今週の一枚(2015/10/05)
Essay 742:「線型思考」から「点型・面型思考」へ
つい先週は湯たんぽ抱えて寝てたのに、今日の予想気温は36度。冬になったり夏になったりです。でも、数日後には20度になるんですけど。
抜けるような青空と新緑がメッチャ気持ちいい季節です。このトップの写真はCrows Nest。
最近、「三つ子の魂百まで」というか、日本の教育・社会システムの「エスカレーター式発想」は思っていた以上に強力であり、もしかして骨髄まで侵されて(敢えてそう言う)いるのかも?と思うようなことが2,3ありました。
エスカレーター型思考=「線型思考」とここでは命名しますが、あーやって→こーなって→あーなるという具合にゴールまで一直線に見えているような発想法です。それはそれで別に悪いことではないのだけど、問題は、
ゴールまで全部見えてないと不安だったり、ビビってしまうこと
他の発想法=点型思考、面型思考、さらに立体思考がないこと
という点です。以下順説します。
線型思考を叩き壊す
では、まず、ちょっと線型思考を壊しておきましょうね。なぁんて気楽に書いてるけど「人生観を破壊しましょうね」って凄い話ではあるのですが。
一生懸命努力や勉強をして→より良いところ(偏差値高い大学とか)に行って→さらにより良い場所(高給正社員とか)をゲットして、それで人生OKさって方法論があります。それが全面的に間違ってると言うつもりはないし、今でも、そして将来でもある程度は有用性のある方法論でしょう。僕自身そうやって必死にベンキョして試験受かって先生とか呼ばれてたわけだしね。"I know, I've been there"です。
でもね!段々わかってきたんですけど、そうやって人生切り開いていくメカニズムや原理が、実はそれまで思っていたのとはかなり違うんじゃないか?これは時代が変わったとかじゃなくて、最初っから誤解してたぞ、と。
エスカレータ=安易&安定の回路=なんかない
「エスカレーターに乗ってるから」「落ちないように頑張ってきたから」「そこに黄金の高速道路(システム)があるから」そうなったんだと年少期には思ってたのですが、「それって嘘じゃん」「すごーく分かりにくくて騙されがちだけど、でも違うわ」って、そう思うようになりました。もう20代半ばくらいで、そう思えるようになったかな。従来のエスカレーター式発想の一番美味しい部分というのは「エスカレーターにさえ乗っていれば」「無知無能でもそれなりに成功できる」ってことだと思うのですよ。乗っちゃえばこっちのものというか、あとは荷物のように気楽に運ばれていけばいいのさ〜という。ポイントは「安易」性と「安定」性です。
でも違うわ。まずエスカレーターとやらに乗るだけで途方もない努力を要求されます。僕だって当時の司試の合格率2%以下でしたよ。成功率2%以下のどこが「安易」で「安定」してるんじゃい?端的に言って「極道」ですよ。でもってめでたくエスカレーターに乗れたら楽チンかというとさにあらず。そこではエスカレーターに乗った連中の間でさらに激しい競争があります。勝たないまでも着いていくだけで大変です。エスカレーター乗り継いで先にいけばいくほど、競争は一層熾烈さを増していき、さらなる厳しい努力を求められる。
全然楽じゃないじゃん!安易でもないし、安定もしてないよ。
エスカレーターって自分の進みたい方向にベルトが動いてくれるから楽なんだけど、実際には進む方向ではなく逆に動いてるんじゃないの?ってくらいです。下りエスカレーターを駆け上がるような、もう「エスカレーターなんかねーよ!」というか、いっそ「これって、ルームランナーじゃん!」てなくらいです。強靭な足腰を錬成するための「激しい修行コース」だと。
ほんまもんのエリート街道ってそうですよ。まがいもんは違うかしれないけど、一層ハードな修行や努力をしたい人達だけが乗るのが「ほんまもん」で、そこでは一騎当千の強者どもがシノギを削っており、ぼさっとしてると斬られて死ぬ。「エスカレーターに乗る」というのは「武者修行をして天下無双になる」というバガボンドみたいな話になっていくわけで、全然楽じゃないですよ。まーね、楽じゃないからこそエリートなんだよね。考えてみれば何の不思議もないのだけどさ。
まずもってこれをキモに銘じるべきだと思います。ハイステイタスだったり、スターやら億万長者になる道というのは、それなりに大変であること。それはもうエスカレーターというよりはプロ仕様のルームランナーだったりもするから安易ではない。安定性にしたって怪しいです。これだけ競争が激しく、気を抜いたり不運だったらすぐに脱落するようなもののどこが「安定」なんだ。
