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Essay 929:日本というコスプレ国家〜みんな本気で「国家」やってないよね
〜コロナなんかどうでもいい件
〜素朴な原始協同制のまま、国家も思想も宗教も必要としなかったわけ
2020年04月13日
写真は、Glebeの裁判所。普通の民家みたいな感じであるんですよね。最初ぶっ飛んだ。
日本の状況を論じる気になれない件
オーストラリアの新型コロナの状況はFBで逐一UPしてますが、日本国内の状況については特に触れていません。それは自分が現在そこに居ないという点もありますが、それ以前に、何かを論じようという気になれないからです。いろんな意味で。全然検査やってないことを改めて確認
理由の第一は、まずなんといっても客観データーが少なすぎること。とにかく検査数が圧倒的に少ないので、こんなもんで現状が分かるはずがない。これはつとに語られているところですが、この際、徹底的に確認しておきます(なお、検査数が少ないから「悪い」と言ってるわけでは無いんですよ。ただそれはややこしいし、別のレベルの話です)。
Our World in Dataというインディペンデントなんだけど国際的にも信用を得ているっぽいデーターサイトがあって、そこに世界各国の検査数の累積推移の毎日の変化が載ってました、対象国を選べるインタラクティブなグラフがあって、そこでキャプったものを下に貼ります。
各国の人口千人あたりの検査数の推移(累積)
各国のデーター(の一部だが)があり、例えば4月8日時点の人口千人あたりの検査数は、なんといってもアイスランドが突出していて95人、次にバーレーン31、ノルウェー21ときて、オーストラリアは13、NZは11です。
ところでオーストラリアは自分のところが世界で一番検査やってると(政府もメディアも)言ってたけど、あれも「大本営発表」で全然トップでもなんでもないです。もっとやってる国も多いし、イタリアにも負けてる。オーストラリアのメディアだけ読んでたら騙されるところでしたね。最近は油断もスキもあったもんじゃないわね。
いきなり狂ったように検査をやり始めたアメリカは6.6で、3.3億という母集団数を考えれば驚異的な頑張りです。こういうのは人数少ない国の方がやりやすいですからね(アイスランドの人口はわずか36万で、新宿区の人口とほぼ同じ)。
では、日本は?というと、なんと0.49で「話にならん」というのはそういう意味です。アイスランドの190分の1です。190周回くらい遅れてるね。
この検査頻度は、南アフリカの1.09の半分以下であり、エクアドルにも、チュニジアにも劣っていて、名実ともに第三世界レベル。これだけ経済力があって、これだけ医療設備が整ってる国にしては異常なくらい少ない(まあ、タイやインドなどもっと少ない国もあるけど)。
しかも0.4レベルですら最近いきなり増えた数値で、3月下旬になるまでは0.2以下だった。
検査数の問題は、神経衰弱みたいにカードを全部裏にして、何枚くらいめくってみたら全体の傾向がわかるか?と考えてみたらいいです。アイスランドは千枚並べてあるうちの95枚はめくっているわけです。オーストラリアは12枚、アメリカは7枚くらいめくっている。でも、0.2とか0.49というのは千枚のうち1枚もめくってないのですよ。母数を2000枚にしてもまだ足りず、3000枚くらいにしてようやく1枚めくったかどうかくらいのレベルです。そんな検査で何が分かるというのだ?
↓日本の日々の検査数(累積)の推移
↑これを見てもわかるように、2月なんかほとんど何もやってないに等しい。
3月に入ってからもチンタラ検査してて、4月の6日を境にいきなりボンと上がります。実数でも1000-4000件くらいだったのが9000千件とか倍増してます。丁度オリンピック延期&首都封鎖会見のときですね。露骨だと皆が批判してるけど、データー的に裏付けられます。
検査数が増えたから感染数が増えてるだけ
検査数を増やせば感染数は増えるのが当たり前で、感染数が「激増」かどうかは、検査数との関係で見るべきです。その検証もせずセンセーショナルに増えたといって危機感を煽るのは、単に不正確であるにとどまらず、ミスリードであり、殆ど詐欺といっても過言ではない。日々の感染発見数(日別)
上のとおり、これと検査数のカーブを比較すれば、検査数の上昇カーブと陽性発見カーブはほぼ比例してます。
上の2つの累積グラフを比較しやすいように日付を合わせるために縦横調節して並べます。
つまり検査数が増えたから感染者数も増えているだけで、発見率は特に顕著な変化があったわけではないのがわかると思います。それをもの凄いことのように言うのは明らかにおかしい。「パンデミックの上昇カーブ」とか解説してる専門家らしき人もいるんだけど、そもそも検査数がそのカーブに沿って増えているんだから当たり前の話です。
その意味でいえば、オーストラリアも同罪の部分があり、早期にピークを超えてスーっと下がってますが、それは一つには検査数が減ってるからという原因もあります。検査数が減れば感染数も減る道理ですからね。ついでにいえば海外からの感染者が○割で多いかいうのも、海外から来た人をメインに検査をやってるんだから当然の話です。そのあたりはDecline in COVID-19 testing casts doubt on claims Australia is “flattening the curve”で検証されています。
これは一面では不可避な部分もあります。感染発見者が増えればその周囲を検査するから検査数も増え、新たな発見数もまた増える。発見者が減れば周辺検査数も減るから、発見数も減る。このように検査数の増減は、実際の状況をプラマイいずれによせ増大誇張してしまう傾向があるので、本来ならば割り引いて慎重にアプローチすべきです。
しかしですね、当たり前の話ですけど、数の変化・比較というのは他の条件が同じでなければやっても意味ないです。受験の模試で、一昨日は三科目やって合計210点でした、昨日は5科目やって合計350点、今日は7科目やって合計490点でした=要は3日連続で平均70点が続いているだけのことを、210点→350点→490点と「爆発的に増えています」って言ってるようなもので、それがどれだけ子供だましのナンセンスか。これで「びっくりするほど学力が急上昇」とかいって教材売ってたら、完全に詐欺でしょう?だから詐欺レベルだと。
よく(日本人は)「危機感がない」とか言う人いるけど、こんなクソ数値を前提に危機感とか語る方がどうかしている。言うまでもないけど、危機感とは無闇矢鱈と怖がることではない。何の先入観もなく、メディアや政府が何を言おうが一旦全部チャラ白紙にして事態を冷静に見ることができるかどうかであり、情報になんらかのバイアスがあるかどうか考え、必要があれば自分でデーターを探してきて並べて検証することでしょう。
お話にもならない絶対数レベル
そもそもですね、絶対数で言えば、下の表でわかるように、日本(オーストラリアも殆ど同じ線で)下にべったと張り付いていて、変化があるかどうかすらよくわからないレベルです。世界レベルからすれば、日本なんか事実上「なにも起こっていない」といってもいいくらいの感じですよね。これの何が「危機」で、何が「激増」で、何が「緊急事態」なんだか?
