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今週の1枚(2013/01/07)





Essay 601:仕組まれた天下泰平〜総選挙前後で思うこと

 写真は、つい先日おこなわれたシドニーフェスティバルの皮切りイベント。巨大あひる君の登場です。

 オランダのアーチストの作品らしく、世界各地を転々とし(大阪にも行ったことがあるそうな)、ダーリングハーバーに堂々登場。

 2時間のイベントですが、最初の一時間はパジャマ姿のパフォーマーがあれこれやってて、遠くから見てる分にはむしろ退屈なくらいでしたが(近くで見ると結構凄いことやってるのだが)、後半いよいよあひる君が登場すると盛り上がりました。

 ピアモントブリッジが回転し(回転するとこを初めて見た)、ドラマチックな音楽、さらに橋の上にはなぜか和太鼓がドンドコ、、

 高さ15メール、幅15メートルですから、小ぶりのマンション一棟分くらいあります。とりあえずデカい。
 これだけデカいとなんか納得しちゃいますね。確かに盛り上がるものがあります。真正面から目が合うと妙にうれしい。

 このアヒル君、こっち来てよく見るのですが、西欧一般に広く知られているみたいですね。オランダのアーチストが作るくらいなんだから。どこの家庭の風呂場にも一個あるのだろうか。イベントのコンセプトもお風呂系で、だからバスタブがあったり、シャボン玉が飛んだり、パジャマ着てたりするのでしょう。

 ほんでも他愛ないっちゃ、このくらい他愛ないイベントもないですよね。巨大なアヒル君がタグボートに引かれて湾内をお披露目するという、言ってみれば大学の学園祭のノリですもん。

 もっと言えば、こんなのただの「会場設営」ではないか(アヒル君は27日のシドニーフェスティバルの期間、守護神のように安置されているようです)という気もする。しかし、単なる会場設営を、無理やりイベントに仕立て上げてしまう遊び心がキモなんでしょう。どうせ設置するならドラマチックにやろうぜ、という。


総選挙前からの違和感

 周知のとおり先月(2012年12月)の総選挙で自民党が政権に返り咲きました。

 まあ、それはいいです。
 よかあないけど、フランス革命でも、最初の革命から共和制が定着するまで、ナポレオン(1世&3世)の帝政があったり、王朝が瞬間的に復活する王政復古(第一&第二)になるなど何度も「揺れ戻し」を繰り返していますから、一気に全てがドドドと進展することなんか世界史的にもありえない。ましてや全ての権力&利権が網の目のように結ばれている日本社会の場合、明治維新や敗戦クラスの衝撃=「社会原理の完全破壊」でもなければゼロリセットなんか出来るわけがない。ゆえに揺れ戻しなどあって当然でしょう。

 気になるのは揺れ戻しの内容であり、そのプロセスです。

 3年前に民主党に政権交代になったとき、日本の選挙民は何を求めていたのか?
 もしここで、日本を閉塞させている主たる要因といわれているもの=政財官をあまねく覆う「いわゆる日本的な利権システム」を根本的に変えていくことが主目的であるなら、民主党は確かに変えられなかった。変えようとしたけど現実の壁(利権と官僚の壁)にゴンゴンぶつかり後退を余儀無くされ、しまいには変えようと思ってるのかどうかすら怪しくなってきた。だから民主党から政権を剥奪する。これは理屈が通ります。

 しかし、だからといって自民党が民主党以上に鮮明に改革姿勢を打ち出したか?というと全然そうではない。てか殆ど何かが変わったという印象はない。だとしたら、3年前に変革を希望をしながらここで自民党を支持するという論理は、@変革する気がなくなった、A最初から変革する気なんかなかったということになる筈です。まあ、自民党の方が過激な改革主義だと思うならば別ですけど、そういう人は少ないでしょう。

 そうなると、あくまで変革志向の人は第三の道を選ばざるを得ず、だからこそ橋下さんの維新の会が脚光を浴びたのでしょう。ほんでも、選挙前に自民党以上に自民的、旧体制や旧価値観の権化のような石原元知事と合流することでそのアイデンティティがワケわからんようになってしまった。もっともいわゆる「第三極」は維新に限ったものではなく、多党乱立の中、どれもがその可能性を持ち得たのだろうけど、それらが常に離合集散で流動的であり、ろくすっぽ党の名前を覚えてもいないうちに選挙になってしまった。かくして「選択肢なし」状態になって低投票率を招いたとも言われています。

 総じて言えば、有権者の4割が「決められない」とか言ってる間に、「既に決めてる人々」=強烈な地盤と組織票が強く働き結果として全体が「決まってしまった」って感じでしょうか。「なんだかなあ」って気もしますね。しかし、まあ、いわゆる一つの典型的な「日本の選挙」だよなって気もします。

 さて、この経過をみて思うことが数点あります。

本気で「変えよう」とは思ってない件

 @変革する気が失せた+A最初から変えようと思ってなかったという人々ですが、これは結構多いんじゃないかなと睨んでいます。

 一つは変革の必要性(現状の弊害)や方法論が複雑で、感覚的によく分かっていない人が多数いるかも?という点です。いわば「問題意識がない」「平和ボケ」といえばそうなんだろうけど、これもそんなに責められないとも思います。それらを骨身に染みて感じる機会と経験値が少ないこと、仕事が忙しすぎてゆっくり調べて考える時間がないこと、そういう教育(創造的批判や建設的破壊)を受けていないこと、そして何より、そんなご苦労な「変革」なんかやらなくたって、今の豊かな生活という圧倒的な「現実」を目の前にすれば、「別にこのままでもいいじゃないか」と思ってしまうのは、人間として不自然なことではないでしょう。

