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今週の1枚(04.09.20)
ESSAY 174/a them and us mentality /「あいつら」症候群
写真は、ManlyのNorth Head から撮った夕焼け空。ブッシュの感じがオーストラリアですね。ある意味、オーストラリアではもっともありふれた風景ともいえます。
日垣隆氏の「偽善系/正義の味方に御用心」(文春文庫)という本を入手して今読んでいるところです。著書はその昔週刊エコノミストの巻頭コラムを書いていた人で、僕も楽しみにして読んでいました。巻頭コラム(「敢闘言」というタイトル)を読む限り、よく調査もされ、一隅を照らしかつ全体を考えるという良い評論だった記憶があります。が、しかし、僕の記憶が間違っていたのか、今回、彼の著書「偽善系」は読んでいて段々苦痛になってきました。
なんかヘンなんですね。確かに調べるべきところはよく調べているし、統計数値などもよく紹介されているし、視点も鋭い。論旨も明快だし、主張もわかるし、部分的には同感のところも多いです。長野オリンピックの招致疑惑についての論説などは、かなり優秀な仕事だと素直に思います。しかし、ヘンなんです。なんか違和感があり、読んでいて「そりゃないだろ」って飛躍が散見されるし、すごく良く調べているところと、乱暴な(と僕には思える)決め付けをしている部分がごちゃ混ぜになっていて、一言でいってバランスがあまり良いとは思えない。
この人の有名な著書には、「『買ってはいけない』は嘘である」があります。かなり話題になったので知ってる人、読んだことがある人もおられるでしょう。僕は読んだことはないのですが、おそらくその本の本旨と思われる部分は、今読んでいる「偽善系」にも出てくるので大体のところはわかります。所論は要するに、「買ってはいけない」的な主張、つまりコレは危ない、アレは危険だ、コレは嘘だと警鐘を鳴らすのはいいけど、行きすぎじゃないかと。なんだか警鐘のための警鐘みたいになって、警鐘を鳴らすことが自己目的化しているかのように、ときとして針小棒大な、ひどいときには事実無根のデーターを繰り出して、いたずらに人々を怖がらせるような狼少年に堕する危険があるのではないかってことだと思います。
その大意は正しいと思うし、僕もそう思います。やたらめったら安全だとか、危険だとか大騒ぎしがちな日本の風潮を、僕自身あまり快く思っていないし、ナーバスになるにも限度があろうと思います。その限りには僕も賛成なのだけど、言い方ってもんがあるでしょうとも思うのですね。「意図的な嘘に基づく恫喝が標本箱のごとく並ぶ」とかさ、「危険を煽り、消費者を脅かすことだけで全編が成り立っている」とかさ。ただ、その気持ちもわかりますよ。「買ってはいけない」の元ネタというか先祖のような「うそつき食品」(そういう名前の本があるそうです)に「やがて日本の社会は奇形児で充満し、破滅への道をまっしぐらに進むことになりかねない」とか大げさに書かれたら、対抗上同じくらいのパワーで反論したくなるって気持ちはわかる。しかし、それをやってはいけないのだと僕は思う。なぜなら、ただの醜悪な口喧嘩に堕さしめ、せっかくの正しい指摘の部分も、そうなったらミソもクソも一緒になって汚れてしまうからです。
「買ってはいけない」的な主張や風潮に、ある種苦々しいオーバーランがあったとしても、イチから十までまるで無意味、無意義ってことはないはずです。商品や食料品に対して、消費者としてシリアスな批判の目を持て、何でもほいほい鵜呑みにして買ってたらアカンよという主張は正論だと思うし、消費者保護のシステムがいまいち弱い日本社会において、こういった警鐘は鳴らされてしかるべきだし、鳴らしたことはエラいと思います。ただ、なんでもかんでも「企業をみたら悪党と思え」といわんばかりの論調や、結論の整合性のために牽強付会のデーター選びなどをしてたりしたら、それはオーバーランであります。だから批判としてはそのオーバーラン部分に限定すれば良いのに、また積極的に評価できるところはすればいいのに、それはやらないで、ひたすら「こいつら狂信者の群れだ」みたいに全人的否定に及んでしまっては、批判それ自体の価値も共倒れになってしまいます。
この「偽善系」という本に、日本の司法制度についての痛烈な批判があります。これは自分の専門だからよく理解できるし、「そのとおり」と思う部分も多いです。しかしね、これだけ取材して、これだけ勉強して、結論がこれかい?生み出した世界観がそんなレベルなの?って脱力感も覚えるのも事実です。日本の司法、特に刑事司法の分野では(って、この著者は、刑事以外の民事司法などについては一切触れてない)、一般社会人の常識的感覚も持ち合わせていない、一個の人間としての成熟性ではかなり問題がありそうな、司法試験オタクの成れの果ての法曹関係が、浮世離れして独り善がりな法理論を振り回して、自分達だけに通じる閉鎖的なケッタイな通念で法の現場を切り回しているという批判は、これはこれで分かりますよ。そういう部分は確かにあると思う。
でもそれってマンガですよ。マンガのような幼稚な人間像でしかない。生身の人間の血の通った生活実感、人間を人間として正しい認識し、尊ぶことが出来る健全な感覚の必要性を著者は訴えておられるように思うのですが、こと彼からみて敵対的な存在である法曹関係者については、彼自身が「人間を人間として認識」できてないです。いったいこの人は法曹関係者に知り合いがいないのかしらん?実際に弁護士や検事や裁判官がどういう日常を送り、どういう事件処理をし、どういう具合にやっているのか、見たことがないのかしらん?実際、生身の法曹関係者が出てくることは皆無に等しく、判決文や書物の引用でしかない。
唯一身近に接触している部分といえば、判決を読み上げた裁判官が昼食を取るために出てくるのを待ち伏せし、あとをつけて、食事をしてるのを観察しているくだりだけです。「その男は食事中ごはんを三度下にこぼし、拾わなかった。食後のコーヒーを注文するとき、ただ女性店員に向かって「コーヒー!」とだけいった」(同書、文春文庫版、129ページ)。
だから、なんなの?
