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今週の一枚(2018/06/11)



Essay 881:「もっといけるはず」という直感信と幼児皇帝

 

 写真は、京都の詩仙堂

 東京についで、神戸、名古屋、津の怒涛のオフラッシュも一段落し、残すは12日の伏見稲荷近所の空き家お掃除オフです。


 あらかたのオフをやり尽く、且つ平日の昼間(から夜)ということもあって、夕方から娘さんのシドニー旅行の質問などに一組来られるのがわかってるだけで、あとはガラガラ。家主さんと、その学生時代からのお友達だった小林さんらと、のんびりお掃除やるつもりです。ここはこうすると良くなるとかアイディア出し合ったり、手を止めては喋ったり、お腹空いたら買い出しにいったり、食べにいったり、気が向いたら畳でどてーと大の字に寝そべって昼寝でも(枕持っていこうかな)。あるいはBOLGの作業をしたりするでしょう。

 予定などあってなきがごとしの気楽な1日ですので、なにか語りたいことがある方は、いつでも気軽にご参加ください。事前に僕宛メールや掲示板でもいいですし、ぶらっと直に来てもらってもいいです。畳にぺったり座ってお話しましょ。場所は、BOLGに書いてます。

個の目ざめと充実


 さて、初日の栃木から始まって各地オフ・セミナー・カンセリングなど転戦してきて、いったい何人と会ったのか数えきれないです。津のセミナーだけでも40人も集めていただいたし。

 実にいろいろな方々がおられました。「リアル木こり」の方とか初めて会った。AUSとNZで数年奮戦し、ついには永住権が取れず虚しく帰国しつつも、自給自足に挑戦しイノシシに敗北し、しかし今は林業で奥さんとお子さんともにめちゃくちゃ充実している方。一部上場企業のエリート社員で売るほど高品位の資格をもちながら移住する若いご夫妻。家業の農業に燃えている方。民間医療をやりつつ、ボランティアなどで地域社会に貢献し、ご夫婦の絆を日々更新され、且つ精神と知性は青年のように戦慄しておられる方。19歳、21歳とかそのくらいの年で、一生懸命自分の道を模索し、勇気を出してトライしようとする方。理解のある配偶者と子供に恵まれながらも、うちなる声=自分たちはもっと幸せになれるはずという確信が日々強まってきてどうしたものか?という人。学歴年齢キャリア一切不問で、いい人か&伸びしろがあるかの二点でしか採用しない新進バリバリのベンチャーに入ってスキップしながら会社行ってる人。思いあぐねて中高年になってから国内移住をし、それなりに廻ってるんだけど将来的にどうしたものかという方。

 どの方々も、会って話して気持ちのいい方ばかりで、精神がすさんでいない。ヤバい方向に進みそうな気配もなく、困窮のあまり選択肢が狭まってるわけでもなく、穏健な常識人でもあり、まあ、今の日本社会においては上質な部類に入るでしょう。

 ただ、老若男女、立場はさまざまであれ、結局は同じテーマなんだろうなって思います。

 個が個として自立する、気持ちよく、ストレス少なく、十全たる自我を満たすことです。より感覚的な言葉で言えば「自分はもっといけるんじゃないか?」ってことかな。人生これがマックス、これより上はないよ、とは思えない。なんか自分はもっと幸せになれそうな気がする。その伸びしろはあるような気がする。「気がする」というよりも、「ある」じゃんミエミエにって感じ。

もっと幸せになれる自信

 ああ、なんか書いててわかってきたような気がするのですが、この人達は、個々の能力やら地位やら力については不安だったり自信がなかったりするかもしれないけど、「自分が幸せになれること」については自信があるんだなーって。世の中には、自らが幸福になれることに自信がある人と、ない人にわかれるのかもしれない。

 自分が幸福になれることに自信がない人、けっこう多いような気もします。「どうせ私なんか」という「なんか系」といいますか、自分は幸福になる資質・資格・価値がないんだって、なんだか知らないけど思い込んでしまってる人というのは、これははっきり言ってかなりヤバくて、場合によっては絶望的ですらある。あるいは、幸せになりたいのは山々なんだけど、なぜか自分は幸せになってはいけないと無意識にロックが掛かってる人。はたまたあまりにも不満で不全な状態が長すぎて、逆にそれに慣れてしまって、多少不幸なくらいが居心地がよくなっちゃってる人。このあたりは僕の手に余りますし、カミさんの領域です。だから最初からウチ界隈にはこない。