ましてやターゲットが高く大きいほどエスカレーターというよりは「夢の階段」みたいに頼りな〜いものだったりもする。それはもうロックギタリストになりたいけど到底無理なのが瞬殺レベルでわかって、仕方なしに弁護士やってた僕が保証します。日本でロックでメシ食うのは弁護士なるよりも100倍は難しいですよ。100倍コスパ悪いよ(でも、だからこそ素敵なことなんだけどね)。
よくアイドル養成学校とか、ライター養成コースとか、サッカー選手のコースとかありますけど、これらと普通の進学塾→そこそこ大学とを並列に考えたら外しますよ。そりゃ最初は素人でも分かりやすく教えてくれるだろうし、それなりのステップは刻めると思います(それだけでも意味があるとは思いますよ)。だけど、ゴールまで階段が続いているわけではなく、せいぜい二階の屋根に登ったくらいで階段がブチ切れてるでしょう。そこから先は「あの夜空の輝く星になれ」の世界で、自分で羽を生やしてパタパタと飛んでいくしかないですよ。つまり入り口周辺はエスカレーターやら階段仕様になってるんだけど、最上階まで続いているわけじゃないよと。それだけものを望むんだったらそれだけの対価は払わないとダメよと。これもクソ当たり前のことですよね。
でもエスカレーター思考が骨髄病になっていると、そんな簡単なことが、ふとした弾みでわからなくなる。
階段をみると当然最後まで続いていると思いこんでしまう病ですな。
そーゆーのが好きな人はそれをすればいいけど、僕はヤですね。安定=退屈だと思ってる僕でも、これはさすがにイヤだわ。なんぼなんでも安定しなさ過ぎだもん。だって、理不尽で非論理的な原理で成功するという(実力ないのに地位を得る)ことは、理不尽で非論理的ななにかで人生が破滅することも大いにあるわけですよ。同じ不安定でも、これが実力主義という一本筋の通った原理があるならまだ納得できます。自分の力が足りなかった、未熟だった、油断したでわかりますから。しかし、例えば卑劣さで地位をゲットしたら、「卑劣力」みたいなものを常にキープしなきゃいけないわけでしょ?誰よりも人間が腐ってないとならないという。途中で妙に真人間になったり仏心を出したら後ろからバッサリ斬られるわけで、あんま楽しそうな人生じゃないですよ。
だもんで、長い目でみたらそんなに羨ましくないです。あなたは羨ましいですか?
割り込みパターンの哀れさ
いや、そこまで超エリートのことではなくて、大した芸もないのだから学歴とか資格で安定した生活を〜ってお考えの向きもあるでしょう。それがマジョリティでしょう。わかります。でもね、原理は同じっすよ。まず、本当はエスカレーターに乗る実力なんかないんだけど、親の七光りとかコネで裏口入学や有名企業に入る場合があります。エスカレーターの「割り込み」です。電通なんか二人に一人はそうだと言われますな。上の卑劣事例とやや似てるんだけど、上は卑劣力でてっぺんまであがる卑劣ワールドですが、ここは基本はフェアな競争社会で、そこにズルして割り込むパターンです。
でもねー、しんどいよ、これ。
以前「虎の威を借りるキツネのしんどさ」で書いたことあると思いますが、一般世間にはその「虎の威」(エリート性)でいい顔出来るかもしれないけど、日常生活の大部分は「虎」と一緒に過ごすわけですよ。虎の大群の中にぽつんとキツネがいるわけで、その苦労たるや察するに余りあります。すぐに食い殺されはしないものの、まあ軽蔑はされてもしようがないよね。実力一本腕一本でのしあがってきた連中だもん。ズルして入ってきた人への視線は、まあ温かくはないだろう。
以前、すごい強力な親のコネで三井物産だか住友商事だったかに入った人がいて、でも2−3年しか保たなかったみたいです。もう毎日が屈辱の嵐というかストレスフルで心身壊して、もうダメぽになったという。わかるわ。
ジジ臭い言い方だけど「身のほど」ってあると思いますよ。それに見合う実力やらサムシングがないと、そこにいるだけで針の筵でしょう。「玉の輿」とかも考えものですよね〜。行った先がいい人達だったら良いけど、スカ食らったらもう目も当てられないです。自分の実親の身分の低さみたいなものを、ことあるごとにイヤミに言われるわけですからね。その取り巻きがまた輪をかけてクソだったりして(笑)。雅子さんとかみてたら、なんとなく分かるでしょうに。詳しく知るものではないですけど、もう可哀想で。
だから割り込み型エスカレーターというのは、その限りでは「成功」「うまいことやりやがって」的なんだけど、そのエスカレーターって「死ぬまでイジメられ続けるエスカレーター」ですよ、絶対そうだと言う気はないけど、そうであっても不思議ではないでしょう?もちろんその苦労を乗り越えて頑張ってる人は沢山おられるわけですよ。でも「苦労を乗り越えて頑張る」部分で、「割り込み」部分のイージーさは帳消し、というか赤字ちゃいます?