 もちろん自分が直接見聞する領域においては、それぞれに問題点は感じるおられるでしょう。職場環境の法と実体の乖離であるとか、託児所が少なすぎることであるとか、未だに男女の不平等は改善されていないこととか。特に自分の業界内部については、「もう根本的にやりなおさないとダメ」くらいに思ったりもするでしょう。でもそれ以外の領域については知る機会に乏しい。また自分の業界だって、誰かが変えてくれたら(ひそかに)拍手喝采するかもしれないけど、ともかくも安定収入がある現状を失い、ホームレスになる覚悟でまで変えようとは思わない。

 僕はたまたま政治に関連する法学を学ぶ機会があり、また日々の実務においては、日本社会の旧来的なダメダメ性を、まるで日替わりメニューのように見る機会に恵まれたこともあって、個人的には変革志向です。ここで「変革」というのは、単に「新しいのが好き」というミーハー的な発想ではなく、「ものすごく良くなる可能性があるにも関わらず、その潜在力を生かし切れていない」という状況認識がベースになります。平たくいえば「すごく勿体ないと思う気持ち」です。

 この意識はかなり強いです。隔靴掻痒(かっかそうよう=靴の上から痒いところを掻いているけど全然効果がなくイライラすること)って感じ。もうダイナマイトでぶっ壊すくらいしないとダメなんじゃない?革命OK!くらいにすら思ってます。ほんと日本社会は芝生の根っこみたいに絡み合い、Aを変えようとするとBにぶつかり、Bを変えようとするとCとDにぶつかる。そして五重塔の柔構造のように、全てで全てを支え合ってるような構造になっている。これを物理的に変えようと思ったらそれこそ「完膚なき破壊」が必要だと。

 でも、そんなことは無理でしょう。過去の日本史をみても、(権力闘争ではなく)民衆レベルでのローカルな反抗は数限りなくありますが、本当の意味での全体的な革命が成功したことはただの一度もないし、そもそもそれを志向したという形跡にも乏しい。明治維新だって全国の百姓町民が立ち上がったわけではなく、核心にあるのは薩長VS徳川という「関ヶ原リターンマッチ」でしかない。革命が臨界点に達するのは、全国民の9割以上が栄養失調になるくらいの状況ですが、実際には戦時中にそのくらいになっているのだけど、戦争末期になってさえ「もう、いい加減にしろ!」という流れには全然なってない。この国には反抗するくらいなら従順に殺されてしまう「羊比率」が高いのかもしれない。

 戦後のGHQにはかなり頭の切れる連中がいたらしく、日本の元凶は、内務省を総本山とした強力な官僚機構+巨大財閥との融合+大地主を取り込んでの農村支配という3ポイントを的確に見抜き、内務省解体+財閥解体+農地解放という的確な手を打っています。しかし、ヒトデのようにバラバラに八つ裂きにされた断片がまた再生し、いつのまにか官僚機構も財閥も農協支配も復活している。ゾンビのような再生力であり、GHQでダメならもう手はない。だから物理的な方法論はありえないだろうなと。よって化学的な方法論によるしかないわけで、それは後で書きます。

 しかしながら、この日本社会は変えにくさこそが、逆説的に日本社会の強さでもあります。強烈な組織再生機能を持っている。何重にも張りめぐされたネットワーク構造がある。ここで一人の人間の人生設計という見地に立てば、そのネットワーク内で認められ、それなりの利権を得たらかなり強いです。なにかでドジを踏むなり、あるいは哀れな生贄としてトカゲの尻尾切りをされない限りは生涯の生活保障を得られる。英語で"Haves"(持つ者)と"Have Nots"(持たざりし者)と言いますが、日本では一回"Haves"に廻ればその利権は終生保障される。これが後で述べる既得権構造になり、既得権の相互保障制度になる。

 かくして物理的変革は無理だということになり、残りはジワジワやっていく化学的方法論です。

 ときに、民主党が全然ダメだったかのごときメディアやネットの論調がありますが、僕なんかはむしろよく頑張った方だと思ってます。あれを変えるのは容易なことではないですもん。いくら権力を得ても、下の人間集団の生活や人生を支配するほどの本当の権力を得ていないから、なにかにつけて造反される。部下から総スカンを食っている上司、生徒にいじめられている教師のようなもので、頼んだことはやってこない、やってきても敢えて間違ったものを出して恥をかかせる、出かけようとしたら靴が隠され、椅子に座れば画鋲が置かれているようなものですわ。

 政権交代が本当に実効性を持ち出すのは10年かかると僕は思ってます。なぜかというと、最初はダメダメでもしぶとく権力の座にいると、これまでの組織(官僚、マスコミ、財界)のなかで反主流派や実権を持たされていない若手達がこの新しい権力と結びつき、旧来の支配層を追い出しにかかると思うからです。各組織内で熾烈な新旧闘争があり、いちおうの新陳代謝が進むのに、まあ、10年でしょう。でも、最初から一気に10年なんて持つわけないから、3年前の政権交代の際のエッセイのときに「出来れば4年、せめて2年」と書きました。2009年9月のエッセイ428ですが、
 
このまま一期4年、出来れば2期8年、それがダメならせめて2年程度は民主党の天下が続いたら、”選ぶ”というフラットな感覚が多少なりとも定着するのではなかろうか。定着して欲しいですね。民主党がしばらく政権を取って、最初はいいけどそのうちどんどん不満が溜まってきて、「やっぱダメじゃん」って話になったとき、今度は自民に返り咲きをさせるというのは、これは心理的にそれほど難しくはないと思います。そして、再び自民にやらせてみたけど、最初は反省して頑張るけどすぐにふんぞり返ってくるから、「もっとダメじゃん」になって、また民主が奪回する、、、本当のことを言えば、ここまでのプロセスが欲しいですね。”どっちになっても不思議ではない”くらいの感じ。どっちがノーマルなのか全然分からないという。そこまでいって欲しいですね。