僕も、今回ばかりは緊急事態宣言を出し渋っていた日本政府の方がまともだと思いますよ。そういえば、日露戦争も、さきの太平洋戦争もときの政府はやりたくなかったんだけど、開戦を望む国民やメディアの声があまりにも大きくて押し切られたという話もありますが、リアルタイムにそれを追体験しているような感じですわ。日露戦争前も、断固開戦を望む!といって東京大学七博士が意見書を出してましたけど、ときの首相の伊藤博文が「今日は馬鹿が七人も来た」とボヤいていたらしいけど、ははあ、こうやって戦争になるわけねーって。
それはさておき、地べたべった状態はオーストラリアもそうなんだが、これは人口が2500万と日本の5分の1しかない絶対数の低さからまだ頷けるとしても、日本のようにイタリアの2倍も人口がありながら、こんな数値である筈ないです。こんな検査数(&実数)レベルだったら、何が起きているかもよくわからない。
もし日本の検査数を20倍に増やしたら(人口比あたり10人になり、先進国でも堂々たるレベルになる)、単純計算で20倍の感染者(と死者)が出るかもしれません。もし20倍検査しても似たような実数しか無いのならば、基本的にこれはもう「問題」ではないといってもいい。メディアや僕らが騒いだり、政府がどうのというのも壮大な無駄でしょう。
では検査数を増やすと感染数(したがって死者数も)増えたらどうか?
今の統計だとコロナ死亡者数が4月10日時点で累積で94名ですから、もし20倍に増えたら死者2000人くらいですよね。このくらいのオーダーになってきたら、感染数の変化もわかりやすいし、地域的特性やら、感染経路の内容や変化などもある程度わかってくるから、議論の土台にはなるかと思います。
ところで、死者2000人レベルの出来事がもし起きているとして、それって人口1.25億の日本においてどのような意味を持つか?という問題があります。
出来事の絶対的規模
下の図は厚労省のサイトから人口動態統計をエクセルファイルでダウンロードしたものをキャプったものです。平成30年から平成31年の3月までの各月の統計がありますが、毎月の死亡者数は、月によって上下変動があり、少ない月で9.8万人、多い月で13.6万くらいで、各月間のバラつき幅は最大で4万人弱です。つまり各月で3-4万人くらい死亡者の上下動があっても、まあ普通の誤差の範囲だってのが、日本全体レベルの感覚だってことですよね。
現在の日本のコロナ死者は94名、20倍にして2000名だとしても、月間差3-4万の変動が「普通の誤差の範囲」という感覚で言えば、100名弱の増加など誤差の範囲の数百分の1の変化、2000名だとしても誤差の10-20分の1のレベルであって、何ほどの意味もない。これにどんな意味をもたせればいいのか?
