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今週の1枚(09.06.22)





ESSAY 416:「婚活」って本当にブームなの?


 写真は、Enmoreの平日の昼下がり。いいですねー、このうらぶれた感じ。いかにもローカルという感じで。真ん中に写ってるおじいちゃん、よく見ると結構オシャレです。




 既に旧聞に属するとは思うけど、「婚活」というのがブームだそうですな。これにちなんだ新刊本が山積みされ、結婚相談所の利用法が語られ、あらゆる種類の合コンが企画され、報道特集が組まれ、TVドラマも放映され、ついには5月2日は婚活の日になったそうです。この記念日、勝手に言ってるだけかと思ったら、ちゃんと日本記念日協会(そんなのあるんだ)に認定されているそうです。

 「ほおー」と思ったのですが、ちょっと前の"非モテ"とか"負け犬"とかと同じような文脈で、正直いって笑ってしまった。いや真剣に考えている方もおられるだろうから、笑うのは不謹慎なのかもしれないけど、でもねえ、やっぱりここは一発笑うべきではあるまいか。笑うというか「笑い飛ばす」というか。

 しかし、この笑いはどこかしら苦味があります。単に面白くて笑うという陽性なものだけではなく、もっと根深くて、ブラックな感情も混じってます。この言葉と現象が持っている、日本独特ともいえる"うざったさ"への嫌悪感があります。

 婚活とは、就職活動との類似ネーミングで結婚活動のことをいい、もともとは社会学者の山田昌弘氏の造語であり、同氏は後日に白河桃子氏と『「婚活」時代』を出版しています。この言葉が初めて公刊物に登場し、日本語市場に出てきたのは、AERAの07年11月5日号ということになってます。

 まあ原点においてはシリアスな社会学的な現象があり、それを摘出し、適切な助言を行おうという、それなりに誠実な意図のもとに言われた言葉なのでしょう。現代の日本社会においては、旧来のように自然にやってたら結婚できない!という問題的な状況があるそうです。つまり終身雇用をはじめ雇用状況が厳しくなり、将来設計が出来なくなった。将来設計ができないからこそ結婚という安定を求めたいのだけど、将来設計ができないから結婚に踏み切れないという、分ったような分らないような、何かヘンだなという状況があると。そういうことが頻繁にTVや記事で報道され、人々の危機意識を煽っているという。

 ところで、この種のコンセプトというのは、ネーミングの面白さによって人々に知れ渡る頃には、本来の意味から逸脱して一人歩きを始め、原点の発想とは全く違う意味になってしまったりします。

 ずっと昔の日本では、「根暗」という言葉が流行りました。この言葉の創始者はタモリで、もともと彼は自分のことを描写するために使っており、「一見明るく社交的だけど、一人でいるときは結構暗い人」のことです。外からは見えないからこそ「根」が暗いというわけで、そのコントラストや意外性こそがコンセプトの核にあります。したがって見た目からして暗い人は「根暗」とは言わない。そうなんだけど流行った頃には味噌もクソも一緒くたにされ、ちょっとでも雰囲気が暗かったり、ノリが悪かったりすれば全部ひっくるめてネクラ呼ばわりされました。そして「暗い」ことが何か人間として重大な欠陥であるかのようなものの見方が広がり、"エンガチョ"的構造に発展し、ひいては社会的な差別すら産んでたわけですね。大袈裟に聞こえるかもしれないけど、実際そうだったと思う。人々は「暗い」というレッテルを貼られることを恐れ、無理やり明るく振る舞い、軽薄金ピカ80年代にを驀進し、バブルに突入&大玉砕し、その反動か知らんけど、その後の20年日本そのものが暗い社会になってしった。まあ、別に、言葉一つで経済が右往左往しているわけじゃないけどさ。

 今回の「婚活」が本来の意味から外れて使われているかどうかは、もともとの著作を読んでないので分りませんが、何か新しい概念が生まれ、やがて一人歩きを始めるにしがって、うっすらと邪悪な影を帯びつつ、他者を貶(おとし)める差別ツールとして機能していく、その構造そのものは変わらないと思います。婚活だけなら微笑ましいことかもしれんけど、それが段々と「結婚しない」「何となく時期が熟してない」という自由意思や自然な感覚を狭めていく。日本の晩婚化は一貫して進んでおり、感覚的には結婚というのは「しないもの」「したい人がするもの」だったのに、それがいつしか「するもの」に潮流が変わってきている。さっきYou-Tubeで見てたら、報道番組の冒頭で「日本の未婚男女の90%は結婚したいと思ってる」そうです。本当かよ?ちょっと前まで全然違う数字だったように記憶してるぞ。もうちょい進めば、結婚「しない人」は、結婚「出来ない人」という扱われ方がなされ、なにか人間として重大な欠陥があるかのように、、、(以下、上記と同文)。うがちすぎですか?でも、結婚や出産がステイタスみたいな捉え方をされてませんか。このように新しいコンセプトが、ただのコンセプトに終わらず、差別化ツールとして機能していくのは、最近ではほかにも「加齢臭」あたりもそんな気がします。

