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不安と仲良く






 年も押し迫り、皆さまいかがお過ごしでしょうか。インターネットで日本の新聞をチェックしておりますと、やれ戦後初めて個人消費が前年度比マイナスになるとか、三菱電機のボーナスが一部現物支給になるとか、何かと暗い話がハバをきかせているように思います。まあ、新聞報道と現場の空気はまた違うとは思います。そんな統計数値とか言われてもよく分からないだろうし、ボーナスなんか出るだけマシという人も沢山おられるでしょう。

 皮膚感覚でわかる景況感は、例えばタクシーの空車待ちの列などに現れたりするのでしょう。実際、バブル中とバブル後とで新大阪のタクシー乗車場の様相はガラリと一変しましたからね。バブル中は、出張から最終便でやっと大阪に帰ってきても、そこからタクシーつかまえるのが一苦労でしたし、小型車コーナーに並ぶ人も少なかった。ところがバブルが破裂したあとは、もうガラガラ。小型車コーナーには長蛇の列でしたし。

 なんて思ってたら、「客待ちのタクシー数百台」などという新聞記事を発見してしまいました。ううむ、やっぱり厳しいようですね。

 ところで、FAQコーナーの「オーストラリア移住の戦略」でも書きましたが、「日本がダメだから海外へ」という発想は基本的に通用しないと思います。なぜなら海外にいる日本人の大多数は、日本との関わりをキーポイントにして生計を立ててるからです。旅行会社、留学関係、日本への輸出入、在住日本人相手のビジネスなどなど、本国がコケたら海外も枯れます。APLaCも基本的には同じです。景気が悪くなれば、海外旅行なんて行ってる場合でもないでしょう。とりわけ自分の一存で全てが決まる個人旅行に関しては、景況感の影響をモロに受けるでしょう。世間で喧伝されているほど自分の収入が減ってないとしても、個人消費というのは「期待所得」(今幾らお金があるかではなく、この先お金が入ってくるかどうかの見通し)」によって左右される傾向があるから尚更でしょう。



 というわけで日本も苦しいが我々も苦しい。わはは、なんか年中同じ自虐ギャグをかましてるような気もしますね(^^*)。笑ってる場合ではないんだけど。

 しかしですね、個人的な考えでいえば、一遍日本も行くところまで行った方がいいんじゃないかと思っとります。「行くところまで行く」というのは、「明日も今日と同じ生活が続く保証なんか全然ない」ということを骨の髄まで思い知ることでしょう。明日になったら会社が潰れてるかもしれない、保険に入ってもコケたら終わりかもしれない、必死こいて勉強してても報われないかもしれない、などなど。この認識は非常にキビしい。荒野にポツンと取り残されたような、たとえようもない不安となって感じられるでしょう。そこで自暴自棄になっちゃう人も相当多数いるでしょう。

 でも、問題はそこから先で、一遍そこまで行ってしまえば、逆に今まで考えてもいなかったところから、解放感と共にムチャクチャな「やる気」が湧いてくると思うのです。もちろん全員ではないけど、一定の率でそういう人があらわれるのではなかろうか。いつ潰れるかジト〜と不安に苛まれて待ってるよりは、いっそのことドカンと行ってくれた方がセイセイする、却って動きやすくなるという人は、やはりいるのではないか。で、そういう人達が次の世の中を創っていくだろうと思うわけです。頭抱えたり、天を仰いだりする人の中で、「よーし、面白くなってきやがった!」と腕まくりして張り切り出す人。

 さらに問題は、今の日本に、こういう人々が一体どのくらいの率でいるかでしょう。これが1億人に一人しかいなかったら、やっぱりツラい。しかし、3〜4人に1人くらいの率でそうなれば、万々歳だと思います。それだけの人が何らかの形で走りだしたら、日本全国で3000万の新事業創設なり何らかの動きがあることになります。この人達が全員成功してそれぞれ1人雇用すれば、日本の労働人口6000万をカバーしますので、現在の日本の全企業が倒産しても復興はできる計算になります。もちろん全員が成功するなんてことはありえないから、実際の率はガクンと落ちますが、同時に既存の全産業が死滅するなんてこともありえないし、1万人雇用する人もいるかもしれない。松下幸之助という人が一人張り切ってくれたおかげで、おそらく何十万人という人が生計を立てられるようになったのでしょう。要は、死滅した細胞部分、全く新しい(単なる改良型ではない)細胞が発生してくればいいのだということでしょう。


