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今週の一枚(2016/05/30)



Essay 776:断捨離しながら思うこと

 ストック・リッチとイベント・リッチ

 写真は、Wow Wowの薄暮のビーチ

オーストラリアの家賃事情

 FBなどでときどきチラチラ書いてますが、ここ数ヶ月、あれこれ断捨離しまくってます。

 コトのなりゆきは、大家さんから家の一部を返してほしい、壁で仕切って娘さんの住まいにしたいと申し出があったことです。こちらとしては借りてる面積が減るので、その分やりくりするべく家財道具や什器備品の大整理作業にはいったと。

 これも背景事情を説明しないとよくわからないでしょうねー。そもそもはキッチンのオーブンが壊れて修理費が2000ドルかかるってところが始まりなんですが、もう大分老朽化が進んでるし、ここだけ直しても意味あるのか?ってことなんでしょう。だったらいっそのこと、、、で大家さんの頭に構想が広がったのでしょう。

 背景事情のポイントは、この大きな家を破格に安く借りられている点です。いや借りた時点では普通の値段だったんですけど、以後オーストラリアの好景気、近年は中国その他の海外富裕層が投資やら資産逃避のために不動産を買い漁っていることによって家賃が上昇している。英語的にはスカイロケットって面白い動詞があるんですけど、もうロケットのように値上がりしている。この話はいつもしてますので繰り返すのもはばかられるのですが、僕が最初に来た1994年には、GLEBEというエリアの2BRのフラットが週220ドルでしたもんね。今、同じ物件を借りたら、あれから築23年分古くなったとしても、それでも3倍くらいするんじゃないかな。Glebeの奥の閑静な方で2BRだったら、600−700はするでしょう。ピカピカだったら1BRでも700はする。

 ところがウチの大家さんはいい人で、周囲が激しく値上げしてるんだけど、それに比べればんびりペース。時が経つにつれてだんだん時勢との乖離がでてくる。もーねーこれだけで過去16年以上、結構得してるんじゃないかな。そうでもなければ、APLACなんか半分趣味みたいなことやってられないって(もっともそのパラレルワールドの場合は、どっかでもっと割のいいサラリー貰ってたかもしれんが)。

 でもね、これはウチだけではなく、ほかもそうです。また日本だってそうです。
 家というのは長く借りると有利(な場合が結構ある)という法則です。家主の立場からしたら、家賃値上げって言いにくいんですよねー。とりあえず恨まれるし。時勢にあわせてこまめに上げる人と、そうでない人とに別れる。最初から半分投資目的で買ってるような人の場合(多いけど)、ローン返済とかシビアな計算があるから、比較的コマメに値上げします。てか、不動産屋が売買のアフターケアのように賃貸管理しますし、その業務の一環としてちゃんと値上げします。場合によっては、「やりすぎだろ?」ってくらいアグレッシブに値上げします。もう500ドルで借りたのに、1年半たったら650ドルになって、3年たったら800ドルなんて凄さです。

 というわけで、オーストラリア人の悩みは家賃ですね。若い世代のオージーもそうだけど、特に永住権取るなど、あとから来た連中はこれに悩まされる。そういえばカミさんのクライアントにインド系の人がいて、なんで家賃が高いんだと始終ブーブー言ってて、中国人の金持ちが買い漁るからいけないんだってお怒りだったそうで。でもインド人の金持ちだって買ってると思う、てか最近はそっちの方が多くないか?と思います。シェアでもインド・ネパール系の「版図の広がり」という、昔やった世界史のサラセン帝国みたいな話ですけど、その昔はパラマッタのいっこ手前のHarris Park駅周辺がメッカだったのに、StrathfieldやHomebushあたり、Rockdaleあたりに広がり、今ではAshfieldあたり、さらにPetershamあたりも出てきました。なんで分かるの?というと、「インド系求む(限る)」というシェア広告の分布でわかります。これだけは僕は「定点観測」してますから、結構信頼性あるデーターだと思いますよ(笑)。

お金を持ってることは悪いこと?

 話は逸れますが、ここのところの世界的な潮流でいえば、OWS運動にせよ、最近のパナマ文書にせよ、「お金持ち=悪党」的な雰囲気が少しづつ作られているような気もします。別にお金持ってるだけだったら犯罪でもなんでもないですし、正当な努力の対価って場合もあるでしょう。

 しかし、まずは格差激しすぎという点で、理不尽に格差があるじゃないか、ゲームのルールとしておかしくない?という問題意識が出てくる。さらにリーマン・ショック以降のあれこれで、お金持ちの投資(金融)で国家が引きずられて破綻の縁に追い込まれている「いい迷惑だ」というニュアンスが加えられる。

 そして、パナマ文書的な租税回避で「ズルをしている」「結果的に貧乏人(てか大多数の普通人)が割を食っている」という視点が出てきたうえ、日本でのオリンピック買収疑惑(てか日本のマスコミは懸命にシカトしようとしてるから、もっぱら西欧のマスコミ世論)も出てきて、単に「ズルい」だけではなく、もはや「悪い」んじゃないかと。

