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今週の一枚(2015/12/21)



Essay 753:「お金」の方が使いにくい

世界的に静かに広がる”非”通貨・バーター取引
等価性に対する納得

 写真は、North SydneyとNeutral Bayの境あたりの”谷”みたいなエリアです。エアポケットのような緑豊かなところで、意外と穴場。

 あー、ここでベンチに寝転がって本でも読んでたら気持ちいいだろうな〜という、サンクチュアリーのようなベンチが、いたるところにありますよ。だーれも来ないし、風景気持ちいいしって。

資本主義がなんか違う

 なんか段々腹立ってきた、、、て感じの今日このごろです。

 いや、誰それが気に食わないとか、政府がどうのとかそういう”小さな”レベルではなく、もっと大きな世の中の仕組みのようなものに対してです。例えば資本主義経済であるとか、例えば貨幣”絶対”制度であるとか。


 発端そのものは些細な日常的な光景です。
 日本でもオーストラリアでも、お気に入りのレストランとかお店があります。いわゆる「良心的」と呼べるような経営で、値段はリーズナブルだけど、質が非常に高い。そして何よりもやってる人が楽しそうで、好きでやってるんだなあ、だからこんなにあれこれ研究したり思いついたりできるんだよなあって。

 わあ、いいところを見つけた!と喜んでたら、いつのまにか閉店。がちょーん!となるという。こんなのが多すぎ。結構人も入ってたはずなんだけど、それでもダメ。まあ、理由はいろいろあるんだろうけど、大きくはやっぱり経営が成り立たないんだろうなあ、それが一番大きいんだろうな、と。

資本主義と自由主義の正当性〜みんなで決めたほうがまだマシ

 しかしですね、資本主義や自由主義経済というのは、「良い物をよりリーズナブルに」提供した人の勝ちってゲームじゃなかったんかよ?という根本的な疑問が出てきます。それこそが健全な市場原理、優勝劣敗のシビアな競争原理でありながら、そこでの優劣の基準は質的に良いもの=人々の幸福により大きく寄与するもの=が「優れている」とされるんじゃなかったのかよ。そこに資本主義の正当性があったのではないか。

 もっとも資本主義というのは、発祥&勃興時のイギリスを見ればわかるように、とてつもなく非人間的な地獄ワールドを作ります。世界史の教科書に出てきたので覚えておられるでしょうが(てない?)、1日18-9時間の炭鉱労働に年端もいかない(8歳くらい)子どもや女性が働かされ(小柄なので炭鉱に入って行きやすいから)、過酷な重労働ゆえにバタバタと衰弱死したり、劣悪な労働安全環境だから事故でまた死んだり。平均睡眠時間4時間以下で19時間労働で、5分でも遅れたら「クォータ」といって賃金を4分の1に減らされた。もう「生きてる方が不思議」ってくらいです。でもって、人々の血を啜るようにして大資本家だけが肥え太っていく。この地獄を見ていた髭面の青年カール・マルクスは「なんか違うんじゃない?」と疑問になり、やがて「資本論」を書き、盟友エンゲルスとともにマルクス・エンゲルス主義と呼ばれ、後世の共産主義の流祖になった(つーか誰もが普通に疑問に思ってたし、マルクス前でも社会主義はよく言われていたけど、理論的に完成度をあげたのがマルクス、エンゲルス)。

 というように、資本主義というのは、元来が放置してたらそこまでいってしまう。人間というのはそこまで冷酷で強欲になれる。富める者はますます豊かに貧しい者はますます貧しくという弱肉強食や格差の極大化を本質とするシステムであるから、そこには労働法による保護やら、市場で暴君として振る舞うのを防ぐ独禁法など多く「修正パッチ」があてられました。そんなパッチを当ててまでなぜ資本主義を温存させたかといえば、そこには自由市場という代えがたい良さがあったからでしょう。