 その意味でいえば3年3か月は、まあ「上出来」であり、「どっちがノーマルかわからない」って感じになったような気がするだけでも、第一段階は終了かと思います。

 えらい気が長い話のようだけど、「国家百年の計」というくらい、本来的に政治というのは100年単位で発想すべきものでしょう。失われた20年というなら、取り戻すのに20年かかると思うべき。そんな8月31日の夏休みの宿題の追い込みのように、一気にガーッとできるわけがない。それが可能なのは、前述のように敗戦や革命など旧体制の完全破壊があってからであって、規定の手続の範囲内で変わる以上はどうしても時間がかかる。

 ここで、そんなに悠長なことを!って思う人は、逆説的なんだけど、そんなに本気ではないのではないか?とりあえず自分の現状が1ミリでもも良くなればいいなというくらいの感じで、具体的に何をどう変えるか詰めて考えていないのではないか?また「俺の目の黒いうちに」という執念レベルの意欲を持ち合わせていないのではないか?もし真剣に変えようと思うなら、もし真剣にそういった日々の活動をしている人なら、当然そのあたりも真剣に考えると思うのですよね。リアルなタイムスケジュールとして。だから、棚ボタ式に「いい話」がきたら乗るけど、曖昧だったら乗らないという程度ではないか?ということで「最初から変える気がない」「変える気が失せた」というカテゴライズになるのかなと。

 繰り返しになるけど、それを批判しているわけではないです。まあ、それも自然な姿だよなあって、出来るだけ正しく現状認識をしたいだけです。希望的、あるいは悲観的観測に引っ張られて、全てを一色で塗りつぶすようなことだけはしてはいけないと思いますので。

 それに「変わりたいけど、変わりたくない」というのは、日本人に限らず、人間だったら誰でもそうだと思います。その変わると変わらないの微妙なトワイライトゾーンみたいなところで、その時々で微妙に、ときとして他愛なく、心の立ち位置がユラユラ動いていくのが愛すべき人間っちゅーもんでしょう。


 もう一つの要素としては、「本当に変わって良いの?」「どう変わるのかよく分からない」という不安感です。
 これはより積極的に変わりたくないと思ってる人達に似通っているので、以下まとめて書きます。

既得権の問題点

 「変わりたくない」と思う人は、これまでの社会体制でそれなりに地歩と利益を得ている人でしょう。
 変わることによって得られるであろう利益よりも、失う利益の方が大きいと思えば、人は誰でも変わりたくない。

 家賃5万で2LDKに住んでいる人が、家賃6万の1DKに引っ越したいとは普通思わない。しかし、それで劇的に通勤時間が短くなり、かつ離婚後独身にもどったので部屋が2つあっても意味ないと思うなら、1万余計に出しても機動性のいいコンパクトな住居に変わるのもアリでしょう。変わることによって得られる利益の方が大きくなれば、変わりたいと思う。それだけのことです。

 これまでの日本社会の体制で、それなりに利益を得るポジションにいる人々がいます。いわゆる「既得権者」ってことになるのでしょう。ここで確認しておきますが、既得権者だからといって別に悪の権化であるかのように思うべきではないです。一生懸命努力して、正々堂々戦って得た利益なら、貰って当然であり、批判すべきではない。嫉妬と批判は違う。例えば、前回で優勝したチームには一回戦パスのシード権が与えられ、これも一種の既得権だけど、それは非難する必要はないでしょう。

 ただ問題が二つあります。

ずっといっしょ〜流動性の乏しさと代謝の劣化

 一つは異様に流動性が乏しい日本社会の特質からいって、一度既得権を得たら、その得ている時間が度外れて長いという点です。
シード権でも、一回でも優勝したら以後50年間与えられるとなったら明らかにおかしい。シード権というのは、前回優勝するくらいの実力があるチームがわずか1年で最弱化することは普通ありえず、一回戦をやらせてみても時間の無駄でもあり、且つ対戦相手が可哀想(一回戦から決勝レベルの試合をやらされる)という合理的な実質があってこそです。それを50年も100年もシード権を認めるのは実質にそぐわない。誰でもわかる理屈ですが、でもこの50年シード権があるのが日本社会だったりするんですよね。

 学歴のように18歳の時に名門大学に合格したら一生ついて回るという。学閥が強い業界では、その学閥に属してないと同じ業績を上げても同じようなご褒美を貰えない。どうかすると客観的に劣等な者でも、学閥に属しているということで優遇されたりする。このように「負けてるけど勝つ」という逆転現象が起きると、組織内のモチベーションやモラールが腐ってきます。当然内部批判も起きるし、抗争もあるのだけど、そうなるほどに「一致団結して」みたいな感じで派閥が強くなり、むしろ逆効果になったりする。

 公務員のキャリア・ノンキャリシステムだってそうです。どんなに賢くてどんなに優秀でもノンキャリだったら、警察でも警部止まりでしょう(じゃないかな)。でも一種合格という上級職を通れば30代前半でもう署長、警視クラス。まあ、上と下とでやる仕事が違うといったらそれまでで、上は上で省庁内そして省庁間の仲良しクラブの円滑化と抗争をやって省益を守るという「仕事」をするわけで、現場で聞き込みなんて泥臭い仕事は下にやらせておけばいいんだって論理なのでしょう。ほんでも、国民の視点からみた「警察権力の正しいありかた」という点でいえば、そういうこと(宮廷闘争)をやって欲しくて税金払ってるわけではない。

