか、自治体によって天地の差があります。積極的に受け入れて、どんどん活力に変えて伸びているところと、旧態依然のまま何も進んでないところもあるみたいですね。だから、そういう意味では厳しい選別と淘汰の時代になると思います。

仕事とお金〜思考実験パズル

 さて、さらに冒頭に回帰していくのですが、より将来的な展望で言えば、仕事とお金を部分的にでも分離していく方向が模索されるべきだと思います。そうでないと、何をやっても絶望的な展望しか見えてこないのですよ。だって仕事そのものが減る方向にあるのだから。てか必死に皆で減らしているのだから。垂直上昇のロケットのようになにもかもが進展していったら、そして宇宙移住とかブレイクスルーの新天地がないのだったら、どんどん機械やAIに代替されていって、しまいにはやることがなくなるのは当然の帰結でしょう。

 生き延びるためには、根本理念の書き換えないとならない。「仕事=お金を得る行為」ではなく、「仕事=皆の生活に必要な行為」と置き換えるわけです。置き換えるというよりも、それがそもそも本来の「仕事」でしょうに。

お金のない社会

 ときどき思考実験というか、パズルというか、夢想シュミレをするのですが、もしお金を廃止したらどうなるか?です。買い物しても、家を買っても借りても、人を雇っても、ぜーんぶ無料にしたらどうなるのかな?と。だから働いても給料はゼロ。給料はゼロでも、住まいも食べ物も交通費もぜんぶ無料で手に入るから、別にそれでも困らない。

 これは頭の体操のようなものですけど、するとどうなるか?です。
 だったら誰も働かなくなるから、食料を生産する人も、輸送する人も、水道も電気もやってくれる人は居ないから、全員速攻で餓死するんじゃないか?ってことですよね。

 だもんで金という制度は無くすとしても、皆なにかしら働かなければならないというルールはいるだろう。学校の給食当番やら飼育係のようになんかしらやらないといけないと。そうなると社会主義っぽくなるんだけど、そうはなりたくない。なぜなら国というのはほぼ常に無能だからですね。特に日本の場合、マスクも10万円を配るというガキの使いのような作業すらろくにできないし、隙あらば利権漁りをしようとするから、国家なんか金(税金)払って害虫飼ってるようなもんですわ。

 では、どうしたらいいか。
 なんでも無料で手に入るんだけど、ある程度条件はいるな。一つは、それぞれの仕事に○ポイントとか、難易度とか重要度、レア度などを加味してポイント制にする。心臓外科医とかF1レーサーとか特殊な技能を持ってないとできない仕事はポイントが高い。そして年間最低でも○ポイント稼がないと無料にはならない。最低ラインを越えて働いた部分は自分のお金なりポイントなりになって贅沢できるようにする。それが何ポイント相当の仕事になるかは、皆で投票で決めてもいいし、あるいはオークションや入札のようにしてもいい。第二に、なんでも無料にするのではなく、無料になるのは「標準品」レベルで、まあ、そこそこおいしいとか、そこそこ住めるという、ホテルでいえば3つ星とか、大学生協や社員食堂のAランチくらいの感じで、十分それでも幸せになれるけど、贅沢な感じではないくらいのところ。それ以上欲しかったら、お金なりポイントを追加で払う必要があるということで、部分的にはお金的なものを残す。エクストラの報奨部分は残さないと面白くならないから。

 だから結局総体としては、今と大して変わらんわけです。皆もやり慣れた仕事の方が楽だろうし、簡単に高ポイントを稼げますから。じゃあ、何が違うの、円をポイントと言い直してるだけじゃないの?というとさにあらず。

 なにが違うかというと、仕事の絶対量が違う。かなり減ると思う。週3日くらいの作業で足りるのではないか。そして、失業の心配がなくなることです。もし失業者が出るくらいだったら、無料になるボーダーラインが高すぎるのだから、全員に仕事が行き渡るように下げればいい(週二でOKとか)。もちろん人気のある仕事とか競争は適度にあるだろうけど、それは残しておいたほうがいい。やりがいなくなるし。

 なぜ仕事の絶対量が減るかといえば、お金をなくし、「利潤」という概念をなくしてしまえば、無駄な競争がなくなるからです。とある商品でも、もう市場が飽和状態でこれ以上新規参入してもパイはないから、あとはゼロサムの奪い合いになり、それが性能の競争だったらまだしも、単なる激安競争とか、騙しとか、そんな具合に不毛になってる場合が多い。本来の市場原理が予定している以上(以外)の場外乱闘みたいになっている。消費者や生活者にしてみたら、似たりよったりの製品がそんなに幾つもあってもしょうがないわけで、適当に選択チョイスがあれば良い。つまりナチュラルに適正な質、適正なバラエティがあればいい。それを国が決めるのが社会主義だけど、それはイヤなので。じゃあどうしたらいいかといえば、そもそも参入する動機である利潤を消してしまえばいいんじゃないか。

 だって過剰な参入をするのは、そこに利潤が見込めるからでしょ?いくら頑張って新規参入してシェア獲得しても、結局いくら売れたところでお金は入ってこないわけですよ。一銭にもならない。だから生産したり、仕事をしたりってのは、お金を得るためという動機ではなく、「それがやりたいから」「皆の役にたつから」というモチベーションでやることになる。

