今週の1枚(02.06.24)
ESSAY/ Age of Uncertainty
冷静に考えてみて、この先、世界は、日本は、そしてあなたはどうなるのでしょう?
「多分こうなってるんだろうな」って、10年後、30年後の自分の姿を確実に見通せる人がどれだけいるでしょうか。30年後の自分を、望ましい位置にもっていける、その道筋が見えているという人がどれだけいるでしょうか?
90年代後半からこっち、"uncertanity","insecure"という言葉を良く見かけるようになったような気がします。この世界の未来は、その頃から、加速度的に不透明感を増している、と。絶対(=とは言わないまでもかなりな程度確実)にこの先こうなる筈という未来予測の軸線が怪しくなってきて、何がどうなって不思議ではないようになってきて、人類の歴史のなかでも珍しいくらい不確実性の時代になっていると。
「不確実性の時代(原題は"Age of Uncertainty")」 というと、そういうタイトルの本がベストセラーになりました。ガルブレイス教授の名著といわれる本ですが、「いつ頃の本だったかしら?」と思って調べてみたらかなり古い。1977年。日本で発売されてベストセラーになったのが78年。もう四半世紀も昔の本で、読者の中にはまだ生まれてない方もいるでしょう。ちなみに1978年というのはどのくらい古いかというと、キャンディーズが解散し、サザンがデビューし、矢沢永吉の「成り上がり」がベストセラーになり、江川の巨人入団騒動があり、池袋にサンシャイン60が建った年です。「不確実性の時代」という言葉は流行語になりましたが、同じ頃に流行語になったものとして「窓際族」という言葉もあります(もう流行語ではなく定着しましたね)。ともあれ、相当な昔の話です。
しかし、本物の常として、この「不確実性の時代」という本は、時が経つに連れてその真価が明らかになっていくようにも思います。ベストセラーになった当時は、単に日本が不況だったから「景気はどうなっちゃうんだ、おお、不確実だぞ」くらいの理解だったように思います。もっといえば、この種の硬派本のベストセラーの通例ですが、以前流行った浅田彰氏の「構造と力」と同じように、皆さん「流行ってるから」買ってるだけで、実際には殆ど読んでなかったりします。タイトルだけ流行語になったけど、理解している人は少ないという。
僕も随分経ってから読んだ記憶がありますが、内容的にはあまり覚えてません。アルビントフラーの「第三の波」「パワーシフト」は、まだITなどの情報技術の進展という切り口があったから分かり易かったですが、「不確実性の時代」は、より本格的な経済学の本です。流行った割にはいかに皆さん理解してなかったかは、今インターネットを検索して、40〜50のサイトをチェックしてみましたが、結局殆どが「〜という本が昔ベストセラーだった」という記述に留まり、この本の内容まで立ち入って論及しているものにはあまり出会えなかったということからも分かります。
強いていえば、「18世紀以来の近代工業社会の勃興と衰退を鮮やかに描き出してあますところのない優れた経済思想史であり、アメリカ経済学の先進性を見事に体現した名作として、学派を超えた賞讃を集めたものである(丸善のBBCの番組ビデオの販売紹介)」「古典的な資本主義論からマルクス経済理論、近代経済学までをたどる経済学通史ともいえる内容だが、硬い学術書ではない。「人類が現に直面している諸問題の驚くべき複雑さ」の中で、かつて「確実な」目的や哲学のあった経済理論が、どのように有効性を失ったかを述べ、逆に「不確実な」現代社会を浮き彫りにする。経済の視点から見た社会思想史でもある。」(読売新聞データベースの「この十年」から)
と述べられているくらいでしょうか。
それはともかく、この「不確実性の時代」というフレーズは、四半世紀を過ぎた今の方がより切実な響きを持ってきていると思います。単に「不況だから先行きが見えない」ということに留まらず、社会構造そのものが変容を迫られているというより広く、より深い意味で、「よう分からん度」は一層増して感じられていると思います。
これは、日本がバブル以降万年不況だからだけではないです。世界的にそうだと思います。何度も書いてますが、ここ10年以上オーストラリアは好景気です。そうであったとしても、この社会や自分を取り巻く環境、そして未来の「不安定な感じ」は益々その度合いを増していると思います。
逆に言えば、日本が構造改革を曲がりなりにも果たし、再び景気が良くなって、皆が高級外車を乗り回すようになったとしても、この不安定な感じから脱却できない(景気の良さでいっとき誤魔化し、忘れることができるにしても)、ということでもあります。このあたり、日本においては、なまじ今が不況なだけに、不確実性の時代=経済不安定=生活不安という経済的なレベルで終わってるキライがあるのですが、本当はもっと社会構造的なものだと思います。
では、なにがそんなに「不安定」で「不確実」なのか?
