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Essay 935:日本のコロナ事情(2)〜「なあなあ」カオスの文化論

 


2020年05月18日
写真は、Russel LeeとDrummoyneの境くらい。UberEats、ぜーんぜん儲からないけど、朝のこういう風景がご褒美ですね。これを見るためにやってるような。


 前回に続いて日本のコロナ事情ですけど、論点が多岐にわたり、且つ相互に関連してるんだかなんだかで、何から順番に話せばいいのか。そもそも「順番」があるのかどうかもわからんし。

 あ、そうだ、まずこれから書こう。

日本的な「解決しない」という「解決」

 このコロナは医学的・科学的には解決がつかず、政治的に解決するしかない。いや、政治的にも解決がつかず、社会的に、あるいは民族・文化的に解決するのではないか。それはもう「解決」と呼べるようなものではなくなっているんだろうけど、それぞれのお国柄的に収斂していくんじゃないか。

 最初にそう感じたのは日本です。万事論理的に進んでいくオーストラリアに住んでて、時折目を転じて日本を見ると、もうぐっちゃぐちゃもいいところで、そもそも(前回に書いたように)まるで実態把握が出来てないし、およそ対策という名にふさわしいようなものはない(思いつきやら人気取りやら)。にも関わらず、大いなる混沌と矛盾をはらみつつ、議論百出で収まらないけど、それでも常態化していくだろう。

 それは「全く別の原理」でそうなっていくだろう。特効薬が出来たとか、対策が進んだからとかいうのとは全然関係なく、それでも春が来て夏が来て、季節はめぐり、僕らは年をとる、、みたいな感じで。収拾のつかないカオスを、そっくりそのまま大蛇がぱくっと呑み込んで、腹のあたりがボコッと膨らんでるけど、やがて咀嚼されてなくなっていくような。それが僕のいう「日本的な解決」です。ちらっと最初の頃に書きましたけど。それをここでもう少し敷衍します。

 「日本的に」ってなにかといえば、例えばお得意の「なあなあ」です。なんかおかしい、これじゃダメだ、全然理屈が通ってないと分かりながらも、なんとなく日々が過ぎていき、常態化していくこと。

 最初に言っておきますが、このクソぬるい「なあなあ」的なるものが、僕は必ずしも悪いことだとは思ってないです。それも数ある選択肢の一つとしてはアリだなと。まずはそのあたりから話そう。

理屈の終端荒野

 自分が思春期から20代前半くらいの頃、やたらエッジィにトンガッてる頃は、そういう日本の「なあなあ」的なものが滅茶苦茶キライでした。誰でもそういう時期はあると思うけど。でもって「お前らみんな死ね」的に、のんびり平和な里山に背を向けて、人気のない急峻な山岳地帯に突き進むように、ひたすら論理を先鋭化させていった頃もありました。なにがいけないのか、どうすればいいのか。行き着くところまで行ってしまうと、そこはもう誰もいない荒野。自分ですら居てはいけない場所。

 何もかも論理的に貫いていけば、結局人類なんか存在しない方がいいんですよね。身の丈を越えて地球規模の環境を破壊し、毎日一種くらいの凄まじいペースで他の生物種を絶滅に追いやっている連中に、存在する価値があるのか?生物としてはただの出来損ないの、ガン細胞じゃないのか?同族内で共食いしようがそれは勝手だけど、他種族まで絶滅させたらダメだろう、しかもシステマティックに毎日が大虐殺のようなことを延々繰り返している人類の存在以上の「悪」が地球上にあるか?といえば、無いのですよ。恐竜だってウィルスだって人類に比べれば慎ましやかな存在です。そして「身びいき」「自分にだけ都合のいいダブルスタンダード」を禁じ手にするならば(「人類は特別だからいいの」という命題を作ってちゃっかりクリアするのではないならば)、もう人類の存在を正当化することができなくなるし、自分の存在も正当化することも出来ない。ならば最善手は今すぐ直ちに自決すること。もうそれっきゃないねー、一択だよねーって。そんなところまで行ってしまいましたとさ。その思考過程を説明せよと言われたらやりますけど、なんとなくわかるでしょ?

