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今週の一枚(2018/09/03)
Essay 892:成功と心配の現場感覚
〜失敗経験と引き出し+確率と文学+肝っ玉と価値観
写真は、Maroubra。
普通のバス停なんですけど、このバス停、かーなり眺めがいいです。なんせ、ちょっと視線を左に移すと丘の上から海が見えます↓。こんなところで毎日バスを待ってるのもいいよなーと。
普通のバス停なんですけど、このバス停、かーなり眺めがいいです。なんせ、ちょっと視線を左に移すと丘の上から海が見えます↓。こんなところで毎日バスを待ってるのもいいよなーと。
人一倍有能であるということは人一倍「心配性」だということかもしれないな、とふと思いました。
ビジネスマンに限らず、秘書、政治家、医師、建築家、弁護士、教師、シェフその他普通のマックジョブでもそうですけど、「現場で結果出してなんぼ」系の仕事は、共通する特性があります。
「荒ぶる現場」と対面しなければならない、という点です。
現場は怖いですよ。何が起きるかわからない。万全に準備してたとしても、その日に限って、でかい台風が来るかもしれないし、予告なく大地震がくるかもしれない。現場=想定外の嵐、です。
最初にそのことを骨身にしみて理解したのは、文化祭かなんかのバンド演奏でしたっけ。あそこでカッコつけたい!という原始モチベーションをもとに、毎日鬼のように練習し、金欠のなかスタジオ代を捻出してはバンド仲間とも練習し、準備万端整えばそれでいいもんだと思ってました。それが甘い!甘すぎた!
いざ現場になってみたら、前の出演者が長引いてステージが押して、3曲やれるはずが2曲に減らされましたとか、そのときに限って替えたばかりのギターの弦が切れたり、コードが断線したり、なぜかアンプが鳴らなかったり、PAミキサーの接続が悪くて音のバランスがぐちゃぐちゃになったりするもんです。もう「きゃー!」「今度はなんだ?」の繰り返し。実力以外の要素でこうも翻弄されるとは。
そのうえ、あれだけ皆で練習したというのに、本番になったら、何をトチ狂ったのかメンバーの一人が「発狂」したりするんですよね。緊張のあまりテンパりすぎて、ドラムの奴がありえないハイスピードでいきなり始めたりするから、さあ大変。後ろでそんなの叩かれたら、フロント陣も合わせないといけない。テープの二倍速早送りみたいな速さになるから曲のイメージが全然変わるわ、ここぞ!というキメの速弾き部分(←死ぬほど練習した)も、二倍速になるから弾けるはずがないという。もうさんざんです。いえ〜!ってやってるようで、当人達は絶望感に打ちひしがれて半泣きで演奏しているという。コンサートなんかそんなもんすよ。で、楽屋で罵倒合戦が始まるという。
ふふふ、それが「現場」というものよ。
そうそう!あるある!って頷いておられる方は、現場(の恐さ)を知っていらっしゃる。
よく「机上の空論」といって馬鹿にされたりするのは、この「現場ならではの機微」を計算から外してるところにもあるのでしょう。この想定外攻撃を無視していいなら、どんだけ楽かっつーの。とにかく思ってもみなかったことが起きるのが現場。なんぼ事前に考えまくっていても、虚をつかれるというか、「そ、そう来るかあ!」という。
そこで「結果出してなんぼ」でやっていこうと思ったら、想像力の限界に挑戦!って感じでありとあらゆる想定をしなければならない。いきおい心配性にもなろうものです。
優秀な秘書というのは、日常的にあらゆるスケージュールやイベントを立案し、実行ダンドリや手配をしておくものですが、その全てが手はず通りに動くとは限らない。てか、100%思い通りいくことなんか滅多にないです。どこでコケるかわからない。招待状を送ったのに、なぜか住所が間違ってた、データー入力のバイトが間違えてた、郵便配達が間違えた、メアドが間違ってる、なんかしらんけどサーバーエラー、なんかしらんけど迷惑メール扱いにされてた、、、いくらでも阻害要因がありますから、数日前には改めて確認電話をするとか、クソ面倒くさい作業をしなければならない。予約していた会場がなぜがダブルブッキングになってたとか、前日にボヤ火災が起きて使用禁止になってしまった、キーパーソンが不慮の病に倒れて欠席になってしまった、遅刻延着は当然、、、、もう、これでもかってくらい色々なことが起きますから、それらについて瞬時に&的確に対処しなければならない。「制限時間5秒」みたいな難題を次々にクリアする機転もいるし、事前に準備できるものは最大限準備しておくとか。
そうやって考えていく過程は、「もし○○が起きたら?」シリーズのてんこ盛りであり、それって言葉をかえれば「心配のネタ」です。「もし電車が止まったら」「もし話が通ってなかったら」に始まって、果てしなくひろがり「もし宇宙人が侵略してきたら」に近いくらいのところまでいく。
「まさか」ってことでも起きるのが現場ですから、手を抜けない。だから心配のネタを発掘する能力はいよいよ開発され、心配大王みたいになります。優秀な実務家はだいたい心配性だというのは、そういうことです。心配する能力がある、というか。
