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Essay 923:人質人生

〜コロナ理不尽の背景にあるもの
〜すまじきものは宮仕え


2020年03月02日

写真は、いつも歩いてるGlebeの湾岸公園。夕暮れなんだけど、反対側の東の空が反射的に不思議な色に染め上げられて、けっこう写真撮ってる人も多かった。

コロナ検査の謎

 昨今のコロナ騒動を見てて思うのは、なんでこんなにチャッチャと最適解をみつけられないんだろう、そして実行できないんだろう?という社会構造です。

自国のリーダーこそが大量殺戮者になる件

 これは現在の最高責任者=ときの政府が無能だとか馬鹿だという話にとどまりません。
 まあ、それ自体論議すべきことではあります。批判すべきは批判し、評価すべきは評価すべきって当たり前の話なんだけど、それを言うなら7年前に自民党を選んだ時点まで遡るべきで、あのときも、あーあ、結局皆さん本気で変わりたくないわけね、寒い冬に意を決して布団から飛び起きてみたものの、やっぱり寒いからまた暖かい布団に戻るわけね、でもこのツケは大きくなるかもって当時のエッセイでも書いてるけど(Essay 601:仕組まれた天下泰平)。

 しかし、物には程度があり、なんぼなんでもここまで知能も人間性も劣悪だとは思わなかったですね。ここまでくると政治的興味とかいう以前に、群衆心理学や人類学的に興味があります。なぜ人は、ここまで無能な者をリーダーに選んでしまうのだろうか、その決定心理にどのような瑕疵があり、そしてどうしてこんなにも間違った選択が修正されないのか。それは「人間とはいったいどういう生き物なのか」というレベルでの話で、とても興味深いです。

 これは自然科学的な興味にもつながります。
 世界史をみても、最も破壊的な大量殺戮者は、ヒトラーでも、ジンギスカンでも、アレキサンダーでもなく、スターリンと毛沢東だと思われます。スターリンで2000万人、毛沢東にいたっては(直にそう意図したわけではないが)一説によれば5000万人レベルで自国民を殺してます。太平洋戦争の日本人の死者数が300万人とか言われてますから、その十倍の単位です。いかに凄じいか。ちなみにさきの神戸地震の死者7000名弱、東北大震災で2万人弱ですから、数百〜千倍規模の大災厄です。あの千倍悲惨なことがこの世では起りうるということは、知っておいてもよろしいかと。スターリンはシベリア送りでせっせと自国民を殺し、毛沢東は無理な大躍進計画の失敗による餓死者と死後の文革です。結局、天災よりも、また戦争で侵略して殺すよりも、自国の指導者が自国民を殺すときこそ、最も効率的かつ無慈悲に殺しまくる。カンボジアのポル・ポトも自国民の三分の一を殺したと言われているし。

 ここまで殺すとなると、もうペスト(約5000万人、当時のヨーロッパの4分の1を殺した)に匹敵する大災厄です。もしかして増えすぎた人口を調節するための自然の営み、レミングの自殺行進のように、増えすぎたなと判断すると隠された遺伝子のスィッチが入って、粛々と集団で自殺行為をしようとするように地球上の生き物はみな作られているんじゃないか。だから馬鹿な指導者を選んでは、大量に間引きされているのではないかって話です。ま、ヨタ話なんですけど、そう思えてしまうくらいの愚行が、定期的に行われているのは事実であり、これはいったい何なんだ?という。面白いんだけど、この話はこれ以上発展のしようがないです。よくわかりませんからね。

 今週の本題は、そんな大量殺戮(自殺行為)以前の段階で、人の集団というのは、なぜ現実に最適解、というか誰が考えたって最低限それはやるべきだろってことをやらないのか、1+1=2というのが皆わかっていながら(エジソン的な話は抜きにして)、そのとおり行動できないう現象はなぜ生じるのか、どのように理解するべきか、です。

 といって、大体のところは分かるんですけど。こんなの日本で社会人やってた人なら、誰でもわかるんじゃないかな。

理不尽な大人の事情の解析

 1+1が2にならないのは、いわゆる「大人の事情」があるわけで、2であるのは全員わかってるんだけど、でもそうしてしまうと都合の悪い人が組織のどっかに(通常上のほうに)居て、そいつの利害に関るから、「2に決まってんじゃん!」とスパッと言えない、動けない。だから、事情をしらない外部から見てると、とりあえずは馬鹿にも見えるし、理不尽を押し通す極悪にも見える。