 じゃあどうする?「究極善」を実践するため人類絶滅計画を日々練り上げて〜なんてするわけもいかない、そんなの現実味がないし、どうすればいいのかも分からんし、やりたくもない。だから結局そこで妥協して、「なあなあ」で折れてしまうしかない。そこで折れてしまってたら、あとどんだけ「なあなあ」を嫌おうが、拒否ろうがイノセント・無罪ではないよな、同じことじゃんって思ったわけですよ。他人のなあなあを非難出来ないよ、自分もやってんだしなって。

 一方、実社会での経験を積むにつれて世の中論理で解決することなんかまず無い、「お釣りの計算」とかそのくらいのレベルだったら論理で解決するけど、ちょっと重い価値が絡んできたらもう論理は決定打にはならない。と同時に矛盾してないものなんか殆ど無いよな、大体のことが対立する二極価値の間で、うろうろ&ヘコヘコと右顧左眄してるだけだよなってことも実感としてわかります。

 一種東洋的な老荘思想みたいになるのですが、まあ釈迦も孔子も言ってることですけど「中庸」がいいかと。論理的にも実戦的にも、ごく当たり前の常識的にも。エクストリームにいくと終着点は死ぬか殺すかですからね。でも「中庸」といえば聞こえはいいけど、要するに両サイドの価値からすれば「中途半端」なんですよね。だけどそれ以上論理を先鋭化させたって結局デメリットの方が大きくなるから「このへんで手を打つか」ってことで、それって言葉を換えれば「なあなあ」です。

 つまり現実=なあなあだし、最適化=なあなあでもある。

 そういうポジティブに良い方面のことは「なあなあ」というネガティブな表現では言わないんだよという人もいるでしょうけど、結局は言葉の問題にすぎない。ポジとかネガとかいうのも、結局自分が気に入るか・気に入らないのかという極めて主観的な判断に過ぎないし。まあ、それでも尚「なあなあ」という語感が気に入らないなら、「現実的なバランス感覚」と言い換えてもいいですよ。でもそんな高尚なものではないですけどね。

 要は、「論理的に鮮明にしていってその結論に辿り着いているわけではない一連の帰結的な流れ」のことを言ってます。そこでは数値公式化できるような原理はなく、なんとなくの目分量とか妥協とか、非常にファジーなプロセスで調和点だか、飽和点にいきつく。

 日本社会の場合、その傾向が特に強いと思います。

 意識的なのか無意識的なのか、文化の一つの特色としてカウントすべきなのか、何でそうなるのか、そこらへんは今ひとつ考えきれてないのだけど、日本では「なあなあ」を「なあなあ」のまま残す傾向があります。しかも、よくよく考え抜いた上でそれをやってるのではなく、ほとんど生理現象みたいにやっている。頭で考えての知的作業ではなく、食べたものをごっくんと飲み込んでという消化作用みたいにやっている。その傾向がある。

 このあたりを言語論理で表現するのは至難の業なんですけど、非論理的、非決定的であり、人為の集積なんだけど非人為的な、ほとんど自然現象みたいなもの。政治学や社会心理学というよりも、いっそ生物学や流体工学的なもの。わかります?わからないよね(笑)。

   なお、このことは過去になんどか書いてます。
 例えば、Essay 624:「解決しない」というやり方
 最近では、Essay 929:日本というコスプレ国家
 などです。

 抽象的にいっていても分かりづらいから具体例を出します。

具体例

 直近で言えば原発事故と放射能です。スッキリなにもかもが明快に解決してるわけではないですよね。てか、何一つ明快になってないとすら言える。隠蔽とごまかしと誰一人責任を取っていないふざけた結末、ひたすら増えていく汚染水を最後にどうするかの目処もついてないし、およそ悲恋小説にでてくるレジェンドみたいな病気だった白血病がリアルにやたら増えてることとか、ほんと問題は何一つ解決してないといっていいです。でも、だからといって首都圏全部放棄して移転しますか?というと、そんなこと現実問題としては出来ない。それやったからといって解決になる保証もない。誰もが毎日を必死に生活しなきゃいけないんだから、そこまでドラスティックなことは出来ない。結果、その正確な害悪度もわからないまま、放射能を摂取してるんだかしてないんだか分からないままやっていくしかないんだけど、そう露骨に考えるとやるせないので、「もう考えないことにしましょう」みたいな感じ。それが僕のいう「なあなあ」です。

 あるいは憲法九条と自衛隊です。戦争がいやなら地球から戦争をなくせばいいし、そのためには兵器の製造と所持をなくすのが一番効果的。それは銃規制と同じです。人を傷つける以外に機能がない純然たる武器の危険性を考えるからこそ、銃の所持を禁止するわけですよね。ここで、いや悪人に襲われたときの自衛のためには銃の所持は必要だし権利であると考えるのがアメリカです。でも日本ではアメリカ的に考える人は少ないし、銃はダメでしょって思うのが大勢。ならば軍備も同じこと。だから九条の文言や理念は方向性としては正しい。じゃあ自衛隊は何なの、あれは軍備ではないのか?といえば誰が見ても軍備です。しかし、国際情勢とかそこまで理想を貫けないから一応持っておいたほうがいいよねって話もあって、要するに矛盾してるし、どっちつかずなわけです。

 でも、この二つの例については、僕は積極的に「なあなあ」でいいと思ってます。なぜか?

