★↓背景画像bgmaximage★ グラデーションなどベンダープリフィックスを除去するJS★
851 ★背景デカ画像

  1.  Home
  2. 「今週の一枚Essay」目次


今週の一枚(2017/11/13)



Essay 851:なぜ世界でポピュリズム(≠右傾化)は台頭するのか


 写真は、言うまでもなくシドニーハーバー。ドが付くくらい「ベタ」なんだけど、やっぱいいすね。マンリー行きのフェリーでしばらくしたら、北に針路を変える地点があり、そこで航跡を残しながらぐわっと曲がっていくところが好きです。
 特にこういうよく晴れた日。これはもうシドニー住んでる奴の特権みたいなものです。もっとも、その特権、あんまり活用してないんですけどね。たまーに乗るくらいで。考えてみれば勿体無いよな。数百円で味わえるんだし。



 今週は世界のポピュリズムを書きます。これが各国のビザがやや難しくなってることと通底もするし、現在の世界の多くの現象を読み解くキーワードの一つになってると思いますから。

右傾化とか言わないし

 日本では右傾化とか軍国化とかいう言葉で語られることが多いのですが、世界(=OECD=主として西欧系先進国)においては「ポピュリズム」という言葉で語られる場合が多いと思います。右とか左とか、今そんなに流行ってないんじゃないかなー。だって、状況的にそういう問題じゃないでしょ。

 こっちでも、一応そういう右翼左翼フレームで語れることはありますよ。Right (Left) Wingのもともとの語源がフランス革命後の会議場の席の位置なんだから、西欧の方が本家。でも、フランス革命とほぼ同時代(ちょい50年ほど遅いが)日本における「尊王派と佐幕派」みたいなもので、かなり時代遅れな発想でもあると思います。

 それに右左論フレームにしちゃうと、物事が見えなくなるのが恐いです。

 例をあげます。就職のときに、それまで何をやっていたかという過去経歴が重要なファクターになるとして、それを「学歴重視」というか「キャリア重視」というかみたいなものです。うっかりしてるとゴッチャにしたりするんだけど、本質的に全然次元が違う。キャリアというのは学歴ではなく「職歴」のことで、その本質は「今、何ができるか?どんなスキルがあるか?」です。そのスキルを養成する基礎として難関大学を卒業してたりするかしらんけど、でもそれはプロセスであって、そこはどうでもいいんです。

 一方学歴はたんに修学ヒストリーであり、過去の記述です。現在何が出来るかは基本問うていない。だから西欧では新卒採用がもっとも難しく(職歴もスキルも無いから)地獄を見るわけですな。日本の学歴重視は、僕が思うに、あれは一定レベルの地頭の良さと、より重要なのはクソ詰まらないこと(受験)を文句も言わずにコツコツやれるという精神的なタフさと従順さ(→使いやすい社畜的人材)という点で意味があるのでしょう。だいたい抜群にキレる奴は自我も強烈だからあんまり従順じゃないし、受験とか真面目にやってないヤツも結構いるし。だから日本の場合の学歴重視は、従順度重視であり、現スキルの軽視でもある。ゆえに一番無能な新卒が(洗脳しやすいから)一番優遇されるし、知的能力とは関係ない体育会系が従順度的に高評価されたりもする。ま、いってしまえば、奴隷採用試験ですな。奴隷と言っちゃうと語弊があるから「組織に対するロイヤリティ」とかカッコいい言葉に置き換えられますけど。

 話逸れたけど、右翼左翼とポピュリズムも同じことで、次元が違います。
 もともと民族的自同性を重視する右翼と、弱者救済と社会的公正を重視する左翼ですら、本来次元が違う。だから現象的には右左翼がピタリと一致することもある。ヒトラーが初期においては労組からの支持を基盤にしたように。あるいは2.26事件も東北の寒村の窮状と腐敗堕落する政財界とのギャップに憤激して決起したものだけど、その理由は「社会の公平さが損なわれている(左翼的)」であり、「正しい日本のありようではない(右翼的)」でもあるから、同じことになる。

