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今週の一枚(2018/02/12)
Essay 865:「自分探し」について思うこと
過去20年以上×千人以上見てきたけど、「自分探し」と言った人は一人もいない
写真は、シドニー北部のWollstonecraft駅付近。どこからでも見えるハーバーブリッジ。
「自分探し」
今週は、「『自分探しとは?』自分探しの旅の本当の意味と理由についての考え。」という論稿に触発されて書きます。これはAPLaC卒で現在カナダWH中の吉池くんのブログですが(体験談はここ)、彼のブログ、面白いんですよね。「ほお、そこに着眼しましたか」というツボをついてくるし、なにより数日に1本ペースがいいです。月イチ更新くらいだったら忘れちゃうので(3回見に行って更新がなかったらもう足が遠のくでしょ)。
さて、彼の「自分探し」に関する考察、「自分」というのは探して見つかるような性質ではなく、むしろ新たに創生するくらいの考えの方がいいんじゃないかって説ですが、確かにそうだろうなーと思います。
でも僕が思ったのは、彼も書いてましたが「自分探し」って言葉が良くないのでしょう。何を意味しているのかが実はよくわからないし、非常にあいまいな言葉ですから。
「コトバ」の遊戯論
僕自身、「自分探し」を意識してやったことは、これまで一度も無いです。理由は簡単、昔はそんな日本語が無かったからです。ここ20年くらいじゃないですかね?ただし、「自分探し」という言葉で意識したことはないだけで、それらしいイトナミはやりました。むしろ生まれてから今この瞬間までずっとそうです。やってない時間なんか無いんじゃないかなーってくらい。でも、これ「コトバの問題」ですよね。「自分探し」の概念を広げて、およそ「自分を意識して行われる全ての行為」くらいまで広げてしまうと、なんでも入ってきてしまいます。逆にものすごく狭く捉えたらほとんど何も当てはまらない。
今ちょっと考えても、「自分探し」を定義することは、ほとんど不可能なんじゃないか?って思えるくらいです。かなり感覚的、詩的な言葉で、古文でやる「もののあわれ」とか、江戸っ子の「風流」「粋」みたいなもので、言ってる意味はなんとなくわかるが、じゃあ具体的に何なんだ?というと「これ」って示すことができない。「節足動物・甲殻類」みたいにカッチリ明確な内容があるわけでもない。
ふむ、改めてみると、かーなり特殊なコトバですね。ちょっと興味が出てきたので考えてみましょう。
コトバとして奇怪な
「自分探し」って、一見すると「自分を+探すこと」という「具体的な行為」を意味してるように見えます。「職探し」や「家探し」のように。でも「職」「家」なら概念が明確ですからよいのですけど、探す対象が「自分」となると、話はガゼンややこしくなります。哲学村の底なし沼の自我概念
第一に「自分」概念がよくわからない。これをやりだすと「我思う故に我あり」的な、「近代精神史における自我概念の研究」とかいう難しい思想本が書けてしまうくらいのボリュームとディープさがあります。「自分=自我・自意識・自己」というのはもう人類の永遠のテーマです。Wikiってみても、死ぬほど難しい解説がありますよ。哲学においては「批判哲学および超越論哲学において、自己を対象とする認識作用のこと。超越論哲学における原理でもある」とか、心理学では「自我(エゴ)という概念は「意識と前意識、それに無意識的防衛を含む心の構造」を指す言葉として明確化された」とか。カントなんかになってくると「経験的統覚の客観としての断片的自我(内官の対象としての現象我)と経験的統覚の主観としての断片的自我と純粋統覚の自我とを厳密に区別しつつも〜(出典)」とか言われます。さらに構造主義とかポストモダンになると、「自我なんか無い」「自分とか主体というのはただの錯覚」みたいな話もあるようです(よう知らんけど)。
ねえ、すごいでしょう?もーね、そんな面倒臭いモン探すんじゃねーよ(笑)って気になりますよね。自我概念って、ちょっと足を踏みれると底なし沼になってるヤバいエリアですよ。ワケわかんなくなって当たり前です。