まあ、実際にはコロナ認定はされてないけど、今現在爆発的に人が死んでるかもしれません。月間50万人くらい死んでるとか。でもそれは統計が揃う2年くらい先まで待たないとわからんですね。ただ、それだけ死んでたら火葬場とか葬式とか間に合わない気もしますけど。
余談ながら、この表で気がついた一番の変化でいえば「3月になると離婚件数がやたら増える」という点です。平成30年・31年ともども3月になると2万2000件ですよね。あとは1.5-1.8万件なんだけど、不思議と3月になるとドンと離婚が増えている。ただの偶然?なんか理由あんの?年度末だから?転勤シーズンだから?確定申告で配偶者控除をもらってから離婚?ほんとか?この方が興味がありますねー。
ということで、長々書きましたけど、こんな無いも同然みたいな統計で何をどう考えろというのか?ということが言いたいわけです。
日本はクルーズ船騒ぎもあったし、世界でもかなり早い時期に感染者がいて、観察時間はたっぷり3ヶ月くらいはあったと思うんだけど、それでこの程度の資料しかないのだったら、何も語れないですよ。多分これからも語れないんじゃないかなー。ベースとなる事実認定がこのレベルで貧弱ならば、その上に構築される対策論やその巧拙(ロックダウンすべきかとか、補償はいるかとか)など、論じることなど不可能でしょう。状況がさっぱりわかんないんだもん。
だったら、ざっくりした皮膚感覚でやるのが一番早いし正確なんじゃないかしら?おーい、そっち(日本)はどうだい?ってね。なんか流行り病だそうだけど、ぶっちゃけどうなの、親類縁者や友達がバタバタ死んでるとかさ、電車や街角では誰も彼もがゲホゲホやってて苦しそうとか、職場で10人いたら5人は体調悪いとか、そのあたりはどんな感じ?それがちょっと違和感をおぼえるくらいの変化だったら、それなりに何か起きてるんでしょう。いつもとさして変わらない、まあ普通だよっていうなら、普通なんでしょうね。
ちなみによく言われる医療崩壊について付言しますが、この程度の患者の増減があっただけでもう崩壊とかいってる事自体が問題です。だけどそれはそうなるだけの合理的な理由があります。なぜかといえば、医療=国家予算=金の問題であり、崩壊させないためには、要するに金をブチこむしかないわけです。そのためには増税ラッシュしかないわけで、法人税も所得税もあげて、消費税も30%くらいにすれば医療は崩壊しないでしょう。でもそんなことをしたら国民はマジに餓死する人も出てくるし、経済もコケまくるでしょう。だから、カツカツ少ない予算でできるだけ効率的に医療を廻すしかない。つまり「最適化」ってやつです。やたら場所をとるICUなんかそんなボコボコ建築して維持費はらって、平時は不要な呼吸器を山程積み上げているような「無駄」は、皆の財布の事情からいって許されないわけでしょ?それがそもそもの問題の本質だと思いますよ。
そこから敷衍して、そもそもなんでこんなことで世界上げてどんぱちやってるのか?なんか壮大な絵図面があるような気がするって話になるのですが、それはまた別の話です。なんとなく思うのは、軍事から医療に鞍替えしたかな?って。軍事も医療も似てるんですよね。膨大な金がかかるから、いいビジネスネタになる。客は国家で、最新鋭のハイテクを使うから単価が高くなるし、大金(税金)を使うから国民レベルで啓蒙(洗脳)する作業もいる点など、軍事と医療はそっくりです。だから同じノウハウが使える。いやあ最近戦争やっても儲からないしねー、ネタもないし、やり始めたと思ったらすぐじゅっと鎮火されちゃうし。これからは医療だと。兵器を買わせる代わりにワクチンや特効薬を買わせる。天文学的に儲かるぞ。そして多分ターゲットは第三世界で、兵器でもあのへんの内戦とかがいい顧客になってますから、同じように疫病が蔓延して、そして先進国が人道援助してワクチンやら買ってというあたりに巨大な商機がありますよね。まあ、ほんとかどうか分からんけど、僕が巨大ビジネスを仕掛ける側だったら当然考えますよね。ワクチンといっても作っただけでは意味なくて、世界190カ国以上の政府に承認してもらわないと、また正式採用ともなれば安定的に儲かる。数百億くらいのリベートだったら払ってもお釣りがくるよね。先進国で清廉な国は難しいけど、そこそこ腐敗している国だったらいくらでもやり方はある。
ま、それはそれとして、話を戻して、じゃあ日本はどうなるんだ、こんな統計しかあがってこないという点、またこんな状況で「緊急事態」とかいってきゃーって皆で盛り上がってる点も含めて、コロナ以前に認知症的にヤバいんじゃないのか?という別の問題もあったりするんだけど、まあ、百パー大丈夫でしょ。僕はそこは全く心配してません。
ただし、これはちょっと解説が必要です。
ことあなたの生活・人生はどうなるのか?といえば、これは結構ヤバいかもしれません。なにをもって良い・悪いというかによりますけど、何事もなく明日も今日と同じような日が続くことを良しとするならば、そうならないかもしれない。しかし同じような日々が続くこと=展望も希望もないと考える人にとっては、何かしら変わったほうが良いでしょう。そこは人それぞれ。
だけど総体としての日本は全然大丈夫。でも、これも何をもって「大丈夫」というのか?によりますよね。それをこれから書きます。
「国家」ではない