 そして、ポピュリズムと右左翼は次元が違うから、翼×ポピュリズムという現象はありうるし、実際にもある。日本サイコーとか言ってりゃ全てが解決するかのような劣化右翼(つか過度の現実逃避ナルシズムという精神疾患かも)、消費税と移民が諸悪の根源であるかのように矮小化する劣化左翼(全共闘以前から「左翼小児症」という精神疾患はあった)とか。これらは、非常に「わかりやすい」ポップさがあり、ポピュリズムになる。

ポピュリズムの意味

   ポピュリズムのポピュは「人」であり、「人」口はポピュレーションであり、「人」気はポピュラーで、ポピュラーがカジュアルに省略されると「ポップ」になる。一般受け、大衆受けって意味。

 だからポピュリズムは(正確に論じたら政治学者の数だけ定義があると思うが)、僕の感覚では、昭和の時代の「流行歌」「歌謡曲」みたいなもので、「なんかいいよね」「好きだな」くらいの、音楽性の高さとか技術の深さとかあんまりシリアスに考えなくて、広く大衆に受けているものです。

 これが政治的な話になると、多分その本質は、「あまり深く考えてない」「気分先行」点にあると思います。別の言い方をすれば、知性的というよりは感情的で、複雑な思考の末にでてきた結論というよりは、単純にそう感じられるという程度の浅い理由でそう思うと。ま、語弊を恐れずに一言でいっちゃえば「頭が悪い」ってことなんだけど(笑)。

 歴代の都知事選なんかもそうですね。あれこそ昭和の歌謡曲の世界で、ばっと売れてすぐ売れなくなる。猪瀬しかり、舛添しかり、小池しかり。猪瀬氏の場合は5000万円もらったとかなんかで辞任させられているけど、あれもっともっと多くの政治家に渡してるわけで、猪瀬氏はその一人にすぎない。本来なら、誰に渡したのか全員明らかにして、そのなかで相対的に猪瀬氏はどうか?って判断をすべきなんだけど、(マスコミの重大な怠慢と思うが)その追求続報は見事なまでにない。で、「クリーンイメージが傷ついた」とかなんとかで失脚。しかし、イメージなんてあやふやなもので意思決定している時点で馬鹿ですわね。比較的長続きしたのは石原とか大阪の橋下とか、確信犯的にポピュリズムを活用したケース。

 ま、それだけだったら、選挙民(=僕ら)なんか馬鹿だからすぐ騙されて、また騙されて、永遠に騙され続けるよって、別に珍しくもなんともない話なんですけど。

 ただね、自己弁護させていただけるならば、今の社会それ自体が複雑になってるので、普通に生きてたら到底理解できないと思います。そればっか研究してるわけじゃないもんね、仕事あるし、恋もあるし、バンドの練習もあるし。もう対象そのものが複雑すぎてマニアックだから、一般人は相対的に頭が悪くて馬鹿呼ばわりされるという可哀想な立場になる。それに加えて、その複雑な仕組みを逆操作する技術も高度に進化してるから(マスコミの支配やネットの組織的書き込みとか)、また操られてしまうと。

 そんなこと言ったら民主主義自体が出来損ないのクソシステムだということになるんだけど、いや、実はそのとおりです。それも昨日今日そうなったのではなく、2000年前のギリシャ時代から、デマゴーグとか衆愚政治とか、馬鹿が集まってアホアホなことを決めて、集団自殺的な悲劇を延々繰り返すだけなんだよなーとかいってるんだから、人類の宿命みたいなものです。日々の生活をやりながら、全体構造を理解できるほど、人間の頭は良くできていない。てか、自分の手に余るくらい社会を複雑にしてしまったというか、もともとが無理目なことをやってるともいえます。それでも、他の君主主義とか宗教一極支配のダメダメ破壊度は、民主衆愚よりも遥かにひどいから、まだしも民主主義がマシだという程度。


