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今週の一枚(2018/02/12)



Essay 864:「低欲望社会」の別の見方

 〜「自分が自分であること」への「欲望」はかつてないくらい高いと思うぞ

 写真は、シドニー南の近郊都市、Woollongongの海岸 

「低欲望社会」

 「低欲望社会」というフレーズがあります。人々、特に若い人の欲望が減ってきたという。もとは大前研一氏のフレーズで「低欲望社会」という本もあります。もっともこの本は低欲望社会が何故生じ、どう克服すべきか論で、それはサブタイトルの「「大志なき時代」の新国富論」に表現されてます。

 今回はその論議ではなく、本当に低欲望なのか?という点にフォーカスを当てます。

 低欲望と言われる社会現象はどういうものか?色々な人が表現しています。

 いわく
 「物価がいくら下がっても消費が刺激されず、経済が明らかに成長していても銀行の利率は低いままで、30歳までにマイホームを購入する人の割合が下がり続け、若者は自家用車の購入に興味がなく、ぜいたくをするとあざ笑われてしまい、オタク文化が流行し、3食を簡単に済ますような社会のことを指すという。(出典による要約)

 いわく
 「日本経済の根本的な問題は「低欲望社会」にある。個人は1600兆円の金融資産、企業は320兆円の内部留保を持っているのに、それを全く使おうとしないのである。そういう国は、未だかつて世界に例がない。貸出金利が1%を下回っても借りる人がいない。史上最低の1.56%の35年固定金利でも住宅ローンを申請する人が増えていない。世界が経験したことのない経済だ。したがって、金融政策や財政出動によって景気を刺激するという20世紀のマクロ経済学の処方箋は、今の日本には通用しなくなっている。(出典による要約)

 いわく
 「まず始めに言うと大前さんが「低欲望社会」が何なのか?というと、つまり若者が内向き下向きになっているという事ですよね。偉くもなりたくない、車も家も欲しくない。イオンで買い物をして、スマホでゲームやネットを見るだけで十分という世代の増加です。そういった内向きな姿勢を総称して大前さんは「低欲望社会」と言っているわけです。(出典による要約)

 これらの要約や定義について、僕は全然異論ありません。そうだよなーとは思う。
 基本肯定しつつも、それを踏まえた上で、「でも、こうも言えるんじゃない?」という幾つかの異なった見方も思い浮かぶので、今回はそれらを書きます。

諦めてるのか、満たされているのか?

 一番大きな問題は、人々の欲求がいろいろと減ったりしたとしても、それは
 「あきらめた」からそうなっているのか、それとも
 「満たされた」(お腹いっぱいだ)から減っているのか?です。

 前者(あきらめ説)は、もっぱら格差社会による相対的貧困化、社会の閉塞感などと関連して語られ、こういった社会経済状況がひとびとの「あきらめ」を促している現象はたしかにあるでしょう。お金がないから結婚すらもあきらめる、マイホームはおろか、クルマだって買う余裕はないよと。諦めるから欲望が減る。

 ところで、「いつかは”成功者”になって、豪邸ぶっ立てて〜」という永ちゃんの「成り上がり」的なギラギラしたジャパニーズ・ドリームみたいなものは、それほど一般的ではなかったかもしれません。明治とか昭和初期くらいだったら「立志伝」的なものはあったかもしれないけど、高度成長以降には、「一戸建てのマイホーム買って、定年後は悠々自適〜」という慎ましい「ジャパニーズ・ドリーム改・社畜編」みたいなものだったでしょう。

 また金ピカの80年代には、カッチョいいBMWあたりを転がして、カッチョいいファッション(アルマーニとか)に大枚はたいて、ピッカピカの消費活動をして、素敵な異性とスペシャルな夜にスペシャルな舞台を〜って、欲望大全開って感じはありました。でも今はそんなの無い。その頃をリアルに知ってる僕としては、そのあたりの落差は理屈ではなく、実感としてわかります。ギンギラしなくなったよね。

