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今週の一枚(2014/03/03)




Essay 660:王になりたい・風になりたい

  ヒマツブシの天才・男の子の秘密
 写真は、Drummoyneの公園、街灯の上に佇むペリカン君。

 過去に何度か写真に出てきてますが、シドニーにはペリカン君は普通にいます。
 最初見てた時は「おおお!」だったけど、もう慣れました。

 普通にいるといってもいざ探すといないです。フィッシュマーケットやRose Bayのフェリー乗り場なんかには割りといると思うけど、いる保証はない。しかし、居ても不思議ではないってくらいの感じ。



 男の子には二つの相反する願望があるように思います。

 「王になりたい」という願望
 「風になりたい」という願望

 「この世の覇者」になるか、それとも「世捨て人」になるかです。
 北斗の拳の「ラオウ」のようになりたいか、それともムーミンにでてくる「スナフキン」のようになりたいか。

 ひたすら「強さ」を求め、多くのライバルと切磋琢磨し、強敵をひとり、また一人と打ち倒し、この世の全てを手に入れ、この世の全てを自分の足元にひれ伏せしめ、王の中の王として最高峰に君臨するという夢。決め台詞は、「この世に俺より強い奴はいない」。

 あるいは、全てを捨て、全てにこだわらず、風を友とし、風に乗り、風のように地平線を吹き抜け、谷を渡り、そして風の尽きたところでフッとこの世から消えていくような生き方。スカした決め台詞は、「明日のことは風に聞いてくれ」。

 あなたはどちらのタイプですか?

 思うのですが、多くの男性には、程度の差こそあれ、この二つの願望ベクトルを両方持ちあわせているのではないか?そして、究極的にはこの両者は相反するのではなく、同じ事なのではないか?なんでそうなのだろう?あたりが今週のお題です。

 ところで予めお断りしておきますが、ここで男/女というのは、実際の生物学的 or 社会的ジェンダーとは必ずしも一致しません。生物学的に男性だったら一人の例外もなくAであり、戸籍の性別欄に女と記載されている人は全員Bである、という意味ではないです。「いわゆる男の子」的な話であり、実際のあなたの生物学的、戸籍的にどちらであるかは関係ないです。男性でも女性的な特性をふんだんにもってる人はいるし、その逆もしかり。というか、どんな人でも、ユングが唱えたアニマ(男性がもつ女性性)とアニムス(女性がもつ男性性)のような傾向があるのでしょう。

 ということで、ここでは男や女の理念型 or イデアとしてのお話です。ま、そんな高尚な話でもないですけど。

王と風について

定番の二要素

 王ベクトルと風ベクトルという2要素は、男の子系の創作物(少年マンガとか)のドラマツルギー、特に王道系の作品にはよく出てきます。

 まず王様ベクトル=「強さ」に対する偏執的なまでの執着がありますよね。少年マンガの主人公は、強くなければ話にならない。ボコボコにされたりもするんだけど、それもこれも強くなるまでの過程であり、弱さ→強さという方向性は変わらない。話が進むにつれてどんどん弱くなっていくという人物像もそれはそれでリアルだし、そういうキャラ(宮本武蔵の又八みたいな)も作品群もあるけど、メジャーではない。読んでてツライ。大雑把にいってしまえば、「主人公は絶対強くなる法則」という右肩上がりの原則があります。そして強くなるために過酷なロードワークをこなし、素振りをし、筋トレをし、山に籠もる。ほんでもって要所要所に「バーン!」という鳴り物入りで強力な敵が登場する。敵は強ければ強いほど魅力的。「強敵」と書いて「とも(友)」と読む。

 他方、風要素もあります。どこからともなくやってきて、どことも知れぬ世界に旅立っていく。例えが古くて恐縮ですが「あしたのジョー」の矢吹丈も、孤児院から脱走して、一人で生き抜き、流れ流れてドヤ街にやってきて段平とボクシングに出会う。そして、真っ白に燃え尽きて死んでいく。「巨人の星」の星飛雄馬も、出自こそ明確(家族構成とか住まいとか)だけど、最後の最後では、ピッチャーとしては死刑同然の壊れた左腕を抱えて、左門豊作の結婚式を教会の外から眺め、友の幸を祈りつつ一人夜の街に消えていく。他にもよくあるのが、これからは世界だとかいって、飛行機乗ってどっか行っちゃうシーンで終わりとか。いずれにせよ最後は風のように消えていくのですね。