この著書でも書いているように、自身裁判官に知り合いは一人もいないそうです。いなかったら見つければいいじゃん。ジャーナリストでしょ。他の個所では、他人の著作を「全然自分で取材をしないで書いている」と批判しているのだから、これだけ裁判制度に興味があり、何度も足を運んで法廷傍聴をし、法曹関係者の人間性に問題があると問題提起をしていながら、他人の後をつけてランチを食べるのをじっと見てて、「三度ごはんを下にこぼし」だけですか?(回数を数えてたんでしょうね)。それって何なのよ。実際、この文章のあとに何ら結論らしきものもなく、しれっと次のパラグラフにいくのですが、こういった論述を挿入する意味ってなんなのですか。ランチでゴハンを三度こぼすくらい僕だってやってるし、珍しくないでしょ。食後に「コーヒー」って注文することがなにかを意味しているのか?法廷では威厳をとりつくろって、権力を振り回している裁判官も、その実態は、普通の冴えないオッサンでしかないのだってほのめかしたいわけでしょうか。でも、そんなの当たり前じゃん。別に誰も裁判官が実は火星人や地底人だとは思ってないですよ。
このあたりが、かなり「とほほ」なんです。問題意識は結構いいセンいってるのだけに、「ごはんを三度こぼした」とかいうレベルで燃え尽きてしまっては困るわけです。裁判官も、弁護士も、皆さんおんなじ人の子です。別に普通ですよ。そりゃなにか勘違いして思い上がってる馬鹿もいるとは思いますけど、おおむね普通です。これは、かつてその世界にいて、今は全然関係ない世界にいる僕が一番証言しやすいと思います。どっちも身をもって体験してますからね。僕自身、自分が弁護士だったときは、裸の王様というか、なんか自分がエリート的なカン違いをしてるんじゃないかとか、人間として本質的に視野狭窄になったり、腐っていくんじゃないのかって思いました。そういう危機感はありました。でも、今だから言えるけど、そう思うこと自体が自意識過剰でしたね。弁護士業務から離れて10年。幾らなんでも10年も経てば頭も冷えるでしょうが、今の自分からみて、あの頃の自分や同僚先輩が、そんなに偏った人々だったわけではない。それどころか、広く世間を見渡せば、まあ健全といって良いくらいの常識的な、また人間味もある人々です。だからそんなにヘンだったわけじゃなかったのねって思います。
この本にも出てくるのですが、著者の大学時代の司法試験受験生が、まるで受験ロボットのようにマンガ的に書かれていますが、これも偏ってるなあって思います。前にも書いたけど、司法研修所で僕の親しい友達になった連中は、一人は六本木で飲み歩きながらA級ライセンスも持っていてサーキットを走ってたし、他の奴はゲームセンターの帝王で「中坊なんかに負けるかよ」っていってはゲーセンに行ってはハイスコアを軽く決めてたし、ちょっと年上の温厚そうな人は、一見マトモに見えつつもカラオケの鬼で大阪府のカラオケ大会で優勝してたり、他にもスカイダイビングのインストラクターやってたやつとか、面白い奴らがうようよいました。地道に裁判所書記官を勤めて司法試験に受かってきた人、理系のサラリーマン、営業のサラリーマンから転進してやってきた人もいました。だから人間味には事欠かなかったですよ。そんなロボットみたいな奴はおらんかった。でも、それは僕が同類のロボットだから、ロボットをみても同じように人間味を感じるだけだと言われるかもしれませんよね。だったらどうでしょうか、今僕が毎週書いてるこの駄文、人間味ないっすか?ロボットが書いてるみたいですか?