ちょっと前のエッセイで、日本はいわゆる国家ではなく、なにかアメーバみたいな生き物だと書きました。それをもう少し掘り下げて書きます。日本を、なにか普通の建築物みたいに考えてると、ぽっきり柱が折れたり、屋根が吹き飛んだりして「壊れる」ことがあるかもしれないけど、もともと不定形でグニョグニョしたスライムみたいな生き物だと考えれば、ぱきっと折れたりすることはないです。同じように、身体の一部が千切れようが、半分なくなろうが、極論すれば90%くらい消失しようとが、またグニュグニュって再生するでしょう。それが日本という人間集団の現象的な特徴だと思います。
いわば柔構造の極致みたいなもので、人口の99%くらい死んでしまうことでもない限り、日本は「大丈夫」だと。まあでも1%でも生き残ったら全然いけるかなー、百万人だもんなー。
なぜってね、いくら戦争とはいえ、沖縄なんかほとんど皆殺しレベルに殺されて、非戦闘員が普通に密集して暮らしている地方都市の真っ昼間に、いきなり2発も核兵器を食らってですね(人類史上空前絶後)、東京大阪というツートップの大都市を、地平線がスカッと見渡せるまで徹底的にぶっ壊されて、その破壊ぶりは今のイラクの比じゃないですよ。最後の最後まで戦争を続けて、最終的には国際法上40数カ国と交戦状態になってて、結局降伏するわけですけど、結果としてはいえば「何も起こらなかった」かのようなその後の発展ぶりです。
人口が多ければいいってもんでもないけど、明治維新の頃の日本の人口はわずか3000万人、それが戦争が終わる頃には7100万人まで増えている。そして戦後わずか5年で8320万人まで増えている。これちょっと信じられないんだけど、たったの5年で1200万人増えてるんですよー。「5年で東京がもう一個できた」ってくらい増えている。戦後の「産めよ増やせよ」というベビーブームっていうけど、想像を絶する増え方です。そのも10年ちょいで1億に達してます。平均寿命も、国民の体位も平均カロリーも飛躍的に増えている。
おそるべきは日本アメーバーの復元力と増殖率です。最強ウィルスみたいな(笑)。こうしてみると、結局あの戦争はなんだったんだ?です。戦後の種々のラッキーもあるんですけど、それにしても、異様なまでの復元力で、あれだけ全面崩壊レベルの戦争を経ていながら、過ぎてみればほとんどかすり傷一つついてないくらいの感じじゃないですか。
その視点からすれば、今回のコロナが仮に今の1万倍悲惨に拡大しても=今の日本のコロナの死者は百名にも達してないので、1万倍爆発!というおよそありえない状況になったとしても、百万人減る「だけ」で、ロングスパンでみれば言えば痛くも痒くもないでしょ。僕が思うに、たぶん3000万人くらい減ったとしても、2−3年もしたら、ケロッとしてるんじゃないかな。
何がいいたいかというと、そのくらい強靭なんだということです。
そして、何がどう強靭なのか?ですよね、問題は。これもまたマクロとミクロにわけて書きます。
マクロ的日本
前にも書いたように、日本というのは全体で大きな一匹の生き物のようです。それは複雑精緻な高等脊椎動物というよりも、アメーバーのような原生生物に近いイメージです。外部の環境変化によって、平然と丸くも四角くもなれる変幻自在な形態をもつ。また、身体が真っ二つに切り裂かれようが、平然と復元してのけるヒトデみたいな復元力もある。日本にはバックボーンがない、それが強靭さの秘密
これは社会学や民族的に興味深いのですけど、日本社会には背骨や脊椎がないんじゃないかと思われます。社会における背骨とは、文字通りを社会を貫くバックボーンであり、社会を構築するための根本原理・セントラルドグマのようなものです。強烈な宗教国家や民族国家にはこれがあります。ユダヤの場合は、ユダヤ教やらユダヤ人という宗教・アイデンティティが強烈なバックボーンを構成している。イスラム系なんかもそうだし、キリスト教系はプロテスタントとカトリックで血で血を洗うような原理闘争をやっている(ユグノー虐殺とかさ)。アメリカだって、初動においてはピューリタン(清教徒)が新天地を求めてという建国神話があった。そういう自前の宗教や民族意識が希薄なところでは、逆に理論や思想がバックボーンになります。共産主義しかり、近代人権思想しかりです。多くの先進国では、なぜ我々は国家を作っているのか?についての明晰な理論的裏付けがあり、かつそれらの原理が、日常の子育てや学校職場においても隅々まで浸透している。民主主義の原理は、討論と妥協の原則といわれるように、フリーな議論を大事にするし、少数意見も反対意見も自由に言わせるし、意見が違っても腹を立てないという感情作法もある。最高価値は個々人の尊厳にあり、それを守るために社会国家があるのだという理屈は徹底していて、ゆえに個々人は最高価値の体現者としての自覚と能力が求められる。つまりいついかなる時も、問われたら自説を堂々と説得的に述べることが素養として求められるし、ひいては一人孤立しようが何者をも恐れず異論を述べねばならないし、それを誰も邪魔してはいけない。そういう理屈があって、それが頭から尾っぽまでビシッと串で刺したように通ってます。
あるいは世界史シリーズをやってて学んだのだけど、ロシアも中国も個人が非常に強く、「砂の民族」と言われているらしい。つまりほっておくとサラサラと崩壊していって、国や集団としてまとまらない。それをなんとか国の形にするためには、砂の型枠のような強力な国家統制が必要で、少しでも緩めたらまたサラサラと流れていくという。そこでは国家は強烈な統制装置として機能するし、その強制力として共産主義は格好の理屈づけになった。