堅実パターン〜別に得ではない
もう一つは、そこそこに頑張って、そこそこのレベルの実績や資格つんで、そこそこの安定した職につくという堅実パターンです。まあ大学と名がつくところにとりあえず入って、適当に卒業して、公務員試験とか受けて、地元付近の市役所に入ってとかいうパターンです。それは全然可能です。それも立派な生き方だと思いますよ。むしろ健全なる市民のまっとーな人生って感じで、推奨銘柄です。全然OKすよ。
だけどね、それ「エスカレーター」じゃないですよ。その場所にいくための当然に支払うべき努力を支払い、試験の合否や職場の人間関係というかいう運不運の不確定要素も普通についてまわって、それで別に目がくらむような大金をゲットするわけでもないのだから、努力と結果とが普通に釣り合っています。格別に「安易」でもないし「安定」もしてないです。
「安定&楽ちん」=公務員って気がするかもしれないけど、あれはあれで大変ですよ。岐阜地裁や地検に司法修習でお世話になって、職員の方々とは一緒にバンドやったりとか親しくしていただいて(ほんとにいい人達でした)わかったのですけど、まず転勤が凄い。部局にもよるだろうけど3年同じところに居れない。と同時に、必ずしも安易な職場じゃないですよ。あれは非公務員の羨みイメージって部分もあります。残業ゼロとかいうけど経理課なんか毎晩11時くらいまで残業してたもんな。
でもって給料もそんな言うほど高くないです。法外に高い自治体もあるんだろうけど、僕の見聞してた範囲では慎ましいかな。僕自身が司法修習生であの頃は「国家公務員一種(キャリア)の3年目の給与」って結構いいもの貰ってたのですけど、それでも月の手取りは10万円切ってましたよ。9万6千なんぼとかそんなもん。1980年台後半で、いわゆるバブル経済の始まる前夜くらいの時期になるんだけど(統計によると当時の日本の大卒男子の初任給が14-5万円)。岐阜は大都市調整手当も寒冷地手当もつかなかったのよね。まあ、それでも当時の僕にとっては「目もくらむような大金」でしたけど(笑)。
地検の検事さんとか、ほんと寝る暇ないくらいの激務なんだけど(「よく生きてるな」って思ったもん)、それでも官舎が昨今の団地懐古ブームに出てきそうなくらいの感じの2DKで、「やってらんねーよ」みたいな話は酒飲んでよく出てきた。弁護修習ではかなりいい酒ご馳走になりましたけど、検察庁では夜の残業タイムでは執務室の隅にある冷蔵庫の缶ビールをグビグビやりながら起案してたもんね。そりゃあ下を見れば恵まれているだろうし安定もしてるし楽かしらんけど、でもそれほど美味しい話ってもんでもないですよ。それだけの物を手に入れるための正当な努力は払っているし、成功報酬もそんな不当に高いものではない。
それにその「安定」を得るために、いったいどれだけのものを犠牲にしなければならないか?です。一般に堅実に安定していればいるほど、昔ながらの古い人間関係がガチガチにあります。そこでは自宅やら、配偶者の選定やら、何を着るか、どこで何を食べるか、誰とどこに行くかその全てについてそれなりの制約があるでしょう。自由奔放に自分の個性を出せるってものではない。自分の個性がその周囲の環境と波長同調すればいいけど、何もかも合致することは珍しいです。でもそこはガマンしなきゃ。そのガマンに耐えられるかどうか、それは個々人の価値観でしょう。
結局トータルして考えてみれば、だからそれは「エスカレーター」じゃないです。普通に歩いた距離だけ歩けるという、ただの「道」でしょう。
でも、「道」があるからいいじゃないか、目印になるじゃないか、それだけでもいいじゃないか、それが欲しいんだよってことかもしれませんが、それもアテにならないことを次に書きます。
ちなみに余談ながら、これまでのことを総合的に考えてみれば、どのルートを通ろうが決して楽でも得でもないです。短いスパンで見れば確かに不当に得したり損したりというのは頻繁に起きますよ。でも長い人生トータルでみていくと標準化されていく。まるで「質量保存の法則」のようにAを入手すればBを失い、Bを失ったからこそCを得る。でもトータルでの質量は変わらないんじゃないかな。「うわ〜、よく出来てるわ」と20代の後半くらいから僕はそう思ったし、以後その見方は強くなってます。押し付けはしませんけど、もし「なるほどね」と思うならば、多少は取り入れるといいですよ。この考え方の大きなメリットは、自分の心の中から「嫉妬」「羨望」「虚栄」というあまり好ましくない感情成分が減っていくことです。「結局同じだろ?」て思えるからね。
不確実性の時代
「不確実性の時代」"Age of Uncertainty"の話はずっと昔にエッセイ-59で書きました。簡単にいえば「安定なんかねーよ」と時代を喝破した名著ですけど、1977年の本だからもう40年も前の話です。僕が書いたのも2002年ですから13-4年前です。それから安定していったのか?といえば、どんどん不安定になっていってます。「安定」というのは念じてるだけでは実現しません。社会システムが安定するためにはそれを裏付けるだけの経済的客観的事実がいる。しかし、時を追うごとに、それがどんどん失われている。
安定したいんだったら江戸時代のようなシンプルな封建社会が良いです。百姓の子は一生百姓のまんまで、まかり間違っても武士になることは無い、あってはならないって社会です。インドのカーストみたいなガッチガチの身分社会。社会が「安定」するというのは、別の言い方をしたら「進歩も自由もなくて停滞している」時代でもあるのですね。だから安定しないということは、それだけ自由も進歩もあるということでしょう。一概に悪いことではないよ。
高度成長期の日本なんて、今の若い人は「いいな〜」とか思うかしらんけど、ダークな部分も結構あるし、タイムマシンでいけたとしても多分やっていけないと思いますよ。特に女性。25歳までに結婚しなかったら(”出来なかったら”と解釈される)、それだけで「行かず後家」「オールドミス」と社会人女性として片輪呼ばわりされ(まだ放送禁止用語がなかった)、一日に一回は「女のくせに」と言われ、結婚しても子供が出来なかったらまた非難され、「石女(うまずめ、と読む)」と呼ばれ、出産しても跡取りになる男の子じゃなかったら「失敗」呼ばわりせんばかりの勢い。「三年子なきは去れ」というのが我が国の「淳風美俗」であり(だから戦前は離婚が非常に多かった)、女性は子供製造マシンでもあった。自民党あたりのオヤジ世代には脳味噌が硬直化して漬物石みたいになってる人らがいるみたいだけど、そんなもんですよ。ひでー話って。それにくらべれば「不安定」の方がマシじゃないですか?