この著者に言いたいのですが、現場の担当者はですね、それが現場であり、そしてほかならぬ自分自身が逃げ場のない担当者であるということから、やっぱり悩んでますよ。それこそ血反吐はくくらい悩むことはあります。僕だって、夜中に事務所にこもってて準備書面を書いていて、恥ずかしながら落涙したことも一再ならずあります。生身の人間の、生の人生をお預かりするわけですから、ハンパじゃないのよ。裁判官だって、いざ死刑判決を書くときは、形は違うけど人を殺すことになるわけだから、相当のプレッシャーがあります。「いつかは俺は人殺しになる」というのは、裁判官になったその日からひそかに覚悟していることだといいます。僕も裁判官になったらそう思うでしょう。いつかはその日が来る、と。そんなにロボットみたいにやってないですよ。そんなにヘラヘラやってないですよ。ゴハンはこぼすと思うけど。僕だったらお行儀が悪いから、もっとこぼすと思うけど。
この著者は、これだけ努力して勉強され、本も読みこなし、いろいろ取材をされているのに、どうしてもっと深く切り込んでこないのか?って、そこが僕としては不満というか、不思議なところです。なんでそんなレベルで終わってしまうのか。でも、これってこの人だけの問題ではなく、構造的な問題なのかもしれない。
この本の「さらが二〇世紀の迷著たち」という章などは、長野オリンピック問題や文部省などについて十分に練った論説を展開しているのと同じ人間が書いたのか?と疑うような質のものになってます。もう批判のための批判、悪口のための悪口に堕してしまっていて、読んでてかなり不愉快です。一例をあげると、例えば教科書裁判で有名な家永三郎氏の「検定不合格日本史」をクソミソにけなすくだりですが、引用してみます。
「(同書は)家永氏が高校に本旨の教科書を一人で執筆するという、よく言えば野心の発露だが、氏の実力からして到底無謀な試みであり、実際、明らかに失敗作だった。
『井原西鶴がその第一人者で、鋭い観察力を持って現実を見つめ、町人の享楽的生活や、利を求めるに敏な才覚、苦しいやりくりの生活などを軽妙な筆で巧みに写している。「好色一代女」や「日本永代蔵」「世間胸算用」などがその代表作である』
本当に氏は西鶴を読んでいるのか?あのエロ小説を。まさか「西鶴の才覚」などと、冗談を言いたかっただけではあるまい。ともかくこのように家永本は、無味乾燥な記述が延々続き、これでもかこれでもかと高校生にひたすらの記述暗記を強いるひどく退屈な教科書である。」
と書いているのですが、これがさっぱり説得力が無いです。まず、この教科書の抜粋部分。これって僕らが読まされてきた歴史の教科書からして著しく劣るものでしょうか?検定不合格になっても当然のものでしょうか?そもそもあの長大で情報量の多い日本史を、わずか一冊にまとめようというのがしんどい話で、文部省の指導要領に沿って必要事項をブチこんでいけば、誰が書いても羅列的なものになるでしょうし、現になってます。「ひたすらの記述暗記を強いる」というけど、そうでない検定合格教科書があったら示して欲しい。対比して説明して欲しいです。ところで「記述暗記」ってなんですか?「暗記を強いる」なら分かるけど、「記述暗記を強いる」ってどういう内容なんだろう。記述を強いるの?なにそれ?それに「強いる」のは教室にいる教師や試験問題であって、教科書ではない。このあたりになると日本語としても意味不明です。「ひたすらの暗記を強いるかのような記述」と言いたかったのかしら。
ともあれ、日垣氏は、このくだりをもって、家永氏の実力は教科書を執筆するなど「到底無謀な試み」だと決め付けて、そのための例証として挙げているのだけど、証拠として全然機能してないじゃん。「ちゃんと書けてるじゃん」って僕は思いますよ。なにがダメなのかもっと言って欲しいもんです。西鶴をエロ小説と決め付けているくらいだから(この決め付け自体あまり説得力があるのものではないが)、西鶴を取り上げること自体がアウトなのでしょうか?でも普通の教科書には取り上げているし、ある程度の教養のある日本人だったら西鶴くらい知っておけって思うでしょ。読むかどうかはともかく、西鶴についての世間的な評価くらいは。いったい何を難詰しているのかよく分からんし、例証を挙げても思いっきり空振りしてるから、家永氏に対するただの悪口・罵倒にしか読めないのです(批判というレベルにも達していない)。その挙句、「わかりましたか、家永さん。あなたは時流におもねるただの野心家であり、歴史学官僚のホープたる自分の主張に後輩の文部官僚が敬意を表さず突っ返してきたことが許せなかっただけだ」とまで書いています。納得のいく根拠を示さず、ここまで他人の人格攻撃をする人間を好きになれというのは難しいけど、その論述に納得しろというのはもっと難しい。
すごく納得のいく素晴らしい仕事もされているのに、どうしてこんなに仕事にムラがあるのでしょう。ムラがあるにもほどがあると思うのですが。これが結局、良い仕事にも悪影響を与えて、「この人が書いてることだから、多少割り引いて読まなきゃな」という気分になってしまう。
さて、ここからが本論です。