 ただ、今、世界で論議されているポピュリズムは、もう少し複雑な陰影がついているように思います。それが話の核心です。

今の世界のポピュリズム 

 今の世界のポピュリズムの動向を、僕なりに描けば、犬が足を踏ん張って行きたくない!って言っているようなイメージです。お散歩行くときは喜んでリードを引っ張るくらいグングン行くだけど、帰るよーとなったら、イヤだ、帰りたくない、もっと遊びたいとかいって、引っぱっても引っ張っても腰を落として断固抵抗!って感じで、拒否りますよね。あんなイメージ。「前に進みたくないよー」というメンタリティです。

 それは世界的な時代の進展についての異議申し立てであって、単に昔に帰りたい的な、大人になりたくない的な、ひきこもりの一歩手前みたいなメンタルもある。それに加えて、前には進むべきだが、この方向じゃないだろうという意見、あるいは方向はいいんだけど、このやり方ではダメだろうという。

 そして進展とか前とかいうのは、マクロ経済学であり、グローバリゼーションです。今、世界でグローバリゼーションは絶賛ボコられ中みたいな感じ。そこにポピュリズムが発生している。とにかく移民を入れたらダメだとか、世界企業はダメだとか、あらゆる改革はダメだとか、そんな感じね。

 なんでそうなってるの?といえば、理由はちゃんとありますし、理解も同情もできます。

The Economistの論稿

 例えばRising tide of political populism in the OECD results in a retreat from globalisationという、Economistの論稿があります。短い論稿ですが、そこでの分析論を簡単に訳すと、

 「アメリカ大統領選挙におけるトランプへの力強い支持、そしてポピュリスト政党(左右を問わず)の影響力の増大、スペインのPodemos(左翼系ポピュリスト政党)、イタリアのFive Star党、フランスのFront Nationaなどなど、グローバリゼーションの帰結に対する激しいバックラッシュ(反動)がある。
 貿易の自由化に伴う利益は、人口の大部分に薄くほどこされるだけだし、しばしばその利点を認識されることすらない。好対照なのが、グローバリゼーションによって生じる犠牲である。例えば、ある製造工場や産業に強く依存しているエリアにおいては、グローバリゼーションの影響を集中的に受ける。この分裂は、過去10年間のOECD諸国の多くの人々の生活水準の停滞によってさらに悪化してきた。このような逆風のなかでTTPにしても、TTIP(アメリカとEUの条約)にしても、合意批准はますます困難になるだろう。保護主義の復活のリスクすらあり、OECD諸国のさらなる経済停滞を招くかもしれない。」

 ということで、グローバリゼーションの恩恵はあるんだけど薄く広がるからわかりにくい反面、その被害は非常にわかりやすいので、どうしても短絡的に反対してしまいがちであり、ポピュリスト政党が人気になっていくと。つまりこの「わかりやすさ・わかりにくいさ」がポイントだと言うわけですね。

 ただそれがポピュリスト(アホ)呼ばわりされるのは、結局保護主義が台頭すると、輸入関税などを高くするわけだから、安い外国の資材、食材、資源のコストが高くなり、それは国民生活コストの負担になって跳ね返ってきて、結局国内の景気は悪くなり、今以上に生活は厳しくなる。同時に保護主義をやれば、今最大のお得意先である東アジアなどの発展中の諸国も対抗的に保護主義をやるだろうから、海外に活路を見出すしかない先進諸国の企業は打撃を受け、それがまた国内の倒産や失業という形でブーメランするという地獄ループになる。んでも、その因果関係が長くて複雑だから理解しにくいし、大きくトータルの話だから身近なこととして実感もしにくい。

