今週の一枚(2016/01/11)
Essay 756:愚痴という感情廃棄物
写真は、シドニー西方の副都心ともいうべきParramatta。
そして大きな街ならどこにでもあるWestfieldというショッピングセンター。
Wikiによると、Westfieldというのは1959年ブラックタウンではじまった純正シドニーの企業です。"West"という名も「シドニーの西部」という意味からつけています。不動産のデベロッパーで、ショッピングセンター開発経営に特化し、現在オーストラリアに103のショッピングセンターを持つのみならず、NZ、アメリカ、イギリス、イタリア、クロアチア、そしてブラジルに進出。2014年にAUSとNZを管理するScentre Groupと、その他のエリアを管理する Westfield Corporationとに分離してるそうです。
そして大きな街ならどこにでもあるWestfieldというショッピングセンター。
Wikiによると、Westfieldというのは1959年ブラックタウンではじまった純正シドニーの企業です。"West"という名も「シドニーの西部」という意味からつけています。不動産のデベロッパーで、ショッピングセンター開発経営に特化し、現在オーストラリアに103のショッピングセンターを持つのみならず、NZ、アメリカ、イギリス、イタリア、クロアチア、そしてブラジルに進出。2014年にAUSとNZを管理するScentre Groupと、その他のエリアを管理する Westfield Corporationとに分離してるそうです。
愚痴の定義は難しい
今週のテーマは「愚痴」です。とてもありふれたテーマですけど、意外と考え出したら難しい(=面白い)ので。
一般に愚痴はよくないと言われたりしますが、反面ある程度は必要なんだと言われたりもします。NGである理由は、なんでもネガティブに見えてくるから現実的な解決に結びつかず、悪循環になっていくという本人のデメリット、さらに聞かされる周囲がとりあえずムカつくとか、それがひいては本人の社会的立場を悪くするとか、そのあたりのことでしょう。プラス面としては、愚痴をいうことでストレスや感情解放になり、気持ちの整理になるという効用ですね。
このように良い・悪いの二面性を持っているだけでなく、そのプラマイも「誰にとって」という主体による差異もあり、さらに短期的効果と長期的効果の両方があり、いろんなスペクトラムをもっていて、こりゃ一概には言えないぞって気になります。
とある局限された状況だけを念頭において、愚痴は悪い/良いと言うのはとっても簡単です。でも、「じゃあ、こういう場合は?」と状況が変わっていくと、必ずしもそうとばかりは言えなくなります。例えば、愚痴を言うのはとりあえずカッコ悪いとか男らしくないらかといって、ではどんな理不尽にもじっと我慢して耐えていればいいのか?ある程度はそうかもしれないけど、それが何年も何十年も積もり積もって、ついに人格歪んじゃいましたとか、鬱になって自殺しちゃいましたとかになったら、それでもいいのか?です。あるいは毎日のように残業しているのに全然残業手当がつかなくて、やってらんないよっていうのも「愚痴を言うな」で圧殺してしてしまっていいのか?そもそも愚痴とはなにか?
ちなみに英語では
「ココからココまで」という「愚痴」の範囲を考えるにあたって、今日はちょっと趣向を変えて英語のお勉強をしましょう。愚痴にドンピシャと対応する英単語はなかなか見つからないのですが、シソーラスなどを使って類語を並べてみました。(愚痴に近い感じ)
grumble:complain about something in a bad-tempered way.make a low rumbling sound.(ブツクサ文句を言う)
whinge:complain persistently and in a peevish or irritating way. (ウダウダと苛つくような言い方で文句をいう)と
grumpy:bad-tempered and sulky.(不機嫌)
cavil:make petty or unnecessary objections.(詰まらないことで文句を言うこと)
quibble:a slight objection or criticism.argue or raise objections about a trivial matter.(これも詰まらないことで文句を言う)
complain:a statement that something is unsatisfactory or unacceptable.(不満を述べる)
(より公的・戦闘的な)
grievance:a real or imagined cause for complaint, especially unfair treatment.an official statement of a complaint over something believed to be wrong or unfair.a feeling of resentment over something believed to be wrong or unfair.(不満のネタ、訴え、糾弾)
charge:demand (an amount) as a price for a service rendered or goods supplied.formally accuse (someone) of something, especially an offence under law.
accuse:charge (someone) with an offence or crime.claim that (someone) has done something wrong.