西欧の暗黒の中世は森林資源の枯渇によると言われているし、それが「瓢箪から駒」みたいに十字軍→ルネサンスと動き出した背景には三圃式農業という農業革命があり生産力が飛躍的に伸びたという客観事情があるし、化石エネルギーの発見が近代科学のラッシュを招いた。日本の場合も平安末期の製鉄技術の進展が武士階級の勃興を招いたし、260年間続き永遠に続くかに思われた江戸体制も、内にあっては薩長など西国諸藩のビジネス経営(薩摩の奄美・琉球の植民地的搾取、長州の特産品販売と港湾利権)が最新式西欧軍備を可能にしたという背景事情がありつつ、外においては世界的な植民地競争の波が黒船という形でやってきたことで、わずか10年ちょいで全面崩壊した。
要するにインプット(前提条件)を変えるとアウトプット(現状)も変わるという、これも当たり前の話です。前提条件が変わるということは、多くの場合科学技術の進展であったり資源の新発見であったり、基本的には前進であり良いことではあります。それが社会構造を変えていくわけで必ずしも悪いことではなく、巨視的に見ればいいことでしょう。そして20世紀後半(戦後)からはインプット条件が飛躍的に複雑になった。昔は「村内」だけの事情を見てれば人生OKだったのが、日本全国の複雑に入り組んだ状況の変化で右往左往するばかりか、オイルショックなど世界の各地の事情で国内や自分の人生が左右される。そして運輸・通信の進展で地球が狭くて便利になり(グローバリズム)、世界はよりいっそう緊密&複雑に結びついているから、何がどうなっているのかもう分からなくなっている。経済力がつるべ落としのように下がっている日本なのに、円高円安の為替レートはまったく別の原因(国際金融投機の思惑)で動いているし。複雑になればなるほど「なんでそうなの?」と予測も説明も出来ない世界になっていく。もう「安定」もなにもないです。
で、リアルタイムの今日はどうなの?といえば、変わってますよね。何が?というよりも、全てが。
変わってないものは人間の愛とか嫉妬とかの原感情くらいで、社会経済システムやそれを基礎づける条件は日々変わってきている。日本における直近数十年の流れでいえば、80-90年台あたりに終身雇用神話が崩壊したあたりが一つのターニングポイントでしょう。崩壊といってもいきなり全部壊れるわけじゃないから、何十年も時間をかけて少しづつボロボロになってきて、今では正規・非正規が6:4くらいまできて、近い将来逆転し、全部非正規になるかしらん。終身雇用が出来ないのは出来ないだけの合理的な理由があり、理の必然でもあります。また不動産神話の終焉は資産形成という人生計画に大きな変更を生じさせている。つまり収入生計と資産形成という人生経済の二大柱が決定的に変わってしまっているので、その上に乗っかる全てのものが変わっていくでしょうし、現に変わってます。
そこへもってきて「変わり方」もまた一筋縄ではいかない。人というのはここまで複雑になったものを理解しうる知力も行動力も普通ないから、限界を超えてくると逆のことをやり始める。つまり「見ようとしない」「無かったことにする」ということで、14年前のエッセイで書いた「世界が複雑に入り組めば入り組むほど、それに対応して人類も視野を広げ、より賢く、よりバランスのよいパースペクティブを持つべきなんだけど、実体はむしろその逆になりかねない。世界が複雑になるのと反比例して、人々はオタク化し、痴呆化し、イライラしてシンプルに物事を割り切ろうとする」という文章は、今でもなお通用するでしょう。てか今の方がわかりやすいのではないかな?