 こういった傾向の何が悪いか?というと、本業がおろそかになる点です。
 政局ばっかやって政治をやらないとか、派閥抗争ばっかやってビジネスやらないとか。派閥抗争に利用するために、不祥事を敢えてリークしたり隠蔽したり、またマスコミも当然つながってるからそれに乗ったり、意図的にシカトしたり。いっときの検察庁のドタバタもそうですよね。

 つまりはマクドナルドに行ったら、カウンターの中で店員同士が喧嘩してたり、店長を追い落とすためにわざと腐ったハンバーガーを客に出してクレームださせたりしてるようなもので、「なんだかなあ」です。

 結果として、その組織は皆に求められている仕事をちゃんとしなくなります。これは困る。やっぱ腐ったハンバーガーは食べたくないですから。それに、そんなことやってるとマトモで優秀な人材から順に見切りをつけて出て行くし、組織改革も進まない。自然と組織は老朽化し、新陳代謝力が落ちる。今の日本の大きな組織は(学閥に限らずいろんなシガラミで)多かれ少なかれこの問題を抱えていると思います。

 ひるがえって、なんでそんな具合になっちゃうの?といえば、やっぱりずーっと同じメンツでやるからでしょう。一旦官僚になったら早期退職して政治家になるか、評論家や学者、企業に行くか選択肢はあるけど、その逆はない。「下野」というコトバがまだあるくらいですから。民間は「野」であり「下」なんだわね。

 この「ずっと同じ」という点がプラマイ両方に働きます。
 プラスでいえば退職後の年金も含めた「終身雇用」であり、日本人のメンタルにググっと訴える「ずっと安心」がある。これは強烈に魅力的。強烈に魅力的だからこそ、何がなんでもこれを守ろうとする。つまりは「保身」意識が芽生える。組織は組織で保身をはかり、組織内部では個々人が保身を計る。これが強烈なマイナスになって、組織本来の機能が劣化し、改革や代謝が進まないという現象になる。

 そういう「保身」コンセプトで日本全国津々浦々が覆われており、その上に皆の生活や人生が乗っかってるから、これは変えにくいですよね。いわゆる自民党的な日本システムでは、族議員といわれる有力代議士が中央の政官界に口出しをして、中央の金庫からごっそり金をにぎって地元に配分し、そこでは地元の忠実な家臣団(地元企業群)が談合その他で分配をするという「ユニークな所得の再配分システム」がある。それが大ボス−中ボス−小ボスの封建的なガチガチな体制を生み、忠誠度で組織人事がはかられるから組織代謝が進まず、また「最小の税金で最大の効果」という国家原理が「最小の労力で最大の報酬を」という地方原理によって上書きされる。それが国家財政を圧迫し、年金に赤信号がともる。またそんなことやってると、強烈な外部環境の変化に機敏に対応できなくなる。

 それを民主党が公共投資の削減!とかやったもんだから、今は日本各地の業者さん達は青息吐息です。彼らを一概に責めるわけもいかないです。彼らだって生きるために必死だし、大好きな故郷で生きていこうと思ったら、そうやって生計を立てるしか選択肢がないという現実もまたあるのですから。

 だからこそ、自民党復権は大歓迎であり、例えばたまたま見つけた新聞記事(岐阜新聞2012年12月27日)では「アベノミクス期待 岐阜経済界、安倍内閣発足を歓迎」になるわけでしょう。抜粋引用すると、「26日に誕生した第2次安倍内閣。金融緩和や公共投資拡大の方針を示すなど、県内の経営者や団体からは歓迎の声が上がる」「建設業界は歓迎している。県建設業協会の松浪親彦専務理事は「本当に待ちに待っていた」と喜ぶ」「民主党政権の間、国の公共工事は3割減り、地方の建設業は危機的状況という。県内の建設業者はピーク時の1998年の870社から585社にまで減少した。」「仕事がない。青色吐息で崖っぷち。建設業は地方の基幹産業で雇用を支えている。業界が疲弊すると地方の雇用も減ってしまう」と訴える」「自民党はインフラ整備などに大型投資する考えを示している。同協会加盟社の総利益は9年連続で減益が続く」という状況なわけですね。

 逆にいえば、一応まがりなりにも公共工事を3割も減らしているのですね。民主党が「あれでもよく頑張った方」というのは、例えばこういうことです。もちろん業界の方々にはお気の毒です。が、冷たいようだが、皆のお金(税金)を無駄遣いしてまで彼らを救う道理はない。そんなお金があるなら、被災者の方とかもっと救われるべき人もいる。また公共工事も全てが無駄というわけもなく(だから7割はやっている)、適正規模にアジャストし、それで経営が苦しくなったら、さらなる地方再生を模索するのがスジでしょう。

 思うに「変える」というのは切ないことです。一部の人達に「悪いけど死んでください」と言うことでもある。涙がチョチョ切れそうな作業だし、それだけに抵抗も強烈でしょう。なんせ生活や人生がかかってるんだから。それでも、今は日本中、いや世界中で、多かれ少なかれ皆さん似たような目に遭っている。ネットやオンライン化で死活問題になっている印刷関係の皆さん、オンラインショッピング増大に反比例して売り上げ不振が続く小売店、大企業の大工場閉鎖に伴い、付近の商店街やマンション経営の破綻、少子化・非婚化による産婦人科、ブライダル産業の不振、あちこちで契約を打ち切られる派遣社員、皆さんしんどい。それを思えば、国に何とかして貰えるだけ、まだしも恵まれている方でしょう。もともとがエブリワンハッピーの解決なんかありっこないのだ。政治といい、「再配分」というのは本質的に「鬼の作業」であるとも言えます。