 よくある話が、どっかの娘さんがレイプされたり殺されたりして、すぐに犯人の目星がついたりするんだけど、そいつが偉い政治家や高級官僚のドラ息子だったりした場合、上から圧力がかかって、うやむやになって、殺されているのに自殺の疑いとか、迷宮入りとか、どっか適当に誰かをスケープゴートにしたりって話です。これでは殺された被害者も遺族も浮かばれないけど、歯をギリギリさせて怒り狂っているのは現場の刑事さんも同じでしょう。そんなことするために警察になったんじゃねえって思いはあるでしょうけど、「ふ、若いな」とか言われて。

 ここまで極端な話ではなくても、どこの大企業にも似たような話はあるでしょう。いや大企業に限らんな、零細にもある(零細の方が話は分かりやすいんだが)。例えば、どっかのメーカーが海外市場を開拓するんだといって売り出したけど、全然売れない。現地に派遣された社員からすれば、売れない理由もよくわかるでしょう。無駄に高機能、使いにくい、現地のカルチャーに合わない、日本ブランドなんかもう通用しない、値段も意味なく高すぎる、販売ルートの戦略がまるでわかってない、などなど、言いたいことは山程あるし、実際に本社に対して、あれこれ詳細に事実を並べ、具体的な改善策まで考えてレポートしてるでしょう。だけどそのとおりにならない。本社で握りつぶされる。

 なんで?っていえば、「この案件は、○○専務肝いりの案件だから、ダメでしたったレポートはありえない」「そんなの言えるわけないだろ」「言ったら最後、社内的に殺される」とかいう事情があって、現場の悲痛な叫びは全然届かず、結果売上不振の全責任をおっかぶせられる。それが恐いから売れてないけど、売れてますって嘘のレポートを出すとか(毛沢東の大躍進計画のときもまさにそれ)。

 海外勤務に長い人とか、現場に慣れているから国際的には非常に有能な人材としてヘッドハンティングされたりするんだけど、本社に戻っても居場所がない。そんな戦場帰りの荒武者のような人が、茶坊主が支配する江戸城に戻っても居場所がないとか。今回のコロナの岩田さんみたいな感じね。だから、結局、外資系に優秀な人材が取られてしまったり、現地でビジネスコンサルなんかを立ち上げたりって話になるでしょう。わかりますよね。やってられっか、って感じでしょうから。

検査カタクナなのは何故?

 今回のコロナも、不思議なくらい指揮命令系統が見えない。上の方にいて記者会見とかやってるのは、ただのハリボテのお飾りだから、それが要領を得なくても、まあ当たり前です。ヌイグルミに聞いてもしょうがないよね。

 問題はその下の、現場を仕切る最高指揮官が分からん点です。「厚労省」「役人」とか漠然とした話になってて、厚労省の誰がやってるのかもわからん。おそらくは感染研とかそのあたりだろうけど、少なくとも僕らが期待するような指揮命令系統ではないような気がする。本当ならば、大きなグランド・デザインを描いて、それを末端にいたるまで徹底的に理解させ、それを実現するために政府にかけあって必要な人員と設備と予算をぶんどってきて、着々とやるべきでしょう。しかし、そんな具合になってるようでもない。

 ありていにいえば、現場においては、わけもわからないまま選抜されて、とにかく行ってこいで行かされて、あとは現場で必死になって帳尻を合わせているという。こんな状態で「なんとかしろ」と言われて頑張ってる現場の努力は凄いもんがあると思います。そこは素直に称賛しますが、それ以上に「かわいそー」という同情の念を禁じえないですね。中国からのチャーター便でも、一人精神的に追い詰められて自殺してますからねえ。なんて気の毒な。

