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Essay 939:死生観について

 〜あしたのジョーから超ひも理論まで
 〜荒唐無稽で混沌とした夢の世界こそ、実は一番世界の実相に近いのではないか


2020年06月15日
写真は、早朝のセンテニアルパーク



 先週に世界観と価値観をやりましたが、その延長線にあるもの。人生観と死生観を。
 もともと先日60歳の還暦になったんで、その絡みで死生観話をしようかと思ってたんだけど、そのマクラ(話の導入部)として書いてるうちに長くなってしまったのが前回でした。

人生観と世界観の十代の基礎材料

 さて、死生観ですけど、そもそも死生観て何?ってのがあるので、調べてみると「生きることと死ぬことに対する考え方」「または判断や行動の基盤となる生死に関する考えのこと」らしいです。

 まあ異論はないんですけど、漠然としてますね。
「死ぬのはヤだよー。以上」というのも死生観です。確かに「死ぬことについての考え方」ですからね。「それだけかよ?」「もうちょい、なんかあるだろ?」って気もしますけど、一般にはそのくらいに漠然と思ってるだけじゃないですかねー。

 若いうちは死ぬことなんかはるか遠い未来にあるもので、一応観念的には存在するんだけど、そんなもん「宇宙のはて」と同じように、あまりに自分には関係ないこと、ましてや日常生活においては全然リアリティのないのが普通でしょう。そんな若い身空(みそら)で常日頃から死ぬことばっか考えてたら、そっちの方がヤバいですもんね。

 でも、僕の場合、かなり人と違うかもしれない。若いうちからわりと考えてました。とりあえず40歳を一区切りにして人生=40年というタイムフレームにしようと。これは感傷的、哲学的というよりは、単にプラグマティックで実務処理的にそう思ったのですね。

40年設定の合理性

 同じ話を何度もして恐縮ですが(って、このエッセイももう千回近く、しかも一回の分量がコレですからね、多少の重複はご容赦のほどを)、16−7歳くらいだったかに、何が何でも自由業(好きなときに昼寝が自由に出来るくらい自分の時間が管理できる職業)と思い、そうだ司法試験だ、やるっきゃないぜベイビー的に思ってた頃に、40歳で死ぬというのはセットとしてくっついてました。

 なんでかというと、理由の一つは、当時の終末論(世紀末的な)ブームです。

 僕は1960年生まれで40歳はキリがよくて2000年で、つまり世紀末に死ぬわけで、当時そういう話が山盛りありました。第一、首都直下地震の恐怖話がいたるところで出回ってて、その怖さときたら、今のコロナなんかの比じゃないです。ある日突然秒殺レベルで死ぬわけですからね。てか延々苦しんで死ぬくらいなら、秒殺で死ねる方が幸せです。なんせ毎日乗ってる地下鉄でドカンときたら、ガクンと電車が止まって電気も消えて、真っ暗な中、大量の人に踏まれて背骨へし折られて死んだり、折れた肋骨が肺に突き刺さってゴボゴボ血を吐きながら死んだり、生き残っても地下水がどっとあふれて真っ暗闇の中で溺死したり、感電死したり、じっくり火に炙られてロースト死したりって色々語られてたんですよ、マジで。コロナなんぞの比じゃないでしょ?それが今のこの瞬間に起きるかもしれない的な日々を中高6年間過ごしてきたわけ。とりあえず脱出!で大学から関西でした。現在は、その当時に比べたら耐震構造とか地震対策技術はかなり進んでるから、そのまんまってことはないでしょうけど。

 とかなんとか書いてたら、タイムリーと言うかなんというか、今朝の報道で、東京の地震のことが書かれてました。

 ご丁寧にNHKスペシャルの動画まではめこまれておりました。この動画でも解説されているように、当時は「こうやってあなたは死ぬんですよ〜」ってことを、毎日のように図解入りで丁寧に説明されていたわけです。死生観も変わろうというもの。

 

 だから40歳で死ぬと言うのは、恐怖洗脳されてた当時の中二病(本当に中二なんだから仕方ないだろ)にしてみたら、全くペシミスティックではなく、むしろ「40まで生きるつもり」という図々しいくらいに大胆で楽天的な予定でした。あの頃はいろいろ終末論ブームで、もうやたら沢山ありましたから、なんぼなんでも40歳になるまでの20年強の間に、どれかにぶち当たって死ぬと思うのが「合理的」な考えだという(笑)。

 ただ、それだけではなく、ティーンエイジャーにとってみたら、40から先なんて、もうおよそ考えられないのですよ。将来設計とかいっても、そんな先まで考えられない、無理!今でいえば、国家百年の計とかいうけど、45世紀の日本を今から作ろうとかいって、そんな2500年後の日本のためにとか話が先過ぎて考えられないでしょ?それと同じ感覚です。