 共産主義がなぜアカンかったかといえば、この自由度がないからでしょう。善良&優秀な人民の代表者や中央官僚が皆のためにダンドリかませばいいじゃんってことですけど、致命的な欠陥は善良で優秀な人ばっかではないこと。仮に善良で優秀であったとしても段々「お代官様」的になっていってしまうこと。なんのことはない、大資本家が国家中央官僚・政治家にすげ変わってるだけのことでしかない。つまり資本主義がアカンというよりも「人間」そのものがアカンと。人間には、他の人間総体の幸せをMAXにもっていく能力、幸福の最適化を実現する能力がない、そこまで優秀でも善良でもない、言ってみれば人間なんか出来損ないであると。理想を思い浮かべる能力も善良さもあるけど、その通り実行する能力はない。

 人間、ダメじゃん!ってことになって次善の策のように認められているのが自由市場だというのが僕の理解です。極く小数の人間が全体を決めるというのは、何をどうやってもどっかで破綻する。失敗もすれば腐敗もする。少なくとも全てが上手くいくようにはならないうえに、そうなったときのリカバリーが難しい。だったら、極く少数のエリートと呼ばれる人間ではなく、全員が少しづつ決めればいい。高くて劣悪なものよりは、安くて優れたものが好まれるから皆それを買う。人々の幸せを増進させることをした人間(優秀な商品を開発販売した人)が、それだけ富をゲットし、優遇される。この一種の経済的直接民主制みたいなもの、一回一回の購買活動そのものが投票行為になっているというシステムの方がまだマシであると。

 いや、僕もそう思ってましたけどね。まあ、これ以上の方法は思いつかないしね、と。そりゃ完璧とは程遠いから、広告代理店な巧妙なメディア戦略に乗せられ、欲しくもないものを買わされ、それで生活破綻したとしても、それは自業自得でしょ。少なくとも数年に一回の選挙のときに択一チョイスしか与えられないのに比べてみれば、毎回毎回の出費の際に自分の方向を修正する機会もあるわけだし、自由な論評も世間に出回ってるわけだし、まだええやん、と。



こんな小道もあったりして、歩いてて楽しいっすよ。

伸びしろないからルールが変わる

 でもなー、そうとばかりも言えんよな、とこの十数年、事あるごとに思ってきて、だんだんムカついてきたというわけです。

 何がアカンのかな?というと、これは比較的最近気がついたんですけど、一つにはもう商品開発の伸びしろが乏しくなってきたからじゃないかと。画期的な新製品を作る余地が無限に広がっていたなら、どんどん優秀な商品が世に出るし、未来は真っ白だから新規参入もしやすい。ところが、いっときの家電製品みたいに、そこまで画期的な商品というのはもう出にくい。少なくとも今のライフスタイルを前提にする限り、それほどバコーンという飛距離のある画期性は思いつかない。

 つまり「より良いもの」そのものの余地が枯渇しつつある。
 そうなると、よく考えたら殆ど何の進歩もないんだけど、でも買わせる方向、いわばセコい戦略的なことが上手なやつが勝つ、という具合にゲームのルールが変化してきてないか。これはちょっと前に述べたEssay 745:新 "不" 自由主義経済〜要するにセコいだけじゃんと重複しますが、細かな規則(手数料とか)をいじって広く浅く収奪してみたり、よく考えたら進化というよりも劣化だったりするものを、さも素晴らしいものであるかのようにメディア洗脳してみたり、ひたすら新規参入を拒んで業界利権を守ることに汲々としてみたり、政府官僚におねだりして保護してもらったり、下請けや従業員を徹底的に搾取してみたり、さらには「それだけはやっちゃダメでしょう」ということ(安全的に違法レベルなモノを激安購入とか)をやった奴の勝ちだったり。