 というわけでAPLaCもその中の一部に入りたいなと思います。「日本が良くないなら俺らが良くしたる」とか口走ったら誇大妄想狂ですが、幾分かはそんな気持ちがあります。だって、既存の領域でパイの奪い合いをしてたら、こっちが成功すれば誰かが潰れるわけで、全体としては良くならない。僕らが成功せずどこかに就職するとするなら、確実に誰かの雇用部分を奪うことになる。既存のパイに手をつけず、パイが広がればそれだけ全体に潤うわけですから、頑張らなくっちゃと思うわけです。




 だいたい景気といい経済といい、要は生きていくために必要なことを皆で手分けしてやってるから出てくる話で、無人島で魚とって暮らしてるだけなら経済なんかいらない。そこを、もっと良い服が欲しいな、違った物も食べたいな、子供の教育もきちんとしたいな、、、と色々と人生を豊かにしようとすると一人で全部は出来ない。だから他人にやってもらう。で、自分も他人のために何かしよう。かくして金は天下の廻り物になり、経済が起こる。景気がいい/悪いとかいっても、全体の流れが順調に廻っているか、買い渋って減速するかですね。皆で大きなロクロを廻しているようなもので、ガンガン廻せばいいわけです。

 まあ、なかには無駄な消費とか環境資源破壊に通じるような廻しかたもありますので、廻らない方がいい分野もあるでしょう。同じお金が廻るにしても、誠実にいい仕事してる人にお金が廻り、また次の良い仕事してる人のところでお金が行くという気持ちの良い廻りかたもあれば、気持ちの悪い廻りかたもある。よく企業のマーケティングなどとトレンドリーダーである女子高生をターゲットにして商品開発しているといいますが、じゃ何で女子高生はそれを買うだけのお金持ってるの?といえば、過保護の親と売春(援助交際)だったりして、そんな部分に日本経済は頼っているのか?と思うとちょっとフクザツな気分になったりもしますね。廻らないよりは廻った方がいいけど、同じ廻るにしても「廻り方」というものがあるだろうなということです。

 ただ、まあ、それを選択するのは消費者で、消費者の賢さと愚かさが一国の社会を作るのでしょう。援助交際が出てきたついでにいいますが、援助交際一回2〜3万円(ですか?相場?)するのを、別の消費に振り当てる。たとえば、内容はしっかりしている本を買うなり、地道な努力をしている芝居を見に行くなり、どこか遠くに旅行してみるとか。そうすれば、貧乏暮らしが当たり前のこの国の文化状況はもう少し良くなるかもしれないし、過疎に悩む地方が活性化するかもしれない。援助交際に使っても、インポートブランドに化けるだけじゃないか、とか。

 もっとも、全員が全員そんな品行方正にやってたら気持ち悪いですし、人間なんかスケベで情けないものだと思うから、そんな教条的に「こうせえ」とはよう言いません。僕だってそんなの言われるのはイヤですし。ただ、金を使う段において「どうしようかな」と迷うとき、例えばお歳暮の品定めでも何でもいいのですが、自分の金の使い方一つで世の中暗くも明るくもなると、ほんのちょっぴり気にしてもバチはあたらないと思います。数年に一回の選挙なんかよりも、もっともっとダイレクトに世の中を変えれると思う。