環境適応の劣化

 自民政権下においては、まがりなりにも日本社会はうまくいっていた。少なくとも既得権ネットワークに属していれば、それも中枢に近いところにいるほど上手くいっていた。それを民主党が壊そうとした。一部では壊したことを批判され、一部では壊し方が不徹底だと批判された。どちらもアリでしょうねえ。

 ほんでも、自民党支配で全てがうまくいくなら、そもそもバブル以降の失われた20年はなく、今頃は初任給60万円の経済成長を続けていなければならない。しかしそうはなっていない。この20年で一般市民の給与は(論者や統計にもよるが)10−20%ほど下がっている。追い打ちをかけるように、年金ヤバイです、だから税金増やしますって話になっている。そんな状況にあるから、いくら温厚な羊の民である日本人も「いい加減にせんかい」と怒りの声を上げた、、のではなかったのだろうか。

 これまで上手くいっていた(?)システムが、なぜか上手く廻らないようになってきた。とりあえず現象面としては、日本国民全員が既得権ネットワークに入れて貰えたのだけど、「全員を船に乗せるのは無理!」になってきた。したがって一部の人々には退船命令が出ます。順番は?公正にくじ引きなんかやるわけなんかなく、そこは自然界普遍の原理=弱肉強食で、弱い者から順に海に突き落とされる。すなわち、中小零細企業、大企業でも傍流の中高年社員、そして若年層です。

 なぜ上手く廻らなくなったのかといえば、かつてのように日本経済が成長しなくなったからです。それは何故か?といえば、バブル崩壊直後は、なあなあで後始末が徹底出来なかったという、日本的組織の致命的な弱点が足を引っ張った。しかしそれ以降は、激変する世界経済環境に対応できなかったという点が大きいでしょう。既得権の座席総数は時代とともに減少しており、それは日本に限らず先進国はどこでもそうです。これまで存在しなかったライバル(新興国群)が、日に日に力を付けてきているのですから、競争が激化し、分け前が減るのは当然の理でしょう。

 したがって先進諸国は、欧米はいうまでもなく、比較的好景気であるオーストラリアでさえ将来の不安は黒い雲のように覆っていますし、次の時代を生き残るために必死になっています。ハッキリいって2000年以降(時期に深い意味も確信もないが)、経済のルール、お金儲けの資本主義ゲームのルールが変わってきているといっていいです。いわゆるグローバリゼーションですが、これは何度も書いたので割愛します。本来なら2000年以降、つまり失われた20年の後半10年は徹底的にグローバル対応すべきであった。しかし真逆のガラパゴス化していった。その挙句、それまで「格下」として絶対的に優越だった筈の韓国企業に家電市場を奪われ、本来ソニーがやるはずたったことを全部アップルに食われてしまった。

 遅まきながらも日本企業は必死に海外展開を模索してます。現場は凄まじいことになっているでしょうし、大企業に限らず中小企業も頑張ってます。HPの「世界と日本の潮流と就職・将来設計」という項目で個々の新聞記事を紹介してますが、徳島県貿易協会の海外市場調査団が中国でもインドでもなく、ベトナムでもタイでもなく、ミャンマーにいってます。いま、ヤンゴンの工業団地では30社がキャンセル待ちです。こうやって今、日本企業の最前線では、頑張ってるところは激しく頑張っているでしょう。しかし海外は厳しく、一朝一夕では上手くいかない。ものすごい「修行」を積んでやっていかないとならない。去年からの反日状況で中国にいる日本人は大変な思いをしているでしょうが、しかし彼らはそういうことを経験しながらタフにしたたかになっていくでしょう。

 ことの詳細はともあれ、ここでは外部環境の変化にいかに適応するかがキモだという点です。
 しかし、適応といっても容易なことではないし、誰もが出来るという気もしない。だから、「いいよね、これまでどおりで」というメンタリティが出てきても不思議ではない。また既得権の中枢にいればいるほど、それで美味しい思いをしていればいるほど、出来れば適応なんかしないで、変わらないで居て欲しいと思うのは当然でしょう。

 そもそも変わったところで良くなるという保証はない。イラク、アフガン、リビアでもそうなってるように、もっと混沌が広がるかもしれない。家が燃えてるからとりあえず避難すべきなんだけど、無一文で外に出てそれからどうなるのか?これまで以上の生活が保障されているのか?といえば、保障されていないです。されてるわけじゃん!です。でもそこにおったら燃えちゃうよ、「座して死を待つ」ような長期老衰になるよってことですが、この危機感が家の中にいるとあんまりピンとこない。火が燃え広がるのも十数年単位で進むから、ますますピンとこない。

 ところでTPPでも外国人排斥でもすぐに出てくるのが、ナショナリズムに名を借りた「ひきこもり願望」「鎖国願望」です。これは日本に限らんけど。出来れば自分達だけでぬくぬくやっていきたい。ワケわからん奴らの中に入っていって苦労するのは沢山だという感情。まあ、わかります。ほんでも、鎖国してうまくやっていけるくらいなら、最初から明治維新なんかせんでもよかったのだ。今も江戸幕府をやってればいいのだ。あるいは天皇を頂点とした律令国家に戻せばいいのだ。実際、リアルに見れば、今とあんまり変わらんって部分(封建的で永続的な人間関係とか)もあるし。

 しかしそういった鎖国、知らんぷり&ひきこもり願望では、無理、無理、絶対無理!という認識が日本の近代化の原点でしょう?逆に外に出て、出て、出まくって活路を見いだし、変わって、変わって、変り抜くことで勝機を掴むというのが基本戦略だった筈で、それは明治初期も、戦後30年の経済成長もそうです。ほんでも鬼のような形相で必死になってた第一世代から第二世代になるとトーンダウンし、夜郎自大(うぬぼれ)になって、負けても負けても尚も古いパターンにしがみつきやがて全滅という。