 なるほど、そうかも、と思うようになってます。マラソンに例えれば、早く遠くまでいった奴の勝ちというシンプルなルールだったんですけど、ある地点から先は土砂崩れかなんかで行き止まりになって、もう走れなくなった。そうなると早くも遠くも出来なくなるので、ランナー同士の殴り合いとかヘンテコなルールで勝敗が決まるようになるというか。

蛇の生殺し的な生煮え

 まあ、本当は無限に伸びしろはあると思うんだけど、その伸びしろを開発するためには、ある程度社会そのものを変えたりしなきゃいけないから、従来の既得権層が抵抗する。本当ならそんな抵抗、ドドドと流れる新しい奔流の前には、しょせんは蟷螂の斧で押し流されるんだけど、でもそこまで新しい流れが「奔流」になっているわけでもない。まだチョロチョロ。奥入瀬川の渓流とか、水源地の岩清水くらいのもんでしょう。例えば、原発やめてニューエネルギー開発の方が儲かるぞってなり、それも圧倒的にそうなれば、資金もじゃんじゃん集まるし、日に日に強力になるから、いわゆる原発村なんかダムに水没する過疎の村のようになるはずなんだけど、そこまで新しい波が強いわけでもない。まーね、資本主義そのものだって、それが一般化するまで結構長い時間かかってますので、そうそう一気に話が進むわけはないんですけど。

 だから蛇の生殺しみたいな感じで、どっちつかずの生煮え状態でウジウジやってるのが今の世界経済なんだろうなーと。やることないから、てっとり早く金を稼ぐのは、資産投資という名前のバクチだったりして。それっとばかりに猫も杓子もやるから、バブルがふくれて、弾けてリーマン・ショック。それで懲りたかというと全然。だって他にやることないんだもん。これをやってれば一気に億万長者さ、ギャハハハ!というほど新しい波がないから、有り余る膨大な資金のやり場に困って、また同じようなことをするしかない。だからもう先はミエミエで、あとはいつどうやって崩れるか。マッチ棒を積み上げていつ崩れるかゲーム、満々と水を入れたグラスにコインを入れていっていつ表面張力が崩れるかゲーム、みたいで心臓に悪いです。ここまで積み上げてしまったら、いざコケたら、なんかマジにヤバそうで、預金封鎖とか取り付け騒ぎとか。まあ、僕はもともとそんな持ってないので、そんな心配せんでもいいんですけど、無傷はすまないだろうし。

 

エネルギーの無駄ちゃう?

もう、めっちゃ〜

 ヨーロッパの若年層の失業率はすごいと言われてますし、韓国や日本もそこに向かっているでしょう。朝からジョブセンターやら、ハロワに並んで、結局収穫ナシ。レジュメや履歴書、送って送って梨のツブテ。アナクロというか、惰性というか、古式ゆかしい神社の神事のように未だに新卒採用だけはやってるけど、一般にはよろしくない。いくら労働者が増えましたっつっても、低賃金のマックジョブだけがどんどん増えて、正社員がガンガン減ってるだけだから、要するに全体としては劣化している。一つのマックジョブだけでは生活成り立たないから、2つも3つも掛け持ちする。だから統計上は職が増えたり失業率が改善されたかのように見えるだけ。

 これ、めっちゃ無駄ちゃう?と素朴に思ったのでした。

 大量の人々が、朝から並んで待ってる時間とエネルギー、何度も履歴書書き直してる労力、そのエネルギーの総体たるや莫大なものでしょう。その莫大なエネルギーをこんな非生産的なことに費やしている。それもやってて楽しい享楽消費的なことだったらまだしも、やればやるほど精神をむしばむようなこと。ちょっと引いてみると、膨大なエネルギーを傾注して病気になってるような。皆で寒中水泳やりまくって、皆で風邪引いてるような。

 アホちゃう?と。いや、やってる人々ではなく、状況っつーか、システムそのものがアホちゃうかと。

 そんなエネルギーがあるんだったら、皆で畑でも耕したり、お互いにマッサージやって互いに疲れを癒やしたり、公園のゴミ拾ったりとかさ、なんぼでも生産的な使い方があるんじゃないか。

