今週の一枚(2017/12/18)
Essay 856:婚活と国際結婚の4層構造とナレッジベース
〜流動化するパートナー概念と自立
写真は、先日のCoogeeオフの際に撮ったもの。サマータイムののんびり風景。カモメつき。
換金と還元(貢献)
今週の金曜日(12月21日)にシドニーで有志の方々が婚活・国際結婚フォーラムの会を開きます。詳しいことは、専用のサイトであるこちらに主催者の方に「やってみたら?」とか焚き付けたの張本人は僕なのですが、会そのものはAPLaCとは別個独立のものです。僕はキッカケ・触媒・後方支援に徹するつもりです。他人に勧める以上、操縦桿は100%渡さなきゃ、やってて面白くないでしょうし。
今更ながら婚活や国際結婚などがテーマになるのか、既存のサービスが他にもたくさんある中で「屋上屋を架す」(屋根の上にまた屋根を作るように無駄な行動)ではないのか?ってあたりを書きます。
結論的にいえば何重にも意義はあると思ってます。また今よりも将来にかけて意味性は重くなっていくでしょう。一番大きいのは、前回書いたように、そういうのがあった方が「世のため人のためになる」と思ったからです。もちろんビジネスや起業などのとっかかりにもなりますけど、起業するにしたって世のためにならないことやってても気持ち悪いでしょうし。
では、何がどう人のためになるのか?
国内婚活と国際婚活の違い
婚活一般については、僕はちょい懐疑的です。前にも書いたけど(ESSAY 416:「婚活」って本当にブームなの?、あえてそういうネーミングをして、結婚できたら勝ち組みたいな風潮の作為的な「あざとさ」とか、少子化対策として「子供をつくる機械」的な国策的な感じが、なんか違うっぽく感じたからです。それは今でも同じです。ただ、今回改めて考えてみて、国際的な局面、少なくとも自分の手の届くオーストラリアに関して言えば、日本国内で日本人同士が出会ったり暮らしていくのとは、異なる部分が多い。
何が違うかというと、端的に知識や技術的な要素が出て来る点です。ナレッジベースの部分です。
情報の品位とナレッジベース
ナレッジベース(Knowledge Base)というのは、「知識の集積」という意味でIT用語として使われる場合が多いですが、人間集団にも使われます。とある会社での業務上のマニュアルやノウハウを集めておいて、「こういう場合はこうする」という知識をまとめておいて、必要なときに調べて「ふんふん、なるほど」と利用するものです。ここでは、国際局面での婚姻や恋愛にまつわる経験知識や集合知の拠点を作っておけば、何かと人様の役に立つのでは?というものです。今でも口コミやネットなどであるとは思うのですが、なかなか情報の品位が一定しないという問題があります。ともすれば「聞いた話」「噂話」レベル、あるいは都市伝説みたいな興味先行になってしまうキライもあります。また、一つのレアケースが一般解であるかのように流通してしまう恨みもあります。
例えば、シドニー空港の入国で検疫検査は厳しいですか?とかネットで探すと、「こんな目にあった」「すごい厳しい」という情報があがってきたりもしますが、大多数はほとんどフリーパスだったりもするわけです。情報としてズレている。なぜかといえば、そういうことを敢えてネットに書き込む人は、えらい目にあった人が多い。フリーパスだった大多数はそういう問題があることすら気づかず、何も書かない。だから情報としてはネガティブな方向に偏ってしまう。これではナレッジベースとしては十分に機能してない。
なんでか?といえば匿名的な情報というのは、どうしても話を盛ったり、誇張される傾向もあるし、言いっぱなしの無責任な部分があるからだと思います。あるいは商業ベースでやってるので、一定の方向に誘導したいというポジショントークもあるでしょう。ならば、顔も名前も明らかにしたカウンセラーがおって、自分の名前で相談する以上、いい加減な事は言えないってカタチにしておいた方が、情報の練度は高くなるでしょう。自分の場合はこうだったけど、これって一般化していいの?って他のカウンセラーに確認したり、調べたりもしますしね。