 要するに、全体も見えない戦略も立てられない凡庸すぎる上がいる。普通大将が凡庸だったらえらく切れるナンバー2以下が仕切りまくるんだけど(漢の劉邦のときのように)、大将が無能なくせに(だからこそというべきか)子供じみた虚栄心が強いと、優秀なナンバー2を嫉妬して遠ざける。周囲はバカ茶坊主ばっかりになる。これら凡庸なトップ集団は、現場に丸投げするしかないのだが、現場で必要な物資もなにも与えないし、それがなぜ必要なのかも理解できない(理解する知力もないし、面倒くせーと思うだけで興味もない)。結局、根性で頑張れ的なことしか言わず、現場はたまったもんじゃない。全ての矛盾のしわ寄せが現場で炸裂し、非人間的なまでに我慢強くて従順な人々が黙々とその尻拭いをする。太平洋戦争といっこも変わらん。

 ただ、それ以上に、「それは出来ない」「それはやるな」って指示だけはあったように思います。その大きな一つが「検査はするな」じゃないかと。

 プリンセス号でも、なんで最初の段階に全員検査をしてスクリーニングをやらないか、白と黒をわけないと防疫なんかできるわけないのにと思ってましたが、まあ、初期においては体制も十分じゃないし、サイレントな感染(無症状者からの感染)もわかってなかったから無理ないところはあります。でも、わかってからでもやらない。最後に自宅に帰すところでも、世界でほとんど唯一なくらい、日本だけがなぜか14日隔離をやってない。なぜなんだろう。

 一つは、よく言われているように、検査をすると患者数が増えるから、検査をしなかったらいいじゃんという、子供の論理ですね。試験を受けたら不合格になるから、試験を受けなかったら不合格にはならない(合格にもならないんだが)というムチャクチャな。ただ、この点は、これ以上感染数を増やして全体のパニックムードやら、日本人を出禁にする国が増えたりするのを防ぐという経済的な合理性はかろうじてあります。そこまで計算して馬鹿のふりをしてるなら、なかなか大したものです。「大賢は大愚に似たり」だわ。でも、どうもそこまで深謀遠慮がある感じでもない。そこまで考えてるならもう少しやり方もあるだろうに(そもそも市中感染を促進するような下船乗客の無条件開放なんかせんだろ)。

 赤点取るのが恐いから検査忌避をしてるだけではなく、なんかもう一つ理由があるような気がする。そこであれこれ推測されているのが、感染検査の官庁独占体制の維持であり、それにまつわるあれこれの利権です。

天下りと利権といういつものアレ

 ろくすっぽ出来もせんのに自分だけがやるんだ、民間にはやらせないんだ、勝手にやったら怒るよ、保険点数もつけてやんないよ、という、「これ、俺んだかんな、勝手に取るんじゃねえよ」的な、これも子供的な独り占め感覚があるような気がする。自分で仕切りたい人は、横からちょっかい出されるのを激しく嫌いますからね。神戸地震のとき、瓦礫に埋まってる人を調べるために救助犬をどっかの国が無償提供してくれたのに、検疫に2週間かけるとか馬鹿なことをいって大炎上してましたからね(当時は炎上というフレーズはなかったけど)。

 でも、なんで民間で検査したらあかんのか、なんで保健所があそこまで独占したがるのか。そのくせ土日祝は休んでるのに。これ、ちょっと違うんだけど、独禁法違反みたいなものではないのか。保健所とか厚労省や役所だけが突出して凄いスキルをもってるならまだ合理性もあるけど、別にそんなこともないでしょうに。まあ、役所にありがちな既得権にしがみついて離さないかのような。感染研とかなんのためにあるのだ。そんなことを決められる法的権限なんか無いと思うんだけど。いや権限以前にその主体が誰なのかすら見えてこないのが不気味です。さきの大戦でも結局誰が一番阿呆だったのか、最大の戦犯は誰かといえば顔の見えない「参謀本部」であったのに似ている。

 さらに暗部にありそうなのが利権で、どうして諸外国では日に日に新しい検査方法が開発され、毎日数千件とか大量処理ができてるのに、それを提供しようとすら言ってもらったりしてるのに、カタクナに拒むのか。

 そこで、もしかしたら、どっかの国内の製薬会社、医療、検査会社の利益を守ろうとしてるんじゃないか?という推測が出てくる。今では600円で出来るとか、ドライブスルーの検査まで出来てるくらい進んでいるのに、なんでそこまで自家製にこだわるのか、理由がないじゃん。

 その際、どっかの製薬会社の社長がトコトコと厚労省にいって「ウチで開発して販売体制になるまで待ってくれませんか」「もっと安くて優秀な外国製は入れないでくださいよ」「あ、いいすよー」みたいな話があるわけではないでしょう。そんな露骨なことやるわけがない。そこで活躍するのが「用心棒の先生」で、つまり「天下り」ですね。