 北斗の拳のケンシロウだって、散々戦いまくって、最後には荒野に消えていく。古典でいえば、映画の「シェーン、カムバック!」で、やはり主人公は荒野に消えていく。どうもこの「荒野」ってのがキーワードらしく、「荒野の七人」とか「荒野のガンマン」などの西部劇はこの種の「荒野の風系」が多い。流れ者であり、漂泊者であり、「さすらいの○○」です。

 当然日本にも多く、荒野の七人の元ネタになった黒澤明の「七人の侍」にせよ、時代劇ドラマで延々やられている「木枯し紋次郎(古い)」などのいわゆる「股旅もの」「任侠もの」と呼ばれるジャンルがあります。「〜道中」とか「旅から旅へ旅ガラス」ってやつです。松尾芭蕉も西行法師も全国行脚しているし、生涯に12万体の仏像を彫ったといわれる円空にせよ、日本史上もっとも庶民に敬慕された良寛さんも放浪の旅に出ています。江戸時代には、お伊勢参り/御蔭参りといって、ほぼ60年周期で日本全国が発狂したかのごとくワーホリさんのラウンドのようなことをやったりもする(=人口比にすれば10人に一人以上が徒歩で全国から何十日もかけて伊勢に旅立っている)。

 もう博徒であろうが文化人であろうが庶民であろうが、こぞって「旅の空」を仰ぐのが、いにしえより続く日本人の一つのライフスタイルだといっても過言ではないくらい。今残っているのはお遍路さんくらいかな。みんな「風」になりたいんだよ。だからこそ、昔から「宿場町」「街道」というインフラが整備されていたのでしょう。単なる産業道路だったら樽廻船などの海運メインだったし、参勤交代といっても1日あたりに均せば大した交通量ではないでしょうし。「かわいい子には旅をさせよ」なんて諺もあるところからすれば、「旅」というものがそれほど日常からかけ離れた行為ではなかったと思われます。

地に足がついてない

 ただし、この二つには共通する特徴があります。地に足がついていない、という点です。

 あまり生活感というものがないし、人生設計らしきものもない。あったとしても「チャンプになる」とか「巨人の星になる」とかその程度のもので、そんなことを高校の進路指導や大学の就職セミナーで口走ったら「もっと真面目に考えろ」と説教食らいそうなレベルです。およそ漫画の主人公が、電卓をパコパコ叩いて、老後の年金の計算をシコシコやってるシーンは出てこない。彼らだって人間だから衣食住の心配はしなければならない筈なんだけど、そういう「ロマンのない」シーンは、特別に意味がない限り(主人公のハングリー精神の原風景とか)、出てきません。まあ、最後には荒野に消えていく人達ですから、そーゆーことはどうでもいいのかもしれないのですが。ケンシロウにせよ、矢吹丈にせよ、武蔵にせよ、生命力はあるかもしれけど、「生活力」があるか?といわれると首をかしげざるをえない。

 一方、女の子のドラマツルギーであるシンデレラ物語など一連のパターンでは、最後には「末永く幸せに暮らしましたさ」という、英語で言う"エバー・アフター(everafter)"で結ばれる。人生設計も老後の備えもバッチリです。非常に地に足がついています。そもそも結ばれる対象が「王子様」という死ぬほど「生活力」のありそうな人だったりしますからね。しかし、たまたま相思相愛の相手が王位継承権をもつ王子様だったいうのは、リアルな確率では0.000001%(人口200万人の国で半数が男性で王子が一人だと仮定して)でしょうから、宝くじに当たるよりも低い偶然です(宝くじは年に何回もあるが、王になれるのはせいぜい一世代に一人か二人)。根本的な部分では、もう語るも愚かしいほど地に足が着いていないのですが、そこはガン無視です。この点、男系が、荒野に消えていって、それからどうなったの?という部分、将来設計や老後のファイナンシャル・プランについてはガン無視しているのと好一対です。