逆に優秀ではない場合というのは、心配の数が少ない、もっといえば「最高にうまくいった場合」しか考えないパターンです。そうなるとは限らないんだけど、それしか考えないという。そりゃあダメでしょ。
まあ、最高にうまくいっても不可能だったら、立案そのものがボツですから、まず最高パターンを考えるのは定石ではあります。そして、それが可能という見通しが立ったら、次になすべきは検証&補強&代替(プランB以降)の準備です。予想される障害、その発生確率の高いものから、コレが起きたらどうする?アレが起きたらああするって想定し、代替補足プランを策定しておく。それがどれだけ広く、深く、的確にできるかどうかで、仕事が出来る出来ないが決まるのでしょう。
それはただの心配性なだけです。
世間でいわれる「心配性」というのは、心配がブレーキになってる場合です。とんでもない心配のネタを思いついては、「やっぱやめよう」「出来ない」とネガ方面にいく。なかには、「やらないための言いわけ」として心配のタネを探している人もいるでしょう。
現場実務家というのは、山ほど心配はするのだけど、「でもやる」わけです。心配の暴風雨が吹き荒れている真っ暗な海に船出しようとする。それが基本。冷静に考えて一定のリスク値を越えたら、あっさり放棄するかもしれないけど、メインには「やる」というのが前提。
というかね、「心配だけどやる」というよりも、やる(成功する)ために心配するという発想の流れですね。なんとしても成功させたいから、予め失敗しそうな要因を拾い出しては、現実的な対応策を講じるなどしてプチプチ潰していく、その一連の工程が心配性のように見えるだけとも言えます。
いずれにせよ、単にビビってるとか、不安にさいなまれて立ちすくんでいるとか、そういう話ではないです。嵐が来るかもしれないと心配するからこそ、気象情報をこまめにチェックしたり、マストが経年性劣化して折れそうかどうかチェックしたり、ライフジャケットや救命艇の準備をしたりする。「生産的な心配」とでもいうべきか、やるというベクトルがしっかりしている。
車でも、パンクしたときのタイヤ交換、バッテリーがあがったときの処理、ラジエターがヤバくなったときの対応策、よくあるトラブルにはそれぞれに解決策があります。いきなり電気が消えたときでも、停電の範囲の確認(ウチだけか、一棟だけか、地域全体か)、ブレーカーやヒューズの交換など。怪我をしたときに救急措置のあれこれ。
社会的なダンドリとしても、いきなり家人が逮捕されたらどうするかとか、税金対策をどうするかとか、役所の手続きをどうするとか、いろいろありますよね。
さらに、そこまで大きなトラブルではないにせよ、ツムジを曲げたり、拗ねて意地になってる人をどう扱えばいいかとか、面倒くさいカスタマーをどうさばくか、酔っ払って周囲に迷惑かけているお客さんを穏便に追い払うにはどうしたらいいか、クソ生意気な部下をどうリードするか、リーダーとして集団を率いる場合、とにかく何でもケチをつけることで承認欲求を満たそうとする困ったちゃんをどうすべきかとか、とっちゃん坊やな上司の被害を避けるために、褒め殺ししまくって上に上に煽って成層圏の外まで消えていただくためにはどうしたらいいかとか。相手に応じて、説得のための言葉選びを変える、論理を変えるのは基本中の基本でしょう。
ソリッドでテクニカルな技術知識もそうだし、ちょっとした言葉選びやものの言い方、同じことを言うにしてもタイミングの見計らい方などなど、対人関係のソフトな技術もあります。
そういった引き出しが多ければ多いほど、心配ネタがあっても対処できそうだというめどがたつ。
逆にいえば、こういう引き出しが全然なかったら、心配→まるで対応できず→一巻の終わりになってしまうから、心配=死ぬしかないになってしまう。そして、心配=即ダメならば、そもそも心配しようとしなくなり(したら終わりだから)、いきおいリスク無視になり、最高に上手くいったときしか考えなくなるという自滅パターンに陥るのでしょう。
その分岐点は、いうまでも引き出しの多さです。
では引き出しを多くするにはどうしたらよいかといえば、やっぱそれは経験でしょう。それも失敗した経験が豊富にある方がいい。
ワーホリや留学で来られた方々にいつもいいますけど、いろいろ体験して成長するということは、いろいろ失敗して学ぶことであって、要は失敗するために来ているようなもの、どんどん失敗してくださいと。死にさえしなければ、海外でのあれこれなんか、旅の恥はかき捨てというように、全部シャレで済みますから。あとの人生にそんなに影響与えない。これが地元でなんかトラブル起こしたら、死ぬまで周囲のローカル社会の記憶に残るので、やりにくくて仕方がない。ムカつく上司と取っ組み合いの大喧嘩になった挙げ句、警察沙汰で一晩お世話になりましたってのも、地元でやったら後々祟るけど、これが海外だったら無邪気な武勇伝になりますからね。
また将来、海外とか英語に関する仕事を志すにせよ、大体が「波打ちぎわの仕事」というか、国と国との境界あたりの仕事(観光とか輸出入、現地進出)が多いでしょう。その際、現地にやってくるお客さんやら社内の他の社員(とその家族)のアテンド業務や案内役、お守り役をやらされるのが常です。そして、彼らはひととおりの失敗とかトラブルにやらかすわけで、その際のヘルプ電話に答えるのは他ならぬ自分(あなた)です。そのときに備えて、あらゆるトラブルを経験し対応策を実地で学んでおくことはめちゃくちゃ意味があります。
