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今週の一枚(2017/12/11)



Essay 855:「世のため人のため」が最強快楽である件〜換金と還元(貢献) 

〜「すごいね」と言われるより、「ありがとう」と言われる方がうれしい

 写真は、Camperdown(Newtownの隣)。夏、クリスマスホリデーが近づいた頃のオーストラリアの週末の風景。あちこちでBBQやらコミュニティの集まりがあります

換金と還元(貢献)

 一生懸命なにかに努力をして、気づいたら人並み以上の知識・技術・経験値をゲットしました。

 さあ、どうする?

 って、その得た力で自分の人生を豊かにしていけばいいです。頑張ってゴルフやテニスの腕を磨いたので、これからもっと深くゴルフやテニスをエンジョイすればいいです。腕が上がるほどに快感が増えますからね。そうやって自己完結しても全然問題ないです。

 でも、医学や法学、建築技術や言語など、獲得した技能をもとに社会(他者)と関わっていく局面も多いです。多いというかそっちがメインでしょう。

 その場合、あまり語られることのない区分けですけど、換金と還元があると思います。対立する概念ではなく、両立しうるのですが、観点が違う。

 換金(マネタイズ)ですが、その知識技能をモトデにして商売をやるとか、雇われるとか、お金に替えることです。自分で開業可能な技術・資格やら、就職が有利になる技能やら経験(キャリア)やら。

 このあたりはよくお分かりかと思います。大体僕らが子供の頃からやらされているお勉強も、「いい学校→いい会社→いい給料」という手段目的関係があるのが普通で、努力→結果(力)→お金という一連の連鎖があります。

 じゃあ、全ての努力、全てのイトナミには最終的に金に換金するためにやってるのか?パチスロのように、頑張る→玉ゲット→景品→換金みたいな因果の流れになっているのか、全てがそうなのか?というと、ぜーんぜんそんなことないと思います。

 じゃあ、換金(生計)以外に何があるのよ?といえば、還元(貢献、コントリビューション)だと思います。

 口にだすのもこっ恥ずかしいって感じですけど、「世のため、人のため」です。これが、単なる綺麗事にとどまらず、超気持ちいいんだわー、もーねこれに勝る快楽はこの世にないね、ってのが今回のお題です。


還元・貢献の快楽

換金においてすら

 僕が知ってる平均的な日本人像でいえば(脳内イメージなので実像は違うかしらんが)、100%金のためと割り切って仕事している人ばかりではないと思います。以下、ちょっと先週の話と重複して恐縮なのですが。

 よく「この仕事やってて、よかったなって思うときはどんなときですか?」って質問がありますが、「やっぱりお客様に喜んでもらたときですね」が定番だったりします。自分も仕事してたからわかりますけど、これは嘘でも模範解答でもなんでもなく、偽らざる実感です。

 料理人だったら、いつも来てくれるお客さんがいて、友達も連れてきてくれて、「まあ、食ってみろよ、ここメチャクチャ美味いんだぜ」とか言ってくれるとうれしい。以前こられた料理人歴十数年の人も言ってましたけど、厨房で表情変えずに仕事してんだけど、耳ダンボにして聴いて、心の中でガッツポーズという。「いっちばん嬉しいですよね」「ほんっと報われますね」ってしみじみ言ってました。教師だって保育士さんだって、子供に慕われたり、なんらかの好意的なレスポンスがあったときがうれしい。職人さんだって、「○○さんの仕事には手抜きってことがないからね」「やっぱ、さすがだわ」って信頼してもらえるのが一番うれしいはずですよ。

 でも、基本、換金作業(生計のための職業)としてやってるんだから、「一番良かったなと思う時」なんか、「給料(報酬)をもらったとき」に決まってるじゃないか、他になにがある?となっても不思議ではないです。しかし、心底そう思ってる人(金しかないだろ?って人)って、それほど多くはないのではないか。その仕事が、バイトなどカジュアルなものよりも正社員とかパーナメントなものになるほどに、お金以外の要素を求める率は高くなると思う。