 ほんでもって、ちょっとでも流行るとこれに便乗しようとして商魂逞しい人々が余すところなくこの新しいコンセプトを利用しようとします。婚活もまさにそのパターンで、Googleで検索すると、あがってくる多くのサイトは商業サイトです。結婚相談所とかお見合いビジネスとかさ、広い意味でのブライダルビジネス。ブログとか個人系のサイトもあるけど、アフィリエイトとかビシバシ張ってあるし、一見個人ブログだけど実は巧妙に作られた商業サイトらしきものも散見されます。そして話題になれば何でもいい、とにかく売るのが至上命題という不況に喘ぐ出版業界やメディアも当然ながらガンガン参加します。まあ、相も変わらぬいつもの光景ですかね。

 僕がイヤなのはこの構造なのでしょう。対象がなんであれ線が一本引かれると、線のこっちは勝ち組で、あっちは負け組という構造。毒性は希釈されているとはいえ「他者を嘲笑したい」という暗い情念みたいなもの、嘲笑されたくないという恐怖とがあいまって原動力になり、商業主義がそれにオーバードライブをかけていくという、うざったい構造です。だから、「婚活う?」と笑い飛ばしながらも、「ざけんじゃねえ!」という怒りもあるわけです。また、くっだらないことを言いやがってという。


 婚活=望ましい結婚を成就させるためのアレコレの営み=なんて昔からありました。「玉の輿」なんて言葉があるくらいだもん。シンデレラの意地悪なお姉さん達なんか王子様と結婚するために舞踏会に行ったりしてるわけで、あれだって婚活でしょう。シンデレラの話って、日本語版では修正されているけど原作はエグくて、お姉さん達はガラスの靴に合わせるために自分の足をぶった切って血まみれになってたりするわけで、婚活もここまでいくと涙ぐましいのを通り越して鬼気迫りますね。婚活をさらに広く"求愛活動"一般とみれば、かぐや姫にやってきた3名の貴公子の話なんてのもありますね。全員無理難題を押しつけられてフラれてしまうけど。

 そこまで物語チックでなくても「押しかけ女房」なんて言葉もあるし、「押しの一手」なんちゅー言葉もある。言葉があるということは、そういう実態もあったということで、この種のことはセックスや睡眠、食事と同じく、人類始まって以来延々とやり続けてきてるわけでしょ。本来なんの目新しさもない。てか、別に人類に限らず、動物界では例えば孔雀の羽のように、例えば虫の鳴き声のように、あの手この手で異性をゲットするためにたゆまぬ努力を注ぎ込むのが生き物っちゅーものでしょう。オス同士で殺し合いをやるなんてこともザラです。それが地球上の生物の正しい「生物道」なのだろう。

 こんなクソ当たり前の行動が、いまさら改めて「活動」なんて呼ばれるというのは、クソ当たり前のことがクソ当たり前になっていないというイビツな社会状況があるわけで、言い出しっぺの山田先生もそのあたりに着眼したのでしょう。ちなみにこの先生、パラサイトシングルとか希望格差社会とか物議を醸すようなコンセプトの言い出しっぺでもあり、それに関する賛否両論はあるようですが、それはここでは問いません。社会学者や評論家は、そーゆーことを言うのが仕事であり、いわば鵜の目鷹の目で社会の時代的な特異点(平たく言えば"あら探し")をするのがお仕事なのですから、ガンガンやってください。

 問題は、専門家が次から次へ持ち出してくる"新しい"視点を、非専門家である我々がどう受け止め、どう咀嚼するかだと思います。しかし、往々にして我々は、原点的著作を読みもせず、したがって慎重に検討することもしない。その代わりに、原点コンセプトの尻馬に乗る、、、、だけにとどまらず、我田引水的に拡大&歪曲し、ブーム化し、財貨サービスを売りつけようとする商業主義による第二次、第三次加工品を見聞するケースが圧倒的に多い。かくして話はどんどん逸れていく。もっとも、資本主義メディアというのがそーゆーものだということは、いわば常識でもあり、これまた「そーゆーもんだ」という前提で生きていく必要があるでしょう。雑誌を読んで人生考えるようになったら、ちょっとヤバイんじゃないのかしら。

 さて、イチ個人としての僕はどう受け止めるかというと、冒頭のように「笑い飛ばす」というアクションを取りたいなと思うわけです。また、多くの人がそうしているように、「無責任に面白がる」というのもアリだと思います。もともと面白おかしくセンセーショナルに商業加工されたものなんだから、まともに取り合わず、「へえ〜、けけけ!」と笑ってたり面白がったりしてれば良いのでしょう。しかし、皆がみんな笑い飛ばしているわけでもなさそうで、冗談で言ってるのかと思ったら冗談ではなく、マジだったというパターンをチラホラ見聞するようになると、笑ってばかりもいられない。冗談として笑っているうちは問題も少ないのですが、笑わなくなったらちょっとヤバイ。汚染された食物を食べ続けているように、体内に毒素がたまっていってしまう人もいるだろう。それで愉快であるべき日常が不愉快になってしまう人も出てくるだろう。