レント高すぎ

 レストランが潰れるわけもわかります。オーストラリアの場合は一にも二にもレント(家賃)でしょう。もうアホみたいに不動産価格あがってるから、高く買った人はその投下資本を回収するために高い家賃で貸しに出す。しかも、これは数年前に見聞した話ですが、こちらの不動産屋も巧妙、つか悪辣で、最初から高くするとテナントつかないから初年度は激安にする。そしてそのテナントが客をつけてきて、今更引っ越しするのも大変だなって頃になってドカンと家賃を上げてきよるから、もう青息吐息になる。とても良かったレストランが、ある日を境にぐっと質が落ちたりするのがよくあるけど、あんまり非難する気にもならんのですよ。ああ、大変なんだなあって胸が痛くなるくらいで。

 しかしね、そんな投資目的で不動産買って、それで高くレント取って、それでまあGDPは増えるでしょうよ。でも、それって皆の幸福増進に役立ってるのかよ?っていうと、逆じゃないか。これ、日本のバブルのときもそうだったんですよ。やたら地価があがるから、それまで地道にいい商売してきた人も浮足立ってきたりする。ひとつモノ売って利潤が30円とか、一日頑張っても差し引きの利益が数千円とかシコシコやってるよりも、売ってしまえば億単位に転がり込んでくる。賃借権だけでも数千万の値打ちがつく。狂いますよね。また、どんどんテナント料が上がるから、自分で起業して店出そうとしても、最低でも3000万はいるとかになったら、もう無理です。いくら優秀な腕とアイディアがあっても、実現できない。サラリーマンやるしかない。やってる間に擦りきれて、気がついたら中高年でリストラされてる。

 腹立ってるのはココです。
 なんでさー、皆にとっても良いこと、本人もまたハッピーなことをやってる人らが優遇されないの?いや優遇はせんでいいけど、少なくとも努力と内実に見合った結果がなきゃ嘘でしょう。こんなんじゃ誰だってやる気なくなるよ。

 本当にいい店やってたり、いい仕事してる人、世の中に沢山います。世の中捨てたもんじゃないな〜ってほっこりするような、本人もハッピーならお客さんもハッピーという、お伽話みたいな話はリアルに実在します。頑張ってる奴いっぱいるのだ。なんで彼らが割を食わねばならんのだ。


この濃密な緑がいいです

通貨制度の行き過ぎ

 で、何があかんの?と掘り下げていくと、別に投資目的で不動産買ってる人が悪いわけでもないと思う。中国人がガシガシ不動産買い漁ってるから、僕らのシェア代もあがるのさ、テナント料も上がるから語学学校の学費も毎年毎年上がるのさ、あいつらのせいだ、とも思わんです。日本人だって、バブルの頃は大京観光系でゴールドコーストか買い漁ってたもん。彼らは彼らで切実なんでしょう。中国だって、国に金置いておいたらいつ国家に没収されるかわかったもんじゃないかもしれないし(リアルにはわからんけど)、僕だったら怖くて海外資産逃避しますよ。せっかく死ぬ思いで稼いだ金、取られるくらいならなんかしますよ。

 だもんで、そういうシステムがあること自体は別に否定はせんし、ここで僕が否定しても現実は1ミクロンも変わらんのもわかる。じゃあどうすべ?というと、複数のシステムを同時並行で走らせればいいじゃんって思うのです。

 逆になにがアカンのかといえば、通貨制度の「行き過ぎ」だと思う。

 生きるために必要な物資や環境はたくさんありますが、昔はこんなの全部家族だけでやっていたか、少数人数の村でやっていた。手分けしてやったほうが効率いいからであり、あの頃の人類知では必死に効率をあげないとすぐに死んでた。農業だ〜っつっても、間違った土壌に間違った作物を植えて間違った育て方をしたら全部枯れてしまって全員餓死。そんなの沢山あったと思う。だから効率や生産性というのは命がけの課題だったと思います。