 男の子系は、地に足が着いていなければいないほど面白い。
 しかしながら、「強くなるプロセス」については、逆に偏執的なまでに地に足をつかせようとします。何故強いのか?どうすれば強くなるのか?という膨大な技術体系があり、よく考えるとトンデモなんだけど、それらしく見えるコテコテの「理論的説明」がある。大リーグボール2号がなぜ消えるのか、なぜクロスカウンターは破壊力が強力なのか、はたまた「頭文字D」では「公道最速理論」なんてのも出てきます。そのあたりは異様にネチこくやる。その強さ、その技術、その努力とエネルギーを、もっと生活や老後環境の構築に使えば良さそうなんだけど、そういうことは一切考えない。藤原君もガソリンスタンドの店員さんのあとは豆腐屋さんを継ぐのかしらね。まるで「老後や生活を考えない」というのが男の子の美学でもあるかのように。

 強くなること=王者覇者になること、世界最強・最速の男になることには命がけで取り組むくせに、強くなった後のことは考えない。そういう部分はまるっぽ抜け落ちている。あたかもエベレストの山頂を目指すように、登頂した後にその頂上で暮らすわけでもない。より高く、という行為性にのみ意味があり、それによる世俗的な報酬はメインではない。その強さによって組織のトップに立ち、利権でがっぽり儲けたり、ハーレムを作って酒池肉林とかいう部分は、あるのかもしれないけど主たる理由ではない。「強さ」や「成長」は求めるんだけど、「経済成長」は求めない。

 だいたい一定レベルを超えてしまうと、強くなればなるほど世俗的には不仕合わせになりかねない。高度7000メートルを超えてしまうと、気圧の低さや低酸素など高山病の影響で、そこに存在しているだけで刻一刻と体内の細胞が死んでいくらしいです。上に登るほど生存環境は過酷になり、生きるか死ぬかになり、しまいには死んで当たり前のような極限状況になる。どんなジャンルでもそこまで登ってしまえば、もう話が合う人間が世界でも数名くらいになり、人類の圧倒的大多数は「わかりあえない」人達ばかりになり、ただただ弧愁を深めるだけになる。孤高の人といえば聞こえはいいけど、めちゃくちゃ寂し いでしょう。それでもやる。

王も風も同じこと

 ここに至って、王様ベクトルと風ベクトルは真逆ではなく似通ってきます。

 要するに彼らは(男どもは)、やりたいことをやってるだけです。(誰よりも)強くなりたい、高いところに登りたい、あそこまで行きたい、もっと知らないところに行きたい、、、、興味があること、面白いと思えることだけをやっていたいだけで、それ以外のことはどーでもいい。この、「どーでもいい」と思いっきりスパーンと突き放した感じ、ブン投げるような感じ。その抜けの良さ。そして面白いことだけに純粋に集中していたいその純粋性だけが問題なのであって、それはゲームや虫取りに熱中している少年の横顔。

 逆に世俗的なあれこれ、やれ今月の家賃だとか、人間関係とか、老後のこととか、あれやこれらがトリモチのようにベタベタと身体にひっついてくるのが生理的に嫌い。しがらみが嫌い。好き勝手にやっていたい。この世の王様になるということは、この世の全てのシガラミを引き受けることなんだけど、そんなものを引き受ける気はない。「てっぺん」に立つことがだけが大事なのであって、立ったあとのことなんかどうでも良い。もう無責任極まるんだけど、まあ、そうなんだろうな。

 司馬遼太郎の小説「国盗り物語」の斎藤道三の章で、美濃の国盗りの道の半ばで、旧来の群臣たちに反逆されて窮地に陥った主人公(道三)が、ポーンとその地位を投げ出し、頭を丸めて出家して僧になり(てか元々寺の出身だから僧に戻り)、美濃から単身脱出するシーンがあります。あれだけ緻密に計略を練り、必死に努力してここまできたのに、サバサバした表情で「ああ、やめだやめだ」と言ってカラカラ笑っている。原文がどうなっていたのか(そのシーンだったのかも)手元にないので覚束ないのですが、「巨大な事業欲にとりつかれた男は、同時に巨大な厭世感をも持つ」という意味の一文が印象的でした。最初に読んだのは確かまだ小学生の頃だったと思うけど、小学生にも「ああ、なんか分かる気がする」と思った。

 ある目標のために全てを捨てて執鬼のように取り組んでいたとしても、ふと一歩立ち位置を変えて眺めてみたら、どーでもいいっちゃどーでもいいように思えてしまう。何もかもが面倒臭くなる、というか、何ていうのかな、「面白いからやってるだけ」っていうシンプルな形にしていたい、そこをあんまり濁したくないって気持ちがある。この世間なんかもともと詰まらなく、面白いことも大して無く、だからいつ死んでも別に惜しくもない。