 この現象について僕がひっかかりを覚える点は、細かく分類すれば幾つもあるようです。例えば、

@、結婚してると人生の勝者であり、してないと敗者であるかのような、どーしよーもなく未熟で稚拙な人生観。これは「負け犬」なんかもそうだけど、突き詰めていけば狭い社会の中での相対関係でしか自分の人生の立ち位置が分らないという致命的な視野狭窄であり、また視野狭窄にならざるをえない風通しの悪い社会構造。そしてこれが他者を差別して安心するか or 差別されないように頑張るかという、勝ち組/負け組的しょーもない二元論を産む土壌になる。なんか日本社会そのものが大きな小学校の教室みたいだ。

A、ごくありきたりの、誰でもやってるパーソナルな行動を、あえて「活動」とネーミングし、人工的なコンセプトを注入しようとするうさん臭さと、そのマスゲーム的、非オーガニックな感触に対する生理的な嫌悪感

B、もし本気で結婚したいのならば、やればやるほどドツボにはまるという非効率性などのプラクティカルな問題や、そもそも本気で結婚したいの?というベーシックな問題

 あたりがあるようです。
 ひとつにつきエッセイ1本は楽に書けてしまいそうなので、とりあえずBだけ取り上げます。あとの2点はより一般的な問題だから、また別の機会に書けそうだし。

 

重要なことほど偶然に決まる法則

 僕らはネットで情報を集め、人の意見を聞き、分析したり、慎重に考えて計画を立て、何かの行動を起こします。人生とはその積み重ねであるように考えがちですが、実は意外とそんなことはなく、人生において重要な問題の殆どは偶然の作用によって決まってるように思います。それが重要な問題であればあるほどテキトーに決まってる。逆に、どうでもいい些細な問題であればあるほど、情報収集→分析→計画→実行という綿密なパターンで決まるという。ちょっとした小旅行や買物は、この情報分析パターンが通用するけど、大きな問題になればなるほど通用しなくなる。

 なぜなら、人生において最も重要な問題は、@いつの時代に、どこで、誰の子供として、どういう肉体的特徴で生まれるか、Aいつどこでどうやって死ぬか、でしょう。これ以上重大な問題はないでしょう。しかしこれらのことって偶然でしょ。まあ、前世の行いがどうのという法則性や必然性はあるのかもしれないけど、それは結局は今の時点では分りようもなく、変更のしようもないから、偶然とほぼ同じ事でしょう。A何時死ぬかは、多少はコントロールの余地はあるかもしれないけど(在宅で死ぬかとか自殺するかとか)、圧倒的大多数の死因である発病や老衰の時期なんか分りようもない。事故死なんかもある。まさに神のみぞ知る領域。この時期に、日本で、今の両親のもとに生まれ、こんな顔で、こんな肉体で生まれてきたというのも偶然。

 まあ、これは「決める」もヘチマもなく、どーしよーもないことだから対象外にしても良いのだけど、でも、自分の人生のあり方を決定する要因のうち半分くらいは自分の手の届かないところで決まってるということですよね。だから人生100%コントロールしようなんて絶対に不可能だということです。それを「神の御心」と呼ぼうが「仏のおぼしめし」と呼ぼうが、そこは趣味ですが、自分が頑張って決められる領域なんか、最初っから半分くらいしかないのだ。中には胎児のうちに流産しちゃったという100%自分が関与できないうちに終わってしまうケースだってあるし。

 何を言いたいかというと、だから全てを神に委ねよとか、自分で考えて生きていくのはムダだとかいう宿命論を言ってるわけではないです。ただ、なんでもかんでも自分で背負わなくてもいいんじゃないの?ってことです。ここ微妙なところなんだけど、確かに努力次第で人生が開けていくのも事実だし、そう思うことはとても大事なことです。それは否定しないどころか、称揚します。でも、あまりにプレッシャーに思うこともない、100%ピチピチに隙間なく考えてしまうとしんどくなるよ、また自分が全部コントロール出来ると思うのはとんでもない思い上がりだということです。

 次に、生死の次に人生で大事なこと、つまり結婚であったり、就職であったり、住まいであったり、よき友に恵まれたり、素晴らしい趣味や自分の世界を見付けることであったり、、という一群がありますよね。このうち、どのくらい自分の意思や計画が反映され、どのくらい偶然性が作用しているか、よーく考えてみてください。もとをただせばただの偶然だったりしませんか?フェバリットな作家に出会うのも、ふとした気まぐれで手に取ったり、友達に無理やり押しつけられたりして出会ったりするし、友人関係なんかもたまたま同じクラスだったとか、たまたま席が近かった、家が近かったとかいう偶然です。「私に相応しい友達は、、、」と全校生徒のデーターを打ち込んで解析して友達作ってる人なんかいないでしょ。

