今週の一枚(2016/11/28)
Essay 801:お金を流れを省略・カットする真意
セーフハウスの話の続きの続き
写真のカッコいいおネエさん達は、なにかのファッションカタログではありません。
City of Sydneyという地方自治体が出している、公共のパンフレットです。内容的には、各エリアの郷土史を書いたもので、各サバーブ(町)を、その歴史をしのびながら歩いてみませんか?という、とっても啓蒙的なものです。"Gritty Newtown"とか"Renewal Ultimo"とかサバーブ別解説になってるでしょう?
いわば「郷土史WALKINGのススメ」みたいな固いパンフなんだけど、それがこんなデザインになってるわけですね。こっちの行政のセンスって例えばこんな感じ。
この写真は、Bondi Junctionにある図書館で撮ったものです(後述の写真)。
なお、このパンフの内容ですが、Sydney City CouncilのHistory Walkのサイトにいくと全部PDFでダウンロードできます。各サバーブの見どころが地図と絵や写真で解説されていて、へたなガイドブック買うよりも面白いよ。
City of Sydneyという地方自治体が出している、公共のパンフレットです。内容的には、各エリアの郷土史を書いたもので、各サバーブ(町)を、その歴史をしのびながら歩いてみませんか?という、とっても啓蒙的なものです。"Gritty Newtown"とか"Renewal Ultimo"とかサバーブ別解説になってるでしょう?
いわば「郷土史WALKINGのススメ」みたいな固いパンフなんだけど、それがこんなデザインになってるわけですね。こっちの行政のセンスって例えばこんな感じ。
この写真は、Bondi Junctionにある図書館で撮ったものです(後述の写真)。
なお、このパンフの内容ですが、Sydney City CouncilのHistory Walkのサイトにいくと全部PDFでダウンロードできます。各サバーブの見どころが地図と絵や写真で解説されていて、へたなガイドブック買うよりも面白いよ。
本当は別の機会に書こうかと思ったけど、そうするとまたゼロからかいつまんで説明しなきゃいけず、また今回の話題はかなりテクニカルでわかりにくいこともあり、次回にイチから説明してたら(読んでて)息切れしそうだなと思って。だったらついでにいっときますか、と。
前回は、安い物件を探して、皆でシェア暮らしをしたら生活費はドカーンと圧縮できるし、金稼ぎに汲々としなくて良くなったその時間・労力的ゆとりをたっぷりつかって、他者のケアをすればいいじゃんって話でした。
でも、それだけでは半分くらいしか述べたことにならず、もうあと半分の隠された意図、って別に隠しているわけではないのだけど、もう一つポイントがあります。
それは何かというと、「お金の流れを極力ショートカットして減らす」点にあります。
なぜこれが意図になるのか?それを今回書きます。一つは、これまで積み上げてきた分業&貨幣システムがヤバくなってる点。もう一つは、国家組織が山賊化してるので、逃げたいなーという点です。
分業+貨幣システムの根本的な疑問
ここがかなりテクニカルなのですね。考え方が数学みたいな感じで、数式を整理して解くときに、等式で結ばれた各数式の双方に共通している要素はバシバシ消していくでしょ?例えばA+B/X=C+D/Xだったら、左右同時にXを掛けて双方からXを消して、A+B=C+Dにすると。中学の時にやりましたよね。あれと似たような発想です。例えばですね、鈴木さんが朝から晩まで働いて給料もらって、お金をためて、日給1万円で田中さんを雇って、部屋のペンキ塗りをしてもらうとします。田中さんは鈴木さんの家のペンキ塗りで1万円もらって、今度はその1万円を払って庭の芝刈りを山本さんに頼むとします。山本さんはその1万円を払って鈴木さんにチャイルドケアをしてもらいます。
あれ?と思うじゃん。なんで1万円がぐるぐる廻るの?と。
そもそもなんで鈴木さんは自分の部屋のペンキ塗りを自分でやらないのか?といえば、「チャイルドケアの仕事が忙しいから、そんなヒマはないよ」と。田中さんはなんで芝刈りを他人も任すのかといえば「ペンキの仕事が忙しいから」であり、山本さんは芝刈りの仕事が忙しいからですわね。
なんか馬鹿馬鹿しいよね。お金を払って他人にやらせるくらいだったら、働かずに自分のことをやればいいじゃん(分業の否定)とか、他人にやってもらってもいいんだけど、支払いはそれぞれ相殺すればお金を一銭も動かさないで済むではないか(貨幣経済の否定)とか、そうも思えます。
まあ、これは詭弁というかトリックみたいなもので、本当はそうはらない。これはなぜ人類は社会的分業というシステムを採用したのか?論に真っ向から反対する立論なんだけど、でも、反対したくなる今日このごろですねー、というのが今回の論旨です。もうちょい説明します。
