★↓背景画像bgmaximage★ グラデーションなどベンダープリフィックスを除去するJS★
808 ★背景デカ画像

  1.  Home
  2. 「今週の一枚Essay」目次


今週の一枚(2017/01/16)



Essay 808:不安感と危機感の違い

 愚者は不安感に支配され、賢者は危機感をバネにする

 写真は、Mortdale駅。シドニーの南の方、空港のもっと南の大きな街にHurstvilleがあり、そこから二つ目の駅。先日久しぶりにホームステイまでお送りした際に撮ったもの。いや〜、このあたりも久しぶりだなーとウキウキしてました。このくらい離れると(つっても電車で30分程度だが)、の〜んびり、落ち着いた住宅街が広がっていきます。

 にしても、夏の暑い日差しの駅というのはサマになるなあ。空気感がいいのですよ。ドンコー列車で貧乏旅行した頃の感じを思い出す。日本では寒波で大変だそうですが、「夏の静けさ」のようなこれらの写真で、暖を取ってくださいまし。

 今回は一発ネタで、もうタイトルのまんまです。
 これでも終わってもいいくらいなのですけど、まあ、付帯して色々書いてみます。

 不安感も危機感も、将来になにやら良からぬことが起きるんじゃないかな〜と予測されるときに抱く感情、という意味では同じです。

 でも微妙に違う。いや本質的に違う。そこには賢者と愚者と対置させたくなるくらいの差があるように思います。
 何が違うか?思いつくまま挙げると、こんな感じでしょうか。

(1)不安は漠然としていて対象が明瞭ではないが、危機感は明確である(or 明確であろうとする)。
(2)不安は思考・行動にブレーキをかける方向に作用するが、危機感は思考・行動を促す
(3)不安は感情的で受け身であるが、危機感は理性的で能動的

 他にもいろいろ思いつきますけど、あとは同じことを角度を変えて言ってるだけのようにも思えるので割愛します。

まず「不安」についての一般論


 なにか新しいことをやるときに感じるのは常に「不安」です。典型的には海外で、住みなれた日本から出ていく時に最初に感じるのは「不安」でしょう。僕が23年前にはじめてオーストラリアに来たときも不安は売るほどありました。以後ずっとあります。だから「不安」は常にテーマになりつづけ、このエッセイのかなり初期にも「不安と仲良く」というタイトルで書いてます。1997年12月です。以後不安に関する論稿はいくつもあります。

 考えてみれば子供の頃から不安はありました。幼稚園にはじめて通うときも、小学校に上がるときも、社会に出るときも、バイトの初日にも、常に、常に。おそらく死ぬ頃には、死んだらどうなるんだろう?と不安に思うでしょう。つまり、僕らは一生不安からは逃れられない。

 なぜか?なぜ一生不安から逃れられないのか?それは簡単でしょう。未来が不確定であり不確知だからです。先のことは誰にもわからない。そして、なにか新しいことをやるとき=前に進んでいるときは不確定要素が多くなる。ドーンと前進するほど未知の要素が増えるのだから、それに比例して当然不安も強くなる。不安を感じるというのは前に進んでいる証拠でもあり、逆にいえば不安を感じないことばっかやってても(安心ばかり求めても)そこに進歩はない。

 こんなことは、誰でも人生30年もやってりゃだんだんわかってくる筈です。不安というのは絶対なくならないし、そしてそれは悪いことではないと。それは光があれば影が出来るという当然の現象であり、不安とは、いわば希望という光によって当り前に生じる影のようなものだと。

 ということで不安というのは、この程度に初歩的な「達観」でクリアされていい筈です。それをいい年ぶっこいて、子供がむつかるように「不安で、不安で、、」とか言ってる向きにアドバイスするならば、「もっと大人になろうね」くらいのことでしょう。それは確かに精神的緊張を強いられるからしんどいかしらんけど、その程度のストレス耐性=要は「肝っ玉」ですけど、これまで時間は十分あったんだから、そのくらいの肝練りやら肚括りやらは標準装備出来ているはず。そして不安の強さは希望の強さでもあるのだから、ビビってないで喜べと。

