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今週の一枚(2013/12/30)




Essay 651:スマイル=100円

 つまりは感動と快楽の交換であること
 写真はクリスマス当日のシティ、マーティンプレイス。
 毎年同じようなことを書いている気がしますが、こちらのクリスマス当日(25日)は日本で言えば元旦のようなもの。どこも店は閉まり、特に官庁・ビジネス街であるシティのこの一角は閑散とします。



 お気の毒なのは観光客の方々で、これだけどこも閉まってたら途方にくれちゃいますよね。

 もっとも、ここ10年くらいシティに高層マンションが林立し、シティ住人(多くは留学生など)が飛躍的に増えましたから、以前のようなことはないです。南半分は結構人出も多いです。でも、シティの北側は昔ながらの風情です。



 これが今年最後のエッセイになります。本来なら「今年一年を振り返って」「来年の抱負」とかを書くのでしょうが、過去十数年あんまりそういったことはせずに、淡々とやってます。今年もまた、年末年始などどこ吹く風とばかりに淡々とやります。

 そういえば「連載100回記念」とか「500回達成記念」とかもやりませんでした。いや、別に特に理由はないです。特にやらない理由もないのだけど、やる理由ももっとない。どうも僕は「アニバーサリー不感症」気味で、自分の誕生日でも誰の誕生日でも特に感慨はないのです。なんでなんかな?でも、これは面白そうなネタなので、あとにとっておきましょう。

 さて、今週のお題は、二つの過去回エッセイの続編みたいなものです。

 Essay 534:愛という名の「通貨」〜バクチ性経済ではなく「楽になる」という人類の大テーマに回帰する話
 Essay 645:喧嘩道入門(5)他人の動かし方(4)

 や、別に続編を書こうとして考えたのではなく、ポツンと浮かんだことが、過去回の内容の続編的内容をもっているので、予めお知らせしておこうというだけのことです。ま、同じ人間が考えることなんだから、どっかつながりがあっても当然なんだけど。

 前口上は以上、本論いきます。

お題と回答

 ここで問題です。

 問1. 通貨や貨幣(いわゆる「お金」)以外に、お金と同じような働きをもつ現象/物質を挙げよ。

 問2. なぜそれが同様の効果を持つのかについて論ぜよ。

私見による解答

 問1については、「感謝・笑顔」であると考える。が、これに尽きるものではない。

 問2について。通貨が本質的に表象する交換価値のそのまた究極価値は人間の快楽と感動であると考えるところ、その価値を実現し、且つ通貨の特性である普遍性を類似的に有するものといえば、例えば「笑顔」であると思われるからである。

 これでは簡潔&抽象的過ぎてわかりにくいですよね。詳しく書きます。

復習〜お金とはなにか

 最初に「おさらい」をしましょう。いわゆる"お金"とは何か。通貨、貨幣とは何か?

 お金はどのような場合に用いられるか?
 一般に人と人とがなにかを「交換」する場合にお金は用いられます。二人(以上)の人間が、それぞれ所持する物/サービスをバーター、「取り替えっこ」することです。海幸彦・山幸彦のように、海でとれた魚と山でとれた山菜をそれぞれ交換することであり、これによって海の住人は魚ばかりではなく山菜が手に入ることで食卓が豊かになる。山の人も同じ。ヴァイス・ヴァーサ(vice versa)。

 ここで問題が生じます。例えば海の人が山菜嫌いだったらどうするんだ?という問題。あるいは交換条件で話がつかない場合、例えば山菜1キロと魚10尾という交換条件を持ちかけたところ、魚10尾なら山菜2キロでないと交換しないなど、交渉が難航することです。

 要はその物の「価値」をどのくらい見積もるかという話であり、価値観の問題です。

 話が価値観になるなら、これは十人十色&千差万別です。とある古ぼけた切手は、Aさんにとってはただの紙クズにすぎなくても、Bさんにとっては1億円払っても惜しくはないくらいの超レアアイテムに映ったりもする。人によって全〜然違う。さらに同じ人であっても状況によって価値観はコロコロ変わる。疲労空腹のときは一杯の水やオニギリが値千金に思えるが、飽食のときにはほとんど無価値に思える。したがって、その物の価値は「人の数×状況の数」のマトリクス、つまりは無限にありうる。

 一般に「等価交換」等といわれますが、本来異なる価値観を有する人間同士が互いの物の価値を量りあい、それぞれに等価(ないし有益)であるという価値判断をしない限り「取引」は成立しません。

 こう考えてみると、そんなことは滅多に生じないように思われます。牧歌的な教室設例では、海の人が魚を抱えて街道を歩いていたところ、反対側から山の人が山菜を抱えて歩いてきて路上でばったり出会い、「交換しよう、そうしよう」という話になることになっていますが、そんなことはリアルに滅多にないでしょう。重い魚を抱えて10キロ歩いても誰にも出会わず、20キロ歩いても誰も交換に応じてくれないというのが普通のありようでしょう。

 そこで交換したい人が一同に集まり、それぞれに自分の出展物を見せ合って取引を行うという「場の設定」が設けられます。「市」や「市場」の発生ですね。しかし、物と物の交換である以上、幾ら出品しても他の出品物のどれもが欲しくなかったら意味がない。逆にいくら欲しい物があったとしても、相手が自分の物に興味をもってもらえなかったらそれまでです。かくして中々話が進まず、せっかくの魚は時とともに腐っていき、こんなんだったら最初から干物にして自分で食べればよかったという話になる。物々交換というのは難しく、そしてロスが多い。

 一方、AさんはBさんの物が欲しく、BはCの物が欲しく、CはDの物が欲しく、DはAの物が欲しいという状況もありうる。だったら全員せーので集まって決済すれば良いことになる。範囲を広くすればするほど取引が成り立つ。しかし、数人だけでも大変なのに、これが数十数百人の規模になると、話がややこしくて混乱してしまう。また、今は欲しくないけど来月は欲しいという時間差もある。

 ということは、交換というのは、交換する場(市場)を空間的&時間的に広げれば広げるほど成り立ちやすいということになります。しかし、リアルな物と物の交換では、どうしても限界がある。なんとかしてこの限界を突破できないか?