他方、大航海時代の結果として移民によって成立した国家群(アメリカ、オーストラリアなど)は、新たにアイデンティティになる理念を構築した。アメリカの場合は、すべての人に平等にチャンスを与える自由の国アメリカン・スピリットという形に結晶化し、全ての移民に「アメリカ人になれ」と求めるメルティングポット型マルチカルチュラリズムになり、オーストラリアでは全てのカルチャーは等価であるというサラダボウル型といわれるそれになる。
これら諸国のなりたちを見て、ひるがえって日本をみると、不思議なくらいこれら根本ドグマや原理がないです。天皇制や神道とかいうのも、薩長が倒幕と新政府建設のときに(自分らだけだったらただの田舎侍の集団として馬鹿にされて誰も言うことを聞かないだろうから)権威付けのために天皇を担ぎ出しただけの話で、日本史でいえば藤原時代から既にお飾りになり、武家政権になったらほとんど乞食同然に見捨てられ、ときどき思い出したように権力者に利用されてるだけです。こんなもん日本の中枢原理でもなんでもない。
でもそれが日本の最強なところで、中枢原理がないから形がない。本来の形がないから、どんな形にもなれる。封建体制だろうが、ファシズムも共産国家だろうが(この2つは本質においてかなり近しい)、民主国家であろうが、やろうと思えば出来たし、将軍様だろうが天皇様だろうがアメリカ様だろうが誰であれ上にいただく。世界では、氏族の恨みは何世代を経ても必ず復讐するという民族原理があったりするし(ベンデッタなど)、宗教上の対立は不倶戴天で千年たとうが和解はされないってくらい理念や思想に忠実なのだが、日本人はそういう「こだわり」は全くといっていいほど無い。宗教にいたっては、神道も仏教もごちゃまぜ。古代においては土着系縄文人と大陸系弥生人とで壮絶な相克があったのだけど(阿弖流為とかね)、それほどの禍根を残していないし、大量の外国人(帰化人)が来ているのだけど土着化して一体化しているし、源氏に滅ぼされた平家の怨念が千年祟るということもない(たまにその種の怨霊があっても将門やら道真やら個人の私怨レベルになっている)。
日本人における国家制度はコスプレ程度の意味しかない
大胆なことを言ってしまえば、日本人=日本列島に住んでいる一般庶民にとって、国家や国家体制(律令体制→荘園制→幕藩体制→軍事国家→民主国家)なんか、別に無くても構わないし、その時どきの暴力的優越者(天下人)の趣味と私欲で構築されるものであって、それに「つきあってる」だけの話。いうならば日本人における国家体制というのはコスプレみたいなものです。ときの権力者の趣味と号令にしたがって一斉に着替えているだけ。だから昨日まで鬼畜米英といえばおー!と賛同し、今日からはアメリカ民主主義バンザイといえばおー!という。単につきあってるだけの話だから、なんでもいい。それがなければ死んでしまうというものではないし、どっちかといえば無いほうが良いくらいであり、そんな体制や理念がなくても集団として存続もするし、機能もする。これは日本人に限らず、世界の全ての庶民に共通する特徴なのかもしれない。もともと普通の人々に「国家」なんてものに興味はないのだ。国家というのは本質において暴力団の縄張りとミカジメ制度と同じであり、そんなもん庶民にとっては無ければないに越したことはない。でも必ずいつも誰か強くてうるさいのがいるから、仕方無しにつきあってるだけでしょう。
このように権力国家への本質的無関心というのは全ての庶民に共通するとしても、日本人は他と違うのは、上からの統制がなくても社会として成立しうるという点。普通「上の重石」が外れたら、あとは個々人ばらばらになりそうだけど、それでもある程度の協同ユニットは必要であり、大体においてそれは家族・ファミリーになる。中国系もイタリア系もファミリーが大きな社会ユニットになっており、それ以上の大きな集団機能を持とうと思えば強烈なリーダーと仕組みがいる。でも、日本人は、そこまでファミリー制度が強いわけでもない反面、なにもなくても集団的に動ける。
そのあたり興味深いのですが、とりあえずここでは、普通の日本人にとって国家や政治というのは、そのときどきのコスプレみたいなものだという点が重要です。本当の本気で国家なんかやってないと僕は思いますね。どっかしら上の空というか、あんなシステムで自分らの生活や人生が決まっていくことを心から信じているわけではない。
だから投票率なんか大体50%くらいであり(地方政治にいたっては20%台もザラ)、これだって権力集団の組織票というツールをつかって嵩上げされているのであって(大体20-30%)、純粋に興味関心でいえば国民の20-30%くらいだと思います。大方の連中はそんなに興味がない。だから愚民なのだ、だからダメなのだというのだけど、もともとが付き合いでやってるコスプレみたいなものだから、そこまで必死に勉強して、維持監視に頑張ろうという気にならないんでしょう。そして政治や官僚に興味があるのは、そのシステムを利用して私利私欲を満たそうと頑張ってる連中が多いから、ますます言ってること(国民のための政治)とやってること(私欲追求)の乖離が生じ、それがまた無関心をひきおこす。
それが証拠に、まったくなんの素養もない人間がその分野のトップ(大臣)になって、ありえないレベルの無能ぶりをさらけ出しても、例えば北方領土返還担当が島の名前をちゃんと言えないとか、IT担当大臣がメールもろくすっぽできないとか、これはプロの将棋指しが桂馬や香車を「かつらば」「かおりぐるま」とか呼んでるというくらい言語道断レベルにありえないことなんだけど、「ははは」と力なく笑ってそれで終わりになっている。コスプレなんだもん。エッチな風俗でお医者さんごっこをやってるようなもので、本当に医療行為が出来るとは誰も思ってないのと同じ。