 もちろんイヤでたまらない仕事、今すぐやめたい仕事ももあるでしょう。その場合は、お金だけが唯一の動機になるでしょう。でも、なぜイヤか、なぜ辞めたいか?の理由のところで、お金基準説でいえばペイが少ない(割が悪い)というその一点に凝縮されるべきところ、そうではない。人的環境が悪いことに加え、やりがいが感じられないとか、社会的意義を感じない(むしろ反社会的なものすら感じるとか)という諸点、つまりやっぱり金以外の何かを求めているんだと思うわけですよ。

 そういやどこで読んだんだっけな、ずいぶん昔の話だけど、シンガポールかどっかで働いてる日本人がいて、そのときは給与が現金手渡で、他の国の従業員が給与袋から現金を取り出してその匂いを嗅いで「あーいい香り、最高」って幸福感炸裂させてるのみて、「なんか違う」とこっちも違和感炸裂だったと。なんなの、その拝金主義?ついていけんわと思ったと。

 しかし金のために働いてるんだから、金は努力の結晶であり、これを最大限エンジョイして何が悪いって言われたらそうです。人それぞれっちゃそうです。でもね、「あんた、金以外の何を期待してるのよ?」みたいな感じでこられると、それだけじゃねーだろ?てか、それっきゃねーのかよ、貧しいやつだなーって思っちゃいませんか?俺は思うけどな。昔、まだ留学してたころ、他の国から来た留学生に人生の目的は何かという話で、躊躇なく「マネー!」と断言してる人がいて、鼻白むような気がしましたね。

 ことの当否はどうでもいいですけど、ここでは、換金作業のハズの仕事・職業局面においてすら、お金だけで割り切れるもんじゃないだろ?って指摘に留めます。

やり甲斐って何よ?

 お金以外の要素、つまり「やり甲斐」ってやつですけど、じゃあ「やり甲斐」って何なの?なにをどうするとやり甲斐感情が湧いてくるの?なんで湧いてくるの?です。

 この答えは、承認欲求が満たされるとか自己実現であるとか、いろいろなアスペクトがあると思いますが、今回スポットライトを当てたいのは「他人から感謝される」ことです。さらにラッキョの皮むきのようにあくまでも突き詰めて、じゃあなんで他人に感謝されると嬉しいのか?をつらつら考えていくと、その本質は「他人を喜ばせた」「他人の幸せを手伝った」ことがうれしいのだろうと思います。別の言葉でいえば社会(他者)への還元であり貢献です。

 ここは幾つかの重要論点がつまっているのでゆっくり書きます。

自己実現・承認欲求、さらに貢献欲求

 僕自身の経験でいえば、例えば音楽やったり、今もこうして文章書いたり、他人の代理人やったり、20代からずっと、何かを作っては他人に示すということをやってました。そこで思うのですが、まず自己実現は確かにあります。自分の努力が実った時にいだく感情ですけど、やっとの思いで自転車に乗れたときから、苦節○年で試験に合格したとか、最高裁までいって逆転して勝ったとか、難しい曲を弾きこなせるようなったとか、、、幾つも頂上を制覇しては、やったー!快感に浸りました。自己実現だらけ。それは楽しい。充実する。たしかに。

 だけど、家でシコシコと練習して難しい曲が弾きこなせるようになるよりも、人前で演奏して「どうだあ!」みたいな快感の方が強いし、そして「すごいですね」と言ってもらえると天にも昇ります。昇天しちゃうぞって感じで、そりゃあうれしいもんです。だから自己実現よりも承認快感の方が強い場合が多いです。

 マズローの欲求5段階説によれば、承認欲求の上に自己実現欲求がくることになってますが、僕は逆じゃないかって気もします。てか、この二つは区別しにくいので、どっちがどっちでもいいのかもしれません。もっといえば、第一から第五までってケースバイケースで順番けっこう変わります。なぜなら、第一(生理)・第二(安全)欲求を犠牲にしても、なお承認や実現を求める場合も多々ありますしね。

 でもね、それ以上にあるのが還元・貢献欲求だと思います。マズローのいう「見返りも求めずエゴもなく、自我を忘れてただ目的のみに没頭し、何かの課題や使命、職業や大切な仕事に貢献している状態」で「自己超越欲求」というらしいのですが、僕が思っているのも多分それに近いです。