いい切ってしまえば、キャリアの本質は失敗経験であり、その集積と体系化であるとも言えます。若いときになにか修行したかったら、「後腐れなく失敗できるのはどこか?」という視点で選ぶのも一手でしょう。
あれこれ心配します。大抵のことはなんとか対処できそうです。でも、どうしようもない!という種類の心配もあります。例えば、今度海外旅行に行くんだ!東京で就職するんだ!ってときに、飛行機が落ちたらどうするとか、首都直下大地震が起きたらどうするとか心配しても、もうこうすれば良いという対応策はないです。
やれることは全部やるにせよ、それでも対応しきれないリスクは一定数出てきてしまう。
そのリスク値が客観的に無視できないくらい高かったら企画そのものをやめたらいいのですけど、通常はそこまでのことではない。飛行機が落ちたら死ぬよって言われても、そりゃそうだろうけど、だからといって海外旅行をやめようとは中々ならない。どっかでは線を引く。
その場合は「ダメだけど、でもやる」という凄い話になります。これまでの引き出しだの対応策だのいうのは、「ダメそうなものをダメじゃなくする」という方向の話です。結論的にOKにする。でもこれは、結論的にNGなんだけど、それでもやるという。論理が破綻してるじゃないかってことだけど、でも、現場ではそういうことがママある。
ここでの判断やらメンタル管理は技術論として貴重だと思います。
つまりは「そこまで心配してたらキリがない」「なにごとにも絶対はない」ということを別の言い方で表現してるだけなのでしょうけど。
よく治安などの統計数値で、発生率が100倍!といかいうと凄そうですけど、実は大したことがない場合も多いです。HPのリスク管理論のコラムで書いてますけど、以前調べた東京都の犯罪発生率マップをみると、以下そのままコピペしますが、
「歌舞伎町1丁目は犯罪発生率173以上の最高率なのに、歌舞伎町二丁目になると91-172に減少します。また花園神社から東の新宿5丁目は25-48になります。また、新宿3丁目は173以上の最高率なのに対し、新宿四丁目の交差点の南側のエリアはいきなり11-24の安全地帯になり、その東隣の新宿御苑になると1-10の最安全エリアになります。新宿を日常的に行かれている方は、「統計上、犯罪発生率が100倍違うという現実」を実際に歩いて体感してください。犯罪率100倍ってそんなもんです。」
だいたいこの手の統計は「人口10万人あたり」とかいう前提でやってる場合が多く、10万人中何人が被害にあうかです。10万人中10万人が被害にあったら被害率100%でこれはヤバいです。でも10万人中1万人だったら9割は大丈夫。1000人だったら99%大丈夫。100人だったら99.9%大丈夫です。そして世界各国の殺人被害者の統計は、だいたい一人前後から多くて10人程度です。最悪にヤバい国でも100人はいかない。一人というのは99.999%大丈夫ということです。
百倍違うというのは、99.999%が99.9%になる程度の差ですよね。実感としてなんの違いがあるか?というと、全く無いと思いますね。社会生活上もほとんど差がないでしょう。あなたの住んでるところだって、自宅やら職場やら繁華街やらで統計的に100倍くらい違う環境はザラにあると思いますよ。でもそんな実感としてはわからないでしょう。
つまり統計や数値のマジックというか、絶対値そのものが少なかったら、それが百倍になろうが千倍になろうが、社会生活上はあまり関係ないということです。
ただ、こういうテーマになったときに、やたら文学的に処理するんですよね。殺人事件数100倍!とかいうセンセーショナルな文言がひとり歩きしてしまう。でもって「まあ、恐い!」って話になって、スケア・キャンペーンって言いますけど、「恐怖を与えて人を洗脳誘導しようとする手法」にひっかかる。
それを避けるのは、種類にもよりますけど、僕なんかの場合は、10万人中1000人以下(1%以下)だったらもう無視します。10%を越えてきたらちょっと気にするかなって程度。だいたいインフルエンザでも罹患率50%越えても「俺だけは(なぜか)大丈夫」とか能天気に思ってたりするのが人間で、要は気にしたいものは気にするけど、気にしたくないものは気にしないという、単なる好き嫌いというか、ご都合主義というか、かなりいい加減な文学的な処理をしてるもんです。
発生確率が一定数以下だったら、もう考えるだけ時間の無駄ということは実際ありますし、多いです。そのあたりは割り切らないと仕方ないですし、有能な実務家はその割り切りが早い。もう板チョコみたいにパッキンと割り切りますよね。
ちなみに、余談ですけど、どんな物事でもチャチャを入れて話を停めてしまいたいときは、この文学的手法が有効だったりします。とんでもないリスクを考えて、「〇〇になったらどうするんですか?」と投げかけて、キメのせりふは「万が一」とか「絶対に大丈夫」とかです。