で、だから何なの?といえば、今のコロナ問題での国の施策が目を覆わんばかりの無茶苦茶ぶりであろうがなんだろううが、それはコスプレナースに医療行為をさせてるようなものなんだから、ダメで当たり前でしょ、何を期待してるんだか、ですわ。論ずる価値もない。
それなのに皆がそれなりにまっとーな期待や要求をするから、可哀想にあたふたしちゃって、それっぽいことをしなきゃいけなくなり、でも素養も能力もなにもないから、ほとんど出まかせってレベルのことばかりをやり、結果として大迷惑を引き起こしている。もうなにもさせるな、物言わすな、じっとさせておけです。
それが不満なら、なんであんなのに政権を上げたの?7年前から見えてたじゃん。といえば、そこまで興味関心なんか無かったからでしょ。じゃ、なんでそんな興味関心がないの?自分らの生活に直結することだよって言えば、直結するとは思ってないからでしょう。多少の影響はあるけど、そんなもん誰がやってもいろいろあるだろうし、それを監視するためにも膨大複雑な社会構造をゼロから学ばねばならず、そんな面倒なことはやってられないってことだろうし。
でも、それよりなにより、そんなもん(国家や政治)がなくたって、俺らはそこそこやっていけるよって強大な自信があるからだと思う。国家や官僚が日本を動かしているとは(腹の底では)全然思っておらず、実際に現場を動かしているのは俺らであって、国家は現場もわからぬうるさい本社みたいなもんで、「適当に調子合わせてればいいんだよ」って感覚です。
何があっても悠然と生き続ける生き物
もうひとつ、それで何か大惨事がおきて、国民の半分が死んじゃったりしても、日本という巨大な生き物は意にも介さず悠々と生き続けるだろうし、そのことを皆、なかば無意識的・本能的に知ってるんだと思う。つまり何もしなくても、自然のなりゆきに任せておけばいい。そして目に見えて何かをなすべき必要が出てきたら、誰が声をかけるともなく自然に協力体制が出来て対処していけるし、それで及ばないところがあったら、それはもう仕方ないねって感覚です。
この感覚が突出してユニークなのは、かえって自分らのことだから分からないと思います。でもね、普通あれだけの戦争でボコボコ焦土にされたら、その後衰退しても不思議ないです。アフガンやイラクの現状のように群雄割拠に逆戻りして、何がなんだか四分五裂してしまうとかね。意気消沈してそのまま最貧国ルートにのって、援助物資だけが頼りになるとか。それ以前に、社会に大災害が起きたら、アメリカなんか特にそうだけど、無法状態になりまくって、ルーティング(商店略奪)があちこちで起きるわ、レイプや暴力が頻発するわという重大な社会不安になりますけど、そんな感じでもない。ま、実際神戸地震のときも東北地震でも現場ではかなりいろいろあったらしいけど、それでも全体としては社会が崩壊してしまうようなことはない。
誰が命令を下すわけでもなくても、秩序がかなり守られるし、復興になると力をあわせる。昔からのおにぎりの炊き出し文化でやってしまう。おばあちゃんが嫁さんに「あたしが関東大震災のときはね、一晩でおにぎり3000個握ったもんだよ」とか伝えていく。
日本社会に権力はいらない。理屈も、理念も、思想も要らない。付き合いで民主国家とかやってるんだけど、民主もなにも、もともと「民」しかいないような社会なんだし(貴族階級らしい貴族もおらんし)、鬱陶しい権力者と称するやつがジャイアンみたいにうるさいから付き合ってるだけ。付き合いでやってるコスプレだから、本気でそれが機能するとは思ってないし、その使い方も真面目に考えてないし、実際にも使い方が下手くそ過ぎ。
となると、ミクロ的な観点、日本という巨大な生き物の生態の秘密は、個々の日本人という構成ピースのユニークさに起因するのではないかと思われるので、次にそれを述べます。
ミクロ特性
全員がマネージャー素養を持っている
上に述べたように、日本人には、なんかしらんけど、状況に反応して協調的に動く特性が強い。その感覚は、大きな生き物の細胞のような感覚で、個々人に人権があって、その個人の権利を守ることが最優先のプライオリティを持つのだとは全然思ってない。だから近代人権思想にもとづく近代国家は形だけ日本に存在するけど、「仏作って魂入れず」で、全然しっくりと機能してないです。
おそらくはそこまで強烈な「個」が無いからでしょう。
そのかわり全体のなかの細胞の一つだから、僕らのなかには、まず全体がどういう方向になるかを本能的に察知しようとする傾向があり、それが出来る嗅覚やセンスもある。そのうえで、自分の居場所や立ち位置を逆算し、そのパーツにおいて最も求められることはなにかを俯瞰的に考え、それを遂行しようとする。
換言すれば、すべての末端労働者が、社長と同じような視野界を持とうとし、本物には及ばないまでもかなりいい線いってるくらいの上級判断が出来る。これは特に教育されなくても自然とそうなっている。その証拠に、職場の不満の多くは、諸外国がそうであるように給料安いとか待遇悪いとかではなく、仕事のやりかたに対する不満であり、「こんなやり方してても無駄が多い、ダメだ」というマネジメント論としての不満が多いでしょう?あなただって経験があると思う。