あと、単に情報を得れば良いという問題に留まらない場合が多い。大体なにかに直面したときというのは、それに関する「知識を得たい」という点もさることながら、愚痴を言ったり吐き出したいって部分もあろうし、頭を整理したいという点もあるでしょう。その意味では単に情報があるだけでは足りず、インタラクティブな対話形式になってた方が良い。
知識・技術体系
ナレッジベースを、もうちょいぶっちゃけた表現でいえば、「知ってるか/知らないか」です。なんでもそうですが、国際結婚のフィールドにおいても、「知ってるかどうか」で全然違うって局面が多いです。主催者の方にお聞きしたんですけど、日本人女性がこちらに来て、それを願いながらも、誰とも出会わない・デートひとつしたことがないというのは、「やることやってれば」基本ありえないらしいです。僕は未経験なんで「はあ、そんなもんですか」って思うだけですが、じゃあその「やること」って何なのか?です。単に一般的に語られていることだけではなく、どこにどういう工夫の余地があるのか。出会いの場とかパーティとかあるけど、それぞれに場の指向性(真剣志向か遊び系かとか)もあるだろうし、そこでどう振る舞うかとかもあるでしょう。自分から積極的に選択して話しかけるべきなのか、それとも待ってりゃいいのか。会話のネタでもNG系の話題というのはあるのか。また、将来性が無さそうな相手と、真面目に対応すべき相手との見分け方はどうか、あるいはそんな見分け方なんかないから、とりあえず数こなすしかないのかとか。
主催の方は、腹括ってそのために再渡豪(WHやって、その後日本で英語系の仕事を7年やって、それでもやっぱりオーストラリアがいいと人生決断をしてやってきて)、5年がかりで結実させてます。チラと聞いた話だけでも、3回デートするまで選別はしない、共通話題がなくて白けて終わりになるのを防ぐために、ちゃんと調べて予習して臨むとか。これは、偶然の事情(たまたま話題が合わないとか、その日はたまたま〜という要素)をできるだけ排除して、人と人との相性をしっかり見極めるために可能な限りの努力をするということです。ぱっと見の印象とか、なんとなくのイメージとか、そういういい加減な情報処理はしないと。根が真面目な方ですので、そのへんは真面目に突き詰めて、手間暇惜しまずやったのでしょう。
最初は雑談や世間話で僕も聞いてたんですけど、だんだん、それお金とってカウンセリングできるくらいのレベルあるんじゃないの、少なくとも世に出すだけの商品性はあるし、商品性はともかく単なる世間話の域を超えてるわ、誰かの役にはたつわって思ったのがキッカケです。そのあたりはビジネスマンの営業や接待と同じで、確固とした技術体系があるように感じられました。
ビジネスの接待だって、「まごころで〜」「おもてなし〜」って精神論だけいってたら玉砕するリスクが大きい。そういう精神論は、ナレッジベースは全部クリアして、やるべきことは全部やったあとで「最後の決め手になるのは誠意ですよ」って文脈で理解するべきであって、知識技術がゼロであっても良いという意味ではない。「上座」の意味すら知らない人が、学生コンパのノリで「楽しく盛り上がろー」とか接待やってても危なかっしいでしょう?技術体系とか、ナレッジベースというのはそういう意味です。
国際結婚における4つのレイヤー(層)
国内で同国人同士だったら、だいたいどこらへんで出会って、どんな感じで会話して、進展してって一連のルートは知っているでしょう。ナレッジベースはすでに十分ある。だから婚活といっても、それ用の場に出席する以外には、「魅力的な自分になろう」という一般道徳的なことしかないし、またそれで良いですし、それが事実でもあるでしょう。しかし、国際結婚や出会いの場合、そこがかなり違います。
まずどこで出会えるのかがわからない。