 それはちょうど、昼休みの男子高校生が、屋上の手すりにもたれて「あーあ、かったりーなー」「何か面白いことねーかなー」って言ってるような原風景がベースとしてある。幕末の夭折の天才児・高杉晋作の辞世に「面白きこともなき世を面白く〜」というのがあるけど、そんな感じなのかな。だからこそ「面白い遊び」は貴重であり、それを見つけると全身全霊で没頭するという。でも、一歩引いたら、相変わらずどーでもいいような世の中であり、別に全人類が絶滅したとしても「あっそう」くらいの感動しかないという、絶対零度のように醒めている感情も又ある。

 男の子の原風景って多分これなんじゃないかなって思うのですね。

面白いことしか興味なし

 本音をいえば、「豊か」「幸せ」とかいうことに、そんなに興味がない。それが究極目的ではなく、一瞬の「おお」というときめきや、鳥肌がたつような感動、その一瞬にだけ味わえる鮮烈な感覚にだけ興味がある。その興味を満たすことが、男族のいう「豊かさ」であり「幸せ」なのだろうけど、ここまでいくともはや言葉の問題でしかない。

 極論すれば、男族には「面白かったら死んでもいい」と思っているフシがある。実際、この世に命のやりとりくらい面白いことはなく、生と死のギリギリ断崖絶壁にいけばいくほど、血は沸騰し、体毛は逆立ち、アドレナリン全開快感が身を焼き尽くす。「真っ白に燃え尽きる」快感です。男にとって理想の老後理想の死は戦死であり、戦場で壮絶な最期を遂げ、あわよくば後世に「すごい奴がいた」と語り継がれること。「もののふたる者、名こそ惜しめ」です。ただしその戦場は自分の一生を飾りうる納得できるものでなければならない。どっか利権まみれの政財界のブタどもが勝手におっぱじめた戦争なんぞではなく、「ふ、よかろう。この命、お前にくれてやる」と雲のジュウザがユリアに言うように、命を賭けるに値する女であったり、大義でなければならない。実際にはそんなことは滅多に無いけど(馬鹿殿の後始末で詰め腹切らされたり)、そうであってほしいと思う。男の一生は、すなわち「最高の死に場所探し」でもある。

 だから、「王になりたい」というのは「競争」という最高に面白いゲームに熱中することであり、「風になりたい」というのは、全てはどうでもいいよ、囚われていたくないよ、いつもサバサバしていたいよという感情でしょう。小さな男の子が、一心不乱に熱中してたと思ったら、不意に「やーめた」と飽きてほっぽり出すような感じです。

 そういえば人類史に輝くような仕事を残した天才が、あるときを境にふっつり止めてしまうケースが多々あります。アルチュール・ランボーは、世界史上に残る天才詩人で後世にとてつもない影響を与えましたが、その詩作は全て十代に書かれたもので、20歳以降〜36歳で死ぬまではただの商売人をやっていて、一片の詩も書いていません。実は書いていたのかも知れなけど、後世に残ってはいない。あるいは、浮世絵師・東洲斎写楽の活動期間はわずか10ヶ月に過ぎず、その後消息をふっつり絶っているので謎の絵師と呼ばれています。まあ、いろいろな諸事情があったのでしょうが、基本的には「飽きた」んじゃないかなあ。

 こういうことって別に天才たちでなくても、誰にでもあると思います。僕自身、王になりたくて必死に司法試験をやり、風になりたくて全ててうっちゃらかしてオーストラリアに来たわけで、本能のままにやってるから気持ちはいいです。そして、この二つは一見真逆のようでいて、自分の中では全然矛盾せずに同居しているという。昼があれば夜もあるよ、夏もあれば冬もあるよ、みたいな感じ。いずれにせよ太陽があっちゃこっちゃに行ってるだけのことに変わりはないし、その意味では全く同じことなんだって。


なんでそうなの?