 APLAC界隈という横丁に入ってくる人々は、自分のダメさ加減だったら本一冊書けるくらいわかっているかもしれないが、それでも、「もっと幸福になれるはず」「もっといけるはず」って一点については、ふてぶてしいまでの自信がある。あるいは今が幸福だったらこの質を維持するためには、客観的な形を維持するだけでは足りず、絶えず真剣ななにかが必要であることがわかっている。その一点で共通属性があるのかもしれないです。だから何をどう話していても、話が湿っぽくならない、恨みがましくならない、日なたのぬくもりがある。

 じゃあいいじゃないかってことなんだけど、そんな自信だけむやみにあっても困っちゃうのですよね。だから、そこに付随し、枝分かれするように個別のテーマが出てくる。それが話題になり、カウンセリングのテーマになったりもする。

 例えば、そもそもそんなに個を出してしまっていいのか?という点。日本社会の平均的な感覚では、それはちょっとワガママ過ぎる、リスキー過ぎるという懸念、あるいは周囲の圧力。本当にそこまで自我を出してしまっていいんでしょうか?という、はじめの一歩の逡巡。これは人はなんのために生きるのか?みたいな哲学的な問いかけにも繋がりつつ、理屈ではない内なる「野生の呼び声」という生理感覚的なものでもあります。

 非常に深い問題なのでいくら時間があっても語り足りないし、考えても考えきれない。
 逆にいえば、考えている間に人生終わってしまうともいえる。

ルビコン川を渡る確信

 ここであと一歩ルビコン川を渡るかどうかがあって、なんだかんだ言って、結局は「やるか・やらないか」だろ?と肚がくくれるかどうかだと僕は思います。

 その腹括りは、いろいろな要素によって決まってきます。過去の成功体験とか、社会的なノウハウとか要領の良さとか、そしてなにより性格とか。でも、「もっといける」感覚の強さが一番比例するような気がします。

 ここで「もっと良くなる」の生理感覚を比喩でいえば、例えば、ずっと正座してて足がしびれて、もうやだって状態です。ここで正座をやめて、足を崩したら「楽になれる」「よくなる」というのは感じてるわけですよね。もう確信レベルで思える(実際そうだし)。そんな感覚。

 僕はこの感覚が強かったのかもしれないけど、もっといけるのにいかない状況というのが、もう濡れた靴下を履いてるくらいに不愉快に感じる。もう嫌で嫌で、一刻も早く抜け出したいって思う。慎重に検討し、論理的に正解に達しましたなんて悠長な話ではなく、「だー、気持ちわるい!」というくらいに感じる。だからルビコン川だろうが、隅田川だろうが、ぽんと飛び越えることにそんなに抵抗がない。

 また、自我を開放するとか、本当の自分に〜系の話って、この種の生理感覚が鋭敏になっていく過程なのかもしれません。

実行段階

 以上は、自分の肚括りや願望の強さという主観面ですが、ここの整理がなかなか大変。でも、それが出来ても、なおも課題は続きます。客観・実行面です。そんな強烈な自我を打ち出すにしても、それをどうやって打ち出すの?どういう形でやるの?それはうまくできるの?それをこなすためにはどんな知識と技術が必要なの?

 この実行部隊は、おおむね実行技術面と環境整備面とに分かれると思います。

技術技術と原始感性

 技術系というのは、世間知というか、世間の上手な渡り方です。ここがヘタクソだと、暴れ狂う自我を満たしてやることが出来ない。

 大昔に「原始感性」というエッセイをUPしてますが、これも遡れば弁護士やめてオーストラリアに行こうかなとか考えてるころに書いたものが元ネタになってます。

 いちいち参照するのは面倒でしょうから概要を書くと、自分の生活や能力をあれこれ分類していくと、まるで国家みたい、官僚機構みたいになってるのに気づきます。外にでていってお金を稼いでくるという歳入部門、その限られた予算をどう分配するかという大蔵省みたいな部門、他者や世間相手に渡り合っていく外務省、勉強したり知性教養を向上させる文科省、健康関係に気を使う厚労省、外敵に対して自我を防衛する自衛隊みたいな存在。