 就職だって、頑張ってそれなりに計画を立てて就活とかやってるようだけど、最終的に決まっているのは偶然だったりしませんか。そりゃ、子供の頃から医者になりたいとか、東大〜官僚になるんだと思ってその通りやってる人もいるでしょう。でもそんなのは比率からしたらごくごく一部であり、圧倒的大多数は「結局内定が取れたのはココだけ」みたいな感じでしょう。親の仕事ぶりをみていて自然とその道に入ったとか、世襲制的なものは、その家に生まれついたという偶然のセッティングが強く影響します。それに首尾良く希望の会社に入れたとしても、そこでどういう部局に廻されるか、どういう日常が待っているかはかなり偶然。電機メーカーに就職した筈だったのに、いつのまにかハッピ着て旅館で番頭やってたりするわけですよ。

 こんなこと、オトナだったら言わなくても分ることなんだろうけど、好きでその仕事やってる人なんかそうそう居ないよ。試しに今日一日、朝起きてから通勤電車に乗って、働いて、そのへんで昼飯食って、帰って寝るまでの間、目に映る数百数千人の「働く人々」を見てください。それこそ自動販売機でコーラを補充しているお兄ちゃんから、キオスクのおばちゃんから、道路工事の作業員から、、、このうち、好きで好きでその仕事をやってそうな人ってどのくらいいますか?「子供の頃からキオスクで働くのが夢でした」という人、まあ居るかもしれんけど、どのくらい居ると思います?殆どいなさそうでしょう。じゃあ、なんでその仕事やってんの?というと、何となくの巡り合わせでしょう。偶然ですよ、偶然。

 じゃあ、偶然にそうなっていて、それで不幸か?というと、別にそんなこともないのよ。試しに聞いてごらんよ、「今の仕事、どうですか?」って。そりゃ100%大満足って人は少ないかもしれないけど、毎日が地獄という人もまた少ないでしょう。「や、結構いいんじゃないかな、給料はそこそこだけど、廻りの人がいい人達なので、結構楽しいですよ」とか。僕も仕事柄、毎週のように仕事をやめてワーホリに来ている人とお話ししますけど、前の仕事がイヤでイヤでたまらなかったという人の割合ってそんなに多くないです。意外と肯定的な人が多いですよ。逆に、第一志望!で入ったものの、「こんな筈じゃ、、、」というケースは多い。というか第一志望の方が期待が高いだけに挫折度や不遇感も強い。結局、ハッピーになるのが最終目的なんだとしたら、偶然であろうがなかろうが結果に大差ないんじゃないの?って気がするのですよ。

 だからといって、計画たてるな、意欲を持つな、努力するなってことは言ってるんじゃないのですよ(わかるよね)。あまりにも100%を期してこだわりなさんなってことです。人生至る所に青山ありであり、東西南北どこにいってもそれなりにハッピーになれます。自分の頭を使って能動的に生きるという姿勢はとても大事なことだから、それは維持すればいいのだけど、「○○でないと絶対に幸福になれない!」とか思い詰めない方がいい。間違ってるから。

 だから、そうですねー、あんまり競馬に詳しくない素人に毛が生えたくらいの人が、競馬新聞必死に読んでるような感じ?ですか。素人同然だから競馬新聞読もうが読むまいが結果にそんなに差はないのよね。全く何も考えずに、「じゃ、一番人気」とか賭けている場合に比べてそれほど勝率に差がつくものでもないでしょう。どうかすると考えすぎて逆に勝率が下がるくらいです。でも、そうやって頑張って研究するのが楽しいんだよね、結果はどうあれ。それに学ぶし。素人の株取引でも、儲かるかどうかというより欲にかられて日本経済を真面目に考えるから学べるというメリットの方が大きい。

 だもんで、オトナは分ってると思うけど、まだ学校を出るか出ないかのイタイケな青年諸君に申し上げたいのは、就活とかやってるのは、あれも所詮は趣味の問題って距離を置いた方がいいってことです。そんなさー、社会に出てもいない若造に何が分るの?イメージだけでしょ?。大体10年前の人気企業ランキングなんかガラッと逆転してたりするじゃん、常に。ということは、ほぼコンスタントに間違えているってことでしょ。しょせんガキに先見の明なんかないよ、オトナだって無いのに。昔っから炭坑入っちゃ潰れ、国鉄に入っちゃ分割民営化され。いま話題のかんぽの宿だって、働いている職員の方々のお気持ちは複雑だと思いますよ。安定した公務員のつもりで入ったのだろうけど、安定どころか台風の目のようになってしまっている。だからあんまり気負わず、競馬新聞的に趣味でやってるくらいに思ってて丁度いいと思います。決定的なことは、天の配剤、天の声、偶然が決めてくれます。そして、それでいいの。

 さて、ここまで書けばもうお分かりですが、話が結婚とか恋人とかになると、もう就職以上に激しく偶然の世界になります。恋愛対象者においてはエントリーシートも、会社四季報もないです。だから、考えたってしゃーないでしょ、という。まあ、偉大なる偶然のお力で何とかなるんじゃないの?というのが、もっともリアルな姿に近いのではなかろうか。このあたりは、もはや多言を要することもないでしょう。