 もっともこれらの一般論は、「それが自分のやりたいことをやるならば」という条件つきですけど。ここでやりたくもないことをやらされて、それで不安になってるのだったら、そもそもそんな羽目に陥ってる状況そのものを改善するのが先でしょう。だって希望はないくせにストレスだけ背負わされるわけだから、そりゃあしんどいでしょう。希望なきストレスくらい人を壊すものはない。

危機感

 不安に対して「危機感」というのは、対象がかなり明瞭になっていますし、このままではヤバい!という認識も鮮烈になってきます。森林を歩いていて、もしかしてクマに襲われるかもしれない、、というのは「不安」ですけど、前方の木陰にチラと巨大な影がゆらりと動くのが見えたり、ガサガサと下生えの草をわける音が聞こえたりしたら一気に「ヤバい!」という危機感を感じます。

 このように不安(漠然とした一般的な危険認識)→危機感(かなり明瞭な危険認識で速やかな対応が求められる)という程度問題、あるいは時間的先後関係として捉えられるでしょう。その限りおいては賢者も愚者もないです。

 要は「危険が明瞭であるかどうか」ですよね。
 しかし、それが明瞭であるかどうかは、実は人によって違う。Aさんにとっては不明瞭なものであっても、Bさんにとっては明瞭になったりもする。

危険の明瞭性〜見ようとしているかどうか

 何を言ってるかというと、「ちょっと考えれば分かる」のに考えようとしない人と、ちゃんと考える人がいるということであり、考えようとしないAさんにとっては危機は不明瞭のままであるけど、ちゃんと考えるBさんにとっては危機は明々白々に感じられるでしょう。

 ここで考えるか/考えないかという差がでてきます。

 さらに一歩掘り下げます。複雑な専門知識も必要としない物事=「ちょっと考えれば分かる」ような物事ですら、その「ちょっと考える」ことをしないというのは、考える能力が劣っているというよりも、「イヤなことは考えたくない」という心性に由来する場合が多いように思います。インテリジェンスというよりはメンタルの問題じゃないのかな、と。

 ここで賢愚の差が出てくると思うのです。
 例えば、「将来が不安で」「再就職が不安で」「老後や年金が不安で」とかいうのだけど、それがどれだけの切迫性をもった危険なのか、そこを踏み込んで分析しようとする賢者と、単に不安だと感じるだけで、そこから先に進まない愚者と。

 年金にしたって、若い世代は特にそうでしょうけど、もうダメ確定といってもいい。そんなことはちょっと国家財政を調べてみたら分かることだし、そうなることは40年前から大蔵省や厚生省がさんざん警鐘を鳴らしてきた。今なんとかしようとするなら、所得税や資産税の累進税率を極端に変えて、金持ち優遇ではなく金持ち虐待くらいの転換をすると同時に、消費税も50%くらいにしなきゃいけないかしらんけど、前者が実行される可能性は現状をみるに低いだろうし、後者を実行したら年金以前に経済が破綻して即死してしまうかもしれない。手術が必要な患者なんだけど、手術をしたらその負担で死んでしまう状況みたいなものでしょう。ま、そこは色々な見解があるかしらんけど、これまでどおりに年金が支給されている現在においてすら多くの高齢者が老後破産とかしていることを考えれば、仮に年金が100%OKだとしても、それでもダメだという話になる。

 そう考えたら、これは曖昧で漠然とした「不安」ではなく、前方20メートルにヒグマが出現したくらいの危機とも言えます。そこをどう感じるかはその人次第でしょう。そして、「いや、なんとなるよ」という結論は良いとして、その根拠は?といえば何もない、ただの願望にしか過ぎなかったら、それはアホだろうと。

 ならどうする?と危機感を抱けば出てくる筈です。このままクマに食われて死ぬのか?と。それだけはイヤだから、なんとか必死に考えるでしょう。僕も25年前に考えた。オーストラリアの永住権(もれなく年金がついてくる)もその回答のひとつであることはこれまで何度も述べましたし、それ以外にも金銭経済に頼らずに愉快に暮らせるシステムを構築するというセーフハウスの話もしてます。これはかなり大マジな話で、それだけ危機感は強いのです。だから第三、第四の方法も考え続けます。おとなしく食われるつもりはないですからね。