 そこで「お金」というものが考案されたのでしょう。

 リアルタイムの物々・等価交換でなくても、間にお金というワンクッションを置く。貨幣それ自体はただの紙切れや金属ですが、これを持っていくと他の人が交換に応じてくれるという「将来の交換可能性」を象徴します。その交換可能性は、このお金というシステムに乗ってくれる人全てに通用します。そして全ての人が乗ってくれるなら、お金はこの世の全てを(一定の限度で)交換する万能パワーを持つ。

 かくしてお金というのは「交換価値そのもの」表しているといわれます。
 「貨幣」とは、その交換価値を表象した紙幣や硬貨(古くは貝殻、さらに古くは〜本当かどうか知らないが、てか多分嘘だが〜「はじめ人間ギャートルズ」に出てくる巨大な石)であり、「通貨」とは、広範囲のエリアで価値が認められている貨幣、すなわち「流"通"している"貨"幣」のなのでしょう。


 上の意味でいえば、完全に「お金」に代替するものは原理的には「無い」ことになるでしょう。なぜなら、全く同じ働きを持つものがあれば、人々はそれを「お金」と呼ぶだろうからです。つまりは言葉の問題でしかない。

 かつてお金は、文字通り「金(ゴールド)」でした。原子記号Auの「金」は、比較的レアな金属で、見た目もゴージャスで、変形加工がし易い反面、変性(錆びなど)はしにくい便利な特性を持つので、大昔からお金の代名詞になってます(「代名詞」というよりも一般名詞ですね)。古代から世界各地で「金貨」が鋳造されていて、「宝探し」「伝説の○○の財宝」などでは、「金貨や大判小判がザックザク」というビジュアルイメージがありますよね。

 時代が下って20世紀になっても「金」の神通力は強く、「各地の豪族・権力者・政府が"これはお金だよ"と宣言した紙切れ(紙幣)」は、これを持っていくと金と交換してもらえるという補助的・クーポン券的な意味(兌換券)でしかなかった。つまりは金の神通力に頼っていた(金本位制)わけです。ところが、金本位制は各国が保有している金の絶対量に制限されるため、経済規模の巨大化とともに徐々に窮屈になっていきます。そこで金との「へその緒」を絶つようになるわけですが、最初は金保有量世界一のアメリカドルを間にはさんだブレトン・ウッズ体制になり、さらにドルと金とのつながりを完全に絶ったニクソンショック(1971)で変動相場制になりました。

 以降、金という物体からの足かせを外された”お金”はどんどん抽象化します。僕ら市民においては、硬貨や貨幣は相変わらず流通してはいるものの、巨額になればなるほど、また取引頻度が高まるほど、抽象的な「数字・ディジット」という概念になっていきます。オンラインの自分の銀行口座の残高にどんな数字が記載(メモリ)されているかが、その人の保有するお金を意味するようになる。

 かくして大根一本100円で売りましたという実体経済から、純粋にお金だけが幽体離脱していき、金融経済になっていきます。交換や労働などでお金を得る(稼ぐ)のではなく、「お金でお金を稼ぐ」というイレギュラーな形態が当たり前になり、当たり前どころか実体経済の100倍とか1000倍、いやそれ以上のボリュームで世界中をデジタル化された抽象的なお金が超高速で飛び交うようになる。大量に高速で走っていれば、車と同じで交通事故も起きるし渋滞も起きる。金融不安が起きたり、バブルになったり、暴落したり、世界で上へ下へてんやわんやの騒動になります。リーマンショックの傷跡が尚も深く、QE1、2、3で対症療法を必死にやって、それがゆえに国家財政がパンクしそうになってますというドタバタ喜劇のような事態が、2013年年末の人類の様相でしょう。

 以上がお金に関する「おさらい」でした。

交換とはなにか

実は意外と少ない「交換」の現場

 このように純粋に交換価値を表したお金は、これさえあれば人生OK!という気分になれる人類のマスト&フェバリットアイテムのように見えます。

 しかし、本質的な限界もあります。「交換」を求める人にのみ有効であるという限界です。
 交換ツールに過ぎないお金は、交換という局面でなければ意味がない。当たり前の話です。

 例えば、あと1時間で処刑される死刑囚をお金で買収しようとしても無理でしょう。余命いくばくもなく、また遺産を残すべき身寄りのいない人も同様。お金が交換価値を表象する以上、交換を望まない人にとっては、何の意味もないです。また交換を望めないような状況(ex自分の他に人がいないような状況)でも無意味です。しかし、そんなのはレアケースであって、ほとんど全ての人類が、現在ないし将来にわたり、なんらかの交換を希望するでしょう。つまり、誰でもお金は欲しいということです。

 では、人はなぜ交換を求めるのか?交換するとどんなイイコトがあるのか?

 現在地球に存在する生物種125万種(本当は未発見のものがあと700万種いると予想されているらしいが)のうち、お金を利用しているのは人類一種だけです。圧倒的マジョリティの生物達はお金なんか必要なく生命を全うしている。交換という行為も、またない。あるのはクマノミとイソギンチャクのような共生関係であって、交換はない。

 資格試験で民法を勉強される方は、債権法で「13種類の典型契約」を学ぶでしょう。贈与、売買、交換、消費貸借、使用貸借、賃貸借、雇用(雇傭)、請負、委任、寄託、組合、終身定期金、和解の13種類の契約です。このうちティピカルなお金の使い方=お金を出して買う=のは売買契約のみです。「お金による交換」=対価・有償契約にまで広げても、あるいは「なんらかの意味での交換」にまで広げてもその全てが包括されるわけではない。贈与などの無償契約もあるし、無償委任や無償寄託もある。

 ひるがえって僕らの日常生活を見ていくと、「有償&交換」性をもつものは意外と少ないです。朝起きてアクビをすることも、別にお金をもらってやってるわけでもないし、交換でもない。歯を磨くことも、パートナーとモーニングキスをすることも、朝食を同じテーブルで取ることも、朝っぱらから些細なことで言い争いになることも、プンプンしながら家を出てバス停で待ってたら、近所の知り合いの人に出会って「おはようございます」と挨拶することも、別にお金が絡んでいるからやっているわけではない。やがてバスがやってきて乗り込むときに、はじめて「旅客運送約款」という契約内容に基づいて所定の料金を払う(定期券を見せる)という有償契約が登場します。

 つまりそんなに有償(お金絡み)のものばかりではないし、年がら年中「交換」ばかりしているわけでもない。

なんのために交換するの?