「全部自分でやればいいじゃん」ってのは今述べたように「分業のメリット」を否定するものですが、じゃあ分業のメリットってあるの?といえば、メチャクチャあります。それは多分「生産性向上によるメリット」だと思います。えーと、今僕は何かの本を参考に書いているのではなく、全くゼロから自分の頭で考えているので、間違いアリかもしれないので注意して読んでくださいね。
分業のメリット
上の例だと田中さんはずっとペンキばっか塗ってるわけですな。ずっと同じことをやってれば誰でも上手になります。まず技術レベルで生産性があがるよね。素人がたまーに自分で塗るよりは遥かに上手に塗れる。また、毎日使うから道具も良いモノを揃えられる。毎日やってるから業界情報も早く、速乾性に優れている新しい製品なんかの知識も増える。素人がたま〜にやる場合、一回しか刷毛を使わず、しばらくしてまた使おうとしてもカペカペでダメになってるから、また新たに買わないといけない。新商品の知識も疎いから損な買い物もするし、仮に優秀な商品を見つけても、一回ポッキリでそんな高いの買わなくてもいいやってことにもなる。一方、職業としてずっとやってると、同じ刷毛でも何度も使えるから、設備投資の比率が下がるからお得であるし、業務用の仕入れ価格で安く買えるとか、あらゆる意味で有利。また塗り方が上手だからペンキの量も少なくて済む。だとしたら、全員がそれぞれの身の回りのことを、タドタドしく下手くそにやるのではなく、それぞれ専門分野を決めて、技術水準を上げればいいじゃんって話になる。分業万歳!である。これをバンドに例えれば、それぞれが一人でギターもドラムもベースもヘタクソのままやって多重録音するくらいなら、ギターはギター、ドラムはドラムで専門分業化した方が、一人頭の練習量は同じでもトータルの技術水準ははるかに高くなる。一人で全楽器買い揃えるならば金がいくらあっても足りないが、専門パートだけだったら数分の1で済む。やっぱ分業のほうが合理的じゃないか。
あ、ここで「生産性」とかいう言葉が出てきます。こういう言葉が出てくると、無意識に身構えてしまう人がいたりするだけど(そんな難しい言葉を使ってなんか言っても、俺は騙されないぞとカタクナになってるとか)、リラックスしてくださいな。「生産性」が高いというのは、1時間働いてリンゴ10個収穫できるのと、50個収穫できるのとどっちがいいですか?って話です。英語の試験に合格するのに、300時間勉強して合格するのと、100時間の勉強で合格できるのとどっちがいいですか?です。後者(50個とか100時間だけ)を「生産性が高い」といいます。より効率的なやりかた、より少ない労力でより多くの結果をゲットできることを生産性が高いといい、まあ、要するに「ラクができる」ってことです。ラクをしたかったら生産性をあげろと。それだけのことです。身構えないように。
さて、話を戻して、鈴木さんらがそれぞれペンキ塗って、子守やって、芝刈りやってトータルでプラマイゼロにするなら、分業にして1万円づつもらう方がいいでしょう。なぜなら、1万円貰っても実際のコストは5000円くらいで済んでいたりするし、自家労働だったら報酬ゼロだけど、他人のをやれば労賃もらえる。結果、1万円づつ払って万札をぐるぐる廻したほうが儲かった感はある。まあ結局同じ分だけ出ていくんだけど、それでもキャッシュフローがあれば「やりくり」は出来る。ここで、3人が自分でやってしまうとGDPゼロ円だけど、1万づつ廻していくとGDPは3万円になり、経済というのは、つまりはそういうことだろう。
じゃあ、別にそれでいいじゃん、分業システム+貨幣システムでいいじゃないかってことなんだけど、これまではそれで良かったけど、現在から将来にかけて、それはどうかな?って思うような局面が増えてきたわけですよ。だから、「うーん」と思うという。
分業や貨幣経済のメリットも十分に知りながら、敢えてそれを薄めようと思うのは、それなりの理由があります。なにかというと、現在の世界のシステムを見てると、どうも理屈通り機能してるような気がしないから、です。
分業メリット<資本主義と国家の歪み
上の例は、世界の人口が3人しかいない超シンプルな設例ですが、実際には数十億人いる。一つの国内だけでも何千万人といる。だからもっともっと(×100)、実際の仕組みは複雑です。ペンキを塗るにしても、ペンキ塗り職人がポツンといるわけではなく、ペンキ塗料会社があり、新しいペンキを開発している◯◯塗料や◯◯化学の研究室があり、それらに最先端の知識と人材を供給している大学などの学問府がある。商品を流通させる卸しやリテールなどの業者があり、製品を輸送するための運輸会社があり、それらが走る鉄道や高速道路などのインフラを建設する国家があり、土木建設会社があり、土木機械を製造する会社があり、その材料になる鉄鋼会社が、、、と無限に分岐していく。それら社会的には数千数万という単位で細分化された専門業界で高めあって、相互に組み合わせているわけで、それ自体は途方もなく優秀なシステムです。よくまあ、ここまでやったもんだよって感心します。