objection(異議申し立て)、protest(抗議)、criticise:(批判 )
(オマケ:もっぱらサウンド系)
moan:a long, low sound made by a person expressing physical or mental suffering or sexual pleasure.a complaint which is perceived as trivial and not taken seriously by others.(うーんと長く呻く)
groan:make a deep inarticulate sound conveying pain, despair, pleasure, etc.(of an object) make a low creaking sound when pressure or weight is applied.(くぐもった感じ、軋む)
whine:a long, high-pitched complaining cry.(えー?!みたいな甲高い不満の叫び)
mutter:say something in a low or barely audible voice, especially in dissatisfaction or irritation.(小さな声でブツブツ言う)
moan:a long, low sound made by a person expressing physical or mental suffering or sexual pleasure.a complaint which is perceived as trivial and not taken seriously by others.(うーんと長く呻く)
groan:make a deep inarticulate sound conveying pain, despair, pleasure, etc.(of an object) make a low creaking sound when pressure or weight is applied.(くぐもった感じ、軋む)
whine:a long, high-pitched complaining cry.(えー?!みたいな甲高い不満の叫び)
mutter:say something in a low or barely audible voice, especially in dissatisfaction or irritation.(小さな声でブツブツ言う)
もう無茶苦茶広がっていくのでこのくらいにします。幾つくらい知ってました?大体8割がた知っててIELTS6くらい?7は、自分で英作文や喋るときに、これらの単語を自分でゼロから思いついて使おうかな〜ってくらいかな(かなり融通無碍に使いこなせて8か)。僕も"cavil"は、こんな単語あったの?実際に見た記憶あんまりないな〜(あってもシカトしてたな)って感じですが、あとは普通によく見かけます。
それはさておき、ズララと出てきたのを僕なりに並べ直したのが上ですが、complainというのが中間くらいの意味なのかな?ってところで、上はネガが強く、下はポジというかもっとキッチリしたものです。コンプレイン(complain)は日本語で訳すと「苦情」「不平不満を述べる」くらいの意味になってるときがありますが、ちょいニュアンス違うと思います。それだとネガが強すぎて、英語では「ナイスなアドバイスをする」「全体を向上させるためのキッカケ」というプラスの意味も大いにあります。だからコンプレインは、しないほうが良いのではなく、した方が良い、どうかすると善良な市民の義務である(環境の向上などみなの利益につながるから)くらいの感じ。でも、駄目駄目なコンプレインもあるわけで、トータルでいえばプラマイゼロくらいかなー、価値的に中立的な意味合いが強いかなー?という。
愚痴の二大要件(1)〜正当性
いずれも、現状に対して不満足の意思表明であり、一種のダメ出しなのですが、何が良くて、何が悪いのか?まず簡単に思いつくのが、
(1)正当性〜内容が客観的に正当であるか
(2)生産性〜建設的な解決をめざしているか
という基準です。
(1)内容的にスカタンである、というのはおわかりでしょう。ちゃんと書かれているのに読み落として勝手に勘違いしたあげく、、後になって「騙された!」とかブーブー言ってる人とか、CDをジャケ買いしたらハズレてしまったとか、面白いと思ってみた映画がつまらんかったとか、まあ、気持ちはわかるけど、いつまでもブチブチ言いまくってる人がいたとしたら「ええ加減にせえ!」ってことです。