 40というのは丁度いいタイムスパンでしたね。当時の司法試験の合格平均年齢が28歳かそこらでしたけど、それって東大京大のトップクラスの連中が一日14時間とか人間やめてます的なクソ勉強を数年やり続けての話であって、僕がごときボケナスが28なんかで受かるわけ無いだろ、いいとこ35歳くらいまでで合格できたら御の字かなーって。実際合格時35歳とか40以上とか沢山いたし、普通にリアリティあったんですよね。で、なんとか15年くらい根性でトライして合格して、2年間修習(インターン)やって37歳で、あと3年くらい実務やって、そろそろ飽きてきた頃に、達成感と充実感とともに人生を終えると。いいじゃん、美しいじゃん、おし、これでいこ!決めた決めた〜ってな感じです。

 つまりタイム感覚が、プラクティカルに手頃だったのです。それ以外の老齢年金とかいっても、もう普通に就職する気なんか全然なかったし、カンケーねーやって話でした。だって普通に就職=あの地獄電車人生ですから、無い無いそんなもん無いって感じ。それを前提にした年金だの、住宅ローンだの、将来設計だのいうのは、もう「異世界」の話にしか思えなかったですね。

 そういう国やら社会やらのお仕着せの「人生定食」みたいなものにバイバイすると、70年とか人生のクソ長くも広大な空白をはめ込んでいくピースが、絶対的に足りない。40になったらああなって、50になったらこうなって〜とかいう、カッコいいロールモデルがない。立身出世して、社長やら会長やら、なんたら長官やらとかいうのも、魅力的に思えなかった。もし神様がやってきて、日本の首領(ドン)にしてやるって言われても断りますね。だって面倒臭そうだもん。それに肝心な「気ままに昼寝」が出来そうもないし、これは致命的。

 あとですね、別の観点から言えば、当時の日本は高齢化してなかったから、今ほど老人が居なかったんですよ。55歳で定年で60代で男は普通に死んでたりしてたし(1975年の男性の平均寿命は69.84)。だから、老後とかそこまで真剣に考える必要なんか無いって感じで(年金システムはその前提で設計されてるから、まあ破綻して当然よね)。

 40歳過ぎても生き残ってしまった「まさかの場合」にどうするか?ですけど、もともとが端切れ時間のオマケみたいなものだから、別にどうでもいいやって考えもありました。それに、その時点の自分、今よりも20年以上経験値があって多少はマシになってるハズの自分が考えればいいやって。逆に40過ぎて大人になった自分が、16-17歳のガキの頃に作った設計図通り動くのも滑稽な話だしね。

ロールモデル 

 ロールモデルと書いてから思ったけど、こんな感じにいけたらいいなというロールモデルは、そのまま人生観にも価値観にも通じますし、もちろん死生観にも。

 考えてみると、僕らの時代背景やら、僕個人の好みやら、あと男の子一般の傾向やらで、かっけ〜って思う人々は、大体において「強烈に生きて」+「鮮烈に死んでいく」パターンが多いです。もうそればっかってくらい。

漫画のヒーローたち

 まず漫画の世界があります。「あしたのジョー」は高度成長期の少年たちに強烈な影響を与えてて、ハイジャック犯達ですら「俺達はあしたーのジョーになる」とまで言わせているくらいです。あれ、最後の方、世界最高峰のタイトル戦までいって真っ白に燃え尽きて死んでいくのをリアルタイムに読んでたわけですけど、リアルタイムにはあれが名作だとか解説は一切抜き、先入観ゼロで読むわけで、何がなんだかよく分からなかったくらいです。毎週ヤマがあって引きがあってという今のジャンプ的構成では絶対にありえないくらいのスローな進行で、最後の数週なんか、セリフも大してなく、ただ殴り合ってるだけのシーンが延々と続き、また次の週も同じように延々と続き、どんどんボロボロになっていって、死んでいくわけですけど(死そのものは暗喩的だけど)、読んでて詰まらないというか、息苦しいというか、最後の超有名な一コマまで読んでも、突きつけられたテーマが巨大すぎて咀嚼できなかったですもん。

 同じように巨人の星のリアルタイムの最後の方は、左腕の筋肉断裂まで秒読みという破滅に向かっていくわけですけど、これもほとんど無音進行で淡々と進んでいきます。もう息苦しいまでの緊迫感だし、同時に滅びの美しい透明感すらありました。

 ちょい後になったらハードな政治ものでもある「男組」(美味しんぼの原作者雁屋哲氏の出世作でもある)があり、未だに画力世界一といわれる池上遼一氏の絵に檄文のような台詞回しが乗っかり、魅力的なキャラ達が戦いの半ばで壮絶に散っていきます。