この種の言葉を頻繁に使用する人って、僕からみたら、意図的に妨害しようとしているか、それとも話し合いの接点が見いだせないかどっちかだと思います。この種の議論に付き合う必要はないとは思うのですが、ただ、社会や集団がやたら事なかれ主義に陥ったり、次に述べる肚の錬成に事欠く場合は、こんなくだらないことでなにか有用な試みが全て挫折させられてしまい、沈滞、衰退、消滅していくと思いますね。
ここまで書いておきながら、最後に力任せなことを言ってしまいますが、現場で仕切ろうと思ったら、肝っ玉の小さな奴・肚の座ってない人には無理だということです。
馴染みやすい言葉でいえば「そのときは、そのときだ」ってやつです。
だってどんなに緻密に考えても、ほぼ間違いなく想定外はやってきます。どれだけ準備しても完璧は無理です。どっかで水が漏れる。もう漏れるものだと最初から思ってたほうがいいくらい。
その際、これまでの知識技術をフル稼働させて、「なんとかする」という現場処理の鬼になるしかないのですが、それを支える精神の力というのが肝っ玉とか肚が座ってるとかいわれている精神状態です。
ここは上のキンキンに冷やしたクールな確率論とは打って変わって、文学的、哲学的な世界になるのですが、「やるだけのことはやった」「これでダメならしょうがねえや」「天がやめろと言っている」とか、開き直りともなんともつかない、ぶっといサムシングでやっていくしかないです。
現場の機微というのは、この種のなんだかよくわからない気合、迫力みたいな、ももも〜というエネルギーによって成否が決まったりすることもよくあります。現場のギリギリの交渉とか、修羅場とかになると、「ドンときやがれ」「殺せるもんなら、殺してみやがれ」ってくらい肚が座ってるとわりとうまくいく(場合が多い)。
だけどね、最初からコレだけだったらやっぱダメなんです。最初は心配性なくらい、あれこれ考えて、準備できるものは準備する。確率を考えて無視してよいものは無視するとか、理性的に処理をする。でも、どんなにやっても残る部分が出てくるのであって、最後のゴールキーパーのようにそれに対処するのが気合とか肝っ玉です。肝っ玉だけあって、楽天的になんの準備もしないでことに臨んで、いきなり破綻なんてパターンも多々ありますから。
ただ、その心境に至るためには、やっぱ根底にある価値観がポイントになるのでしょう。自分が本当にやりたいことだったら、この種の気合は比較的たやすく生じます。極致になれば、これが出来るなら死んでもいい!くらいの感じ。でも、本質的にやりたくないことだったら、そこまでの気合は生じません。なんでこんな下らないことに命かけないといけないわけ?って思っちゃいますもん。
それもあって、よく「やりたいことやったらええよ」とか言うのです。それが一番成功率が高いですから。なぜ高くなるのか?本当にやりたい、成功させたいと思うのであれば、やはり事前の詰めや準備はやるでしょう。心配も多々するでしょうけど、やるための心配をするでしょう。そして、やりたいという気持ちが現場での肝っ玉や肚の錬成につながります。意識しないだろうけど、自然とそうなる。またそのくらいの気合で望んでるから、個々の局面での成功率も高くなるし、無駄な凹み(落ち込んで数日浪費して勝機をミスる)こともない。
要は核心の部分がしっかり据えられていたら、あとは自然と歯車が噛み合ってくるでしょうよって当たり前の話です。
終わりに、まとめというか、別の観点で大きく捉えるならば、優秀とか有能とか言われる人は、相反する要素をふんだんに持ってるもんだと思います。プラスが100あるなら、マイナスも100持ってる。めちゃ楽天的で、英語でいう"Happy, Go, Lucky!"って要素も持ち合わせているんだけど、めちゃ悲観的にああなったらどうする?も考える。老婆心のかたまりというか、心配性でもあるけど、いざ現場になったら「はははー、かかってきなさい」って豪語してるという。ある意味、精神分裂みたいに相反する要素をたっぷりと持っている。その水と油のような違う要素を、自分の中に溶け込ませて、大きく融合させている。それが人間の広さとかデカさになるでしょうけどね。
おなじ撮影場所から反対側をみたもの。いいなーこのあたりの家、海が一望に見えて。
文責:田村
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現場=想定外の嵐
荒ぶる現場
優秀な実務家というのは、優れた現場感覚を持っています。ビジネスマンに限らず、秘書、政治家、医師、建築家、弁護士、教師、シェフその他普通のマックジョブでもそうですけど、「現場で結果出してなんぼ」系の仕事は、共通する特性があります。
「荒ぶる現場」と対面しなければならない、という点です。
現場は怖いですよ。何が起きるかわからない。万全に準備してたとしても、その日に限って、でかい台風が来るかもしれないし、予告なく大地震がくるかもしれない。現場=想定外の嵐、です。
最初にそのことを骨身にしみて理解したのは、文化祭かなんかのバンド演奏でしたっけ。あそこでカッコつけたい!という原始モチベーションをもとに、毎日鬼のように練習し、金欠のなかスタジオ代を捻出してはバンド仲間とも練習し、準備万端整えばそれでいいもんだと思ってました。それが甘い!甘すぎた!