なんだかしらんけど、ちょっと仕事を覚えたレベルで、既に下級マネジメントくらいだったら出来るくらいになり、その視点でものを考え、そこに不具合や不合理があるとめちゃくちゃ腹が立つようにできている。
個としてはまるで無能
全ての日本人はマネージャーレベルの素養があるという意味では優秀なんだけど、それだけに「個」として動くとなるとまるで無能。まず全体を考えるマネージャー視点ばっかだから、個人としてどうしたいの?ということを常日頃考える契機がない。全体の視点で制御するから、個人レベルの事柄はどうしてもワガママや自己中に思えてしまい、「個」の掘り下げが不十分である。
ゆえに、自分の生き方の方針も、夢も、希望も、自立的に考えることに慣れてないし、ましてやそれを断行するという行為に慣れてない。自分の意見を滔々と演説することにも不慣れ。
個を平気で切り捨てる
前にも書いたが全体に大きな生き物だから、患部細胞を切り捨てることになんのためらいもない。可哀想だとも思わない。最初から個人に価値があることになってないから、全体のためならば、個人の権利や人生を踏み潰すことにほとんどなんの躊躇いもない。特攻隊という発想がでてくるのも分かる。社会全体(生き物全体)としていえば、個々の犠牲にほとんど何の呵責も感じないから、強いっちゃ強いです。戦争だろうが、公害だろうが、受験競争だろうが、過労死だろうが、個々の現場で壮絶な被害が出ていたとしても、全体としてうまくいってたらそれでいいことになってしまう。それは、絶好調だと思っているスポーツ選手が、膝などを酷使しすぎて重大な支障がでてきても、多少の痛みなら無理をしてでも試合に出るのと同じような感覚です。
そして僕らはそのことを、本能的に知ってますよね。そういう生き物であり、そういう社会なんだということを。だもんで、大体において泣き寝入りになってしまう率が高い。この国では「個」は全く保護されないので、非常に弱い。理不尽だろうがなんだろうが、何かのしわ寄せなどで被害者的な立場に陥ったら最後、もう救われない。救うシステムがない。いやコスプレ的に一応あるのだが、本気で救う気はないから十分に機能しない。それは労働法違反を見張る労基署の予算人員をみればわかるし、そもそも司法全体の予算が「3%司法」と自嘲気味に言われるくらい国のコストをかけていない。
日本人だけの特性ではない原始特性
という具合にプラスにもマイナスにも特性があるんだけど、でも、これ日本人だけの特性ではないです。ごく自然に協調体制になってしまうのは、人類普遍の特性だと思いますよ。そうでなければ、とっくの昔に絶滅してたと思うし、農耕なんてクソ面倒くさい時間のかかる作業をやってこれたはずがないですから。どんな民族だって、集団で無人島に流れ着いたら、力を合わせてやっていこうとする筈です。でも日本の場合、その人類本来の特性が現代社会においても今なお濃く保存されている。つまり、僕が思うのは、日本人がユニークなのは、もともと人類普遍の性格をそのまま素朴に持ち続けている点、より原始人に近いというのか、他よりも後発的な文化や宗教などの影響受けていない点です。
ではなぜそうなったのか?
これは推測ですけど、うーん、やっぱり自然や気候に恵まれていたんじゃないかな。あと地政学的に孤立してるし、適当に小さなサイズだし。
これが厳しい自然で、協調しても農耕に適してない場合は家族的小集団で採集生活をするとか行商的に放浪するとかになるでしょう。また、農耕をするにせよ、途方も無い数の人間をつかって灌漑作業をするとか巨大集団でないと生き延びられないならそれなりの巨大国家が出来たでしょう。中国のように国土が広くて地続きだと、どっかの部族が強大になったとき、どこまでも強大になる。また異民族もどんどん攻めてくる。日本の場合は、山ばっかで、適当の小中集団に分断されていたし、それを統合して日本統一をしたところで、幕藩体制がそうであったように各地方も強力な自治権を与える連合国家しか出来なかった。それに年中同じ気候で、四季もなにもないエリアの場合、集団生活を規律する強力な戒律や暦や行事が必要だろうけど、適当に四季があって自然解決(寒くてもまたすぐ暖かくなるとか)のように物事が進んでいく環境では、そこまでドグマチックな戒律も暦も要らない。
つまり日本列島の場合、なにもかもが手頃なサイズだったんじゃないか。
適当にそこそこの数の人が協力したら食えてしまう程度に実り豊かで優しい自然があり、全てを均一的に支配できるほど広大なスペースがあるわけでもなく、また外敵も極端に少なかったので、強大な国家やリーダーも、鉄の戒律もドグマも理想も要らなかったんでしょう。
ゆえに原始時代さながらの、「皆で力を合わせて」という素朴で本能的な方法論でそこそこいけてしまった。だから、それ以上のもの(強力な国家統制、信仰心、理念や思想)は必要とされなかったんじゃないのか?その民族的記憶、そして実際にもそうであるという現実が、今の僕らの特性を作っているのだと思います。
癒やしの風景
まあ、そうはいっても、庶民は常に虐げられたり、理不尽に運命に翻弄されたりしてたんだろうけど、なんでそれが「恨み骨髄」にならず、報復の連鎖で泥沼化しないで、「水に流す」ように寛解していったのか。そこがわからなかったんだけど、四季折々の風情で無常観が出来てとかいうけど、四季は別に他の国でも大概ありますからねー。物事は常に変わっていくんだよって認識は日本人だけのものではないです。そしてそれは強烈な諦観であるがゆえに、強烈な心の痛みも残したはずです。だけどその痛みが、恨みや信念みたいに結晶化して次の世代を縛り付けたりはしていない。