この本を読んでいて思ったのは、なんでこうして物事を敵味方に分けてしまうのかな?と。これは、この著者だけのことではなく、多くの評論をみてそう思います。味方的な要素については、よく取材し、生身の人間のぬくもりが感じられるような良い文章を書き、よい仕事をされているのに、敵方についてはこうも浅い取材と浅い認識でロボット的に書くのかな、と。この日垣氏などは、それでもまだ良心的な方で、もっと敵味方二元論にしちゃっている論説は数限りなくあります。僕は、そういう二元論が出てきた時点で、「あ、もう、いいや」って思ってしまいます。
先日、現地シドニーの新聞の投書欄を読んでて、「そうだよな」と思ったのは、"them and us mentality" になってしまって不毛だという指摘です。具体的には、来る10月9日にオーストラリアの総選挙があるわけですが、選挙公約として野党党首のマーク・レイサム氏が、リッチな私立学校にあまりに公的補助がなされすぎているので、もっと公費配分を適正にすると言ったことに関連してのものです。普通の公立学校の2倍以上の公費を、もともとお金持ちの子弟が集まりそれほど困窮してるわけでもない有名私立学校に優先的に配分するのはおかしいという点ことですね。それはそれで分かる主張なのですが、これに対して読者から投稿があったわけです。
そこに、”Mark Latham's attack on the private school sector can only mean one thing, a them and us mentality."という投書が出てくるわけです。これは鋭いな、と思いました。a them and us mentality というのは、「彼我意識」とか「彼我的構造認識」とでも訳すべきでしょうが、それじゃピンとこないので、僕は「あいつら」症候群とでも命名したいです。「あいつらは金持ち連中で、俺らは普通の庶民さ」とばかりに、ある社会の人々をグルーピングして、「あいつら」と一括りにして物事を論じたり、判断したりしがちな心理傾向だと思います。「あいつら金持ちの癖に税金たくさん貰いやがってズルイじゃないか」「補助を減らしてもあいつらは金持ちだからいいのさ」ということで、彼らvs我々という敵対的で不毛な二元構造を生み出してしまう。このように、やたら社会を二つに分けるような物の言い方や考え方は正しくないよ、それは無用な敵愾心をあおるだけであり、そこで思考停止になり、「皆がより良くなるための方法を皆で一緒に考えよう」という建設的な態度をスポイルするものだと。首相候補ともあろうものが、そういうことをしてはいけない、そういう不毛なメンタリティを植え付けるような政策はよろしくないという批判だと思います。
なお投書欄には、他に「高額所得者が沢山補助を受けるのはおかしいというけど、高額所得者はそれだけ高額な納税をしているのだから決して不公平なわけではない」という指摘もあり、またそれに対しては「私は、子供もなく、シングルで、働いていて、一人暮らしをしていて、税制上の特典や優遇措置や補助金の類は一切貰っていない。だから払った税金分のメリットは殆ど無いにも等しい。それでも私は税金を払うし、それは不公平だとは思わない。なぜなら税制というのは所得の再分配であり、皆から集めたお金をより必要とする人に再分配するものだからだ」「私は子供を補助金のカットされる有名私立に通わせているが、その補助金をカットしてその分多くの公立学校を充実させるというなら、それもまた良いと思っている。なぜなら、貧富の格差を少なくし、平和で住みやすい社会になることこそが、私の子供が将来受けるもっとも大きなベネフィットになるからだ」など、かなりしっかりした議論が戦わされています。
議論や論説というのは、こういうもんじゃないのでしょうか。このくらいのレベルで、「うーむ、なるほど」と腕を組んで考えこまされるくらいの水準に達してなければ、議論とか論説とか呼んではいけないと思うのです。はっきりいって、上記の論説はこのレベルにきていないです。また、このレベル以下の論説や本が多すぎるように思います。子供の喧嘩じゃないんだし、選挙戦やってるんじゃないんだから、罵倒合戦みたいなことやってても意味ないでしょう。もっと大人のレベルの話をしましょう。
そして、ここに出てくる、them and us mentality =あいつら症候群こそが、この日垣氏の著作のあちこちに散見されるわけです。緻密な取材をし、組み立てをしていても、結局は、「あいつらはこんなに能無しだ」「こんなに馬鹿だ」「こんなに悪い」という、いわば犯人探しをして、それで終わりかねない。まあ、そればっかりってのは言い過ぎかもしれませんが、読むたびにイチイチ不愉快なので、自分の印象としては「そればっかり」ってことになってしまいますが、でもねー、ちょっと何とかならんのか?って思ってしまいます。
正直に言わせてもらいますが、こういう構造で文章を書いている以上、どこまでいってもジャーナリズムとしては、あるいは一般的な立論としては、僕としては納得できないです。「悩み」がなさ過ぎるんです。だからリアリティもない。つまりは真実を正しく伝えてないし、真実をより歪み少なく正確に理解していくための視点を提供していない。少なくともそういう印象を僕は受けてしまう。