 もうちょいリアルにいうと、例えば海外市場だあ!でおっとり刀で新興国に乗り込んでいっても、売れない。そもそも売れるものを作らない。日本人には良くても○○人には無駄という機能が多すぎたり。でもって、海外現場からは本社に対して「これでは勝負になりません」と正しい意見具申をするんだけど、本社の茶坊主みたいな連中に握りつぶされる。原発と東電本社みたいなもんです。でも結果として数字が出てこないから、何とかてこ入れを!って話になるのだけど、本社の現場への指示は「不退転の決意で」「死ぬ気で頑張れ」という硫黄島玉砕みたいな愚劣な指示になったりする。なんでそんなに頭が悪いの?といえば、別に頭が悪いのではなく、むしろ良すぎなくらいで、いろんなことを考えてしまう。「このプロジェクトは○○専務じきじきの発案だし」「メンツがあるだろうし」「下手な報告をしたら反対の○○常務派の連中に利用されてしまうし」とか考えちゃうんだろうな。でもって、「キミい、そこらへんはわかるだろう?」「何とかしたまえ」ということで事故の隠蔽とかデーターの改ざんとか。ありがちっしょ。第一線でバリバリやってる現地指揮官は、もう「やってられっか」って感じになり、そこへもってきて外資系からその実力を見込んで年収1億レベルのオファーがあったら、そりゃ渡りに船で乗り換えますわ。

 これがすなわち組織の老朽化であり、新陳代謝劣化の代償である機能不全であり、これでは死に物狂いでバトルロイヤルをやってる世界市場で勝ち抜くのは覚束ないし、事実負けている。

 このような環境適応能力の劣化が、さらなる悪循環を招きます。

 「これまでどおりでいいよね」「問題ないよね」とお互いに同意を求めるカルチャーが醸し出されるから、変革の化学反応はますます遠のく。
 それでも頑張って唱えている人は、だんだんと変人扱いされたり、村八になったりする。

 今回一番、「あれ?」と思うのはココですね。

日本は天下泰平だあという雰囲気作りとその問題点

あれはどうなったの? 

 自民に復権するのはいいとしても、そうなったら当然出てくる疑問があまり出てこない。
 やっぱ改革はやめるの?やめた方がいいの?という根本的な問い掛けがなされるべきなんだけど、不思議なくらいそういう論調にならない。なんで?どうして?普通素朴に疑問になるんじゃないの?

 また、安倍ちゃんの政策も公共投資!という、はっきりいって40年前の自民政策のまんま。そりゃ、岐阜県建築業界の皆さんとか、それで喜ぶ人達はいるでしょう。そのための自民党でもあるんだから、それはそれでスジは通るんだけど、そんなことやってきたから国債残高はうなぎ上りで、だから年金ヤバし!であり、だからこそ新消費税導入なんでしょう?だからこそ、そもそも問題視されていたわけでしょう。世代間格差が広がり、ますます若い人達にツケが廻されるようになり、それが生活不安を招き→非婚化、少子化、国力減退を招き→国内市場の縮小を生むという今日の惨状を招いている、、というのが話の原点じゃなかったのか?これはもういいんですか?「もういい」というのも一つの見解なんだろうけど、それならそれで説明なり、議論があってもしかるべきでしょう。でも無い。絶無ではないけど少ない。

 ちなみに、国債残高が1000兆円あろうが、全部日本国民が引き受けているんだから実質的には借金ゼロだという論調があります。それはそうなんだけど、これって落語の「壺算」みたいな「騙し」じゃないのか?って素朴な疑問があるのです。なんで皆言わないのか(言ってるのかな)不思議なんだけど。

 確かに「借金ゼロ」にはなるのだけど、借金ゼロになるということは、国民の1000兆円の「資産もゼロ」になるということでしょ?貸し借り同額で相殺勘定するだから、右項の借金もゼロになれば左項の資産もゼロになる。つまり、皆さんの虎の子の老後資金もチャラ、銀行や企業の資産もゼロになる。

 もっかい言うと、国が皆に返済しようと思えば、そんなお金は国庫のどこにも無いからまた新たに調達しないとならない。どこから調達するか?といえば結局国民から税収その他で取るしかない。1000兆円を国民に返そうと思ったら、また国民から1000兆円ふんだくってくるしかない。今、国の負債が1000兆円「ある」という前提でやってるわけだけど、一方でも国民や企業は1000兆円の資産が「ある」という前提で日々の会計が廻っている。もしここで借金なんか「同一人だから無いも同じ」というなら、資産だって「無いも同じ」でしょうが。今の日本経済の民間セクターから1000兆円が消えてなくなったら、バブル崩壊の比ではなく、企業も国民の生活もほぼ瞬時に壊滅するでしょう。

 これは「えらいこっちゃ」です。国が破産するよりも自分が破産する方が「えらいこっちゃ」でしょう。でも、どう考えても、借金が「無いも同じ」なら資産だって「無いも同じ」にならなきゃ嘘でしょう。片方だけみて「だから問題ない」というのは、おかしいと思うんですけど。だから「無いも同じ」なんて言ったところで何の問題の解決にもなってないと思うんですけど。

 勿論、そんな分かりやすいカタチで一気に1000兆円のカタを付けるなんて話にはなりませんよ。でも、自分の貸金を返してもらうために又自分でお金を払わないとならないという基本構造は同じでしょう。