が、そう理屈通り進んでいるわけでもない。
まず、上の例では田中さんがペンキ塗って1万円貰ってますけど、実際にはペンキ塗り会社があって、田中さんがそこに勤務していて給料をもらっています。そこで田中さんは同じペンキ塗り仕事をして1万円もらえるかというと、1万円は会社には入るけど、田中さんには入らない。田中さんの給料は、いいとこ3000円とか5000円くらいでしょう。まあ、その他の部分は、会社が営業経費をだして仕事を取ってきてるとか、広告費でブランドイメージを作ったり、本社であれこれ事務管理したり、そういう経費もあるでしょう。
だから1万円の仕事やって給料3000円でも必ずしも不当ではないのだろうが、しかし、最近はそうかな?って気がするのは、正当に給料払ってるような感じがしないからです。全体の売上から、正当な経費を引いて、あれこれ設備投資や将来の蓄えもやって、それらを勘案して、こんなもんでしょって給料を払ってるならいいです。でも、それやってないんじゃないの?なぜそういうかと言えば、一つには、実際に給料上がってないからです。日本企業は直近10年くらい、史上空前の利益とか出してるところもありつつも、給料は史上空前に跳ね上がってるわけではない。それどころか安く使うために非正規を多く雇おうとする。そして、新しい事業を興して、ガンガンまた人を雇っていればいいんだけど、それも攻めあぐねている。結果的に、アホみたいに内部留保だけが膨れ上がっている。そんなに金溜め込んでいるなら従業員の給料あげろよって気もするのだけど、そうはしない。
そのあたりの経済的な説明は世間の賢い人達がワンサとやってくれているので割愛しますが、これを僕らレベル(一般庶民レベル)に引き寄せてざっくり言ってしまえば、割が悪くなっている、働いた分だけ報われてない、搾取度がキツくなってる、あるいはお金を稼ぐ(貯める)ことそれ自体が難しくなってるとか言えると思います。昔はこのくらい頑張ってると、このくらい貰えて、このくらい生活で贅沢できたのが、「このくらい」の両手の幅が変わってきて、こーのくらい(広く)頑張っても、このくらい(狭く)しか貰えないと。
先程のペンキの例でいえば、世界人口3人のときは(笑)、1日ペンキ塗ったら1万円入って、1日分芝刈り人員を雇えた。ところが会社組織やら中間業者がはいってくると、3日くらいペンキ塗らないと1万円入らなくなり、それがだんだんきつくなって、もう5日も10日もペンキ塗らないと1万円入ってこない気がする。割が悪いというのはそういうことです。
思うに1日が3日になるくらいだったら、分業メリットのほうがデカイのだろうが(正確な比率はわからんけど)、これが5日とか10日になってくると、却って割損のような気がするのよねー。こんなんだったら昔のような原始的な自営の方がまだマシだし、どうかしたらヘタクソでもいいから自分でペンキ塗ったり、芝刈ったりした方がマシではないかと。
なんでそうなるの?というと、間の企業やら何やらがピンハネしてるからですわね。昔は売上1万円のうち、営業経費や事務経費やらなにやら払って残り5000円のうち、3000円くらい給料でくれて、あと500円を株主への配当、1000円を将来のための貯金などにして、税金500円払う感じだったのが、今は給料1000円くらいしかくれずに、配当に1000円当て、内部留保に3500円くらい溜め込んで、、みたいな感じじゃないの?
ほんでね、それはヒドい、悪いことか?というと、実は資本主義や株式会社の原理からしたら別に悪くはないのだわ。企業だって従業員の生活を助けるためにやってるわけじゃなくて、利潤の極大化のためにやってて、その利潤は会社の持ち主(株主=資本家)にいく。最初からそういう仕組なのだ。そこでは資本家の利益を増やそうとすれば、従業員の給料も「経費」なんだから、どんどん減らす方が正しいという血も涙もないシステムなのよね。まあ、あんまり減らすと優秀な人材が入ってこないとか、モラールが低下して生産性も低下するから「却って損」って歯止めがあったけど、今は従業員なんか、いっくらでも取り替えがきく。OA化、IoT化、AI化、ロボット化と、テクノロジーが従業員のライバルになる。同時に、非正規という美味しい使い捨て労働力も出来た、さらに海外その他に外注に出すという手もある。だから高い給料払って従業員さんのゴキゲン取らなくてもいいし、それでどこも再就職が厳しくなれば嫌でもしがみついてくれるから、なんぼでも過酷にこき使える。過労死しない程度に使えばいいやって、そうした方が儲かる。もうそういう仕組なのですな。