 でも、とりあえず自分が首になって一家離散になったり、工場移転や空洞化で地元まるごと消滅みたいな目にあったら、そんな複雑な理屈なんか考えて納得なんかしてらんないでしょう。そしてジリ貧状態が続けば続くほど、「考えてらんない(大局的な視野に立って理解できない)」人が増えてくるだろうし、結果としてもっと悪いサイクルになっていく。「貧すれば鈍す=貧乏になると頭が悪くなる法則」というけど、まさにそれ。


Ross Gitten氏の論稿

 しばしばエッセイで紹介するのですが、この人の論稿も興味深いです。幾つかあるのですが、

 Closing out the world won't fix our problemsでは(以下適当に自分の言葉で意訳しますね)、10年前の世界経済危機(GFC、日本では「リーマンショック」という相変わらず世界音痴な名前で呼ばれているが)の後始末が全然出来ていない。本来だったら、刑務所に行くべき金融財界人、煽った経済評論家や政治家も失脚していない。事態を招いた張本人たちが何事もなかったように、その後も舵取りをし、各国の税金を大量に無駄遣いしながら、また同じことを繰り返しつつ今日に至っているのだという認識が述べられる。

 この状況に対する怒れるNO!があり、それが今日のポピュリズムの源の一つになっている。トランプも、イギリスのEU離脱も、フランス選挙でも二大政党以外から大統領を選び、ドイツはかつかつマトモだけど余裕はない。オーストラリアだって、二大政党以外のポーリン・ハンソンのワン・ネーションがしぶとく生き延びていたりする。

 政治家など中枢が自らの過ちを素直に認めないから、グラスルーツ(草の根)的に怒りが高まっている点が問題をややこしくしている。その怒りは正当なのだが、その問題認識が甘いからポピュリズムになってしまっており、結局物事は何も解決しないばかりか、悪化するだろう。オーストラリアは、GFCの際のラッド政権のフットワークの良さで先進国中、唯一致命的なダメージを免れたが、その後の経済成長は他の先進諸国と変わらない。だから同じポピュリズムの弊害に罹患している。

 ポピュリズムにおいては、グローバリゼーションはお気に入りのターゲットであり、グローバリゼーションこそが諸悪の根源であるかのように語られている。同時に見た目も慣習も違う人々(移民)が我々の職を奪っているかのように思われがちだ。そして移民を恐れるがあまり、本当に恐れるべき対象(オート化やAI化)については盲目になっている。恐怖にかられて、海外からの移民や投資を制限するから、地元の皆が就職できる新しい工場は立てられないままだし、仮に立てられても人の代わりにマシンで済ませようという流れになっているから、仕事の不安はなんら解消されない。

 今、世界の成長センターである東アジアエリアにおいて、ポピュリズム爆裂になったオーストラリアがかつての白豪主義を復活させ、白人以外を徹底的に差別したらたらどうなるか?話は簡単。富の源泉からは鼻もひっかけてもらえず、単にゴミのように没落していくだけである。トータルでみれば、1980年以降、テクノロジーの進化とグローバル取引の増大によって我々が受けている恩恵は、被っている損害とは比較にならないくらい大きいのだ。だけど、すぐにそれを忘れてしまう。それが問題なのだ。

 何事によらず、とある変化があれば作用と反作用があり、それよるルーザーもいればウィナーもいるのだ。本当の問題は、その変化そのものではなく、我々がルーザーを助けずに見殺しにしていることなのだ。
 ここの原文は”The sensible conclusion is that there have been losers as well as winners, but little has been done to help the losers - with the winners required to do more to kick the tin."で、「kick the tin」はオーストラリアのスラングで「make a donation」「Contribute money to a cause」=お金を出すこと。

 グローバリゼーションによる恩恵はでかいが、被害も大きい。問題は、いかにそのメリット果実を受けつつ、そのデメリットに対して適切に対応するかである。ほっといたら、貧富格差は広がるばかりであり、99%の敗者を生み出す。富者に対する適切な社会負担のシェア要求を実行し、貧者に対する救済安定措置をすべきであるが、それをちゃんとやってないことこそが問題なのだ。