だから変化も変化としてナチュラルに生じない。カタクナになって変化を押しとどめて十年一日のように進まない時期や場所も出てくる。しかし所詮は濁流をせき止めているだけだから遅かれ早かれダム決壊で、そうなったら普通以上のドドドと土砂崩れ的な急展開をするかしらん。かくして変化原理も複雑ならば、変化速度やプロセスも不規則なものになって、もう何がなんだか〜!ですわ。
そんなスプラッシュ・マウンテンのような激流&濁流のなかで「エスカレーター」「安定」いうのは幻影でしょ。20年後にはすべての仕事の半分は消滅するとか言われていているのに。公務員が安定とかいって親方日の丸は借金大王だからいつ事切れても不思議ではないし、地元の自治体そのものが地方の高齢化と人口減でシャッター化、さらに空き家化・ゴーストタウン化・原野化するのだったら自治体そのものが消滅したって不思議ではないべ。
真の安定とは?点型、面型、「手なり」が出来ること
そうなってくると真の安定とはなにか?の定義も変わってくると思います。線型思考、特に単線型思考だけでは無理だと思います。エスカレーター的なる発想は尚も残るでしょうが、これだという一本だけドーンとあるわけではない。
言うならば荒れ狂う外洋を航海しようというわけですから、エスカレーター的な「直線」がずーっと引けるわけがない。ミクロでは波浪が高いときは波に向かって船首を直角に向ける小刻みな操船が必要とされるし、マクロには天気図を見て嵐を迂回したり、海底火山の噴火にも注意しなければならない。つまりは不確定な曲線です。ベタ凪だったらまっすぐ進めるけど、変化が激しい時に直線というのは自殺行為ですらある。何もない原っぱだったら真っ直ぐ歩けばいいけど、都会の街を信号も車も無視してまっすぐ歩いたらすぐ死んじゃう。
そこで出てくるのが、「点型思考」「面型思考」です。
どこまでも直線を引くのではなく、どっかに点=陣地を築く。そして又、それとはかけ離れたところぽつんとドットを打つ。別の陣地をつくる。あとはその要領でドットを増やしていく。そうしていくと点と点との結び方やらで、なにやらぼんやりとカタチが見えてくる。
夜空やプラネタリウムの星座みたいなものですね。星々が輝いていて、あそこの星とこことここを結ぶとこんなカタチになってオリオン座になるとか、カシオペア座になるとか。あるいは囲碁みたいなもので、このあたりに陣地を設けて、ここに布石を打っておいて、で、どわ〜っとまとめて取って、、、みたいな感じ。はたまた「信長の天下布武構想」みたいなもので、とりあえず京に上洛して中心を押さえる。そのためには何が何でも直近の美濃を取り、名門六角氏を怒涛のように押し流し、強者である浅井氏とは妹のお市の方を嫁がせ同盟を結び、流浪の足利将軍を拾ってこれを警護するという名目で京都に旗印を立て、東方面は松平(徳川)と同盟し、宗教勢力(叡山と本願寺)はまず叡山を焼き討ちにし、北の朝倉を攻め、しかし甲斐武田が気になるので靴を舐めんばかりに媚びまくる一方、越後の上杉氏にもちゃっかり話をつけ、、、という多方面同時進行の動き。
何を言ってるかというと、スタート→ゴールを単純に直線とは捉えず、二次元的な平面として捉え、全体に絵を描くように構想していく。その際、一つ一つの重要な足がかりになる拠点陣地は「点」であり、まずもって点を攻略する。これが点型思考・面型思考です。
その際大事なことを幾つか述べます。
点型・面型思考のポイント
第一に点を一個取ったところで、それだけだったら何にもならないってことです。これを就職とか生計に置き換えていえば、とあるスキルや何かの経験を積んだとしても、それだけだったら直ちにメシが食えるというものではない。だから意味がないのかというと、そんなことはない。一つ一つはそんなもんでいい。どれもこれもハンパに見えるかもしれないけど、そんなの気にしないでいい。拠点陣地は最前線の砦のようなもので、そこまで駒を進めると全体の戦局が違って見えるしアイデアも湧く。そこを拠点にしてみれば、また動き方も格段に違ってくる。その効用が欲しい、ツールとしての有用性に意味があるのであって、そこが別にゴールではない。
今なら分かるのですが、点と点は思いっきり離して打ったほうが距離的・平面的な旨味がでてくるからです。東京と横浜に点を打ったら京浜地区という限定がでてきてしまってやれることも限られてくる。しかし、東京と福岡に打っておくと、その中間地点も一網打尽にできるから動きやすくなるし、構想もしやすくなる。近場に打ってしまうと、点同士のキャラがかぶってしまって相乗効果が生じにくい。例えばの話ですけど、東京・福岡の2拠点あったら、玄界灘の美味しい魚を東京に持ってきて売りさばくルートとか、東京の被爆懸念のお母さんと子供に由布院あたりで農業体験の名のもとに一時疎開させるビジネスもありうるし、アジア系客は九州拠点が強いからそこを玄関にして東京まで引っ張ってきてって話もありうる。
その場合、点と点とはキャリア的には全くなんの接点もないくらいの方がいい。それぞれでメシを食う気はなくて、全体に浮かび上がってくる大きな「カタチ」こそが大事なので。そして、その段階では何かが具体的に浮かぶ必要はない。発想のフィールドが広いか狭いかくらいの漠たるもので足ります。
第四に、点(拠点陣地)は、正真正銘の自分が表現されているものがいい。なんとなく儲かりそうだから、今流行ってるからという薄弱な理由でやってるだけだったら、自分らしさは表現されないから拠点になりにくいです。まあそれでもしっかりやればスキル知識的には拠点になるんだけど、人的広がりは乏しいだろうな〜。