 一方で、逆さに振っても鼻血も出ないというくらい窮乏している各国政府の財政からしたら、なんとしても金ヅルである富裕層を追い駆けたい。貧困(普通)層は、これ以上いじめても金持ってないし、あとは死ぬまで奴隷労働力としてコキ使うくらいしか利用価値がないのだが、その昔のシベリア開発とか屯田兵みたいにコキ使う場所も少ない。やはり「おいしい」のリッチ層で、日本の富裕層の海外逃避防止の包囲網も、何をやってもダメダメな昨今な政府にしては、これだけは上手くやってるなと思うくらいの勢いで進んでます。

 これねー、このままいったらどうなっちゃうんだろ?と、お金持ってない僕が心配する筋合いではないのですが、それでもちょっと思っちゃいますねー。お金とか資産とかって社会の秩序やらお約束あってこその話であり、それがなんかの拍子で一時的にでも崩壊したらヤバいんじゃないの?という。

家賃値上げが頻繁にある物件とない物件

 閑話休題。ウチのレントは安いという話でした。最初からローン組んで買ってる家主の場合は、シビアに値上げしますが、代々相続したような、あるいは昔買ってローンも終わってるような家主の場合、そのあたりの切迫感がないから家賃値上げものんびりしたものになります。

 日本でも同じで、バブルで地上げ華やかなりし頃、僕も家主さんの代理人で賃料増額請求とかやったもんですけど、すごいですよー。隣の学生マンションがワンルームで5−6万するようなエリアの一軒家で、家賃が月二千円とか。もっとすごいのは、駅前の敷地借りて家建てて、年間地代が760円!(万円じゃないよ)というのもありました。もう相続人もどこに自分の物件があるのか分からんので何十年もほったらかしってパターンです。家主不明の場合は、債権者不明による供託ということを法務局に申し立てればいいので、終戦直後の家賃のまま延々続いているという。そういった不動産は、バブルで大分整理されたとは思います(ちなみにそこの立ち退き料が、なんぼだったかな4000万円くらいだったかな)。

 それでもバブルに乗り遅れた、もう「どーしよーもない土地」って日本全国にたくさんあるでしょう。どーしよーもないというのは、相続も何代も前に遡って遺産分割協議書作成→相続登記をしないと売るに売れないけど、何代も前に遡るから推定相続人だけでも数十人、数百人レベルで出てきて、調べ集めた戸籍と住民票だけでも積み上げて10センチくらいになって、しかもそれだけおったら絶対に行方不明者が数人はでてくるから、連絡のつけようがない→ハンコが揃わない→登記できない→売れない→どーしよーもないって話です。まだまだ沢山あると思うよ。

 オーストラリアの場合でも、借家のインスペクションにいって、近所の人と話す機会があるのですが、「今いくらくらいするの?」「◯◯くらいですよ」「どひゃー!」という会話はよくありました。Cremorneの物件では、以前ここに住んでたという人が見に来てて、そこ700ドルくらいだったんですけど、「数年前まで350ドルで借りたんだよ、もう全然無理だ」と言ってましたね。Glebeで見た時は、通りがかった神父さんに聞かれて答えたら、"How sinful!"(なんと罪深い、罰当たりな)と絶句してました(笑)。だから、自分でローン組んで必死にやってない地元民にとっては家賃値上げなんか、イマイチぴんとこないんです。だから昔のままの牧歌的な値段になると。シェア探しでも同じで、そこが狙い目。特に携帯電話ではなく家の電話が載ってるような(おそらくは)高齢者の悠々自適系は掘り出し物が多い。借家でも、どこにでもある大手不動産チェーンではなく、全然聞いたことがないローカルに一軒しかない不動産屋の方がその手の客筋が多く、対応もきめ細かいからおすすめです。

 ということは、家というのは一旦借りてちょっと長くなったら、もう移れなくなるのですよ。下手に引っ越したら家賃二倍になって、どーん!即死しちゃうという(笑)。逆の言い方をしたら、家はじっくり時間をかけて探せです。僕も今の家を決めるのに7ヶ月くらいかけましたし、のベ数百件はインスペクションしてます。探せば出てくる(場合もある)。本当に気に入ったら長っ尻できるし、うまくすれば近隣家賃との差額でかなり浮きます。積もり積もれば数百万とかそれ以上お得になります。お金というのは大きく稼いだり、大きく節約したりするのがコツで、目先のチマチマを幾らやっても大勢に影響はないか、結局損だったりもするでしょう。モノによっては、ゆっくり時間をかけて仕込む。「探す手間」というのも一つの「投資」ですし、労力はすべからく投資だと思ってると良いでしょう。だって「勉強」だって投資ですもんね。


断捨離してて思うこと

 「災い転じて福となす」といいますが、僕としては結構いいチャンスだと思ってます。てか、「全ての福は最初は災いのような形で現れる」と言ってもいいくらいだと。禍・福って、結局は主観の評価であって、客観的に凶事や好事があるわけではないと思います。無味乾燥な事象があるだけ。それに意味をもたらすのは価値観や主観であり、かつそれを好みの方向に持っていけるかどうかは個々人の問題解決能力だと思います。