なお、内部留保→賃金に回せ論が短絡的なミスリードだと指摘する人は多いけど、読んでるとあんまり賛同できない。だって、内部留保は現金じゃないよ、投資してても内部留保になるんだから賃金に回せるわけじゃないよ、経理や会計原則を知らない素人はこれだから困っちゃうよなってな論旨だったりするんだけど、それって典型的な「専門バカ」の議論でしょ。素人が知らないような専門知識をまぶして煙に巻くとか、専門知識を知ってる俺はエライという中二病的な。あのね、内部留保を賃金に廻せ論は、なにも現金が積み上がってると錯覚してるから言われているわけじゃないわけ。そのくらいの経理知識は皆にもあるわけよ。問題は本当に生産的な将来投資に使われているか?というとそうじゃないでしょって部分で言ってるわけ。高度成長のときも配当を控えてガンガン将来投資に廻してましたよ、それでうまくいってましたよ、でもってココが大事なのだが、あのときはガンガン給料もあがって皆もやる気満々でモーレツ社員やってましたよ。今はそうじゃないでしょってことを指摘してるわけですよ。使いみちがないから国債買ってブタ積みして、マイナス金利になったから慌てて引き出してまた金融商品買って、あるいは海外の企業を買収して結局大損してって、正直いってお金はあるけど何に使っていいのか分からんみたいな状況がある。だったら給料上げて皆のやる気を高めろよって思うけどそれは絶対しないという。そこを問題にしてるわけで、経理上の処理がどうとかクソ細かい話をしてるわけじゃないわけ。はたまた、上に述べたような資本主義や株式会社の原理原則論を改めて述べてるだけとかね。そんなこたあ知ってるんだわ。その上で、その原理原則とやらが時代遅れで皆を不幸にしてるだけのクソ原理に成り果ててるんじゃないの?という未来的な話をしてるんですよね。これじゃまるで「木を見て森を見ず」というか、「専門家」というものが、いかに小賢しいだけで、新たな創造局面ではまるで使えないかを逆論証しているようなものじゃないか。
1+1が2にならない世界
他にも理由、ありますよー。生産性が向上してないって問題は大いにあります。分業体制が良かったのは、それは同じ労力で生産の質量を上げられるという合理性があってこその話です。でもね、今は、必ずしも合理性がない。特に日本の場合、合理的に言うならば、とっくの昔に退場して、新しい勢力に取って代わられるべき業界とか組織が山ほどある。でもそれらが既得権化してしまって全然退かない。そうなると、もともとが非合理で時代遅れで無駄な存在を無理やり存続させているのだから、そこでは合理もクソもないですよ。存在それ自体が非合理なんだから、その内部や周辺も論理も非合理になる。一例を上げれば例えば「電波利権」です。テレビ局の許認可システムが新規参入を事実上不可能にし、完全既得権化している。地上波が地形の影響を受け、膨大な設備投資がいるというなら、もっと積極的に衛星放送をメインにするくらいやればいいのに、それも形だけ。今時衛星はおろか、光ファイバーとか通信手段は山ほどあるけど、とにかく地上波に固執して、デジタル転換でもまだ地デジで地べた主義で、新規参入を防ぐ。これだけ技術が進化したのにテレビ局の数は戦後テレビ放送が始まったキー局数局から全く増えてない。また本来、都道府県単位の許認可であるくせに、事実上在京のキー局5社が全国の支配権を握り、新聞社と放送局が同じオーナーというクロスオーナーは「意見の多様性」に反するのでアメリカですら禁止されてるのに日本では大手を振ってまだやってる。とにかく権力や利権が分散しないように〜、一極集中するように〜、せっせと封建体制を作っている。そして、下々の身分いやしき人々、例えば制作会社の著作権とかそのあたりもゴリゴリ踏みにじられる。
結果、政官財とメディアは超ズブズブになる。ここでガンガン新規参加を認めたら、世界中からあるいは国内でもイキのいい企業が殴り込んでくるし、彼らはしがらみフリーだからめちゃくちゃ面白い番組だって作れるでしょう。「朝から晩まで放射脳チャンネル」とかいって、マジに被爆はどうなってるの?と莫大な資本を投下して徹底検証して、スタジオでは両論陣営が罵倒どころか、つかみ合いの喧嘩をしているのを延々流して、もうプロレスのようにエンタメ化して。それを毎日毎日やり続けるという。あるいは食品汚染や偽装を徹底検証といって、これまた膨大な資本で人海戦術を駆使して、あらゆるところに潜入レポ班を配置してリアルに報道する。「あ、今産廃トラックが出てきました、あ、◯◯倉庫に入っていきます。ここは地元でも有数の◯◯組の支配する倉庫で、あ、いま出てきたのは若頭補佐の◯◯だと思われます」とか実況中継をする。潜入レポ員の身の保証は、失業中のアメリカ海兵隊上がりとかもとCIAあがりとかの屈強な連中300人軍団くらいに包囲させて保証するとか。そういう番組だったら、僕も見たいなー。