悪趣味なばかりにリアルなシュミレート


 根拠のない安心、ろくに考えもしないでの危機の過小評価は時として命取りになりますから、そこは自分でも肝に命じてます。どう肝に命じるかといえば、例えば超リアルに最悪の事態をシュミレートして、生理実感に思えるくらいに想像力を働かせるということを時々やります。

 例えば、老齢になってホームレスになって、寒い夜空にあてもなく歩いてる感覚、寒さに手足がしびれて感覚がなくなり、弱った足腰でずるっとすべってみぞれ混じりの水たまりにべちゃっと倒れて、下着や靴の中まで冷水が染み込んだ感覚、歩く度にぐっちゃぐちゃ音を立てる靴の気持ち悪さ、そしてこの先歩いてもなんの希望もない絶望感、、、それらを自虐的なまでにリアルにリアルに想像体験します。あるいは病気になってヘロヘロでろくすっぽ歩けないとき、歯痛になっていてもたってもいられない感じ、そのリアルな痛覚をサンプルとしてできるだけ覚えておいて、いざことが起きたらこうなるのだと思う。

 なんでそんな気色悪いことをするかといえば、これから述べる危機管理のためです。危機があるなら、その危機を回避し、軽減するために必死にマネージしなければならない。マネージとは何か?といえば対策を立てることですが、対策を立てるにしても危機の内容がわからなければ対策の立てようもない。そこが漠然としてたらアカンのですな。危機の査定や仕分けをしなければならないし、見切りも必要です。どこまでクッキリ明瞭に想定できるかが、ことの成否を決める。

 幕末の尊皇攘夷騒ぎも同じことで、最初は黒船というイメージ先行、感情先行でした。外国人がやってきて何がどうなるの、なぜそうなるの、彼らの戦力や行動原則はなにかということまで考えが及ばず、単にわーわー感情的に騒ぐだけでしかなかった。それがだんだん明瞭になっていく。倒幕の旗手になった長州は馬関戦争、薩摩は薩英戦争でもう完膚無きまでボッコボコにやられた。武士の魂とか叫んだり、刀槍振り回してもクソの役にも立たないというリアルを骨の髄まで思い知られた。そして中国を視察するなどして植民地になるというのはこういうことなのだと危機の姿を明瞭に調べたし、歴史を学んで西欧の帝国主義の行動原理(商業的利益)を理解した。だから対策が立てられた。近代軍備を整えること、そのための戦費を調達すること、そしてその軍備をあろうことか敵方の西欧に売ってもらうことだと。考えてみれば敵が軍備なんか売るわけないのだけど、でも売る。なぜかといえば、彼らの行動原理は金儲けであり、しかも一枚岩ではなく相互に競争しているというメカニズムを見きったからです。要はあいつらは儲かるんだったらなんでもやるぞ、ライバルを出し抜くためだったら誰とでも手を組むぞ、そういうルールなのだと。そこまで考えられる俊英達が薩長にいたし、彼ら若手のありえないような斬新な発想を上が認め、実権を委ねるということをした。そして士農工商の社会システムすら先に壊し、農民百姓による奇兵隊を作ったり、ファッションですら和服を捨て、簡易で動きやすい機能性第一にした。人材も門閥家柄ガン無視で登用した。なぜそこまで画期的なことが出来たのかといえば、危機感が強かったからでしょう。そんなこと言ってる場合かという問答無用の危機がリアルに見えていた。危機感は人を賢くするし、行動力を強化する。

 不安という漠然とした段階では行動戦略が出てこない。単にビビってるだけ、怖がってるだけだから何もできないし、しようともしない。また否応なくやる羽目になったとしても、心が萎縮しているから身体もガチガチで融通無碍もないし、本来の実力すらも発揮できない。不安は人を愚鈍にする。じゃあどうするの?といえば、くわっと目を開いて危険を見据えることだし、できるだけ緻密に分析することでしょう。対象が明瞭になればなるほど、次の行動が見えてくるし、勇気もやる気も勝機も出てくる。

