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今週の1枚(2012/02/20)



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Essay 555 :毎日ちゃんと「死んで」ますか?

死と再生のサイクル〜「うつ」をめぐる風景(3)
 写真は、オーストラリアにあちこにあるジューススタンド。前にも紹介した記憶があるけど、けっこう高いんだけど、それだけの価値があると思います。目の前で作ってくれるのですが、人参一本まるごと+パイナップル4分の1、それにセロリ1本、それに、、と、「おいおい、どれだけ入れるんだ?」と焦るくらいてんこ盛りにしてミキサーにかけてくれます。
 いつぞや、夏の暑い時期(今年は暑くないけど)ヘロヘロになってたときに、一杯飲んだときは美味しかったです。
 あ、場所を一応言うと、Chatswood Chaseだったかな、ここは。まあ、場所はどこでもいいんですけど。



 ひきつづき「うつ」をめぐる風景です。
 毎度同じ注意書きで恐縮ですが、「うつ」という精神状態に対する医学的な知見等については「底なし沼」だから触れなません。「めぐる」ということで、あくまでその周辺を散策するに留めます。「うつ」そのものについては、「すごい気分が落ち込んでる状態」「そのために社会生活もママならなくなってる状態」くらいのアバウトにぼやかしておきます。

「自分ゲリラ」の補充

 前回、「自分ゲリラ」について述べました。若干補足しつつ、そこから話を広げます。

 生き延びることこそが至上目的であるゲリラですが、「生き延びる」といっても単に生命活動を延長させるという意味ではありません。植物人間になっても、とにかく1分でも長く延命を、ということではない。

 ゲリラというのはゲリラ「戦士」であり、そこには常に戦いが想定されています。
 何の戦い?「自分が自分でありつづけるための戦い」です。

 「自分が自分である」というのも漠然とした表現ですが、ひらたく言えば「わがままを通す」ことであり、納得できる自分であろうとすることです。

 具体例を挙げます。
 数年前に日本で新型インフルエンザが流行り、マスクがよく売れた時期がありました。そのとき、やっとの思いで就職した会社で、原価数円のマスクを1万円で売りさばくという「すごい仕事」をさせられていた方がいました。特に、年金暮らしのお年寄りなどを戸別訪問して、これは特製だから高価です、しかしそれだけに効能抜群ですよ等とセールストークを並べ売りつけるという。数ヶ月で退職したそうですが、「もう、心が壊れそう」と言っておられました。やってるうちに段々慣れてきて、心の痛みも麻痺していくのですが、その慣れていくのがまた恐い。「もう、自分が自分じゃなくなっていくみたい」と表現されていました。

 つまりはそういうことです。外部の力によって自分の「ありかた」がねじ曲げられてしまう。
 しかし、こういったことは子供の頃から良くある話です。場合によってはそれは正しい「躾」でもあるでしょうし、教育というのは多かれ少なかれ「矯正」という要素を含みます。しかしモノには限度があり、なんぼなんでもそれは出来ない!それをやったらもう自分ではなくなる!という一線は誰しもあるでしょう。

 極端な話が犯罪で、いくらお金に困っていようが、だからといって泥棒は出来ないと思う人が多いでしょう。なんで出来ないの?簡単じゃん。一生懸命アクセク働くくらいなら、そこらへんの家に忍び込んで盗ってきた方が効率いいじゃん?お金、欲しいんだろ?と幾ら悪魔の囁きがあろうとも、「いや、それは違う」という一線がある。それをやったら、もう今までの自分ではいられなくなる。そういう変り方はしたくない。そういう自分にはなりたくない。

 お金は喉から手が出るほど欲しいけど、それでも悪いことはしたくない、だから今日もアクセク働くぜ、来週は面接だぜ、ちくしょうキツいなあ、、、というのが、まさに「自分が自分でありつづけるための戦い」です。

 この戦いは、お金やステイタスが積み上がってからの方がキツくなります。昇進しました、年収も増えました。しかしストレスが半端ではないし、家庭はもう崩壊寸前。家族揃ってメシを食ったのは何年前なのか覚えていない。子供は毎日新しいアザを作って帰ってきてるし、いじめられているようだ。ヨメさんは独り言が多くなって、「うつ」の初期症状のようでちょっとマズイぞ。そう言う自分だって怪しいもんだ。ああ、この子が生まれたとき、ヨメさんと二人で徹夜で名前を考えた。幸せになって欲しいって心底思った。俺は、何をやってるんだ?こんな家庭にしたかったのか?こんな人生を望んでいたのか?ああ、しかし、ここで辞めたら生活はどうなる?ローン残高はまだ2000万円以上残っているじゃないか。今更どっか田舎でのんびり暮そうといっても、そんなことが実現可能なのか?