理想と現実の緊張関係

 「なあなあ」というのは、それで完全に問題解決!ってスッキリしてるわけではなく、「問題は全然解決してない」ってことは重々わかってるわけです。問題意識もあるし、それをほったらかしにしている罪の意識もまたある。分かってないからやらないのではなく、わかってるけど現実問題としてはやらない。その水面下にはすごい葛藤があり、力学的な緊張関係がある。

 それは、宿題や仕事をやらなきゃいけないのは重々わかっていながら、現実逃避で遊んでしまったり、飲んだくれたりしてるのと同じで、問題意識も罪の意識もめちゃくちゃあるんだけど、でもやらない。何故ならそんなに真面目にやってたら生身が持たないからです。

 これを思いっきり話をシンプルに要約すれば「理想と現実」ってことですよね。
 僕らの人生には常にこれがつきまとうし、個々人の集合体である社会や国家にも常にそれはつきまとう。

 そんな理想通りいけば苦労はいらないし、また理想通り100%貫徹するのが本当に正しいのか?というと、人情的に相反する局面もたくさんある。二人の人を同時に好きになってしまって、さあどうしよう?ってときもそうだろうし、2つ以上の価値に引き裂かれることは多々ある。いや2つどころではなく、仕事や生計と、自分らしい人生と、家族の幸せと、、、と複数出てくる場合も多い。その全てを完璧に叶えようとすれば300%くらい生きないといけないし、1日60時間くらいないと無理、だからどれもこれもが中途半端にならざるを得ない。でも生きていくしか無い。過去のあれこれだって、完全に解決して次に進めているわけではない。全然解決してないんだけど、それでも過去をズルズル引きずりながら、否応なく次の局面になってしまうことも多い。

 それらを全て理屈で断罪して、片端からダメ出ししていくのって、あまりにもチャイルディッシュであり、「大人」ではない。ダメダメで矛盾に満ちている自分を、そっくりそのまま引き受けているんだけど、その「大人」性は、決して誇らしいものではなく、むしろ罪の意識と恥の意識にまみれている。「まあ、生きてりゃ、いろいろあるさ」みたいな感じ。さあ元気よく!っていうなんたらマーチではなく、演歌とかブルースみたいな感じ。

 もっとも、断っておきますけど日本人の「なあなあ」のすべてが肯定できるというわけじゃないですよ。実際問題、過半数は(特に組織や社会内のことは)なあなあにしてはいけない種類の問題、理屈で解決できるし、理屈で解決すべき問題と思う。だから多くの場合は痛烈に批判しますよ。だって理屈で解決するなんて、一番簡単な手法なんだし、それすらやらないのは許されない。原発だって防衛だって理屈で解決出来る部分はかなり沢山あるし、それすらやってないのは弁解の余地ないです。その意味で、多くの場合は「なあなあ」でやってはいけないレベルだと思います。「なあなあ」のすべてが許されるなんて言うつもりは毛頭ないです。そこは誤解のないように。

 しかし、なおも一部、特に重要な価値が絡むにつれ、その価値の重さゆえに理屈では割り切れなくなる。そのエリアに関しては「なあなあ」にするのが現実的には最適解である場合もあるということです。

理屈でごまかす西欧系

 日本の場合、「なあなあ」的局面が多いのは、日本人が意外と理想主義的だからなのかもしれないです。9条にしても「平和」という理想を捨ててないからでしょ?オーストラリアみたいに普通に軍隊持ってて、何の葛藤もなくアフガンとか出兵している国におると、どっかしら「戦争で人を殺すのは当たり前でしょ」って感じで、日本人ほど骨身にしみて平和の有り難みがわかってない感じがするのですよ。あれだけ人権を重視し、あれだけ生活水準とか高いくせに、こと戦争になると「それはそれ、これはこれ」みたいに妙に割り切るのですよね。それが恒常的に常に他国を侵略したり・されたりしてきた欧米的な常識なのかもしらんけどね。