なぜネガティブな感情がそこまで結晶化して行かなかったのか?これもやっぱ日本の山河、自然のせいなのかもしれないです。つまり毎日日本の自然の風景に癒やされていったんかなーって。
海外にしばらくいると、日本の風景は、常々書いてるように水蒸気が多いせいか、全体にパステルでぼやーんとしてます。そんな直射日光で全てがくっきりしてるわけでもないし、あまりの雄大さに「圧倒される」ということも少ないです。
そのぼやーんとした風景、とくに日本語の表現が豊富なのですが、霧とか靄(もや)、霞(かすみ)が多いでしょ?夕霧、朝霧、夕靄、朝靄。カスミだか雲だかは、屏風絵には必ず描いてるしさ。清少納言が春はあけぼの。やうやう白くなりゆく山際、少し明かりて、紫だちたる雲の細くたなびきたる。」と書いて風情というのは、僕らの共有財産であり、身分や貧富に関わらず全ての人が共有できた。
そーんなに零下50度というほど寒くもならないし、そーんなに毎日50度の砂漠みたいなこともないし。ジャングルのように濃密すぎて見通しがきかないこともないし、ツンドラやサバンナなように平原しかないわけでもないし。適当に起伏があり、視覚的な変化もあり、肉体的にも不快に思う時期よりも快適におもう時期が多いんじゃないかな。
そこにほわわんと優しく包み込むような風景を毎日毎日見てたら、なんか全てのことは許されていくみたいな、ほわわんとした人柄になっていくような気もします。「まあまあ」とか「なあなあ」が好きな人柄ね。そんな生きるか死ぬか、白か黒か決着をつけないと気がすまないって苛烈な人柄になっていかないのよね。
前回、日本に帰ったときに、ああ、やっぱ風景が優しいなあって思いましたね。近代現代のごちゃごちゃした建物群とか邪魔くさいんだけど、それらの輪郭がボケてくる夕暮れどきとかになると、柔らかいオレンジ色に山だの河川だのが包まれて、ほわわんと優しい気持ちになるよね。
そこでは温かく優しい人々の日々の生活があって、その生活の雑草のようなたくましさ、勁(つよ)さ、しぶとさみたいなものがあって、世の中で天地がひっくり返るようなことが何度もあっても、「おやまあ」「なにかと大変よねえ」という感じで、何重にもクッションに包まれ、希釈され、解毒され、受け止めていってしまうんじゃないかな。御一新(明治)があろうが、敗戦があろうが、高度成長がろうがなんであろうが。これまでの日本史は、もう庶民的には悲惨史っていっていいくらいなんだけど、それでも連綿と続いてきたのは、原始時代の素朴な協同体制くらいのことで、これまで生き延びてこれたという強烈な自信があるからじゃないか。その魯鈍なまでの鈍さと強さ、温かさと優しさ。
「なんか変な病気が流行ってるそうじゃないか」「いやねえ、心配ねえ」「気をつけなきゃねえ」「さ、ゴハンにしましょ」とかいって、やりすごしていく感じ。
僕の親世代など戦争をリアルに知ってる連中は、国なんてものを全く信じてない人が多いですね。まあ国に殺されかかったんだから信じるわけもないのだけど、でも、同時にあれだけ悲惨な体験をしていながら、あんまり引きずってないんですよ。めちゃくちゃ辛くて悲しかった筈なんだけど、「いろいろあった」的に遠い目をして回顧して、それだけ。なんかしらん咀嚼、解毒できちゃっている。敗戦後は、特高警察とかいい加減なことをほざいていたメディアとか、人民の敵として八つ裂きにされても良さそうなんだけど、その種の報復もあんまりない。なんでそんなに解毒できちゃうの?って思うんだけど(だから解毒できなくて未だに文句いってくる韓国とかががウザく感じる)。でも人類一般からしたら、そんなに何もかも水に流せる、自然治癒みたいに解毒できる方が珍しいですよ。
まあ、このあたりは語り出したら長くなるのでこのへんにしますが、僕が日本について語りたいのはそういう部分であって、コロナがごとき雑魚はどうでもいいです。あんなの、適当にヤバそうで適当に無害そうで、まあ手頃なオモチャですから、例によって官民揃って田楽やら狂言みたいにきゃーきゃー遊んでるだけでしょ?
それよりも、宗教も、思想も必要とはしなかったくらい、素朴な原始の優しさと強さをちょっと自覚しなおしたらいいんじゃないかなって思うのでした。これからの時代、むしろそちらの方がキーポイントになっていくような気がしますので。
ただまあ、いかにコスプレ政治&国家とはいえ、もうちょいちゃんとやらんとあかんかもね。格好つかんし。「やる」というのは主権者であり最高権力者の僕ら庶民ですよ。政治家も官僚も、僕らの「部下」ですからね。僕らには使えない連中を選んだという任命責任もあれば、管理監督責任がありますからね。何がダメとかどうとかいう以前に、最終責任は俺らにあります。みながそう思えるようにならないと、先に進まんでしょ。コスプレでも、いやコスプレだからこそ、ちゃんとスチュや設定は理解しなきゃダメよ。
さらに将来的に、本来のユニークさと国家制度をしっくり融合させようとしたら、顔が見える範囲に分割統治していくほうがいいと思います。市町村レベルで独立国並の裁量権限を持たせる。むかしの「くに」くらいの。全員がマネージャーとして腕をふるえるくらいのサイズがいいでしょう。今の国家はちょい大きすぎるし、都道府県でもまだ大きいかなー。ま、そういう話はまた。|
隣が警察署で、Glebeの「官庁街」です。
文責:田村
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