気分一発のオープン・パラメーター
しかし、普通そこまで厳密に考えないから、結局のところ「○○みたいな」「〜っぽい」という気分一発のウルトラ抽象ほわわん概念にならざるをえない。このほわわん過ぎる「自分探し」を無理やり定義するなら、「自分に関する"X"をすること」で、「X」の内容は各自勝手に埋めてくださいという、一番大事な部分がオープン・パラメーターというか、完全に「おまかせ」になっているので、結局「各自思うところを自由に論ぜよ」といってるくらい無内容なものにならざるを得ない。
ちなみに、この種の言葉で似てるのは「愛してる」ですか。確かに具体的な行動を示すようなんだけど、その中核にある概念(「愛」とはなにか)がよくわからない。てか人それぞれ。それを表現する行為(手をつなぐとか)はあるんだけど、手を繋げばいいってもんじゃないので、それはあくまで表現形態でしかない。でも本質はなに?というと、もう言う人によって内容はバラバラ。「愛とはなにか」を論じた書籍は古今東西おそらく数万、数十万冊あると思われますが、やれ「究極の自己犠牲である」とする説もあれば、いや真逆に「究極の自己中である」という説もあるし、「極度に洗練された自己欺瞞」「リビドーの礼服」とか、いやもう百家争鳴。
主客一致
さらに!もう一つ「ひねり難易度」が入ります。それは「自分が自分を探す」こと、探す主体も自分ならば、探す対象も自分であるという主客一致が起きることです。メビウスですね。まるで梵我一如みたいな、脳みそがでんぐり返るような構造をもちます。だもんで、自分探しをしているお前は誰なんだよ?って定番のツッコミが入ったりします。ここでも「我思う故に我あり」的な深遠な沼に入っていって溺れそうです。哲学村で皆が七転八倒してるのも多分ここが原因の一つでしょう。いやあ、こりゃ難しいわ。「IQ180以上の人のためのヒマツブシの知的娯楽」って感じで、まともに考えていったら玉砕するしかないですよ。
ただし、この種の「絶対解けない知恵の輪」みたいな話って、皆のフェバリットになりますよね。「宇宙に果てはあるのか」とか「愛と友情はどう違うのか」とかさ。なんでフェバリットになるかといえば、「絶対解けないから」でしょう。換言すれば、これといった絶対無二の正解が存在せず(設問自体がオープン構造をもってるから無限に変化しうる)、また論証・検証が不可能であることから、「誰でも何かは言える」という、万人に開かれているオープンさがいいのでしょう。
自分探しへの冷笑性への社会学的考察
「社会学的」というのは、「自分探し」そのものではなく、「自分探し」は、どんなタイプの人が、どんな時にやるのか?また「自分探し人」に対してどういうタイプの人がどういう意見を持つか?なぜそうなるのか?などです。僕の印象ですけど、総じていえば、「自分捜索人」に対する評価は、多分にネガティブなものが多く、なかでも嘲笑、冷笑的なものも目立つような気がします。この言葉が語られ出した頃は、それなりにカッコいい詩的な表現だったのでしょうが、賞味期限が切れて、むしろ恥ずかしい言葉になってるキライもありますな。キラキラネームみたいな感じ。スポ根や熱血が当初の感動的意味が薄れてギャグになってしまっているような感じ。
固定観念
なぜネガティブに捉えられるのか?といえば、まず「自分探しをするのはこういう奴ら」という固定観念、それもネガティブな人間像が作られているかのように思われます。例えば、辛い現実に直面しそれを克服していくことが出来ない軟弱者であるとか、「自分」エゴが肥大しまくってる甘ちゃんであるとか、一生「青い鳥」を無駄に探し続ける愚か者であるとか、現実逃避のために意味不明な言い訳を口走ってるだけだとか、その種のものです。
こういう論調が目立つのですが、まずもって「こういう奴ら」という「決めつけ」があるように思われます。クールに市場調査をしたり、なにかの統計をもとに論じてる人は少ない。ま、知的遊戯の「お遊び」なんだから、そこまでアカデミックに厳密である必要はないんだけど、こーゆー連中と決めてかかってる傾向があるような気がする。
だけど、それって一般的なイメージでしょ?