 それがどんどん知識技術が広がって、こんなの一人で全部身に付けるのは無理だから自然に分業になって、余裕ができれば活動範囲も広がって、そこであれこれ交換が行われるようになった。最初は効率悪悪の物々交換だったんだけど、通貨という超便利なものが出来た。通貨は腐らないし、普遍的な価値を持つから、物々交換の間にワンクッションを入れて、なんでも交換可能にした。通常小さくて軽いから遠くまで持ち運びも出来る。便利なことこの上ないです。

 現在では通貨制度がスタンダードになってますけど、でも、それが行き過ぎてしまったと。
 つまりどんな生活物資や必要なものをゲットしようとしても、かならず先に「お金」を得ないといけなくなった、という点です。

 本来が補助的な役割だったはずの通貨が圧倒的に支配するようになってしまった。一方では商品や労働力やエネルギーはある、他方にはそれを欲っしている人達もいる、だけどその交換が「お金」という媒介を通じないと出来ないから、みすみす無駄になってなってないか。

 つまりお金を稼げないと成り立たない、商業的に成功しないとその存在が認められない。だけどその「商業的に成功」ってのが、これだけモノやサービスが満ち溢れてしまっては、中々に難しい。さらに投機や投資、政治腐敗などによって、儲かるものも儲からなくなり、結果的に皆のお金が減り、購買力が減り、さらに商業的成功が難しくなり、、という悪循環。

 なんか、これ、通貨がちゃんと「媒介」してないではないか。かつては万能ツールとして有用だったのに、今はそれが足を引っ張ってるんじゃないか。

昔からある非通貨的バーター取引

 実際にも通貨を媒介としてないバーターはあります。日本的クラシカルな意味における「貸し借り」の概念なんかもそうです。あのときは助けてやったから、今度はちょっと無理を聞いてくれとかね。モノではなくサービスの交換ですけど、サービス業である第三次産業が世の大半を占めるようになっているのだから、お金を媒介としないバーターといっていいでしょう。

 あるいはバックパッカー宿におけるフリーアコモデーションもそうです。本来なら、清掃のバイトを探して→働いて→お金を稼いで→宿泊料を払って宿に泊まる。宿主の方は客を集めて→泊まらせて→宿泊料を稼いで→そのお金で清掃業者を雇って掃除をしてもらう。面倒くさいじゃん。一体どんだけ無駄な手間が多いか。だったら、宿の雑務をやってくれたら無料で泊めてあげるよってした方が遥かに手間いらずです。

 ここで不況の波が押し寄せて、自由(≒貧乏)旅行者は、清掃のバイトを探そうにも全然見つからず。清掃業者そのものがバタバタ倒産してる。しくしく泣きながら公園で野宿続き。ほとんどホームレス。片や宿側も、お客が減って左前になって、清掃も行き届かない、利用客が少ないからますます陰気な雰囲気になってさらに客が入らず、結果的に潰れてしまいました、ではアホみたいじゃないですか。なんでそんなアホなことが起きるのかといえば、なんでもかんでもお金を媒介にするからでしょう?また、実体経済はうまく廻っていても、どっかの世界バブルがコケた影響で恐慌っぽくなって、それでドドドと押し流されて大不況とかになったら、何をどう頑張ってもダメってことじゃないですか。

 そんな馬鹿馬鹿しいこと止めたらええやん!ってことです。いや別にお金を否定するつもりはないし、便利であることは変わらないんだけど、でも「なんでもかんでも〜」って部分がネックになってるんじゃない?そして今までも、必ずしもお金を媒介とせずにブツが動いている例はなんぼでもあるんだから、もっと増やしていけばいいじゃないか。