 てか、実際にはもっとイヤらしい形になってしまって新たな問題を含むでしょう。世代&所得格差の拡大です。上の議論は国民が一人しかいない場合(or 全員が同額の国債を保有し、同額の納税義務を負う場合)の話ですが、実際には国債(資産)を持っている人と、その国債を返済するための原資(税金などの公租公課)を払わされる人がいる。両者はもちろん重複しうるのだけど、一般的にいえば、資産を持っている富裕層(たぶんに高齢層)の資産を救うために、持っていない低所得者層(たぶんに若年層)からふんだくるという構図になりがち。これまでもそうだったけど、今後一層それはキツくなるという。

 でも、この種の「あれはどうなったの?」という論点がとても多い。

 端的には原発とか放射能禍です。脱原発やら卒原発やらやっていた筈なのに、いつのまにか潮が引くようにメディアから消えている。それどころか「言葉遊び」とすらうそぶかれている。被災地の復興もそう、東電の賠償問題もそう、沖縄の米軍基地もそう、少子化対策もそう、「仕分け」とかいっていた行政の無駄遣いもそう、消費税引き上げももはや規定事項。前政権でワーワーやっていた議論や問題、それも「手ぬるい」「骨抜き」とか不徹底ぶりを叩くように騒いでいた諸問題が、まるで消えてなくなったかのような論調ではなかろうか。

 本来なら総選挙の結果で自民が「圧勝」した途端、「本当にそれで良かったのか?」という議論が全国から澎湃として沸き上がっても不思議ではない筈なのに、そうなってない。もし、メディアにおいて意図的な世論操作のようなことが行われているなら、もしくはいわゆる既得権層がマスコミの協力の下に絵図面を描いたとするなら、それは上手に成功してますよね。始まる前から圧勝と連日報道し、真剣に脱原発とか議論していた勢力についてはあまり報道せず、橋下維新を第三極のように意識を集中させ、石原元知事をして「子泣きじじい」のように抱きつかせることで一気にイメージダウンを図り、若年票を失わせ、自民が圧勝したら(前回よりも純得票数は落ちているけど)、今度は何事もなかったかのように天下泰平の紙面作りをしている、、、ような気がする。


 特に「何事もなかったように」という部分は凄くて、フックもひっかかりもない、「問題意識をかきたてる」ような話が出てこない。「すげえな」と思っちゃいました。北朝鮮かよ?って。

 もっとも、だからといって既得権層といわれている人々がひそかに「悪の結社」をつくって、あれこれ隠謀をしかけているなんて、子供だましの話をしているわけではないのですよ。空気とムードで全てが動く日本社会では、自然とそういうムードになっていったんでしょう。

 実際、大手マスコミだってかなりの既得権者でしょう。TV局の許認可だって全国キー局は数社どまり。電波や周波数の有限性が理由になってたりするんだけど、でもさ、世界中で何十億の携帯電話が電波を飛ばし、地デジになってる現在に、「電波の有限性」ってなんなんだ?って気もします。でも門戸は開かない。そりゃそうでしょう。外資のテレビ局とか参入させたら、桁違いの資本力とか、記者クラブ制度も無視してズケズケと過激な放送をするでしょう。

 より突っこんだ話をすれば、日本社会で一定レベルを越えて「仕事が出来る」「実力者」というのは、どれだけ有力者と知り合いになっているかというコネ力が問題になります。「○○さんに言われたらイヤとは言えませんよ」「ほかならぬ○○君の頼みだ」というノリですね。それが悪いと言ってるんじゃないです。シード権と同じで正当な努力で信頼関係を勝ち取ったら、それはそれで賞賛されるべきです。だけどシード権は1年限りでしょ。合理的実体を失ってまでも存続するのはおかしい。

 でもAという業界で大物がしぶとく居座っていれば、B業界でもC業界でもAつながりの古株がまだまだ居座れる。「全てで全てを支える構造」と書いたのはそういうことです。マスコミの中でもベテラン、中堅、若手で違うでしょう。ベテランには、自民をはじめ旧体制下の知己が多かろうし、それが彼らの「実力」を裏付けていた。しかし時代とともに各界の実力者が霞んでいってもらったら、彼らも困るのでしょう。だから、自民党の復権は一種の象徴であり、自民党的なる利権関係者の復権であり冒頭のフランス革命になぞらえていえば、アンシャン・レジュームってやつです。

 他方では、国民の側も、自然とそういうムードを受け入れる人が相当多数いるのでしょう。端的にアンシャンレジューム側に属している人々も多いでしょうし、そうではなくても、もう騒いだり怒ったりするのに疲れたよ、静かに暮したいよという人達も多いのでしょう。

 なんというか、マスゴミだとか、TVの低劣化がどうのとか言われながらも、オーストラリアのチャンネル9のようにTV局が破綻しているわけでもないし、また何だかんだ文句言いながらも結局テレビ見てる人が結構いるということでしょう。

最大の問題点

 もっとも、そのこと自体はあまり大きな問題だと僕は認識してません。

 なぜかといえば、過去回に何度も書いているように、今は国家レベルで物事が動く時代ではないと思うからです。
 政府=企業=国民という昔ながらの三位一体の経済構造は、どんどん破綻しつつある。実際、リーマンショックまで日本企業は空前の利益をあげているけど皆の給料は下がり、生活は苦しくなっている。企業の儲けが国民に下りてこない。企業の儲け→個人の所得増→内需拡大にならないし、国の経済=大企業の経営という等式も成り立たなくなっている。だから景気対策→企業援助をしたところで、個々人には大した恩恵はなく、景気対策そのものが意味不明化しつつある。