 このあたりは武道と同じで、目をつぶった奴から先にやられる。ボクシングでもパンチがあたっても目をつむらない練習をするといいますが、目をつむったらそれだけ相手の攻撃が見えなくなるし、防御も的確にできなくなる。

 それはビジネスも同じだし、生きるか死ぬかの法廷闘争も同じで、常にどこまで最悪の事態を想定できるか、どこまで嫌なことを詰めて考えられるかが勝負を決する。決定的な証人がいるから勝ったも同然と油断してると、証人尋問の前の日にその人が交通事故で死んでしまうかもしれない、相手方からもっと決定的な証拠がでてくるかもしれない(”隠し玉”といって法廷戦術のイロハ)、裁判官が発狂してアホな判決を下すかもしれない、、、全部考えますよ。ありったけの危機をリアルに想起し、それを全部並べて、この場合はこうする、こうなったらああすると対処しておく。まあ、九割がた無駄になるのですけど、それをやるのが勝負事であり、それがサバイバルでしょう。

 というように、考えているうちに首くくって死にたくなるくらい不吉で最悪な想像を山盛りしつつも、他方では太陽のような楽天性も持たねばならない。てかそんなことでメンタルがやられてしまうようでは生存適性がない。そのメンタル管理こそが大事になるのですが、それが次に述べる危機の査定・見切りと仕分けです。

危機の見切り〜突き抜ける

このように最悪の危機をリアルに想像するしてると陰々滅々となりそうなんですけど、これ、一定レベルを超えていくと突き抜けますよ。むしろ漠然としていた方がより恐怖感を感じる。明白になればなるほど、意外と大したことないなってのも見えてきます。

 例えば、海外に行きます、英語全然ダメっす、もうどうなっちゃうんだ〜?って不安が黒雲のように出てくるでしょう。でも、どうなんの?というと、突き詰めて考えてみたらいいです。英語が出来ないという、ただそれだけで死んだ奴はいないんですよね。死ぬとしたら、英語に関わりなく、まず命にかかわるような状況がそこにある。例えば、アドベンチャーなツアーやアクティビティがあって、そこで重要な注意事項を英語を言われているんだけど、理解できずにやってはいけないことをやって死んでしまうとか。でもその状況になったことをリアルに想像してみれば、まずそんなんで客に死なれたらツアー会社としては倒産の危機だから事前になんかするでしょう。日本語のパンフを用意するとか、こいつ分かってないなと思ったら、噛んで含めるように何度もいうでしょう。だとしたら、対応策としては、わからなかったら、あくまでも「わからん」という顔をし続けていることだと。カッコつけてわかったフリをするのは致命的に危ないことだと。また、生命にかかわるような病気や怪我をして、医者からあれこれ聞かれても答えられなくて適切な治療が遅れてしまって死ぬというケースもあるでしょう。でも、ちょっと調べたらオーストラリアでは24時間通訳サービスがあるし、医療機関だってそんなことで死なれたらたまらんし、日本語なんかメジャーな方の言語だからなんとかなるような体制になってるだろうと。でもって、実際にそんなことになる確率はリアルに考えれば少ないだろうと思える。そもそも瀕死の患者の口頭の説明が本当に必要なことってどれだけあるのか?瀕死だったら意識不明になってるのが普通じゃないのか、バイタルとか検査数値の方がよっぽど確かじゃないのかとか。

 ほかには英語が出来なくて、多少損はするかもしれないけど、もともとが数億の大ビジネスをするわけでもないんだから、損をしても知れてるっちゃしれてます。状況把握が出来てないんだから損をしてるという認識もないかもしれない。でも全く把握してないのに何かを決めるってことは普通せんだろうと。そうなると、より日常的には、英語が出来なくて「恥をかく」くらいのことでしょう。結局はそこにいきつく。

 じゃあ恥をかいて何が困るの?といえば、そりゃ楽しい体験ではないかしらんけど、恥なんか生まれてこの方死ぬほどかいてきてるし、それが多少増えたくらい何だというのだ?それに、母国語ではない言語が出来ないのは誰だって同じなんだから、そんなことを恥だと思うほうがおかしい。タガログ語が出来なくても恥だとは思わないくせに、なんで英語だと恥だと思うの?それがまず変だ。それに恥の愛嬌というし、恥をかけば友達が増えるの法則もあるわけだし、別に悪いことをしてるわけではないなら、堂々としてればいいじゃないか。てか、外国で恥をかくということこそが海外の醍醐味であり、そんなドタバタの弥次喜多道中のような喜劇をやりにいくようなものではないか。だとしたら、それって本当に「最悪」なのか?