しかも、シドニーのように200民族以上いる場合には、宗教的な制約があってお酒はダメとか、豚肉はダメとか、断食だからとか、そういうこともありうる。もちろん皆、そういうコスモポリタンな環境で生きているわけだから、絶対的に自分のカルチャーを主張して一歩をひかないという人は少ないでしょう。そのあたりの違いには寛容だし、違いを乗り越えて共通点を見つけて、それでうまくやっていこうという技術は大したものがあります。でも、普通の日本人はそこらへんの勘どころって学ぶ機会がなかっただけに、ようわからんと思います。
大体、国際的な男女関係の機微になってくると以下の4つのレイヤー(層)があると思われます
(1)人類普遍の愛の部分
(2)その人のパーソナルな個性
(3)その人の民族文化的属性
(4)オーストラリアにおける一般常識
など多層構造になっていると思われるのですが、(1)(2)は国内同国人と同じなんだけど、(3)(4)は意識的に学ばないと不案内なままでしょう。何をどれだけ常識として押さえておくべきか、逆にそんなに神経質にならなくてもいい領域はどこなのか、これは最初に知っておいたほうがいいです。どうせ異文化について完璧に分かるわけないのだけど、最初にある程度心構えができていれば、受け入れ易い部分もあるし、違いについて二人の間でどういう取り決めにすればいいかの話し合い方もあるでしょう。
こと恋愛や人生という意味では、(3)(4)は本質的な部分ではないです。そうなんですよね、ナレッジベースっていっても、ここではそんなに本質に迫るような重要な事柄は少ないです。いわば些細なことなんだけど、それを知らないといちいち蹴つまづいてロスが多い。例えば、古風にラブレターを書いたとしても「切手を貼らなければ配達してくれない」というナレッジベースは、二人の愛にとっては超些細な事柄なんだけど、それを知らないと、いちいちコケるから話が先に進まない。ロスが多い。
知ってるか知らないか
「知ってるか/知らないか」という些事によって振り回されるくらい下らないことはない。「そのくらい知っておけ」ということが世の中にはあるのであって、それはもう知っておくしかないし、知っておけば事足りる。そして国際の場合、その「知っておけ」が結構多いです。だったらもう先に効率よく学んでおいた方がいいでしょ?無駄が少ないし、意味なく心が落ち込むこともない。切手を貼らないで出した手紙が送り返されてきたのを見て、「天はわれに味方せず!」と絶望してるようなものですからね。
出会いだけではない
社会とのすり合わせ
婚活の他に国際結婚一般に広げてますが、いわゆる「出会い」なんか全体のプロセスでいえば10%くらいしかないんじゃないかなって僕も思うのです。これは日本国内でもそうでしょう。出会って、恋が芽生えて、育んで〜ってのは、自然のプログラミング、人類DNAマニュアルでそこそこいける。まあ、そうであっても知っておくべきことはあるでしょうけど。でも、そっから先になってくると「社会とのすり合わせ」が必要になってきます。
それは例えば、いよいよ結婚という話になって、両家の親御さんにお話をするとか、国内だったら結納とかそこらへんのプロセスとか社会常識があります。これが国際ヴァージョンになると、民族文化によって全然違うし、そのあたりをどうこなしていくか。結婚式には千人規模で人が来るのが当たり前というカルチャーの民族もありますからね。
さらに、戸籍やビザという問題があります。日本人にとっては結婚=入籍という「国へのご報告」「国家管理意識」が強いけど、オージーやヨーロピアンはそうではない。そもそも「戸籍」がない。てか、戸籍などという変なものがある国が世界レベルでは少数派ですから。戸籍もないのに「入籍」ってなによ?と、まずそこらへんで混乱するとか、デ・ファクト(事実婚)でいいじゃんっていうパートナーは、あれは真剣ではないからなのか?とか。
ビザ(永住)に関しては、在豪日本人の女性で永住権をお持ちの方のかなりの割合(その具体的な数値は知らないけど)が家族系の永住権(パートナーやファミリー)だと思われます。また自力で独立移住永住権を取れるような方でも、それまでの過程でごく自然に結ばれてしまって、結局ビザはパートナー系ってケースも多いです。ちなみに男性は、居ないことはないんですけど、数からいったらやっぱ少ないですね。