 −−−という場合、「自分が自分である戦い」は否応なく熾烈になります。

 ゲリラとは、圧倒的に優勢な敵に囲まれながら、それでもたった一人(ないしは少人数の仲間と)で、全知全能を振り絞って戦い、そして勝てぬまでも決定的な致命傷だけは負わず、生き延びていくことです。「到底出来そうもない」と感じられることは、周囲を敵兵に取り囲まれ、四面楚歌状態になってるようなものです。しかし、それでも生き延びるために戦う。

 この世知辛い世の中で、およそ「自分が自分らしくあろうとする」ことくらい贅沢なものはないです。それが最高価値をもっているからこそ、その代償もこの上なく高い。ちょっと気を緩めたらボッコボコにされる。ダウンしているところを襟首つかまれて、収容所にぶち込まれる。洗脳教育を受けて「誰かにとって都合の良い人」にさせられてしまう。しかし、それでも諦めない。畜生、そうはさせるか。従順な仮面をかぶり、辛抱づよく敵の油断を招き、脱走するチャンスを狙う。面従腹背。殺されるまで諦めない。それがゲリラであり、それが生き延びるための戦いです。

 ということで、「生き延びる」といっても、単に心臓が動いて、脳波があれば良いというものではない。

 なお、「戦士」と呼べばいいのになんで「ゲリラ」なのかといえば、「自分」のための戦いだからです。通常の戦闘というのは、一対一の決闘から暴力団の抗争、国家同士の戦争まで兵力がほぼ互角という前提でやります。勿論全く同じということはないけど、兵力を増やすことも戦略のうちです。しかし、この戦いは賭けるものが「自分」しかない以上、兵力の増強は論理的にありえない。自分、あるいは自分と人生を重ねてくれる限られた少人数(家族とか)しかいないわけで、最初から兵力差は圧倒的です。語るも愚かなくらい絶対不利。まともにやったら一ひねりで潰されるという。戦力が圧倒的に劣る場合の戦い方をゲリラ戦といい、少人数である小回りの良さを最大限に生かして、神出鬼没に駆け回り、大部隊を撹乱し、血路を切り開く。そう、まさに「血路を切り開く」ってところがポイントで、だからこそ「生き延びること」が至上命題になるのでしょう。

 今の日本が何となくたそがれているとして、日本国民全員を救おうと思えば、そうそう奇想天外な手はないです。正攻法でやっていくしかない。しかし、自分(+家族)だけが生き延びる(幸せになる)のであれば、話は全然違います。1億人を救うよりも1人を救う方が単純に一億倍簡単です。橋を渡る場合だって、渡るのに一人一分かかるなら、1億人渡るのに1億分かかる。一人だったら1分で済む。1億倍スピードが速い。今にも壊れそうな橋だって、一人くらいだったら一気に駆け抜ければなんとかなるかもしれないが、1億人がドドドと渡れば絶対壊れる。だからゲリラの戦略戦術というのは無限にある。

 また、これを応用すれば、世間に流布されている政治経済の記事や評論も、基本的には1億人をどうするという視点で書かれてますが、こと自分一人だけなんとかしようとするなら、全く違った読み方が出来ます。失業率が5%だとして、全員を救う視点でみれば、5%でも数百万人になるのであだやおろそかには出来ない。懸命に対策を考える。しかし、一人の視点でみれば、失業率5%というのは就業率95%ということであり、およそ95%の成功率があるなら、それはもう困難でもなんでもない。100回やって95回勝てるような事柄はトラブルとは呼ばない。もともと勝率1%を切るようなレベルで血路を切り開くのがゲリラなんだから、勝率5割ですら楽勝レベルでしょう。