 これらヒーローたちの年齢は、多分20歳にも満たないくらいで、ほとんど十代で人生一生の仕事を成し遂げてるかに見えます。こんなの読んでたらですね、何もなしえずに20歳になってしまったときは、やっぱ敗北感とかあるわけですよ。ダセーな俺って、思っちゃうよ。

歴史のヒーローたち

 もう一つの影響は、小学校の頃から読んでた司馬遼太郎などの歴史物で、司馬遼太郎は文体や論理がめちゃくちゃ分かりやすいので(小学生でもすらすら読めるくらいで)、中学くらいまでには図書館通いでほとんど全巻読破しました。あの頃なんか全巻読破が流行ってて(笑)、松本清張全集とかやってましたね(松本清張は難しい政治物は辛かったですけど〜「北の詩人」「象徴の設計」とかしんどかったな)。で、歴史ものに出てくる連中がまたカッコいいわけですよ。「漢と書いて”おとこ”と読む」みたいな、武士道とは死ぬことと見つけたり(葉隠)的な独特な価値世界があって。ただ、司馬遼太郎は文体が陽性で、カラッと乾いてて、特に最初に読んだ「国盗り物語」の前半の斎藤道三が良かったです。乞食ホームレスなのに、「当然、俺が天下を取るに決まってるんだが、はてどうしたものか」みたいな、その圧倒的に傲慢な自信はどっから来るの?というくらいカラッと突き抜けていて、小学六年だった僕は「なるほど、こうやって生きるのか」と感心しましたね。このあたりは中国モノも同じで、「燕雀安(いずく)んぞ鴻鵠の志を知らんや」みたいな、うぬぼれや負け惜しみもこのくらい格調高いとカッコいいよなって世界です。

 共通するのは「天」というユニークな世界観があって、「お前は人生でコレをやれ」という天が命じた宿題があるわけで(天命)、それをやるのが人生であり、それをやり終わったらさっさと死ねという死生観にも通じます。キリストとか見てるとまさにそんな感じだけど。で、よく出てくるパターンは、平然とリスクを負うような場面で、「たかだかそれだけの男よ」とかいうセリフです。本宮ひろ志の三国志(天地を喰らう)で若い頃の曹操が、死病もちの売春婦から冥土の土産に抱いてくれと請われた時に、ここで病をうつされて野垂れ死にするなら、「この曹操、たかだかそれだけの男よ」とかいって笑って抱くんですけど、その意味は、もし自分が本当に天命を授かるほどの人物であるなら、こんなことで死ぬわけがないし、それで死んでしまうなら、もともと天命など無いわけで、そんな男に何の価値もないから死んでも惜しくないわという。

 でもこの考え方は、「腹を括」らないとならない場合には、プラクティカルに便利です。万が一とか考えすぎてビビって立ち往生するのを防ぎますから。実際、僕もよく使います。ここで飛行機が落ちたら、とかいうのも、それで死ぬなら所詮それだけの男だったってことだし、前職のときも「今日は下手したら殺されっかなあ?」って修羅場もたまーにあったんだけど、まあ、そんなんで殺されるんだったら、その程度の人生だったってことだわなって。悩んでたって「やらない」という選択肢がないなら、そこは平然とリスクを呑むしかないし、呑むならカラカラ笑いながら呑めばいい。そして、それが一番成功にも繋がるし(テンパって失敗することもないし)。オーストラリアにぽーんと無成算で来るときも、それで行き倒れて死んだとしても、まあそれだけの話だわなーって思ったし。ちなみに今回のコロナなぞ腹括りすら必要ないです。

ロックのヒーローたち

 さらにもう一つの価値世界があって、それははまってたロックとかその種の価値観です。ロックスターもすぐ死にますからね。てか、ドント・トラスト・オーバー・サーティって経典のように有名な言葉があって、「30歳以上のやつの言うことは信じるな」って意味です。その解釈は人それぞれだけど、30過ぎたらもう駄目ね、純粋にロックやってりゃ普通20代で死ぬよね、30まで生き延びてる時点でももうクソだよねみたいな意味もあるでしょう。結構ロックやってるやつにとってはでかいことで。

 これでまた自分が30歳になってしまったときは敗北感があるわけですよ(笑)。ああ、またしても、、ダセーな俺って感じで。まあ、今はかつてのロックスターも養老院ライブみたいにまだやってたりするんで、こういう言葉にリアリティはないんだけど、昔はあったんですよ。「27クラブ」って言葉があって、27歳で死んでいるのが、ブライアン・ジョーンズ(ローリング・ストーンズ)、ジミ・ヘンドリックス、ジャニス・ジョプリン、ジム・モリソン、カート・コバーン、他にも大勢27歳死んでる。27でないけどシド・ビシャス(セックス・ピストルズ、21歳没)、ランディ・ローズ(26歳)、マーク・ボラン(T.レックス、29歳)、あと日本では尾崎豊(26)。

