「原始感性」というのは、数年前必要に迫られて作った僕の造語です。
その意味するところは、「生来的に備わっており、自分の中枢にある動物的本能的な感性」とか「自分を自分たらしめている=これが無くなると自分じゃなくなるという、本質的な部分」とか、表現はいろいろあるのですが、いま一つ言葉で表すのは限度があります。ただ、分かる人には、“原始・感性”という字面(じづら)だけで、「あ、分かる」と分かるようですけど。分かります?
単に感性といえばいいものを、なんでわざわざ「原始」なんて言葉をくっつけるかというと、後天的なものをカットしたいからです。つまり、良いもの美しいものを見聞するにつれて個人の感性は磨かれ、研ぎ澄まされていきます。あるいは、詰まらない周囲の現実において摩耗され、擦り切れ、スポイルされることもあります。そのような時の経過の風雪によって磨かれ(あるいは壊され)ていった結果として、現在の自分の感性というものがあるのだと思いますが、そういった変遷を辿る前の、もともとの感性という意味で「原始」をくっつけているわけです。
なんとなくお分かりかと思いますが、まだ頭の中で「理屈としては分かったような気がする」程度かもしれません。そこで、もうちょい言及したいのですが、この言葉、説明のための用語、あるいは考える道具としては、非常に便利な言葉なのですね。さきほど「必要に迫られて作った造語」と言いましたが、巧いことハマる既存の単語が日本語には見当たらない。あるのかもしれないけど、一般的ではないし僕は知らない。
どのように使うかというと、これは物の考え方ひとつでもあるのですが、例えば僕は自分の中にある「自我」というものは一つではないと思っています。何というか、もっと、階層立っていて、順位がある。で、なにか重要な意思決定をする場合、より上層部に決裁を仰ぐことになるのですが、この最高位におわしますミカドのような存在が「原始感性」だと思っています。
この「原始感性」君は、子供のようなもので、一人じゃ何もできない。ただ、出された現実を見て、「いい」「いや」「楽しい」「詰まらない」と判断するだけの存在です。ほんでこの幼少なる原始感性の配下にズララと臣下が居並ぶわけです。そうキチンと整理されてるわけではありませんが、感性統括部門の最高指揮官と、理性統括部門の最高指揮官が、右大臣と左大臣のようにいます(右脳、左脳みたいですな)。こいつらは、原始感性の言うことを、現実社会に適応できるよう言語化し、翻訳して、現実生活における実務上の最高の意思決定をします。その下に、中間管理職たる戦略統括部門の将校やら、戦術担当部門の下士官がおり、最下層に現実に遂行するパシリがおったりするわけですね。
ちなみに、さきほどの「右大臣/左大臣」ですが、これは、自分の中にある、女性的性格(アニマとか言われることもある)と、男性的性格(アニムス)と言い換えることも出来るかと思います。アニムスは男性原理に基づく最高指揮官ですから、まあ喧嘩担当といいますか、戦闘的でもあるし、理路整然と分析的でもあります。左大臣アニムスが「よし、ここで一発こいつを仕掛けて、一気に攻勢に転じて」とかイケイケでやろうとする場合、右大臣アニマが出てきて「それは美しからず」とか「可哀相です」とか、ビシッとでっかい釘を刺したりしてバランスを取るわけです。で、両者論争になって決着がつかない場合、要するに、現場で“to be or not to be”とか悩んでるとき、原始感性におうかがいを立てる、と。で、この幼児がトコトコ出てきて、一言「あっち」と指差して解決という運びになるのでありましょう。
なんというか、ビートルズの"Let it be"の歌詞みたいですね。トラブって落ち込んでるとき、マザー・マリアがやってきて、「なすがままにせよ(Let it be)」という"words of wisdom"を言う、というような感じでしょうか。
こんなヤクタイもないことを言ってると、夢想癖に浸っているキモチ悪い奴と思われそうですが、別にアニメシリーズのように色々なキャラクターを登場させて遊んでるわけではなくて、現実にそう考える必要性があったから、仕方なしに開発しただけのことです。そう考えると非常に便利というか、効率がいいし、間違いも少ない。比較するのもおこがましいですが、確か数学の微分ってニュートンが作ったとか?別にあの計算法を作るのが目的ではなく、他の研究の過程でイチイチ従来の計算方法でやってると面倒臭くて仕方がないので、一種の「裏ワザ」として微分計算法をパーソナルに作ったとか?、、、と聞いたような気がするのですが、違ってるかもしれません。言いたいのは「必要に迫られて作った」という部分です。