でもそんなしがらみフリー番組作られたら既存の局は食われてしまうから絶対認めない。ちょい面白そうなことをやろうとホリエモンが手を出したら、ヒステリックに反発して、検察権力まで使って強引に葬る。要は独り占めして甘い汁を吸いたいだけなんだけど、そして先進国はそれを防ぐための抑制システムがあるんだけど、それを機能不全にさせて、ズブズブよ永遠なれ〜って感じでやってるわね。
それと双璧をなすのが記者クラブ制度とかいう滑稽極まるシステムですな。もーね、中世のギルドみたいな、古式ゆかしい新嘗祭みたいな儀式をまだやってる。もう政官財とずぶずぶになるからメディアに自立性なんかあるわけもなく、単なるタイコモチ通信になる。接待ゴルフの「ナイショッ!」の掛け声みたいな報道ね。その昔は、政財官もそれなりに頑張って、それなりに業績も成果も上げていたから、タイコモチでもそんなに嘘に聞こえなかったけど(それでも相当嘘は言ってたけどね)、今のように何をやってもダメダメな閉塞状況、さきの戦争末期のようにどこもかしこもボロ負けになってるのに、それでもタイコモチやらなきゃいかんから、だんだん辛くなるよね。10対ゼロでボロ負けしてるのに、「惜敗」「あと一歩」とか言うくらいだったらまだしも、「内容的には勝っていた」「事実上の勝利」とか強弁するようになり、ひいては「爽やかな健闘ぶりが皆の胸を打った!」とか「激しい気迫が敵を圧倒した」とか、検証不能な印象的、文学的な報道になるよね。
ちなみに「文学」といえば、各機関の経済報告も「ブンガク」呼ばわりされて蔑視されてますが、「景気」君は常に階段を昇ってるでしょ?本当には脳天逆落しで屋上からあーっと言って落下してるんだけど、それでも景気君は何故か常に階段にいて、しかも昇っている。ときには「踊り場」にいたり、ときには「足踏み」をしたりしてるよね。「やや弱含み」という新しい日本語表現の地平を切り開いたり、なかなか意欲的な。「王様の耳はロバの耳」って寓話を思い出すよね。いや、人間ってほんと変わらないっすね。
そういう1+1が2にならない、空間が歪んでいるような世界においては、合理もヘチマもないです。分業体制で優秀な記者が真実に肉薄し、優秀なメディアが即時にそれをわかりやすく報道し、それを多角的に切りこんで論評することで社会全体の知的生産性を高めるというのが本来のシステムだったはずなのに、もうゾンビじじーの延命システムになってしまってるから、そのとおりにならない。本当のことを書こうとする記者やキャスターはあっさり更迭されるし。このように1+1が2にならない世界で、いかに努力しようが、いかに頑張ろうが、報われるのが少ないのは、ある意味当たり前ですわ。
生産性を向上させる必要がない
さらに別の観点で言いますと、今の生活水準でいいんだったら、大抵の商品はもう飽和状態になって、陳腐化しつつある。だからこれ以上分業体制で、新たなるブレイクスルーで飛躍的に生活を向上させるんだーって余地が乏しい。あったらとっくに皆さんやってますわね。ろくすっぽ無いんだわ。だから企業も内部留保が数百兆円なんでしょ?儲かる分野があったらどんどん投資してやってますわ。逆に言えば、純粋に物理的に言うならば、今は昔ほど生活するのがしんどくなくなってる筈です。エネルギーは資源が枯渇するとか言われつつも全然枯渇せず、それどころかエネルギーを取り出す技術(掘削技術にせよ、太陽光その他の蓄電システムにせよ)が高くなってるから、昔ほどレアではない。また、専門知識だって、昔は図書館通って必死に文献を調べていたのが、今はネットである程度わかるようになっている。技術の進化は、たしかに生活を楽に豊かにしてるとは思います。ただし、そのための社会システムがそれに追いついていないし、むしろ足を引っ張っている。
これは何を意味するかというと、もう分業や社会システムを整備することで、生産性を向上させる必要がないということです。まあ、生産性はまだまだ向上の余地はあるんだけど、今のシステムでは向上しない。むしろ劣化する。本来向上のためのシステムだったはずなのが、真逆に劣化させるのならば、もうそんなのシステム通さない方がまだお得じゃないの?ということですね。とりあえず生きていく位だったら、もう十分に水準に達しているんじゃないの?と。
発端は素朴なことです。こーんなに働いているのに、なんで生活楽にならないの?という根本的な疑問ですわ。経済がどうのとかいう七面倒臭い議論はさておき、これだけ頑張って、これだけの労力を投下して、2016年現在の人類の科学力をもってすれば、わずかこの程度のレベルの生活?というのがおかしくないか?と。だってさ、技術力そのものは日進月歩で進んでいるわけ、多くの賢い人達が必死に研究してどんどん新発見も実用化もされてるわけ。だったら生活楽になってなきゃいけないはずで、それが苦しくなるとか、水準下がるとか、どう考えてもおかしいでしょー?