 例えば、何かに失敗して挫折するのは、それだけみてれば凶事だけど、そこで挫折の苦味を知ることは人間的な奥行きを広げる機会でもあるでしょ。仮にそこで上手くいって、トントン拍子に調子に乗って、知らないうちに傲慢でイヤな奴になっていって、多くの良き出会いを知らない間に膨大にミスってて、最後は高転び〜って話もあるわけですよ。というか、死ぬまで無敗!全部全勝!なんてことは普通ないですから、遅かれ早かれどっかではコケるのだ。だったら、早いうちにコケておいて色々学んでおいた方がいい。早いほうが傷は浅いし、立ち直りも容易だし。でも、挫折してそのままネガ迷宮に入り込んで死ぬまで出てこれないってケースもあるわけで、その状況をどう料理するか、どういう問題解決をするかは個々人の力量だと思います。

 なんかやたらポジティブ・シンキングっぽいかもしれんけど、僕に言わせれば、生きること自体がポジな作業であって、ポジであるのが普通。こんなのデフォルトだろ。呼吸をするのもメシを食うのもポジっちゃポジでしょう。なんでいちいちポジティブ〜とか言わなならんのか、どうして不自然にネガに考えるのか、いまいちよく分からん。だって、メシを食うたびに、もしかして毒とか入ってないか?と思ったり、呼吸をするたびに毒ガスが〜とか考えないでしょう?どうせ食べるなら、美味しいものが食べたいなーって普通思うでしょう。それをいちいちポジティブとか言うか?という。

 で、今回が「いいチャンス」なのは沢山あります。「おう、そういえば!」とぞろぞろ出てきた。

化学反応的なアイデアの連鎖

 一つはライフスタイルとか経営展望の弾みがつくことです。同じようなこと延々やっててもダメだし、もうちょい展開したいんですけど、こういうことがあると具体的に考えられるし、準備も進むから良いキッカケになります。例えば、これで実際に改築工事が住んでやりはじめたら、どうにもアカン!って場合も想定できます。そうなったときは、ここを出て、今度はもっと狭くてコンパクトな住まいにするでしょう。家に人を泊めるというやり方も、業務の本質からしたら必須ではないですしね。それは前々から考えていたのですが、しかし、7部屋に散らばってた家具を2部屋に収納なんて無理ですわ。大量に廃棄処分しなきゃいけず、そこまでしても家賃に大差ないなら意味あんのか?でそこで話は止まってたわけです。でも今回ことで処分も進んできましたし、動きやすくもなりました。一気に動くよりもステップ切ってやってもらった方が無理がないし、それだけでもラッキーだと思ってます。

 細かなことでは、間取りや配置が変わるので、また業態も微妙に変わります。来られる皆さんにとっては、今までよりも使い勝手が良くなると思いますよ。ダイニングは僕の執務室みたいにする代わりに、ラウンジがキッチンとリビングになるので部屋とキッチンの距離が縮まるし、何かとやりやすいでしょう(コーヒー入れるとか、冬場の湯たんぽの補充作業とか)。また、それまで植物のプランターだけ放置してあって使ってなかったレンガ畳の中庭みたいな捨てゾーンを、パティオみたいに活用する方法も考えてます。BBQとかできるし、そこでレクチャーしたり食事するのもアリかなとか。僕自身も共有部分のダイニングを個人的な執務室にできるので作業空間は広がるし、間仕切りもするので内密な話もしやすいかなと。開放空間(パティオ)→共有空間(ラウンジ)→パーソナルな空間と話題や希望に応じて場所を選ぶことも出来るのではないかとか。

 まあ、実際どうなるのかはわかりませんが、一つモノゴトが動くと、芋づる式にどんどんアイディアが出てくるのは確かで、各ベッドルームにソファを入れてしまうとか、なんだこんなことならもっと早くやれば良かったというアイディアも出てきます。連鎖式の化学反応みたいなもので、ほんのちょっと視点が変わるだけでこれまで考えてもいなかったことを思いつくので、それがいい刺激になってます。

所有することの意味

ぼわーとあるグレー領域

 より本質的には、個別のものを捨てるかどうかの判断で、「なんでこれを持っているの?」という問いかけができます。

 所有する物品の中には、財布やパスポートのように確実に必要なものと、明らかに不要(捨て忘れていた)ものの間に、「なんとなく持ってる」「なにかあったら困るから」くらいの曖昧なグレー領域がぼわ〜っと広がっています。実はこれが大きい。なんせ来てから23年、今の家に16年以上もいるとあれこれ溜まるわけです。グレー比率90%くらいじゃないかなってくらいで、グレー領域の取捨選択がなかなか難しい。

 最初はわりと保守的に「なんかあったら困るしなー」みたいに「迷ったら保持」って原則だったのが、だんだん「なんか」って具体的になによ?過去10年間不要だったものがこの先必要になる可能性はどの程度あるのか?漠然と「将来」とかいっても、手持ち時間はそう長いこと残ってるわけでもないしなーとか思いはじめ、原則と例外が逆転して、基本は捨てるという方向になっていきます。