いざ現場になってみたら、前の出演者が長引いてステージが押して、3曲やれるはずが2曲に減らされましたとか、そのときに限って替えたばかりのギターの弦が切れたり、コードが断線したり、なぜかアンプが鳴らなかったり、PAミキサーの接続が悪くて音のバランスがぐちゃぐちゃになったりするもんです。もう「きゃー!」「今度はなんだ?」の繰り返し。実力以外の要素でこうも翻弄されるとは。
そのうえ、あれだけ皆で練習したというのに、本番になったら、何をトチ狂ったのかメンバーの一人が「発狂」したりするんですよね。緊張のあまりテンパりすぎて、ドラムの奴がありえないハイスピードでいきなり始めたりするから、さあ大変。後ろでそんなの叩かれたら、フロント陣も合わせないといけない。テープの二倍速早送りみたいな速さになるから曲のイメージが全然変わるわ、ここぞ!というキメの速弾き部分(←死ぬほど練習した)も、二倍速になるから弾けるはずがないという。もうさんざんです。いえ〜!ってやってるようで、当人達は絶望感に打ちひしがれて半泣きで演奏しているという。コンサートなんかそんなもんすよ。で、楽屋で罵倒合戦が始まるという。
ふふふ、それが「現場」というものよ。
そうそう!あるある!って頷いておられる方は、現場(の恐さ)を知っていらっしゃる。
よく「机上の空論」といって馬鹿にされたりするのは、この「現場ならではの機微」を計算から外してるところにもあるのでしょう。この想定外攻撃を無視していいなら、どんだけ楽かっつーの。とにかく思ってもみなかったことが起きるのが現場。なんぼ事前に考えまくっていても、虚をつかれるというか、「そ、そう来るかあ!」という。
心配性にもなろうというもの
しかし、そんな現場の荒波にざんぶと飛び込み、抜き手を切って進んでいって目指すゴールに辿り着くのが現場の仕事です。この世の仕事、デート、家庭生活、趣味でもなんでも、三次元的なあれこれにはこれが不可避的に襲ってきます。そこで「結果出してなんぼ」でやっていこうと思ったら、想像力の限界に挑戦!って感じでありとあらゆる想定をしなければならない。いきおい心配性にもなろうものです。
優秀な秘書というのは、日常的にあらゆるスケージュールやイベントを立案し、実行ダンドリや手配をしておくものですが、その全てが手はず通りに動くとは限らない。てか、100%思い通りいくことなんか滅多にないです。どこでコケるかわからない。招待状を送ったのに、なぜか住所が間違ってた、データー入力のバイトが間違えてた、郵便配達が間違えた、メアドが間違ってる、なんかしらんけどサーバーエラー、なんかしらんけど迷惑メール扱いにされてた、、、いくらでも阻害要因がありますから、数日前には改めて確認電話をするとか、クソ面倒くさい作業をしなければならない。予約していた会場がなぜがダブルブッキングになってたとか、前日にボヤ火災が起きて使用禁止になってしまった、キーパーソンが不慮の病に倒れて欠席になってしまった、遅刻延着は当然、、、、もう、これでもかってくらい色々なことが起きますから、それらについて瞬時に&的確に対処しなければならない。「制限時間5秒」みたいな難題を次々にクリアする機転もいるし、事前に準備できるものは最大限準備しておくとか。
そうやって考えていく過程は、「もし○○が起きたら?」シリーズのてんこ盛りであり、それって言葉をかえれば「心配のネタ」です。「もし電車が止まったら」「もし話が通ってなかったら」に始まって、果てしなくひろがり「もし宇宙人が侵略してきたら」に近いくらいのところまでいく。
「まさか」ってことでも起きるのが現場ですから、手を抜けない。だから心配のネタを発掘する能力はいよいよ開発され、心配大王みたいになります。優秀な実務家はだいたい心配性だというのは、そういうことです。心配する能力がある、というか。
逆に優秀ではない場合というのは、心配の数が少ない、もっといえば「最高にうまくいった場合」しか考えないパターンです。そうなるとは限らないんだけど、それしか考えないという。そりゃあダメでしょ。
まあ、最高にうまくいっても不可能だったら、立案そのものがボツですから、まず最高パターンを考えるのは定石ではあります。そして、それが可能という見通しが立ったら、次になすべきは検証&補強&代替(プランB以降)の準備です。予想される障害、その発生確率の高いものから、コレが起きたらどうする?アレが起きたらああするって想定し、代替補足プランを策定しておく。それがどれだけ広く、深く、的確にできるかどうかで、仕事が出来る出来ないが決まるのでしょう。
心配と成功のメカニズム
心配だけどやる→やるために心配する
かといって、単に心配さえすれば有能になれるってものでもないです。それはただの心配性なだけです。