これらは全て客観的な実務技術体系であり、左脳的なクレバーさが身上です。これを統括する最高指揮官がいるのですが、でもこいつはトップではない。左脳系局長に過ぎず、いわば左大臣みたいなもの。エッセイでは、ユングのいうアニムス(自分のなかの男性的性格)も引き合いに出してます。

 では右大臣は?といえば感性統括部門であり、アニマ(女性的性格)。左脳的・男性的最適解と右脳的・女性的最適解とは異なっています。論理的には左脳解がもっとも効率的なんだけど、右脳的にクレームが出される。「それは美しからず」「可哀想だ」「もっと大事なことがある」「理由はないけどやりたくない」など。上に書いた、「自分はもっといける」という感覚を司るのもこの右大臣でしょう。

 人の意思決定は、この左脳解と右脳解の対決のようなものですが、シェア探しでも仕事でも、左脳解と右脳解がバランス取れてくるとかなり満足度は高い。最初は左脳が突っ走って、家賃やら交通アクセスや部屋の清潔度ばっかり見てるんだけど、だんだん慣れてきてバランスが取れてくる。「いいんだけど、なんかヤダ」とか「ボロいんだけどほっこりする」とか非論理的な好み、右脳的な要素が入ってくると大体OKです。十軒以上は見ろとか、理屈で決めると大体後悔する、なぜここにしたのかが言葉で説明できなくなったら合格とか、僕は現場でよく言いますが、そういうことですね。

 では、右大臣と左大臣の合議でものごと決めているんか?というと、実はその上に超絶的な最高権力者がいる。それはなにかというと、ラストエンペラーのような幼児の皇帝。こいつが王様で、こいつがすなわち「ほんとうの自分」。めっちゃワガママ。感覚一発で、気まぐれ。上に書いた「もっといける」感覚も、皇帝陛下の宣下でもあります。

 右大臣、左大臣の下に百官いるんだけど、全員固唾を飲んでこの幼児皇帝のご機嫌を窺ってるわけです。「うあー!」「今、ミカドはなんとおっしゃってるのだ?」「わからんが、多分狭苦しくて嫌だとおっしゃっているのではないか」「詔だ」「ミコトノリだ」で、総員大車輪でぶわーっと活動を始めるという。

 このとき、皇帝の何言ってんだかわからない「おことば」を、実務レベルの指針にまで落とし込んでいくのが右脳大臣の役目です。「ああ、確かに俺はイヤだと感じてるな」「行け!という声がする(気がする)」「今が潮時だ」とか。これが論理の世界ではないだけに難しい。耳を澄ませてないと聞き落とす。とはいいながら、部屋のカーテンを何にするかとか、聞いてる音楽が好きかどうかとか、日常的にやってることではある。

 ただ、そのかぼそい直感的な声を、左脳的理屈に負けないように主張するのが難しいし、会社を辞めるとか結婚するとか人生の重大事になればなるほど左脳の声が強くなりがち。そこを「なにを世俗の弊風に染まっておるか!」「こんな簡単なことがなぜわからぬ?」と一喝して筋を通すのも右大臣の役目。世間に自分を負けさせない部門。

 いずれにせよ左右大臣は最高の意思決定はなさず、それをするのは赤ちゃんのような皇帝陛下です。この気まぐれな幼児に右往左往させられているのが、すなわち自分の日常であり、自分の人生なんだろうなーと。

 さて、この場合、各管轄を司る官僚(自分の各能力)が優秀であればあるほど、ミカドも満足=幸福なわけだし、どっかで無能だと皇帝陛下も憂鬱になる。右大臣が無能だと、自分の本当の気持ちを常に自分で踏みにじってることになり、ミカドは火がついたように泣きわめく。あー、なんでこんなにつまんないんだろう?なに、この風景に色がついていない感じは?とか。右と左は相互補完でもあり、右脳大臣を十分に活躍させてやるのは左脳の役目でもある。くだらない世間の雑音や取るに足らない都市伝説まがいの話を切って捨てて上質な左脳解を出せば出すほど、右脳は活躍しやすくなる。