さきほど色んなサイトを巡回しているとき(どこかは忘れてしまいましたが)、経済学の用語としての「不確実性」について説明してあるくだりがありました。経済学的に正しいのかどうか僕には分かりませんが、僕がちらっと読んで理解した範囲では、@確実性→Aリスク→B不確実性と続くそうです。@の確実性とは、例えば原価100円のものを200円で1万個売ったら100万円の儲けであるという計算がガチッと出来る状態であり、Aのリスクとは搬送の最中トラック事故があって商品が炎上するとか、売り場で万引されるとかいう危険性のことであり、これもリスクの内容や頻度がわかれば、それなりに保険をかけるなりしてリスク回避をすることが出来ます。さらにBの不確実性になりますと、いったいどういうリスクがあるのかが分からない、その頻度が分からない、規模がわからないということで、思っていないことが思わぬところで発生するかもしれない状況をいうらしいです。つまり、予想が立てにくく、非常にやりにくい状態なわけですな。
ガルブレイス氏の著作は、今は手元にもありませんし、記憶も不確かなのですが、彼はなにをそんなに「不確実」だと言ったかといと、僕の推測では、おそらく社会構造そのものが複雑になり、さらに今後も加速度的に複雑になり、将来的な見通しやリスクを計算しようにも、あまりにも多くの要素が入りすぎて難しくなっていくだろうということではないかと思います。もちろん推測ですから間違ってるかもしれません。また、別に間違っててもいいです。ここでは、別にガルブレイス氏の著作に合わせる必要もないので、彼が言ってなかったら僕が言います。
昔々、皆で田んぼを耕して米を作って食べているだけでしたら、あんまり不確実ではなかったと思います。春に田植えをして、秋に収穫をして、一反の田圃に収穫が○石だから村全部で○○石と計算できたでしょう。もちろん、旱魃がおこったり、水害、冷害が起こったりもします。地震や火山の噴火などの天変地異もあるでしょうし、お上の都合で年貢があがったり、あるいは近隣で内乱があったり野武士がやってきて強奪するかもしれません。非常にリスクはあります。ありますが、まだしも予測可能ですし、対処もできないわけでもなかった(技術が伴わないので結局飢饉で死んでたりするでしょうが、それでもリスクのリストは作成可能)。
ところが社会が進展し、複雑になり、交通技術や情報技術の進展によって世界が狭くなるにつれて、リスクの因果関係の経路がどんどん複雑になっていきます。例えば、今年は豊作だ、万歳と喜んでいたのもつかの間、近所に工場が出来てその廃液で有機水銀が作物に混入し、折角の収穫を全部捨てねばならなくなるかもしれません。あるいは、最近だったらダイオキシンとか。原発が事故を起こすかもしれません。そうなると、天候や自然、お上や野武士だけの問題ではなくなります。
さらに、それをクリアしたと思ったら、今度はアメリカがやってきて米市場を開放しろといってきたりします。政府がこれを突っぱねるかというと、今度は日本の自動車をアメリカ市場から締め出すぞという脅しがかかって、もうわけの分からない高度な国際政治交渉になったりします。そうかと思うと、収穫物を一括して販売したり、これまでの収入の貯金先である農協が、バブルで大火傷をしてぶっ潰れるかもしれなくなります。それは貯金が返って来ないかもしれないということだけではなく、これまでのような農協主導でいいのか?という問いかけになり、自主流通の方がいいかもしれない、あるいは契約農家になったり、家庭菜園をやった方がいいのではないか?となったりします。
そんなことに頭を悩ましている間に、こんどはオーガニックブームつまり有機栽培ブームになったりします。と同時に、GM、つまり遺伝子組替問題が生じたりします。さらに、飼料、肥料、農薬などの安全性なんかにも気を使う必要が出てきます。そこで、うーむと考え込んでいると、今度は、赤字国債を発行しまくって首が廻らなくなった政府が、税制上優遇していた農地認定を厳しくして、税収アップしようと計るかもしれません。そこでさらに悩んでる間にも、農家へのヨメさんの来手が少なくなって、若い人がどんどん都会に出て行って、過疎化が進行したり、廃村になったりするかもしれません。ただでさえJRになった国鉄は赤字路線の切り捨てをして生活自体は不便になる一方だったりします。それに目をつけた産廃業者がやってきたりします。あるいは、新興宗教団体が修行場として選ぶかもしれません。