 以上、@マトモにやったら絶対負けるという状況があり、しかしA小回りが利くから戦略のバリエーションも無限にあり、作戦遂行速度がとんでもなく迅速であるというメリットを最大限生かして戦うという意味で「ゲリラ」という比喩になるわけです。くどくど書いちゃったけど、まあ、おわかりかと思いますが。

補充その2〜ゲリラになるとき

 もう一点補充すると、ゲリラやってる人は、生まれてから死ぬまでずっとゲリラで、ゲリラやってない人はもう100%従順な家畜になってしまった、、、というわけではないと思います。両立&ミックスします。ゲリラであるときもあるし、ないときもあるという感じ。つまりそういうタイプの人間がいるという人間類型ではなく、ゲリラ的な気分や局面になるときもある。季節になると街角で「おでんはじめました」とか「かき氷あります」とか看板があるように、あるときを境に「ゲリラ、はじめました」みたいな状況になるのでしょう。

 たまたま持って生れた資質が、たまたま生まれた落ちた社会のシステムと根本的に馴染みにくい人は、ことあるごとにぶつかるでしょうし、否応なくゲリラ的に戦わねばならない局面が多くなる。その方向性が似通っている人は、ぶつかる機会も少なく、ゲリラになる局面は少ないでしょう。

 そうはいっても、人に個性というものがある以上、完全にぶつからないということはありえない。どっかではぶつかる。「生まれて初めて親に逆らった」みたいな出来事も出てくる。良家の子女として温順に育てられながら、あるとき燃えるような恋に落ち、大反対を押し切って駆け落ち、、なんてこともその昔はよくある話だった。封建性が強かった分、「身分的に許されない恋」が多く、「無法松の一生」なんかまさにそうですね(って知らないだろうし、実は僕も見たことはないが、国民的なお話だったらしい)。

 だもんで、どんな従順な人でも人生のうち何回かは「全世界を敵に廻して戦う」ということをするのだと思います。
 そして、そのときあなたはゲリラになる。

 また、ちょっと視点はズレますが、国家や民族そのものがゲリラと化す場合もあります。祖国を失って2000年漂泊していたユダヤ人とか、スペインのバスクであるとか、イラク北方のクルド族であるとか、スリランカのタミル人であるとか、アメリカの喉元にありながら戦後60年以上喧嘩売り続けているキューバであるとか。なんかの拍子で日本がぶくぶく沈んでいって、IMF管理も反発を招き、国内が四分五裂の統治不能になり、国連信託統治になり、やがてどっかの大国の分割統治になり、国際法上オフィシャルに「日本国」も「日本人」も完全に消滅したとしても、それでも僕らの中には「日本」はあるだろうし、世界各地で祖国再興をかけてゲリラとして戦う、かもしれない。

ゲリラになるタイミング

 で、それが「うつ」とどういう関係にあるの?といえば、思うに、戦うべき時に戦わないと「うつ」になるだろうなってことです。いや、絶対そうなるとはいいませんよ。また「うつ」の正確な定義も無視してますし。

 ほんでも、戦いってのは、あれで意外とデリケートなもので、「呼吸」みたいなものがあると思うのですよ。ピンポイントで「今!」という瞬間なり潮時があり、それは外すとなぜか戦えなくなる。一秒遅れただけで「NO」と言えなくなる、その呼吸感。

 戦うべきなのに、機会を逸し、或いはあと一歩が踏み出せず、ズルズルと不本意な方向に進み、今も尚進み続けている。どんどん底なし沼に沈んでいるようなもので、これは精神的にキツイ。おかしくなっても不思議ではないです。それが「うつ」と呼ばれる精神状態なのかどうかは人それぞれだろうけど、良くない方向であるのは確かでしょう。

 ここで引用するのが合ってるのかどうか分からないけど、北斗の拳のラオウ様もいってますよね。「小僧、恐くば俺の腕を食いちぎってでも戦え!」と。そして、「戦わねばその震えは止まらぬ」と。そう、戦わなければ震えは止まらないのだ。