ポピュリズムの問題性

馬鹿は二度騙せ

 ここからは私見なのだが、ポピュリズムの根拠になっている現状の怒りそのものは全く正しいのだけど、その原因論が間違っている。だから残念な、頭の悪いポピュリズムに堕ちている。そして、各国の情況をみるに、そのポピュ状況は各国の国民の政治的資質に対応しているように思われる。「この程度の国民にこの程度の政府」というがまさにそれで、最悪のパターンは「二度負ける」こと。最初のグローバリゼーション(てか時代そのものの順当な進展)によって、うまく立ち回れず割を食ってしまう(失業、低賃金、ノー・フューチャー的な)ことが第一の敗戦であり、第二の敗戦は、一回戦での勝者達にまた騙され、正当な怒りを操られて、誤導されていくことである。

 プロの詐欺師やそのあたりの連中の合言葉に「馬鹿は二度騙せ」というのがあるらしい。かなり古くからある言葉で、最初軽く騙して巻き上げて、それで怒り心頭になってるところ(情緒不安定で冷静な判断ができないところで)でまたそれにつけこんで騙す。詐欺団があって、第一陣が騙したあと、第二陣がまた騙す。「それ騙されてますよ、まあ、大変だ」と親切ごかしに指摘し、あれこれ尽力して信用をえたところで、もっと大規模に根こそぎ持っていくという。それは昭和の時代の、僕らのマンガ雑誌のセコい通販記事(なんで透けてみえるミラクルなんたらとか、無修正画像がどうしたとか)なんかもそう。「何度も騙されてるあなたへ、今度こそ本物です」とか書いてあるんだよね(笑)。でもってまた騙される人がいるんですよね。一回騙される人は、なんか革命的な意識変化をしない限り、何度でも騙されますよー、やばいっすよ。

 さて、一回戦終わったあとに、正しい均衡是正がなされなければならないところ、お金を出したくない勝者達の政治メディア戦略があって、格差是正のためのあれこれのメソッドを全部黒く描かれ、またバカ正直にそれを真に受けてしまう。例えば失業者や鬱患者、低賃金や格差については、自己責任論が語られ、根性論や甘えが語られ、社会福祉の不正受給が針小棒大に語られ、あらゆる格差是正措置が茶化され、軽蔑され、しまいにはそれを言うこと自体はばかられるような風潮になってくる。逆に拝金主義を助長し、セレブブームを作り、お金をもってることは素敵なことであるかのように洗脳し、そのためにはどんなことをしても良い、金のために奴隷になるのは当然で、それがまっとーな人の道なのだ的な思考ルートを雑誌その他で作られると、又しても素直にそっちにいってしまう。かくしてやらずぼったくり組の完全勝利になっていく。

もっとも国家ごときにできるのか

 もっとも、そんな均衡是正がそもそも可能なのか?というシビアな問題もあります。これは別の話なのだけど、過去のエッセイでも書いたように(Essay 687:国家は企業に勝てるのか?〜租税回避問題、2014年の段階での話ですが、オーストラリアに商売をやってる世界企業はオーストラリアに税金払ってないです。もう笑っちゃうくらい払ってないね。「Googleなんか100分の1くらいしか払ってないし、アップルもIKEAも似たようなもん。Airbubにいたってはビタ一文オーストラリアには払っていない。だからオーストラリアの法人税収入は年々落ちている。その分個人の所得税の比率はどんどんあがっている。大企業が賢く(ズルく)立ちまわるそのツケを、一般庶民(ワーホリや留学生さんのバイトの税金も含む)は払わされている」という現状です。