 確かに前職の経験で、何十年も前の古文書のような書類一枚あるか/ないかで、数千万円の訴訟の結末が180度変わるという天国 or 地獄パターンもさんざん見てきました。だから「なんかあったら」というリアルな感覚はわかる。しかし、さらに突っ込んで、これが一体どういう場合に問題になるのだろう?と思うと、コレはこういうパターンの問題になったときに証拠価値を持つけど、コレはおよそありえないなって判断も出来るようにもなります。途中で思考放棄しなくなる。それもあって、後生大事に抱えていた過去の業務記録その他(積み上げて背丈くらいある)の書類を直近数年分を除いて全部破棄って決断することもできました。メールその他のデジタル記録もあるし、ペーパーはもう要らんわと。

 四六時中考えていると、なるほど思考は進むわけで、だんだん「モノを保有するってどういうことなの?」というある種哲学的な問いかけにまで進みます。

「懐かしい」価値

 僕は、卒業アルバムとかは割りとぼんぼこ捨てちゃう方ですけど、個人的な書簡や当時の日記代わりのスケジュール表とかは捨てられなかったりして、その差は何なの?と。懐かしいですし、大切っぽく見えるんだけど、じゃあ「懐かしい」ってことの価値はなんなの?懐かしとなにが良いの?それはこれからの自分に必要なの?とか。

 例えば単に当時を思い出してノスタルジックな気分にひたるという快感はあります。たしかにそれはある。でもそんなの10年に一回くらいで良いわけで、だとしたらこれから死ぬまであと何回あるのよ?とか、逆に年いった時にこそ貴重に感じるかも?という気もしたりして、そのあたりは考えさせられます。

 でも、懐かしいこと自体に価値があるわけじゃないよなーとも思う。単に過去の記憶喚起だけだったら全てのものが対象になるけど、そのなかでもある種のモノゴトが特に意味を持ってて「懐かしい」と感じるわけで、その「特別な意味」ってなんだろう?と。それはおそらくは、今の自分の血肉や骨格になってる部分、自分の原点や初期衝動を思い出し、確認し、さらに前に進むための海図的な意味を持つから大事なんだろう。

 つまり単に「そういうこともあったよねー」くらいだったらあんまり意味なくて、「ああ、これがあったからこそ、今こうしてるんだ」と思えるものが大事だと。突き詰めれば、現在から将来の自分にとって、必要な過去は何か?の選別です。そして本当に必要だったら、既に今の時点で血肉になってるわけで別に敢えて確認するまでもない。必要なんだけど、ともすれば忘れてしまいがちな物事を、正確に記憶喚起するためにどれだけ有効か?ってことだろう。

情報か存在か

 ここでまた別な方向に考えが進みます。原点確認や記憶喚起だけならば、それに関する具体的な情報があればそれで良い。ならばスキャンや写真にとって保存しておけば良く、現物自体は捨てても良いのか?それとも現物が存在すること自体に意味があるのか。つまり必要なのは情報なのか物体なのか?です。

 今、数年がかりの遠大な計画で、持ってる書籍やCDをデジタル化するべく自炊スキャンしたり、CDをRIPしてパソコンに落としこんだりしています。どうでもいいのはどんどん捨ててますが、「むむ」と思うものが多い。まあ、そう思うからこそ保持してるわけですから。そこで悩むのが、この現物か?情報か?の判断です。

 ボロボロになるまで読んだ本とか、擦り切れるまで聴いた音楽とか、仕事で使ってた訟廷日誌という黒革の手帳とか、そのくらいになってくるとモノそれ自体が神性を帯びてくるというか(笑)、情報よりも「存在」それ自体に価値がある。過去に何千何万回と手に持ったものは、そのモノの手触りとか重さそれ自体に意味がある。それでうーん、捨てられないなーとか思ったりするのですね。誰でもそうだと思うけど。

 この悩みは、スケールのでかい話に連なっていきます。突き詰めれば利用価値(情報)なのか、存在価値なのか?です。交換価値という利得的なものは、そんなに持ってるわけじゃないのでこの際どうでもよいです。また経済的に処理が可能だからそんなに悩まない。悩むのは、存在か利用かの判断です。

 これがなんでスケールがデカい話になるのかというと、こっから離陸していくわけですが(笑)、出版業界の明日はあるのか問題とか、シェアリング経済はどこまで発展するのか問題です。ここが面白いから、本来がパーソナルな出来事を今回書いてるわけで。



利用価値と所有価値

 とりあえずラグビーのハイパントのようにぽーんとボールを前方に蹴りだしてみましょう。

自動車業界の展望

 最近、面白い記事を読みました。
 販売台数40%減の衝撃予測 自動車産業の脅威「次世代カーシェア」2016年05月23日(Mon)  宮田拓弥 (Scrum Venturesゼネラルパートナー )という記事です。ちょっと長くなりますが、面白いので抜粋してご紹介します。

BMWやGMの危機感〜カーシェア分野への進出

 2025年までに自動車全体の20%がシェア利用されると言われており、今年の2月にフォードのCEOは「自動車メーカーから自動車サービス企業に変わる」と宣言。今や自動車は「持つ」ものから「使う」ものへと急速に変化を遂げており、この危機感からBMW、GM、フォードなどの欧米の大手自動車メーカーが相次いで「カーシェア」事業に参入している。