 もっとも、なんでもかんでもモンスターペアレンツのように文句言えばいいってもんでもないし、ゴネ得をしろって話でもない。損得や交渉術というレベルの話でもない。ある程度の「鷹揚さ」というか、「あはは、よかよか、苦ししゅうない」という殿様みたいなメンタルもまた必要でしょう。でも、「いろいろ腹の立つ世の中だけど、まあ、のんびりいきましょう」とばかりに(それ自体は間違ってないが)、なんでもかんでも波風立てないように、ひたすら草食的であろうとするのも無理があります。表面上は波だってなくても深海ではゴゴゴと不気味に鳴動してたりするし、いずれどっかで(40歳過ぎた頃に)海底火山が噴火して収拾がつかなくなってしまう。草食の牛さんだって、闘牛のように戦うときは戦うのだ。

 だから、なんというのかな、いつでも戦えるようにレディにしておくべきなのでしょう。
 そして、同じくらい大事なのが戦場を選ぶこと。良い戦士は良い戦場を選ぶのだと思います。

 このタイミングがズレて、戦いを逸したまま忸怩たる思いが続いたり、「気にしないふり」が続いたりすると、いずれ柱に亀裂は走るでしょうね。無理なものは無理なんだもん。また、どうでもいいようなことに戦ってるのも貴重な戦力の無駄遣いでしょう。「上司が憎らしいから殺してもいいですか」とかさ、WRONG!です。職場の人間関係など行き交う旅人のごとしであり、一期一会レベルなんだから、ほっといてもいつかは離れる。また気に食わない奴はこの世に幾らでもいるのであって、いちいち殺していても駆除し切れるものではない。秦の始皇帝のような絶対権力をもって焚書坑儒で儒学者を皆殺しにしたとしても、2000年たっても儒教はますます健在。無駄なのだ。戦場の捉え方を間違っているのであり、そこは戦場ではなく道場、「波長が合わない人とどうやっていくか道場」にいるのだ。本当の戦場はもっと別にある。大体一個人がちょっと気に食わないというだけで、もう一生を棒に振ってもいいと思ってしまう視野と器量の狭さが問題であり、もっと大きく自分を育てるようなシステムや場を探すなり、構築するのが本当の戦場ではないのか、とか。

 ということで、タイミングを選び、戦場を選ぶ。戦場でないところはテキトーに流す。

ゲリラは疲れる〜再生作業の重要性

 さて、以上は補充。補充だけで終りそうだけど、実はこれからが本番。
 そういった「戦う」だの「ゲリラ」だのという緊張的な事柄とは対極にあるような話をします。

 ゲリラやるのは大変です。本気モードで戦ってるときは一秒でも気が抜けない。試合みたいなものです。はっきりいって疲れます。また、「自分が自分らしく」といっても、「自分らしく」って何よ?という問題もあります。「自分らしくありつづける」のも、これまた疲れる話なんですよね。

 僕も生まれながらの性格と、前回述べた小学校からの経緯でずーっとゲリラ的にやってるようなものですが、20年30年やっていくためには、それなりの疲労回復や代謝システムを持たねばなりません。でないと3日と続かないです。緊張感も集中力も持たない。

 ではどうやって疲労回復するのか?というと、最近なんとなく意識的に分かってきたんですけど、「毎日ちゃんと死ぬこと」だと思います。奇をてらった表現であることは認めますが、そう言うのが一番わかりやすい。

 万物は循環してるので、ちゃんと生きるためにはちゃんと死ななきゃねってことです。春に繚乱の花と新緑を芽吹かせるためには、冬にはちゃんと枯れ木にならなきゃいけない。一回キチンと死ぬからこそ、その後の再生もまた瑞々(みずみず)しい。

 カッコよくいえば「死と再生のサイクル」です。ここに一連のサイクルがあり、「死」ないし死に類する状態がそのサイクルに組み込まれているのであれば、それも大事なイチ過程ですので、馬鹿にしないでちゃんとやるべし。