 異性関係でも、別に彼女・彼氏いなくてもいいし、ガツガツ探すこともないし、合コン命で張り切ることもないし、相手が居ないとそりゃ寂しいけど、相手が居てカリカリくるのもうざいし、性欲的なのはセフレでも風俗でもいいし、てかネットのエロで結構足りちゃうし、そんな必死こくほどのこともないよなーってのもあります。そりゃあ、欲望が細ってる、草食だとか、覇気がないとかいつも言われれている話ですよね。そんなこんなで精子の数もどんどん減ってくるという生物学的な所見もある。

 確かにそう。欲望低下してますよね。
 でもねー、なーんか違和感あるのですよ。そうかなー?って。

景気と個人の欲望とはあんまり関連しないこと

 そもそもですね、僕自身、金ピカ80年代もイケイケバブルを経験し、それも弁護士として収入はそこそこあった時期に経験してるわけですけど、クルマとか欲しくなかったし(大阪都心は原チャリの方が便利だし)、ファッションも別に(”作業着”としていいのは着てたけど)。受験生時代から比べたら年収数十倍になったけど、自分の好きなことや余暇の使い方はあんま変わらんし、「欲望」もそれほど変わらなかった。ベッドに寝っ転がって、好きな漫画とか読んだり、ギター弾いてるのが良くて、だからその種の欲望はなんも変わらん。それは今も変わらない。

違う欲望があった

 それに、その頃の「欲望」はもっと違った形にありました。もっと世界を知りたかったし、自分の力をつけたかったし、この世で良いとされるものは全部欲しかったし、そういう「大欲」はありましたよ。一番巨大な欲望は、「見たこともない全く新しいサムシング」であり、自分がもう一回生まれ変わったかのような「でっかいなにか」が欲しかったです。それを賄うには、弁護士ごときの収入や権力では全然足りないし、てかそもそもお金の問題じゃなかったです。だから、その「大欲」に忠実に従って(抗いきれなくて)、徒手空拳でボーンとオーストラリアに行っちゃいました。海外旅行なんか義理の香港一回きりで、何も知らん、英語もできん、それでも行くって感じで、だからこそやりたかった。そのくらいの飛躍がないと面白くないと思った。

 つまりですね、個人的な「欲望」と、社会世間で言われている「欲望」は、なんかズレてるんですよ。「欲望全開」だったあの頃においてすら、「そんなの別に欲しくないし」って部分は、実はあったのですよ。これは僕が特殊というよりは、大なり小なり皆も似たようなもんだったと思う。少なくとも僕の周囲の弁護士仲間とか、異業種交流仲間のなかには、そんな俗世欲求ギラギラって奴はいなかったですよー。まあ、類友なんだとは思うけど。

 こういう種類の「欲望」は、社会が閉塞したとか、所得が減ったとかいっても、あんまり変わらないと思うのですよ。カンケー無いですから。

男の子特性

 それに男性なんて、基本、無頓着なもんで、着たきりスズメだろうが、メシはインスタントばっかだろうが、寝れたらどこでもええしって感じだし。

 僕は男の子なので、男性的な欲望ならわかるつもりでいますし、以前のエッセイESSAY 660:王になりたい・風になりたい 〜 ヒマツブシの天才・男の子の秘密でも書きましたけど、一つはラオウみたいに「最強の男になる!」という欲望。これは変化して、自分がムキになってやってる趣味などで、より技術を向上させたい、もう一つ上の「すげー世界」に行きたいという自己研鑽欲求、自己が発展していく欲求です。もう一つは、スナフキンみたいに風を友として、徹底的に気楽に、無重力に人生を生きていきたいという漂泊願望です。

 今でもそう思うけど、男の欲望なんかこれにトドメをさすというか、自分がなにかに巧くなったり強くなったりする、おおお!という快感、そしていっさいのシガラミから自由になって、「雲のジュウザ」のように飄々とやっていく、荒野の一匹狼みたいにだだっぴろいところを一人でぽつんと進んでいき、そのとき頬をなぶる風の心地よさ、その快感、、、、それを超えるものは中々ないのですよ。

 それに比べたら、脱クルマとか、脱酒とか、脱、、とかいうのも、なんか違和感あるのですよ。それはそうなんだろうけどねーと。

じゃあ、何が変わったのか?