 既にBMWは、先月に米国シアトルで「ReachNow」というカーシェアサービスをスタート。「1分単位」「どこからどこへでも」簡単に借りることができる。一般のカーシェアリングと同じく、スマホが料金支払と鍵代わりになる。従来のレンタカーとは異なり、街中に駐車してある車を直接スマホひとつでその場で借り、サービスエリア内であれば「どこでも」乗り捨てられる簡易性。また1分単位での課金で、ガソリン代、保険、パーキングメーターなどは不要という明瞭性。現在は登録無料、1分あたり41セント(約45円)、12時間使って最大80ドル(約8800円)。これに最近大手自動車メーカーが激しく事業展開をしている。

ふたつのシェアリング〜ライドシェアとカーシェア

 背景にあるのはUber、Lyftなどの「ライドシェアリング」で、日本では規制その他でまだサービス自体もスタートしていない状況だが、米国ではかなり普及している。経費精算ソフトのCertifyが公開したデータによれば、去年15年のビジネスにおける出張時の交通手段として、Uber(41%)が、タクシー(20%)とレンタカー(39%)を上回っている。全米ほとんどの空港でライドシェアの乗り入れが可能となっている。

 もう一つが、GetaroundやRelayRidesなどに代表される「C2Cカーシェアリング(Consumer to Consumer)」というカテゴリーのシェアリングサービス。ライドシェアは、自家用車を持つ消費者が、空き時間などを利用して「ドライバーとなる」サービスだが、C2Cシェアは、自分が車を使わない時間に「他の消費者に車を貸す」というサービスだ。C2Cシェアの代表的なサービスであるGetaroundは10年の創業で現在会員20万人。BMWと同じくアプリから近くの車を探しスマホから予約、すぐに利用。利用は1時間単位で、1時間5ドル(約550円)。ほとんどの自家用車は、1日あたり22時間は駐車場に止まったまま使用されていない。C2Cシェアを使うことで、自分が車を使わない時間でお金を稼ぐことができ、毎月のローンや保険にかかる費用を全てまかなってしまうという自動車オーナーも多く出ているという。

 大手自動車企業によるシェアリング企業への投資・提携も急ピッチで進んでいる。GMはこの1月にライドシェア大手Lyftに5億ドル(約550億円)の投資を実行、サービスを閉鎖したライドシェア企業Sidecarの技術資産と人材を買収し、3月に自動運転技術スタートアップのCruiseを10億ドル(約1100億円)とも言われる金額で買収、という矢継ぎ早の手を打ってきている。社長自らが交渉に乗り出したという噂もあり、その本気度が伺える。GMの危機感は、消費者のコスパ感覚の先鋭化であり、燃費の良い車が好まれる上、さらに「所有から使用」が前提の時代になってきており、このままでは時代から取り残される可能性があるという点にある。

 自動車メーカーに先立ってGoogleなどテクノロジー系企業はさらに積極的に動いている。Googleは、Uberにとっての初期(13年)の大きな投資家であり、Google Mapsとの連携、ボルボ、フォード、Lyftなどと共同での自動運転推進団体の設立。マイクロソフトやアマゾンなどもUberに投資。中国企業も積極的で、Uberには検索大手の百度(バイドゥ)が、Lyftにはeコマース大手のアリババとゲーム大手のテンセントが出資。百度は米国に大きなAI研究所を持っており、自動運転への参入も表明している。一方で、日本勢の動きは限定的。Lyftには楽天が出資しているが、その他目立った動きはない。トヨタが昨年11月に米国シリコンバレーにAIの研究所を設立し、今後5年間で10億ドル(約1100億円)を投資することを発表しているが、まだ具体的な動きは見えてこない。

自動運転普及による変化

 とのことです。記事ではさらに進んで自動運転システムが実用化していったらどうなるか?という予測も述べてます。自動運転が実現化するにつれて、自動車は一般のバスや電車のような存在になり、ドライバーはドライブではなくただの乗客になる一方、ヒマな時間に車内でネットで会議をしたり、メールを書いたり、テレビを見ることも出来る。そのための「自動車内のユーティリティのコンテンツ」が新たな市場になる。第二に、お財布携帯的に、自動運転の車に乗りながら行き先の宿やらレストランを調べて予約するというコマース市場が今以上に出てくる。

 第三に保険。日本国内で約8兆円の市場規模の損保業界だが、これは「自動車が事故を起こす」という前提に形成されているところ、自動運転の場合の事故率は低い。一般道でテスト走行を続けているGoogleの自動運転車がこれまでに起こした事故はたったの一度(低速でのバスとの接触事故)。将来的に自動運転が広がっていくにつれて、交通事故数はかなり減るかもしれず、それは良いことだが、同時に保険市場が確実に縮小していくことをも意味する。

 第四に自動車産業そのもので、日本の自動車メーカーは、将来も発展途上国の市場拡大で成長すると予測しているが、しかしシェアリングが進めば楽観はできない。なぜなら、バークレイズのレポートによれば、こうしたシェアリングの加速により、自動車1台あたりの走行距離が2〜4倍程度に伸び、結果として自動車の世界販売台数は40%程度減少すると予測されている。つまり一台の車を無駄なく活用できるから、車そのものの数は今ほど必要なくなるということ。