 なぜ人は交換をするのか?
 二つの側面があると思います。@生存ユーティティとA快楽です。

 @生存ユーティティ(実用品)は、生きていくために最低限必要なものをゲットするという観点です。衣・食・住ですね。衣服だって、最も原始的なものであったとしても、獣の皮を剥いで、鞣(なめ)すなど加工し、裁断・縫製しないとならない。あるいは、植物繊維を取り出してシコシコ編みこんでいく。面倒くさい。手っ取り早く交換できたらそれに越したことはない。家だって、自分で作ってたら、小学生の頃にやった原っぱの基地みたいなものしか出来ないから、山奥から木を切り倒して、木材加工し、さらにその種の専門家に組み立ててもらった方がよっぽど良い物ができる。

 自給自足とはいうけれど、なんでもかんでも自分ひとりではできっこない。できたところでしょぼい穴居人レベルのものでしかない。だから、他人にやってもらう。そこに交換という行為が生じ、その決済手段としてお金が必要になる。こういった意味での交換です。

 しかし、とりあえず生存に必要なレベルだったら千年前からできています。てか、人類のどの段階でもとりあえずの生存くらいだったら出来ていました。だって、出来なかったらその時点で人類は絶滅していたんだもん。絶命しないで生き残っているということは、どの時点であれ生存に必要な程度だったらクリアできていたってことでしょう。

 ところで、江戸時代の農村社会まで、つまり人類の歴史の圧倒的マジョリティは、別に改まって交換などしなくてもやってこれてます。日本の江戸期は、貨幣経済でもありつつ、ベーシックには米経済です。農村においては公的には米を年貢で納めればそれで良かった。日常生活の衣類や住まいは、交換しなくても、皆の共同作業で事足りた。原始共産制、原始分業制です。家も男手が数名あれば建ってしまったし、ベーシックな技術は誰でも持っていた。衣類も各家に機織り機とかあった。出産や育児など医療福祉は、産婆さんなど手分けしてやれば済んだ。だから、お金なんかそーんなに必要ではなかったのでしょう。

 日本の農村が困窮してくるのは、江戸後期から明治維新にかけて、貨幣経済が徐々に進展していってからです。江戸期は田畑永代売買禁止令があったので農地所有権は個々の農民のものでしたが、しかし質流れという脱法行為で徐々に資本(農地)が集中するようになります。しかし決定的なのは明治維新による地租改正と田畑売買自由化でしょう。それまで生産物であるお米を物納すれば済んだものが、税金という貨幣納入になったため、農家は生産物を売却して現金収入を得る必要が出てきた。しかし、そんなビジネス取引が上手に出来るわけもなく、買い叩かれ、破綻し、大地主と小作農という新しい経済身分の階層システムが出来ていきます。

 寄生地主制と言いますが、大多数の日本の庶民にとって、特に農村社会にとって、貨幣経済というのは便利というよりは迷惑なものだったのかもしれません。確かに明治以降、飢饉によって餓死者が続出という悲惨な事態は減りましたが、それは貨幣経済によって改善されたというよりも、西欧近代科学(品種改良や土壌研究、農機具の進歩)という知識技術に基づくものででしょう。

 戦後はGHQの農地解放でこれらの封建的な搾取システムは解消しましたが、今度は農協の一党支配になり、これに農水省が乗っかり、大企業(住友化学などの農薬とか)が乗っかり、減反性政策やら補助金やら優遇税制やら原発誘致やらがありーの、自民党の集票組織がありーの、というのが戦後日本の農村の風景でしょう。しかしそれも徐々に薄れていき、今はTPPなどで自民首脳部と農協があれこれ政治的綱引きをしつつ、一方では自主流通米に始まる別系統の流れが、オーガニックや食の安全性などと相まって出来ている、、というのが現在の状況かと思われます。
 
 閑話休題。別に改まって交換などしなくても、最低限生きていくにはそれほど不自由ではなかったにも関わらず、人類は営々と交換する範囲を広げていく。もう際限がないくらい広げる。より快適に、より便利にするようになる。しまいには便利のための便利、効率のための効率みたいな倒錯した話にもなっていくのだけど、「もうこれでいいや」とは思わない。

 なぜかといえば、そこにA快楽という要素があるからでしょう。
 衣服にしても防寒・防御(対怪我、対虫獣)というソリッドな機能を満たすだけでは物足りなく感じる。ファッションという快楽を求める。なんせ食うや食わずという絶対飢餓レベルにいたと思われる古代人だって、手間ひまかけて結構な装飾品を作ってたりしますからね。

 なぜそんなに頑張るのか?寒くなければそれでいいじゃんと何故思わないのか?といえば、「カッコよくなりたい」という本能的とさえいえる欲望があるからでしょう。

 あるいは、海の住人は海産物だけ食べていたってそれで良く、別に山菜を食べないと死ぬわけでもない。でも、なぜ山菜を欲しいと思うのか?やっぱり色々な食べ物を食べたいし、それで食卓が豊かになり、楽しくなりたいからでしょう。つまりは快楽原則です。気持ちよくなりたいから、でしょう。

 「気持ちよくなりたい」=快楽を得たい=快楽原則は、ご存知のマズローの欲求段階説のように、ベーシックな生存欲求が満たされると、次々に上位の欲求を満たしたくなる。すなわち@生理的欲求(食いたい、寝たい)→A安全の欲求(安心したい)→B所属と愛の欲求(他人と関わりたい)→C承認(尊重)の欲求(チヤホヤされたい)と続きます。ここまでが欠乏欲求(足りないから欲しい)であり、その上にD自己実現の欲求(自分が自分でありたい)という存在欲求が乗っかると言います。