世間でいわれる「心配性」というのは、心配がブレーキになってる場合です。とんでもない心配のネタを思いついては、「やっぱやめよう」「出来ない」とネガ方面にいく。なかには、「やらないための言いわけ」として心配のタネを探している人もいるでしょう。
現場実務家というのは、山ほど心配はするのだけど、「でもやる」わけです。心配の暴風雨が吹き荒れている真っ暗な海に船出しようとする。それが基本。冷静に考えて一定のリスク値を越えたら、あっさり放棄するかもしれないけど、メインには「やる」というのが前提。
というかね、「心配だけどやる」というよりも、やる(成功する)ために心配するという発想の流れですね。なんとしても成功させたいから、予め失敗しそうな要因を拾い出しては、現実的な対応策を講じるなどしてプチプチ潰していく、その一連の工程が心配性のように見えるだけとも言えます。
いずれにせよ、単にビビってるとか、不安にさいなまれて立ちすくんでいるとか、そういう話ではないです。嵐が来るかもしれないと心配するからこそ、気象情報をこまめにチェックしたり、マストが経年性劣化して折れそうかどうかチェックしたり、ライフジャケットや救命艇の準備をしたりする。「生産的な心配」とでもいうべきか、やるというベクトルがしっかりしている。
解決策の引き出しの多さ
優秀な実務家は解決策を沢山知っています。車でも、パンクしたときのタイヤ交換、バッテリーがあがったときの処理、ラジエターがヤバくなったときの対応策、よくあるトラブルにはそれぞれに解決策があります。いきなり電気が消えたときでも、停電の範囲の確認(ウチだけか、一棟だけか、地域全体か)、ブレーカーやヒューズの交換など。怪我をしたときに救急措置のあれこれ。
社会的なダンドリとしても、いきなり家人が逮捕されたらどうするかとか、税金対策をどうするかとか、役所の手続きをどうするとか、いろいろありますよね。
さらに、そこまで大きなトラブルではないにせよ、ツムジを曲げたり、拗ねて意地になってる人をどう扱えばいいかとか、面倒くさいカスタマーをどうさばくか、酔っ払って周囲に迷惑かけているお客さんを穏便に追い払うにはどうしたらいいか、クソ生意気な部下をどうリードするか、リーダーとして集団を率いる場合、とにかく何でもケチをつけることで承認欲求を満たそうとする困ったちゃんをどうすべきかとか、とっちゃん坊やな上司の被害を避けるために、褒め殺ししまくって上に上に煽って成層圏の外まで消えていただくためにはどうしたらいいかとか。相手に応じて、説得のための言葉選びを変える、論理を変えるのは基本中の基本でしょう。
ソリッドでテクニカルな技術知識もそうだし、ちょっとした言葉選びやものの言い方、同じことを言うにしてもタイミングの見計らい方などなど、対人関係のソフトな技術もあります。
そういった引き出しが多ければ多いほど、心配ネタがあっても対処できそうだというめどがたつ。
逆にいえば、こういう引き出しが全然なかったら、心配→まるで対応できず→一巻の終わりになってしまうから、心配=死ぬしかないになってしまう。そして、心配=即ダメならば、そもそも心配しようとしなくなり(したら終わりだから)、いきおいリスク無視になり、最高に上手くいったときしか考えなくなるという自滅パターンに陥るのでしょう。
その分岐点は、いうまでも引き出しの多さです。
では引き出しを多くするにはどうしたらよいかといえば、やっぱそれは経験でしょう。それも失敗した経験が豊富にある方がいい。
ワーホリや留学で来られた方々にいつもいいますけど、いろいろ体験して成長するということは、いろいろ失敗して学ぶことであって、要は失敗するために来ているようなもの、どんどん失敗してくださいと。死にさえしなければ、海外でのあれこれなんか、旅の恥はかき捨てというように、全部シャレで済みますから。あとの人生にそんなに影響与えない。これが地元でなんかトラブル起こしたら、死ぬまで周囲のローカル社会の記憶に残るので、やりにくくて仕方がない。ムカつく上司と取っ組み合いの大喧嘩になった挙げ句、警察沙汰で一晩お世話になりましたってのも、地元でやったら後々祟るけど、これが海外だったら無邪気な武勇伝になりますからね。
また将来、海外とか英語に関する仕事を志すにせよ、大体が「波打ちぎわの仕事」というか、国と国との境界あたりの仕事(観光とか輸出入、現地進出)が多いでしょう。その際、現地にやってくるお客さんやら社内の他の社員(とその家族)のアテンド業務や案内役、お守り役をやらされるのが常です。そして、彼らはひととおりの失敗とかトラブルにやらかすわけで、その際のヘルプ電話に答えるのは他ならぬ自分(あなた)です。そのときに備えて、あらゆるトラブルを経験し対応策を実地で学んでおくことはめちゃくちゃ意味があります。