 ここでさっきのギリシャの民族新聞が強いって話が伏線になってるんですけど、お金以外のモチベーションというのは大体強いです。あらゆるモチベーションのなかでお金が一番弱い。儲からない、割が悪いとなったらすぐにやる気が無くなるから。それ以外のモチベーション(お客さんの笑顔をみたい、喜んでほしいとか、必要だからとか、求める人がいるからとか)は強いです。だから金にならなくても、やる人はでてくるし、それは求められる限度において作ればいいのであるから、無駄はなくなる。無駄がなくなるということは、そんなに過剰に働かなくても良いということになります。

 これが生産力があがった果実を皆で食べることにつながっていきます。
 なんでこんなことを考えているかといえば、最初に述べたように、生産力の向上の恩恵は全員がうけるべきだ、という考えがあるからです。その恩恵が全員に行き渡っていない、どうかすると格差がひろがるばかりだと問題意識もあります。

 皆で楽をしながらのんびり生きるなら、必要以上の仕事を増やしてはいけないのですよ。でも、今は無駄な仕事が山ほどある。なぜあるのか?といえば、仕事の本質が利潤(お金)獲得だからです。「皆にとって必要かどうか」という基準でやってるわけではなく「儲かるかどうか」という基準でやっている。儲かりそうなら無駄だろうが有害だろうがなんでもやるけど、儲からないなら、いくら必要であっても誰もやらないわけで、その根本原理が間違っとると。

 つまり、全てに基軸に利潤を置いている現代のシステムだと、とにかく金にならないと何にもならない。だからあの手この手で儲けようとするし、全員が儲けないといけないから、なにがなんでもそれだけの仕事を作らないといけない。しかし、そんなのもう無理になってるから、結局失業だの、非正規の増大だのって話になるわけでしょう?

 社会全体で必要とされる仕事量だけ、皆で仕事をすればいいわけですよ。多分今の半分以下くらいになるんじゃないかなー。いい加減な推測だけど。そうすれば今の半分の労働時間でいいことになるでしょう?そして、皆が食える、生活できる分は生産できてるんだから、あとは適正に配分すればいいだけであり、一番手っ取り早いのはお金という制度をなくしてしまって、全部無料にすることです。

思考実験と馬鹿馬鹿しい感覚の共有

 まあね、貨幣廃止とか無料とかは、あまりにも現在からの飛距離が長すぎて混乱を招くかもしれないけど、コンセプトを理解するにはいい方法だとは思いますよ。僕はここで、こういうやり方で行こうと呼びかけているわけではないです。自分でも思考実験というか、ほんとパズルみたいなものだからね、これでいいとは自分でも思ってないです。

 ただ、根っこにある発想、これだけ先人たちの多くの知恵と恩恵を受けまくり、今日も皆で努力しつつ、垂直上昇ロケットのように生産力も発展しているのに、全然暮らしは楽にならず、それどころか将来に不安を覚えたり、鬱になったり自殺したりとか、なにやってるんだ?おかしいじゃないか?馬鹿馬鹿しいじゃないか?って問題意識を共有したいのですよ。

 もう十分に皆が幸せになれるだけのものは生産できている。空き家なんて死ぬほど余ってる反面、ホームレスで凍死したりしている人がいる。餓死してる人もいるのに、大量に食べ残しのゴミが処理されている。おかしいだろう。全員におにぎり3個行き渡るように握っているのに、あっちでは食べられずに餓死してる人がいて、こっちでは食べ切れずに捨ててる人がいる。

 あまり社会に役に立ってないような、むしろないほうが良いような、悪徳すれすれのような会社があって、そこくらいしか就職口がなくて、そこでさんざん嫌なことをやらされ(お年寄りを騙したり)、それで鬱になって死んでしまうとか。そんな会社いらないじゃん。無ければ困るというより、ある方が困る。なんでそんな企業があるのかといえば、金が儲かるからであり、なんでそんなイヤな職場で働く人がいるのかといえば、金を稼がないと生きていけないからです。ならば、金がなくても生きていけるようにすればいいじゃないかと。それが出来るだけの知恵も設備も生産力も、もう全て持っているのだから。逆にいくら金にしがみついても、全体の流れとしては絶望的な終着駅も見えてるわけだしね。

 これはベーシックインカムなんかともニアリーな発想ですけど、それよりもずっとラディカルな発想です。さすがにいきなり実現するとは思ってないけど、でも根本的な滑稽さ、おかしさ、大いなる無駄なことで悩んでいる、不安になっているというバカバカしさは共有したいのですね。現実性では多分ベーシックインカムの方が飛距離は近いから、まずはそこからという気がします。オーストラリアのJobKeeperなんか、対象者の範囲が不十分とは言え、ほとんどベーシックインカムですからね(月3000ドルだし)。こんなこと過去の歴史には一度もなかったことです。それが現実になってるところがコロナの凄さですね。

 コロナ後の世界がどうなるかはわかりませんが、「こうなるといいな」という視点設定と願望が広がれば広がるほど、本当にそうなる可能性もまた高くなるように思います。

 ということで、なんでまだこんな必死こいて仕事しなきゃいけないんだ、俺達は?という「馬鹿馬鹿しいことをやっている感」は多くの人々に共有されていくべき、と思うわけです。



文責:田村


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