”車検”のようなシステムとしての結婚


 それと「結婚」なんてただの制度であり、婚姻届もただのレジストレーションであり、車検のようなもの、レンタルDVDの会員登録のようなものです。それ自体に意味があるわけでもない。というか、社会においてはデーターベース的・管理的な意味があるけど、自分にとってはあんまり意味がない。車検手続きしたからといって乗ってる車の乗り心地が変わるわけでもない。面倒臭い手続きの一つにすぎない。

 だから、「結婚したい」という人の真意がよう分らん部分もあります。クルマに乗りたいとか、クルマを持ちたいというなら分るけど、「車検をしたい」って人はあんまり居ないでしょう?「いやー、車検っていいですよね、フロントガラスに燦然と輝くシールが、、」なんて人は少ないと思うけどな。でも、結婚したいっていうのとは、それと同じ事じゃないの?言うんだったら「好きな人と一緒に暮したい、常に一緒にいたい、ちゃんと一緒に人生を歩いていきたい」ってことでしょ。でも、そーゆーのっては「好きな人」が出てきてからの話でしょう。好きな人がまだ居ない段階で結婚を考えるというのは、まだクルマを買ってもいないのに、買えるかどうかすら分らないのに、「とにかく車検をしたいんです」といってるようなもんでしょ。

 「結婚」という制度、枠組み、それ自体は100%無色透明で無内容なものです。空の食器、空のビニール袋。そこに何を入れるかは、自分と相手次第。入れる内容によって千変万化する。相手が決まって初めて意味が出てくる。それを相手も決まらぬ段階から「結婚とはこーゆーもの」と思ってるとしたら、それは思いこみですわ。勝手なイメージ。まあ、物事というのは大いなる勘違いから始まり、やり始めて「げ、こんな筈では!」と激しくうろたえ、しかし同時に予想もしなかった良さに気づき、やってる間に徐々に身体が馴染み、価値観も変わり、自分自身が変わっていく、、という経過を辿りますから、婚活が笑うべき”車検願望”だったとしても、それはそれでもいいです。ただそれも、「自分が変わる」という精神の柔軟性あってのことですけどね。相手が極道だったら極道の女になるのよ。

 ちなみに僕自身は2回結婚し、前婚10年、現婚10年の合計20年やってて、かつ丁度期間的に等しいので比べやすいのですが、この二つ、同じ「結婚」というレッテルは同じでも、やってる中身は全然違います。もうイチから十まで違う。「一緒に住んでる」というのが共通点なだけで後は家計から、余暇の過ごし方から、メシの支度から全部違う。僕もこんなに違うとは思わなかったけど、この二つの”現象”に「結婚」という共通のタイトルをつけることに強い抵抗を覚えますね。どー考えても全然別物だろう、同じ分類カテゴリーに入れるのは無理だろう、と。だから、もし3回目があるとしたら、今度こそ完璧に先入観ゼロで臨みますよ。

 結婚というのは、冷静に考えれば考えるほど避けたくなったりしませんか?誰もが言うことだけど、あれは宴会の恥ずかしい一発芸みたいなもので、イキオイでやるものであり、イキオイがなかったら出来ない。若気の至りというか、舞い上がって、酔いしれて、刑法39条の心神耗弱のようになってるからこそ出来ることであり、シラフではできない。またシラフじゃないからこそ、一気にドドドと進み、気がついたら point of no return(不回帰点)まで突入し、激しい初期不良の嵐をぐんぐん進み、そのうちに二人だけの社会とルールが何となく出来上がっているという経過を辿りうるのだろうと思います。

 日本に限らず世界的に晩婚化が進んでますが、そりゃそうだと思いますよ。世が世なれば江戸時代だって晩婚化してたと思います。古来、結婚なんかしたくてやるものではなく、周囲が勝手に段取り作って半強制的にあてがってたようなものであり、婚儀が終わってから初めて顔をしげしげと見るようなもんです。農村なんか有無を言わさずみたいな感じだったでしょう。しかし、自由度の高い都市生活者はほっとけば結婚しないから、落語の世界でも、お節介なご隠居さんが相談を持ちかけられて、長屋の若い衆を適当に物色して、「話ってえのは他でもねえんだ、あのな、おめえもそろそろ所帯をもった方がいいじゃねえかってことだ」「や、いやあ、あっしにはまだ早いですよ」「いやいや、こういうことはだな、、、」と説得してたりするでしょう。武家階級だったら完全に親の意向だったし。あの時代の真の恋愛とは、吉原女郎とマブ(真夫)とか八百屋お七みたいな世界でしょ。どっちも命がけの恋の世界だし、お七なんか今一度だけ恋する人を見てみたいというただそれだけで放火して、火あぶりの刑にされてます。これって実話ですもんね、凄いわ。