 そして僕らは、そのGoogleが好きだし、アップルが大好きなんだよね。そういうことです。もう、世界企業とか世界経済は、国家レベルがどうとかいう話をとっくの昔に通り過ぎていて、異次元世界で展開されているわけですよ。だから国家の舵取りをどっちにやるかという論議自体が、本質的に無意味であるという説もアリです。だから、国家を単にインフラ整備業者とアドミニ(管理者)に縮小させ、公務員も20分の1くらいに減らし、国会も議員も全廃したっていいくらいだと僕は思ってますよ(管理をちゃんとやってるかどうかの査察は、海外の信用できる=しがらみゼロの=審査会社に外注に出した方がいい)。その代わり税金も20分の1に減らす。政教分離ではなく、政治と経済の分離。そのくらいラディカルなことをしないと、世界のこの潮流にはついていけないと思うもん。経済は国家では無理。無理なことやってるから、結局なにもできず、日本の場合は政治=「わくわく利権争奪戦・特設リング会場」みたいになってるじゃん。

 ただし、そこまでラディカルになる途中で、多くの人は職を失うだろうし、明日が見えない情況に叩き込まれるだろうし、それが根源的に激しい恐怖感をかきたてる。気持ちは分かります。だから先に進むことに生理的な恐れがあり、それが犬の散歩のイヤイヤになって、足を踏ん張って前に行きたくないよ〜的な感じになるのだろうと。ポピュリズムにはそういうイメージがあります。でもって、復古趣味やらナルシズム的癒やしにひたり、誤導されてトンチンカンな自殺点的な仲間内での叩き叩かれをやってる最中に、真の捕食者に後ろからガッシとつかまれ、体液をチュチューと啜られ、あるいは頭からガシガシと食われているって感じですかね。

クレバーで、エンジョイして、ハートフルに

 じゃあ、どうすればいいの?といえば、こんなの知恵比べなんだから、一番クレバーなやつよりも、さらにクレバーになるっきゃないです。グローバリゼーションが進展したら、その恩恵は世界ノマドライフ的に徹底的に活用する。Googleが税金払わないなら、Googleの無料資産を上前はねてちゃっかり利用させてもらう。今、地域会議室とかやってますけど、あれもGoogle様の無料大盤振る舞いあってこそですからね。移民がどうたらとかいうなら、自分が移民になっちゃえばいいじゃん、実際なってるし。なんせこっちは組織的なしがらみも重さもないから、身軽だし。簡単に言っちゃえば、こんな時代、ビビってるだけ損だし、そこから有効な対策なんか出てきっこない。ビビるくらいなら楽しんじゃえって思うよ。

 あと、実際の政策運用とかですけど、実はそんなに影響ないように思います。なぜって、やっぱ国や企業の中枢にいる連中は馬鹿じゃないし。そもそも、これらの主張を「ポピュリズム」と認識できている時点でまだマトモだともいえます。オーストラリアの経済も社会もなんで維持できているのか、なんで成長できているのかっていえば、海外からのエリート移民がメシのタネを持ってきてくれるからだし、海外からの投資があるからでしょう。それによってレントがバカ高くなったりという被害(ほんとにもう)もあるんだけど、これをストップしたら経済スタッグするしね。身近なところではジャパレスも客激減だろうし、建築業界だって仕事なくなって奪い合い、不動産屋も大量失業だし、資産持ってる連中は暴落で死ぬし。

 怒りの根源である格差是正はやってるけど、なかなか大企業連中もしたたかだから租税回避、回避、また回避で逃げ回るよね。銀行だって、せっかく皆のために公定歩合さげても銀行だけが儲けて貸出金利をさげないで皆に恩恵を渡さないから怒りの対象になってるし、政府機関と大銀行で大喧嘩してるし(不正に対する罰金三倍化とか、金利操作に対する法廷闘争とか、銀行への新課税とか)。それにネオ・バンクと呼ばれる潮流もあります。新しいフィンテックが、旧来の4大銀行支配体制をひっくりかえしうるし、政府もそれに対する新法を考える(銀行と名乗れるハードルを下げる)とか。まあ、やるにはやってるのですね。