僕もワーホリさんや留学生さんを千人以上身近に接してきて、多分、あなたよりは多くサンプルケースに接してると思いますが、その僕の経験でいっても、なんでオーストラリアに?って聞いて、「自分探しのためです」って答えた人は、ただの一人もいません。そもそも「自分探し」って言葉自体、ライブで聞いたことはほとんどない。突っ込んだ話をしていったときに、「いわゆる”自分探し”って言葉で括られてしまうのかもしれませんが」とかなり冷静で客観的に見えてます。
「自分探しにいくんだー」とかうわごとのように口走ってる奴って、実数でどれだけいるんですか?そりゃ、なんとなく気分に流されて、深く考えないまま、カッコいいっぽいんで「言ってみました」って人はいるでしょう。でも、今の時代に、そんなのどれだけいるの?と。まあ、いるところには大量にいるのかもしれないし、それを身近に見てる人もいるのかもしれないけど、ネットや”世間”とかいう証明力の乏しい曖昧なファクト(てかイメージ)を一切排除して、純粋に自分が見聞きした一次情報だけでいえば、「そんな奴おらんぞ」と。むろん僕は全ての事象を見聞できる神様ではないので、ごくごく一部なんだろうけど、それでも20年以上定点観測してきた知見でいえばそうです。
したがって、存在するかしないかもわからない人達に対して、また「こういう連中に決まってる」とその人格像を画一的に決めつけて、何をどう批判したって、あんま意味ないような気もします。それはあなたの脳内世界はそうだというだけであって、客観的なリアルなのかよ?って。
言語能力の巧拙だけ
これらの言葉って、スピ系やらお花畑系と同じく、「あっちに行っちゃった連中」みたいな、一種の差別的な用語ですよね。「自分大好き系」とかさ、「意識高い(と自分で思ってる)系」とかさ、なんかついてけねーな、自分とは接点ないな、勝手にやってくれよ的な気分だと思うのですよ。なぜ差別的に響くのかといえば、発言者自体がそこに勝手に線を引いて、彼岸と此岸ををワケているからでしょう。でもなー、そんなに差ってあんの?誰だってそれなりに必死に生きてると思うぞ。取るに足らない寝言を譫妄状態で口走ってるかのように見えたとしても、その原因の多くは、国語能力がやや未熟という表現技術に起因するのであって、シリアスな本心の部分は、そんなに馬鹿にしたものではないと思いますよん。「自分探しってゆーかー、もーちょっと、こう、わー!っていうコトやってみてー、でー、、みたいな?」とか言ってるから軽んじられるだけ。
これを国語能力ギアアップして、
「今の自分の状況というのは、ある程度仕事も覚えて楽にはなったものの、逆にルーティンでこなしてるだけじゃないかという問題意識も出てきてるんです。狭い範囲でか通用しない知識技術といういわば小手先で環境に対応してるだけじゃないか、それでは自分の底力や先端部分を開発する機会も少ないし、自分の潜在能力がなかなか見えてこない。
ならば、小手先が一切通用しない外部環境に身をおいて、そこでゼロからもがくことで自分の力を見極めてみたいし、また伸ばしてみたいんですよ。口はばったいことをお聞かせしてご不快かもしれませんが、僕は自分にもうちょっと先がありそうな気がするのです。その小さな確信みたいなものは大事にしたいんです。
また、これまでの既成概念を叩き壊すようなショッキングな風景や体験をすることによって、小さくまとまろうとしている自分の視野を広げておきたいし、今広げておかないと、この先まずいんじゃないかって危機感もあるんですよ。今ですらAIとか仮想通貨とかわからないものがどんどん広がっていってる。それに付いていけてるのか?と言えば正直なところ付いていけてないです。むしろ視野を狭く固定すること、わからないものは見ないようにすることで心の安心を得ている、そんな情けない部分も自分の中にあるのは事実なんですよ。でも、それではダメだろう、この先どっかで大きな限界にぶち当たると思うのですよ。ならば、今だろうと。」