 わかりやすく具体的に言えば、例えば「睡眠」です。
 単に「寝る」とか大雑把なことではなく、「全力で生きる」熱心さで「全力で寝る」。睡眠というのは一種の「死」だと思うのです。考えてみれば、睡眠というのは実に不思議な現象で、完全に意識を失うわけです。外界への対応力が限りなくゼロになる。覚醒時においてそんな状況=失神や意識不明になるのは、想像もつかないようなショッキングな事態に出くわしたり感極まったり、相当のことが起きないとならない。生き物の生存本能からすれば、たとえ1秒であれ意識を失うことは、防衛力がゼロになること、端的には死を意味する場合もある。だから本来ならば「あってはならない」状態でしょう。にも関わらず人間は1日の3分の1か4分の1くらいの時間、眠って意識不明になっている。人間に限らず動物は大体そうです。てか猫とか見てるとメシ食ってるとき以外は大概寝てる。

 そんな防衛力ゼロになるような危険極まりないことを、なぜ動物は長々とやるのか?それも毎日。自然のやることですから、それには必ず合理性があるだろう。つまり、そのくらい寝ないと「生きて活動する」という行為が出来ないのだろう。逆に言えば、覚醒時にあれこれ動き回るということは、そのくらい心身に負担のかかる激しい行為なのだろう。F1レースのように、一回走ったら、いや一回の途中ですらタイヤがボロボロに摩耗するくらい過酷なことなのだろう。それだけハードなことをやっているのだから、危険を冒してでもそれだけの長いピットタイム、調整期間がいるのでしょう。

 ここまでだったら「睡眠は健康のために大事です」というだけの話です。でも、それだけだったらここには書かない。もう一歩先があります。

対極に振れる〜自分が無くなる

 同じ寝るにしても「眠り方」というものがあるだろうし、また必ずしも「睡眠」という形を取らなくても良いのだろうということです。寝るときはリラックスして、心と身体の緊張を解いて、、と言われますが、「リラックス」ってどういうことなのだろう。

 つらつら思うに、それがサイクルである以上、出来るだけ対極に振れれば良いのだろう。夏の対極に冬があるように、動の対極には静がある。では「ゲリラ」「戦い」の対極にあるものはなにか?それは単に戦わないとか、休んでいるとかいうレベルではなく、もう一段深いところです。

 「自分が自分である」ために戦っているなら、その対極は「自分が自分でなくなる」ことだろう。「自分はかくあるべし」という制約を思いっきり外して、「自分らしくなくてもいい」となり、さらには「自分なんかいない」「自分、無いし」くらいまでいくべきなんじゃないかと。ふと、そんなことを考えたのですね。

 僕は、人間の精神的な実体というのは、本来アメーバみたいなものだと思ってます。全然論理的でもないし構造的でもない。あれこれの感情や記憶が無秩序に散乱しているだけで、形もブヨブヨで、いくらでも変形するスライムみたいなものなのだろうと。それでは現実世界に適応できないので、世間に出かけていくときは、一気に体系づけ、ヒエラルキーを構築し、ビシッと整列して、ザッザと進軍するのでしょう。僕らが自分の「人格」と呼んでいるのは、あれは一種の「陣形」なんだろうなと。だから、その対極になるのは、原始アメーバ状態になることです。自我なんて無い。

 実際、睡眠時の夢の世界はそのくらい曖昧でしょう?「なんでそうなるの?」というくらい論理則や経験則を無視しているし、「自分らしく」どころか自分が映画や漫画の主人公になってたり、第三者の目で自分を見てたり、性別が違ってたり、ひどいときは自分が存在していないで、単に俯瞰で物事が進行しているを見ているだけという場合もある。あれが本来の姿だと思うのですよ。

 そしてそれはアメーバーがそうであるように、限りなく自然の状態に近い。原子と分子がたまたまの規則性でへっついてるだけみたいな感じ。僕にとっての「死」は、あの世界、原子と分子の世界に帰ることです。出来る限りその境地までいく。全てのネジを取り外し、全ての部品をバラし、完全に分解し、溶鉱炉に入れてドロドロに溶かし、またゼロから精錬して、金型に入れて部品を作り、組立てて、新品同様にする。それが「死と再生」であり、ちゃんと生きるためにはちゃんと死ななきゃならないということの意味です。

 だから、真の意味での「休養」というのは「再生」レベルまでオーバーホールすることだろう。睡眠でいえば、意識を失った段階で一回そこで断絶する。昨日の俺と今日の俺は別人、くらいにキッチリ断絶する。