拠点は、全然カネにならなくていいです。むしろ真逆に金食い虫のような旅行道楽とかグルメ道楽とかでいい。スケボーでもいいし、マンガでもいいし、ナンパでもいいし何でもいいです。ただし、自分が心底やりたいこと、自分が本当にエンジョイ出来るものがいいです。なぜならそれやってるときの自分って、結構魅力的になってるはずだからです。やりたいことやってるときが人は一番楽しいし、楽しかったら自然といい笑顔を浮かべてるし、傍から見てたらナイスに見えてる。そして見えてるだけではなく実際にもナイスな人になってたりするもんです。そういう自分がそういう局面で知り合った人というのは、直ちには(生計手段に)使い物にならなくても、いい人間関係になる余地が多い。また、真剣にやるから学ぶどころも多い。これが逆に、心を殺してイヤでたまらないことをやってるだけだったら、やっぱ表情もデスマスク的になろうし、そんなところで知り合った人と胸襟を開いて交流する機会も少ないでしょう。
というわけで、やりたいことやってりゃいいよっていつもの話になるんですけど、「やる」といっても撫でるだけみたいなやり方では拠点になりませんよ。それでメシが食えるプロは無理にしても、セミプロとか素人離れしてるくらいの造詣やスキルはあるといいです。奥深いところまで学んでいえば、他人からみても「おう、こいつは話せる!」って認めやすい。また、そこで奥深い世界を多少なりとも知っておけば、点と点を結びつける発想のヒントにもなりますから。
エスカレーターというのは、この拠点陣地攻略においては出てくるでしょう。入門編→中級編→上級編と駒を進めていくのは、局限された技芸世界ではとても有効なメソッドですから。ただ、それだけで一生なんとかしようとするから暗礁に乗り上げるわけですよ。結果、あんまり乗り気はしないけど、とりあえずお金になりそうな、就職で有利になりそうなことをやってみるけど、本気じゃないから途中でイヤになってエスカレーター下車になったり、やってる間に時代が変わって無駄になったり、あるいはそんな気がしてまた不安がぶり返したり、、、。
メリットとデメリット
この方法論の良さは、社会がどう転んでも、なんなりと生き延びられることです。麻雀でいう「手なり」が出来る。その局面局面で見えてる材料をピックアップして、ありあわせで大雑把なカタチに持っていくことができる。エスカレーター単線思考は、Aには自信があるけどAがコケたら死ぬしかないみたいな融通の効かなさがあります。本当は融通はいくらでも効くんだけど、やったことないから「融通の効かせ方」がわからないし、思いつかない。ただしこの方法論のデメリットは「見えない」ということです。実際に出来上がって稼働するまで、何がどうなるかよくわからないし、先のことが全然見えない。それがメンタル的に不安だってのはあるでしょう。ココなんだよな〜。
ここで話は原点に戻るのだが、なんでそんなにエスカレーターがいいの?ゴールが見えてるといいの?というと、それで「安心したいから」ってメンタル的な要求が一番強いでしょう。てか、正味の話、それしかないんじゃないかな。経済的に有利だからとかコスパがどうとか、実はあんまり考えてなくて、とにかく「道があります、あそこにゴールがあります」って風景が欲しいだけじゃないのかな。なぜそんなものが欲しいのかといえば、一にも二にも安心したいから、見えない不安に耐えられるだけのメンタルの強さがないから、でしょう。それが証拠に、本当にそのエスカレーターで大丈夫なの?それでうまく行くリアルな目算はどのくらいあるの?とかいうと、実はそんなに考えてない場合が多い。真剣に考えるとせっかく得た安心が消えてしまいそうだしね。
まあそこは資質の問題でもあり、技術の問題でもあるから、各自頑張ってくださいって冷たく突き放すわけなんだけど(笑)、でもね、したたかに生き残っていく奴らというのは「見えない」ことにそんなにビビらないですね。むしろ見えないからこそ面白い、やりがいがあると思うし。ちょっと前に書いたけど「見えてから動く」のではなく、「動いて、動かして、見えるようにする」って発想や行動をする。見えないから動けないんじゃなくて、見えないからこそ動かなきゃわからんだろうがって自然に思えるタイプです。核心にあるのは「動くと風景が違って見える→活路が見えてくる」ということを生理感覚で体得している人です。
精神安定剤としてのエスカレーター
ということで、意地悪な言い方をしたら、エスカレーターって生計や人生の基本としてほしいのではなく、「精神安定剤」として欲しいだけだと思いますよ。だってさー、まともに社会人やってたらわかりそうなもんじゃん、そんな「見えてる」なんてことがリアルにそうそうあるわけないってこと。それに正味ちゃんと「見えてる」んだったら、それって逆にいえばすごい詰まらないことだったりもするわけですよ。もう定年までの全ての休暇日数も数えられます、生涯いくら稼げるか、どういう人生になるかが隅から隅までクリアに見えるという。でも、それって封建時代じゃん。それって楽しいの?とにかく就職しなくちゃ!で頑張るけど、就職したらしたで「これでいいのか?」って不安や不満や愚痴はまた出てくるのだ。職場が詰まんないわ、忙しいわ、あんまり尊敬できる人はおらんわ、なんか生きたまま腐っていくような感じもするわ、これでいいんか?とか思ったりするんだわ。とりあえず今月や来月の給料は心配ないかしらんけど、10年後、40年後にどうなってるの?といえば、そうそう将来性はないぞとか。見えりゃいいってもんじゃないってのは普通に生きてればもう履修済でしょう?大体就職できない程度のことで鬱になったり自殺したりするくせに、就職したら3年以内の離職率が非常に高いというのは結局そーゆーことでしょ?決まらないと地獄、でも決まっても地獄みたいな。真実どっちに転がっても地獄だとしたら(そんなことないけど)、そこは発想法で、だから死ぬしかないと絶望するのも一つの考え方だけど、だったら好きにやらせてもらうぜって発想もあるじゃんか。結論変わらねーんだったら、やりたい放題だぜって何故思わないの?