 思うに、ちょっと考えて不愉快っぽい、苦いっぽかっただけで、絶対ダメ、そうなったら死ぬしかないと勝手に思い込んでるだけの話でしょう。よくよく考え、さらにズンズン突き詰めて考え、そして実際にそうなってみたら、意外とどってことないってことは多い。会社に入る前、失敗したらどうしよう、怒られたらどうしようと不安になる。でもって、実際、失敗はたくさんするし、うんざりするほど怒られもするけど、だからどってこともないのだ。

 一定レベルまで考えていくと「突き抜ける」というのはそういう意味です。これが危機の「見切り」です。じっと見てるから、「こんな腰の入ってない手打ちのパンチだったら食らっても大したことないわ」「それを食らってる間にこっちはこういうことをして決めてやろう」とか考えられる。肉を切らせて骨を断つって言うけど、あれって危機管理の精髄でもありますな。だから目をつむったらあかんのよね。イヤなことは考えないというのは、かえって漠然とした不安を拡大するだけで、メンタル的には逆効果になりがち。

 それが危機の査定であり、見切りです。最悪の事態だ、危機だと思ってたけど、よく考えてみたら最悪でもないし、危機でもないじゃないかと。だったら別にそんなもん対処しなくてもいいし、対処するにしても内容がハッキリしてるだけに、やり方はいくらでもある。

危機の仕分けと優先順位

 そうこうやっていくうちに、これは本腰をいれて対処しないと不味いなという危機もあるし、これは別にそれほどでもないってものも分かってくるでしょう。これが「仕分け」です。不快度は高いんだけど、一過性のものであるなら、そのときちょっと歯を食いしばればいい。しかし、長期にわたり連続するもの、さらに一生尾を引くような後遺症を残すような物事は要注意であるとか。

 生まれて初めて挑戦する物事というのは、当然未経験ですからあれこれ失敗するでしょう。当然です。でもそんなことは習熟するまでの一過性の話です。出来てしまえば一生モノの財産ですから。ただ、その一過性の少ない体験で、これは自分には向いてないとか、もう二度とイヤだと早とちりをしてしまうと、終生自分の可能性を狭めてしまうことになるので、これは重大なロスになります。例えば引きこもり気味の人が、生まれて初めてバイトに挑戦してみたけど、初日にあれこれ怒られて、ああもう自分は社会に出ていくことは不可能なんだと思いこんでしまうとか。そんなもん初日にミスするのも、怒られるのも普通のことだし、別にすべての職場が同じと決まったわけでもない。だからこんな段階で何かを判断すること自体がアホアホなんですけど、でもやってしまう。

 ということは、何かを初めてトライをするとき、何を真性の危険になるのか、どう対処すべきかといえば、「不慣れでろくすっぽ判断能力もない段階 + 非常に少ないサンプルケース ”だけ”で一生レベルの決断をしてしまうこと」だと思います。能力もないサンプルも少ない、これで何が判断できるというのだ?でもやりがちであるというリスク。自分の人生の可能性を狭めるというのは、いわば自分の指をちょん切るとか、片目を潰すくらいの終生のロスであり、その気が遠くなるくらい失うものの大きさに比べれば、ちょっと怒られたり恥かいたりすることなぞ、取るに足りない。

 ましてや怒られることを恐れて何もしないのであれば、全損ですよね。何も始まらない。全部失う。結局、なにがダメなのか?といえば、危機の査定がちゃんと出来ていない点にある。