というわけで、野武士とお日さまだけ考えていれば良かった昔に比べて、自分の生活に影響を与える要素は飛躍的に増えてきていますし、その経路も複雑になってきています。そしてどんどん予測不可能になりつつあります。次はどんな問題が起こるのか予測もつかない。これがすなわち「不確実性」ということだと思います。
上記は、比較的シンプルな一次産業を例に取りましたが、二次産業、三次産業になると、さらに複雑さは増します。「風が吹けば桶屋が儲かる」という喩えのように、経済というのは因果関係の連鎖とその見通しによって動きます。東京の寿司屋さんにはいって、一通り握ってもらったとしても、そのネタは日本近海だけではなく、アラスカやオーストラリアのタスマニアのサーモンだったり、マダガスカルのイカだったり、インド洋のマグロだったりします。そして、これだけ世界が緊密に動くようになると、遠いアフリカのどっかの国でクーデターが起きたことによって、廻りまわって自分が失業するかもしれません。その昔は、インドでセポイの乱が起きようと、ヨーロッパでオレンジ公ウィリアムがどうしようと、日本の農業や工業や武士には殆ど何も関係なかったです。ルターが宗教改革をやったからといって、失業する武士なんて居なかったでしょう。でも、今の世の中、何がどこでつながってるのか分からないです。
そういえば、ここのところ海外保険料が急にハネあがってると思います。去年の今ごろワーホリでやってきた人よりも、今年の人の方が倍くらい払う羽目になってるかもしれません。なんでかというと、アメリカへのテロの影響なんだろうな、と思います。あれで、保険会社は相当のダメージを食らったと思いますし。オーストラリアでも、損害保険料の値上がりがいろいろ影響を与えているやに聞きます。
これはもう、循環的な景気の問題ではないです。今が不況だからとか、そういったレベルではない。社会の仕組それ自体が、自分たちの手を完全に離れて、コントロール不能・予測不能になっていってしまうことに基づく不確実性であり、それに基づく不安です。
さて、話はまだ続きます。というか、ここからが本番で、さらに難しいのです。
今まで述べてきたのは、どうやって生計をたてるかという経済面での話、いわば下部構造の話でした。でも、人はパンのみにて生きるのではなく、人生の全てが生計や金勘定で終わってしまうわけではない。経済という下部構造の変化とコネクトして(コネクトの仕方がまた複雑になってきているのですが)、ライフスタイルや、人生の流儀も又変わっていきます。いや、AからBに変わるというよりも、従来のAの確実性が揺らいで、不確実になります。そして、その不確実性は確実に(ここだけ”確実”なのも皮肉な話ですが)個々人の心理に影響を与えますし、人々の集合体である社会全体のメンタリティも変わってきます。
例えば、結婚。結婚しない人が増えてきています。というか、結婚に関するあらゆるバリエーション=未婚、晩婚、非婚、離婚、再婚、内縁、さらにもう一つ不倫などの婚外関係が相対的に増えてきています。これは日本だけの傾向ではなく、最近発表されたオーストラリアの最新のセンサスでもキッチリその傾向が現れています。
どうしてそうなっているのか?諸説ありますが、「これだ!」という決定的な説明はないように思います。「非常に多くの要素が複雑に絡み合っている」としか言いようがないです。経済構造の変化との関連で言えば、一般に経済が豊かになればなるほど、婚姻やセックスは乱れる傾向にあると思います。ローマ帝国の乱倫やら、古今東西の貴族社会(日本の平安王朝を含む)などを見ていても、生活が豊かになり、食べる心配をしなくなればなるほど、享楽的なセックスが増え、享楽も徹底すればゲーム化し、そして「貴族文化」になったりします。
貧しい庶民は農作に追われ、それどころではないです。生存レベルがシビアな場合、性欲は確実に食欲に劣後するのでしょう。庶民の場合、結婚とは生存のための単位であり、家とは生産のための企業組織であります。企業間の事業提携によって社員が出向するのと同じように嫁入り婿入りがあり、企業の出向辞令がそうであるように本人の意思はあまり重視されません。そして、セックスとは労働力再生産の作業だったりします(もちろん快楽もあるんだけど)。そういった意味では、経済的豊かさは、結婚の生存の手段としての意味性を相対的に薄らがせます。つまり「結婚しないと生きていけないから」というよりも、「愛し合ってるから」結婚するようになります。だから愛が色あせれば離婚するし、離婚しても生きていけるならば何も我慢する必要は無い、ということにもなります。一方、性欲は性欲で愛とはまた別にその存在を強力に主張しはじめたりします。