 このように結婚というのは古来面倒臭くて、鬱陶しいものであり、当事者に任せてたらやらない。だって恋する二人にとっては、一緒にいることだけが重要であり、登録なんかする本質的な必要性なんかないもん。しかし、結婚というレジスター制度がないと、生まれてくる子供の養育の問題やら、遺産分割やら、なにより家制度の存続に関わるから、あれこれインセンティブをつけ&ペナルティも課し(ニンジンをぶら下げ、鞭で叩き)、結婚登録をさせようとしています。結婚というのは、当事者の欲求というよりは、社会全体の人事・財務のマネジメント的必要性から制度化されているようなものです。だから車検と一緒だという。僕の場合も前婚は入籍すると配偶者控除という税法上の特典が得られ、二度目は結婚しないとカミさんの永住権が取れず一緒に暮らせないというインセンティブがデカかったです。でもカタチなんかどうでも良いのよね。大事なのは実質関係であり、それは一回ポッキリの登録をすればよいとかいう甘っちょろいものでなく、日々の激しい戦いを通じて作り上げるものでしょう。国境線の小競り合いがあり、大戦争に発展し、そして暫定的に平和条約が締結され、しかしそれも踏みにじられ、、、みたいな感じ。

 結婚がどれだけ面倒臭いか、どれだけのデメリットに満ちているか、数え上げたら星の数ほどあります。まず、夫婦別姓がまだ法制化されてない以上どちらか(多くの場合は妻側)は改姓する必要があり、これが預金だのパスポートだの公的手続で面倒臭い。人によるけど、○○夫人のような付属的アイデンティティを強制され、これまでの自立したアイデンティティを失う不安に襲われる。嫁姑など鬱陶しい親族関係があり、盆暮れなど数少ない長期休暇においても相手の実家に泊まったりして余計疲れる。墓やら介護やらの問題もある。やたら「子供はまだか」と催促され、男の子を産まないとスカ扱いする人もいる。これら制度にハマることに基づくシガラミ負担が急増する。

 誰もが言うことでもあるが、個人の自由は大きく制約される。一人でいたいときもあるけど、そうそう自由にはいかない。好き勝手に大きな音でTVもステレオも聴けない。住宅事情が制限されている日本では尚更である。また、24時間一緒に暮すということは、相手に対する全ての幻想を打ち砕くことでもあり、「こんな筈ではなかった」ということが沢山出てくる。結婚前に美点に思えていたことが結婚後には短所にしか思えなくなる(男らしく決断力がある→自分勝手で独善的など)。しかも、やめようにも離婚は結婚の3倍の労力がかかると言われ、心身共に疲弊するのでおいそれと踏み切れない。

 年を取ったときに頼りになる家族がいないと心細いとか不安だとかいうが、居ない方がよっぽどマシというケースも無数にある。それは、たまたま上手くいった老夫婦を見てそう思ってるだけであり、それだけ見るのは片手落ち。見るのだったらその逆のパターン、熟年離婚事件において吐露される数十年間鬱積してきた怨念にも目を向けるべし。また、子供が全員そんな親孝行であるわけがなく、子供こそがトラブルメーカーであるケースもあり、また財産目当てに寄ってくる子供が信じられないという晩年期の孤独もあるのだ。

 どれ一つとってもハンパでない深刻さがあり、マトモな神経と知性を持ってたら引きますわ。それでも結婚したいですか、相手も決まっていないのに、結婚という抽象的なモノになぜ憧れるのですか。

 じゃあ、お前はなんで結婚してるんだよといえば、はい、それはそれでイイものだからです。だから、するかしないかでいえば「してみたら?」とオススメはします。「いっぺんやってみ」という。悪魔的な笑みを浮かべて、そう申し上げます(^_^)。

 なぜか?それは大いなる修行の場だからです。鍛えられまっせ〜、と。
 やっぱり、生身の人間というのはスゴイですよ。これと24時間×365日×死ぬまでの年数やっていくというのは生半可なことではない。喧嘩もするでしょうし、普通の人間関係だったらその一言で全てが終わる、「それを言っちゃおしまいよ」という肺腑を抉るようなキツイ言葉も砲弾のように飛び交うでしょう。でも、人間ってバカだからそのくらい日々叩かれているくらいで丁度いいんです。あんまり自分を甘やかしたらアカンよ。だから”草食系”とかがもて囃されたりするんだろうけど、人間洞察力なさ過ぎ。一個の人間のもってる潜在エネルギーというのは凄いですよ。唖然とするような残虐な犯罪の多くが、日頃は温厚でおとなしい人によってなされていることを知るべきだ。深刻な家庭内暴力も、外面は良い「いい旦那さん」によってなされてたりするのだ。

 このように他人と暮すハードさはハンパじゃないので、よほどのことがない限り結婚しない方がいいよ、とも言いたいです。こういったハードシップを乗り越えるのは、口に出してしまうとこっぱずかしいけど、愛情あってのことです。特に最初の3−4年間は激しく個性が衝突しあうから、死ぬ気で惚れ合った相手でなければ初期の数年を経過すること自体おぼつかないでしょう。本当に好きな人だからこそ、愛の盲目パワーで試練の日々も魂の錬成として有意義に作用するのであって、相手もいない段階で、恋に恋する中坊のような感覚で、はたまたパッケージ商品を買うような感覚で、結婚だけを目指したら、結婚というものが持っている毒性の方が勝ってしまうかもしれない。裏切られる続ける日々に心が壊れてしまうかもしれない。まあ、本気で結婚する場合、他人の意見なんか聞きませんけどね。世界中が反対してもするときはするし、勘当、駆け落ち、無一文状態からでもやりたいと思うくらいでなければやらん方がいいです。