 一方、日々のメイン活動の主役になるは左脳大臣であり、大忙しです。金は稼がにゃならんわ、誰とでも仲良く全方位外交はせなあかんわ、でも舐められたら倍返しにして黙らさねばならんわ、健康には気を使わならんわ、絶えず勉強や精進はせなあかんわ、世界中から情報を集めて戦略を立案しなきゃならんわ、もう大変。

 一般に第一命題のように語られている資格だキャリアだ学歴だというのも、たかだか左大臣の下の大蔵大臣、そのまた下の歳入部門の職掌でしかない。けっこう下っ端なのよね。金科玉条のように語られる健康もまた厚労省の一部局に過ぎない。

 全ては上のため、皇帝のため。この上限関係、目的手段関係は常にわきまえておくべきだし、一部局が突出して全体を引っ張ってしまってはバランスが崩れるし、神聖なる幼児はぎゃーぎゃー暴れるわけですな。

うまくやんなよ

 しかし、まあ、あちらを立てればこちらが立たずで、ある部門をやってると他の部門がおろそかになるし、そんな全てを同時にできるかい!って話にもなります。でもやらなきゃ。

 日本にいる頃、僕らの仲間内で流行った言葉で、「うまくやんなよ」ってのがあります。

 そりゃぱっと見には絶対無理なんだろうけど、そこをなんとかするのが大人だろ?って。なだめたり、すかしたり、ブラフかけたり、泣き落としかけたり、色仕掛けでもなんでも、ありとあらゆる手練手管を使って、「うまくやんなよ」と。

 大体において僕らの日常は、この種の技術体系の研鑽にあるのだと思います。ここが強靭になればなるほど、皇帝陛下のご機嫌も麗しくなると。

 比喩をやめて、先程の文脈で言えば、「もっと良くなりたい」という自信や確信があることが一つ。皇帝陛下の即位みたいなものです。ここまでは右脳感性一発。だけど、そこから先は左脳全開で、緻密な論理とクレバーさが求められる。

 カウンセリングなどでは、状況に応じ、進捗状況に応じ、この種の左脳的なノウハウの伝授や立案が多いですねー。海外にいくにしてもビザのルールやら、攻略法やら、予算の内訳やら、予期される困難さとその対策やら。国内での起業なり、生き方なりにしても同じ。

 うまくやんなよ、です。
 でも、そんないつもうまくいくとは限らないから、そこは相談だという。

環境系

 これは例えばオフをやったりして、日頃あんまり話せない、話したところで理解してもらえないようなことを全開にできる場の設定とか。

 それは左脳的な「やり方」の情報交換というメリットもあります。こういうビザがあるよとか、こういう在宅ワークの仕事があるよとか、どこそこは結構やりやすいよとか。

 でも、本質は、日頃「現実」に負けて、放置プレイを受けて、泣き疲れて不貞寝しているような皇帝を目覚めさせて、あるべき姿に君臨させるという点にあるのでしょう。そうだよなー、私一人が変わってるわけじゃないよね、むしろこれが普通だよなって。

 で、話は冒頭に戻って空き家だなんだとかやってるのも、環境整備事業の一環です。シェアリング経済というのは同じ事柄の別の角度から呼び名でしかないのですが、要するに遊んでるなにかがあったら有効に使えばいいって話です。今回も、あっちこっちで人数集めてやりましたけど、まともに払ってるのは古民家だけで(それもAirbnbだからシェアリングなんだけど)、あとは中野では高橋さんのご厚意で実質的には無料化(古民家や津のビールなどに転化)、津での稲垣亭も一泊千円、渡辺・尾崎塾でのセミナーなんか無料どころか入ってきたし、今度の京都の伏見稲荷も掃除実働とバーター無料です。

 これ僕が全部企画実行してたら会場代だけでも一回2−3万円は飛んでるし、参加する皆だって泊まりがはいったら1万円は覚悟でしょう。それが千円。焼き肉やら朝飯やら食べきれないくらい飲んで食って実費700円ですから、かなり安く済んでいる。