 これまでも実際にWWOOFにせよHelpexにせよ同じことをやっている。インターンシップやら、apprenticeship(徒弟制度)やら、なんちゃらシップ系は、仕事を教えるという教育効果の対価として賃金がゼロないし低減されているけど、そこにはバーター的等価性がある。

 つか、ジュージュー煮詰めて純粋結晶を取り出せば、「人間関係における等価性と本人の納得」でしょう?結婚だって、グループだって、参加メンツが「それでいいよ」と納得してたらそれでいい。でも等価性と納得が崩れると、「なんで私ばっかり!」って不満が出てきてコケる。なにか商品を買って「ぼったくられた」と不満に思うのも、結婚生活で自分だけが割食ってるような気持になるのも、同じような仕事してるのに同期入社の誰かが自分よりも先に出世したらムカつくとかいうのも、すべて等価性と納得が崩れている場合。経済といい、お金といい、それとて人間関係の一ヴァージョンに過ぎないわけで、この原則から逃れられないし、また逆にこの原則さえ満たされていればそれでいい。だからお金やら通貨やらは、必ずしも本質を構成するわけではない。

 まずはそういう発想を自分でなじませること、あわよくば他者にも浸透させていくこと。その一歩としてここで書いているわけですけど。てかねー、ずっと前から同じようなことを繰り返して言ってますし、直近ではギリシアの物々交換とついに現地通貨が登場した件など紹介してますけど、これから先も何度でも繰り返します。便利であるはずの「お金」になんでこんなに苦労させられないといけないんだ、話が逆やろうが!って、もう腹立って(笑)。


さりげにキックボードに腰掛けて、バス待ってる少年がナイスな感じで

もう皆とっくにやってるし! 

 しかし、僕が思うようなことは世界の誰でも思うことであり、時代ははるかに先に進んでいます。僕の方が遅れているし、今更こんなことをネタにしている事自体が結構恥ずかしいことだったりもします。

 日本でもどんどん増えてます。
 物々交換サイトでググってみたら、あるわあるわ、です。とりあえず「わわわ」てところが検索上位になりますけど、他にもたくさんあります。

 考えてみれば今までの発想〜不用品処分系のセール、ガレージセールや、オーストラリア現地でいえば「帰国セール」やら、賃借名義そのものを横滑りさせる「オーナーチェンジ」なんかもそうだし、フリマやバザー系のあれこれもそうだし、子供の成長によって時期限定が明瞭なベビー用品の使い回しもそうだし、「エコ」「リサイクル」関連のものもニアリーです。「レンタル」なんても従兄弟くらいの距離にある。フリーマーケット、物々交換サイト - Naverまとめあたりは、そのあたりのベースも残ってます。

 そこからもう一歩といわず半歩進んだらバーター経済水域にはいる。さらにもう半歩進んだら資本主義でも貨幣経済でもない世界に突入していきます。

 アメリカでも進展してて、13 Great Places to Trade Stuff Onlineは1年以上前の記事だし、Swap economy: Barter goes mainstreamは半月前の記事。なんか結構進んでいるみたいです。さすがアメリカなんでも早い。世界に先駆けて中間層が絶滅危惧種になってますし、展開も早ければ対応も早い。それが結構なタイムラグで日本に入ってきて、でもってそこそこ情報感度のいい人達が騒ぎ始めて、30年くらいたってもまだ気付かない人がいてって感じでしょう。