 それはそうと、根本的な対策は、地方分権にせよ規制撤廃にせよ、政治主導でどんどん変えていくことでしょう。それはかなりハッキリそう思います。しかし、どうもバブル崩壊以来8年間見ていて、あんなの期待してたって仕方ないなという感を深くしています。まあ、もともとそれほど期待もしてなかったけど、来る気配のないバスを停留所で待ってるくらいなら、自分の足で歩きましょということは、今まで以上に強く思います。ああ、ちょっと違うか。やっぱり今でも「期待」はバリバリしてます。国民が期待を諦めると、どこかで必ず不当に得をする奴がいますから、「期待=監視」という意味で期待はし続けます。ただし、期待してますが、それにばっかりに頼りませんということです。

 政治不信、じゃどうすんの?というと自分には何の行動指針も無い、ただアナタ任せなんてのは最悪ですから、自分で出来るところからやっていきましょうかといったところです。景気が悪い、政治が悪いと両手で頭を抱えてる暇があったら、その両手を前方に突き出して模索しましょう。その両手でキーボード叩いて、一回でも多くホームページの更新をしましょう。その両手をつかって車のハンドルを握って、面白そうなポイントを探しにでかけましょう。官が駄目なら民でやりましょ。吹けば飛ぶよな地虫のような存在ではあっても、五分の魂、五分の意地。嘆いてる暇があったら何かしなくちゃなと思います。

 そう思えるのは、これまで関わってきた人々の存在が大きいです。オーストラリアがこの世で一番素晴らしいとは思いませんし、万人に受けるとは全然思いません。しかし、来られた方、戴いたメールなどから、オーストラリアによって確実に人生変わった、より元気になった、パワーが出てきたと言う人は、やっぱり沢山おられるのですね。そのひとつのキッカケになるうるのならば、自分達のやってることは無駄ではないな、そういった領域にお金が廻るのも悪いことではないなと思います。




 先日、日本から竹村出版さんから、「海を渡る仕事術」という本が送られてきました。オーストラリアで頑張ってる日本人を取材して纏めた本なのですが、半年程前、取材協力依頼のE-mailを戴きまして、こちらも非力ながら人の紹介など多少の協力をさせていただきました。本の中の一部のミニコラムに、我々のコメントも末席を汚すように載ってます。ちなみに、いろいろお話してたのですが、採用されたコメントが「う〜む、そんなこと喋ったかなあ?」ということばかりで、面白かったですね。また、APLaCのURLも紹介して戴いたようなのですが、肝心なアドレスが間違ってたりします。www.ausnet.au/~maki/ではなくて、www.ausnet.net.au/~maki/なのですが、まあいずれにせよメインサーバーを変えましたのでどっちでもいいです。

 我々のことなんかどうでもいいですが、一つ再認識したのは、他の方のコメントを読んでいて、「あは、みんな一緒やね」と思ったことです。特に冒頭で述べた「将来に何の保証もない」という部分ですが、この環境に皆さんうまく対応しているという部分です。大体皆さん緻密に計画を立ててというよりは、「とにかく行ってみよう」でやってきて、あとは現地で必死こいて努力するというパターンだと思います。

 「将来の不安とうまく付き合う」「それをバネにしてパワーを出す」という部分で、非常に興味深かったです。まあ、それで上手くいった人達だからこそ今回取材の対象になりえたわけで、しんどさに潰れてしまった人は早々に日本に帰ってますから、誰でもそうなるとはよう言いません。




 でも、確かにこっちにいると一般的傾向としては楽天的にはなると思います。また、何かをしようとすることをエンカレッジ(勇気づける)雰囲気はあります。福島も柏木も「 前に勤めていた会社を退職してAPLaCやってるんです」と以前の知人や取引先に言うと、まず百発百中「Congratulations!」と言われます。僕も、先日、語学学校訪問でシドニー大学に行き、偶然に昔の先生に会った折、「今自分のビジネスやってるんです」と言ったら、両手をバンと大きく広げて「Wonderful!!」と言われました。多分に社交辞令も入ってるだろうし、やや無責任気味に「No Worries」を連発するオーストラリア気質もあるのでしょうが、言われて悪い気はしないですね。