 だから人生設計を40歳と区切ること自体、すでに忸怩たる思いはあって、こんなにダサくていいんだろうか?みたいな感じ。

 考えてみたら十代の頃はこんなんばっかで、そりゃ染まりますよね。で、三つ子の魂百までじゃないけど、以後基本この路線がベースになってるわけで、それが個人の価値観でもあり、ほぼ必然的に死生観にもつながります。いかに生きるかは、いかに死ぬかとほぼ同義というか。

 これらのエッセンスを咀嚼していくと、表現はいろいろあると思うけど、人生とは、いかに「なんか」やるか、いかに鮮烈に輝くか、いかにロックするか、いかに途方もないものに挑戦するか、いかに戦うか、そしていかにその戦いで散っていくかであり、それを純粋に実践していけばいくほど、死ぬ確率も当然のように高まり、そして当然のように死んでいくもんだってことです。そこで死に果てることは不幸でもなんでもなくて、ギリギリ最大限、極限まで行ききったというということですから、むしろ大成功と呼んでもいい。逆に失敗とは、ビビって、何もせずに、無意味に生き延びることであって、戦場に散るのではなく、畳の上で死ぬなんぞ「あってはならぬ男子の恥辱」と言われるわけです。

 

死ぬこと以外に興味なし

 ずっと前のエッセイでも書きましたけど、この10年以上、死ぬこと以外に本当に興味あることはないですね。

 早く死にたいとか厭世的なものではなく、死んだらその次どうなるの?死後の世界はあるの?というのを知りたいからです。こればっかりは自分で死んでみるしか無いですからねー。もし無かったら、それを惜しいとか残念だと思う自分もいないわけで、それは気にしなくても良い。問題は死後の世界があった場合です。

 それがどんな世界なのかさっぱり見当もつかないけど、少なくともこの世にあるいかなるものよりも刺激的で、面白い筈です。だって文字通り世界が変わるわけなんだもん。すごいよね。自分自身だってどういう存在になるのかすらわからん。この自意識を保てるのかどうかもわからん。うわ、すげえって、もうそれが一番興味あって、それに比べれば他のことはある程度予想も推測も出来るから、それほど興趣をそそらないのですよ。

 ただね、早く「答え合わせ」をしたいが故に、意図的に早く死ぬというのは反則な気がする。なんかしらんけど、それは駄目だろって。ゴハン炊いて蒸らしているときに蓋を取ってしまうような、パズルやってて先に答えを見てしまうみたいな「やっちゃいけない感」があります。それに、それが原因で死後の世界が変わっちゃったり、つまんなくなったりしたら、後悔先に立たずですもんね。そんな恐いことできんわって。

死後の世界というか、、

 僕はどんな宗教にも入ってないし、傾倒もしてないのです。宗教を毛嫌いするものでもないのですが、死生観とか死後の世界について言われてることがピンとこない。どうも本当にそうであるような気がしない。なんでそんなに細かくわかるんだよ?って胡散臭く感じるという理由もあるんだけど、なんか自分のとは違う気がする。

 なんか違うって、じゃあ僕は何を知ってるの?って話になるんですけど、直感的に、すごい断片なんだけど、前世の記憶みたいな(そのものではなく)あって、死んだら全部思い出すかのような感覚があるのですよ。むしろ今生きてる方が夢を見てるようなもので、死んだら「もと」に戻って、あーそうだったそうだったって感じ。

 僕はめちゃくちゃ難産だったらしく、ほぼ90数%死産と言われて、九死に一生を得るみたいな感じで生まれたそうです。もしかしたら、その頃に臨死体験的になんか見てるのかもしれないです。明確な記憶にはなってないけど、深層心理なんかには残ってるとか。わからんけどね。

 前に、エッセイではなく変な作品みたいなZEROってやつで、新緑と朱色って文章を書いたんだけど、なんでこんなイメージが自分の中にあるのか、その事自体が不思議なんだけど、あるから書いてみようとおもったものです。そこで、死ぬ時に「最後の瞬間に見る風景 それを見たとき初めて気づく 自分はこのことを知っていた、と。昔からこうなることを知っていた、と」そう思うんですよね。映画とか見てて、最後の方に印象深いシーンになったときに、「あ、この映画、俺見たことあるわ!すっかり忘れてたけど」って感じで。

 その種の感覚、喉元まで出かかっているんだけど思い出せない。でも年を取るごとに思い出しつつあるような気もする。あたかも、プールの底ではキーンという静寂音しか聞こえなかったのが、水面に浮上するに連れて周囲の雑音が聞こえ始めてくるかのように。あとちょっとで水面に達するような感じ。