 ただ、総じて言うなら、日本やヨーロッパほどオーストラリアはポピュリズムが盛んではないです。なんでかなーと思うと、やっぱり投票率100%の国民一人あたりの政治的力量が高いということもあろうし、何よりも大きいのは、「困ってる人を助けるのが好き」という善人的なパーソナリティじゃないかと思います。どんな形で新しい時代がきても、そこには必ず割を食ってひどい目にあう人がいる。そして、そのメカニズムや是非よりも(自己責任がどうしたとか小賢しいこと言わないで)、そこに困ってる人がいるという、ただそれだけにフォーカスして動く。

 それが結果としてオールマイティな是正システムになってるんじゃないかなって思います。シドニーのシティでもすごくホームレスや物乞いが増えたけど(世界的にどこでもそう)、見てたらみんなお金あげてるもんなー。座り込んで話している人もいるし。でもって、歴代移民も、来た当初のその暖かさと優しさに包まれるし、その価値を知るから、また広がる、伝わるという。

150人 「ダンバーの数字」

 最後に、これ知らなかったので、シェアしたいものがあります。これもRoss Gitten氏の論稿でLure of globalisation battles our instinctive tribalismのなかに語られていたのですが、イギリスの人類学者にロビン・ダンバー(Robin Dunbar)という人がいて、 "for most of history, humans lived in groups of about 150 people"- a figure known as "Dunbar's number"だと。人類の長い歴史において、その大部分は、150人程度の集団で動いていたというものであり、その150人という数字を「ダンバーズ・ナンバー」というらしいです。

 それが何か?というと、それがナショナリズムやゼノフォビア(外国人恐怖症)の生理的な根源になってるんじゃないかと。大体、そのくらいの人数がいたら人間って地球で生きていけるみたいですね。ほお、あの農耕技術もなにも未発展な段階でもそうなんか、参考になるわ。

 で、そのくらいの規模=中小企業くらいの規模、語学学校のワンフロアくらいの人数かな=で、産まれてから死ぬまで一緒にやったら、誰もが誰もを知っているってことになる。同じようなメシ食って、同じような生活をして、同じような考え方になる。さて、そういう時代が長く続いたわけだが、そこで「よそ者」が入ってくるとすごーく目立つ。そこでの世界観・人間観はシンプルで、「仲間」「よそ者」であり、ウチ・ソトです。それが僕らの部族的本能みたいになってる。

 そういう原始社会において、よそ者と邂逅するときは、良いこともあるけど、悪いことの方がずっと多かった。野盗団に襲われたり、隣村に侵略されたり、「違う人」と接触する場合の多くが殺し合いになった。そんな時代を延々続けているうちに、よそ者と戦う技術やメンタルは進化されてきたし、違う=よそ者=危険という刷り込みが行われてきた。

 小部族はやがて地域豪族によって糾合され、地域国家になり、統一国家になり、さらに都市が出来、都市国家になり、世界にひろがった。いまどきそんな人数で自給自足でやってる集団など、新たにやりはじめた人たちは別だけど(多いけど)、天然でやってる部族なんか、秘境アマゾンの〜とかいうレベルです。事実上いないに等しい。だけど、DNAではないと思うが、民族的なDNAというか、社会的遺伝子ミームというか、なんか残ってると。だから移民が増えたり、よそ者が増えたりすると、本能的な忌避感や危機感をいだき、それが今日のポピュリズムの深層心理にあるんじゃないかって話です。原文では"wisdom teeth"(親知らず)みたいなものだと表現されてますが。





このエントリーをはてなブックマークに追加

 文責:田村

★→「今週の一枚ESSAY」バックナンバー
★→APLaCのトップに戻る
★→APLACのFacebook Page