 ただ、こういうのは必要性のあるところが一番激しく発展し、一番ダメダメなギリシャが、逆に世界の最先端をいくことになっているようです。デトロイトも破産自治体でUS一番のダメ度なんだけど、だからこそ逆に住人たちを奮起させて、カムバック・デトロイトで活き活きとやっているとか。Obama heads to Detroit but residents are too busy with the 'hustle' to care では、オバマ大統領がやってきたけど、皆それどころじゃないと。経済ダメで落ち込んでるんじゃなくて、それを通りすぎて「燃えて」いると。アメリカ人って、こういう状況になると強いからな〜。最悪の状況で最高の結果を出すというか、ヤンキー・スピリットに火が付くのでしょう。この記事の中で、Sarah Swiderという助教授が述べてますが、デトロイトでは少なく見積もっても25%以上がインフォーマル経済になっているらしいです。つまり課税もされなければ、通貨も動かない世界。なんせ公共交通機関すらろくすっぽ稼働してなく(公務員の給料も出ないし)、時給数百円のための2−3時間徒歩で通勤しなきゃいけないのが実情だから、それ以外のやり方を皆で模索するということでしょう。

オーストラリアのビール通貨

 オーストラリアに限定しても沢山あります。さすがオーストラリア!と思ったのが、「ビールが通貨になっている」という状況です。Aussies Bartering Booze In Online Beer Economy。これ、笑いました。

 どうも、これって最初はビール会社の冗談のようなコマーシャルから始まっているようです。以下にその各種のCMをくっつけて編集した動画あるので、貼り付けておきます。長いので別にいいけど、「ビールが通貨になって席巻している」「このくらいの慰謝料にはビール2カートン」とかいうのが面白いです。


 しかし、これ冗談じゃなくなって、リアルになってるようです。どうも発祥はパースらしく、「秘密の」フェイスブックページがあると。40,000-strong 'secret' Perth Facebook page trades goods for beerです。本当に「秘密」でサーチしても出てこないらしいし(やってないけど)、入会するのは既存の会員の紹介がないとダメだと。「一見さんお断り」であり、ある程度グループの質をキープしようと思ったらそうなるわなって感じです。

 面白いので新聞でも追報があります。Perth man lauded on Facebook for turning down beer for swing for disabled boyでは、脳性麻痺の我が子のために独特のハンモック型ブランコ(首が据わらないので)を求めた親父さんに、とある会員が「対価(ビール)は要らないから」ってプレゼントしたという話があって、それが”秘密”のFacebook内に上がって、いいねが7000、コメント600でバズったと。バズといっても”秘密結社”内部のことだから、実際の会員はもっともっと多いということですね。どこが「秘密」なのかって気もするけど、でも秘密だという。半分シャレって気もしますが、要は善意と良識で運営されているってことなんでしょう。


当然のようにクリケットをやってるわけですな

展望

 こういった物々交換のやり方なんか、別にマニュアルがあるわけでもないし、思い思いにやってるのが実情でしょうし、それでいいと思います。正式なフォーマットなんかないし、参加者がそのバーターで満足すればそれでいい。だから、地元限定のバーターもあれば、場所は問わないけど一定のインタレスト(興味や利益)が同じ人とか、誰でも参加可能で広くなるけどその分薄くなるって場合もあるでしょう。

 つまりは、先に述べた「等価性に対する納得」があればそれで良い。カタチじゃないと思うのですね。同じ結婚というカタチでも、A夫妻は納得してるけど、B夫妻は納得してなかったりするわけだから。

村落共同体

 あるいは最初から構成員が確定している「村」のなかで、私的なニーズや用事も全員のタスクとして受け止め、その時々の労力配分でやっていくという村落共同体みたいなパターンもあるでしょう。昔の村々は基本コレで、子育てだろうが、介護だろうが、家の普請だろうが、皆が皆に手を貸した。「村八分」という言葉も10個の共同タスクのうち「成人式、結婚式、出産、病気の世話、新改築の手伝い、水害時の世話、年忌法要、旅行」の8つを仲間はずれにし、あと2つ葬式と火事だけは協力したという形態ですから、それほどまでに共同タスクが多かった。

 法学部入って民法の物権法をやると「入会(いりあい)権」というのをやるんだけど、昔ながらの村落共同体を知らない僕らは、なんのこっちゃかピンと来なかった。「シェア」って言葉が一番近いんだけど、あそこの山裾あたりは村の入会地になってるから、村人はだれでもそこに入って勝手に薪とか持って帰れるんだけど、誰のものでもない。村落という自治体名義でもない。誰のものでもあるけど、誰のものでもないという不思議な権利が、所有権や抵当権と並ぶものとして「物権」として規定されています。そういう形態もアリなのですね。