 安く済むこと自体に価値があるのではなく、その分左脳的な「金稼がなきゃ」って負担が減る、左の負担が減れば、その分のびのび右脳が使える。幸福度UP↑ってところがミソです。

 これから日本では空き家がめちゃくちゃたくさん増えるといいます。いずれは3軒に1軒は空き家になるって言われてるけど、それで打ち止めではないですからね。一応の推測計算の目安の時点を設定しての集計にすぎず、それを過ぎても増え続けるでしょう。だから「問題」だというのだけど、そりゃ何にも工夫しなかったら、空き家特措法やら固定資産税やら負担ばかりが増えますけど、工夫するならそれはチャンスでもある。リーズナブルに使える遊び場が増えるって意味では、朗報ですらあります。

 名古屋でヨガにはまってる成田さんにも言ったけど、月間1-2万くらいで借りられて、大家さんと信頼関係結べるようなところを探せばいいじゃんって。そこを自分の基地というか、ヨガスタジオとか、成田ワールドのサロンみたいにする。これまでいいなと思った物事を陳列したり、ポスター貼ったり。でもって、興味のある人が訪ねてきて、一回使用料百円でも300円でも払って、空いてるスペースで好きなだけヨガ三昧やったり、お話したり。別に誰も来なかったってしれてるし、それだけ自分で好きなようにやってればいい。

 これをビジネスだの起業だのいう形にしちゃうと、店舗契約だ権利金だすぐ百万単位の話になっちゃうんで、そこまでいかないで、自分(たち)の基地をつくるくらいの感覚で遊べばいいじゃないかと。起業が難しいは、初動において鳴かず飛ばす期間をどう乗り切るか、時間がたてば口コミで広がったりするんだけど、それまで保たせるのが難しい。その点大企業は体力あるから、数億円ぶっ飛んでも「ちょっとダメだったね」で済むから強い。個人はそれで破産しちゃうから辛い。

 でも個人が企業の真似をすることはない。個人には企業が逆立ちしても真似できない強力な武器があります。「精神的満足」ってやつで、計数的にプラスにならなかったら企業的にはバツだけど、個人の場合は赤になっても満足してたら黒字になる。

 起業って、起業自体に意味があるんじゃなくて、要は自分ワールドを展開したいって部分に意味があるんでしょ?金儲けだけが目的だという皇帝が死んでる人もいるけど、そうでない人も多いでしょう?でも、初動資金、それも不動産資金がネックになる。そこがネックになるから、金稼ぎに走ることになり、気がついたら、何やってんだか?みたいになる。だったら低廉で借りて、責任はしっかりとって、丁寧に使う、メンテもする、場合によっては補強や向上もするということで空き家を借りたらいいじゃん。

 そうやって日本中のあちこちの空き家がサロンやお店みたいになったら、新しいカタチの経済になるだろうし、とりあえずは楽しいよね。碁会所や将棋倶楽部のように、そこにいったら誰かいて、「では一局」とかパチパチやって、家の愚痴とかなんか罪もなく喋って。あそこにいくとネパール好きが集まってて、俺の頃のカトマンズはこうだったとか猛者が揃ってて、ネパール旅行に行く前にはあそこに行って話聞いてこいとか。どこそこにいくと、、、って。今日はどこに行こうかなー、ワンコインでOKだったら、楽しいじゃん。なんで皆やんないの?って不思議なくらい。

 本当の遊休資産は個々人の頭の中にあると思う。これまでの知識、経験、見識。膨大な集合知が眠ってるわけだし、語ることで豊かな時間が過ごせるだろうし、いいじゃんって。

 そういうのが「環境整備事業」です。NPOにしようとかいうのも、海外帰りの子達が肩身の狭い思いをしないための、対世間的な肩書付与、対世間戦略の些細な一環にすぎないです。


 さてさて、そろそろUPします。
 今週後半からドバイとスイスなんで、さすがにエッセイは2回ほど休みます。出先でやってやれないことはないだろうけど、あんま意味ないと思うので。






文責:田村


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