オスの役目は数秒間

 なんで男族はそうなんだろう?王になりたいにせよ、風になりたいにせよ、なんでそんなにチャランポランなの?と。女性から見たら、なんでそんなに馬鹿なの?と不思議に思えるかもしれないし、これを男性から言えば「女には分からん!」って部分なんでしょうけど。

 以下は完全に推測なんですけど、男、いやオス型のホモサピエンスには、本質的にあんまりやることが無いからだと思います。

 生物の第一次的使命は「生命保存本能=生きること」であり、個体の寿命が有限である以上、第二次的には「種族保存本能=子孫を作り育てること」です。第一次使命を果たすためにヒトは呼吸して、食って、寝ることをしなければなりません。これはどんな怠け者でもやるでしょう。第二次使命のために、異性に惹かれ、あるいは惹かれるように努力(着飾ったり、カッコつけたり)し、セックスをして、出産をして、育児をします。

 生物学的には、これらの使命を果たせはお役御免ですし、大抵の場合はそれをやってるうちに命が尽きます。そして、有性生殖生物の一大イベントである受精や受粉におけるオスの役目は精子の提供です。「はいっ」って渡せばそれでいい。多くの生物の場合、メスは受精した卵細胞を大事に育てていきます。もちろん生き物によって形態は千差万別ですが、生命(サイクル)活動の大部分はメスが必死こいてやるわけで、オスは要所において精子を提供するだけ、いわば精子デリバリーボーイみたいなものです。にぎり寿司をつくる全工程のうちワサビを入れる程度の寄与度しかない。

 大型生物になるとメスが出産するまで時間もかかるし、またヒナが一本立ちするまで親があれこれ面倒みたりもしますから、オスがメスを守ったり、育児に協力することもあります。オスの役目は、まず第一に精子の提供であり、第二にそれに付随してセックスのビフォー&アフターケアです。ビフォー・ケアというのは、メスに気に入ってもらうために孔雀の羽根を広げて見せびらかしたりというカッコつけ作業です。アフターケアはメスと子供の保護。つまり、いかに女の子に気に入られるか、そして母ちゃんと子供を守ることがオスの役目であると。ただ、これらのケアは精子の提供ほど不可欠な工程ではなく付随的なものでしょう。

 もともとオスの役目なんか、煎じ詰めれば射精の数秒間くらいです。それ以外はヒマです。やることがない。昆虫のオス、例えばミツバチの場合、だいたい4万匹くらいといわれる集団の中心にいるのが女王蜂(Queenbee)で、その他の大多数はメスのミツバチ(Workbee)。そしてちょっとしかいないオス蜂は交尾要員。しかも女王蜂と交尾できるのはたった一匹だけ、それも交尾のあとに生殖器が傷ついて死ぬしかない。あとの大多数の雄蜂は、用済みとばかりに餌(蜜)をもらなくて餓死、ないし放逐されて野垂れ死に。雄蜂も実は多少は働いているらしいんですけど、彼らの英語名が"Dronebee(怠け蜂)"ということから分かるように、大した役割を果たしていない。てか、要するに精子さえ提供してくれたら、あとは用はないのだ。

 セックスは遺伝子シャッフルですから、できるだけ優秀なオスの遺伝子があればいい。そしてオスは何度も生殖可能ですから、まさに種馬と同じことで、数百の個体のうちからひとつ最優秀な精子が得られたらそれで良い。オットセイのハーレムのように、勝ち抜いたオスだけが約20頭のメスを囲ってハーレムを作り、あぶれたオスは童貞のまま同性同士のグループで一生を終えるとか。もっとも、オットセイの寿命は20年後前後あり、繁殖期間も数年あり、去年敗れてもリベンジする機会はある。またメスはもっとしたたかで、去年交尾したオスのハーレムには入らず、違うオスと交尾する(遺伝子シャッフルの機会を増やす本能)。

人類の初期設定

 人類の場合はどうか。ネアンデルタール人など旧人類が30-50万年前くらい、新人類が20年前くらいに出現し、現代型のホモサピエンスの祖先になるクロマニヨン人は1-4万年くらい前の話だそうです。今に比べれば寿命も短く、だいたい20-30歳くらい、20歳過ぎたらもう老人でしょう。1万年かそこらで遺伝子がボコボコ変わって進化するわけもないから、今もその頃とそんなに変わってないでしょうから、デフォルト設定では女の子が初潮をみたら即受精・出産し、第三〜四子が数歳になるころに死ぬという感じですか。当時の新生児死亡率はかなり高かっただろうから、一人で3-4人くらい産まないと種が滅亡するでしょう。だから逆算すれば12歳くらいで出産を始めないと間に合わない。もうロリコンもなにも無いです。