 夢のなかでも思うのですけど、もう何十年も同じ場所が出てきたり。中学くらいの頃に夢とか心理学に興味あって独学であれこれやって、そんな正統的に詳しくはないんだけど意識だけは先鋭になって、夢を見てるときも自覚的に、あ、今夢を見てるなという意識があったり、「この辺、色がついてないな」とか自分で分析することもよくあります。結局これって全部自分が考えてるんだからこう思えば変わるかな、ほら変わったとか自分でストーリーをいじくれる場合もある。どっぷり夢ってときもあるから、これらは半覚醒くらいの状態なんだろうけど、そのときに「ああ、またここに来たわ」という場所が何箇所もあって、地図を書けと言われたら書けるくらい。20年以上の連続シリーズになってるのもあります。だいたい普通の街とかですけど。起きてしばらくすると忘れちゃうんだけど。

 だけど、全部自分の映像記憶やその編集物だとしても、どうしてこういう映像になるのか理解できないのも混じってます。こんなの自分が知ってるはずないじゃんっていう風景。勝手に創作するにしても、これは創作できないだろってやつ。そういえば空を飛ぶ夢とかよく見るのですけど、高空からのパースなどはCGなんかよりもよっぽど滑らかに変化して。地面に降り立つ時に重力がわっとかかってきて、膝がカクンとなってつんのめるような身体感覚とか。なんかめちゃくちゃリアリティがあるのです。空からの風景は、普通の運転のシュミュレーションのように、起きてるときでもいつでも出来ます。いつかどこかで飛べた時期があったんじゃないの?って思うくらい。だって飛べてる自分に感動してないんだもん。

 あとですね、3世代くらい輪廻を重ねて、世界中ほっつき歩いて誰かを探してて、「くそお、どこ行ったのかなあ」ってやってて、ついに探し当てた夢。中東かどっかの砂漠周辺の村はずれの、洗濯物とかほしてる広場の建物の裏の岩の上に相手は座ってて。やあ、ここに居たのか、探したぜって。もう記憶もなくなってるみたいだし、また顔貌とか違うんだけど、でも喋り方とか、その人ならではの存在感とかで、間違いないってわかって、さあ、一緒に帰ろうって。そのときの抜けるような青い砂漠の空とか、強めの風にバタバタはためいている真っ白で大きなシーツみたいな洗濯物の群れであるとか、布がはためくときのバサっていう音の感じとか、歩く時に靴が砂にめりこむ感じとか、めちゃくちゃリアリティがあって、これ、本当にこういうことがあったんじゃないかって思えるくらいです。ちなみにその探し当てた相手というのが、今のカミさんですけど。

高次元宇宙

 かといって、そんな生まれ変わりとかリンカネーションとか真面目に思ってるわけじゃないですよ。いかなる意味でも、死後はこうなってるとは思わないです。てか、わからないからこそ面白いわけで、こうと決めてかかったら面白くないじゃん。それに外れた時にショックが強そうでイヤじゃん。

 でも、多分なんとなく思うのは、僕らが思うのは3次元+1次元(時間)という(限定された)四次元的な世界観でしょ?輪廻にしても、時間軸が一本で、常に同じ速度で一定方向に進むという前提じゃん?そんな制約あるはずないだろうって気がしますね。悪いことして→地獄という因果関係も、時間軸が一つという大前提だけど、それはない気がします。同時並行的にぶわっと広がってるだけじゃないか、だから時間というのはあんまり意味なくて(限定された局面でのみ意味があるというか)。空間だって、どこが始点でどこが終点という決め事はなくて、ただただぶわっと広がってるだけでしょ。だったら時間もそうだろう。ただ空間において、個別的に自分が移動すると、最初に居る地点と最後に居る地点とで連続性や順番が観念されるんだけど、それはそういう限定された局面での話。時間も同じことだろう。

 今の物理学では10次元世界まで考えられてるみたいで(11次元説も新発売だそうで)、超ひも理論とかカラビ-ヤウ空間とか、ちらと解説をみてもチンプンカンプンでしたけど(笑)、もうへたなオカルトよりも遥かにぶっ飛んでますよね。でも、量子力学が出てきた時点で僕らの普通の世界観は、ほぼぶっ壊されたようなものです。なんせ有と無が同時存在するんだから。ほんと文字通り色即是空(あるということは、無いということだ)ですよね。量子力学は第二次大戦前に出てきて、もう百年近い昔の理論なのに、人類はいまだに感覚的にこれが納得できないから一般には広まらない。でも学術的にどんどん進化するから、もうそのギャップが手のつけられないような状況になってて、ほんと難解オカルトみたいになってます。

 ところで、4次元よりも上の世界ってどうなるんでしたっけ?たしかパラレルワールドがでてくるんじゃなかったかしら。量子的決定点。今この時点での森羅万象全てのパラレルワールドが広がり、さらに過去から未来までの全ての選択肢のパラレルワールドが広がり、、、もうこの時点で絶対的なひろがりは、今の全宇宙の数兆倍、つか数京倍、つか勘定不可能にまでふくれあがり。で、どこで量子論的決定が起きるかについて、現実に生起した事実ではなく、語ったり、想像したものも含まれるとかになると、さらにむちゃくちゃに広がり、、、とかじゃなかったかな。