内容的に明らかにヘンなのに、自説を譲らず、モンスタペアレンツみたいにギャーギャー言う人というのはわかりやすいのですけど、そこまでいくと「愚痴」という語感からはちょっと離れる気がします。モンペア系の「無茶言ってくるお客」のような人々は、ありえないような論拠でありえないような主張をしてきます。だから、(2)解決を目指しているっちゃ目指しているのですよね、彼らは。ただその内容が認められないという。
余談ですが、民事裁判に「主張自体失当」という概念があります。原告の主張が仮に全部真実であると証明されたとしても、それでもその事実からは主張している法的権利が認められない=被告が何もしないうちに原告の一人相撲で敗訴〜という恥ずかしいパターンです。被告は原告に1000万円支払えって訴えておきながら、なんで払わなきゃいけないのかという理由事実("請求原因"という)が、「地元の代表校が甲子園の準決勝で負けたから」だった場合、仮にその事実(負けた)が完璧に立証されたとしても、「だから何?」です。理由と結論が全然噛み合ってないからダメよという。弁護士としてはこれだけは是非とも避けたいというか、それやってしまうと、もう裁判所からあの先生は馬鹿だという大きなレッテルを貼られてしまって、あとが大変(笑)。
さらに余談を重ねると、でも、依頼者さんの中にはこの主張自体失当(恥ずかしい主張)をやれと迫ってくる人も意外と多いのですよー。「被告の信心が足りないからイケナイのだ」とか、信仰に篤いのは結構なんですけど、それを裁判所というパブリックな場所で主張するのはちと無理がある。離婚の「婚姻を継続しがたい重大な事由」の立証にしても、「ハンバーグが生焼けだった」とか、まあ気持ちはわかるんですけど、そのくらいの事項をちょっと並べて「婚姻を継続しがたい」「重大な事由」というのも厳しいです。本人的はにすごい大事なことなんでしょうけどね。でもねー、うーん、という。かといって、その種の細かなことを100個も200個もレポート用紙びっちり書いてこられるのも辛い。「こ、これ全部主張するんですか?」「当然です、私の血を吐くような想いですから」とか迫られても、こんなの裁判所に持って行ったら「はあ?」顔されるのが見えてるし、もうその時点で裁判官の心証も悪くなるし。弁護士なんかしょせんは客商売で、大変なんですよー。
さらに余談を重ねると、でも、依頼者さんの中にはこの主張自体失当(恥ずかしい主張)をやれと迫ってくる人も意外と多いのですよー。「被告の信心が足りないからイケナイのだ」とか、信仰に篤いのは結構なんですけど、それを裁判所というパブリックな場所で主張するのはちと無理がある。離婚の「婚姻を継続しがたい重大な事由」の立証にしても、「ハンバーグが生焼けだった」とか、まあ気持ちはわかるんですけど、そのくらいの事項をちょっと並べて「婚姻を継続しがたい」「重大な事由」というのも厳しいです。本人的はにすごい大事なことなんでしょうけどね。でもねー、うーん、という。かといって、その種の細かなことを100個も200個もレポート用紙びっちり書いてこられるのも辛い。「こ、これ全部主張するんですか?」「当然です、私の血を吐くような想いですから」とか迫られても、こんなの裁判所に持って行ったら「はあ?」顔されるのが見えてるし、もうその時点で裁判官の心証も悪くなるし。弁護士なんかしょせんは客商売で、大変なんですよー。
小さいこと、細かいこと
内容の良し悪しについては、個々人の価値観や主義主張もからんできますので、一概に何がダメで〜ってもんでもないでしょう。ここは意外と難しいです。一般には、些細でトリビアな物事についてウダウダ言っているという、「テーマの小ささ」が他人の非難のポイントになるような気がします。良い悪い以前に「そんな細かいこと、どうでもいいじゃねーか」というか、重箱の隅をほじくってる、そのイジこい細かさが、とりあえずムカつくというか。例えば日本の市バスに乗ってたら、「次は○○」というテープ案内があるのですが、たまたまそれを間違えたとか、一つだけ流し忘れたとかいうのを、「けしからん!」「許せない!」と言っているとか。別にいいじゃん、そんなこたあ、だー、うっせえなーって感じ。だけど、Aさんにおいては細かいことでもBさんにとってはゆるがせに出来ないことだったりもします。また一般に年長者が細かいことにあれこれ口出しするイメージがありますが、あれも理由があったりするのですね。なぜなら「一事が万事」「氷山の一角」ということ、ごく少量のサンプルケースがあれば、それで全体を推知することは出来るということ。「ここでそんなミスをするようでは到底大きなことは任せられない」と。ビジネスその他で礼儀作法がやかましくいわれるのは、礼儀そのものに価値があるという以上に、注意力やマネジメント能力、ひいては人間性が小さなところに現れるからでしょう。