結局はメンタルの問題

不安による知的衰弱

 さて、不安と危機感の違いに戻りますが、「不安は抱いているけど、危機感はもってない人」というのは、一般に「突き詰めて考えようとはしない人」や「何もしない人」だと思います。そして、なんで突き詰めて考えようとしないのかといえば、イヤなことから逃げようとしてしているその逃げ腰なところであり、メンタルの弱さでしょう。

 まあ「弱い」っていうか、普通、誰でもそうですけどね。でも、それじゃ世の中わたっていけないから、あれこれやってるうちに誰もがそこそこタフになっていくし、見切りも査定も仕分けも上手にできるようになっていくのでしょう。大人になることってそういうことでしょう。

 しかし、そのメンタル(イヤな事柄にメンチ切って見つめる心の強さ)が弱いと、全てにおいて真逆なことをやったりします。例えば、よくよく考えれば大したことでもないのに、ちょっと不快そうなイメージを抱いただけでもう近寄ろうとしないから、せっかくのチャンス、ちょっと手を伸ばせばもぎとれる果実も得られないで終わる。周囲がイガイガで覆われているから近寄りもしないから、栗もウニも食べたことがないまま一生がおわるようなもの。生まれてはじめて鍋料理を食べたときに、最初の一口で舌をヤケドしただけでもう一生鍋物は食べない。最初の寿司のワサビがきつかったら(以下同文)。

 あるいは精神が逼迫してアップアップしてるから、くだらなーい騙しにひっかかる。老後が不安だ→利殖しなければ→とっても安全で有利な投資案件があるんですけど〜で乗ってしまう。もう鴨がネギ背負って一列縦隊で行進してくるようなものですからね。不安にかられた人を騙すくらい簡単なことはない。だって不安によって知能指数がいつもよりも落ちてますから。

 ちなみに闇雲に猜疑心が強い人を騙すことも簡単だといいます(プロの詐欺師によれば一番のカモらしい)。「闇雲に」って部分がアホだからです。要するに自前の分析・思考能力がないわけなんだから。いやー投資なんか危ないですよ、騙されるだけですよ、世間がみな貴方さまのように賢い人だったらいいんですけどねー、なかなかそこまで見抜ける人は少ないですよ、やっぱり古典的なタンス預金が一番ですよと言いながら、だからこそ最近では窃盗団が暗躍してて危ないですよ、直近の警察庁の統計によればこうなってます、普通のやりかたでは危ないですね、まあでも多くの人は高を括って盗られてしまうんですけど、先見の明のない人はしょうがないですよねーとかなんとかおだてられ、プライドをくすぐられ(猜疑心の強い人はプライドも高く、自分だけが賢いと思ってる傾向がある)、無駄に大きくて頑丈な金庫を市価の3倍くらいの値段で売りつけられる。さらに床にボルトで固定、さらに溶接するのが一番ですとかいって、あー、これは床下をジャッキで補強しないと駄目ですね、家全体の耐用年数が下がるし、売るときにとんでもない査定をされちゃいますねーとかいって、どんどんムシられる。おまけ特典としては、プライドが高いから、内心では騙されたと思っても、そう言うと自分がアホみたいだから認めようとしないし、これでよかったのだと強弁しがち。だから被害届も出にくいという。もう至れり尽くせりのカモ様々です。

 一方で、真剣に対策を講じなければならない真性の危機に対しては、あまりにも手に負えなさそうだから、もう考えるのもイヤになって考えない。あるいは「難しい話はわからない」で逃げる。そして「なんとかなるだろう」という根拠のない楽観に走る。それがどれだけお馬鹿な暴挙かといえば、さきほどの幕末の情勢で同じことを言ってたらどうか?を考えてみたらすぐにわかるでしょう。西欧列強がどうとか、植民地がどうとかそんな難しい話はわからない、天下の将軍様がなんとかしてくれさ、大丈夫だよ〜とか全員が言ってたらどうなっていたの?と。

 現実世界はクソリアリズムですからダメなものはダメです。今日一日だけでも、世界各地で天災や事故で多くの人が亡くなるわけですが、おそらく昨日時点には誰一人自分が死ぬとは予想してないでしょう。自分だけは大丈夫なんて保証はどこにもない。とある難しい病気にかかって死ぬとき、その人がその難しい病気のメカニズムを理解しようがしまいが、病気は手加減してくれません。なんだか分けわからんまま死ぬだけです。