 昭和の頃からん散々天下りがどうのって批判され、民主党時代にかなり厳しくやってたのに、自民が返り咲いてまたもっと酷くなったかに思われます(その批判すら聞かれなくなるくらいに)。

 あ、余談ですが、ここでも「悪夢の民主党時代プロパガンダ」があったりして、民主党時代の方が実はひどかった的な記事として、ブーメラン健在 民進は天下り批判も、増えたの実は民主党時代があります。「21年09月に政権を取った民主党は満を持して天下り根絶に取り組んだ。21年度の中央省庁幹部の天下りは1413件で、民主党政権の22年度は733件とほぼ半減した。ところが、23年度は1166件と早くも増加に転じ、24年度は1349件に増えている」からダメじゃんと書かれてます。さすが産経新聞。しかし、徹底調査!財務官僚は、こんないい会社に「天下り」していたによればその先の数字が出てきます、「民主党政権の2012(平成24)年度に1349件だった再就職状況は、2016年(平成28年)度に1775件と3割強増えている」とね。要するに民主党がダメだったのは、最初にやろうとして頑張ったんだけど、だんだん抵抗勢力に押し返されて(マスコミのそのひとつ、すごいネガキャンやってたし)、だんだん息切れしてきたその部分ですね。意図は良かったんだけど、実行し続ける体力と老獪さと国内権力基盤がまだなかったということでしょう。で、さきの産経新聞が笑ってしまうのは、この記事は2017年のものです。「2017.1.23 22:58」と書いてあるんだから、多少改訂版で新しくなったとしてもそのあたりでしょう。つまりその時点では、民主から自民に戻って、もっともっと天下りが増えているわけで(実際調べてみたら2016年段階で天下り復活の批判記事が増えている)、それを知りながらも、そこはスルーして、いかにも民主党が一番よくなかったように書くという。もう子供騙しなんだけど、臆面もなくそれをやるところが「さすが」産経新聞という。同じ日付(17年1月23日)には、NHKクローズアップ現代で「いまなぜ? 官僚“天下り”問題ふたたび」が放映され、文科相の吉田局長が早稲田大学に天下りするに際して、役所内部で想定問答集まで作って隠蔽を図っていた事実はすっぱ抜かれてます(その頃のNHKはまだマシだったのね)。それもあって、産経も頑張って反論記事を書いたんだろうけど、全然反論になってない。こんなことやってるから(それが見抜ける一定以上の知能の持主には)馬鹿にされるんでしょうし、これを鵜呑みにして得々と書いてる人は、それが見抜けない一定水準以下の知能の人として扱われる。

 それはさておき、なぜ日本に天下りはなくならないか?ですが、まず企業から見ていけば、あれほど人件費を削減するのに熱心な企業が、なんで年収数千万で退職したジジーを雇うのか?です。そこには数千万の投資に見合うことがあるということです。メリット無かったらやらんですよ、こんなもん。

 じゃ、そのメリットとは何か?それは確かに長年同じフィールドでやってきた経験や造詣もあるんだろうけど、それだけじゃない。もうここは誰もが知ってるから簡単に流しておきますが、国の動向や意図をいち早く教えて解説してくれるという半ば公的なスパイ的な機能と、より重要にはロビイスト機能です。企業の立場や利益を国政に反映してもらうために、あれこれご説明にあがると。まあ、企業からもお尻を叩かれるでしょうしね。先生、出番です、こんなときにこそ働いてもらいますからね、無駄メシ食ってんじゃねえぞってね。

 いち民各企業のトップが説明にきても、プライドの高い高級官僚様は鼻もひっかけないかもしれないけど、かつての自分の上司がやってきたら、粗略にもできんでしょう。そして何よりも、そこでその要請を無下に断ったら、その人の顔を潰すだけではなく、天下り制度そのものが存在価値がなくなる点です。

 彼らキャリア官僚にとって、天下りは老後計画そのものであり、自分の老後がどうなるかは、天下りした先輩上司をどう優遇するかによって決まってくる、だからナイガシロにはできない。大抵の無理は聞かざるを得ない。