そのへんのメンタルは、やっぱ弱い人多いですね〜。人生なんか生き恥かいてなんぼでしょ?って腹括りが甘いというか、しょーもないカッコつけが残ってたり。ちょっと先が見えないだけでもう煮詰まったり、見ようとしても既に用意されているコースや選択肢から選ぼうとしたり。
選択肢=商品じゃないよ
だいたいやね、「既に用意されているルート」というのは、あなた、「商品」でっせ?大学も、留学も、ホームステイも、インターンもなにもかも、ある意味では「商品」ですわ。綺麗に商品化されている。それが悪いとは言わないし、それが高品質で有意義なものもあるよ。でもねそれが商品である以上、誰かがそれで儲かるという絶対的な制約はそこにあるのよ。何をどうやっても誰も儲からないものは商品になりえない。でも、商品になりえないけど、メチャクチャ栄養血肉になる有意義な物事って世の中唸りを上げるくらい沢山あります。僕は変人だから(笑)、商品になり得ない部分、そんなことやっても全然儲からないこと(このエッセイとか)に異様なまでにエネルギーを注いでやったりするわけだけど、だからこそ経験者は分かると思うけど、シェア探しにせよラウンドにせよどれだけのものを得たか?です。あれは商品じゃないよ。ひるがえって今までの半生で自分の血肉になってるもので、商品になってるものがどれだけあんの?むしろ本質は非商品的な体験が今の自分を作ってたりしませんか?恋愛だったり、友達とバカやって遊んだり、拾った子犬を飼ってみたり。だもんで、商品だから悪いとかいうつもりは毛頭ございませんけど、商品という選択肢しか持ち得なかったら、それは違うぞ、視野狭窄で損するぞ、点と点とを結ぶ自由な発想力を殺すぞって思います。
子供が好きだから→オウペアだ、チャイルドケアだ、保母さんになるんだってのも全然ありですけど、それに決まったものでもない。「自分が親になる」という王道だってあるじゃん。親として最高にいいものを作ろう、親として最高に振る舞えるような自由度を確保しておこう、そのためには金銭的余裕もさることながら、生活をシンプルにしてどこにいって何をやっても対応できるような自分になろうとかさ。子供が喘息です、おし空気にいい田舎に引っ越しするぞと即断できるくらいの。或いはいくらカリカリしても子供に当たり散らすことがないような度量な大きな人間になろうとかさ、そういうことだってアリですよ。また、子供相手の指人形劇のボランティアやるとか、童話絵本を作るんだとか、家裁の調査官になって親権紛争を子供の立場にたって意見して守ってやるんだとか、施設の子供達が寂しくないようにあれこれやるんだとか、虐待児童や貧困児童の受け皿作りをするんだとか、やり方なんか無限にあるじゃん。でも、選択肢を局限してしまうとブラインドになってしまう怖さがあります。
でも、ま、しょうがないよ。責めはしないよ。やったことないんだから、そこは仕方ないですよ。それと同時並行で、点と点を結んで絵を描くという発想力が弱いですね。「何食ったらこんな発想が出てくるんだ?」と僕が唖然とするようなものには、ついぞお目にかかれない。また、点と点とを結ぶだけではなく、点がないところにも勝手に絵を描くくらいのワイルドさも欲しいです。
でも、ま、しょうがないよ(以下同文)。しかしね、経験未熟であるがゆえに未開発ってことは、ちょっと経験積んだらドカンと飛躍するって可能性もまたあるんだわ。「あ、なーんだ!」とポンと膝を打って、一気に目の前がぱーっと広がってってことも、絶対とは言わないけど、あるかしらんですよ。てか、あるよ、普通。
点が増える=ブレるように見える
かくしてアレも好きです、コレも夢中になってますって事柄が増えていくと、考え方は自然にブレていきます。「あれもこれも」になりますから、なんかブレブレに見える。でもそれを「ブレてる」というネガ評価したらあかんですよ。それは正しく世界と視野が広がってきていることであり、良いことです。そんなやりたいことは「一個限定」なんて、スーパーの卵の特売じゃあるまいし、そんなキマリはないです。そんなこといったらダ・ヴィンチの立場がないだろうが。「一芸に秀でるものは多芸にも秀でる」というがように、一つの世界の奥行きがわかる視力と知力を持ったら、他の世界の奥行きも面白さもまた見えやすくなるのだ。だから、あれもこれも興味が出てきて「あーもー時間がないぜ」ってなって当然、ならない方がおかしい。目移りするくらいでなきゃ嘘でしょ。