 この再生過程が中途半端だと、昨日との連続性が残ってしまい、ひいては前世(前日)のしがらみや疲れが残る。だから睡眠時においては、もう徹底的に自分を壊す、、というのは正しくないな、「溶かす」というのが近いかな。もう「なんだかわかんな〜い」状態にする。覚醒時においては、ゲリラとして全力で「自分らしく」あろうとするけど、休養時にはその反動をしっかりとって、全力で「自分らしさ」をブチ壊し、ドロドロに溶かす。もう意識的に自己解体していく。

 さらにこれを徹底すれば、「自分が誰か分からない」とかいう生ぬるいレベルではなく、自分は人間ですらないと思う。これ、結構簡単に思えるようになります。そうなると、自分とは何らかの「自然状態」であり(池の波紋みたいな)、ついには状態ですらなくなる。風に帰り、大地に帰り、存在そのものになり、ひいては存在すらしなくなる。それ、すなわち「死」です。

 これ、疲れ取れますよ。必要に迫られて身につけた方法なのかもしれないし、こうやってコトバにして言い表せるほど自覚的になったのはつい最近だけど、気づいたら昔からやっていた。僕の好きなブランキージェットシティの"soon crazy"という歌詞に「裸になっても、まだなにか着ているような気がするんだ」という名文句があるのですが、まだ何か着ているような気がする「服」すらも脱ぎ捨てていく。覚醒時はガンダムみたいに完全武装しているだけに、休養時は全部脱ぎ捨てる。自分を取り巻くありとあらゆる自覚も責任も倫理も「知らんもんね」でシカトする。「俺、人間じゃないし」「俺、存在しないし」って。ああ、なんて気持ちいいんだという(^_^)。

別に「睡眠」でなくても自己解体はできること

 分かりにくいだろうから重複を恐れず、もう一回書きます。

 原理が上のようなこと(自己解体)であるならば、別に「睡眠」という形を取らなくたっていいです。
 もちろん身体肉体的には、「横たわる」という姿勢が大事でしょう。筋肉骨格内臓にとってもっとも負担にならない態勢で一定時間静止し、細胞内の代謝をやってもらう。酸素を満載した新鮮なヘモグロビン。これらを赤血球部隊に「さあ、メシだぞ〜」と数十億ある体内細胞を個別配給してもらう。ゴミ出しもキッチリやって、腎臓や肝臓でせっせと化学分解して貰う。

 でも精神はまた別です。「内臓としての脳」は酸素をドカ食いする燃費悪構造らしいから、上の内臓的な休息は必要だと思うのだけど、ソフトの走り方としては、無駄な記憶を選別したり統合したりというデフラグをやって、さくさく走るように調整してもらう。エセ科学的な説明を無理矢理つけると、人間の身体というのは同じポーズを延々続けていると緊張が慢性化したり硬直したりして良くないそうなので(肩凝りになるとか)、ほぐさないといけない。脳内ソフトでいえば、同じポーズ=すなわち同じ「人格」「戦う姿勢」「自分らしく」を長く続けていると宜しくないので、これらを一回壊す。ほぐす。

 だから精神においては、睡眠という形でなくても、「全然ちがう自分」「思いっきり自分らしくない自分」になったりすることで、結構リフレッシュするのだと思いますし、実際リフレッシュします。
 「気分転換」って言ってしまえばそれまでですが、それを徹底的なレベルでやる。「転換」ではなく、完全に解体し、再度組立てるくらいの気合でやる。全ての呪縛、全ての倫理、全ての「かくあるべし」という、これまでの「陣形」を崩す行為であれば、それなりに効果が見込めるはずですし、実際そうなる。

 睡眠以外で「自己解体」をする方法は多々あります。もっと世俗的でわかりやすい表現でいえば「馬鹿になる」ことです。僕も、ストレスの厳しい法曹界に入った頃、いつもは謹厳実直で誠実さが服を着て歩いているかのような先輩諸氏が、飲み会になると、「うぎゃ〜」「けけけ」とモノノケのようになるのを目の当たりをして、「なるほど、そういうことか」と納得したものです。