 もしかしたら荒唐無稽で混沌とした夢の世界は、実は世界の実相に一番近いという気がしますね。
 そして、死んだら肉体的制約から離れるので、「限定された局面」ではなくなって、世界のありのままに戻っていく、、てかより認識しやすくなるのかも、、、とか、僕にとってはそんなイメージです。今この瞬間だって、実は10次元なり11次元世界にいるんだけど、人間はたまたま3次元+限定された4次元しか知覚できないだけの話ですからね。

 以上の次第で、「死後の世界」とかいっちゃうと微妙に違和感があるのです。死んだら別の世界にいくのではなく、死んでも同じ世界にいるんだけど、見え方が全然違うんじゃないかなーって。今生きている世界というのは、認知世界を限定して狭いエリアに局限させて体験すると、密度が濃くなって面白いからやってるような。あっちがメイン陣地で、今はコインを入れてやっているゲームの中の世界みたいな感じ。

 とは言いながら、思いっきり気のせいでしょ、思い過ごしでしょって気もするのですけどね。また大体経験からいって、こういうことって事前に予想してたのと全く違う場合が多いので、似ても似つかないようなものかもしれないです。それはそれでもいいです。

 いずれにせよ、ワクワクしますね。なんせスケールが違いますからね。この世界、この宇宙の真理が(ちらとっとだろうけど)わかるかもしれないわけで、めっちゃすごいです。これに比べれば、「宇宙人が攻めてきて人類が滅亡しました」程度の話は、所詮ローカル新聞の囲み記事レベルに思えてしまうわけで、もう全然格が違うって感じ。

 そのワクワクに比べてみれば、死ぬまでの過程で老後資金が尽きたり年金がどうのとか、どーでもいい些事小事に過ぎない。

もうちょい現実的な話

 あしたのジョーから超ひも理論まで話がむちゃくちゃ飛躍してますが、これが僕の世界観であり人生観であり、死生観です。あなたとはちょっと違うかもしれないけど(笑)。

死ぬことは生きること

 もう少し一般向けに穏やかな表現にするのならば、死生観(死ぬとはこういうこと)というのは、どう生きるかによって規定されるもんだと思います。死ぬこと自体が独自に語られるもんでもない。こういうことやってりゃ、そりゃいつかは死ぬだろうなーみたいな。あんだけ冒険やって、あんだけ危険なことをやってればいつかは遭難するだろうとか。生き様によって死に方が導かれるのが良いような気もしますね。

 かといって、別に無茶やって早死すればいいとか浅はかなことを言ってるわけじゃないですよ。地味で波乱はないんだけど、晴耕雨読で日々を健やかにしっかり生き続け、その結果として健康が長続きして長生きしましたってのでもいいわけです。こういう生き方をしたから、こういう死に方になったというのが、わりと幸福なんじゃないかなって。あるいは身体は頑健であっても、持ち前の正義感の強さで、あちこちでぶつかって最後は暗殺されましたとか。あんだけ酒浸りだったらいつかは肝硬変になって死ぬよなとか。あれだけムキになってやってたら、最後は過労死するのも無理ないなとか。「いつかは、こういう日が来るかと」と遺族に言われるような感じ。


 つまり、死ぬことに自分で納得できるかどうかだと。ま、どんな死に方だって、直接的にはイヤだろうし、納得できないかもしれないけど、大局的に言えばです。もう十分遊ぶだけ遊んだし、もっと遊んでたいけどキリがないし、まあこんなもんだろ、なかなか自分らしかったわーって。その逆に、お弁当であとで食べようと思って大事に取り分けておいた卵焼きを食べる前に、なにかあって死んでしまったら、ああ、こんなことなら卵焼きを食べてから死ねばよかったと思うわけで、そういう未練が残るのがイヤだし、それが不幸だと僕は思う。まあ、卵焼き事例でも、食べ残して死ぬのがいかにも自分らしいわって苦笑できたらOKだとは思いますけど。

 なんというのか、今の生き方を自分で肯定できたら、死ぬことだって比較的納得しやすいんじゃないかって思うのですよ。生きることと死ぬことは、単独にバラバラにあるのではなく密接にリンクしている。ちゃんと死にたいと思ったら、ちゃんと生きろってことに尽きるんじゃないかって。

 ちゃんと生きたという実感が無かったら、どんな死に方をするにせよ納得できないんじゃないかな。死に方そのものは実は大した問題ではない。どっかで野垂れ死にしようが、天変地異で死のうが、流れ弾や通り魔に殺されようが、家族に見守れて死のうがなんだろうが、ちゃんと生きたと思えたら、そんなにイヤではない(まあイヤだろうけど)。逆に、ちゃんと生きたと思えなかったら、どんな絢爛豪華な死に方をしようが、死後にピラミッドを建ててもらおうが、やっぱり納得できないと思う。