これはもうジャーナリストの職業病なのか、それとも文章を商品として売って生計を立てざるをえないからそうなっていくのか。僕には、ここの立論の是々非々よりも、「なぜ、こうなってしまうのか?」という点の方がずっと興味深いし、考える価値がある問題だと思います。
僕の乏しい経験でいえば、そして年を追うごとに実感するのは、「そんなに簡単に割り切れることなどこの世に一つも無い」ということです。若いときは敵が一杯いました。「あいつら」が悪い、「あいつら」さえ居なければ、「あいつら」が馬鹿だからだって。で、その「あいつら」に属する人達と個人的に知り合いになったりしたり、ある出来事をつぶさに見たりする経験が増えるにしたがって、いかに偏見で人を見ていたかというのを思い知らされます。「そんなに人間が簡単にできてるわきゃないわな、そりゃそうだ」って。でも、僕のこの感覚というのは、あんまり共有されてないのでしょうか。日本の評論に接するたびにそう思わされることが多いです。
日垣氏の著作に戻りますが、これを書きながら最後まで読破しました。最後のあとがきのところで、いみじくもこう書いておられました。
「私は、教育や法律や行政やメディアや科学その他の専門家たちが、いつの間にか横暴かつ視野狭窄になり、生身の人間が見えなくなってきていることを、本書で指摘した。狭い専門ナワバリ(縄張り)ズムに拘泥してしまうと、独善性と既得権確保のために、一方で威圧的になり、他方で自己防衛的になる。
簡単にいえば、「やつら」は、偉いと見なされているものや組織に媚び、生身の人々を無視する。」
なあんだ、本人自ら「やつら」と書いてくれていますわ。この人、話が早いです。
でも、この一般論には僕も同意します。傾向や弊害としては、まさにそのとおりだとも思う。そう思うからこそ、もっと視野を広げねばと思って弁護士辞めてまでオーストラリアにきたわけです。しかし、「生身の人間が見えなくなっている」のは、この著者も等しく同罪だと思います。理由は上に述べたとおり。裁判官のあとをつけてランチを食べるのをストーキングするのが(こればっかで恐縮ですけど)、「生身の人間が見える」ことなのでしょうか。
専門職、権威職にあるものが、とかくカン違いしがちであり、それが大きな災厄を生むこと、これは別に著者に指摘されなくなって分かります。っていうか、社会に出て働いている日本人だったら誰でも普通に知ってると思いますよ。だから問題はその次のステップなんですよ。どうしてそうなるのか?どうしたらいいか?です。そこを考え、実現可能な方策を立てることが大事なことだと思うのです。
どうしてそうなるのか?その一つの原因というかパターンとして、「あいつら症候群」があるんじゃないかというのが今回のエッセイのテーマです。
どうも評論世界にはなにか職業病でもあるのでしょうか。
評論のテーマというのは、多くの場合抽象的な、政策問題だったりします。教育制度をどうすればいいかとか、税制をどうするかとか、「どうしたらいいか論」であったはずです。だってこれは皆のことですからね。学校のサークルでの「今度のコンパの会場をどこにすればいいか?」「新年度の予算で何を買うべきか?」にはじまって、「どうしたらいいか」という問題を皆で議論しあうわけで、議論が積み重なるにつれ、良い考えも浮かぶし、より緻密になっていくのでしょう。だから、公器ともいうべきマスメディアの紙上で皆が意見を言い、専門的に調査し考えている評論家や文筆業という人々が存在する理由も、尊敬される理由もあると思うのです。
でも、現状分析やシステムなどの制度改革などの客観的抽象的なテーマが、どんどん個人的な非難という「人の問題」に擦り替わっていく。「あいつらが悪い」という形で。それは確かに、局限された個別的な問題において、元凶になってる個人がおり、その個人を除去することが問題の解決につながるというわかりやすい場合もあるでしょう。その限りで個人的な非難が行われることはあろうし、それは正当だとも思いますが、なぜかといえばそれは問題の解決に直結してるからです。
しかし、そうではない、ただの「あいつら非難」で終わっているものが、日本の評論の半分以上、どうかしたら7割くらいを占めているかもしれません。人を攻撃したって意味ないじゃん。攻撃するから反撃され、泥仕合になり、遺恨が残り、殆ど公開での喧嘩になってしまうという。お金払ってまで、他人の喧嘩を見物したり、「こんなにあいつはヒドイんですよー」という訴えを聞くほどこっちもヒマじゃないですよ。
例えば、原発問題を例にとってみます。