どういう必要があったのかといえば、人生相談です。といっても、僕がごとき若輩者が人生相談を業としているワケではない。人生相談という形としてではなく、結果的に人生相談になってしまうような局面です。何を言ってるかといえば、裁判沙汰での打ち合わせその他です。
裁判というのは勝った/負けたのデジタルな二進法の世界と理解されてる方もおられるでしょうが、そんなことないです。勿論裁判官の判断ひとつで数十億円があっち行ったりコッチ行ったりすることもありますが、全体からすればそんな場面は微々たるものです。というよりも、そもそも裁判をするかどうか、するとしたら、いつ、どうやって、どういう具合にするのかということを多岐にわたって話し合うわけです。そこでは「何の為にやるのか」という「意義」も当然に語られます。なにをもって「成功」とするかです。時として裁判それ自体は単なる陽動作戦に過ぎず、大きな戦略のなかのヒトコマに過ぎないこともあります。逆にいえば裁判だけ全ての決着が付くことの方がマレです。判決が下ってもわだかまりは残るし、今後の課題も残る。新たな火種になることもある。
勿論、サラ金各社が日常事務として行う支払命令やら、交通違反の罰金の略式請求三庁立会方式など、ルーティンとして大量処理される場合が、絶対的な件数でいえば大部分を占めます。でも、個々人が弁護士の世話になるような場合というは、全然ルーティンではない。一生に一度レベルの意思決定になったりもします。破産すべきかどうか、離婚すべきか否か。もう人生そのもの直結する場面も多々あります。そういった事件の進行にあたって大事なのことは、まずもってご本人の意思であり、さらにその意思が確固たるものかどうかであり、その意思に基づいて現実をどう動かし、どう切り拓いていくかの戦略になります。
で、そういった場面で終局的に物事を決定していくのはご本人の意思であります。でも、意思を動機づけるのは感性であり、感性のなかでも、微妙なニュアンスを識別する繊細な感性というよりも、もっとゴロゴロした原石のような、その人がもって生まれた根っこにある感性、すなわち原始感性が最終的にモノを言うように思うのですね。
統計によれば、離婚請求の3分の2は女性から申し立てられますが、やはり離婚を考えるに当たっては(しかも弁護士のところに来るくらいだから、円満離婚ではない場合には)、単なる「キライになった」とかいう浅い理由ではなく、「こんな人生、不本意だ」というギリギリの奥深いところから発せられた「裡(うち)なる声」に基づく場合が多いです。よく「夫は分かってくれない」とかいう声を聞きますが、多分に理解の浅深というものはあると思います。
依頼者の話を整理し、真のニーズはどこにあるかとか、この人は本当はどうしたいのかを一緒に考えていくわけですが、そういった局面で、「こう考えると、うまいこと考えが整理される」「自分の意向が自分でよくわかり、他人にも説明できる」ようにするために、現場であれこれやってくうちに、前述の原始感性+自分のなかにディレクトリというかヒエラルキーがあることなどの発想の原型が出てきました。
例えば前述の「夫はわかってくれない」という局面ですが、これを単に「くれない族」だとか「ないものねだり」で処理してたら、やっぱりマズイというか、理解として正確ではないと思うわけです。本人は自分の人生における根本的懐疑に立ち至ってるわけです。これまでの生き方(方法論)では本来の自分がスポイルされ過ぎるし、これまでは良いとしてもこれから一生というのは納得できない、と。勿論いろんなパターンがあるのですが、なかには最高位の原始感性レベルでの「御託宣」が下っている場合もあります。ただ、原始感性はコドモですので、「なんかイヤ」とか「もう耐えられない」とか、説得力のない表現でしか言えない。本人にしてみれば「直感的確信」としか言いようがなかったりもします。