持続性のない実現欲求

 なんで優越するのか?というと、これも経験的に言えると思うのですが、自己実現も承認も、実は言うほど強い快感ではないからです。自己実現(これも定義によるけど)も、出来なかったことが出来るようになるとか、やっとの思いで自分のブログを完成させるとか(達成快感)、それは嬉しいんだけど、嬉しいのは「出来たときだけ」なんですよね。持続性があるようで、無い。しばらくしたら、そんなもん出来て当たり前になる。鮮度が大事というか、賞味期限があるというか。自転車だって乗れた瞬間は超うれしいですけど、しばらくしたらそんな喜び忘れてしまって、当たり前になるでしょう?大学合格だっておなじ。大体なんでもそうです。

ピントがずれがちな承認欲求

 承認欲求もうれしいですよ。だけどどんぴしゃと嬉しい場合って実はかなりマレですよ。というのは、自分が一番苦労して、自分が一番良くできたと思う部分、評価して欲しい、承認して欲しい部分って、意外と評価されないで、関係ない部分で評価されたりするわけです。これは本当に多いですよ。まあ、褒めてくれてるんだから、文句いったらバチが当たるんですけど、でもそのあたりの隔靴掻痒(かっかそうよう)感覚はありますね。

 例えば、このエッセイでも分量を感心されることが多いのですが、僕にしてみればポイントはそこではなく、従前言われてきたレベルをさらに一歩押し進めた飛躍性や前進性に着目してほしいんだけど、しかし、まあ、悪気はないんだろうけど一番わかり易い「量」で褒められたりする。罰当たりなんだけど、うーん、嬉しさ半分というか、違うんだけどなって気分になります。

 これはあなたもそうだと思う。夜遅くまで残業してなにかに取り組んでいる時、その内容の凄さを認めてほしい、おおこれは画期的じゃないか、よくそんなこと思いついたなとかそういう部分ね。でも、「夜遅くまで」みたいな量的な部分で褒められても、あー、違うんだけどなって気になりませんか?

 あるいは、美形の方は、どんなに苦労してコーディネイトしても、「美人は何を着ても似合うわ」の一言で済まされたりして、うれしいんだけど、いやそこは散々苦労したところで、ちょっと外したら全然似合わないんだって、この苦労と才覚を認めてくれよって思うけど、まあそうは言えない。また、どんなに画期的な業績を積んでも、なにをやっても「美人ですね」という賞賛ばっか、なにをしても「美人○○(社長、記者とか)」と言われたりして、これも罰当たりだとは思いつつも、あー違う!外観以外に価値はないんか私は、って思うんじゃないかな。ま、美人じゃないからわからんけどさ。

 だから承認欲求って、微妙なところでズレている場合が多い。「すごいね」って言われれば満たされるってもんでも意外とない。なかなかドンピシャにならない。大スターとか作家とかが、世間の書評や評論に「どこを見とるんじゃ、ぼけえ!」でブチ切れたりしてますけど、あれは腹立つだろうなーって。

還元と貢献の未来創造性

 それに対して、自己超越(マズローによれば)、還元と貢献の快感(僕によれば)は、一過性の達成感とは違います。貢献したんだという満足感は、一回的なオン/オフではなく持続的に感じる。物事の性質上、常に貢献し続けているからです。

 菊池寛の「恩讐の彼方に」という小説のもとになった実話、「青の洞門」で有名なトンネルが、大分県の耶馬渓にあります。有名だからご存知でしょう。その昔、街道インフラが未整備で、川岸の崖伝いに鎖をつかんで渡らねばならない難所があり、難所過ぎてこれまで何人もあーって墜落して死んでいる。たまたま通りがかった坊さんが、一念発起して厚い岩盤を自力でノミで削っていって、また呼びかけて、長い時間をかけてトンネルを完成させたという話です。この貢献快感は、持続します。なぜならトンネルが有り続ける限り、人々の役に立ち続けているからです。

 貢献や還元の凄いところは、未来創造機能にあると思う。SFでいうパラレルワールドみたいなもので、鉄道の転轍機をガッチャンと切り替えるように、より好ましい未来の方向へ動かした。だからそれ以後の未来(前よりも良くなった未来)は、自分が貢献して創ったんだと思える。これはデカいですよ。