その意味でいえば、あなたが女性で、永住とか考えている場合、パートナービザというのは、純粋確率的にいって無視できるようなものではないし、無視する方が不合理だとも言えます。一方、同性婚も正式に認められた今、LGBTの方にとっても門戸は広げられました(それまでもデファクトでいけたんだけど)。
ただし、ビザが取れるという理屈と、実際に自分が取るとの間には、えらい違いがあります。資料集めにせよ、「口から出まかせ」としか思えない移民局の係員のむちゃくちゃな指示をどうスルーするかとか、実際にやってみるとあれこれあります。日本の戸籍の手続もありますし、国籍の選択肢もあるでしょう。。
だんだん孤独化する〜日本との臍の緒
二人でいるときはいいんでしょうけど、よく聞く問題はパートナーのご実家です。これから西欧系にとっては一大イベントのクリスマスがあるので、相手の実家を訪れるのは定番です。そこでは100%手加減なしのローカル英語、ローカルカルチャーです。思うのですが、こと英語に関しても、これが最高難度だと思います。国際ビジネスの方がまだマシだと思うのは、ビジネスは理知的なフォーマットがあるし、相手もちゃんとした英語喋るし、業界専門用語を覚えたらまだ何となります。しかし、田舎のおばあちゃんとか、何言ってるのかわからん、どんな話題を振られているのかすら見当もつかん。しかも、相手の実家が「アジア人と話するのは初めて(何年ぶり)」とかいうところだと、まずノンネィティブに慣れていないから、手加減して喋ること自体ができない。で、そんなおっちゃんおばちゃん十数人とテーブル囲んで、ポツンとアウェイ感満載で何時間も座るわけですよ。さらに、相手の親族が別の国から来た一族で(ありがち)、英語ですらない、奇妙な風習やしきたりで動くから予測もできない。最初の頃は日本人同士のネットワークとかまだありますからいいんですけど、これが10年、30年とだんだんと年が経つにつれ、疎遠にもなります。「新規補充」をしない限り減る一方です。
でもって、最近のオーストラリア都市部の家賃に嫌気がさして、もっと田舎に住みたいとかいうパートナーの意向も出てきます。付いていったら田舎の町では、日本人てかアジア人は自分だけ。皆のいるシドニーまで車で何(十)時間も離れてるなんてこともあります。ワーホリさんのラウンドやファームは、まだ同世代や同環境の仲間が沢山いるし、最初からテンポラリーなものだからいいですけど、これがパーマネントに孤独だったら、それも辛いでしょう。
また、自分が老齢になり認知症とか脳梗塞とかになると、あれだけ苦労して覚えた英語を綺麗さっぱり忘れてしまうという話も聞きます。そうなったら異邦人どころか、異星人感覚にもなるでしょう。
他方では、子供が生まれて、その子がなにか障害を宿しているとか、学業やら性向に問題があるやらってことも出来ます。
さらに、日本に残してきた老親の介護がそろそろ問題になってきたとか、相続でモメているとか、、って日本方面のあれこれもあるでしょう。日本の法律関係だったら僕がある程度ヘルプできると思いますが。
「ああ、だがしかし、それでも人生は続く」って話で、誰にでもある当たり前の話なんだけど、それをいちいちアウェイ環境でやっていくのは、それなりにしんどいものもあるとは思います。
友達よりも第三者のほうが楽