過去に何度か紹介した北条氏康という武将が、息子が汁かけゴハンに汁を二度がけしているのをみて「駄目だ、こいつは」と思ったというエピソードがあります。毎日食べている料理でありながらこの程度の量というのが分からない、そんなアバウトな感覚では他人の複雑な心なんか推し量れないだろう、人の上に立つ器量ではないと。確かに、直感的な目分量がダメだったら、戦場で何人兵力を投入するかの判断も間違えるでしょうし、そういう能力や人格態度というのは、ささいな日常に現れるというのは同意です。そりゃ絶対そうか?百発百中か?といえばそんなことないですけど、大体八割程度の正解率があれば現場では十分使えますからね。穿った見方かもしれませんが、いわゆる礼儀作法というのは、それを見ぬくためにあるというよりは、それを誤魔化すためにある(見えなくする)という防衛的な機能の方が強いように思います。地でやっても他人に好かれるんだったら問題ないけど、不安だったら礼儀作法どおりやっておけばボロが出にくいという。
ということで、トリビアかどうか、事柄の大小というのはそれだけ見てても分からんのですよ。結婚生活やってりゃ、嫌でもこの類の喧嘩になるわけで、あなたの「そーゆーところ」が嫌いだと。どういう所だ?というと、細かい事例ばっかズララと並べて、こまっけー奴だな、ああ、うぜーって。
自己中で全体が見えてない点
多分、愚痴が嫌われる理由はココにあるような気がします。愚痴=「不満の表明」で、何が不満かといえば、「不利益な扱い」を「不当に」受けているって点だと思うのですが、その不当性判断が間違っている点。自分寄りに物事を見ていて、全体を公平に見れていないという視野の狭さや、自己中性が嫌われる。
例えば、職場や仲間内で「いつも俺ばっか文句言われて、不公平だ」って不満があります。よくあるよね。
実際、みにくいアヒルの子的にイジメられている場合もあるでしょう。クラスで給食費が盗まれたら片親の子供が犯人扱いされるとか、なんか犯罪がおきたらそれは全部移民の奴らがやったに違いないとか、その種の愚劣な偏見は普通にあります。また狡猾な連中によって、偏見を助長するような事件だけが針小棒大にメディアに流れたりもします。いやー、最近ではそっちの方が多いので、なんかあっても「ヤラセでしょ?」「ああ、話を逸らしたいんだ」とか思っちゃうのですが、それはさておき、社会的な不正義な事態は、残念ながら世の中に沢山あります。
が、それが自分の場合にも該当するかどうかは自ずと別問題です。全然理不尽ではない場合も大量にあります。普通に考えれば、そっちの方が多いでしょう。「なんで俺ばっかり怒られるんだよ?」と言っても、事実、そいつが一番たくさん人に迷惑かけてるんだから、回数的に多くなっても当たり前でしょう。なんで俺を信じてくれないんだよ?←おめーが嘘ばっかついてるからだよってことです。そりゃそうだと。
主任でもなんでもちょっとばかり人の上に立った経験のある人だったらわかると思いますが、他人を叱ったり怒ったりというのは、結構消耗します。精神的にも知的にも疲れる。上司に怒られるのは、確かに心理的にマイナスであり「被害」を受けたといっていいですが、冷静に考えてみて、怒ってる上司の方がもっと「被害」を受けている場合の方が多いでしょう。「こいつ、何回言ったらわかるんだ!」って、もうめっちゃ腹立つ。大事なお客さんの案件で心血注いであれこれダンドリかましているのに、一人「すいません、忘れてました」ってのが出てきて全部パーになったら、その場で射殺したくなるよね。一回自分もそういう経験(怒る側に立つ)してみたらいいです。
大体において、怒る人・怒られる人がいたら、怒る人の方が被害はデカい。公害でも犯罪でも被害者だからこそ怒るわけであって、その被害に比べてみたら、多少怒ったくらいでは到底腹の虫が収まらないくらいでしょう。「趣味は怒り狂うことです」って人はそんなにいないと思いますから、ある人が怒っているなら、そこには怒るだけの何らかの事情があったと思うべきでしょう。それは何か?であり、そこまで含めて判断して、正当・不当であるかどうか。そこで「そんなの俺の知ったこっちゃない」と言うのであれば、そこまでの視野はない・視野に入れる気もないってことで、その程度の人間かって思われるでしょう。