欲望の表現形態が変わった

 さて、これらの違和感をもう少しすりあわせて整理すると、確かに欲望は減ったかのようにみえるのですが、それは、欲望の表現形態が変わっただけ、とはいえないか?

  今これが流行りですよ、ナウいヤング(ぶ)は当然装備してないとカッコ悪いですよってな感じで、競い合ってなんか買ってとか、そういう形の欲望表現ではなく、もっと別の形の欲望になってるだけではないか。

 若い人とは年がら年中話をしてますが(同年代の友達なんかあんまりおらん)、特に世代の差とか感じないんですけど、皆、欲望はちゃんとあるよー。そりゃ海外まで出てこようという人達だからあるのは当然なんだけど、でも彼らの欲望は、クルマが〜とかそういうレーダーで捉えようとしても無理だよ。

 皆の欲望は、すごいまともなもので、「自分が自分でありたい」ってことであるし、できれば「気持よく納得できた、ちゃんとした自分でありたい」ってことですよ。欲望としては上出来じゃないですか?自分を殺して仕事に励むようなことに対しては基本的にネガに捉えるし、そのことによるメリット(収入やステイタス)も十分承知しつつも、それでは収支勘定が合わないと思うくらい、自分が自分であることへの欲求は強いと思う。

 今の感覚は、そんなにギンギラしたものではなく、自分が自分であれたら、あとはなんとでも幸福になれるという自信はあると思います。でも、なかなか自分らしくあることは難しい。だから防衛的に「自分が自分であることを邪魔されたくない」って欲望だと思います。現在の閉塞感は、最低限不安なく人生を過ごしていくためにやらなきゃならないアレコレ(もっぱら就職)によって、自分が自分であることを脅かされること、そんなイヤなこと、自分が蝕まれるようなことをしてまで生きていかないとならないのか?という、うんざりした気分だと思います。

 それは経済的に恵まれているかどうかとはちょっと違って、お金は確かにめちゃくちゃ欲しいけど、でもお金で贅沢をしたいから欲しいのではなく、自分を壊すような下らない環境から逃れられる「逃亡資金」みたいなものとしてお金が欲しいんだと思う。

 でもこんなの昔っからそうだったと思うのです。昔のモーレツ社員だって、自分なんか壊れてもいいからカネカネ言ってたわけじゃなくて、そこでの仕事は確かに内実があって、ハードなんだけどやり甲斐もあって、自分を高めてくれるというプラス評価があった。基本、仕事=良いことであり、そこが納得できたから仕事も励めたし、結果としてお金も入った。

 ということは、変わったのは、仕事の捉え方でしょう。そして実体、下らなくて、つまらなくて、やたら威迫的で、リターンも少ないクソ仕事が相対的に増えたという点にあるんじゃないのか。NPOとかボランティアが盛んになってきているのも(世界的にそう)、生きがいや自己向上と仕事とが分離していってしまった背景があると思います。そして、その結果として、欲望のあり方や表現形態も変わったのではないですかね。

騙されなくなった

   これまでの「欲望」というのは、要するに「なんか買うこと」であり、欲望=消費活動って感じで捉えられてきた。これは事実だと思うのですよ。だからこそ「低欲望社会」でも、欲望の減少が経済政策とリンクされて語られている。

 そうなの?って思う。別に金を使うことだけが欲望の表現ではないでしょう。
 また、あざとい電通的な広告戦略、「仲間はずれにさせろ」「無駄使いさせろ」という行き過ぎた消費社会に対する健全な揺れ戻しだってあると思うのですよ。