 僕の依頼者から聞いた話では、バブルの最盛期、ヤクザからトイチでお金を引っ張って地上げやってた人は、遊びとなると一晩に1000万使うとか。話半分の眉唾だけど、ソープランド一軒借り切って、二輪車どころか27輪車(27人の女性を全員並べて一度にセックスをするという大ハーレム遊び)をやったとかやらないとか。でもそのくらい馬鹿やらないとストレスで発狂するとか言ってましたね。ヤクザ恐いですからね。10億円引っ張って、1日返済が遅れると利息が1億、毎日利息が1億づつ増えるわけですから。見事契約成立で転売すれば10日かそこらで数億円儲かるけど、話がまとまらなかったら返済できず、指どころか腕一本持っていかれる。

 僕自身、受験でストレスかかりまくってた時期になるほど、必死こいてギター弾きまくってました。好きなアルバム全曲完コピして、大音量で流して一緒に弾く。真冬で汗だくになるくらい。あと、勉強のための大学の研究室(サークルみたいなもん)は、恒例で、真夏のクソ暑い頃になると、一番暑い昼下がりに誰もいないキャンパスのグランドに出て、千本ノックやってました。もうか〜なりハードで、皆も途中でうずくまって吐いてましたもんね。でも、そのくらいやると勉強ストレス発散できます。

 これらに共通するのは、身体や別の精神を使うこと、それも極限レベルでハードに使うことで、ガチガチに凝り固まった精神の「構え」みたいなものを無理矢理ぶち壊すことです。ストレスきついと構えもキツイですから、通り一遍では崩せません。正座しすぎて痺れきった足みたいで、動かなくなる。だから土木機械のユンボみたいなものでガーンとぶち壊す。特に肉体的なものがいいです。前にも書いたけど、リトル・トリーだっけな、インディアンの有名な話で、両親を事故死で亡くしてしまった少年を引き取ったインディアンのおじいちゃんが、幼い子供を夜中まで歩かせて家に連れて帰るくだりがあります。「何かを失ったときは、くたくたになるまで疲れるのがいいのさ」と言う。これは真理だと思いますよね。心が疲れたら、同じくらい肉体も疲労させてやるといい。てか、バランスが悪いのが何よりも問題なので、意識的に心と身体のバランスを取る。もっと洗練された方法はあるんでしょうけど(ヨガとかさ)、僕らは野暮天だから、千本ノックとかやってたわけですよね。

 でも、一旦そうやって完全に壊してしまってから再生すると(再生そのものは2−3分ですぐできる)、あとはメチャクチャはかどります。

ちゃんと死んでますか?

 ということで、これも「うつ」に関係すると思うのですが、夜眠れないとか、疲れが取れないとかいうのは、要するに「ちゃんと死んでない」んじゃないかと。全てがそうだというわけではないですが、なんか、また、どっかでカッコつけてませんか?どっかで呪縛かかってませんか。

 それがサイクルである以上、自転車の車輪のようなもので、スポークも軽やかに健康にコロコロと廻しましょう。途中で「ぎ!」とひっかかってるとうまく廻りません。

 今、睡眠と肉体酷使の無理矢理解放を述べましたけど、こんな方法はいっくらでもあります。

 例えば、あなたが日頃、実直で誰だからも愛されるキャラをやっている場合、抜くときは思いっきり邪悪な魂になってください。デスメタルの黒いコスチュームで大音量で聴きながら、ヘッドバンキングしながら「ぎゃははは、皆、死ね!死ね!一人残らず皆殺しじゃあ!うきゃ〜!」と叫んでてください。

 リビドー系は最大の癒しになりますので、セックスも、それに付随する周辺行為も、遠慮無くやるように。変態熱烈歓迎です。てか、ストレスの高い真面目な国民性の反動なのか、既に日本の性風俗はその変態性においてブッチ切りで世界の最先端いってますから。でもそれは恥ずるべきではなく、誇らしく思うべきなのだ。そもそも生物界においては、「生殖を目的としない性行為」は全て言語道断の変態行為なのだから。構うこたあねえから、どんどんいっちゃってください。俺が許す(ってそんな権限無いけど)。昼間は丸の内のキャリアOLだったり、田園調布の良家の奥様だったりしながらも、夜は扇情的なファッションに身を固めて男漁りをするとか、いいですよね。「よいご趣味です」と申し上げたい。昼間は高級官僚だったりガタイのいいマッチョなあなたが、夜には女装娘になってたりとか。それも渋い趣味ですよね。それが、バッタをみると感じてしまうバッタフェチとか、スイカとタネの赤黒ブチブチを見てるとクラクラとエクスタシーに達するスイカフェチとか(ないってそんなもん)、あなただけの「死に方」をゲットしてください。