 まね、気持ちはわかりますよー。子供の頃からお勉強ばっかで、サッカーも恋愛もろくすっぽ出来ず、ひたすら競争をつづけて数十年、あまつさえ自由であるべき配偶者選びですら閨閥的に犠牲にしたりなんかして、もう一生のエネルギーをかけているわけです。怨念みたいな、半ば生霊みたいな存在かもしれない。公務員の給料なんか高いとはいっても、同期同レベルの民間の連中に比べたら少ないし、それもこれも左うちわな上級国民的豊かな老後のためでしょう。それを潰されては何のために一生を犠牲にしてきたのか分からん、とは思うだろうなー。

 今僕は何かを書いているかというと、いわゆる天下り批判そのものではなく、「1+1=2にならない理由」を考えているわけです。よっぽど強烈ななにかがないと、そうはならんだろうと。お役所のチャイルディッシュな独占志向もわかるけど、それだけだとまだ弱いなーと思う。もっと強烈な人生かけた執念みたいな実益がないと、こういう理不尽は生まれないのではないか。


 そう仮定すると、全体の動きの辻褄が合ってくるような気がします。なぜあんなにも検査権限を一手に握っておきたいのか、そしてなぜあんなにも検査を渋っているのか?それによってどこの誰が得をするのか?

 ほんとはマスメディアに求めたいのは、そして皆にも議論してほしいのは、そのあたりです。いつ、どこで、どの会社に天下りした誰が動いて、どこでどういう役所の意思決定がなされたのか、そのあたりの具体的な話を突っ込んで欲しい。まあ、下手に書いたら殺されるかもだけど、確実な事実はともかく、ものの見方のフレームワークを提供することは可能だと思うけどね。あんまそういう話にならないのは、なぜなんだろう?

人質人生

人ではなくシステムが悪い

 でもね、ここでそういうお役人さんだけをあげつらって、彼らこそが悪の権化というつもりもないんですよ。現代社会の日本人だったら、誰であれ、大なり小なり似たようなものでしょう?

 これは人が悪いというよりも、システムが悪いと思う。
 1+1が2にならない、理が理として非が非として通らないこの理不尽ワールドはなぜ形成されるのかといえば、一人二人の極悪キャラではなく、自然にそうならざるをえない大きな枠組みがあり、それこそが問題だと。

 そして、さらに遡れば、そのシステムを発想し、培養しつづけている僕らひとりひとりの人生観や世界観が一番問題なのではないかと思います。言いたいのはそこ。結局は自分に返ってくるんだけど。「この程度の国民にこの程度の政府」というのはある程度は確かにそう。心情的には認めたくはないし、自分はイノセントな被害者の立場に置いておきたいんだけど、そうもいかんだろ。

 うえの論理を簡単に説明すると、このシステムの何が一番問題かといえば、一生食っていくフレームワークが変わらないこと、です。言葉を変えれば、一生食っていける(と思っている)安定的な社会生計システムがある点です。

 日本がどうのって話ではないし、天下りがどうのって話でもない。それはそうなんだけど、そんなの例えばの具体例に過ぎず、もっと大きなフレームとしては、この「一生メシを食っていくシステム」というものに、僕らの行動は激しく制約されるということ。原始時代の昔、群れから追い出されたら、氷河のなかで餓死するしかないのならば、どんなに理不尽だろうが不公平だろうが、群れにしがみつく以外に生きていく術はない。その集団の最大のプライオリティは、公平でも正義でも人権でもなく、群れの維持、生計システムの維持です。生命そのものですから。

 戦前までの家制度なんかも同じで、お家騒動とか、どんどん妾作って子供産ませたりとか、あちこちから養子をとったりして、なぜ皆はあそこまで必死に「家」を守っていたかと言えば、侍社会では家=企業であり、お取り潰しとかお家断絶ともなれば、破産倒産であり、関係者全員路頭に迷って死んでしまうからでしょう。生きていくためのシステムは絶対に潰してはいけない。これはもう絶対的なドグマになってたのだと思います。