 そんな鉦や太鼓をカンカンドンドン叩いて鳴らして、ほれ買え、これ買え、もっと買えとかやられても、生まれてこの方ずっとそれだから、免疫も耐性もついてきて、そうそう簡単には騙されない。昔は、大人は騙しにくいが子供(若者)は騙しやすいと言われていたけど、今では逆だと思う。経済=人生幸福の刷り込み効果が強い大人の方がむしろ騙されやすい。マンション=資産=一生安心なんて30年前の常識にまだ騙されている。そういった大人からみれば、若い衆は「サトリ」世代なんかもしれないけど、わからないほうがおかしいとも言えるわけです。この期に及んで何をまだ騙されてんだよ?って。

 クルマにしたって、ビールにしたって、流行歌にしたって、マンションにしたって、そんなに誰も彼もが買うほうがおかしいのだ。「それほどのもんじゃないな」ってのが正しく評価されてきただけじゃないのか。そして、自分なりの価値を見出すやつは、相変わらず買うわけだし(改造車や峠を攻めるのが好きとか)、それで良いとも言える。

洗練されてきた〜カッペ臭くなくなった

 同じことなんだけど、それだけ自分の欲望を自分で見えるようになったんじゃないのかな?欲望の洗練度があがったということで、これは昔から常に書いてることですけど。

 レベルが上ったと思うべきだと。昔は、「デラックス」「有名」「ゴージャス」「皆やってる」にコロッとやられていたけど、今はそんなことない。気の合った友達とメシを食うにしても、有名店は無名店よりも無条件にエライとか思わないでしょ。むしろ誰も知らない隠れ家のような、地元だけに愛されているような「無冠の帝王」みたいな店を好むでしょ。

 音楽だって、ベストテン的なものが廃れて久しいですけど、「皆聴いてるから聴け」というのは、本当の意味での音楽鑑賞からしたら邪道も邪道、とんでもない話でしょうが。自分だけの快楽なのになんで他人に合わせなあかんの?

 僕は東京生まれの東京育ちだからコンプレックスがなく、東京や世間の風潮に疑問を感じることが昔からありました。結局その違和感は、地方から東京に出てきた人のコンプレックスで東京文化が成立し、戦後の日本文化経済が成立したんだって所感に至ります。当時の東京モンの中坊的表現でいえば、「カッペくせえ」とか言ってましたけど、都会民ダンディズムでいえば、皆がやってるからやるのは自分に自信がなくて、周囲キョドってるカッペ(田舎っぺの略)のやることで、ダサい。誰も知らないようなことをやるのがカッコいいというか。ま、それも裏返しのしょーもない感情なんだけど。

 しかし、ぶっちゃけ本当に戦後の日本はカッペ臭いですよ。「流行」とか意識する時点でカッペだし、未だにテレビ見てるだけでカッペくさい。詰まらんもんを皆が見てるからとか、固定観念や慣性だけで行動してる時点で、自分だけの美意識や嗅覚がない証拠だからダサいでしょ。「海外」「外国」というだけで身構えたり、敵視したりするのも同じようにカッペくせえって思う。

 でもね、80年代の終わりくらいからバブルはさんで、日本人の美意識やセンスは良くなってると思います。そんなコンプレックスをつんつん刺激されて、ぴやーって走る人は少なくなったでしょ?そもそもコンプレックスが減ってきてる。地方のコンプレックスなんか、今はほとんど無いんじゃない?実際、90年代くらいから劇的に減ってきてると思うよ。同じように学歴コンプレックスもアメリカコンプレックスも、上の世代からしたらかなり減ってきていると思う。その意味では「ゆとり教育」は確かに成功している一面もあると思う(それが教育のせいなのか、単なる時代の変化なのかはようわからんが)。

 音楽でもなんでも、マスというカタマリでは動かなくなった。全然無名のインディーズでも自分が好きだったら好きだし。昔はそういうことやってても「俺は違うぜ」という肩肘張った優越感というか(優越感がある時点で劣等感もあるんだが)、要するに同じくらいイケてなかったんだけど、今の人はそういう感情からも無縁でしょう。すごいなー、洗練されてきたなーって素直に思いますよ。