 確かに日本みたいに「うじうじ」「なあなあ」はしてないで、理屈で割り切ってるところはあるんだけど、割り切ればいいってもんでもないだろって気もするし、それで解決してるわけではないんですよね。むしろ「理屈でごまかしてる」ような気もする。

 「不幸なことだが戦争があることは事実だ」「他人の国にいって人を殺すことも、そこに正義があれば許される場合がある」とか、そう言い切ってしまえば理屈で割り切れます。いやいや、そこはもうちょっと悩めよ、問題意識持てよ、理想をすてるなよって思うのが日本人。また、冒頭の人間ガン細胞論については、「人間はいいの、人間だけは特別に許されるの、なぜなら神様が作ったから」というおとぎ話みたいなところで割り切るじゃないですか。結構そこらへんが手前勝手というか、難しい問題になるとドーンと命題的に言い切ったり、割り切ったりしてクリアする。難しい部分をそれでクリアできれば、あとは比較的簡単で、なんでも理屈でやっていける。

 そのあたり欧米の手前勝手な理屈っぷりが、時として中東とか他の文化圏の連中からするとムカついたり、反発を招いたりするんだろうなーって気がしますね。

 思うに西洋系は、ビシッと論理で美しく整理整頓されているように見えるんだけど、よくよく見てると隅っこに黒いボックスがあって、そのボックスの中に諸矛盾が詰め込まれているだけのことなんじゃないか。「戦争で殺すのは全然アリだよね」「人間は(他の動物に)何しても許されるんだよね」とか、なんでそうなの?って部分を封印してボックスに入れている。

 宗教なんかもそうだと思うのですが、その種の人間存在にまつわる大矛盾を「それは神様がそう決めたから」という凄い理屈でクリアしてるだけでの話じゃないか。だけど、そこを神様に押し付けてクリアしてしまえば、あとは楽ですよ。なにもかもが綺麗に理屈通りいくよ。ずるいって気もするよな。

 これは日本にこれといった宗教観がないのと表裏なのかも知れません。とっ散らかったおもちゃ部屋みたいに、あらゆる人間の矛盾がそのまま散らばってて、でもそれをアミニズムの八百万の神々のように受け入れて、知的に処理するのではなく、生理的に処理してる感じ。

 だもんで、日本でいつも軍備や派兵でウジウジ議論してることは、僕はむしろ誇るべきことだすら思いますよ。問題意識が全然無いよりはよっぽどいい。まあ議論しても結局どこにもたどり着かないんだけど、無いよりは良いですよ。

コロナの「解決」とお国柄

理屈で決めきれない現実

 長くなりましたが、コロナの問題も、同じような感じになるんじゃないかって思うのですよね。どう考えてもワクチンが間に合う感じではないし、それが特効薬なのかどうかも未知数。だけど経済はもうかなりのレベルでやばくなってるし。かといってお年寄りなど不幸な目にあってほしくないし。それらを同時に完璧に解決するのは不可能です。

 で、結局、みてたらやってることはどの国も同じなんですよね。
 確証もないまま、少しづつ経済を動かして、また再燃したらきゃーと騒いで、でもだからといって封鎖したままだったら全員餓死みたいな話だから、そうもいかずってことで、やることはいっしょ。ただ、表現が国によって違うかなって。

 日本の場合は、どちらの価値(生活&健康)にも思いを馳せつつ、罪悪感もありながらも、少しづつやっていって、そのうち日常の風景と化していく。常に葛藤を感じているくせに、なんとなくルーチン化していく不倫みたいな感じね(^^)。

 結局、理性的解決が不可能の場合、「なあなあ」「うじうじ」やっていくしかないんですよね。なあなあがイヤなら、どっかでスパッと割り切るしか無い。100%理想は不可能なんだから、この際理想は部分的に捨てよう、捨てざるを得ない、それは仕方がないのだ、と。強い心でそう決めること。でも、それがなかなか出来ないから、うじうじしてしまう。なぜ決めきれないかといえば、それによって犠牲になる方々のご不幸に心を痛めるからこそであり、そこは理想主義的であり、心優しいからでしょう。でも現実に対応するために前に進むんだけど、何をやっても罪悪感なり、吹っ切れない気分は残る。忸怩たる思いを残しながらも、しかし、なあなあでやっていくという感じですかね。