 また、貢献快感は、承認欲求と違って、必ずしも他者を必要とはしません。いや、他者の存在は絶対条件としては要るんだけど、レスポンスは必ずしも要らない。ここが決定的に違う。「いつか誰かの役に立つだろう」って思えるだけで満足は出来る。そりゃ具体的に「役にたちました、ありがとう」って言ってもらえたらうれしいですけど、承認欲求と違って、言ってもらわなかったら(聞こえてこなかったら)ゼロ同然ってことはない。抽象的なものだけで十分満足できます。

広い社会・人類とのつながり

 還元・貢献というのは、なにかの業績をあげたようなとき、大げさにいえば「人類に新しいページを書き加えた」という満足感のことです。目に見えるどっかの個人に直接つながるのは嬉しいけど、よりスケールが大きく、人類や社会に貢献できたって感覚は、それ以上に深い満足感を与えてくれます。

 僕の場合、前職の個別案件で、個々のクライアントから感謝されるとうれしかったです。ほんとやってて良かったなって感覚で、そこは承認欲求や達成感もあるけど、世のための貢献快感の方が強かった。でも、最高裁までいって従来の判例を変更したケースがあって、この快感は別種のものです。医療過誤の説明義務違反の一つの基準なんだけど、先日帰国したとき、以後20年いまだに変えられてなくて、実務の基準になり続けているそうで、これは別の意味でうれしかったです。非常に専門的で、氷山の一角のような微小な部分なんだけど、それでもこの国の実務運用をちょびっとでも改善できた、改善し続けているというのはうれしいものです。質がちょっと違うんです。具体的にだれかに感謝されたって経験はゼロなんだけど、それでもいい。

 今やってるHPだって、最初は単なる貢献です。当初(90年代)は、シドニーの日本語文献としては、オペラハウスがどうしたとかいうレベルくらいで、マリックビルがベトナム系とギリシャ系が多く、ムサカが美味しいよとかそういう情報は全然無かったから、じゃあ書くかと思ったのが始まりです。それで儲ける(換金)とか、誰かに感謝してもらおうとか、特にそんなに思わなかったです。

 いわば無償奉仕ですけど、実は無償奉仕くらい楽しいことはないのよね。それが嬉しすぎるから20年以上続いているという。個々の案件で感謝されるとほんと嬉しいですけど、どこの誰に感謝されなくても、感謝されてるのかどうかもよく分からなくても、少なくともこういう文献が探せばある、それは自分が創ったものだという認識と事実は、けっこうそれだけで十分なリターンになります。

 このように、自分のやったことなり、知識なりが誰かの役にたってくれたら、こんなうれしいことはない。この気持は、これ以上説明しなくても、あなたにはお分かりかと思う。

 だからみなボランティアとかやるのでしょう。公園の草むしりでも、ご精が出ますね、ありがとうとか言ってくれなくても、公園のとある部分がキレイになったというだけで満足感はあるし。学者や研究家の喜びは、出世することでも、承認されることでもなく、人類の知の1ページを新たに付け加えることだと思います。そうでもなければ、「○○地方の竪穴式住居の形式分類に関する新しい発見と考察」みたいに、誰がそんなことに興味あるんだ?みたいな極小なことに膨大な時間かけて調査したり論文書いたりできんでしょう。

恩返しと互助

 それは同時に「恩返し」でもあります。自分がそれだけの知識技術を身につけ、なにかをやり遂げたとしても、そこに至るまでには、先人達が苦労して築いたルートがあり、解説書があり、先輩や師匠からの教えやアドバイスがあってこそです。それはやってる本人が一番良くわかってるでしょう。それだけ社会から恩を受けている、社会から貰っている、その借りを返すという意味での「還元」です。社会還元ですが、なんだか知らないけど、それをするとうれしい。ああ、これで俺も一人前かなという、晴れがましい気持ちになる。

 その昔のパソコン通信(インターネットの前の時代)では、PDSというのがありました。パブリック・ドメイン・ソフトウェアで、誰が使ってもいい無料で提供している自作ソフトのことです。今でも無料ソフトはネットに沢山ありますし、僕もほとんど無料ソフトだけでこのサイトを作ってます。