この妻の(あるいは夫の)意思表明に対して、相手が、「そんなこといっても、女一人でどうやって食ってつもりだ」「家のローンをどうやって返すのだ」「年金や生命保険はどうすんだ」とか、最高位の原始感性からみれば、些末な、現場の係長クラスが処理すればいいようなレベルでの反論をされると、こう思うわけです。「ああ、やっぱりこの人何にもわかってないわ」と。で、ますます離婚を強く決意する、と。
現実生活のあれこれのダンドリ、死ぬほど面倒臭い、殆ど不可能にさえ思える種々の困難を百も承知しつつも、それでも人間、これだけは譲れない、これだけは通したいという「想い」がある。これは文学的哲学的思弁として言ってるのではなく、ドライな現実認識として、「今日は雨が降っている」のと同じくらい淡々とした事実認識のレベルとして、こういった(ある種理不尽な)意識というのは、もう「ある」としか思えないのですね。で、望み叶って独り立ちした後、やっぱり後悔してるかというと、もうメチャ元気になってたりするもんだから、益々「そういうことってあるのだ」と思わざるを得ません。
これらのことを巧いこと説明しようと思ったら、冒頭の原始感性(名前は何でもいいのですが)やら、自分の中での役割分担と階層をイメージすると巧いことハマりそうだなと思っただけのことです。「原始感性」だの右大臣だの言うのは、あとになって説明するために命名&体系化しただけの話です。
別の言葉でいえば、物事を決定する価値判断には、より大きくより高次の価値判断もあれば、小さく低次なレベルのそれもある、と。その物事の本質を見極め、局面にフィットしたレベルで考えよう、と。ただそれだけのことなんですけど、こう言ってしまうと、学校の朝礼みたいに、頭のなかを素通りしてしまう。やっぱ「原始感性」など命名した方がイメージとして分かりやすいと思いませんか?
さて、発想の原型が出来ればあとは、応用と活用です。便利ですよ、これ。例えば、オーストラリアに行こうなんてのも、自分の中では最高位の原始感性の「命令」でした。「なんか面白そう」「どこがどう面白そうなのか説明できないし、全然わからないのが益々面白そう」と。あ、でも、そこまでも説明してくれないな、原始感性は。単に、「あ、いい」くらいしか言ってないですね。
なんであれ原始感性の御託宣です。勅命が宣下されたわけです。現場クラスは大迷惑です。「げ〜、自分しかわからない継続案件こんなに抱えていて行けるワケねーだろ」「大体3日続けて休むことさえ至難のワザなのに、そんなこと出来るわけないだろ」「何考えてんだよ、上層部は」「英語どうすんだよ、英語!This is a pen
で死んでるじゃねーか」と不満タラタラです。
ほんでも、右大臣、左大臣が出てきて立ちはだかり、「勅命に反する者は逆賊として斬る!」とか言うものだから、ひーこらやるわけです。現場の悲哀。「これを処理しようと思ったら3年かかります」と上申がきても、「何年かかってもやれ!」。なんせ自分の中で、これ以上レベルの高い決断はないわけですから、現場の不満程度で決定が覆るわけもない。「英語習得するのに10年はかかるそうです」「じゃ、10年かけろ」「それまでが大変です。毎日が大恥です」「恥なんか、かけばいいだけのことだ」で終わり。「資金的に続きません」「続かなければ稼げばいいだろ」「そう簡単に就職なんかできません」「そこを何とかするのがオマエの役目だろうが」。何を言っても、「何とかしろ」でチョン。
結局ダンドリ整うまで足掛け3年位かかりましたが、そんでもメゲずにやったのは、この鉄の階層構造が自分の中で認識されていたからでしょう。
でも、思うのですが、結局この戦略統括部門の強弱、有能無能で随分事情も変わってきますね。その意味で弁護士やってて良かったというか、なにわ金融道的な地べた這い回るような実務経験あって良かったと思います。「証人がいないので裁判負けそうです」と言っても「じゃ、証人を探せばいいだろ」「そんな人いません」「立看板
建ててでも探せ、とにかくやることやってみろ。それで駄目ならそのとき考えろ」という発想を叩き込まれ、戦略戦術実務部門が鍛えられたから、原始感性の無理難題にも応えられたのでしょう。これはもう、何に限らず、どんな仕事であっても、現場でヒーコラやらされてたら自然と身についてくるものだと思います。