僕個人の、あるいは世間一般の大人と呼ばれる人だったら、「優しい人」よりも「公平な人」を好みます。そりゃ優しい人にはナチュラルに好意を抱きますし、それが真に心の広さや奥行きから発している場合は尊敬もします。だがしかし、そこまで深くつき合うのでなければ、公平な人の方がいい。英語本来の意味でのリーズナブルな人=行動にはリーズン(理由)があり、その人の言動には常に何らかのもっともな理由がある人。そっちの方が大事で、特に自分に対して優しくなくてもいいです。なぜなら感情主導の優しさ(可愛く思える)みたいなものって、安定性に欠けるからです。知らない間に向こうの気が変わって、手に平返したように冷たくされたりもするわけですよ。「可愛さ余って憎さ百倍」じゃないですけど、そんな自分の預かり知らない他人の感情によって右往左往させられる人よりは、コンスタントに知的・合理的に振る舞ってくれる人の方がいい。予測安定性はあるし、間違っても理由は教えてくれるから対処もしやすいです。
だもんで、なんとなく「優しい人」が一番好きとか思ってるうちはまだ子供で、社会的な責任が増える大人になればなるほど、リーズナブルな人の方を評価するようになるでしょう。実際そうだと思うし。一方で、自分がリーズナブルな人=合理的で公平な判断ができる人になるためには、やはり一定の視野の広さは不可欠です。Aさんからはこう見えていて、Bさんからはこう感じられるだろうという共感力があること。そこが足りない人、つまり視野の狭い人は、公平妥当な判断をしてくれるかどうか分からないから、それなりの評価しか得られない。
そうえいばよく傍若無人な暴君タイプがオーナー社長でブイブイやってますが、多分、そういう人でも成長期においては誠実で理性的な人だったとは思います。どっかで成長を諦めちゃってから堕落老害に入るという秀吉パターンで、そこでテンションを維持してたら多分その10倍は成功できたと思いますよ。大体ですね、もっと上級な管理職レベルでいえば、あれこれ「怒っている」という時点でもう不合格でしょ。こうも多くの被害を受ける事自体、リスク管理やマネジメントがダメだってことであって、恥ずかしいことでもあるのですよ。「どいつもこいつも!」といって、バケツを蹴っ飛ばしている中小企業の社長さんがいますけど、そういう「どいつ」「こいつ」を身近配下にアレンジしたのは自分自身なんだし、それは人選ミスであり、教育ミスでもあるのであって、怒ってる場合じゃないんですよね。ま、これは上級レベルの話ですけど。
一方で中間管理職には人選権もないから、「ダメな部下」というのはもう「天災」みたいなものでしょう。「日照りの時は 涙を流し 寒さの夏は おろおろ歩き みんなにデクノボーと呼ばれ」という宮沢賢治的な状況になったりして、いやほんと、中間管理職は辛いよ、です。
話は戻って、愚痴の愚痴たるゆえんですが、(1)内容面について思うのは、事柄の当否や、どうでもいい細かさもあるとは思うけど、一番大きいのは、この「見えてない」という、幼児的な視野狭窄性だと思います。視野の小さい人の言うことって、傍から見てると滑稽ですし、またそこであれこれ「不満を表明」されても共感できない、支持できないってことでしょう。
換言すれば、愚痴が悪いというよりも、愚痴によってその人の欠点がありありと浮かび上がるところがヤバイんでしょうね。
要件(2)非生産性〜解決を目指さないこと
(1)内容よりも、さらに(2)非生産性の方が、より愚痴の「愚か」で「痴呆」な面をよく表していると思います。「それを言ったところで何になるんだ?」って部分です。他人の愚痴を聞いていてイライラしてくる原因の多くは、言ってる内容がスカタンであるという面もさることながら、どこにも出口がなく「解決しようという気がない」部分でしょう。不備、不正、理不尽に対するどんな指摘も、どんな感情も、そこに解決への道があれば、少なくとも解決しようという指向性がある限り救われるでしょう。解決=希望ですから、「状況は超シビアだけど、でも一つ一つ乗り越えていこうぜ」って話だったら、聞いててそんなに負担にならない。その「乗り越える」見通しがあまりにも甘すぎる場合は、おいおいって気になるけど、それでも愚痴ほど不愉快ではないです。
じゃあ、なんで解決する気のない話をされると、人はこんなにも不愉快になるのか?別にいいじゃん、他人のことじゃんって思うのだけど、でも聞いててつらいものがある。なぜなのか?