 それはただの慣行というよりも「ネット思想」に近いです。「よかったら使って下さい」と惜しげもなく無料で皆に公開すること。それで少しでも全体が豊かになること、それが尊い。同時に、それを受けるならば、自分もなにかのことで無償奉仕して少しでも恩返しをするのは当然だと思う。なんでもかんでもカネカネ言ってんじゃねーよって思想は、実は古くから連綿としてあります。

まとめ〜快感のチャンピオン 

 僕もいろいろな快感を味わってきましたけど、この無償奉仕や、貢献や還元の快感、大きなレベルで社会や人類とかかわっていく快感が一番強く、一番深いです。

 金で始まって金で終わるようなアクティビティは、そりゃお金が入ればうれしいけど、やりくりが出来てほっとしたというレベルと、あとはゲーム的にハイスコアが出せたという達成実現快感くらいしかないです。巨大な欲求や快感のようでいて、意外としょぼいです。「こんなもんか」って感じ。

 やっぱ世のため人のため快感は強烈です。それは美意識でも、倫理道徳でも、きれいごとでもなく、純然たる事実としてそうです。貴族のノブリス・オブリージュやら、金持ちや名士が寄付をしたり、チャリティ財団を作ったり、なんだかんだやってるのは、「ええカッコしい」という俗物的要素もあるだろうけど、決してそれにおさまるものではないと思いますよ。やっぱそっちの方が気持ちいいからでしょう。

今すぐできる

 そして、社会貢献や還元は、何も金持ちにならなくたって出来ます。そこらへんに落ちてるゴミを拾って、ゴミ箱に入れるだけでもう出来ますしね。

 あなたがこれまで英語を勉強して、そこそこ英文を読み書きできるようになったら、それを換金(就職・起業)することも大事でしょうが、別に換金できなくたってかまわない。貢献や還元はすぐに出来る。例えば、日本に全然紹介されていない海外の文献や記事を、日本語に翻訳して、自分のブログなどに載せること。逆に、海外では知られてない日本のあれこれを、英訳して世界に伝えること。それが例えば、アクセス数1日数回の普通の個人ブログであろうとも、置いておけば、いつか誰かの役に立つことはあるだろう。確証はないけど、可能性はある。

 事実、これまでいろいろ調べ物をしたりして、やっとの思いで、知りたいことや疑問点を書いてくれている文献にぶち当たったときは、やったー!って思うし、それを書いてくれた人に対しては本当に感謝しますよ。おそらくこんなことを書き記しても大した儲けにもならないだろうに、こんなに書いてくれて、それはやっぱり嬉しいです。そんなことが数限りなくあります。

貨幣経済よりももっと大きく、もっと古くからある「経済」

 えーと、こんなもんかな、今週言いたいのは。

 要するにですね、あなたがなんか頑張ったこと、それは勉強じゃなくても、趣味でもゲームでもなんでもいいんだし、或いは別に頑張らなくても知ってる物事(地元情報とか)、そこそこ何も知らない他人に教えられるようなことがあれば、それが直ちに換金(それで起業するとか、就職するとか)が出来なくたって、絶望すんな!ってことです。

 なぜならもっとおいしい還元と貢献ができるじゃないか。そこで広く大きく、社会、いや「人類」とつながる快感は知っておくべしです。これが一番楽しいんだから。単に道に迷ってる時に、親切に教えてもらうだけで、どれだけ心が潤うか、救われるか。他人の無償の好意や親切以上に価値のあることって、この世にあるか?愛だってまさにそれだろ。

 そして改めて周囲を見回してみれば、そんなことばっかりではないか。別に教えたって一文の得にもならない、どう考えてもこれで儲かるってことはないだろうって他者の行為がどれだけあるか。ネットに置かれている情報の大多数はその種の地味な営為の方が多いです。