 例えていえば、仕事に遅刻しそうでダッシュしてるとき、ふとみると小さな捨て猫がミャーミャー鳴いてて、うう、これをほっておいていいのか、餓死しちゃうかもって思うけど、もう時間的にそんな余裕はない。だから「ごめん!」とか心のなかで謝りながら走っていくよな感じね。

日本の社会力学

 僕の私見ですけど、日本の場合、政治とかメディアとか表舞台に出ているのは、あれはお約束の演劇であって、本当の日本のありようを決めているものではないと思ってます。それは日本の会議と同じで、本当のことは裏で全部決まってて、表での議決なんかもう形だけ。

 いつもいってますけど、一人の日本人としての僕は、国会でやってるアレとか、マスコミで流れているコレとかが、自分の生活や未来を決めるとは思ってないです。全く思ってないね。もちろん影響はあるけど、それは台風情報で台風の進路を知るくらいの感じ。はっきりいって、政治とかマスメディアは台風みたいな害悪でしかないです。できりゃ無いほうがいいくらい。

 それはどのくらい「関係ない」かといえば、高校時代やら、いわゆる青春時代において、教育基本法がどうしたとか、生徒手帳に書いてある校則がどうのとか、生徒会の活動がどうしたとか、そういう事柄が自分の日々のリアルにどれだけ関係あるのか?といえば、殆ど関係ないってくらい「関係ない」んだと思う。生徒会とか頑張ってる連中には関係あるかもしれないけど、部活や帰宅部や、授業フケて喫茶店でダベってたり、バレンタインで盛り上がったり、放課後の教室で趣味のオタク話に花が咲いたり、体育館の裏で喧嘩してたりってやってる連中には関係ない。一般的に普通に健康な日本人にとって、政治とか経済とかメディアなんかその程度の存在だと思いますわ。暇なやつ、興味のあるやつ、それに利権が絡んでるやつだけがあれこれ言ってるだけ。

 自粛やなんだって日本的な風景も、半分真面目で、半分不真面目でしょう。気にしてない奴は思いっきり気にしてないし、屁とも思ってないでしょう。同じ人間でも、気にする局面と気にしない局面があるでしょう。どうやって使い分けてるの?っていえば、ほとんど生物的、本能的とでもいうくらい、場の力学的距離感を皮膚感覚でおしはかっている。業界的に対応すると言えば、ウチもこのくらいやらなきゃねって、横並びというか、お正月になったらしめ縄飾っておかなきゃねってくらいの感覚でやってるだけっしょ。自らが考えに考えて出した結論をバーンと表明し、それによって家が放火されようが、殺されようが、俺は絶対屈しないぞとかやってる人は少ないでしょ。

 言ってしまえば、色んなやつが居るってことだし、同じ人間でも色んな顔を持っているってことなんだけど、日本の場合は、それだけではないです。一見すると無秩序なカオスでありながら、トータルとしてみると妙にバランスが取れている。近くで見るとバラバラの色彩が点在しているだけなんだけど、3メートルくらい離れてみるとそこそこ絵になっている。個々人の集合的無意識みたいなのが、なんかうまくバランスを取る。あれはなんなんでしょうね。どういう能力なんだか。

 先後の動乱期でも、あそこから一本調子にあがっていったのも、別に政治が主導したわけではないですよ。政治は東西冷戦の初期設定の陣構えをやらされてただけの話で、闇市とかで流れていた無秩序パワーが生産的な形で収束していったのは、ほぼ100%が在野の力、民の力だと思ってます。世界史で他の国を見てると、無秩序になって、ほんとに無秩序のままメチャクチャになるところが多いんですよね。フィリピンにせよ、メキシコにせよ、パキスタンにせよ、もう豪族と大和朝廷みたいな感じで、どえらい力をもった個人が出てきて、それが政財界と徹底的に癒着して、腐敗しまくって、その腐敗が民衆レベルにまで降りてきて、結果として何をするにも賄賂を贈らないと何も出来ない社会になってしまったり。

 日本もこれからもどんどん経済的に落ち目になるかもしれないけど、でも、そこまで腐敗するかな?というとそこは微妙なんですよ。例えばですね、この先日本が、何をするにも賄賂がいる社会になって、おまわりさんに助けを求めるときも、郵便局に荷物をだすときも、細かく折りたたんだ千円札なりを素早く相手の手のひらに握らせて、「よろしくお願いしますよ」「ま、そういうことなら」みたいなやりとりをするよな社会になりたいか?っていえば、イヤでしょう?僕は嫌だし、あなただってイヤだと思うでしょう。多分、ヤクザに聞いても、いや、それはあかんやろう、なんぼなんでもそれはダメって言うと思う。