原発問題も悩みに満ちています。ひとたび異常事態が発生したら原発の被害は大きなものがあります。だから禁止しましょうというのは分かる。だけど代替エネルギーはどうするのよ?って問題は、これはキッチリ解決しなきゃ一歩も先に進めない。一番クリーンで実用性があるのは水力発電だけど、これも脱ダム化でしょ?火力発電は、石油に頼るから、イラク戦争ほか中東でなんかあるたびに右往左往することなるし、いつまで資源が持つか心元ないでしょ?向こう1000年やっていけることもない。「とりあえず今なんとなるから」というのは無責任でしょ。じゃあ皆で節電しますかというと、してないでしょう?日本人は、オーストラリアのステイ先で電気をつけっぱなしにして怒られるのが定番のようになっていることから分かるように、そんなに節電してない。前々回の照明の話のように日本人の目にも明るすぎるくらい照明をつけるし、クーラーの使用量はあがっているでしょう。だったらやっぱり原発でしょうとなりますが、事故防止についてどれだけやっているのか、事故があったときどうなるか等について、当局が非常に積極的に情報公開をし、きわめて透明に運営されている、とも言いがたいです。安全安全とかいっても、この世に絶対安全、絶対ノーミスなんてことはありえない。だからいつかは何かが起こると思ってたほうがいいでしょう。そうこう考えていると、本当に「解決策なし!」なんですよね。そこに悩みがある。
僕が読みたいのは、これら悩みに誠実に向かい合って、ギリギリまで詰めて考えている意見であり、情報です。思うに、原発は賛成/反対の問題ではなく、どこまで安全にできるか、どうしたらいいか論だと思います。そして、100%の安全が無理だということになった時点で、価値判断が出てくるのでしょう。火力発電だって爆発するかもしれないし、ダムだって決壊するかもしれない。車に乗れば事故があり、地震も、水害もある。ギリギリまで安全値を高めても、それでもいつかは事故がおきるでしょう。どんなに完璧に建設して運営してても、史上最強という未曾有の大地震の直撃を受けたらヤバいでしょう。自然のエネルギーは桁違いですから、巨大な地割れが起きて原発ごと飲み込んだり、途方も無い津波に襲われて原発ごと海に持っていかれたり、大噴火の火山弾の直撃を受けたり、、、大体日本列島を楽勝に浮かせたり沈ませたりするくらいの力を自然は持ってるわけですから、そこまで考えて絶対大丈夫なんてことはありえないと思うのですね。そして、いずれはなんらかの事故があるとして、それは止むを得ないと思うかどうかです。そこまで詰めて考えていないと思いますけど、今の日本人の大雑把な平均的意見(というほど言語化されてないだろうから、漠然とした感覚)は、やっぱり「止むを得ない」と思ってるんじゃないかしら。
ところが、話は往々にして、「原発反対論者はこんなに狂信的だ、ほとんど宗教だ、全然建設的でない」という人間問題に逸れていき、「原発推進論者は情報をひた隠しにする不誠実な嘘つき集団で、あいつらの言うことを聞いていけない」という人間問題にすり変わっていく。そういう傾向ってありませんか?
これは原発に限らず殆ど全ての問題を網羅しているといっても過言ではないです。
なにかといえば、「戦後民主主義を錦の御旗のように振り回してきた”あいつら”が日本をダメにした」とか言われますし、医療問題になれば医者というのは白い巨塔にこもった保身に汲々としている連中であり、官僚はすべて人でなしみたいに言われ、最近の親は全て馬鹿で、教師は一貫して馬鹿で、政治家は悪いことばっかりやって、大企業はアコギな連中で、若い人は平和ボケして礼儀も知らない低脳で、おやじ連中は古い価値観から抜け出せないままメールも打てない粗大ゴミで、、、もう勘定していけば日本人一人残らず全員有罪ですよね。すごいですね、日本。悪魔の巣窟じゃん。こういった一刀両断的な決め付けが一番なされていないのは、皮肉なことに暴力団関係者かもしれない。「ヤクザといっても、実は義理堅いところもあって」とか言ったりするもんね。
でも、そんな悪魔の集団なんてことないですよ。多少の例外はありながらも、多くの人は普通の人ですよ。立場上冷淡な態度を取らざるを得ないときもあろうし、職業的に「憎まれてなんぼ」ということもあろうし、専門に没頭すれば多少は浮世離れはしますよ。だけど、直接友達になって話をしてみれば、以外に話せる奴だったりするでしょ?そりゃいくらつきあってもイヤな奴はいるけど、その職業や立場や考え方をしている人が全部同じってことはないですよ。
「あいつら」なんて、基本的には居ないと思った方がいいと思いますよ。こういう「あいつら」的発想でいくと、ほんとエスカレートしますからね。世界は一握りのユダヤ人の陰謀で成り立っているとかさ、戦争のようにイギリス人とアメリカ人は全員鬼畜!とかなるし。
そもそも何のために何の話をしていたのでしょうか?問題を解決するためでしょ。システムを改善するためでしょ。その方法論について意見や価値観が対立したって、対立するのが当たり前だし、対立するからこそ議論の価値があるのに、対立した時点で「あいつら!」ってやってて、その度に脱線して、人間間憎悪に走ってたら意味がないじゃないですか。
そしてこれが構造的な問題だと思うのは、文筆を生業にしている皆さんは、やっぱり書いたものは「商品」なわけで、商品は売れてなんぼなわけで、売れるためには僕のような至極穏当な結論になってしまったら不味いのかな?ってふと思ったのですね。