 ということで、死生観でいえば、死だけ独立して考えるわけではなく、死を考えることは生きることを考えることであり、それに尽きると思ってます。

還暦と自然法

 還暦とか言われても全然とピンときません。どうもね、誕生日がうれしいとか思ったことも一度もないし、子供の頃からすっごい違和感があります。カウント周期が違うんじゃない?って。地球が太陽の公転軌道を一周して、それがどうした?という、そんなもん何の基準になるのか。もっと体内時計的にしっくりくる周期があるんですよね。あなたはないですか?感じ、3−4年で1周期ってのが近いけど、測ったように同じ長さではないです。丁度、高校時代、大学時代くらいのカウント感覚ですね。カレンダーとは全然照応しないんだけど、その感覚には鋭敏でありたいと思います。だからカレンダー周期のアニバーサリーは昔っからピンとこないし、むしろ雑音であり、ウザいと感じてます。

 あと今は誰もが老けないので、昔の感じでいえば20年くらいの誤差はありますね。年々ひどくなるね。20歳くらいのことはまだ一致してた気がするけど、30歳で「え、もう?」になり、40歳で「嘘!」になり、50歳で「マジかよ?」になりってどんどん広がってる感じ。子供の頃の年齢イメージでいえば今で40くらいじゃないかなー。

 それはともかく、40と刻限切ったわりには、なっかなか死にませんねー。体力、気力その他が衰えたって感じもしないし、昔できたことは今も大体出来るんじゃないかなー。もう20年もoverdueで、これがレンタルビデオだったら延滞料金が凄いことになってそうで。しかし、ほっといたらこのまま死なないような気もしますね。

 これは価値観とか世界観に関することなのかもしれないけど、子供の頃に感じてた世界を大事にしたいというか、あの頃の感覚が一番真実に近い気がするのですよ。直感的にしっくりくる。大自然の法則と言ってしまうとちょっと違うんだけど。長ずるに連れ、あれこれ教育されるでしょ。しつけとか、お行儀とか、決まりごととか、常識とか、世間とか、法律とか、ヒューマニズムとか、秩序とか、道徳とか、なんだかんだ。あれ、どれもこれも嘘くさいんですよね。いや、違うんじゃない?って。あれに毒されると世界が違って見えてきそうで、大事なものが見えなくなりそうで、そこは子供心に密かに反発してたところはありますね。上っ面だけ調子合わせて。

 子供の頃に原っぱを歩いてた感じ。ひとりぼっちで歩いてるんだけど、ひとりじゃない感じ。空やら雲やら草やら樹木やら山やら川やらそれら全てと自分は同じで、一緒にいるって感じ。わかりますかね?アニミズム的な感覚なんだけど、アミニズムとか神格化すること自体が「不純」な感じで、もっとナチュラルにある感じ。「いる」と「ある」がほぼ同義な感じ。子供の頃、野原に一人でいても全然寂しいとか、孤独だとか思わなかったでしょ。

 あの原始的な感じには従いたいなと。それを濁らすような後付のあれこれには、なんかしらんけど反発してましたね。高校の頃、ルソーを読んで「自然に帰れ」という有名なフレーズがありますが、それに触れてピンときました。あ、そうそう、いいこと言うわ、このおっさんって。ちなみに自分の根本的な価値観、哲学で言えば、すごいシンプルでいいんじゃないかって思います。個人レベルではプラトンでいいでしょ?真・善・美です。より真実で、より善良で、より美しいといいよねってだけ。社会哲学ではルソーのいった自由・平等・博愛(思いやり)でいいかと。社会はこの三元素を含んでないといけないという。簡単でいいよね。

 しかし、まあ管理教育とかいう言葉も出てくる前の日本の教育とか社会だから、ガッチガチで、まあうるせーうるせー。頭を丸刈りにするのが中学生「らしい」とか、どんな変態だよ、それ?って理屈がまかりとおって、やべえな、ここ狂人の国かよって。未だに制服といえば、海軍丸出しの詰め襟とセーラー(水兵)服とかどこの軍事オタクだよ。それに対する反抗概念として自由があり、ロックがあったわけですよね。あの頃は誰でもそうだと思うけど。

 で、自由というのは、「この汚え世界で、一番大事なモノ」とキヨシローも歌っているように一番大事だから、これを得ようと思ったら、それ以外の全ては諦めなきゃいけないと思ったし、今でもそう思います。お金ががっぽり〜とかまずありえないし、人からチヤホヤなんてもないし、それどころか後ろ指上等でいかなきゃ。「白〜い目で見られる〜のなんて〜、もう慣れちまったよ」とこれも同じく歌われているように、そういうもんだと。