一つは解決する気のない不満というのは、要するに他人への恨みや、攻撃やら、羨望や嫉妬やら、自己憐憫やら自我破壊や堕落やら、、、というネガティブな感情そのものであり、そのネガティブパワーをぶつけられるから、こっちまで魂が汚されたような気がして不愉快である点。いうならば「人生の産業廃棄物」みたいなもの、端的にいえばゴミですけど、自分の顔にゴミを塗りたくられているような不快感です。
二つ目は、反則感情です。よほど悲惨で可哀想な事例でない限り、そのくらいの不満というのは、誰だって生きてりゃ持ってます。それは誰だって排泄物は自然とたまるのと同じことをで、それは人知れずそっと処理するのが礼儀なのに、なんでお前だけ他人の足にオシッコかけてるんだよ、おめーだけじゃないんだよって気分ですね。それは社会のルール違反だろ、反則だろって。こういう感情もあるでしょう。
三つ目は、甘ったれてる部分でしょう。解決する気がないといっても、普通に考えたら解決策なんかなんぼでもあります。「もうどうしようもないんだよ」って愚痴ってるけど、どうしようも「ある」、ありすぎるくらいあるにも関わらず、やる気がない。そこがムカつく。会社が地獄だというなら辞めたらええやん、結婚失敗したというなら離婚すればいいじゃん、別に封建時代の奴隷みたいに足首に鉄鎖はめられるわけでもないし、その気になったら今日にでも出来る。でもやらない、やりたくない。なんでか?といえば、不安だから、面倒くさいからでしょう。もし本当に切羽詰まって危機的状況にあるなら、溺死寸前みたいなもので、人は愚痴なんか言ってる余裕はないです。呼吸も荒くなり、喋ることすらしんどくなりますよ。だもんで愚痴言ってるってことは、ある程度余裕はあるんでしょう。余裕があるなら解決も出来るでしょう。なのにやらないのは、できるだけ苦労を少なくして果実だけ得たいという、虫のいいことを考えてるからで、その虫の良さ、甘えてる部分に腹が立つということでしょうか。
多分これらの理由で、愚痴が嫌われるのでしょう。
愚痴の必要性
そうは言いながらも、愚痴が一切ダメだっていったら、おそらく人の精神は「ひでぶっ!」っていって破裂してしまうでしょう。それはオシッコを永遠に我慢せよといってるようなもので、無理無理、絶対無理です。誰でもそれなりに「感情廃棄物」の処理は必要です。どんな建物にも、そこに人がいる以上トイレは必要であるように、なんらかの廃棄場所や廃棄方法が整備されていなければならない。それもできるだけ他人に迷惑がかからないような方法で。立ち小便はダメよと(笑)。
では、廃棄場所・方法の整備とはなにか?以下、思いつくままランダムに書きます。
飲み屋さん
まず出てくるのは、まるで「公衆トイレ」のようなパブリックな存在である飲み屋さんです。今日も赤提灯とか一杯飲み屋では、多くの人びとが感情廃棄物を投棄しています。そこでは「建設的である必要がない」という暗黙のルールがあって、出口のない、手前勝手な愚痴を思い思いに吐き出してらっしゃることでしょう。グループカウンセリングみたいなもので、辛さを皆でシェアし、勇気をみなでシェアする。しかしなんですね、バーテンさんとか飲み屋さん経営や働いている方々、僕は本当に尊敬するのですけど、大変だろうな〜と思いますよ。前職の弁護士であれ現職の海外サポートであれ、それって解決の為の存在だから楽です。煮詰まっていても、まだ前に進もうという場の機能がありますから。でもバーテンさんとか、あれだけ修行してカクテル技術を身につけても、目の前の酔客が味わいもせずに廃棄物垂れ流しているんだから、ムカつくんじゃないかなーとか思います。慣れっこなんでしょうけど。僕の知り合いの女性もスナックで水割りくらいのライトな水商売バイトをやったのですが、円形脱毛症になったとか言ってましたもん。「聞くに耐えん!」といって。
僕個人は酒席でネガな話をするのは好きではなく(ネガ話こそ素面で、全知全能を傾けてするべきかと)、名曲に心奪われるように料理や酒を楽しみたいってクチですけど、でも他人がそうすることに異議はございません。オシッコするなとは言えないし、ここで吐き出さないで、自宅に帰って年端もいかない子供にそれをぶつけるくらいだったら、今吐き出せ、もっと吐き出せ、そんなヒョットコみたいな顔で我慢してなくていいぞー、一回出したら楽になるぞー、背中さすったろか?てなくらいです。