なぜって、人間攻撃をしていてくれた方が読むほうは分かりやすいのですよ。僕らはそんなに賢くないし、全ての領域について賢くなるほどヒマでもないです。原発問題も、結局は安全性の技術的・社会的向上に尽きるわけで(要求レベルまでそれが満たされなかったら廃止になるだけで)、 そうなると話は専門的で難しくなっていくわけです。燃料棒やタービンを廻すための動力伝達をどうするとか、それが故障するパターンとして考えられるのはどういう場合があり、その防止策としてはなにをどうするって話になるのでしょう。でもこういう話って基本的に詰まらんのです。原発当局は嘘つきだ、ドカンときたらこんなに怖いとか、反対論者は無責任な理想主義者だ、おめでたい連中だというレベルの話の方がずっとわかりやすい。だから、そういう方向に話をもっていかないと、「商品」として売れないんじゃないかしら。アカデミックな研究論文なんか、僕ら一般大衆はお金払って読もうとは思わないですよね。でも、原発の恐怖については怖いもの見たさで読んでしまう。
だから、今日の言論が、商業ベースでやっている以上、どうしても商業的な成功が大前提にならざるを得ないし、そのためにはプロレスみたいにわかりやすくキャラを立たせて、見所をつくって、、というマーケティングにのっとってモノを書かないとならないのかもしれません。大論争して、遺恨試合みたいにやってるのだって、もしかしたら演出かもしれません。だって売れなきゃ廃刊だもん。出版社にとっては、原発よりも、教育問題よりも何よりも、自分のところの本が売れるかどうかが最大の関心事でしょうし、また著者においても出版社から原稿を買ってもらったり、印税収入がなければとりあえず食えないわけですから。実際、ここ数年の日本のベストセラーとか話題の本を見ていると、かなりマーケティング的に書かれた本だったり、ネーミングの上手さだけで売れてたりする気がします。なんだかなあって思いますよ。
僕のこのエッセイは、当然のことながらいっくら書いても収入にはなんら直結しません。マーケティングもヘチマもないです。そこがアマチュアの強みで、書きたいことを書く、思ってることを思ってるように書くだけです。これが文章だけで生活するようになったら、やっぱり売れるかどうかは気になるでしょうねー、もうバリバリ気になるでしょうねー。当然です。で、売れるための「努力」もするでしょうね。読者のニーズに沿うでしょうし、読者の怠慢に付き合ったり、下世話な欲求に媚びたりもするかもしれません。暴言や極言がたまたま受けたら、それを「自分のスタイル」にしようと思ったりもするでしょう。ジャーナリストの場合は、やっぱり誰も指摘しなかったような鋭い問題提起をして、「一発当てて」皆に注目されないと先々不安ですから、どうしてもあら捜しのように問題を探すようになるでしょうし、「○○が危機だ」的な書き方になるでしょうし、怖いのはものの考え方までそうなっていくことです。
まあ、プロにはプロの悩みがあるのだろうと思いますし、一概にこれを責めようとも思いません。ある程度当然のことだと、読み手としては賢くなるしかないだろうと思います。でも、このように生活がかかっているわけでもない、僕と同じようなアマチュアの人のホームページなどを読みにいくと、プロのようにセンセーショナルな方向に行こうと頑張ってたりする人も結構いたりして、なんか妙な「お手本」や「刷り込み」がなされているのではないか?とふと思ったりもします。別に生活かかってないんだから、そんなに「サービス」せんでもええやんって思うのですけどね。それに、無理にサービスしなくなって、自分が思ってることを冷静に書いていけば、それだけで十分に面白いと思うのですけど。
というわけで、社会の一部の人間をグルーピングして、「あいつら」として理解不能な変な集団と見てしまいたがるのは、人間としてある種自然な姿(人間とは完璧な存在ではなく、ある面ではアホアホな存在であるという意味で自然)だとは思うのだけど、それってすわなち無知であり、偏見の構造そのものだと思います。ひとりひとりが自戒すべきことだと思う。
最後に、政治活動や市民運動などの局面では、ある程度この種の「演出」というか、正確性を犠牲にしてもキャッチコピーのように「わかりやすい言い方」にせざるをえないってのはあると思います。でも、それはもう公正な評論というレベルではなく、プロパガンダであり、掛け声というか、スローガンというか、広告文案みたいなもんだと思うのですよ。皆が意見を一つにして、大きなカタマリになることによって、現状への破壊力を持つという。そういう「パワーが大事」という局面では、正確性・公平性を尊ぶあまり言ってる内容が非常にわかりにくかったり、気合の入りにくいものだったら役に立たないのでしょう。
極端な例でいえば、「必勝ハチマキ」みたいなものです。受験生が壁に「必勝」とかいて貼っておくとか(いまどきそんな人いないと思うけど)、甲子園の応援団が必勝ハチマキ&タスキで連呼するようなもので、ゲンコツを固めるみたいに気持を一点に集中させるときには、大雑把でもシンプルでわかりやすい考え方、表現になります。そこを、「必勝」って言ったって、相手が自分より強かったら当然勝てないわけで、相手が自分よりも弱いという客観的な証拠は十分に提出されていないわけで、どこから考えても「必ず勝つ」なんて予想は成り立ち得ないから、これは虚偽だ、ウソツキだとか誰も言わないでしょ。