この部門が弱いとやっぱシンドイですよね。結果として原始感性の意向は実現しないし、それによって、どんどん自分らしさが失われていく。
現場レベルの出来る/出来ないが、最高の意思決定を左右するという本末転倒の状況は悲劇的でもあります。逆にいえば、現場の事務処理能力の高さ如何で、どれだけ原始感性が生かされるかどうかも決まるのではないかと。現場が弱いと、全体になんだかシャンとしない、なんでそうなるのか分からんという納得しにくい状況になっていってしまうように思います。
このような「尾が犬を振る」本末転倒状態が続くと、次第と原始感性がイジけてしまう。「なにをしたいか?」ではなく「出来ることをやる」という具合にしか考えられなくなり、とにかく楽をしようとする現場の言いなりになって全てが決まっていってしまう。よう言いますやん、大学入試で何をしたいのか考えないで、とにかく偏差値が適合する大学、ちょっとでも偏差値の高い学部に行こうとするとか。就職に有利だからとか、安定しているとか。ミカドや将軍がおらんと、下士官レベルが牛耳ってるパターンと言えなくもない。
そいえば、余談ですが、沖縄基地の特措法が通過したとか聞きますけど、あれなんかも「現場の弱さ」を感じたりもします。誰がどう見たって、外国人から見たって、沖縄の人達がワリ食ってるわけで、その是正をどうするかが高次のレベルの課題なんだから、あとはアメリカをどう説得するか、言うこときかすか、あの手この手で仕掛けるのが現場(政府)の役目だと思うのです。でも、あんまり有能じゃないのか、熱意がないのか、それも出来ない。通り一遍以上のことはやろうとしない。コメ開放の際の「一粒たりとも!」とかいう迫力はあんまり感じられない。だから「現実的には無理」とかいうことでケリになってしまう。釈然としないものが残ったりする。金融破綻の「先送り主義」なんかも、現場処理能力の低さと言えなくもないです。断固としてやったるわい!って感じじゃないですね。
「現実的になれ」とかよく言いますが、50%は正論ですが、あとの50%は「無能者(or怠け者)の言い訳」でしかない場合があるんじゃないかなと睨んでいます。いや、無能とか怠け者とか言ってしまうとキツすぎるのかもしれない。でも、物理的には出来ても心理的に引いてしまって「出来ない」と思ってしまう場合、自分で自分の限界線を引いてしまう場合ってあると思う。
だからこそ、一回くらいはどこかで自分の限界を越えるような死にもの狂いのことをするのもいいのでしょうね。一遍それやるとそこまでは自分のテリトリーだから、「出来る(と思える)」範囲が広がる。一芸に秀でた人は何でも出来るとかいうけど、多分、そういうことなんじゃないでしょうか。自分の限界&超限界までの行き方、乗り越え方を身体で知ってるから、そこまでは比較的楽にいける。少なくともやりもせずに無理という判断はしない。現場の戦力が強いと、なにかと自由度が増すということでしょう。その意味では、仕事生活の理不尽な苦労もしておいたらいいかもしれない。ただ、その苦労によって得たものを後で自分のために使わなければ、せっかくの苦労も無駄だけど。
あと、もう一点。雑記帳のなかでは、「目的意識?」という項が面白かったというか、スッキリしたという感想を何通かメールで戴いたりするのですが、あそこで言ってたことと、今回述べてることは、基本的には同じことです。いや、もっと過激になってるかもしれないけど。
要するに「目的意識」として明瞭に言語化できる程度のものって、実はそんなにレベルが高い話だとは思わんのですね。「高収入が約束されているから」とかさ。そんなもん戦略の下の戦術レベルの話で、現場の小隊長クラスがやればいい程度の話じゃないかと。その上の戦略統括クラスは、もっと高いレベルで「その仕事で自分はどう開花していくか」を考えるし、さらに上の原始感性は、もっとシンプルに「面白そうだなあ」「いいなあ」とかそんな感じで判断するんじゃないかしら。「高収入」程度のことが最高クラスの目的になるならば、あなたのやりたいことは所詮金で買えるレベルのものでしかないわけだし(それ以上の楽しみを想像できないのか)、金がないと困るというのは、約束された収入がないと立ち行かなくなる程度の現実処理能力しかないのかな、とも思ってしまうわけです。
1997年4月19日:田村