 今のヒーローは、偏差値優秀、エリート職、有名だけではなく、自分の人生貫いている人でしょ?社会や大人の基準や物差し当てて、キミは優等、キミは劣等とかじゃなくて、その人らしさが輝いている人がレスペクトを集める。時代に遅れてる「可哀想な大人」は、ついにはそれが理解できずに「○○賞受賞したから偉い」とか、まだそんな昔の物差しでモノ言ってるけど、若い世代になればなるほど、そんな世俗的な権威はどうでもいいでしょ。

 だから欲望が減った、覇気がなくなったというよりも、価値観が変わった、洗練されたという見方もアリだと思います。

 さて、ここでやめてもいいんだけど、時間が余ったからもうちょいポンと思考を飛ばせてみます。

社会のありかたの変容=「マス」とはなにか

 皆が〜というレミングみたいなゾロゾロ集団活動をしなくなってきたとするなら、さかのぼって「社会」の意味も変わってくると思います。

 これまでは雛形文化、定食文化であり、国民服みたいな「定番パターン」を社会が用意して、それを皆が利用することで人生安定していた。学校いって、会社いってみたいな国民服ね。生活物資が少ないとか、経済的に必要があるときは、そういう共産主義的なやり方が一番効率的です。生存率は高くなるから、その一点で正しい。しかし、ある程度豊かになってきたら、生存第一から第二の個性快感が出てきて、自分らしい表現に価値がシフトする。

 マーケティング的には、80年代に電通が言ってるけど、大量生産から多品種少量生産、大衆の時代から分衆の時代だと。もう30年以上前からいってるし、それは当たっている。今は分衆ところか「孤衆」といってもいいくらいセグメントが細かくなっている。

 そうなるとですね、経営やマーケ、あるいは法律や政治などの社会工学的に視点でいえば、根本的に設計思想を変える必要があるのかなーと。

 この傾向は世界的にもそうで、今はまだ第三世界とかどんどん離陸してるから、高度成長をリアルに味わってる「カッペくさい」人たちがたくさんいるから昔のやり方でなんとかいけてる。でも先進国は、成熟して枯れた貴族趣味的な社会だから、そんな十把一絡げ的な方法論では厳しいだろう。

 定食的にいえば、結婚定食、子育て定食があって、それを基準に社会保障とか税金の控除とかあるわけだけど、もう今では半分くらいしか利用しなくなってるんだから、それがスタンダードとも言えなくなってきている。

 そうなるとどうなるか?
 ざっくばらんな比喩で言えば、寿司屋みたいなもんですね。今までは、寿司屋さんのランチタイムみたいに、にぎり一人前の松竹梅があって、本日の定食があってってな感じだけど、定食志向が減ってきて、カウンターに座って気分で注文。そのとき「今日、なにかおすすめありますか?」って聴いて、答えたり、予算いっておまかせで握ってもらったり、そういう社会になるのかなーと。定食を選ぶ人が減ってくる。

 そうなると法律制度も変えていかないとあかんなと。フランスの民事連帯契約を前に紹介したけど、LGBTだろうがなんだろうが、経済的に共同体的な部分があったら、それに最も合理的に適合するシステムを作ればいい。ならば3人以上のユニットがあってもいい。結局、複数人の法律関係をわかりやすく処理できればよいのだから、結婚、組合、会社、権利能力なき社団などのグループ法律関係論の一環として統合的に処理するのもアリでしょう。突き詰めれば権利主体の設定と会計処理になるのですから。

 より根本的なことをいえば、これだけ生産力があがり、これだけ情報が無料でひろがり、これだけ自由に世界のあちこちに行けるようになって、個人が個人としての自由を(条件さえ整えば)満喫できるような時代、つまり「個人」の力や存在が強くなり、本当の意味で個人主義になってきた時代に、今までの「社会」概念がそのまま通用するか?といえば、それは違うだろう。現実にあわせて「社会」概念もまた変容されていくだろうと思います。