 今も同じです。天下りもその生きていくためのシステムになっているのでしょう。また激しい外部の競争力にモロにさらされたら、国内の鎖国箱庭システムで生涯設計をしている人らが、あーっと飲み込まれて消えてしまう。大学のアカデミズムも、裏を返せば箱庭システムであり、欧米やアジア、インドからどんどん無数の俊英達が入ってきてバリバリやってられたら、自分らのシステムが壊されてしまう。用無しとして駆逐されてしまう。医学界だって、東大医学部と慶大医学部のツインピークスによるヒエラルキーなんか木っ端微塵にされてしまうかもしれない。早い話が岩田教授みたいなのが何千人というレベルでドドドと入ってこられたら、「なに、下らないことやってるんですか?」「それって10年前の理論でしょ」「この人、なんにも知らないじゃん」で一蹴されて終わってしまうでしょう。だから彼らにとっては、ウィルス以上に恐いのはその種の事柄であり、なにがなんでも絶対防衛なんでしょう。ほとんど免疫抗体システムのようなものです。

 これは日本のメディア、特にテレビ局の放送認可特権なんかも同じ。資産も人材も桁違いの海外の連中が入ってきたら終わってしまう。だから必死に昔ながらの体制を維持したいと思うし、昔ながらの体制を維持してくれる自民を必死にで守るし、それを壊しそうになった民主を必死に引きずり降ろそうとするし、予定外の敵になったホリエモンなんか実刑まで受けるところまで叩き潰された。そこまでして守ろうとするのは、それが唯一の(と思ってる)食っていく道だからでしょう。

ゾンビ保守

 本来死んで淘汰されるべきなんだけど、なぜか生き延びているという意味で、いわゆる「ゾンビ企業(国家)」と呼ばれるものですが、自民党がなぜ強いかといえばゾンビの守護神だからでしょう。時代とともにどんどんそれが無理になってきてるだけに、それだけにより一層強靭な、、というか厚顔無恥に、恥を恥とも思わず、臆面もなく守ってくれる人が欲しいわけでしょ。

 でもって、結局、自分らにまで戻ってくるのは、今の日本でゾンビ的に得をしてる人はそっち側になってしまうわけですよね。また、未だにゾンビ的な将来設計をしている人もそっちになってしまう。

 今の内閣の支持率は、その能力個性がどうというよりも、ゾンビ的なるものを保存したいか、換言すれば「保守」なのかどうかでしょう。言葉の真の意味からすれば、「保守」というのはそういうことをいうわけではない。変革すべきものは大胆に変革して、昔からの良きものを守るって意味だけど、およそこの世で「保守」と自称される多くの論説は、単なるゾンビ的保身であり、ゾンビ的郷愁であったりするもんね。

 支持率が50くらいあるということは、まだ日本には旧来のシステムでうまくいく、うまくいってほしいって思ってる人が半分はいるということで、まあそんなもんかって気もします。残りの50%は、すでにゾンビやってられなくなった人です。昔の「気楽な稼業ときたもんだ〜」的なサラリーマンが夢になってしまった氷河期世代以降の若い世代にせよ、シングルマザーにせよ、詰腹切らされてリストラされた中高年にせよ。あるいは最初からそういうことに興味がない人、寄らば大樹の陰って生き方がどうにも性格的に無理な人とか。

 ただ、まあ、多くの人のケースは、そこまで明快な意思決定が求められているわけではないでしょう。関ヶ原の合戦で、東方か西方か?って旗幟鮮明にするわけでもない。なかには小早川的にうろうろしてるのもいるでしょうけど。多くは、ゾンビというほど無益な存在ではなく、社会的にはまだまだ有用な大多数の組織において、忠実に自分の職分を果たしているといったところでしょう。

すまじきものは宮仕え

 でも、そういった人々にもゾンビ災厄は遠慮なく襲いかかってくるわけで、それを一言でいえば「すまじきものは宮仕え」ですね。

 いまトバッチリを食らって悲惨な目にあってるのは、当の保健所の係員の方とかでしょう。「なんで検査をしないんだ」って罵倒されまくってるだろうけど、彼らに決定権はないわけですし、上が決めたアホな決定にしたがって、意味なく毎日ボコられているしかない。それは医療機関の現場もそうだし、ひいてはコンビニやドラッグストアの店員さんなどもそうでしょう。なにをトチ狂ったかトイレットペーパーまで買い占めようとする70年代からタイムスリップしてきたような、ときとしてピラニアのようなオバちゃん達に「なんでいつ来ても品切れなのよ!」と精神を食いちぎられているでしょう。