 話はボン!とぶっ飛びますが、僕がやってる一括パックの初期サポートは、でっかくD(自分でありたい欲求)を前提にしつつ(そうでなければ日本人は海外に出ないと思う)、しかし、着いたばかりの”無人島状況”でサバイブするべく、@ABの技術をインストールする作業だと思っています。買い物や乗り物などのベーシックな生活技術と、心地のよい「居場所」をシェア探しなどで模索する。学校やバイト探しは、技術的には@A(英語技術と金稼ぎ技術)でありつつ、精神的にはB(居場所)でもあります。

 しかし、その全てにおいてDの関連が検証されなければならないとも思います。メシにせよ、金稼ぎせよ、住まいにせよ、「それは私のスタイルなのか」「自分はどうありたいのか」との関連で決めることです。このサーチ&選択技術がなければ、自己を「実現」することは出来ませんから。他人にお金を払って、良さげなものを見繕ってもらい、手続をやってもらうという「おまかせ」方式だけでは自己は実現しにくい。やっぱり、たくさんの見聞と体験を積み、暗中模索のなかで「あれ、意外と自分はこういうのが好きなのかも」「やってみたら実はハマった」「やれば出来るんだ」「実は才能があった」という、自分の性質・性能を再発見し、自分の豊かに再構築していくこと、つまりはDですけど、これが欲しくて海外に来ているのが原点でしょう。だから日常の全てについてDとの関連で考えるべきであり、また考えて実行できるだけのベーシックな技術は必要だと思います。

要は快楽の交換であること

 以上の次第で、人はなぜ交換をするかといえば、気持よくなりたいから(快楽を得たいから)でしょう。

 そして「A=B、B=Cならば、A=Cだ」という簡単な図式のように、交換は快楽を得たいからやるものであり、お金が交換価値そのものを体現しているとすれば、交換=快楽=お金ということであり、別にお金を使わなくても、直に快楽の交換ができたらそれで良いということにもなります。

 これは別に珍しいことを言っているわけではなく、物々交換の直取引ができるなら、あえてお金なんか必要ではないだけのことです。「掃除当番代わってあげるから、宿題見せて」というのと同じです。ここで掃除代行サービス代金が百円で、宿題情報閲覧サービスが一件百円で、それぞれに契約が成立し、100円の債権債務を相殺勘定にする、、なんて七面倒くさいことは誰も考えないでしょう。

 だとしたら、他人に対してダイレクトに快楽を与えることができたら、その限りでお金を持っているのと同じことになりますし、その限りで「お金と同じ働きをする」ことになります。

他者に快楽・感動を与えること=お金

それを商売・ビジネスと呼ぶ

 では、どういう場合に、他人になんらかの快楽を与えることができるか?
 それは、人により、置かれている状況により千差万別でしょう。一概に言えるものではない。

 あ、ここで「快楽」と言ってしまうと、ちょいエロチックな方向に連想される人がおられるかもしれません。だから「感動」と言い換えたほうがいいかもしれません。しかし、「感動」といってしまうと、今度は「感動巨編」みたいな大上段なニュアンスが出てきてしまいます。中々的確な言葉がないですねえ。まあ、「なんらかのポジティブな精神状態」一般のことを幅広くいっているだけです。それは状況に応じて様々で、それこそめくるめく快楽で昇天することも、涙滂沱(ぼうだ)の感動もありますが、そこまで大袈裟ではなくても、フカフカのお布団にもぐりこんで「ああ、気持ち」って思うのも入るし、部屋がきれいに片付いて「ちょっといい気分」てのも含むし、夕焼け空が綺麗だとか、猫が可愛いとか、もう幾らでもあります。また、ネガティブだった状態が幾らか軽減されたり、イヤなことや面倒なことから解放されて「やれやれとほっとする気持ち」もあります。

 しかし、いちいちこんなに長々と注釈をつけてられないので、ここでは簡単に「快楽」「感動」という言葉でひとまとめにして表すことにしますね。

 さて、目の前にいる人が何を欲しがっているか、何の快楽を求めているか、それを洞察し、的確に察知し、いかなるときでもそれを提供することができる、そんな魔法使いのような能力があるなら、お金なんか全く必要ないでしょう。全ての他者を意のままに動かせるのですから、およそ人が提供しうる全てのものをゲットできる。お金なんか要らない。

 しかし、そんな夢物語のような出来事はそうはないです。平凡な一般人である我々は、大体が局限された状況で、局限された「なにか」しか提供できない。また、提供しても、他人が常にその交換話に乗ってくれるとは限らない。だから上に述べたような物々交換の難しさはついて回ります。

 じゃあ結局はお金が要るって話になるじゃん!ってことになりそうだけど、ちょっと待った。

 そのお金はどうやって稼ぐのですか?
 多くの場合は働いて稼ぐことになるけど、「働く」ってなあに?これだって「交換」でしょう?特殊技能を切り売りするとか、人々が欲しているものを安く仕入れて高く売るとか、労働力を提供するとか、結局は「局限されたなにか」を持っていって、他人と(お金=賃金や報酬)を交換してくることでしょう?やってることは同じではないか。

 はい、だんだん何が言いたいのか分かってきたと思いますが、「他人を快楽を与える」というのはビジネスの原点だと思います。儲かるビジネス、売れる商品を考えるということは、どうすれば他人は喜ぶか、快楽を与えられるかを必死になって考えることでしょう。商品企画部の人や、起業や自営をやっている方は習い性になるくらい常日頃から考えているでしょう。同じことなんですよね。

 いわゆる大企業のサラリーマンだって公務員だって原理は同じです。一見「快楽」という甘い蜜のような語感ニュアンスとは程遠いような仕事であろうとも、それらは集積すれば最終消費者の欲求(快楽)に応えることに変わりはない。いくらB2B取引であろうとも、どこかに最終消費者は絶対存在しますし、最終消費者がその快楽を拒否したらどんな企業も潰れます。