 でもそのあたりの感覚は、ほとんど生理感覚、いっそ内臓感覚っていっていいくらいなんで、言語化しにくいですよね。でもって、コロナであろうが、ポストコロナであろうが、最後はそのあたりで処理していくんじゃないかなって気はしています。それが「日本的な解決」だろうなって。


日豪の不幸慣れと自殺率

 あとはほんとお国柄で、オーストラリアの場合は、オーストラリア人が本来持ってる楽天性と他者への優しさとが対立してる感じです。お年寄りなどのことを考えるからわりと真面目にソーシャルディスタンスとか守るんだけど、根が楽天的で陽気だから晴れたりビーチがあったりすると、きゃーっとなってしまうという。さらに、それに加えて不慣れな不安が襲ってきて、専門家によるとオーストラリア人の自殺が25%増えるかもしれないとすら言われています。

 ”the COVID-19 crisis could lead to a 25 per cent jump in the suicide rate if unemployment reaches 11 per cent”
Coronavirus pandemic plan for mental health too small, suicides likely to increase, says expert

一方日本では、
 【新型コロナ】4月の自殺者数が前年比約20%減に、職場や学校で悩まずにすんだためか
 とかいって、自粛やテレワークなどで辛い職場にいかなくて済んでいるので、自殺が20%減ったということで、日豪でえらい好対照な。日本の場合は、景気の急激な悪化による自殺の上昇が懸念されていただけに(実際にそういう局面も多々あるとは思うけど)、肩透かしというか、日本の「普通の日常」というのは、ウィルスよりも倒産よりも、はるかに生命に危険を及ぼしていたのか?と思うと複雑な感じですね。これ、もしかしてコロナなんぞに「うつつを抜かしている」場合じゃないんじゃないか。あ、違うか、コロナにうつつを抜かしている「からこそ」、実は事態が改善されているのか。それもすごい話だな。でも、これはポストコロナを占う上で一つの資料になりますな。復旧はできるのか?という議論の前に、皆は本当に復旧「したいのか」が先にくるという。

 この日豪比較は興味深いです。だいたいオージーは「不幸慣れ」「不安慣れ」してないので、こうなると脆いのかもしれませんね。もうメンタルが大変なことになってるみたいで、「命の電話」みたいなサービスが処理しきれないくらい殺到してるらしいし。

 一方日本人は不幸慣れしてるから、コロナくらいだったら余裕でクリアとか?ほんとにそうなのかどうか分からないし、また「不幸慣れ」してるのって自慢にもなんにもならないような気もするけど(笑)。

 ただ、オーストラリアなど西欧圏の場合、理屈でやっていく傾向が強いので、感染防止から経済重視に舵を切るにしても、それなりの理論武装がいるでしょう。今の所、「そんなに実害はないから」って部分が支えになってるけど、また増えてきたら根拠を失うし、かといって9月で終わる休業補償の前になんとか目処をつけてないと阿鼻叫喚になるのは見えているので、つらいところだと思います。

 真面目に論理的に解決しようとするなら、本当の「実害」とはなにか?と絞り込んでいくことだと思いますね。感染なんか実害でもなんでもない。80-95%がほぼ無症状なんだから実害なんか無いし、むしろ抗体者が増えて良いことですらある。本当の実害とは、それによって容態が悪化する既往症や健康状態が良くない人、その対象者の限定、治療法や態勢の洗練こそが理論的な対策になると思います。

 その点日本の場合は、何度も書いてるように、理屈が立たなくてもお構いなし、無秩序カオスOKというある意味では強力な武器があります。てかもう最初から現在まで全然理屈が立ってないし、方針だってあるんだか無いんだか、それを皆が守ってるんだか守ってないんだか、もうカオスです。でもカオスでありながら、生理的、本能的に落とし所に辿り着いていくような気はします。これで、政府とメディアがなかったら、もっとスムースにいったようにも思いますね。

 他をみても、国によっては国家権力フルパワーで押さえつけるところもあるし、国民と対話して決めていこうとするところもあるし、聞かん気の強い連中がそれぞれワーワーやってバトルロイヤルみたいになってるアメリカとか、まあ、お国柄だなーという感じですね。

 いずれにせよ、やってることはどこの国も同じです。

 「現実に折り合いをつけていく」ってやつです。

 その折り合いにつけ方が国より文化により違ってくるということではなかろうかと。



文責:田村


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