一言でいえば、経済的に豊かになると、結婚している二人を縛り付けるシステム的拘束が徐々に緩まります。「自由」というか、「乱れる」というか、ともあれ氷が水になるように、分子間結合はゆるまる傾向にあるのでしょう。そして、そうなったらなったで、様々な色恋沙汰によるトラブルが生じたりしますが、それにしたって、経済的に豊かだったら「経済的に解決する」という方便もあったりします(手切金を払うとか、愛人として囲うとか)。
だったら経済的に不況になったり、不確実性が増せば、それだけオーソドックスな結婚を指向する人が増えたりする筈です。実際、そういう素朴で堅実路線に回帰していく流れもあります。しかし、経済的に不確実だからこそ、結婚を躊躇する人も出てくるでしょう。
このあたりが、経済的状況と、個々人が心理・行動が、「極めて複雑に」コネクトする例だと思います。個人の心理というのは難しいです。何をどれだけビビットに感じるかは、すぐれて個性差があります。
先行き不透明の場合、長期的スパンに基づくプランは立てにくいです。近い将来に失業したり転職したりする十分な予感を抱きながら、30年ローンというのは組むというのはそれなりに心理的抵抗があるでしょう。そして結婚というのは、本来的に「死ぬまで」という超長期スパンの行動だったりします。二の足踏む人も出てくるでしょう。
また、周囲が晩婚化しているので、プレッシャー少なく仕事に励むことが出来、ある程度貯金も溜まってきたりします。一方では一生独身かもしれないという非婚の予感もあったりしますし、そのための資産形成を真剣に考えたりもします。そんでもって「一人で住むには十分広いが、二人で住むには無理」という広さのマンションをローンを組んで買ってしまったりします。そうなると、今度は、いざ一緒に住みたい人が出てきた場合、ローン返済中のマンションが邪魔になったりします。バブルは去って、もう損切りしないと売れないし。同時に、結婚というのは、日々妥協の連続ですし、不愉快さの連続です。一人暮らしの王様暮らしが長くなり、その自由さ快適さに慣れてしまうと、「何を今更、、」という気分も芽生えてきます。
結婚というのは、「一人口は食えぬが二人口は食える」という諺の示すように、「金がないからこそ結婚する」という捉えられ方をするのと同時に、「金がないと結婚できない」という側面もまたあります。先行き不透明なこの時代だからこそ、共にサバイブしていくパートナーの存在はより重要になるのだといって結婚する人もいるでしょうし、不透明だからこそ他人のことまで面倒見切れないといって結婚を控える人もいるでしょう。
このように経済変化が個々人の心理・行動に与える影響は、多面的でフクザツだったりします。ただ、一つ確実に言えることは、社会が不確実になるにしたがって、「○○だったら○○するもの」という、従来だったら疑問の余地のなかった大前提の法則・オキテ、難しく言えば「社会における指導原理」がグラついてくるということです。
今は、たまたま結婚について述べましたが、別に結婚に限るものではないです。これまで、それがイイか悪いかの賛否両論はありつつも、「原理」というよりも殆ど「事実」として認識されてきた様々な法則がグラついてきています。例えば、幸せになりたかったら、「出来るだけ有名大学を卒業すべきである」、「出来るだけ有名な大企業に就職し、一生そこで過ごすべきである」という法則は、既に有効性を失いつつあります。「東大法学部を出て、キャリア官僚になって、大蔵省に入省する」という戦略だって、大蔵省自体が分割された昨今、そのままでは適用されないでしょう。
さらにこの変動の波は影響範囲を広げていき、従来だったら特に疑問も持たず、賛否両論すらなかった領域にも広がっていきます。例えば、「日本人というのは死ぬまで日本で暮らしていくもの」という、別にオキテでも法則でも何でもないのですが、誰もが自然に「そういうものだ」と思っていたことすらも揺らいできたりします。
時々紹介してますが、オーストラリアにHugh Mackayという社会学者、リサーチャーがいます。新聞でもよくコラムを書いているのでご存知の方もいるでしょう。この人が99年に出版した"Turning Point”という本は、世紀の変わり目にあたり、オーストラリア社会の変容と将来像を模索した好著だと思います。日本ではほとんど紹介されていないようですし、アマゾンで調べても無いです(アマゾンUSAにもない)。