いい切ってしまえば、キャリアの本質は失敗経験であり、その集積と体系化であるとも言えます。若いときになにか修行したかったら、「後腐れなく失敗できるのはどこか?」という視点で選ぶのも一手でしょう。
開き直りと究極的な価値判断
多分ここが一番の急所だと思います。あれこれ心配します。大抵のことはなんとか対処できそうです。でも、どうしようもない!という種類の心配もあります。例えば、今度海外旅行に行くんだ!東京で就職するんだ!ってときに、飛行機が落ちたらどうするとか、首都直下大地震が起きたらどうするとか心配しても、もうこうすれば良いという対応策はないです。
やれることは全部やるにせよ、それでも対応しきれないリスクは一定数出てきてしまう。
そのリスク値が客観的に無視できないくらい高かったら企画そのものをやめたらいいのですけど、通常はそこまでのことではない。飛行機が落ちたら死ぬよって言われても、そりゃそうだろうけど、だからといって海外旅行をやめようとは中々ならない。どっかでは線を引く。
その場合は「ダメだけど、でもやる」という凄い話になります。これまでの引き出しだの対応策だのいうのは、「ダメそうなものをダメじゃなくする」という方向の話です。結論的にOKにする。でもこれは、結論的にNGなんだけど、それでもやるという。論理が破綻してるじゃないかってことだけど、でも、現場ではそういうことがママある。
ここでの判断やらメンタル管理は技術論として貴重だと思います。
確率と文学
確率の扱い方は各業界によっても違うらしいのですが、「確率が0.1%以下の場合はゼロとして判断する」とかフォーマットがあったりとか。つまりは「そこまで心配してたらキリがない」「なにごとにも絶対はない」ということを別の言い方で表現してるだけなのでしょうけど。
よく治安などの統計数値で、発生率が100倍!といかいうと凄そうですけど、実は大したことがない場合も多いです。HPのリスク管理論のコラムで書いてますけど、以前調べた東京都の犯罪発生率マップをみると、以下そのままコピペしますが、
「歌舞伎町1丁目は犯罪発生率173以上の最高率なのに、歌舞伎町二丁目になると91-172に減少します。また花園神社から東の新宿5丁目は25-48になります。また、新宿3丁目は173以上の最高率なのに対し、新宿四丁目の交差点の南側のエリアはいきなり11-24の安全地帯になり、その東隣の新宿御苑になると1-10の最安全エリアになります。新宿を日常的に行かれている方は、「統計上、犯罪発生率が100倍違うという現実」を実際に歩いて体感してください。犯罪率100倍ってそんなもんです。」
だいたいこの手の統計は「人口10万人あたり」とかいう前提でやってる場合が多く、10万人中何人が被害にあうかです。10万人中10万人が被害にあったら被害率100%でこれはヤバいです。でも10万人中1万人だったら9割は大丈夫。1000人だったら99%大丈夫。100人だったら99.9%大丈夫です。そして世界各国の殺人被害者の統計は、だいたい一人前後から多くて10人程度です。最悪にヤバい国でも100人はいかない。一人というのは99.999%大丈夫ということです。
百倍違うというのは、99.999%が99.9%になる程度の差ですよね。実感としてなんの違いがあるか?というと、全く無いと思いますね。社会生活上もほとんど差がないでしょう。あなたの住んでるところだって、自宅やら職場やら繁華街やらで統計的に100倍くらい違う環境はザラにあると思いますよ。でもそんな実感としてはわからないでしょう。
つまり統計や数値のマジックというか、絶対値そのものが少なかったら、それが百倍になろうが千倍になろうが、社会生活上はあまり関係ないということです。
ただ、こういうテーマになったときに、やたら文学的に処理するんですよね。殺人事件数100倍!とかいうセンセーショナルな文言がひとり歩きしてしまう。でもって「まあ、恐い!」って話になって、スケア・キャンペーンって言いますけど、「恐怖を与えて人を洗脳誘導しようとする手法」にひっかかる。
それを避けるのは、種類にもよりますけど、僕なんかの場合は、10万人中1000人以下(1%以下)だったらもう無視します。10%を越えてきたらちょっと気にするかなって程度。だいたいインフルエンザでも罹患率50%越えても「俺だけは(なぜか)大丈夫」とか能天気に思ってたりするのが人間で、要は気にしたいものは気にするけど、気にしたくないものは気にしないという、単なる好き嫌いというか、ご都合主義というか、かなりいい加減な文学的な処理をしてるもんです。
発生確率が一定数以下だったら、もう考えるだけ時間の無駄ということは実際ありますし、多いです。そのあたりは割り切らないと仕方ないですし、有能な実務家はその割り切りが早い。もう板チョコみたいにパッキンと割り切りますよね。