 インフラ未整備の新興市場にそこまで自動運転が普及するか?という点では、インフラ未整備だからこそ進展するという見方もある。2000年代に固定電話が普及していなかった東南アジアやアフリカなどの地域で、インフラの整備が比較的安価に出来る携帯電話が一気に普及したのと同じ構図。2000年代に同様の変化が起こった携帯電話業界では、ハードウェアを作る携帯端末メーカーからOS/ソフトウェアメーカーへと主導権が移り、アップル、Googleが業界の覇者となった。同じように、10年後になったときに、主導権を握るのは携帯機体メーカーに相当する現在の自動車企業か、それとも自動車を「利用するシステムを構築」するIT系+シェアリング企業か?


 これはカモメの足あとです

所有から利用へ

 長々引用したのは、はー、そこまで世界はいってるのねという点が一つ。もう日本だけみてたら目隠しブラインドで全然わからんねという点。あと、途上国→先進国の順番に発展していくというエスカレーターみたいな世界観はもう古いという点。2年ほど前にアフリカでの携帯マネーを紹介しましたが(ケニアのm-Pesaシステム)、インフラを徐々に整えていくというのは重厚長大の19世紀の国家経済システムの話であって、現在から未来にかけては下手なインフラがない方が画期的になりうる。むしろ過去の重厚長大産業が利権化し、階級化し、社会の新陳代謝を阻害している「昔の先進国(今、衰退国)」が一番ヤバいという点です。


 この点ですが、東京の都心部では実はかなりカーシェアが静かに進展しており、もしかしたら世界でも最先端レベルかもという情報を、読者の方から頂きました。詳細についてはFBの方に書いておきましたのでご参照を。日本もなかなか捨てたものではないと、でもなぜ誇らしげに大々的に報道しないのだろうか?



 そして、この所有→利用という潮流は、拙宅におけるチマチマした断捨離作業と、世界の数兆円ビジネスとを貫いているんだろうなーということです。ファーフェッチの牽強付会のように見えるけど、俺はそうは思わんぞ、つながってるって。

所有する快感と身軽になる快感

 自分の人生における必須アミノ酸のような音楽や本や漫画なども、これまでは大事だから大切に所有・保存してたんだけど、要はコンテンツが大事なだけであって、物体そのものはそれほど大事ではない(神性を帯びた場合は別だが)。でもって、過去数十年テクノロジーに振り回されてきた軌跡があります。音楽でも最初はカセットとレコード、次にCDになり、自分でCDRで焼くとか、ビデオからDVDへ進みました。その度に昔の記録方法で保存したものをどうしてるくれる?の世界で、今も、これはちょっと捨てられないなーという神カセットとかビデオがあるんだけど、どうしよう?と悩んでます。CDもDVDも出てきた時はなんて便利なと思ったけど、あれも時間が経ったら劣化して読み出せなくなるという記録方法としての欠陥も見えてきたし、4.7GBの記録容量も今にしてみればしょぼすぎて、物体的にも空間とりすぎて邪魔くさくて仕方がない。

 で、思うのは、「所有することの面倒臭さ」です。なんか保有しているとどことなく「満たされた感」があったのですが、時とともにあんまりそこにトキメキが無くなりますよね。別に持ってなくても、使えさえしたらそれでいいじゃない?という。僕は住宅に関しては保有しようと思ったことは過去に一度もないです。もともと転居が多いボヘミアン一族ってこともあるんだけど、変われば変わるだけ豊かになることも体感として知っている。幸か不幸か故郷や実家や先祖代々のなんたらが無い。父方も母方も、その昔はとんでもない大地主様だったらしいのですが、よくしたもんでどちらも曽祖父かその上くらいが大のギャンブラーで、一晩で山が2−3個ぶっ飛んだりして大部分を断捨離してくれました(笑)。それに戦後の農地改革で綺麗さっぱり消滅。めでたしめでたしです。要らんもん、そんなの。住宅も、「お金がない」というリアルで明確な理由もありましたが、お金がある頃には将来的に人口減少になるのは見えてたので資産的には意味ないというのもわかったし。大事なのは、何を保有するかではなく、いつだって「どう生きるか」であると。

 もともと物欲も、所有フェチ性も少なかった自分ですが、ここにきて最後の砦のようであった本や音楽も所有欲がなくなってきた。というか所有形態がずいぶんと変わってきた。電子書籍も慣れたら、こっちの方がええわって話にもなる。漫画なんかほとんどデジタルですね。本も、大好きな本は自分でバラして自炊スキャンしてます。その方が紛失しにくいし(コピーやバックアップが簡単だし)。それに、目が悪いので画面のバックライトで読む方がはるかに楽です。あれって巨大活字で読むのと同じですし、漫画でも細かな描写までよく分かる。音楽に関しては、かなりレアものは別として、メジャーどころだったら大体YouTubeに上がってますしね。