大体、首都圏住人が毎日毎日、毎月20日以上も満員電車に揺られている通勤労働=1日3時間としても月間60時間もあの苦痛を我慢してるわけで、それだけの純粋な「労力」を投下したら、もうちょいなんとかならんの?という。そんなのが何百万人もいてさ、毎月それだけの時間の苦痛労働してるわけで、それだけ膨大な労力エネルギーがあるなら、ピラミッドでも万里の長城でも作れちゃうような気がするよ。
何がおかしいの?といえば、その昔のペンキ塗り=1万円=芝刈りや子守依頼という等式が崩れて、ペンキ塗りやっても1万円どころか1000円しか稼げない、芝刈りやっても1000円しか稼げない、子守やっても1000円しか稼げない、じゃあ本来の3万円の残余部分(2万7000円部分)は何処にいってるの?といえば、企業のあれこれだったり〜、既得権のポッケだったり〜、富裕層への配当だったり、そんなこんなで超富裕層は寝ていても1分あたり1000万くらい儲かって、奴隷階級は無駄に通勤電車で苦しんで、痴漢されたりしてさらにしんどい思いをしているという、所得格差の拡大ってそういうことでしょ?つまり、生産性を高めて皆を楽にハッピーにするシステムがちゃんと機能してない。へんな業界になってるから生産性の高めようがないとか、仮に生産性が高まって収穫が多くなっても、その果実が一部の者に独占されている。だから頑張れば頑張るだけ損になるというヘンテコな事態になってるんじゃないの?という話です。
だからといって革命じゃ!とか、世直しじゃ!とかいうつもりはない。いや、それはそれで魅力的な選択肢だし、少なくともリーガルな範囲内では努力するべきですよ。口コミ的に、俺はこう思うという意見は常にいうべきだし、選挙でもやるだけのことはやるべきだし。だけど、それ以外の方法論もあると。すごーく小さなエリア、自分の周囲だけのエリアで、それとは違うシステムを組んでしまえばいいじゃんよ、ってことです。冒頭の鈴木・田中・山本の三名の間では、フリーで労働技術を融通しあうようにすれば、どこにも搾取されず、自分の労働の見返りがそのまま100%自分でゲットできるから得じゃないかってことです。何もかも一気に変える気はないし、それは不可能だけど、出来そうなところから少しづつ作っていって、開通したらそこはそのシステムにやらせてって段々替えていけば、その分だけ楽になっていくはずですからね。
国家との駆け引き
経済取引にすると税金がかかる件
あんまりお金のやりとりにしたくない理由は、搾取フリーにするだけではなく、国家にクチバシ入れられたくないからです。お金が動くと、国家がやってきてピンハネします。税金です。さっきの3人設例でも1万円づつ払ってたら、その1万円に消費税取られます。そして収入があれば所得税取られます。でも、お互い物々交換のように、バーターでサービスを融通しあってたら、消費税とか所得税とか取られないから得でしょ?と。もっとも、対価というのは金銭でなくても労務でもサービスでもなんでもいいですから、理屈のうえでは所得税やら贈与税やらかかります。でも、そんなのどうやって当局が補足するのよ?どっか市井の一角で、山本さんと田中さんが「お互いさま」で労務を交換してるという社会的な事実を、いったいどうやって検知して、把握して、立証できるの?まず不可能でしょ。ここで金銭を媒介にしちゃうと、銀行決済とかオンラインに記録が残るし、マイナンバーその他で包囲網レーダーが張り巡らされているから、ピピッと感知されて、びゅーんと戦闘機(国家、税務署)が飛んで来るよね。でも、お金を動かさなかったらレーダー網にひっかからないでしょってことです。
セーフハウスも、多人数で住んで、相互に助け合うシステムだけど、これをいちいち一人づゝ独立企業体にして、今日の労働分が何時間でって請求書切って、賃金貰ってってシステムにすることは可能ですよ。大して難しくないです。そういう経理表現だって出来ます。でも、それをしちゃうと、毎月一人あたりの収入が結構な額になるわけですよ。なんせ朝から晩まで何らかの形で働いているわけですからね。ちゃんと計算すれば今と同じくらいの収入になるかも。そうなると、それを基準に所得税やら住民税やら消費税やら取られる。全員分取られたら月間で相当な額になりますよ。そして、今は、バラバラにやってるから、まさにそのとおりに取られているわけですわ。だったら、まとめて相互に面倒見合って、お金フリーにしたら、その分浮くだろ?ということです。
それって、ある意味合理的な節税、あるいは端的に脱法的な脱税じゃないのか?という疑問は出てきますよね。でもグレーでしょう。純粋に好意でやってるんだとか、だったら何か恋人の分のコーヒー代をおごっても、その恋人は贈与税の申告をしないといけないわけだけど(理論的にはそう)、それを今もやってるのか、査察してるのかよ?って。ようわからんのですよ。大体、人間のアクティビティの全てを経理的に処理しようというのがイリュージョンなんだから。やってる本人らも、これだけの収支があるのにそれを隠蔽しようとかそんな明確な認識を持ちようがないくらいアバウトにやればいい。困ったときはお互いさま、人道的に助けたいから助けるだけの話ってところで曖昧にしておいて、それ以上、1時間あたり幾らの労働でとか細かいことは考えないで(まあ考えられないと思うけど)やればいい。