それはメチャクチャ美味しいケーキ屋さんを発見して、ショーウィンドーにずらりと並ぶ魅惑のケーキ群を見て、あれも食べたいこれも食べたい、うわーどうしたらいいんだーというのと一緒です。で、あれもこれもになるわけで、それを「ブレてる」とは言わんでしょう。また、そこで「ブレない」ことに意味があるんか?どんなに美味しそうなケーキがあったとしても「わしゃあ苺ショート一筋で行きますたい!」って言うのっていいことなの?何なのその「一筋」って?って僕は思うぞ。
カタチは見えない場合も多い〜立体型思考
話が尽きなくなって困ってるのだが(笑)、点と点を結ぶとかいっても、そんな分かりやすく2地点をお金が移動するわけじゃないですよ〜。結んでいるんだけど、結んでいることに本人も気づかないってことも多々あります。これも"Always think what you've got"ってエッセイで書いたことですが、Aという仕事をやってましたといっても得ているものはAだけじゃないですよ。実はBも、Cも、Dも沢山得てます。どんな仕事であろうとも地球のどっかでやってるわけだから、その土地の気候風土名産人物には詳しくなるでしょ?また、職場レクレーションで無理やりやらされたスキーやら釣りやらにハマってしまうこともあろうし。さらに、職業内容でも技術として細かく解剖分類していったら、実は結構あります。総務部で働いてたら、知らない間にコピー機の修理やらトイレの修理やらに強くなったり、年中冠婚葬祭に行かされるから、その種のしきたりに自然と詳しくなったり。デイトレとか長いことやってた人は、結局損して黒歴史的に思う人もいるけど、それは違うぞ。自分の力ではどうしようもない外界(相場)をひたすらじっとじっとじっと待って待って待ってってことを何時間も何十時間もやってきたんだから、その種の忍耐力、注意持久力、自分の手の届かないところで決まる虚しさに耐える力(無力感耐性みたいな)ものもある。それて立派なスキルであり、それを応用させれば、刑事の張り込みなんかには向いてるわけです。今更刑事は無理だというなら、私立探偵でじっと調べることなんかにも適性があることにならんか?また、何もかもが見えない中で何事かを決めるという行為にも習熟してくる。
だもんでどんな仕事でもどんな趣味でもムキになってやってたら、結構いろいろな知識やスキルが知らない間に身に付いてしまうのですよ。それがあとで点と点との化学反応において絶妙な触媒になってくれたりもします。ほんとですよ〜。
僕にしたって、前職で得たもので一番大きいのは世間智です。なんせあらゆる人達と近しく話をしますからね。今の仕事をやってられるのも、その蓄積あってのことです。日本人だったら、どんな年齢層のどんな職業のどんな出身地の人が来ても大体話は合わせられますし、忌避感も偏見もないつもりです。「あれも大変だよね〜」ってある程度はわかる。その他、こういう社会局面ではこういう論理でこういう事態になるのかとかいうのも大雑把にわかる。そのあたりですね。法律知識そのものは、実はそんなに増えてないかも(笑)。
結局ですね〜、ここまで言ってしまうと突っ走りすぎちゃうのかもしれないけど、拠点とか陣地とかいうのだけど、あれも考え方の便法として言ってるだけで、本当はゴロンとした超巨大な「世間」を触って学んで覚えているだけなんだと思います。どの地点にいても酸素と二酸化炭素はあるように、どこにいて何をしてても人間社会というのはあるわけで、なにかやって格闘してれば、自然にあれこれ覚えていく。
エスカレーター的に一直線に偉くなってるように見える人だって、その過程でゴロンとした立体世間と格闘することに変わりはないわけで、結局やってることは同じなんだと思いますよ。どこで何をやっても、対象が同じなんだから、それ相応に真剣にそれも一定期間やってれば、学ぶものも似通ってきます。それが増えてくると、拠点とかどうでもよくなってきて、いわば全部が拠点みたいな感じにもなるでしょう。同時に立体的に感じられるようになるから、点と点を結ぶにしても平面的ではなく立体的に結ぶという感覚も出てくる。
いずれにせよ、一本の直線がありました、ココがスタートでここがゴールでーすという一次元の話でないのは分かるようになるとなると思います。
といっても「精神安定剤」はそれはそれでいるから、適当に精神が安定するようなことをやってたらいいです。いっときの「慰め」としてね。商品のコースを買うのもいいですよ。資格をとるのもいいです。こんなことやって本当にメシなんか食えるのかよ?とか時々不安になるだろうし、それって実は正しい懸念なんだけど(笑)、でも気にしない。要はなんかやって心が安定すればそれでいいんだから。心療内科でもらったクスリ飲んでるよりはいいと思うぞ。
ただ、常に点型、面型にものを考えているといいですよ。発想が増えて、チャンスが増えます。なによりも行き詰まるということがないですから。
文責:田村