オーストラリア来てから全然と言ってもいいくらい飲みにいかないのでオボロな記憶ですけど、三次会くらいになると面白いですよね。皆それぞれにディープな話をいって、深く頷いたりしてるんだけど、会話が全然噛み合ってないとか、極端な例になるとそれぞれが全然別の話をしているという。「あー、それめっちゃ分かるわ〜」とか言いつつ、「でね、俺の場合さー」で全く違う話になるけど、誰もそこを突っ込まないという。殆ど全員認知症みたいな楽しい時空間になりますよね。その馬鹿っぽさがいいよね。
よく冗談で、人工知能が進んで進んで殆どの仕事がAIやロボットに置き換えられていって最後に残る役職は何か?といえば「宴会部長」であるという。冗談半分でありながらも、ある意味当たり前ですよね。だって人間がやってるんだから。人間というのは「なまもの」だし、保存剤入ってないから、すぐ腐るのよねー。だから、定期的に(てか毎日)、壊れて、グチャグチャになって、翌日また綺麗に再生させないと。快食快眠快便です。精神的にもそう。
人は石垣人は城〜馬鹿話をする相手
考えてみれば、高校までってガッチガチに制約されて、家も毎日やることも、服装や髪型すらも指示されて、ほとんど受刑者か奴隷かってくらい支配されていたんだけど、それでも耐えられたり、どうかすると楽しかったりしたのは、クラスメートや友達など激しく愚痴をぶつけあう人的リソースに事欠かなかったからでしょう。教室の休み時間では「たりーな」とかいって、部室で「やってらんねーよ」とかいって、似たような(てか基本同じ)境遇の面々が愚にもつかないことを延々言ってられたからやってられたってのもあるのでしょう。「人はなぜ集団を作るのか?」という深遠なテーマがありますが、「愚痴を言ってスッキリできるから」って効能もあるかと思います。多くの愚痴の場合、一定量吐き出したら身体から毒素が抜けますから、自然と解決するようになります。やくたいもないことをウジウジ&グジグジと言ってるうちに、自分でも馬鹿馬鹿しくなってきて、自然治癒という。その意味で、友達というのは(聞いてくれる人)というのは、とても貴重です。
ちなみに愚痴がネガな廃棄物だとしたら、ポジな廃棄物もあると思います。それは例えば「他愛のない自慢話」です。これもあんまり礼儀正しい場においては言えない。「どうだ〜!」と子供っぽく自慢したくても、「すごいね、よくやったね、えらいね」って頭をなでなでしてもらいたくても、そうは言えない。だから、お金払ってでも飲み屋のお姉さまやママにそう言っていただく。
飲み屋の女性 or カウンセラー
さらに、高度(なのかな)になってくると、財界の大物が通うようなクラブで「叱ってもらう」という形態があります。外では会長と呼ばれて殿様な自分でも、そこでは「○○ちゃん」とちゃんづけでタメ口きかれて、「ダメじゃない、しっかりしなきゃ」「すごいわねえ」って言ってもらいたいという。高級クラブってそういうところですけど、なんかねー、マザコンの成れの果てというか、日本の男性社会の根本的な問題はこのあたりにあるんじゃないの?って気もしますね。これ、よくは知らないけど、韓国でもそうなんじゃないのかな。「オモニ(母親)絶対主義」は日本よりも強いというし。アジアは大体そうなのかな〜、なんか深層心理に羊水臭さがあるというか。西欧でもあるっちゃあるんだけど、薄いような気がします。愚痴をいうための飲み屋という存在はこっちではあんまりないし、愚痴の聞き役の飲み屋のお姉さまもいない。バー・メイドはいるけど、ビール運んでくるだけだからなー。そういう愚痴は虫歯の治療と同じく、カウンセリングでやるものです。精神健康に関するものは、健康という真面目な領域で処理する。そして、仕事以外のプライベートをエンジョイする、エンジョイできるように人生そのものを組み立てる、そういう人生を組み立てやすい社会システムにする。方法論的には全然違うな〜と感じるところですね。
人格オーバーホールと依存