 「愛はなぜ終わるか」(ヘレン・E・フィッシャー (著), 吉田 利子 (著))では、古今東西の人類の文化をみていくと、だいたい結婚生活は4年くらいで終わるらしく、子供が4つにもなれば、あとは部族が子供を育てる(というか半人前ながらも労動力として必要とした)から、自然の愛情なんかその程度の期間保てばそれで十分、それが自然の設計なのだという所見が展開されています。

 こういう初期設定において、オスは、中学に上がる頃にはもう配偶者を見つけてないといけないわけだし、高校になる頃には一家の大黒柱になってないといけない。その間、周囲は野獣だの天候だの天敵だらけですから、ちょっと目を離したら身重のメスや幼子は死んでしまう、また必死こいて食料をかき集めてこなくてはならない。メチャクチャ厳しい環境だからこそ、本能の命じるまま右往左往しておればよく、それで大体充実の人生は終わっていた。

 かくして人間のオスは、オットセイや雄蜂ほど悲惨ではなく、生涯を通じて適当に「やること」があったのですが、ああ、だがしかし、人類の画期的な発見である「農業」によって話は変わってきたのでしょう。以前よりも安定的に食料を得られるようになり、種族維持環境は飛躍的に良くなります。またより効率のよい農作業のために、集団や社会も大きくなるし、安全度も高まる。

 多少なりとも余裕が出てくると、昔ほど必死に外敵に備えたりメスを守ったりしなくても良くなる。男はますますヒマになります。「原始、女性は太陽だった」状態にしておけば良かったのに、ヒマになった男どもがあれこれ暇つぶしのように色々とやり始めたのでしょう。これが人類の進歩という福音の始まりでもあり、悲惨な歴史の始まりにもなる。大自然が予定しているのは遺伝子シャッフル試行錯誤による「進化」であって、小賢しい「進歩」ではない。でも、人類は進歩の道を進み始め、そして今日に至る。

ヒマツブシの歴史

 もともと男というのは、大型肉食獣と戦ったりするために筋力や瞬発力、攻撃防御のセンスに優れています。また、野生の鳥獣を狩るために天性のGPS感覚や空間把握力があります(だから一回通った道を覚えるし、地図もよく読める)。それをメスを守るために使っていればいいのに、退屈だから色々やり始める。社会でも皆が助けあってればいいのに、競争本能のまま○○と○○はどっちがエライとかやったり、階級を作り、よその集団を攻めたり守ったり。また、ヒマにまかせて道具の改良を試みる。それらは収穫を増やすのに役に立つ反面、人を殺す武器を進化させもした。現在でも多くの先端技術は軍需産業から始めるとかいうのですから、あんまり変わってないよね。

 かくして、人類に社会、国家が生まれ、階級が生まれ、格差が生まれ、戦争が生じる。人間がどんどん自然から離れていくのは、本来自然の設計からしたら忙殺されているべきオスが、急にヒマになったからだと思います。女性からみたら、男なんかろくなことをしないのですよね。夫のことを「宿六(やどろく)」という古い罵倒用語がありますが、家にいてろくなことをしない奴って意味です。当たってるじゃん。

 そして近々2000年ほど、長い人類の歴史からしたら「最近」ですが、どんどん技術が向上し、生活が安定し、男がヒマになればなるほど、ヒマツブシは発展します。貴族階級なんか本当にヒマだから、複雑な思弁にふけって哲学やってみたり、アートに凝ってみたり、パトロンになったり、グルメになったり、まあ、それが人類の文化を発展させてくれたわけですね。しかし、そんな有意義なヒマツブシよりも、人に迷惑がかかるヒマツブシの方が多い。集団内部では派閥争いやら、宮廷陰謀やら、毒殺をやり、内乱をやり、外に向かっては戦争をしかけ、勝った負けた、誰は英雄で誰が戦犯だとかやってる。