 サラリーマンは立派なお仕事だと思いますが、あまりにもシステムが巨大になり、且つソフィスティケートされ過ぎているので、このゴツゴツした生の原理が分かりにくいのが難点です。分かりにくい分だけ、お金というのは給与という形でしか得られないという不思議な思い込みをされる方もいます。その分だけど、人生の選択肢が狭まってしまい、損です。世間はもっともっと融通無碍です。「お金の稼ぎ方=快楽の与え方」なんだから、やり方なんか無限にあるでしょう。

 これを個人レベルで極論すれば、要は他人に快楽・感動を与えらる自分であれということであり、他人に感動を与えられない人間は交換ができないので、無人島で自給自足するか、餓死するしかないということです。これが人類のルール第一条なんかもしれません。

 しかしどんな法律でもそうであるように、第一条というのは大抵クソ当たり前のことを書いているに過ぎず、それが当たり前であるがゆえにどんな人でも実行可能なことです。どんな人でも他者に感動を与えることはできます。僕にもできるし、もちろん貴方にも出来ます。出来なかったらとっくに死んでます。あなたが現在まで生きているということは、これまで営々として誰かに快楽を与え続けてこれたということでもあります。そういう発想でものを考えたことは、あまり無いかもしれないけど、原理的にはそうでしょう。

 ただし、やり方の上手い下手ってのはあると思いますし、原理に自覚的になれば、もっとうまいやり方があるんじゃないかってのが、本稿の主題でもあります。

快楽という通貨

 このあたりの内容が、冒頭で述べた過去回の「愛という名の通貨」の続編になるのですが、他人に何らかの快楽を与えることこそが交換の本質であり、お金の本質だとするならば、究極的には快楽・感動こそがお金の本質的な価値だということにななるでしょう。

 交換というのは、言うまでもなく人と人とが行うことです。そこらへんの樹木や岩石と交換行為はできません。必ず人と人とが行う。そして、人は何のために他者と接触するかといえば(お義理や仕事で仕方なくするのではなく、自由意志で自発的に)、そこに何らかの快楽・感動を期待しているからでしょう。人と人とが接することをコミュニケーションと呼ぶならば、それは快楽・感動の交換の行為だと言い換えることも出来ると思います。

 ならばダイレクトに感動をエクスチェンジすることが出来る局面では、別にお金は必要がないことになります。お金というのは交換におけるワンクッションであり、間接取引の一形態にすぎないところ、直接取引ができるならお金なんかまどろっこしい物はいらないからです。恋する男女が惹かれ合うのにお金は介在しないし、気の合った友達と愉快な時を過ごすのも、お金のためにやってるわけでもない。あったり前の話です。

 ということで、あなたが他人を喜ばせたり幸福にすることが出来れば出来るほど、お金はそれほど必要ないことになる----なんか、こう書いていると、だんだんと新興宗教の説法みたいになっていきますな(笑)。

 しかし、これは一面ではそのとおりで、宗教にはそういう側面があります。さきほど「全ての人に快楽を与えられたなら」と夢物語のような話をしましたが、宗教の教祖様はこれに近いところにいます。

 宗教と一括りにするのもどうかと思いますが、キリストにせよ釈迦にせよ教祖が他者に与えるのは、およそ人が最も本心から欲しがっているもの、つまり「あなたがこの世界に存在する意味」だったりします。世界観そのもの、アイデンティティそのものを与えるわけで、これを信じる人にとっては落雷レベルの感動でしょう。「そ、そうか、そうだったのかあ!」という”覚醒”は超快楽といってもいい。だから全財産でも全人生でも喜んで捧げるし、場合によっては生命すら殉教の名のもとに捧げる。お金なんかよりもはるかに強力。

 それに次ぐものはカリスマでしょう。スターや有名人でも、神のような存在が「身近な距離にいる」「親しく声をかけてくれる」「お近づきになれる」というだけで、熱狂的なファンは失神レベルに感動するのでしょう。一人数万円の高いディナーショーが売れるのは、やっぱり手を伸ばせば届くような距離にあの大スターがいるという同時存在性が大きいのでしょう。

 今、日本で一番のカリスマは誰かといえば、おそらくは天皇陛下でしょうが、園遊会に招待されるのは名誉なことだと思う人も多いでしょう。園遊会の招待は実績その他で選抜されますが、もしこれがお金で売買できたら、1000万円払ってでも出席したいという人は、多分ゴマンといると思います。仮に僕が(恐れ多くも(^^))天皇だとしたら、パーティ会費1000万円でもどんどん人が来るのだから、これは笑いが止まらないほど儲かるでしょう。だって、近距離に存在していればいいだけなんだから原価なんか限りなくゼロですもんね。

 つまり、他者に対して圧倒的な快楽を与えることが出来る人は、その他者といくらでも交換できる。単にそこに存在しているだけで快楽を与えられるならば、自分自身がお金そのものみたいなものでしょう。
 

原液の希釈〜原理とそれを薄めた応用

 上は極端な例ですが、根本原理は全てにおいて同じだと思います。

 実際の局面においては、濃い原液を水で薄めて希釈するようにして交換(販売)します。
 大スターそのものではないけど、その人が書いた本であるとか、スターが○○の舞台で使用したコスチュームとか、汗が染み込んだタオルすらもフェチ的に売れたりする。なんの変哲もない文房具であろうがスリッパであろうが、有名人のサインがあったり、デザインがあったり、「僕も使っている」というオススメがあったり、なんらかの「ゆかり」らしきものがあれば、それだけで買う人は買う。今のミュージシャンはCDが売れないから、メイン収入はライブにおけるグッズ販売だと読んだことがありますが、つまりはそういうことです。