 以前、「スマイル百円」ってエッセイを書きましたが(651)、この世界を織りなす資本主義や貨幣経済がありますが、人から人へ無償の好意が与えられ、与えられた方は笑顔と「ありがとう」という「代価」を支払うという「経済」が二重絵のように存在するのだと思います。それは貨幣経済ではなく、もっと大きく、もっと自然で、もっと完成度の高い「経済」であって、これがあるから馬鹿な人類も絶滅しないでここまでやってこれたのだと思います。

 それは人類が貨幣を発明する前から、ましてやシェアリング経済なんて言葉で出て来る数万年前から、ごくごく普通にあった。例えば「道」というものは、国家とか企業ができるはるか前からあった。シルクロードは誰が作ったのだ?どっかの帝国や多国籍企業が金儲けのために作ったのか?といえば、無数の人々の営為でしょう。世界中のどこにいってもある道標もそうです。山奥にもあり、山奥でこそ価値を発揮する道標は、あれは全て企業活動やら国家のインフラ政策として存在するのかといえば、必ずしもそうではない。てか国家の前身になる豪族すら存在しなかった遥か昔から道標は存在していたでしょう。存在してなきゃ、どうして皆シルクロードを歩けたのだ、どうして三蔵法師が天竺まで行けたのか。

 世界中のどこでも、アマゾンの奥地でもやってる部族や集落のもろもろも祭礼儀式がありますが、あれって、どっかの企業がイベント仕掛けてやってるのか?企業の”き”の字も存在せず、全てが貨幣で廻っているわけでもない太古の昔から、人々は自然と集まり、工夫をこらし、音楽を奏で、踊り、歌い、祝ったり悲しんだりしているけど、それってビジネスでやってるのか、どっかスポンサーがいるのか。そんな小賢しいもんがなくても、人はやるんだし、けっこう上手に出来る。事実やってんじゃん、古今東西、どこもかしこも。

 だから思うのですよ、僕らは「換金」に目を塞がれて過ぎていると。そんなものが無くても、人類はそこそこ高度なシステムを持っていた。人類の歴史は石器時代から数えたら200万年と言われるそうですが、貨幣が出てきたのは遡ってもいいとこ紀元前10世紀くらい、ましてや資本主義が出てきたのは200年前くらいでしょ。200万年のなかの200年ですよ。1万対1ですよ。10000:1ですよ。全体のスケールでいえば、金も資本主義も、ごくごく「一瞬の流行」でしかない。そんなもの無くても全然生き延びてこられた。

 男女間の恋愛だって、別に金が全てでやってるわけじゃないでしょう?そりゃ政略結婚とか玉の輿狙いとかありますけど、100%誰も彼もがそれをやってるのか?といえば、そうじゃない。比率でいえばそんなに高くはないでしょう。それと同じことです。ただちに換金できなくたって、それがどうした?です。大した痛痒もないだろう。それは政略結婚が出来なかったら(普通できんけど)、それだけでもう結婚も恋愛も絶対無理って言ってるくらい事実と異なるということです。

 日本人というのは拝金主義になりにくい性質を持ってると思います。それはそれだけ人格的に高潔で〜なのかどうかは知りません。そんなもん人によりけりだろとは思う。だけど世のために人のための快感は知っている。教えられなくても自然と知っている。子供の頃に「犠牲バント」の概念が出てきたときも、その意味をすっと理解できた。なぜか?思うに、人口密度が高くて、それほど苛烈ではない自然があって、しかも自然や地形の変化が複雑な環境においては、人の「工夫」の余地が大きかったからじゃないか。これが氷の大地だけとか、炎熱砂漠だけとかになったら工夫の余地も限られるけど、春夏秋冬があり、山あり谷あり、そして人が沢山いるならば、こうすればいいんじゃないか、あれをした方が良くはないかという工夫のネタは沢山あった。それは同時に他者とつながる機会も多く、貢献機会も多かった。だからじゃないかな?

 もともとごく自然にディープな貢献快感を知ってる人たちが、朝から晩までなんでもかんでもカネカネ言われてたら、そりゃあおかしくなって鬱になるのも無理はないよね。ガラにもないことやってんだから。日本が閉塞してるかのように感じられるのは、経済が落ち目であるという部分もあるけど、金しかないように視野を狭められているからって部分の方が大きいと思いますよ。





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 文責:田村

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