 そういえば以前アメリカのベンチャービジネスの記事をAERAで読んだのですが、アメリカの名門大学→有名企業のルートからスピンアウトして、シリコンバレー(だったと思う)で会社を設立した社長さんの回想にこんなことが書いてありました。「ボクがここまで成功したのは、やっぱりシリコンバレーの土地柄が大きいと思う。これが大学や会社のあったボストンだったら、『独立して仕事するよ』等と言おうものなら、周囲の人は『おまえ、自分が何をしているのか分かってるんだろうな?』と釘を刺されていたよ。ところが、ここでは違うんだ。両親が勝手に触れ回ったらしく、近所の人が沢山訪ねてくるんだよ。で、こういうのさ。『独立して会社やるんだって?握手してもいいかな?』ってね」。

 印象的だったのは、アメリカでも地域によって全然違うんだなということ(これは良く指摘されますけど)、周囲の人の「いけいけ、どんどんやれ」という雰囲気ってやっぱり大きいんだろうなと言うことです。今の日本がどうなっているのかは、リアルタイムには分かりませんが、頭の中にある記憶によれば、APLaCなんかも、日本でやってたらとっくの昔に不安に押しつぶされて辞めてたんじゃないかなあと思います。




 直接あれこれ言われなくても、「おとなしくしてるのが一番利口なんだよ」みたいなシラ〜として雰囲気が漂ってたら、なんかやる身としてはツライですよね。さきほど「日本は一回ツブれた方がいいよ」と思うのは、「おとなしくしてるのが一番得」というカルチャーも同時に変わるだろうなと思うからです。

 無責任に煽り立てるのもどうかとは思うけど、でも、どこまでいっても他人のことなんだから無責任でしかありえないでしょ。そりゃ、責任がおっかぶさってくる場合、例えば連帯保証人になってくれと頼まれた場合などは、そうそう「頑張れ〜」とは言いにくいのはわかります。でも、別にそうでもなければ、いくらシリアスに「もう少し考えた方がいいよ」とアドバイスしたからといって、責任なんかとれっこないです。無責任なことに変りはないし、失敗したって本人がやりたくてやったんだからいいじゃないかとも思います。それに本心で決意した人間というのは周囲が何を言ってもやるでしょうし、一旦橋を渡りはじめたならば、くよくよ悩まず、もう一心不乱に渡った方が成功率が高まる。だもんで、どっちにせよディスカレッジしてもいいことないと思います。

 APLaCでも、よく「オーストラリア行きたいけど、皆に反対されてる」という人からメールを貰ったりしますが、基本的にはwelcomeと言います。但し、これは一つ例外があります。それは「楽しようとして来る場合」です。これは「楽」という言葉の定義に関わってくるのですが、「楽チンに高収入、いい生活」と思っているならば、それはやめた方がいいです。言葉も習慣も不案内な土地に行って楽チンな筈がないですもん。ましてや高収入なんて、よほどの例外を除いて無理。人種差別だってないわけじゃないし、日本にいるのとは別種の苦労が襲い掛かってきます。思うのですが、一定の果実を挙げようと思えば、一定数の苦労はつきもので、それはどこであっても変わらない。ただ、苦労の質を変えることは出来るでしょう。自分に合った苦労であれば、それは苦労とは感じないだろうし、むしろ「充実」として感じられるでしょう。だから苦労度をゼロにしたいからという部分で来られるならば、それは厳しいと思います。どちらのタイプなのかは、メール読ませて戴いてるだけでも結構分かります。





 単身海外に渡った日本人(海外に限りませんが)というのは、日本の皆さんよりも一足先に「ブッ潰れた日本」を個人的に体験するのではないでしょうか。「これで一生安泰だ」なんて地点から最も遠く、右も左もわからない、とりあえず今日の宿はどうしようみたいな谷底がスタート地点です。基本的に着いたその日から路頭に迷ってるわけです。そうなれば「明日も今日と同じ日が続けばいいな」とは思いません。続いてもらっては困る。何にもないからこそ、セイセイして、同時に無茶苦茶なパワーが出てくるのだと思います。そして、人間、失うものが少なくなると、自動的に楽天的になるのかもしれませんし、不安との付き合い方も上手になっていくのかもしれません。



1997年12月14日:田村
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