 なんか段々メチャクチャ言ってますけど、感じはわかると思います(わかるのか)。

 心理学的にも代償行為は必要です。これも小説からの引用だけど、山田正紀の小説で、心理カウンセラーをやってる女性が、深夜風呂上がりに全裸のまま、誰が見てるかわからないベランダに佇む習癖があり、それは日頃他人の心の中の「のぞき」をやっている漠然とした罪の意識を補うため、自分ものぞかれる(かもしれない)という儀式的な「罰」を与えて平衡を保つという。

 人の心は難しいです。複雑です。僕に言われるまでもなくあなただってご存知でしょう。理屈だけでやってたらバランス取れない。日頃、まっとうに生きよう、感じの良い、常識的で、責任感のある立派な人になろうと思うのであれば、休養時には思いっきり対極に振れたらいいです。立派な人物は休養しているときも立派に休養しているかのような「おとぎ話」に騙されて、罪の意識を背負うことはない。コツは、どんなことにも囚われないこと。徹底的に自由になること。いかなる意味でも我慢をせず、カッコもつけない。「自分なんか存在してない」くらいに。「死」と同じくらいのレベルで自由になる。

 本当にやり方は幾らでもあります。別に何かの「行為」でなくてもいいです。頭のなかで妄想するだけでいいです。「こんなことを考えるなんて、私ってもしかして悪魔?」と思わないでいいです。幾らでも、仕事中でも、接客中でも、猛悪貪婪暴虐澆薄淫奔卑陋な妄想に耽って結構です。人間はテレパシーの能力がありません。それは神様がくれた、「それで精神のバランスを取りなさい」という福音なのでしょう。だから何を妄想してくれても結構。

 なんでこんなしつこく言うかというと、この技を沢山持っていれば持っているほど良いことがあるからです。技が豊富にあれば、心のバランスも取りやすいし、同じ「うきゃ〜」をやるにしても、他人に迷惑のかからないような方法でやる術も増えます。この持ち技が少ないと、どうしても人に迷惑をかけがちです。酒癖が異様に悪くなったり、深夜周囲に迷惑掛けたりに始まって、溜まり溜まって犯罪に走ったりする。それもふらふらと痴漢をしたり、近所の猫を殺したりから、ついには通り魔になり、津山事件のようになる(一晩で30人の村人を一人で殺して廻った昭和13年の事件)。せっせと持ち技を増やし、大技小技とりまぜ、臨機応変にいつでもどこでも出来るように。ストレスというのは借金と同じで、一定額を超えたらもう返せなくなる。自己破産するしかなくなる。溜まらないうちに、ちょっと昼飯代を借りたというレベルでもうチャッチャと清算していくこと。

 ということで、今日もちゃんと死んでください。

 ちゃんと死ななきゃ再生できない。
 振り子の振幅の原理でいえば、一方の極に振れたら、同じくらいの振り幅で反対側に振れなければならない。反対への振り幅が小さいと、だんだんと振り幅そのものが小さくなっていく。するとどうなるのか?それが「うつ」なんじゃないかな?って、ちらっと思ったりもするのですよ。感情の振幅が小さくなっていく。あるいは余りにも一方向に固定しているから、伸びきったゴムのように弾力がなくなる。最後には無反応になって、生きてんだか死んでんだか状態になる。

 そして「ゲリラはじめました」のあなたの場合は尚更です。
 今日ちゃんと死んでおかないと、明日ちゃんと戦えないです。
 休養不足でフラフラしてて生き残れるほど、そんなにゲリラ戦は甘いもんじゃないです。全世界を敵に廻すんですからね。



文責:田村



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