 今回もどんどん捨てたり、デジタル化したりしてます。スキャンやRIPは手間がかかるのでぼちぼちやってますが、いずれは神系だけ残して、90%くらいは処分するつもりです。すでに本棚がまるまる2つくらい空きました。最終的には自分の保有するものをもっともっと圧縮していきたい。なんか弾みがついてしまった(笑)。これって、「保有する快感」に対立するものとして「捨てて身軽になる快感」があって、後者が前者を上回ってきたということです。

 経済的にはよく言われる、ストックの経済からフローの経済へってことなんかもしれませんが、そういう世の中なんでしょうね。デジタルでダウンロードして購入するという方法から、見たい時に見るだけで保有はしないという、クラウドへのアクセス権だけあればそれでいいやという。なんでも揃ってる図書館が自室にあるようなもので、その書庫の所有者が自分であろうが他人であろうがどうでもいいと。

 世の中そっちの方向に進んでいくのだとしたら、さらにもっともっと進む余地はあります。究極的な飽和MAXでいえば、世界に書庫は一個あればいい。そこに全ての書籍、音楽などの情報メモリーがおいてあり、世界人類はそこにアクセスさえすれば全てを利用できると。これって個々人のメールやら銀行口座やら通話などを無制限にとりこむビッグデーターの技術があるんだから、それほど難しくないでしょ。何十億人の日々の生活記録に比べたら、芸術作品のデーターなんて量的には微々たるものでしょうしね。

 そうなっていくと、それ以外の記憶媒体、書籍であろうがCDやレコードであろうが、不要になるということです。これが業界的に今進んでいるところで、出版業界も音楽業界も大変です。出版も去年の統計では、過去5年で一兆2500億円も縮小している。

 もっと言えば(話広がり過ぎるのでチラ見程度で)、所有の意味が薄らぐということは、現在の産業・経済構造の根幹も変わるということです。そもそも製造業というのは完成した商品の所有権の移転(販売)を最終目的にしてますが、それがシェア(共同利用)でいいなら生産台数も激減するのが道理でしょう。地球環境的にはモノは減らしたほうがいいんだけど、経済って無駄遣いしてナンボって世界だから、経済的にはどっかで大クラッシュするかもねとか、クラッシュなんか一過性だからどうでも良くて、その先にひろがってる世界はどうなってるか?とか。まあ、広がりすぎるのこの程度に。


新たに生じる価値〜一回的なライブ性

 では、何が残るのか?「残る」というよりも、新たに価値を見いだされるものは何か?といえば、やはり神的なアイテムとしてのものが一つ。大フェバリットなものは情報ではなく物体でほしい、その存在の意味があると。ただし大量印刷によるコストダウンはできないから、注文住宅か建売住宅みたいに、希望者には装丁AセットBセット、完全自由オーダーみたいに発注して製本して届けるというビジネスがあるかもしれない。やっぱ装丁デザインや材質、活字などアート作品としての価値はありますから。3Dプリンターの進展によって、コストも安くなるとは思いますし、最後は個人で3Dプリンターを保有して自分で製本とか、いやいやプリンター自体をシェアすれば足りるとか。

 もう一つはコンテンツそのものの純化です。音楽だって、レコードかデジタルか、保有かダウンロードかとかいっても、本質的に言えば全部ニセモノと言ってもいいと思います。音楽というのは、その現場で一回限り演奏されるライブそのものが本質であって、あとは全部メモリー、記憶媒体でしょ。恋人の写真と恋人本人みたいなもので、写真はどこまでいっても写真です。そしてライブとしての価値になると、これまでとは全く違った様相になると思いますよ。

 極論するなら、ライブ、本物になると、別にそんなに上手じゃなくてもいいんですよねー。記録媒体になると世界最高峰の演奏が同時に比較できるから、どんどん先鋭化していって、ピアニストでも世界で必要なのはほんの数人でいいみたいな話になりがちだし、実際に売れているのはピアニスト全人口からしたらお話にならないくらい少量です。でもね、ピアノってナマで聴いたら凄いですよー!ラウンジのバックミュージックみたいに控えめに弾いているのではなく、ガチに弾かれたら、別にプロじゃなくも、いやアマチュアのかなり下手な部類であっても、やっぱ感動する。音自体が全然違う。僕も、今まで一番衝撃的だったライブな何か?といわれたら、プロのミュージシャンのステージではなく、今からおもえばへったくそな文化祭でたまたま見かけた教室バンドです。「うわ、こんな音がこの世にあるのか?」とそこに感動した。すげえ、すげえ、すげえ!って。

 何を言ってるかというと、所有とか利用とかいうのはしょせん記憶媒体の話、実物ではなく記録の話であって、そこがストック系からフロー系になったといっても、それほど驚天動地な話ではないよ、マイナーチェンジに過ぎないとも言えるということです。そして、その一方で、逆に原点回帰のように価値が再発見されていくのはライブ性、現物性だと思います。ただし、これはマスマーケティングには全然乗らないので、これまでのものの見方をしてたらひたすら衰退しているように見えるでしょう。が、実はそんなことないと思います。音楽は死なない。「お話」も死なない。あなたがなんかの拍子に鼻歌を歌う限り死なない。ただ、その存在形態や楽しみ方のバリエーションが増えるだけだと。