ちなみに、余談ですけど、どんな物事でもチャチャを入れて話を停めてしまいたいときは、この文学的手法が有効だったりします。とんでもないリスクを考えて、「〇〇になったらどうするんですか?」と投げかけて、キメのせりふは「万が一」とか「絶対に大丈夫」とかです。
この種の言葉を頻繁に使用する人って、僕からみたら、意図的に妨害しようとしているか、それとも話し合いの接点が見いだせないかどっちかだと思います。この種の議論に付き合う必要はないとは思うのですが、ただ、社会や集団がやたら事なかれ主義に陥ったり、次に述べる肚の錬成に事欠く場合は、こんなくだらないことでなにか有用な試みが全て挫折させられてしまい、沈滞、衰退、消滅していくと思いますね。
肚の錬成
最終的にはココが最大のポイントになると思います。「肝っ玉」の話です。ここまで書いておきながら、最後に力任せなことを言ってしまいますが、現場で仕切ろうと思ったら、肝っ玉の小さな奴・肚の座ってない人には無理だということです。
馴染みやすい言葉でいえば「そのときは、そのときだ」ってやつです。
だってどんなに緻密に考えても、ほぼ間違いなく想定外はやってきます。どれだけ準備しても完璧は無理です。どっかで水が漏れる。もう漏れるものだと最初から思ってたほうがいいくらい。
その際、これまでの知識技術をフル稼働させて、「なんとかする」という現場処理の鬼になるしかないのですが、それを支える精神の力というのが肝っ玉とか肚が座ってるとかいわれている精神状態です。
ここは上のキンキンに冷やしたクールな確率論とは打って変わって、文学的、哲学的な世界になるのですが、「やるだけのことはやった」「これでダメならしょうがねえや」「天がやめろと言っている」とか、開き直りともなんともつかない、ぶっといサムシングでやっていくしかないです。
現場の機微というのは、この種のなんだかよくわからない気合、迫力みたいな、ももも〜というエネルギーによって成否が決まったりすることもよくあります。現場のギリギリの交渉とか、修羅場とかになると、「ドンときやがれ」「殺せるもんなら、殺してみやがれ」ってくらい肚が座ってるとわりとうまくいく(場合が多い)。
だけどね、最初からコレだけだったらやっぱダメなんです。最初は心配性なくらい、あれこれ考えて、準備できるものは準備する。確率を考えて無視してよいものは無視するとか、理性的に処理をする。でも、どんなにやっても残る部分が出てくるのであって、最後のゴールキーパーのようにそれに対処するのが気合とか肝っ玉です。肝っ玉だけあって、楽天的になんの準備もしないでことに臨んで、いきなり破綻なんてパターンも多々ありますから。
ただ、その心境に至るためには、やっぱ根底にある価値観がポイントになるのでしょう。自分が本当にやりたいことだったら、この種の気合は比較的たやすく生じます。極致になれば、これが出来るなら死んでもいい!くらいの感じ。でも、本質的にやりたくないことだったら、そこまでの気合は生じません。なんでこんな下らないことに命かけないといけないわけ?って思っちゃいますもん。
それもあって、よく「やりたいことやったらええよ」とか言うのです。それが一番成功率が高いですから。なぜ高くなるのか?本当にやりたい、成功させたいと思うのであれば、やはり事前の詰めや準備はやるでしょう。心配も多々するでしょうけど、やるための心配をするでしょう。そして、やりたいという気持ちが現場での肝っ玉や肚の錬成につながります。意識しないだろうけど、自然とそうなる。またそのくらいの気合で望んでるから、個々の局面での成功率も高くなるし、無駄な凹み(落ち込んで数日浪費して勝機をミスる)こともない。
要は核心の部分がしっかり据えられていたら、あとは自然と歯車が噛み合ってくるでしょうよって当たり前の話です。
終わりに、まとめというか、別の観点で大きく捉えるならば、優秀とか有能とか言われる人は、相反する要素をふんだんに持ってるもんだと思います。プラスが100あるなら、マイナスも100持ってる。めちゃ楽天的で、英語でいう"Happy, Go, Lucky!"って要素も持ち合わせているんだけど、めちゃ悲観的にああなったらどうする?も考える。老婆心のかたまりというか、心配性でもあるけど、いざ現場になったら「はははー、かかってきなさい」って豪語してるという。ある意味、精神分裂みたいに相反する要素をたっぷりと持っている。その水と油のような違う要素を、自分の中に溶け込ませて、大きく融合させている。それが人間の広さとかデカさになるでしょうけどね。
おなじ撮影場所から反対側をみたもの。いいなーこのあたりの家、海が一望に見えて。
文責:田村
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