 これは別に同時代に存在する人でなくても良いです。歴史上の名所旧跡は、たとえそれがどんな平凡なド田舎であろうとも、観光資源になりうる。「平家の落武者部落として有名な」というのでもなりうる。さらに「河童の生息地」などという、本当かよ!?と言いたくなるようなものでも観光資源になる。さらには、最近では「アニメファンの巡礼地」として鷲宮神社、木崎湖、豊郷小学校旧校舎、尾道、城端などがクローズアップされてますよね。こんなの完全にフィクションなんだけど、それでも何らかの「ゆかり」があるというだけで、それに快楽を感じる人はいるし、それにお財布をはたく人もいる、ということです。

 これらのケーススタディで分かることは、一つは、人が何に快楽を感じるかというのは実に千差万別であり、その範囲はおよそ奇想天外なレベルにまで至るということです。もし貴方がビジネスを志すとするなら、利便性や効率性というクソ真面目一辺倒で考えていたら外すということでもあります。「全然実用性が無いのが(無いからこそ)良い」という物だってあるわけですよ。ゆるキャラだってそうでしょう。ペットの猫だってそうです。犬みたいに番犬や盲導犬などの実用性はゼロですからね。でもそれが良い。

 二つ目はカリスマや有名になるってのは途方もない錬金術だということです。ケースバイケースですけど、経済的価値でいえば数億円に匹敵する。だったら、人為的に有名になってしまえばいいじゃんってことになり、ここで「広告」「パブリシティ」という経済価値が注目されるようになる。そして「お金をもらって有名にさせる」というビジネスが栄えたりします。言うまでもなく広告代理店であり、マスメディアです。彼らは錬金術の司祭のようなものです。TVのコマーシャルを延々と流せば、誰もが知っている商品になり、何となく親しみを感じ、それが「有名だから信頼できるだろう」という誤解(と表現してよいでしょう。金の力で有名になってるだけのものに真の意味での信頼はないですから)をまねき、結果として売れることになる。

 もっとも、ここまで薄く希釈してしまうと、「感動・快楽=交換=お金」という原構造が見えにくくなります。見えにくい分だけ、マスコミや広告代理店というビジネス形態が大昔からあったかのように勘違いしがちだけど、テクノロジーの進展(テレビ放送やメディアの登場)と同時に、ここに快楽交換の錬金術が潜んでいることを見抜いた頭のいい連中がいたということでしょう。ということは、これからも世の中が変わるごとにどこかに新しい快楽交換のニッチが出来るということであり、いかに人よりも早くそれを見つけるか、それを交換形態になるようにシステム化するかです。

感謝とスマイルと感動と

 原液にせよ、薄めた希釈にせよ有名人やカリスマじゃないとダメじゃないかって思われるかもしれないけど、大事なのは快楽交換の原則にのっとっているかどうかです。カリスマ云々は、人が快楽を感じる一つの類例に過ぎません。

 広く一般大衆に対して快楽効果がなくても、特定個人に強力な快楽機能がある場合もあります。家族や恋人、親友などです。特に子供は、親に対して抜群の快楽効果があります。こんな表現は不謹慎なのかもしれないけど、でも、クールに考えてみればやっぱり物凄いことですよ。子育て一人に3000万円かかるとか言いますけど、本当かどうか知らないけど、半端ではないお金を我が子に費やすわけです。そりゃあ世間体や義務感からお金を出すって場合もあるでしょうけど、でも、本質的にはやっぱり我が子が可愛いからでしょう。でもって子供はどんな見返りを与えるかというと、多くの場合は貰いっぱなしです。基本的にはそこに生きて存在しているだけです。いい子にしているとか勉強しなきゃとか対価的義務らしきもないわけでもないけど、しかし「うっせーな」とか悪態つきまくりの子供もいるし、それでも親は子に与えようとする。場合によっては、自分の命に替えてすら我が子を守ろうとする。

 これはもう交換価値でもなければ、使用価値でもない、「自然価値」と呼ぶべきものですが、おそらくこれが最強だと思います。何を交換するわけでもなく、何の役に立つわけでもない。ただそこに自然に存在しているだけで、特定の個人(親しい人)に多大な財産や生命すら差し出させるという。広く世間に通用するカリスマではないけど、特定個人に対しては教祖様を超えるレベルの神通力を持つ。

 他人を仕合わせにする力、快楽を与える力は、基本的に誰もが持っているのでしょう。貴方も持っている。繰り返しになりますが、持ってなければとっくの昔に死んでいる。

幸福の自他同一性

 歳末だというのにえらく長くなってしまいました。そろそろタイトルのテーマを述べておひらきにします。

 過去にさんざん書いて、これからも意地のように書き続けると思いますが、人が本当に快楽・感動(幸福)を感じるのは、実は自分が気持ち良い場合ではなく、他人が幸福になって、その反射光を浴びるような場合だと思います。世のため人のためと言いますが、自分が何かをすることで他人が喜んでくれるという充実感は、何物にも代えがたい深い満足を与えます。

 これは単なるキレイゴトではなく、乾いた客観的な事実だと思います。
 ビジネスはしょせん金儲け、仕事は給料のためにイヤイヤやってるんだって思いながらも、それでも「金さえ入ればそれでいいんだ」とは人は思わない。中にはそういう人もいます。「絶対儲かるから」と口先三寸でお年寄りを口説いて、虎の子の年金や貯金を投資させれば後は野となれ山となれ、結果的に暴落してそのお年寄りが自殺したとしても、俺の知ったこっちゃねえやって人もいるでしょう。でも、そういう人はひねくれていると評されやすいし、場合によっては犯罪、あるいは道義的に問題があると言われる。

 何よりもやってる本人が本当に楽しいのか?って部分があります。そりゃお金が儲かれば充実感も快感もあるでしょう。でも、本当に心の底から一点の曇りもなく、ド快晴にハッピーなのかよ?というと違うと思う。僕も、思春期には年頃でひねくれて、畜生力さえあればいいんだって思ってた時期もありましたし、仕事でこの種の修羅場や泥沼を見てきました。で、徐々にわかってきたんだけど、「けっ、しょせん」というヒネクレというのは、ストレスかかるんですよね。そういった姿勢を続けているのは、ボディビルダーがカメラに向かってポーズを取っているのと同じように、ずっと力んでいなきゃいけないから、かなりのエネルギーが必要です。長い目でみたら燃費が悪いんですよ。エネルギー効率や、コストパフォーマンスが悪い。もうメチャクチャ悪いです。一生悪党やりつづけるのは、オリンピックのアスリート並みの天性の資質がいるんだと思います。素人には無理だわ。