そんなときに日本語で喋れて相談できる環境があった方が良い。それも友達ではない方がいい。なぜなら友達同士だからこそ生じる妙なこだわり(見栄とか競争心)が邪魔をしたりもしますしね。そのあたりのしがらみフリーで、カウンセリング的にいつでも繋がっていられるのは良いことだと思うし、求めればリーズナブルな価格でそれなりの品質のアドバイスを得られるという環境を作っておくのは、いつどこで誰のためになるのかわからないけど、でもゼネラルには世のためになるだろうと思います。もちろん100%アウェイだって、それが悪いわけじゃないですよ。人間の適応能力はすごいですから、どんなところも住めば都だし、年とともに根付いていって、ここが故郷になるってことはあります。いくらでもある。僕だって、別に誰かを頼ってきたわけではないけど、住んでれば馴染んじゃいますから、それはわかります。それに日本の昔の結婚は、今の国際結婚以上にアウェイなものだったとも思いますしね。「家」が違うと国や法律が違うくらい違い、それだけ絶対的でもありましたし。
また、異文化の衝突というのは、同民族、日本人同士でもあります。むしろ近しい方が些細な差が大きく違って見えて激しく対立したりするものでしょう。なまじ同じだと思ってるだけに、ちょっとした違いが「常識がない」と許せなくなりますから。いっそ異文化・外人同士の方が、許容性のマージンが広い場合も多いでしょう。だから国際が一概に大変だというつもりはないです。むしろ国際結婚の方が、二人の想い以外に接着剤がないだけに、よりピュアになるとも言えます。
そうはいってもガタピシはあるだろうし、そんなときに気軽に相談するチャネルがある、ただの愚痴でもいい、同じような立場にいてわかってくれる共通ベースがあって、且つある程度専門的にそういう活動をしている人がいるのは、悪いことではないと思います。
流動化するパートナー概念と自立戦略
話をさらに広げます。いつもエッセイで書いてることですけど、起業でもなんでも自分でなんかやるといいよという話です。
パートナーがいようがいまいが、経済的にも精神的にも自立はしておいた方がいい。パートナーに全部おんぶにだっこだったら、いくら内助の功といえども、何かあった時につっかえ棒が外されてしまって、一気にガラガラと崩壊する。それは避けるべき。
それがレアケースなのかというと、必ずしもレアではないし、今後はそちらの方が常態化するでしょう。一つは離婚率の上昇。ヨーロッパ諸国では離婚率50%とか言われますが(70%前後の国もある)、オーストラリアや日本は「まだ」3分の1程度です。
外枠の力で維持している婚姻
ただし、僕の意見では、本当のところは限りなく100%に近いとは思う。なぜって普通の恋愛の破局率が実際100%に近いからです。恋愛であれ結婚であれ男女間の継続的関係であることに変わりはないところ、なんで結婚だけ破綻率が低いのか?といえば、社会的圧力などの外部要素しか考えられないからです。外聞が悪いとか、経済的に立ち行かないとか、子供のためなどの理由で我慢して一緒にいるという。これが潜在化している暗数になっているから、本当のところはわからない。そして一般にそういった外部要因は、年長者の方が強い。昔の方が婚姻概念が強い。文化的にも経済的にもそうなるだけの事実があった。だけど外部要因がだんだん緩んでくるし、またサポート力も落ちてきている。何を言ってるかといえば、昔の企業は、男性社員に対して、一家4人がつつがなく暮らせて死んでいけるだけの給料を払ってたからです。その前提で、公的にも健康保険にせよ年金にせよ被保険者のカテゴリーができたり、配偶者控除があったりした。しかし人件費カットでそこまで大盤振る舞いできなくなってきた。一方で共働きは当たり前になってきた。そんな中、生き延びるための方策と結婚生活とは必ずしも一致しなくなった。
現在から将来に向けて、この傾向は一層強くなるでしょうし、今の若い人は離婚がどうのという以前にそもそも結婚できるだけの経済基盤がなかなか形成されないか、出来たとしてもそれが永続する保証はどこにもない。だから結婚しないという選択肢が普通のものになっている。日本の離婚率は最近特にそれほど上がってないけど、婚姻率そのものが下がってる。ならば自立すべき状況は増えていることに変わりはないし、今後それが逆転するとも思いにくい。