 それか、まーったく何も期待しないで、ある種の達観をもとに、仕事のように結婚することですね。最初から期待してないから裏切られることもないし、良い意味でもビジネスライクにお互いの”仕事”をしますから、親しき仲にも礼儀あり的に作用して、かえって上手くいく。そして年月もたてば自然に結晶化していく情愛もあるでしょう。昔は皆このパターンだったと思います。

 ただ、まあ、しかし、これをすれば大丈夫みたいな特効薬もないし、こうなればこうなるという法則性みたいなものもないです。だからここでも「偉大なる偶然の力」が働きます。でも、結果を問わず、人間一生懸命ナニゴトかをすれば、それなりのリターンはあります。結果がどうというのではなく、その過程において何らかの学ぶものもあるし、極楽を垣間見ることもあり(地獄もあるけど)、それでいいじゃないですか、ってことですね。

 しかし、それは結婚が素晴らしいのではなく、人間という素材そのものが素晴らしい可能性を持っているからであり(悪魔のような毒性も持ってるが)、また全人格的に何かを行うという真摯さに意味があるわけです。人間という素材使って、真摯にことにあたるイチ局面として結婚という類型があるだけのことで、別に結婚でなくたって、真摯に人と関わる局面は世の中に沢山あります。だから、結婚する/しないという二元論、類型論はあんまり意味があるとは思えない。即刻離婚した方が良いような結婚も山ほどあろうし、外面はいいけど一歩入ったら諦めきった冷たい氷のような無関心の世界で、それこそ波風すらも立たないという結婚生活だってあるのだ。したがって、大事なのは対象がなんであれ、一生懸命やるかどうかなんだと思います。


いわゆる"婚活”の戦略的無内容さ

 で、結局「婚活」って何をするの?何をどう「活動」するの?というと、これといった特効薬もないわけでしょ。冒頭で書いた「「婚活」時代」の紹介によれば、「自分を磨こう」とか、「出会いの場を増やそう」とか、「要求水準を見直そう」とか、いわば当たり前のことばかりです。まあ、当たり前にみえることほど真理であるから、それはそれで良いです。でも、これらのことって、別に結婚活動であろうがなかろうが誰にとっても日々必要なことじゃないのですかね?自分を磨くことも、多くの人々に出会うことも、独善的な基準を見直すことも、どれもこれも普通に必要なことばかりです。それは結婚してたって必要でしょ。「出会い」というのは何も結婚につながる異性に限らず、同性の友人だって、師匠的な存在だって、日々の仕事のお客さんだって、人との出会いを大事にするのは基本でしょう。

 そういった事柄は大いに奨励されてしかるべきなんですけど、でも、それって「活動」なの?だから、結局「婚活なんか無い」ってのがオチじゃないんですかね。若年層の経済格差の拡大や、雇用機会均等による晩婚化などの社会現象を書いていて、さて本にするにあたって「売れそうなタイトル」を考えて、「婚活」というのが出てきた、、、というのが、実際のところではなかろうか。それか最初から売れることを目指して書いたか。いずれにせよ、商業コピーめいたタイトルがあり、これといった実態があるわけでもないのではなかろうか。

 あとですね、結婚に対して、「活動」という、何らかのマニュアルどおりの行動をすれば一定の結果に至りうるという思うこと自体が人生を舐めてる(という言い方がキツイならば人生の奥行きに対する理解が浅いとでも言おうか)としか思えないし、それは「自分を磨く=他人から愛されるだけの実質を備える」ということと対極にあるようなことじゃないのか。また、利害打算でうごめいてる人の姿は客観的に見れば醜悪であり、「活動〜!」とかいってワサワサやればやるほど自身のイヤらしいオーラが出てきちゃって逆効果なんじゃないのという気もします。動機が自己中であるならば、やればやるほど「私は自己中な人間です」と喧伝して廻ってるようなもんじゃないのか。

 そこで「活動」らしきものとなれば、合コンとか結婚相談所とかその種の話になるでしょう。しかし、昔から結婚相談所的なシステムが革命的な効果をあげたという話を僕は知らない。僕が無知だからしらないだけかもしれないけど。でもね、以前、自己破産の管財人をやったことがあるのですよ。地道に働いている30代の工員さんで負債総額2000万円。でも自宅は6畳とキッチンだけの地味な賃貸アパート。いわゆるバブル時期のクレサラ破産で借りようと思ったら幾らでも借りられた時代の自転車操業の果てです。管財事件が終わるまで(殆どやることもなかったが)、管財人になった僕のところに郵便物が届けられるのですが、その郵便物の9割がこの種の結婚相談所の美しいパンフレットでした。船上パーティとかね、細かい活字で山ほど企画が印刷されていました。それがまた、なんともうら寂しい感じがして、以来結婚相談所ときくとこの光景が浮かびます。もちろんこの一件で何が分るというわけではないですよ。