 その意味で言えばいくら大企業が儲かっても国民に下りてこないんだから円安誘導なんか止めたらいいし、円高が諸悪の根源みたいなクソ古い経済論は止めたらいいのにって思います。円安になったところで海外流出の傾向は止まらないし(国内市場の縮小が根本原因なんだし)、円安になったら原油など輸入品が割高になるから、結局全ての価格があがる。それがインフレになっていいって言うんだろうけど、賃金増えないインフレなんかただの地獄でしょうが。要するに強い者を助けても弱い者は救われないし、且つ強い者しか助ける気がないってことなのかしら。

 景気対策というのは、天下の廻りものであるお金を使って、ガンガン廻すことでしょう。国のお金を上げるなら、一番満遍なく使いきってくれるところに上げた方がいい。上げたそばから貯め込まれたら消費は増えず、廻らない。大企業にお金を上げても(補助金とか税制優遇とか)、その分、内部留保として貯め込んだり、あるいは海外進出のために海外の不動産を購入したり、現地の準備金に消えたり、要するに税金を世界各地にバラ撒いているようなものではないか。そんなことに使うくらいなら、35歳以下の連中に一律100万円配ったらいいです。彼らは相対的に所得が低いから、100万配れば100万使い切る。だからお金がブーメランのように返ってくるから有効でしょう。いい加減、景気=大企業という古い発想は捨てたらいいのにって思うのですけど。


 しかし、いずれにせよこんな話は一国の内部の話に過ぎない。
 日本国内部でなにがどうなろうが、世界の潮流や荒波そのものは変わらない。嵐に遭うのも、渦に巻き込まれるリスクも何ら変わらない。本質的な原因が外部にあるのだから、内部で何がどうなろうが本質的には変わらない。運動会の天候が危ぶまれる中、実行委員のメンツを変えようが何をしようが、明日が晴れてくれるわけではない。

 そして、今の世界を動かしているのは、ますますプレーヤーが増え、ますます先鋭化し、同時に不毛化しつつある資本主義の怒濤のような流れと、それを超克して新しいシステムを作ろうという流れでしょう。特に個々人においては後者。「これさえやっておけば一生安心」というゴールドスタンダードが無くなりかかっている今、「じゃあ、どうやって生きていくの?」であり、それはスタンダードに乗って生きるよりも数倍難易度が高いです。でも、マジな話、そうしていく以外無いだろうなって思うのですね。日本だけではなく、今は世界中の人々が真剣にそれを考えて、それぞれに実行に移しているのだから。

 だから、個々人のレベルでは、選挙結果がどうであろうが、今どうなっているか?という状況認識や、何がおかしいのかという問題意識はビンビンに研ぎ澄ませておくべきでしょう。その必要性は一向に下がらないどころか、むしろ日に日に増大しているといっていい。

 もっと言えば、一過性の政局なんぞどうでもよく、一過性の景気ですらどうでもよく、例えば、明日クビや倒産になったらどうするか、預貯金がパーになったらどうするか、家族が倒れたらどうするか、保険会社が潰れたらどうするか、そしてこのまま何のドラマも無いまま一生が終っちゃったらどうするか?

 あるいは、例えば7割の確率で首都直下地震が「いつか」起きるとするなら、それが起きても生き残れるような準備です。それは防災準備に尽きるものでは当然なく、東京が廃都になる可能性も含めて、じゃあどこに引っ越してどうやって生計を立てて住むか?そうなったときにどういうビジネスをすれば儲かるか、です。地震の国に生まれ育った地震の子は、地震の一つや二つで人生観が変わってはならない。起きる前に心の準備と物質的な対処しておかねばならない。生じる可能性のあることは全部「ある」という仮定をし、出来る限り対処する。その備えが進むほどに、何がどうなっても自分は対処できるという自信がつけばつくほどに、逆にフリーハンドの自由も得られる。

 そりゃ確かに答を見つけにくいし、考えるほどに迷宮に入るし、テンション張り詰めているのも疲れてくるし、気分も暗くなるしで大変ですわね。でも、だからといって「無かったこと」には出来ないでしょう。ダチョウが砂にクビを突っこんで「逃げたつもり」になるオストリッチ症候群ですね。いや、ま、個人の生き方だからそれは好きずきなんだけど、主観的に無かったことにしたところで客観的に消えて無くなるわけではない。遅かれ早かれだったら早いほうがいい。

 これって虫歯に似てます。痛くなるまえに検診を受けて早めに処理すればいいんだけど、ほっとく。痛くなってからも「ガマンする」という無駄に最悪の方法をとる。しかし、ガマンしてると、痛みなんか周期性だから、ときとして痛みが薄らぐこともある。そこで「もういいよね」と思ってしまう。いや思いたい。でもって、しばらくしたら、もっと激しい痛みが襲ってくる。その頃にはもう手遅れです。

 豊富に既得権をもっている人達は、無かったことにしても何とかなりそうだし、むしろ無かったことにした方がより上手くいくでしょうから、そうしていれば良いでしょう。でも、そんなに上手く行くわけがない人が、彼らの「何事もなかったようなノリ」についつい乗ってしまって、「もう、いいんじゃない?別に?」って思っちゃうのは問題でしょう。「最大の問題点」というのはコレだと思います。意識がボケることです。

 思うに、人の能力の差とか人生の差とかいうのは、こういうときに「もういっか」と思うか、「冗談じゃない、問題は何も解決してないぞ」と思うかで分れるんだと思います。すなわち平時にどれだけの緊張感や問題意識を持てるか?です。皆が騒いでいるときに一緒になってギラギラするのは、これは簡単なんですよね。でも、皆が平和〜ってやってるときに、「いや、ヤバいんじゃない?」って思うかどうか。3月11日に大地震がありましたが、その前日=3月10日の時点にどの程度の問題意識を持っていたかが、肝心カナメの部分だろうと思います。


文責:田村



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