 というわけで、人類の歴史(として記述されているもの)は、その殆どが、力とヒマを持て余した男達によるヒマツブシの歴史だといってもいいと思います。今では、戦争を知らない世代を「平和ボケ」とかいいますが、クロマニヨン人達に言わせれば、戦争なんてヒマなことをやってること自体が「平和ボケ」なのでしょう。「地球環境下における人類」という初期設定においては、やれクマと戦わねばならないわ、気候の変化に追われてアテのない旅に出たりして、多くは食われたり、餓死したりしてたわけです。喧嘩なんて無駄に腹が減ることやってる余裕はないでしょう。

結語

ヒマツブシ社会

 特にここ数十年の先進国においては、人数多すぎのために、種族保存本能は自然に衰退し、セックスはレジャー化するし、避妊はエチケットですらある。実際に精子の数も減ってるらしい。同性愛者も増えているのか、同性婚も徐々に認められつつある。

 今の人類は、本来の生物のありようからしたら虚構の世界に生きているようなものです。特に男の場合は、生まれてから死ぬまで全部ヒマといってもいいくらいです。また人口維持をしようとするなら、1万人に一人くらいの優秀なオスのDNAの精子を冷凍しておき、あとは皆殺しにしたり、奴隷にして死ぬまでこき使ったり、食肉用に家畜として屠殺してても別にそれで帳尻は合いますから。むごたらしい話だけど、人類は他の動物に対してはそれをやってるわけですから。

 今週のお題は、それだけのことです。カラッカラに乾いた事実の問題としていえば、多分そういうことなんだろうなって話です。

 ただ、それでも、今の社会が、ヒマを持て余した男性達によって身勝手に連綿と行われてきたヒマツブシゲームに過ぎないのだ、ヒマツブシの虚構世界に過ぎないのだって視点は持っていても良いと思います。

 ヒマツブシといっても、もともとがかなりの潜在能力をもつ男族のやることです。なんせ一生のうちに何回かは、野生のトラとか狼相手に、ひとりぼっちで棍棒振りかざして戦ったり、逃げたりしなければならないのですから。それだけ過酷な生活環境をしたたかに生き抜いていくだけの能力、その能力をもった個体の遺伝子を受け継いでいるわけですから、ハンパな力ではないです。それだけの力が全部ヒマになって宙に浮いているわけですから、そりゃヒマツブシといっても、どのジャンルであれ見上げるばかりの巨大な神殿のような構築をするでしょう。

 しかし、どんなに壮麗な宮殿であろうが、基本は「ヒマだから」やってるだけのことです。
 政治だ、経済だ、国際なんたらだ、、、って深刻ぶってあれこれ言うけど、メシ食って、セックスして、子供を育てるだけだったら、ここまで大掛かりなシステムなんか要らない。現在のシステムの98%くらいは無駄というか、過剰だと思いますよ。幼稚園から大学院まで20年もかけて学んでいるけど、それが必要なことのように言われたりもするけど、メシ食って恋して家庭を持つだけだったら、ベーシックな農林水産技術と社会ことを少し学べばいいだけ、小学校で十分、どうかすると学校なんか要らないくらいでしょう。

 なんでそこまで学歴や技術が必要なのかというと、また無駄に発達した官僚機構やら、不必要な物を生産している企業に入るためなんだから、無駄のために無駄をやってるようなものと言えなくもない。Aという無駄がBという無駄を必要とし、Bのために又ぞろ無駄なCが生じる、、という。それで人類が幸福に向かっているのかといえば、鬱は広がるわ、格差は生じるわ、自然環境は破壊するわ、何やってんねん?ってことです。もともとが「面白いから」やってるだけことなんだから、そこにトータルな整合性なんかある筈がないのだ。

 まあ、これは文明批評で耳慣れた話ではあるのですが、思い切って腹くくって認めてしまえばいいじゃんって思います。社会も、国家も、ヒマツブシの遊びに過ぎないんだって。戦争ですらヒマツブシなんだって。だから、ムキになったり、深刻になってやることじゃないよって。

 本当に必要なことはDNAが教えてくれるでしょ。それに従ってればいいんだろ。あのひとが恋しいとか、この子が可愛いってやってれば、それで基本、人間合格なんだと思います。それが成就するかどうかはともかく、そういう気持ちで、そういう行動をしていれば、別にそれでいい。自然はそれ以上のことを人類に求めていない。

ヒマツブシの身の程を知る

 とはいいつも、この手に余る膨大なヒマはどうするか?ですが、だからヒマツブシをすれば良いのです。ムキになって誰かと競ったり、王になりたくなったり、風になりたくなったりすればいいし、王にも風にもなればいい。