 結局ロングスパンになればなるほど、素直にやってるのが一番熱効率が良い。素直になるってどういうことっていえば、子供の頃に感じていた楽しさや嬉しさを思い出して、それに忠実に再現することでしょう。そして何が楽しかったといえば、好きなことに夢中になっているとき(チャリをぶっ飛ばしているとか)と、やっぱり他人に喜んでもらえたときです。家の手伝いをしてお母さんに喜んでもらえたとか、肩叩き券を作って渡したりとか(^^)。友達とか、自分よりも小さな子を助けてあげたり、物を上げたり、「え、いいの?」ってパッと電球がついたみたいにその子の顔が明るくなる時とか、うれしいんですよね。やっぱ他人のリアクションが一番うれしい。それもオーガニックなリアクションが一番うれしい。虚勢を張ったり、嘘をついて自慢して、「すげ〜」とか言われても、今イチ嬉しくない。

 嘘だと思うなら、「どんなときにこの仕事をやっててよかったなって一番思いますか?」って質問を片端からいろいろな人に投げかけてみたらいいです。やっぱり似たようなことを答えるはずですよ。「お客さんに喜んでもらえたとき」「患者さんが心から楽しそうな顔をしてくれたとき」。以前シェフの人が来てその話になったけど、お客さんの反応が一番のご褒美だと。厨房で黙々とやってるんだけど、耳ダンボにして聞いている。「な、この店、本当に美味しいんだよ」「本当ね、美味しい〜」って会話を、聞いてないようで聞いている。無表情で仕事をしてるんだけど、心のなかはガッツポーズ!ですよって。誰だってそうだと思いますよ。あなたは違うのですか?

 面白いですよねえ。自分が気持ちよくなることよりも、他人が気持ちよくなることの方がもっと気持ちいいんだから。不思議ですよねえ。でも、だからこそ人類は生き延びてきたのでしょう。

スマイル=100円 

 で!この幸福の自他同一性の原理と、これまで述べてきた快楽交換の原理とをかけあわせると、相手に快楽を与えるのはどうしたらいいかといえば、相手を喜ばせてあげることなんだけど、それはシンプルな一方通行で相手を喜ばせるよりも、まずは自分が相手の行為に感動し、喜んで、それを表現(感謝)することだと思うのです。

 ややこしいけど、わかりますか?
 誰かにアンパンをあげることと、誰かからアンパンをもらったことを喜ぶこととは、相手に快楽を与えるという意味では等価、ないし等価以上であると。価値的に、能動=受動であると。相手を喜ばせたかったら、まずは自分が喜べってことです。

 これをより行動しやすく整理すると、「ちゃんと喜べ」「もっと笑え」「きちんと"ありがとう"って言え」ってことだと思います。

 これを標語的に「スマイル=100円」と書いたわけですが、100円という数字に確固たる根拠があるわけではないです。ただ、全く根拠がゼロってわけでもない。笑ったところで全く効果なしって場合もあるけど、しかし、あなたの笑顔が見たくて何万円も、どうかしたら何千万円も使う人だっているかもしれない。それらを人生レベルで大雑把に均していくと、大体百円くらいかなあって見積もりです。そんなに儲かるわけではないけど、でもかなり確実に何らかのリターンはあるだろう。100円くらいのご利益はあるだろう。

 これは商売でもそうで、学生時代に行きつけだった安い定食屋があって、顔なじみになってたんだけど、代金払って出るときにに、そこのおばちゃんが「兄ちゃん、いつもありがとうね」って声をかけてくれるのが、なんか面映ゆく、うれしかった。だから、また行こうかなって気になる。それがマーケティング的にいえば「リピーターの行動性向の解析と獲得技法」とかになるんだろうけど、「しゃらくせえやい」って気もしますね(^^)。そこで一言声をかけるかかけないか、大雑把にいえば100円くらいの価値があるんじゃないの?って。

 今でも覚えてますけど、この発想を最初に教わったのは、12歳のときに読んだ司馬遼太郎の「新史太閤記」って本で、なぜ秀吉があそこまで異例の出世を遂げたかといえば、無類の「人たらしの名人」と言われるくらい人心掌握術に長けていたからです。しかしそれは後年に技に磨きがかかってからの話で、彼の初期、つまり身分の低いペーペーだった頃は、「物悦びの激しい性質だったから」と書かれてました。彼は無力だった頃から、今でいえば暴力団の組長みたいな蜂須賀小六やら、エリート御曹司だった前田犬千代(加賀百万石の祖)にも、とっても好かれている。友達が多い。これは漢の高祖の劉邦にも通じるのですが、やたら好かれる。あの気難しい信長にさえ愛されている。それは何故かといえば、「ちゃんと喜ぶ」からだと。「え?本当か?かたじけない!この御恩は一生忘れぬ」と大袈裟くらい喜んだと言われるけど、それが全然イヤミではなく、ナチュラルでオーガニックだった。だから周囲の人間も嬉しくなって、ウキウキしてきて、もっと喜ばせてやりたくなる。こんなにリアクションが抜群に良い人だったら、もっともっとしてやりたくなる。そして実際にも恩を忘れず、天下を取ったあとでも、厚く封じて報いたといいます。

 まあ、人徳って言えばそれまでなんだけど、人徳って言葉はハッキリいって意味不明だから、そこで終わりになってしまいがち。もっと具体的な行動方針として噛み砕けば、ちゃんと喜ぶこと、ちゃんと人に返すこと、そしてその人により深い快楽を与えることなんだと思います。