純粋理論的にいえば、課税はなんらかの「経済取引」など経済的に意味のある現象にかかる権力作用なんだけど、とある事実をして、それが「経済取引」なのか、それともより広い「人間的のなんらかの行為」なのか、これは微妙ですよ。そもそも「経済取引とは何か」という定義から議論しないといけない。これ、本気で争ったら最高裁の判例まで作れるでしょうよ。でもって、そこまで本気で取り締まって頑張ってやったところで、税収自体は微々たるものです。でも、立証は「◯年◯月◯日◯時◯分から◯時間、AがBの肩を揉んだ」という細かい事実を、帳簿も何もなしにやらないといけない。どんだけ手間ヒマかかるか。そして見返りが少ないかです。だから事実上やれないでしょ。やるんだったらパナマから先にやれよって。あっちの方がやりがいあるだろうし、税収も桁違いに大きいぞ。
もう一点、そうやって皆がその方式でやり始めたら税収が激減して国家組織が倒れて、教育医療介護福祉システムが崩壊するじゃないか、弱い人にどんどんしわ寄せがいくじゃないか、そういう自分さえ良ければというエゴイスティックなやり方は弱い人を踏みにじる行為だから許されないぞって意見はあるでしょう。それだけ聞けばその通りだけど、じゃあ、国家さんが弱い人を助けてくださっているんですかね?やってないじゃんよー。「2011年の国内の餓死者は栄養失調と食糧の不足を合わせて1,746人。およそ5時間に1人が餓死」って記事が2014年あたりの女性自身の記事である(古いので引用ブログしかないのだが、例えばココ)、その記事の信憑性はともかく、餓死や栄養失調が普通の話になりつつあるでしょ。消費税増税は全部福祉に使う筈ではなかったのか?復興予算をベトナムへの原発売り込みに流用していいのか(2011年の話)。
あのね、国家さんが、ちゃんと皆のお金で弱い人を助けてくれているなら、それが最大限効率的に回っていて、それがベストな方法なら、何も文句はいいませんよ。けど、やってないじゃん。税金払っても困ってる人に届かないで、ピンハネされるじゃん。だったら、国家は、その限りでは使えないから「クビ」ですわ。キミ、明日から来なくていいわって。その代わり、身近の困ってる人、それはすなわち自分自身だったりするわけだが(笑)、でなんとか自助努力して救い合っていたほうが効率的ではないのか。要は弱者や困窮者が楽になればいいわけで、それを何処経由でやるかどうかは瑣末なこと。目的に対して、よりコストが安く、より迅速で、より効率的で、より安定的なマックス最適解を探せばいいだけであり、それは本来(建国)の趣旨から毫も変わらない。やることやってない奴にとやかく言われる筋合いじゃねーよと。
とはいえ、現場では本気で皆のために動いている公務員さんもいるでしょうし、そういうシステムもあるでしょうから、その限りではクビではないし、もちろんサポートもします。んでも、全部寄りかかって安心するわけにはいかんもん。それに自助努力でやってくれた方が、福祉支出が減って、そちらさんも助かるでしょう?こまっけーこと言いなさんなって。
貰えるものはちゃんと貰う件
これは前回ちょっと書いたけど、誰か家の中に被介護者がいて、その人のケアを一生懸命やったところで、お金は支給されません。でも、それをプロの介護者に頼むと、その人の報酬の一部には介護保険が適用されて報酬金が支払われます。でも、自腹ではらわなきゃならない部分もある。場合によってはそれが多く、おいそれと頼めない、施設にも入れにくいという現状があります。だから、自分で会社休んだり、クビになったりしてでもケアしないといけないという図式がある。でもさ、そこで頑張って介護している作業だって、立派な「労働」なんだから、どっかからちゃんと報酬を貰えばいいじゃんって思うのですわ。でもそれは出来ないのでしょう。介護労働に伴う報酬を支払ってもらえるサービス提供者は介護保険法に定める「介護保険事業者」です。その種類は、ご存知にようにズララと沢山あります。指定居宅サービス事業、訪問介護/入浴/看護/リハビリ事業、通所リハビリ、短期入所生活介護/療養、居宅療養管理指導、特定施設入居者生活介護、福祉用具貸与、えーとそれに地域密着型サービス事業があって、それらに夜間対応型訪問介護、認知症対応型通所介護、小規模多機能型居宅介護、認知症対応型共同生活介護、地域密着型特定施設入居者生活介護、地域密着型老人福祉施設、えーとそれから、、、ってまだまだリストは続きます。そのうちどれか(あるいは重複して)認定を受ければいいです。もちろん認定を受けるためには、それなりに実質が揃ってなければならないわけですが、真剣に介護をやる意欲と技術向上の志があれば、実質的にはOKなんだから、あとは認定されやすいようにカタチを整えればいいだけでしょう。「だけ」と簡単に言ってますけど(笑)、それが難しんだろうね。だからそれは対行政の技術知識論であり、そこを鍛えるべきだと。そのあたりの仕組みは、介護報酬入金までの流れというサイトの図式がわかりやすかったです。