 その意味でいえば、どういう死に方をするのかしらんけど、思いっきりミジメでいいですよ。孤独死どころか、どっかわけもわからない所でひっそりとか、それでいい。てか、それがいいな。冒頭の書いた戦場に散ってとかいうのも、リアルに想像すれば悲惨ですからね。クソ小便を漏らしながら、必死に命乞いしても殺されちゃったり、腹からズルズル腸とか飛び出して、必死に中に押入れようとして、四つん這いでへろへろ進んで、全身傷だらけなんだけどもう感覚がなくて、ただ足元がズブズブに濡れて、その気持ち悪さだけが感じられてとか、そんなもんだろ?って。そんなカッコいいもんじゃないよなって、それはわかって言っているわけです。

 でもそのくらい腹括ってないと、この世界の本当のことがみえなくなるような気がして、それは寂しいな。子供の頃の世界観でいえば、虫も犬も全部タメで、上下関係なんかない。てかそういう上下関係ってのが、まずすごい不純でクソだし、そんな考え入り込む余地もないくらいに皆同じ存在で、仲間で。机の裏側の方に、ゴキブリがひっくり返って死んでるのをみつけると、「お、先輩!」って感じで、「うむ、こうやって死ぬべきなんだよな」って改めて思うのですよ。それが自然界の正しいありようというか、そんなもんだろ?って。

 そういう子供の頃の原始世界観と、量子力学的な多重並行世界観って僕の中では親和性があります。基本、時系列無視、ストーリー無視で、ただキラキラ輝く断片のような、しょぼん玉のようなものが浮かんでいると。自分の人生を振り返った時に見えるビジュアルがそれだし、多分死ぬ間際の走馬灯も似たようなものだと思うけど、前後の脈絡なく、素晴らしい瞬間とか、一瞬の煌きがあるんだと思います。その時系列を無視してる感じが、夢の世界であり、量子世界っぽいんのですね。

 60年振り返ってみて、どの時期が一番良かったか?というと、時期とかいうベッタとした塊じゃないですもんね。やっぱりシャボン玉のような断片です。特にといえば、司法試験の受験中が一番楽しかったですかね。受験そのものが楽しいというよりも、その日々の断片が良かったな。未だ何者にもなりえていない、ただの穀潰しのような、深夜に図書館帰りをするとよく職務質問されちゃうような留年生なんだけど、あの頃が良かったですね。受かった後よりも受かる前の方が確実に幸福でしたね。あとはもうバラバラだけど、だいたい、友達とか恋人とかと、くだらねーことやってた瞬間が意外とキラキラ断片になって残りますね。

 冒頭で、でっかいものに挑戦したり、戦ったり、夢を追いかけたりってのがいいって書いたけど、別にこれって成功する必要はないのですよ。そういう設定にしたほうが、いい感じの自分を引き出しやすいってだけの話です。お肉を揚げる前にはまず下味をつけてとか、そういう前提の仕込みみたいな感じでいってるだけで、要は自分がワクワクするような、面白がれるような設定を作るのが大事なんだろうなって思います。そのうち設定なんかしなくてもワクワクできるようになったら、それすらもいらないですけどね。

 こういうのって社会経済の論理でいうよりも、アートの論理で言ったほうが遥かに近いし、正確です。ミュージシャンが「一瞬の”鳴り”に賭ける」って感じ。なんかの不可思議な、神がかった偶然で、すげえことが起きるんですよね。で、起きた瞬間にわかる場合もあるけど、大分後になってから、それがわかる場合もあって、、、ああ、こんなんダラダラ書いてたらいくらでも書けるわ。キリがないからここで。

 最後にちょっとだけ。マジな話、これからは建前で嘘くさいヒューマニズムを廃して安楽死は真剣に考えるべきだと思います。だって、自分が死ぬとしたら、病院で実験動物みたいな死に方したくないもん。そのくらいなら、脱走して路地裏で突っ伏して死ぬわ。だもんで安楽+尊厳死。モルヒネとかちゃんと処方して痛みもさっぱり消して、身なりもきちんと整えて、例えば最後の数日は、お望みの場所でお望みのスチュで皆とお別れ会とかやって、「じゃあ行ってくるわ」「行ってらっしゃい」というのがいい感じだと思うのですよね。それは、今は6月だったら、目にも鮮やかな緑の中で、質素ながらも綺麗に磨き上げられた日本間で、縁側からは涼やかな緑風が室内まで通り抜けるようなとき、とっておきの大吟醸かなんかを杯に含んで、「さて」とか。あるいは、春は、爛漫の夜桜を見上げて。あるいは紺碧の海をみながら、あるいは富士の姿を遠望しながら、それぞれに有終のゴール・フィニッシュしてもらうのがよろしいかと。もちろん完全保険適用で。




文責:田村


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