とか立て板に水で流麗に語ったら、「おう、すごいわ」とか言われる。でもさ、言ってる内容の本質は、上の「てゆーかー」と同じですよ、これ。
つまりですね、単に国語能力の巧拙があるだけで、仮にそれが至らないからアホの子のように見えたからといって、その本質の差というのはそんなに無いんじゃないかな。そりゃ認識の違いとか方法論の差異とかはあるだろうけど、自分がより良くなりたいって魂の部分では、それほど違いはないし、またレスペクトすべきじゃないかと思ったりもします。
冷笑されがちな構造
自分探し=現状変更になるのはなぜか
次に、なぜそんなに批判されるのか?です。上に書いたような現実逃避とか、ヘタレであるとかは、人格的にやや問題があるでしょうから、批判の対象にはなるでしょう。でもね、じゃあなんで「自分探し」と呼ばれる行為が、現実逃避的な言われ方をするのか?です。現実をシビアに見つめているからこそ、自分のありようなり、立ち位置に真剣な疑念が出てきて、そこを解決したいと思うことが、なぜ現実からの逃避なのか?むしろ現実に対して果敢に挑んでいるとは思えないのか?論理的には両者のパターンがありうるのに、なぜ一つの可能性しか見ないのか?ある意味では、会社人間になりすぎて家族や全てを失うように、現実に過剰適応することが最大の現実逃避だという考えもあるでしょう。これは次の疑問に連なります。どういう場合に「自分探し」ぽい局面になるかというと、多くの場合が「現状変更」をする場合です。そして、その現状変更も、今の日本社会で一般によしとされている一般ルートを変える場合(大企業を退職するとか、大学を中退するとか)が多い。
この点も不思議なところで、「自分探し」というのは、別に現状のままでもいくらでも出来るでしょう。「自分探し」の概念は上記のように人によってマチマチだけど、最大公約数的に粗く言うなら「自分(の潜在的な可能性)探し」でしょう。ならば日々の仕事や子育てだって、新たに自分の可能性を発見する機会は多々あるでしょう。また、一般ルートをアップグレードする場合、例えば企業の総務やってて、スキルをあげるために社会保険労務士の勉強をやって資格を取り、さらに独立するような場合、これだって「自分(の可能性を)探す」ことに変わりはない。でも、自分探しが語られる(非難される)局面というのは、大体において日本式ベルトコンベアから離脱するような場合です。なんでその時ばかりに言われるの?
これに対する僕の仮説は2つあります。
正確に言葉で説明することが不可能だから
一つは、「自分探し」的な発言をする人(そういう言葉では言わなくても「自分探しってやつでしょ?」とか簡単に括られてしまって残念な気持になる人)が、なぜ「自分探し」のような曖昧な表現で言ってしまうのか?です。それはその心情や抱負を上手いこと説明する日本語がまだ開発されてないからだと思います。これは20年前の昔っから「キチンとした目的意識?」(1996/12/29)や、ESSAY 524/曖昧で要領を得ないものは常に正しい(2011/07/18)で何度も述べてる部分にかぶります。
上述の青文字の立て板に水の流暢な説明だって、多分に理論武装として言ってるだけで、本音じゃないですよね。本当の理由、本当の本音というのは、「楽しそう、面白そうだから→やってみたい」だけだと思いますし、それで良いし、またそうであるべきだとも思います。「目的意識」でも書いたように、松尾芭蕉や織田信長がなんであんなことをしたのか?といえば、「俳諧の世界を極める」「天下領民を安堵する」とかあるか知らんけど、そんなものは「よそ行きの大義名分」であって、本音のところでは「面白いから」でしょう。そんなお綺麗な大義名分で人の心が動くことはないですよ。
本当に何かをやりたくなったとき、それが真剣であればあるほど、明瞭に説明することは出来ない(ほとんど不可能)という本質的な原理があると思います。本物の情動というのは、膨大な無意識世界からマグマのように噴火してくるものだから、自意識のこましゃくれた言葉ごときで説明できるわけがないし、説明できるように言語が開発されているわけでもない。それが出来るのは、ごく限られた才能に恵まれたアーチストであり、文学、音楽、ビジュアル、口で上手いこと言えないからこそやってるわけです。