一方で、こないだエッセイの書いたようにフランスの民事連帯契約のような簡易な結婚形式が定着したり、LGBTの結婚が合法化普通化していく流れがあり、「パートナー」という概念は、かつてないくらいゆるやかなものになっていると思います。これは、それだけ「風紀が乱れた」とか見るべきではなく、もともとがそんなものだと思うべきでしょう。事実上破綻して形骸化している結婚生活を、外部的なもの(経済的理由や世間への体裁とか)で、カタチを整えていただけものが、徐々に外部の力が弱くなって(合理性がなくなって)、もともとの姿に戻ってきているのだと僕は思います。
ちなみに「昔は良かった」とかいうけど、もっと昔はもっとメチャクチャでしたよ。古い相続案件で明治時代の戸籍とか遡ることがあるのですが、びっくりするくらい皆さん離婚してます。養子縁組も多けりゃ、離縁も多いし。あの頃は、後継ぎの男子を産まなかったらそれだけで妻はリストラされてたから(三年子(男児)無きは去れ)、離婚なんか一種の「返品」であって、全然普通。また当時の家制度は、今でいう企業活動と変わらんから、もっとドライに「人事」も行ってた。企業における出向人事のように、どっかで赤ちゃんが生まれたら、世継ぎがいない家がもらってきて自分らの子供として届けるとか(「藁の上からの養子」という)。正妻に子供がなく、お妾さんが男子を産んだら、正妻はほっぽり出されるとか、お妾さんの子供(妾腹というけど)を養子縁組して嫡出子にするとか、まあ、臨機応変・自由自在。だからお家騒動というのが起きたのだけど。あれは「ファミリー」じゃないですよね、「エンタープライズ(企業)」だと思ったほうが理解しやすい。
何言ってるかというと、パートナー概念というのは、すぐれて社会その他の外部環境によって広がったり狭まったりするだけのことで、そういった外部要因を全部取り去ってみれば、普通の一般の男女関係と特に変わりはないだろうということです。当たり前の話だと思う。そして、普通の男女関係が、別れというイベントを普通にはらんでいるならば、結婚したあとも同じように破綻をはらむだろう。それは別に悪いことでも、悲しむことでもない。当たり前のこと。それぞれが十分に話し合って、それぞれがベストと思う方向を選べば良い。何が何でも自分を殺して現状維持するのが正しいとも言い切れんでしょう。
自立と起業・ライフテーマ
ただ、何がどうなろうと、できれば自立していた方がいいだろう。女であれ、男であれ。よく話しあってベストを模索するためにも、なにがしかの独立自尊の基盤はあった方がいい。日本でもそうですが、貧困層は女性の方が多いです。国の施策も経済も、まだまだ男性中心であるので、女性の、それも一定年齢以上になった場合の処世が難しい。オーストラリアでも女性のホームレスが増えていると聞きますし、実際にも見かけます。
だからまだ何もないウチから自分なりに「なんか」やっていた方がいいし、自分なりのネットワークを組んでおいた方がいい。それがこのKKフォーラムの射程に入るかどうかは、主催者の方々の意向によるでしょうし、特に僕の方から注文をつける気もないです。でも、それはそれとして、そういう視点、自立できる、その足がかりになりそうな何らかのアクティビティなり、ネットワークなりは、若いうちから自覚的にやっておくといいんじゃないかってことです。
起業にせよテーマ性にせよ、最初から完成形を狙うとコケますよ。てか始まらないです。ああいうのって雪だるま式に大きくなりますから、最初にやるべきは「雪だるまの芯」を作ることでしょう。ゴルフボール大、あるいはパチンコ玉サイズでもいい。それを作って、ゆっくり地道に転がしていくと、いろんな偶然や出会いやらがくっついてきて、だんだん大きくなってきて、雪だるまサイズになるという。
僕自身は女性でもないし、特にそういうテーマに取り組んでるわけでもないのだけど、それだけに傍からよく見えるってところはあります。クールに考えてみて、なんか一本手当しておいたほうがいいんじゃないかな、と。また、それはセーフハウス構想の起点の一つでもあります。生きにくい世の中になるのであれば、生きやすいようなシステムを自分らで開発するっきゃないでしょ、っていう当たり前の話です。
文責:田村