国際組織

 さて、このような広がりの中、国際的なルールとか環境整備などをやってる国際機関はあるのか?といったら、実はあります。「International Reciprocal Trade Association(IRTA)」という組織です。はじまりはなんと1979年にまで遡ります。これは牧歌的なムラやらエコやらって話ではなく、もっとシリアスなビジネスからきてるようです。 “Modern Trade and Barter”といって、世界40万社に達する参加企業は、自らの遊休資産(excess business capacities and under performing assets)を有効活用するべく、売りに出し、売れた場合には通貨ではなくクレジットという形で保有し、そのクレジットを使って他の参加企業が売りに出しているものをゲットする。その際、交換の等価性や、手続の倫理性(商道徳=Code of Ethics)の浸透やら、そのあたりをやってるみたいですね。

 以上見てきたように、資本主義・通貨絶対主義が最近窮屈になって使い勝手が悪くなってきた→物々交換って流れは、理屈倒れの観念論でもなければ、おとぎ話のフェアリーテイルでもなんでもなく、無数のバリエーションをもって世界各地で存在しているし、新たに形成されつつある、ということです。

 まあ、腹立ってるのは僕だけではない、と(笑)。

徴税困難と国家のミイラ化

 さらに進んで、これがじわじわ浸透していったら、、、これも前に書いたけど、国家制度、コケるでしょうね。だってこんなの課税できないもん。オーストラリアの国税庁では、Bartering and barter exchangesで説明しているけど(すでに説明しているところが凄い)、その取引に通貨を伴うかどうかは「所得」の概念において本質的ではないですから普通に課税できるはずです。日本民法にだって「交換契約」が定められているし、また交換ですらない「贈与」ですら贈与税がかかるわけですからね。人間がなんかしたら、というか存在しているだけでも税金はかけられます。

 しかしそれは机上の空論であって、本当にそこらへんの横丁で、ビール3ケースと古いiPadを交換してたら、そんな「所得」なんか補足できるわけがないです。ましてや庭仕事を手伝う代わりに英語を教えるという、サービス to サービスだったらもうお手上げでしょう。国税庁がなんで課税できるのかといえば、全ては金を媒介にしているから、銀行預金やらオンラインやら金の流れを見ていけばわかるからです。でも、バーターはお金グリッドからオフしますから、レーダー網から消えてしまう。まだオンラインでバーターやってれば、広告とかメール盗聴でなんとか探せるけど、完全口コミだけでやられたら絶対無理でしょう。それを完璧に補足しようと思ったら、国民の人数と同じ数の税務職員が24時間忍者のようにスパイしなきゃいけなくなるけど、そんなのありえないし。

 だからコレが進んで行ったら歳入欠陥が巨大化して国家はミイラになってしまう。それを防ぐには完全外形標準税やら人頭税(所得の有無に関係なく一人あたり年間100万とか、体重1キロあたりいくらとか(笑))ですけど、こんなのやったら暴動が起きるでしょう。もっとも、リアルには話の順序が逆で、先進諸国は遅かれ早かれギリシャ化して、先に国家がコケて、必要に迫られてバーターが広がるって感じになるでしょうけどね。

 身近なところでは、知らない間にそういうシステムが出来て、そういう発想が普通化していくなかで、それを自分のライフスタイルにどう取り入れていくか、自分のライフ戦略にどう組み込んでいくかです。僕としてはブツを基軸に組み立てていくようりも、人を基軸に組み立てていった方が早いし確実だと思いますが、それはまあ、別の話です。長くなったので、このくらいで。


映画のエンドロールみたいで好きな一枚



文責:田村



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