逆に、本当はやりたくないことは、かなり明瞭に説明できます。お金がないと今月の家賃が払えないから仕事にいくとか、寒いからイヤなんだけど今のうちに洗濯モノ取り込んでおかなきゃとか、これは明瞭に言える。ということで、本物のモチベーションや動機、目的は言葉で簡単に説明できるようなものではない、言葉で説明できるくらいだったらまだ本物ではないくらいです。これが本質的な理由。
ということで、簡単に言えないから「違うんだけど、まあニアリーな感じでいうと」ってことで「自分探し」という言葉が開発されたのでしょう。だから本来的に定義不明であっても当然なんだと思います。口で言えないことを表現しようとしてるんだから。
社会の共有認識・感情
第二に、日本社会(半ば封建社会の名残があるような社会)では、自律的に自分の人生を決めて進んでいく行為自体が比較的珍しい。定番のルートに乗ってるのが大多数だから、敢えてそこから外れていくのは、少数派である。口では「自立的に自分の人生を切り開け」とか言うけど、やってることは、宴会の予約の「3000円飲み放題コース」みたいに、出来合いのコースを「お選びください」であって、「切り開く」というオリジナリティには程遠い。そして、それが何であれ、少数派はたいてい多数派から正確に理解してもらえず、「なんか変わった奴ら」的に思われ、ときとして「ついていけなかった落ちこぼれ」的な扱いをされたりもする。オーストラリアなど西欧世界では、自分のことは自分で決めるのが当たり前だから、別にそこらへんは説明するまでもなく社会全体の共有認識になっている。「自分探し」をすることは人生の当然の作法であり、それは可能な限り視野を広げていって、出来る限り自分の資質や可能性を発見するように努め、いかにすれば納得充実できる人生になるかを常に考え、チャンスがあれば果敢にチャレンジすること、自分という可能性を最大限に開花させようとすること。そして個々人がそれぞれにチャレンジすることは、ひいては社会全体の健康な代謝を促し、新しい活力を産んでいくのだという発想。
特にアメリカなんかまだ若い国だから、そのあたりは貪欲だし、自己啓発的な技法は常に研究され、コース化され、カウンセリングからコーチングなど(カミさんの専門分野だが)そのエリアはものすごい勢いで研究開発されている。どんな可能性でも、たとえ荒唐無稽に見えようとも、思いつたらまずやってみる、検証してみる。その蓄積が何かを生む。そういう社会では敢えて「自分探し」的なコンセプトを唱えるまでもないし、唱えても「当たり前じゃん」と何を今更的に共感してもらえる。
実際「自分探し」的なフレーズも英語ではふんだんにあるし、そのためのコースだの本だのもたくんある。例えば、直訳的な「自分探し」であるSelf-Discovery、Self Findingで検索すれば、大量のシリアスな論稿(日本のようにおちょくったようなものではなく)が出て来る。似たような表現、Open my world to new possibilities(新しい可能性のために自分の世界を開く)などどっさりあるし、古いことわざに“To get something you never had, you have to do something you've never done.”(これまで知らなかったことをゲットしたいなら、これまでやらなかったことをやらねばならない)とかさ。英語ではかなりドンピシャな表現が山ほどあります。
あのですね、一般に説明してわかってもらえるようなことって、そこに共有認識があるからですよね。自分で体験してわかってる者同士だから口で説明しても「あるある」的にわかる。その共有認識がなかったら何をどう言葉を尽くしてもわからない。キリンという動物を実物はおろか写真や図でも見たことがない人に、キリンのイメージを言葉だけで伝えるのは至難のワザです。あなたは「ラブカ」って生き物を知ってますか?口で説明したらわかりますか?深海魚なんだけど、「サメの一種で、見た目八ツ目鰻みたいで、でも妙に筋肉とか隆起してて、口とか凶悪そうにぱかっと開けてて、なんか怪獣っぽい魚」とかいって正確にイメージできますか。