 これまでの「社会」って、生協の共同購入みたいなもので、「皆で束になってなんかやると何かとお得よ」ってことでしょ。でも束になる必要もないし、その気もないのであれば、「束になり方」を記述した社会工学システムは、本質的に変わるべきでしょうね。ま、理論的未来的な話でした。

お金基準説の変容

 もう一つ、強い違和感を覚えたのは、「低欲望社会」での提言もそうですが、お金を稼ぐ=幸福というドグマは相変わらず強固にあって、そこから出ていない点です。

 確かに大前さんが言うように、今の日本を前提にして、お金を稼ぐ、経済的にもっと成長する処方箋はたくさんあると思いますよ。とりあえず政治が足を引っ張ってる。特に低所得者層の税金課金の高さは常軌を逸してると思うし、公的セクターのムダもかなりのものです。経済も新陳代謝を良くすべきでしょう。原発進めるよりは廃炉ビジネスで先端いって儲けたほうが儲かるでしょ。いろいろと方法はある(問題はそれが実行できないことなんだが)。

 それ以上に、経済って発展しなきゃいけないの?という根本的な問題です。
 それは「経済」の定義にも関わるのだけど、「お金が儲かる」=経済成長という定義でいいのか?ってことでもあります。

 今の日本社会の閉塞だの不幸感は、経済成長してないからではなく、単純に楽しくないからでしょう。そしてその楽しさは、別にお金を稼ぐことだけが唯一の解決策でもないし、お金がないから閉塞してるだけでもない。

 現象面だけみてると、お金がないから全てが悪いみたいに見えてるかもしれないけど、こっちに来てるワーホリさんなんか、それまでの日本での生活からみれば貧困化するけど、でも楽しさ300%増ってなってたりするし、そういう問題じゃないのだよね。シェアでも最初は個室志向で高いと快適だったのが、人と交わる快楽を覚えるとルームシェアやバッパーの方が楽しく感じられたり。それは修学旅行の宿が全部個室だったら全然詰まらんのと同じこと(枕投げも出来ないし、クラスで誰が好き問答もできないし)。つまり、お金と幸福は正比例しない。

 本当は、楽しさや生きがいとお金は次元の違う問題、数ある手段の一つ(お金)と目的の関係に立つんだけど、なんかしらんけど、イコールで結ばれている。

 一番の問題は、お金と幸福をイコールで結んでいること、だと思います。
 全然別とまではしなくてもいいけど、「いろいろな局面で関連はするが、しかし本質的には別個のもの」だと皆が思えばそれでだいぶ違うと思うぞ。

 でも、これ、数では圧倒的にまさる時代遅れの中高年層が変わらないとダメかなー。「お金が無いと恥ずかしい」って意識を払拭できるまで。

 それはさておき、冒頭に戻って「低欲望」ですが、お金とか、お金系経済とか消費とかいう物差しで見れば、確かに低欲望化は進んでいるでしょう。だけど、「欲望」それ自体は減ってないと思いますよ。むしろ、「自分」に対する欲望はかつてないくらい高いと思う。自分が自分であることへの欲求、自分らしく有り続けることへの欲望、自分がより良くなることへの希求、個人主義の時代らしくそういった正当な自己欲求はとても高いと思う。

 まあ、でも、そんな抽象的哲学的な表現をしてもわかりにくいから、もっと分かりやすい形でいえば、「自分の時間に対する欲求」と言い換えてもいいかな。24時間滅私奉公なんかイヤだ、自分のプライベートタイム、ひと目気にせずに寝間着でゴロンとして好きなことやってる時間、誰にも邪魔されない「自分の時間」これが多いか少ないかは、以前に比べて要求度高くなってると思います。

 だってさ、もう皆知っちゃったんだと思うよ。自分を抑えて、皆と同じことやってたって、そんなに楽しくないなー、そんなにいいもんじゃないなーって。



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 文責:田村

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