アクセス利便度の差

 それと車の話と何の関係があるか?というと、同じことじゃん。たしかに保有していることにえも言われぬ快感があるという神車はあると思うのですよ。クラシックカーにせよ、最新のスーパーカーにせよ、自分で手作りで組み上げたオリジナルカーにせよ、それは持ってることに意味がある。だけど、大多数は使えたらそれで良いわけで、興味関心はそれを使って何をするのか?です。保有よりも利用価値です。

 実際、BMWみたいなサービスが普及してくれたら、もう車買わなくてもいいよなーって思います。早くオーストラリアでも普及してくれよと。車って金食い虫だし、一回づつ全部タクシー利用した方がトータルでは安いくらいなんだから。そして、路上や駐車場にずらーっと停まってる車、あれのうちどれでも自由に乗りたい時に乗れたら、それは楽ですよー。気分で車種も変えたらいいし。楽しそうです。でもって、お金のある人は車買っておいて、そこらへんに駐車しておけば、知らない間に他の人が乗ってくれて、自分の収入になるんだから、まさに寝ている間にお金が儲かるシステムでもあるわけだし。もう企業の事業とかではなく、それ自体が水道や電気のようなインフラになってほしいくらいだ。

 保有と所有の差というのは、利用までのアクセス便の差だと思います。本でも所有して手元においておけば、いつでも好きなときに読める。図書館に行けば無料とかいっても、図書館に行くのが面倒くさいし、時間も交通費もかかる。機会費用を考えたらかえって損って場合もある。だけど、ネットで好きなときにクラウドからダウンロードすればいいなら、そのアクセス便の差はほとんど無くなる。てか、自分でも自宅のどこに置いたかわからなくなって探している手間を考えたら、ネット→検索一発の方がアクセスは楽だとも言える。

 また、「いつでも好きなときに」とかいっても、実際のその「好きな時」ってどんだけあるのよ?と冷静に考えてみると、あんまり無いかも、、、ってことも判明してくる。そして、所有することのデメリットもあれこれと出てくる。

マトメ〜「利用」の洗練

 とっちらかった話で悪いけど、そろそろマトメに入ります。

 自宅の断捨離話と、世界の潮流であるシェアリング経済とに通底するのは、「生きていくのに本当に必要なもの」を「必要な限度」に洗練、収斂、純化していくことだと僕は思う。

 必要なものだけではなく、必要な「限度」です。例えば、水は生きていく上で絶対に必要だけど、だからといって常に大きな水瓶に何倍も蓄えておく必要はない。ボーフラ湧くし。蛇口をひねれば水が出てくるというインフラを構築すれば、所有する必要はない。水なんか所有しているのか利用してるのかその境界すら曖昧でしょう(所有なんだけど即消費するから利用みたいに見える)。それと同じことで、車も所有者は1日平均22時間は使用していないという統計は納得です。使ってない時間の方がずっと長い。持ってる必要あんのか?という。世界的にも資源の超ムダではないか。音楽も書籍も、たまーに10年に一度くらいしか聴かないものもあるわけで、そのために9年と364日保有している必要があるのか?と。

 一方で所有には快感があります。持ってると嬉しい、リッチで豊かな気分になれると。しかし、それも食事も量が多ければそれでいいんだみたいな発達過程の話であって、世の中が普通に豊かになってくるとそれもそれほど強くなくなる。反面、所有していることのデメリットもあります。車を買えば維持費もかかるし、ガレージも用意しないといけない。本を買えば本棚にギッシリで場所を取るから、高い住居費を払う必要があるし、引っ越すにもうんざり感が先に立って何をするのも動きが鈍くなる。そのあたりのトータル収支勘定を真剣に考えているという話であります。

 で、将来的には、音楽でいうライブ性の重視です。ストックからフローへといっても、単に流れていればいいってもんじゃなくて、要所要所の結節点でビシっと決めて、賞味すること。モノをかき集めて蔵を建ててリッチな気分になっていながら、その実、自分のストックの番人みたいになったら詰まらん。一期一会の出会いの場とか、なんらかのイベント、それは毎回の食事であっても、家族との会話であってもその一回性を重視し、大切にすべきじゃないか。これから先の「富裕」とは、物や資産などの「ストック・リッチ」ではなく、楽しくて有意義な時間や機会をどれだけ持っているか、それをどれだけ鋭敏な感覚で鑑賞できるかという「イベント・リッチ」ではないかとか。

 ま、標語的にいえば、コレクターではなく、プレイヤーになるということでしょうか。もともとコレクター趣味はないんですけど、これまで以上に、ということです。「所有」する手間暇から逃れられた分、「利用」に精魂込めるというか、一音を深く聴き、一行をより深く読み込む。逆に言えば、所有することで安心しない、所有することで自分を誤魔化さないってことですね。「積ん読」みたいに保有してることで満足しちゃって全然読んでないという愚かなことはもう卒業しなきゃ。そしてそれは世界的な趨勢にもシンクロしてるんじゃないかなーという話でした。必要なモノは、必要なときに、必要な限度であればいい。問題はそれをどう活かして、どう日々を豊かにするかであると。










 文責:田村




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