つまり、口で言ってわかる人(共通認識がある人は)いちいち説明しなくてもわかるし、口で言ってわからない人にはいくら説明してもわからない。だから「自分探し」も、そういう共有感情を持ってる人でなければわからない。
オストリッチの複雑な感情
第三に、これは昨今の日本の縮こまり志向、オストリッチ志向なんかもしれないけど、このままいってもジリ貧なんだけど、だからといって新たに何かをチャレンジするキッカケも、モチベーションも、勇気もなかなか得られない。だから何もしない方がいいんだとか思うけど、しかし、忸怩(じくじ、語感のとおりウジウジした感情)たる思いもある。そんななかで、向こう見ずにも何かにチャレンジするとか、現状をなんらかの形で否定 or 変更しようという人を見ると、「複雑な感情」になるのでしょう。複雑というのは、うらやましいなー、すごいなーと憧れを感じたり、うまくいって欲しいと思う反面、でもそうなると自分が取り残されたようなミジメな気分になるから、どことなく否定したくなったり、それが昂じてどうせダメなのに可哀想になーとか、結局逃げてるだけじゃんとか、優越感と劣等感がないまぜになってるような感情。
そのあたりの複雑な感情が、「自分探し」界隈では冷笑的な態度になって出て来るのではないかと思われます。もちろん全てがそうだというつもりはないけど、その種のいじこい心情が透けて見えるケースがちらほら見受けられます。自分探しっぽいイベントのあれこれを、自分の体験として知っていて、それを共有できるからこそ批判的になってるというよりは、知らないからこそ言っているという感じ。要するに「拗ねてる」だけなんかもしれないけど。
補論
思うに、「自分探し」という言葉がよろしくないという冒頭の結論に返るのですが、そういう表現で呼ばれる一群の行為を見てても、「自分探し」なんて本気でどれだけやってるのか疑問なのです。いや、批判してるのではなく、本当は「自分探し」という言葉で語ることも/語られることも不本意なんだと思うのですよ。そんなんじゃねーよ!俺は違うぞ!って言いたい。でも、じゃあ何なの?って言われたら、うまいこと言えない。先に書いたように、うまいこと言えないというのは、それがかなり本物だということで喜ぶべきことなんだけど、うまく表現できなくて、それが自分でもいまいちスッキリしない感はあるでしょう。そのスッキリしない感に逆に自家中毒みたいにやられちゃって、「私は何をやってるんだろう?」とか、思いっきり無駄なことをやってるんじゃないかと不安になったりもするでしょう。
自分の性能チェック
しかし、そんなことで不安になってるのは時間のムダなので、ある程度スッキリするような思考様式を書いておきます。いろいろあるけど、一般的に通用するのが「自分の性能チェック」です。これ誰かの体験談にも書いたけど、商品で寒冷地テストとか耐久力テストをやるように、自分はどこまで出来るのかを自分で把握しておきたいと。これは当然でしょ。客観的なポテンシャルを見極めないで、自分にあれが出来る、これは狙ってもいけそうだとか分からんもん。海外に来る場合が多いのも頷けます。なぜって、これまでとは違った環境で自分を試せますから、純粋に実験やテストとしてはやりやすいです。「そもそも海外なんか行っちゃって楽しく暮らせるの?私が?」という重大な疑念があるわけです。それをやってみたら、「あ、いけるんだ、私」という、自分の性能がわかる。これまで隠れて(潜在して)たポテンシャルですね。伸びしろですね。それがわかる。これ、イイコトでしょ?それがわかったら、どっかの会社に入りたいんだけど、新人はかならず海外に行ってもらうと言われてビビって敬遠してたのが、敬遠しなくなるから、自分の選択肢が広がる。悪いことではないでしょう?