 12歳の頃は「ふうん」だったけど、あれから幾星霜。ずっとどうなんかな、本当なのかなと、科学者が実験結果をみるように見てきたけど、やっぱそうだと思います。ちゃんと喜べる人、ちゃんと感謝できる人を、他人は見捨てないし、何かしてあげたくなる。そういう人は、長い目でみてれば、やっぱりそれなりのところまで行きますもん。

 逆に、そのあたりがぼややんと無反応に近かったら、拍子抜けするし、あんまりやる気がなくなる。これは、あなただってそうだと思いますよ。

 だからちゃんと笑え、スマイルを忘れるな、感謝の心を忘れるな、ちゃんと表現しろって。
 前にも書いた記憶があるけど、これは人の躾の筆頭にくる心得なのでしょう。「ほら、おじちゃんにお礼を言いなさい」ってあなただって言われたことがあるでしょう。あれはお義理やお世辞や儀式じゃなかったんだって、今頃になって気づくという(^^)。

 世界一周してきた人とか、旅慣れている人、あるいはラウンドなどの皆の体験談などでも書かれてますが、「スマイルが大事」「スマイルさえ忘れなければ、大抵のことはなんとかなる」って。これは本当だと思いますし、値千金の世間知だと思います。これは単なる思いつきや、ひらめきではないです。なんせ知らない異郷を何千キロ、知らない人々を何百人、そんな武者修行を何ヶ月も何年も潜り抜けて来た上での実感なのですから、筋金入りでしょう。

 まあ、だからといって、ヘラヘラしろとか、愛想笑いや追従笑いにいそしめとか、お世辞を言いまくれってことじゃないですよ。わかってると思うけど。ナチュラルでオーガニックでなければ意味がない。そして食品は偽装できても、人のナマのオーラは偽装しにくい。ということは、ナチュラルでオーガニックな自分であれってことでもあります。

 なかには「口下手だから」「シャイだから」っていう人もいるでしょうけど、そんなの社会人になったら言い訳にもならないです。言うべき時に言わない、笑うべき時にスマイルを与えないと、きっちり100円づつ損してまっせ。塵も積もれば山となる、毎日10回損してたら1日1000円の損、月間3万円、年金以上です。年間36万円、あと50年生きるとしても1800万円損しまっせ。まあ、百円という基準がテキトーだからいくら電卓叩いても意味ないんだけど、でも、一生レベルだったら2000万円やそこらの損ではきかないような気がしますね。軽く億単位で損しそうな気がするのが僕の実感です。

 それに別に流麗に喋らなくても、満面の笑みでなくてもいいです。「巧言令色鮮し仁」です。オーガニックでないのはただのベンチャラで、やればやるほど優れた人から離れていくから損をする。だから「はにかみ笑い」でもいいですし、無言でペコリと頭を下げるだけでも、それが本物であれば、十分に通じます。

 でもって、このあたりが「他人の動かし方」というエッセイの続編にもなります。他人に動いてほしかったら、そのあたりはキチンとしておけってことです。困ってる時だけすがってきて、あとで礼状も報告もしないような人間は、二度と助けてやるもんかって、普通の人は思うと思うよ。あなただってそうではないかい?利用できるときだけ利用して、用が済んだらあとは知らんというのでは、人間関係の焼畑農業みたいなもので、不毛であるだけではなく、やっぱり億単位で損するような気がしますね。

 ところで、なんでこんなにムキになって書いているかというと、もう長いからまた別に書きますが、てか何度も書いてますが、世の中には貨幣経済以外の「経済」が厳然としてあるのだということを言いたいのです。それはグローバリズムと資本主義のどん詰まりになっている世界における最新モデルの経済であると同時に、太古の昔から人類がやってきた最も由緒正しい伝統経済でもあります。百円なんたらというのは、そのことを無理やり貨幣経済にコンバートしての表現に過ぎませんが、貨幣経済に慣れてしまったなら、そういう言い方の方がわかりやすいかもしれないなって思ってのことです。

 この最古にして最新の経済の存在が腑に落ちたら、人生楽になれまっせ(^^)ってことで、僕も日頃から、はよラウンドにいって無一文になってきなさいってけしかけているわけですね。そうしたら分かるから。常々、日本からオーストラリアにくると二つのバリアがあると思ってます。一つは言語バリアで、日本語ゼロ環境が普通になること、日本語によるサポートや環境なくても全然困らない、欲しいとも思わなくなることです。これはそんなに難しくないです。着いて一週間でできる(てか、一週間でマスターできなかったら、もうしんどい)。「ああ、俺は英語を喋ってるんじゃなくて、人間と接しているんだな」ってのがストンと腑に落ちたらそれでもういい。

 第二にくるのが貨幣経済バリアです。お金がないと死んじゃうと思いこまされてきた悪霊みたいな憑き物が落ちることですね。これは難しいですよ。でも、これが出来ないとワンステップ上にあがれない、本物の快楽にたどり着かないので、だからムキになって書いているわけです。これからも書きます。


 最後に、冒頭の「問い」に戻りますが、お金類似の働きをもつのは、およそ他人に快楽を与えるものであれば何でも良いことになります。そのなかでもスマイルや感謝を挙げたのは、適用範囲の広さからです。

 いくら与える快楽が強力無比であり、お金以上の影響力を持っていたとしたも、その対象が極めて限定された少数でしかなかったら、「誰にでも使える」という通貨の普遍性という意味からするとちょっとズレる。

 その点、スマイルや感謝は適用範囲が広い。基本的に相手が人間でありさえすれば良いのですから、その意味では通貨なんかよりも広い。日本円をそのまま持ってきてオーストラリアでは使えませんし、オーストラリアドル札は日本では使えません。為替レートにしたがって交換するという面倒な作業がいる。クレジットだって、手続して、カード作って、、って面倒な作業はいる。全ての店で使えるわけでもない。ところが、スマイルは万国共通だし、面倒な手続は一切なしです。しかしお金ほどデジタル的に明確に使えるという保障はないし、効果も限定はされている。

 そのあたりのプラマイを均して、アバウトに言ってしまえば、スマイルや感謝が、もっともお金に近く、類似しているんじゃないかな?ってことです。




文責:田村



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