危機分析→見切り→肚括り→楽天性

 最後に危機管理のためのメンタルの強さと肚括りについて書きます。

 考えうる最悪の事態をシュミレートしつつ、それに対する手段もありったけ講じておきつつも、同時にそのリスクを甘受することで、この甘受部分が腹括りになります。まあ、そうと決まったわけでないし、そうなったらそうなったときの話だわなと。結構キツい話になるかしらんけど、やるだけのことをやってそうなるんだったらしゃーないわ。他にどうする手もないんだしね。

 しょせんこの世には完璧な対策なんかないです。あるわけがない。たとえ完璧なプロットを構築し、完全犯罪をもくろんでいても、その日に富士山が噴火したら全てパーです。とりあえず、さあ出発!となった時点で、いきなり車のバッテリーがあがってるかもしれないし、バスが事故でこないかもしれないし、なぜかその日に限って本店の抜き打ち検査があったりするとか、どこまでいっても限界はあります。

 思うに問題は完璧にやることではなく、自分なりにベストを尽くせたかどうかでしょう。ベストを尽くせたと思えるなら、それをこえる危機やリスクはもう甘んじて受けるしかないです。なぜならそれがベストだというなら、それ以上はありえないのですからね。ありえないことを求めるのもまた愚かなことです。

 極論すれば、最終的には自分の死が待ってたとしても、まあ、しゃーないわと(笑)。最悪自分が死ぬだけの話だわな、自分で言うのもなんだが死んで惜しいような奴でもないしな、ま、大したこっちゃないわなと。なにやら映画の世界みたいですけど、別にそんなに異常事態でもないし、普通にやることでしょ。山に登れば遭難して死ぬ人は普通にいるし、釣りにいって高波にのまれて死ぬ人もいるし、そもそも車を運転して事故死する人は年間1万人もいるのだ。飛行機だって落ちるかもしれないしね。考えてみれば、僕らは死のリスクを毎日平然と犯しています。

 そんな空恐ろしいことがなぜできるのか?といえば、危機の査定と見切りができてるからでしょ?この程度の確率、こういうメカニズムで事故が起きるのだということを知っている(つもりになっている)。それを踏まえて、これとあれに気をつければ、まあそんな悲惨なことにはなるまいよという自信もある。それでも万全はないから、どっかしらリスクは残るんだけど、でも、そのりスクは呑んでいる。飛行機に乗る人は、もし落ちたら死ぬしかないレベルのヤバさなんだけど、それでも無意識的に「そのときはそのときだ」と肚を括るともなく括ってる筈です。もしそこがどうしても気になるなら、船にしたらいいし、船だって難破の可能性があるんだから、行かないことです。しかし行くよね、乗るよね。毎日毎日世界中で数十万人(桁はわからんけど)の人が、命のリスクを犯して飛行機に乗ってるわけで、普通にみんな肚括ってるのよね。

 だから問題は、リスクをいかに減らすか犯さないかではなく、そのためにどれだけベストを尽くせたかであり、それでも尚どっかしら犯してしまうとするならば、リスクを犯すに値するほどやりたいことをやっているのか?だと思う。恋い焦がれた人に会うためだったら、多少のリスクは屁でもないでしょう。台風が来ようが、地震が起きようが行くでしょう。ましてやその人が死の病床にいて、最後にひと目、、という走れメロス的な状況だったら、なにがなんでも行くでしょう。車かっぱらってでも走るでしょう。

 だから思うに、そのあたりの腹括りが出来る人というのは、特別に強靭な精神力を持ってるとかいうよりも、大きな希望をもってるかどうかなんじゃないかな。あれが欲しい、こうなりたいという想いが強ければ強いほど、多少の苦難は物の数ではなくなる。やりたいことをやるために、思いっきりぶっ飛ばしていった結果として、あるいはその過程で、多少不快な出来事があろうとも、それは覚悟の上だろう。それを腹括りだというのだと思います。