同じように、多国籍のルームシェアではこんなもんなんだ、意外といけちゃうなとか、一人暮らしも自炊も初めてだったけど、やってみたら楽しかったとか、ファームなどの泥作業とか嫌いだったんだけどやったら意外といけてしまったとか。この「意外と」って部分がキモで、その分だけ自分の隠された性能が見えてきたわけでしょう?
大体ですね、僕は思うのですが、今の20代だったら、自分のポテンシャルのうち10%も知らないんじゃないかな。もともと人間なんか一生生きても、大部分の才能は未使用のままという残念な話もあるくらいなんだから、精力的に開発しないと勿体無いですよ。いつも下っ端で怒られまくってて自分はダメ人間だと思ってても、実は人の上に立ったときにこそ本来の能力を発揮するとか。まだ結婚はおろか、恋人もいない段階で、もしかしたら自分は「いいパパ」になれる素養があるかなんか、わからんだろ。実は、墨絵を描かせたら上手だったとか、リュート(昔のギターみたいな)弾かせたら上手いとか、大平原を馬で疾駆する才能があるとか、やったことないことだらけでしょ?だから、性能チェックだよ。
それに、Aという環境でも、Bという環境でも等しく同じ反応が出るなら、自分はこういう人間だというのが分かりやすい。一つの環境だけだと誤解しがちですから。自分は○○だと思ってたら、実はそれは別の原因があって、他の環境になってみたら全然違ったとか。病弱だと思ってたら自宅がシックハウスだっただけで、一人暮らし始めたらメキメキ健康になったとか、仕事が快調で天分あるかなって思ってたら、実は先輩同僚のサポートが良かっただけの話だったとか。いくらでもある。
自分の将来の可能性とか戦略を立案する場合、「当方の戦力は」と正確に把握するのが第一に来る。「戦車が、えーと、4両だっけな、いや18両だっけ、いやいやゼロかも」とか曖昧なことでは、まともに戦略なんか立てられないでしょう。だから自分を知るのは最重要の基礎になります。「敵を知り己を知れば百戦危うからず」です。
それを「自分探し」って表現するかどうかはともかく、「自分の性能(ポテンシャル)の見極め実験作業」をやってるんだと思えば、それは意味ありますよ。
冒頭に、「自分探しらしきことはずっとやってきた。むしろやってない時間なんかない」と書いたのはそういう意味で、どんなことをしても自分にフィードバックとして新鮮な資料があがってきます。階段昇ってヒーハー息が切れてたら、「あかん、運動不足だ」と思ったり、手際が悪くて皿をひっくり返したら、何が悪かったのか、自分のどこに問題があるのを考えますよね。だから、それらを「自分探し」だっていうなら、そりゃ生まれてこの方毎日やってますよ。
だもんで、自分探しという言葉が悪い。吉池くんが書いてたように、どっかに自分とは違う別の自分がおって、それをあちこち歩いて巡り合うんだってイメージは、なっかなかリアルに思えないですよね。
彼は自分の創造(一部増築みたいな)ものだと書いてますが、僕のいう実験とニアリーでしょう。なぜって、実験の結果、ここに問題アリとなって、そこをなんとかしないと先に進めないぞと思ったら、それを克服するために練習したりいろいろやるでしょう。その過程で、「新しい自分」「なりたい自分」は少しづつ実現するだろうしね。
趣味の自我論
ちなみに哲学的な話で「自分」をいえば、古典的な自意識・無意識論に、構造主義的な「自我なんかねーよ」というのがミックスしてる感じです。その場の環境や状況の反射として「自分意識」というのが、まるで空に虹がかかるように生じるんじゃないかなって。周囲が凄い奴ばっかで自分がいちばんダメだったら「俺ってダメかも」という自我が作られ、周囲の中で自分がいちばんすごかったら「イケてるかも」と思うと。つまりは自我というのはその場の『反射的な現象』にすぎんよと。だもんで、そういうゼネラルな相対性で「自分」を把握しようとしても、おそらく虹をつかむように虚しい作業になるかと。まあ、多少なりとも生産的なことをするなら、今述べたように客観的な「自分の潜在能力や市場価値」の把握とかいう感じでしょうか。