 厚労省がどうの、医学界がどうの、ひいては警察検察が腐敗したとかいっても、それでゾンビ的に画策してる(できる)のは、ほんの0.1%くらいの人に過ぎず、多くの人はそのトバッチリを食らって、現場で黙々とやるしかないと思いますよ。

 で、思うのは「すまじきものは宮仕え」という古くからの言葉です。語源がわからないくらい古い言葉で、「公務員(サラリーマン)にだけはなるもんじゃないよね」って意味です。昔っから、この種のトバッチリ食らって煮え湯を飲まされつづけてきたわけです。

 それもこれもどっから来るのか?といえば、僕らの安定志向でしょう?
 一生、これで安泰に暮らしたいという、庶民のささやかな願望、、、とか、美しくいうけど、この激しくも荒ぶる自然界、地球という星の生存環境で、ずっと同じシステムで数十年スパンで「安泰に」というのは、「ささやか」どころか、ありえないくらい高望みだと思います。そんなの無理!です。

 そして、その人が安定を望めば望むほど、この種の「すまじきものは宮仕え」的な環境に自分から追いやってしまい、そこでは一部のモノが不当に得をしている理不尽ワールドですから、帳尻合わせのように大多数は理不尽に損をするように出来ている。質量保存の法則のように。

人質人生

 コロナ騒ぎですっかり忘れられた観のある元日産のゴーン氏が、日本の司法は「人質司法」だと言いましたけど、いやそれは本当にそのとおり。ただ、人質なのは司法だけではなく、この広い日本社会そのものが、自分の人生を人質にとられて、どんなに理不尽にやられてもじっと耐えしのでいく以外に生きていく術がない、、、わけじゃないですよ。ただ、そう「信じ込んでいる人」が「一部( or 大部分)にはいる」のは事実でしょう。

 ちなみにゴーン氏以上にもっと忘れられている可哀想な人々は、意味もわからないままイランに派遣されている自衛隊の人たちでしょう。もう話題にもなってないよ。

 これをこと自分だけの生存戦略、生き方の方法論に落とし込んでいくならば、可能な限り、自分を人質にならないように、自分の人生を担保にするような生き方はしないようにすることでしょう。

 だけどこれは難しいですよ。体感的には、「より安定しない方向を選べ」ってことですからね。おっかなくってしょうがないでしょう。今の日本で既得権的に恵まれているのは、いずれもゾンビ的斜陽がかっているわけで、いつかは無くなると覚悟しておいた方がいいし、またゾンビ的であればあるほど内部では理不尽ワールドになってる可能性が高いわけですよ。だから安定してるように見えて、このくらい不安定なものはないと思うんだけど、でも、まあ、騙されますよね。

 だから、いきなりは無理だと思います。ただ、マインドセットとしては、常日頃からそのように視点で心を鍛えておかれると良いかと。そして、時には、どーんと違うことをやって、これまで「これ以外に生きていく術はない」と思いこんできたことが、実は全然そんなことなかったりすることを知ってくださいな。

 以前、ワーホリで来た人がいて、ラウンド中に仲良くなったベルギー人だったかな、がいて、そのベルギー人もワーホリでありながら、ブリスベンかどっかで中古家具屋のビジネスを買ってしばらく経営してたけど(それなりに資産はあったのね)、それも飽きてまた売って、旅先で知り合った彼女と二人でオンボロ車で「じゃ行ってくるわ」と行っちゃった。なんでも10年くらいかけて世界一周をやって、この星のどこに住んで、どういうことをしたいのか、時間かけて下見をするんだって言ってたそうです。日本に住んでたら、そんな生き方、そんな発想、とてもじゃないけど思いつかないけど、目の前にそれを飄々とやってのける人間が実在して、そしてそんな連中は別に珍しくも何ともなく、掃いて捨てるほどいるんだってことは、その人にとってはすごい衝撃的なことだったらしいです。

 本当は、時代がどうなろうが、何をやっても食っていく自信はあるってくらいになればいいんだけど、いきなりそこは無理でも、「これしかない」って固定観念を打破するところから始めたらいいかと思います。といっても、日本ではコロナウィルスよりも恐いゾンビウィルスが風土病のように蔓延してて、「すまじき」ことを皆やってるような環境では、それは難しいと思いますけど、行くところに行けばゾンビ陰性の人は結構いますから。



文責:田村


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