 しかし、婚活がブームとやらになって日本人の成婚率が上がったかどうかは分らないけど、結婚相談所にまつわるトラブルは増加したみたいですね。「婚活ブーム」の一方で 結婚紹介業への苦情増加などです。苦情の内容などを調査するため国まで動いてますね。経済産業省によれば「結婚相談業・結婚情報サービス業における苦情・相談内容に関する調査報告書」についてというのを刊行し、これをダウンロードして読んでみると、「市場規模は、500〜600 億円、全国に約3,700〜3,900 程度の事業者が存在し、約7割が個人事業者である。これらのサービスに入会している会員は、約60 万人程度(男性が約6割)と思われる」とのことです。「ブーム」という割には60万人(そのうち重複加入もあるだろうし)、日本人全体の0.5%なわけですね。200人に一人がブームかい?苦情内容は解約時の問題が多いようですな。そこで、結婚相談所の指導育成のためにNPO法人全国結婚相談業教育センターを立ち上げ、「仲人士」という業界資格の資格認定をやってるそうです。また、結婚相談業サポート協会という業界団体があったりします。 なんかスゴイことになってるのね、、、という。

 あ、ところで、僕は結婚相談所が一概にインチキだとか悪徳だとか決めつける気はないです(なんか決めつけてる人も多いみたいだけど)。苦情レポートを見ても10%近くはまあ満足してるわけだし、0.5%とはいえ絶対数では60万人のニーズがあるわけですから、真面目にやたってそこそこのマーケットではあるわけです。それに苦情といっても、最初から要求水準が高すぎるからトラブルになっているというケースも多々あろうし、そのあたりはなんとも言えないでしょうね。


 ところで経済産業省にせよ、業界団体にせよ、冒頭に書いていることは、「少子化の進展を食い止める上では、出産後の子育て支援に係る対策を講じるのみならず、「結婚して家庭を持つ」ことに対する支援も極めて重要との観点から〜」という、国の少子化対策という”国策”にのっとってやってるわけですね。憂国の施策というか、余計なお世話というか、、、、。でもねー、なーんか胡散臭いんだわ。仕組まれてる感じがするよなー。政府財政が火の車で福祉にあてる財源が乏しいときに「自己責任論」が唱えられたりさ。今回の婚活だって、「女は家に入って子供を産め」というポリシーをお持ちの自民党の長老さん達と自民党御用達の電通あたりが仕掛けてるんじゃないのかね。だってさー、沢山結婚してくれた方が国は助かりますよね。専業主婦やってもらえれば失業保険も出さなくてもいいし、失業率の上昇に歯止めがかかるし、ブライダル景気促進になるし、それに老年介護のための無料の労働力が増えるしさ、なによりも従順で保守的な国民が増えた方が御しやすいでしょうよ。

 一方、仕事が超多忙でとてもじゃないけど出会うキッカケがないって人もいるでしょう。昔からそういう場合には、上司の娘あたりと結婚したり、親や近所のお節介なおばちゃんが見合い話を持ってきたんだけど、最近ではそういうケースも少ないのでしょうか。だからそういった人が適度にご利用になる分には悪い事じゃないとは思います。もっとも、「忙しくて〜」というのは注意が必要で、幾ら忙しくてもやってる奴はやっている。僕自身も一番忙しいときに一番あれこれありましたからね。それに仕事多忙で出会いがないのが真剣に苦痛でたまらないなら、転職するなりなんなり考えどころではあるでしょう。これはより大きなライフマメジメントの話ですけど。

 それと、経済格差やら、不況やら、将来設計やらが婚活に向かわす動機らしいけど、一見もっともなようで、よく考えたら嘘くさいですよ。ふーん、じゃあ、世の中乱れたら結婚できないわけ?じゃあ、失業率70%とか内戦ばっかりという日本とは比較にならないような厳しい状況の発展途上国の出生率がえらく高いのはどういうわけなのさ?日本中焼け野原になって餓死者がゴロゴロしていた終戦直後にベビーブームが起きいるんですけどね。世の中がハードになればなるほど男女がくっつく率はむしろ高まる。平和で安定してる時の方がむしろ少ない。それは先進国の方が一様に婚姻率、出生率が低いことからも明らかでしょう。婚活なんて旗振らなくたって、関東大震災が起きて、ついでに富士山も爆発して、日本が崩壊したら成婚率高まりますよ。まあ、そのときは届ける役所もないし、誰もそんなこと気にしないだろうけどさ。

 以上、総じて言えば、婚活が「ブーム」というほどの社会事象になってるのかどうかちょっぴり疑問ですね。周辺の評論家とか、業者さんとか、マスコミとか、少子化に悩む国とか、業界団体とかが盛り上がってるだけで、肝心の中心部分はドーナツ空洞化してるんじゃないのか?って気もします。まあ、「ブームだ!」って言われてその気になっちゃった気のいいアンちゃんやネーちゃん達もいるとは思うのですが、その数は実際のところそれほど多くはないんじゃないかと思うのだけど、どんなもんですかね?





文責:田村




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