 海外でも、あの抜けるような青空の下、知らない異国の街で、周囲は全員外人ばっかというまるで来世のような環境で、なぜか快活に日々暮らしている俺、どっかストリートを闊歩すれば、自分を知ってくれている街の人達に陽気に声をかけられ、笑顔で返している自分、、、うわ、めちゃカッコいい!ああなりたい!ああ、あのビーチ近くの小高い丘のうえ、爽やかな風に髪をなぶられながら、どっかの国のメチャクチャいい奴と心を通い合わせたい、くっだらない冗談を飛ばしてケラケラ笑い転げているような日々、、、いいじゃん、死ぬまでに一回くらいそういう思いをしてもバチは当たらないだろ。おおお、やりてー!!っていう希望が強ければ、飛行機が落ちるかも?知ってるよそんなこたあ、英語で恥かく?それがどうしたってんだ、死にゃあしねえよ。

 つまりですねー、ヤバい危機もありったけの想像力でリアルに考えるのと同時に、天に昇るような楽しいこと、素晴らしいここともまた、同じくらいのエネルギーでありったけ考えるべきです。でないとバランスが狂う。そして、その楽しい想像こそが、あなたに勇気を与え、リスクをしっかと見据える強さを与える。ただひたすらシンドイことだけ考えて考えて、はいこれを耐えましょう〜とかいっても無理ですわ。てか、やってて楽しくないから続かないです。

 未来における天国も、地獄も、同じくらい澄みきった視界で見えていることだと思います。

 危機をクレバーに管理する力は、暗い話に精通することではない。明るく楽しい未来をどれだけ思い描けるか、その一点にかかってると思います。


 蛇足ながら、老後不安や、ホームレスでみぞれ混じり〜の例について敷衍しておきます。そういう暗黒の未来をシュミレートしながら、僕ならこう思います。まず第一に、そのとき一番なにが欲しいか?を考える。「乾いた温かい部屋」です。だから場所が欲しい。そこにいけば安全で、不愉快度がぐっと下がる拠点が欲しい。今から考えて作っておけと。

 第二に、それとはまったく違うことも考えます。そういう悲惨そうな老後生活を想定しつつ、そうなっても納得できるくらいその前に人生を楽しんでおけ、遊んでおけと思う。まあ、あれだけさんざんやりたい放題に生きてきたんだから、当然の報いですよねー、このくらいはしんどくないと世間に申し訳ないですよねーって思えるくらい、力いっぱい生ききること。その結果としてのそれだったら、それはもう甘受しよう。自然にそう思えるだけ密度の濃い日々にしなきゃと。

 第三に、老後になって手足がいうこときかなくなっても、それでも朝が来るのが待ち遠しいくらい楽しい老後はどうしたらいいのか?そういう状況でなにをどうすれば楽しめるのかを考える。よくある、これだけの資産があれば安泰ですなんてクソ消極的な防衛策ではなく、積極的に楽しくなりたい。最後の呼吸をするその瞬間まで、最後まで攻めて、攻めて、攻めきって、この人生を終わらせたい。そのためにはどうしたら良いか。

 第四に、あのさー、それって幾つの想定?80歳くらい?それを心配するということは、それまで死なないということ、それまで事故死も早期がんもなにもなく、すべての危機を見事にクリアしてきて、80までは無事に生きているという前提でしょ?それ自体がすでに「楽天的」なんだよと。めちゃ楽天的な想定をしておきながら、何を暗くなってんの?


 この日は電車がメンテで止まる日(毎週順繰りにどっか止まる)。代わりに駅前から代行バスが走ります(黄色い表示版で示されている)。


 これが駅前商店街。いいすねー、この閑散とした感じ。オーストラリアの町はこうでなくちゃって。


 一応金融機関もあります。すぐ裏手には静かな住宅街が。


 一番おおおと思ったのは、この駅前のうらびれた感じ。いいわー、この感じ、日本でもよくありますよね。



 これが一番のお気に入りで、駅前の超一等地でありながら、このレトロな装い。




 文責:田村




★→「今週の一枚ESSAY」バックナンバー
★→APLaCのトップに戻る
★→APLACのFacebook Page