 ただし「ヒマツブシに過ぎない」という自覚だけは忘れてはならない、と思います。守るべき掟はただそれだけ。そんなに難しいことではないと思います。それに命を賭けたり、本当に死んじゃったりしてもいいんだけど、でもヒマツブシとしての「身の程」を知れ、と。「人々が、素朴に健やかに生きる」という自然の営みに対しては、一歩道を譲らねばならない。それこそが自然の王道カルチャーなんだし、僕らはサブカルやってるだけ。メインカルチャーである自然の営みを妨害したり、破壊してまでヒマツブシをするのは、ヒマツブシ道の風上に置けない、と僕は思います。

 と同時に、やれ就活に失敗しましたとか、リストラされましたとかいっても、別に気にしなくてもいい。あんなの所詮はヒマツブシであり、トランプの七並べに負けたことと価値的に大差ないわい。メシさえ食えてれば、ほんでええねん。生きてさえいたらええねん、それで好きな人がおったら万々歳やろ?って地球に神様がいるならば、きっとそう言うと思う。なぜか関西弁で。あんな?ヒマツブシや娯楽ちゅーのは面白いからやってんねやろ?だったら勝っても負けても面白がっとればほんでええやんか?なあにを遊びごときに深刻ぶった顔してんねん、アホかお前は?って。それよりもっと大事なことがあるやろ?って、

 そして、僕と同じ男族に対していえば、俺らは面白くなかったらすぐに死んじゃう生き物なんだ、だから何でもいいから面白がらなアカンと。俺らは、心が動き、身体が動いてなんぼ、その動きに喜びと幸福を見出すことが出来る種族。たかが振ったサイコロの目の合算値が偶数であるか奇数であるかという、どーでもいいようなことに嬉々として命を賭けることが出来る、極めて特異な生物。ヒマツブシの生き物だからこそ、ヒマツブシに関しては天賦の才能に恵まれている。俺らはヒマツブシの天才なのだ。どんなことにも面白がれるし、どんなことにもムキになれる。一方、生物としての王道局面(家族連れとか、食い物を作ってくれているとか、人の幸せを作ってるとか)には敬虔に一歩譲らなあかんで。そこはキッチシわきまえなあかんやろ。それは以外は、この豊かな時代、人生ほとんどヒマツブシのような時代だからこそ、その才能を遺憾なく発揮し、誰にも迷惑にならないように、せいぜい気張ってヒマツブシをしようぜ。ということで、諸侯の健闘を祈る。

 なお女族に対しては、「子育てして一人前」なんてことは言いません(文脈上も明らかだと思うけど、念のため)。70億人もいて今は人間多すぎだし、少子化がどうのなんてのも極東の小島のローカル事情に過ぎない。また冒頭の書いたように実際の性別とは一致しないし。ただ、これは昔書いた記憶があるけど、理念型としての女性性の最大の飛び道具は、男族とちがって、動かなくても幸福になれること、面白さというワンクッション置かなくても、存在そのもので幸福になれる、ヒマツブシをする必要がないという、これまた類まれな特性をもっていると思います。もちろん、阿呆な男族のヒマツブシを「男もすなる日記といふものを、女もしてみむとてするなり(C)紀貫之)」的にやってみるのは全然ウェルカムだし、その方が俺らの遊びは面白くなる。ただ、その阿呆性に毒されないようにして欲しいなって思います。実際に恋人や子供がいる/いないにかかわりなく、シャーマン卑弥呼の血を受け継ぐかのように、この世界と交歓できる官能を有しているので、それを存分に発揮してほしいなと思います。健闘を祈ります(^^)。

 というか、僕自身、女性的なる交歓官能を、大分学んだり、盗んだりさせていただいてます。ありがとう。僕のなかのアニマもかなり強くなりました。このエッセイも半分は自分の中の女性性が書いてます。それをヒマツブシ技術とミックスさせて、「面白くなくても幸福になれる技術」みたいな感じで出来たら面白いんじゃないかなって思ってます。ま、結局「技術」とか「面白い」ってところに帰着するから、どこまでいっても男的なんだけど。


今週のおまけ

てっぺんに立ってちょっと得意な
王に権力闘争はつきものだ
孤高の王の憂愁
リアルにはこんな感じ


文責:田村



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