以前「ESSAY 555/毎日ちゃんと「死んで」ますか?」でも触れたし、上でもちらと触れたけど、人間の精神健康を維持するためには、一日に一回死ぬ〜人格崩壊してグチャグチャになるくらいでいいと思ってます。僕らが公的にさらしているペルソナなんか、よそ行きの人格であり、ネクタイ締めたり、ストッキング穿いたりというある種の不愉快な無理をかけています。内心では煮えくり返っていても、「はっはっは、いいんですよ」と言わなきゃいけないし、大変です。そのまんまにしてると負担がきつくて続かない。自宅に帰ってほっとして、風呂あがりにパンツ一丁で台所をうろうろするくらいの感じでないと。エロスを生への本能、タナトスを死の本能というらしいですが、50:50くらいで適正バランスなんかもしれません。いや、よくは知りませんが、そのくらい死の本能=破壊衝動やら反社会的な攻撃性や残忍さ、終末欲求は普通にあるもんで、それなりにトリートメントしてやらなきゃいけないと。それが例えばサブカルで、反社会的な内容、悪魔的で退廃的な音楽や映画、ゲーム、漫画が求められる所以でしょう。僕個人、受験などで強烈なポジを無理して構築するからこそ、強烈な反動をロックなどで放流していたって部分があります。あれやってなかったら潰れてたかも。内容的には「ぎゃははは!皆死ね死ね死ね!」みたいな滑稽で他愛のないものなんだけど、シューティングゲームがそうであるように、ストレスきつかったら、毎日(リアルなシュミレーションで)人でも殺してないとやってらんないってことでしょ。
この部分の重要性は、個人/社会インフラの重要性として決して軽視すべきではないと思います。それを「美人はウンコしない」みたいなアホみたいな建前論で、見ないようにしたり、やたらお綺麗でご清潔でご健全な社会にしてしまったらアカンと思います。人間の精神エネルギーのサイクルの問題として、激しくポジに建築作業をすれば、同時に大量の廃棄物が生じるわけですから、静脈的なシステムも整備すべきであると。新自由主義のように優勝劣敗がクッキリ出る方法論を取るなら、社会に膨大なネガ廃棄物が生じるわけだから、静脈的なロジスティクスも整備しなきゃいけない。東京なんか、本当は、どっか場所を決めて治外法権で殺し合いもOKという場所を作るとか、少なくともどっかに制限速度なしのぶっ飛ばせる場所を作るとか。
プロのガンマンが、使用した拳銃を完全に分解してグリースで清掃していくように、人格だって一回使ったら、またバラして磨いてまた組み立てるくらいの方がいいです。その分解工程では、抑圧している感情が出てきたり、全然違う人格になったり、いわば人格が崩壊するわけだけど、そのくらいの方がいい。酔っぱらいの泣き上戸とかいますけど、カウンターでおいおい泣いてるのって、安上がりというか「整備されてるな〜、この人」って思います。普通はそこまで処理できないから、もっと別の工程で整備をします。場合によっては「人には絶対言えない」ようなこととか。例えば性的なことで、あられもない卑猥な淫語を口走って昇天とか、不倫やら変態チックやら、ストレスきつくなればまず増えるのが道理でしょう。ある意味健康的といってすらいい。
その人格オーバーホール→再構築・再起動の過程では、自分一人では成り立ってないわけですから、強烈な依存性が生じます。なにか大きくて優しい存在に、すっぽりと抱かれて、心の底の底からリラックスできるような、安心して心が全裸になれるようなもの。大人である以上、自立した存在として二本足で立っているべきですけど、永遠に立ち続けるわけにいかない。時には椅子に腰掛け、あるいはベッドに横たわらないと死んでしまう。そういう具合に出てきている。その場合、椅子やらベッドに「依存」するわけですが、そういう存在は必要であると。地球上の多くの人類の場合、それが例えば神であり宗教なのでしょう。依存するのにこのくらい頼もしい存在はないわけですから(てか、建設的に依存しやすいように最初から設計されているわけですから)。
そういった大きなネガポジのエネルギー循環工程を考えてみた場合、愚痴というのは可愛くもカジュアルな解毒浄化工程とも言えるわけで、一概に否定すべきではないと思います。いや、積極的に肯定するくらいでいいと。
ただし、排泄行為であるので、そこには一定の作法はあるでしょう。ちゃんとTPOを弁えろとか、積極的に愚痴を言える場所を探せとか、あと、「おねしょ」みたいなことになるなとか。自分の出した排泄物に自分が汚れてしまったり、寝床が台無しになったりするってことで、自分が吐いている愚痴に、自分でイヤになったり、自己嫌悪にかられたりするなってことです。「なんちゅー、醜くて卑怯な人間なんだ、俺は」とか凹んだらダメよと。醜悪なものを吐き出しているのだから、それが醜悪であって当たり前であり(醜悪じゃなかったら吐き出す必要もない)、それをしげしげと見つめて落ち込むというのはアホですよ。それが醜悪であれば醜悪である分、それが大量に吐き出された分だけ、自分は綺麗に浄化されているわけだから。清掃や廃棄という事柄の、それが本質だと思います。
文責:田村