言論の中には、冷静に分析・議論すべきレベルと、いざ事をなすと決めたあとの実行局面での景気付けのスローガンとしてのレベルの二つがあると思うのです。でも、それが往々にしてゴッチャになってしまっているのが悲しい実態なのではないか。ジャーナリズムや言論というのは、不可避的にこの二つの側面を併せ持ちます。世の中を良い方向に変えていこうという意識は、これはとても大切なことで、そういった視点で現状をレポートしたり分析したりするジャーナリズムは必要なことだと思います。変えようという現実変革の意向が強すぎるあまり、「誰にでもわかりやすく」するために、事実や議論を四捨五入してシンプルにしたり、誇張したりすることも一定限度では許されるとは思います。でも、それもケースバイケースで、あまりにシンプルになりすぎてしまって、それがクールであるべき分析判断にまで曇らせてしまったらこの世の終わりになるでしょう。戦時中の「神州不滅」みたいなスローガンは、国民を一丸にするための政治的プロパガンダとしてはいいかもしれないけど、そのプロパガンダに参謀本部までが毒されて、「いざとなったら神風が吹く」ということで作戦を立案してたらもうおしまいですし、実際おしまいだったわけです。
「買ってはいけない」論争も、僕が思うに、この二つのレベルがゴチャゴチャになってしまっているのかもしれないです。一種の消費者運動、社会変革の一環として書かれたものは、多くの人々を説得し、味方につけ、気勢をあげ、パワーをつけて、これで世の中を買えて(それなりの政治的影響力を獲得し、行使する)いくものですから、冷静なしれっとした分析ではなく、もっと「うおお、ひでえ、許せねえ!」って感情に訴えかけるようなものにする必要がある。だって、そんな世間の誰もが冷静に分析している時間なんかないんだから、分かりやすくしないと広く世間にひろがっていかないもん。だから、事実や分析は四捨五入せざえるをえない。一種の政治活動なんだから。でもって、その四捨五入した部分を、「おかしい」と指摘すること、これは必要だと思います。しかし、実際に議論をする場面になったとき、どうしてもクールな議論と、ホットな行動とのあいだにボタンの掛け違えは起きるでしょうね。僕がこれらの運動のリーダー的立場にいたら、四捨五入した部分を嘘だと批判されても、「そうだよ、嘘だよ、だってしょうがないじゃん」って言いにくいでしょうね。「嘘じゃないぞ」と開き直って頑張るしかないかもしれないよね。それはそうせざるを得ない立場ってもんがあるのでしょう。
多くの議論がこの二つのレベルをいったりきたりして、バトルロイヤル状態になっているんじゃないかって気もします。このバトルロイヤルに拍車をかけるのは、「売れねばならない」という商業ジャーナリズムや個人自営業者(作家とか、起業家とか)の宿命でしょう。新しいダイエット方法を売り出すためには、「今までの方法は全部間違いで、これこそが革命的な新メソッドじゃあ」って声を大にして言わねばならないし、牽強付会・換骨奪胎の「科学データー」を金粉のように散りばめないとならない。なぜなら「売れない」からです。「適度な運動、腹八分目」という、多分医学的にはもっとも正しい認識だけだったら、「商品」にならんもんね。かくして、それぞれがそれぞれのレベルと立場で、それぞれの論理を展開するから、なにがなんだか分からなくなってしまっていくのでしょう。そういう部分ってあると思います。
僕らに求められるのは、そのあたりをクレバーに見抜くことなのでしょう。「ああ、この立場だったらああ言わざるをえないわな」とかね。でも、その解説や分析を、それを商売にしている人たちに求めるのは難しいでしょう。彼らだって食べなきゃいけない、稼いで家族を養わなきゃならないもん。理想をいえば、思想の自由市場論みたいに、皆の批評眼のレベルがあがって、いたずらにセンセーショナルに書きたてるような本や雑誌は、嘘っぽいから売れない、ズシリと内容のある正確で誠実な本だけが売れるという状況になればいいんでしょう。でも、そうはならんでしょう。なぜって、皆、忙しいもんね。正しいけど退屈なものよりは、嘘なんだけど面白いものの方が暇潰しとしては役に立つもんね。
でもそれって、一般大衆が度しがたく愚劣だからそうなっているというよりも(そういう側面も大いにあるだろうけど)、実は一般大衆の方が一枚上手で、そういうことを全部織り込み済みに見通して、そのうえでエンジョイしてるだけって気もします。実は皆知っているという。往来での喧嘩見物くらいの感じですね。
ただ、これだけは言えると思います。こういった「立場上の要求」のない人々、つまり運動を組織してるわけでもないし、著述論述を業としているわけでもないし、売れるためにあれこれ頑張らなくてもいい人々、要するに僕とか、個人的なHPを持ってる人とか、あなたが一杯飲んで他人とお話をするときとか、「食うための制約」から完全フリーな状態のときくらい、こういったバトルロイヤル的な毒からも自由になっていたいもんです。他人の悪口三昧を書いている論述は、もうエンターティメントのプロレスみたいにエンジョイしつつ、それだけのものとして抑えておきたいです。そういったものに乗せられるのだけは避けたいです。
文責:田村
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