ともあれ、なんらかの認定を受ければ、自分が会社休んだり、クビになったりして頑張ってる分、お金が入ってくるわけですよね。もちろん、なんの資格もない人間が、自分の親を自分の実家で面倒見てるだけではダメっぽいけど、ちょっと勉強して資格取るなりして、また対象が他人の親だったら話は変わってくるでしょ。皆で同じところに住んで、同じところで相手の親を相互クロスに介護したら(てか書類上そういうカタチにしたら)、支払われるかもしれない。また、その住居を「施設」にしてしまえばさらに展開はある。もっとも無届ハウスで書いたように消防法その他でハードルは厳しいけど、訪問介護で稼ぐという方法もあるし、人数おって将来的にソロバン合うなら投資して消防法クリアにしてもいい。人が多いというのは、こういうときに便利なんですよね。
このように本来なら貰ってしかるべき国の報酬金、補助金は多々あります。別にナマポだけじゃないのよ。例えば、シングルマザーの寡婦控除なんてのもあり、税金で使わないと損ですわね。あるいは消費税増税に伴う、臨時福祉給付金が年6000円・低所得高齢者への給付金3万円などがあります。国だって頑張ってやってることはあるのですし、単に知らないだけってのは数多いです。取られる方は絶対にしっかり取られるのに、取り返す方がぼけっとしてたらダメでしょー。ディフェンスとオフェンスがあるんだから。サラリーマンだろうが、バイト君だろうが確定申告した方が調整で返ってくるものもあります。バイト数日分くらいの差があったりもしますしね。
そういうのはセコいとかイジこいとは言いません。なんかそんなの無視して、みすみす損をするのが豪快で男らしいみたいなアホな感覚があったりするけど(まあ、僕もそうだけど)、でもね、そういうのを受給するという前提で国は全体のグランドデザインをやってるわけですから、貰えるものは貰うべき。それは国を批判するにせよ何にせよ、良い面もちゃんと理解すべきだという理念論としてもそう。あるいは、どうせ生活に苦しいんだから、貰ったところで右から左に消えてなくなるだろうけど、その分、外食したり飲みに行ったりなんか買ったりすれば、地元商店街は潤うのだし、どっかの誰かがクビにならずに済むかもしれない。一番アホなのが、バクチや株その他の投資でパーにすることで、そこで使っても中央競馬会が儲かったり、証券会社やどっかのインサイダー情報を握ってる富裕連中が不労所得を得るだけの話。そんなもんに金使うなら、応援してあげたい人に金使えです。貰わないで国に死蔵しておいても、どっかでピンハネされたりするし、あんまり利用者がいないからこの制度はやめましょうかって話になったりもする。
何が言いたいかというと、国とか自治体というのは「お上」じゃないよ、対等目線でつきあえ、プロレスみたいに手四つでがっちり組み合えってことです。本来、国民がそうしてくれることを期待して、今の国家制度は設計されているんだから、国家システムを有効に作動させる責任の一端はこっちにもあるということです。だから貰えるものは貰えばいいし、貢献できるなにかがあれば貢献したらいいです。
自分のために〜これが「仕事」だと思え
ああ、長くなってしまった。最後にひとつ。こういう行政システムを利用することに関して、あるいは人をあれこれアレンジすることに関して、もっとも長けているのは暴力団とか、その界隈の人達です。公園歩いてホームレスを「スカウト」して、一つ所に住まわせて、生活保護申請して受けられるように何もかも手配して、、ってことは、彼らはすごい上手です。NPOも同じことをやってたりするわけだけど、今度は暴力団がNPO申請して認可受けてまた補助金を受けてって、ここでもすごい上手。
ヤクザごときに出来ることが、なんで自分らに出来ないはずがあろうか、と。それに彼らは邪悪な目的(自分らが儲ける)のに対して、こっちは正真正銘助け合いシェアなんだから、負ける道理はない。また彼らは合法違法の塀の上ビジネスに関してはめちゃくちゃ賢いんだけど、でも最後の最後には暴力とかズルや反則をする気でいるから、純粋ビジネス的にいえばぬるいっちゃぬるいのですよ。普通の日本のサラリーマン、ビジネスマンが普段の仕事の本気を出せば、彼らよりもずっと優秀ですよ。なんせズルが出来ずに頑張ってるわけだから鍛えられ方が違うもんね。それだけの技術、それだけの労力、根性があるなら、資本家やら株主やら富裕層にピンハネされるだけが能じゃないだろう、その力、自分らのために使えよって言いたい。
でも、なんか自分のことになると面倒くさくなるのよね(笑)。紺屋の白袴とか、医者の不養生とかいうけど、他人のために仕事でやるのは実力の120%発揮するくせに、自分のためになると20%も発揮しないという。それ馬鹿馬鹿しいです。そろそろ止めたら?と。ワーホリでくる人にときどき言うのですが、シェア探しだろうがファームだろうが勉強だろうが、これが「仕事」だと思ったらどう?と。日本で仕事してるとき、「今日は面倒だからもういいか」とか、そんなぬるいレベルじゃ到底許されなかったでしょうに。「うげ、まだあんのかよ」「おっしゃあ」で疲れた身体ムチ打って、奮起してこなしてたでしょうに。ねえ、他人の金儲けのヘルプをするのはあんなに頑張れたくせに、なんで肝心の自分自身のためだったら頑張れないの?おかしくない?あなたのご主人様は誰よ?自分でしょ?って。
図書館の中に、ビジターコーナーがあり、そこにこのパンフがあるわけですね。
文責:田村