でも本当に自己が十全たる状態のときは、自分の存在を意識しないと思います。歯痛になったときに歯の存在を強烈を意識し、健康のときは歯が生えてることなんか全然意識しないのと同じです。自分なんかあってもなくてもどうでも良い。ただ、その瞬間瞬間の感情なり思考なりがスクリーンに投影されているだけ。
そして、ここは僕個人のオリジナルな哲学ですけど、いろいろな状況で、いやどんな局面でも、気持いいとか、好きだ嫌いだという感情は確かに生じて、この世界においてそれこそが唯一実感的に確かなものとして認識される。ならばそこに価値の源泉をおくべきだろう。何度も例にひいているデカルトのコギト・エルゴ・スム=「我思う故に我あり」ですが、僕の場合は、「我『感じる』故に我あり」であり、さらに「我」なんか別にいらんし、この大宇宙にぽつんと自分の感情だけが点滅してるだけだと思う。
ならば、行動指針としては、出来るだけ充実した気持ちよさを生成し、持続させるにはどうしたら良いかになる。どういう場合に自分は気持良く感じるかを精力的に検証すること。その快感に敏感になり、正確に記憶し、その快楽世界を広げていくこと。楽しい、面白いと思うかどうか、それを羅針盤にして、自分で世界地図を作っていくような感じ。
そうなってくるですね、自分のことを考えているのか、自分を生じさせる環境をどう整備するかを考えているのか、主観なのか客観なのかすら曖昧になってくるし、結局は同じことじゃないかって気もします。分かりにくいですかね?
こういう環境に自分を置くと、こういう気分が芽生える、その法則性を知り、極めていく、、というのは、例えば、日本の静かな温泉宿に投宿する気持ちよさはなんだろう?大浴場に木目も鮮やかな風呂桶に清潔なお湯が満ち溢れているビジュアルがいいのか、全身を包む熱い温度感覚がいいのか、その際お湯の触感はちょいヌルヌルしてる方がいいのか、サラサラしてる方がいいのか、大浴場にコーンと桶の触れる音がナチュラルに反響してるサウンド感覚がいいのか、ガラリとガラス戸を開けて脱衣場に戻って一瞬にして目が覚めたかのようにクールダウンする爽快な涼感であるとか、、、、もういっぱいあるでしょう?そしてその期待が損なわれると滅茶苦茶悔しい。お湯が妙にぬるかったり、なんかしら汚かったり、団体客で芋の子洗うような混雑になってたりすると、「ちぇ、なんだよー!」って気分になる。
それって、気持ちよさを生じさせてくれる全体の環境なり道具立て=全体の構造によっておのずと決まってくるという意味では構造主義的なんですね。ま、このあたりは趣味の思考遊戯だからどうでもいいですけど。
でもね、僕がオーストラリアにやってきたのは、気持ちよさ一発ですよ。こういう道具立て、環境を整えると、自分は「うおお!」喜ぶだろう、「歓喜、天を衝く」って言葉のように、ぶっ飛んだ快感を得られるんじゃないかって思ってやってきた。実際、その快感は得られましたしね。最初にシドニー空港に降り立ったとき、なーんもわからん異次元世界みたいに来たときは、「いやあ、本当に来ちゃったぜ!わはははは!てな感じで笑えてきたもん。自分の人生史上でもトップランキングされる快感でしたね。不安?そりゃ売るほどあるけど、そんなんどうでもいい。不安を解消するのは、不安を圧倒するくらい強大な快感です。こんだけ楽しかったら、あとはもう野垂れ死にしたって悔いはないと、そのくらいの快感。先にのべたアホの子ちゃんの「わー!って感じ」が一番正確で、一番近い。だからアホじゃないんですよ。
それを自分探しと呼ぶならば、そうなのでしょう。僕の場合、変数エックスに入る解は、「自分(の快感=を生じさせる法則性と環境)探し」ですね。さて、あなたの解は?
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