この本の中の第三章”CONTROL”のなかで、この不確実性の時代について興味深い指摘があります。いちいち訳していたら何ページあっても足りないので、この人の著述をベースに、僕が勝手に大意を書いていきます。
この不確実性の社会で、人々は「なにひとつ確かなことはない」という不安定な感覚を抱きます。そして、そのメンタリティが次にどのような行動になって現れていくかというと、、、
@世界の全体像の見通しがきかず、またコントロール不能になった無力感の代償として、「せめてこれだけは」とばかりに、自分の周囲の”世界”を区切り、あるいはある特定の視点だけから限定し、そのなかでコントロール感を回復しようとする。
この本では、例として、"I couldn't live without Palmolive Antbacterial"という女性が登場します。Palmolive というのはオーストラリアで発売されている石鹸関係のブランドです。まあ、日本でいえば花王やライオンみたいなものです。Antbacterialというのは抗菌j薬。
「これが無ければ生きていけない」というものは世の中沢山あります。自分の恋人であったり、家族であったり、宗教的な信仰であったり、仕事であったり、趣味であったり。しかし、薬用抗菌石鹸というのはなんなんだ?勿論、そんなもの無くたって生きていけるでしょう。でも、それなしでは生きていけないと感じている人がいます。
それは単に物理的に石鹸という問題ではなく、石鹸を超えた心理的な意味があるのでしょう。この人は、いかにキッチンが考えうる限りの雑菌のオンパレードであり、それがいかに人体に危害を加える恐ろしい存在であるかを説き、新聞雑誌でこの種の清潔関係の科学記事やレポートがあると欠かさず読み、理解を深め、おそらくは入念な考慮の末に、この商品にたどりついたのでしょう。「キッチン清潔問題」を熱く語る彼女の頭には、コソボの虐殺も、世界経済の動向も何もない。ただ、もうキッチン雑菌の撲滅がメインテーマになっているという。なぜか?それは旧ユーゴスラビア問題は彼女のコントロール領域外の問題だけど、キッチン問題は確実にコントロール可能の領域だからではないか。つまりコントロールしているという心の安定を取り戻すのがポイントであり、キッチン問題は言わばそのための格好のマテリアルになっただけではないか。
この世の森羅万象を全てバランスよく認識することは、神でもなければ出来ることではないです。世界は余りにも複雑で、あまりにもデカい。人は自分の興味のある領域、関係する領域をより深く知り、コミットするようになります。それは全然当たり前のことなんだけど、度が過ぎると「それ以外のことはもうどーでも良い」とばかりに視野狭窄をおこし、半ば精神失調のように、全体のバランスを欠いてきてしまう。ハマって熱中するがゆえに、他のことが視野に入らなくなるのはまだ分かるとしても、そうではなく、逆に「他のことを視野に入れたくない」という無意識の欲求にリードされて、ハマる対象を探すようになったら本末転倒であり、精神的な退行がはじまっているとも言えるでしょう。この混沌として、あまりにも巨大で、ワケのわからない世界全体を直視しつづけるのは精神がもたないから、もう限定してしまうという。ひとことでいえば、オタク化していくわけですな。
A、@と深く関連しますが、世界観をよりシンプルにしようとします。「要するに○○がイケナイんだ」とばかりに、問題を極端に単純化し、矮小化しようとする。
いまや、何がどこでどう結びついているのか誰にもよく分からなくなってきています。しかし、「わからない」という心理状態は、情報が発達し、同時にエゴも傲慢に発達した現代人にとっては、耐えられない状態だったりします。だったら、「よし、分かるように勉強しよ」と頑張ればいいものを、もうそんな気力もない。だから、「究極のインチキ」をやりはじめます。つまり、世界に合わせて自分の認識を広げるのではなく、自分の狭い認識と貧しい理解力に合わせて、世界をスケールダウンしてシンプルにしてしまうという。でもって、都合の悪い部分は「なかったことにする」という。
一言でいえば、アホになっていくわけですな。
政治でも、「政治家なんて絶対悪いことをしているのに決まってる」と思いつつ、政治家のなかでも、これは善玉、これは悪玉とマンガのような白黒をつけて理解したがります。日本でも、ムネオちゃんは誰がなんといっても悪の大魔王なわけで、彼がこれまでどのような政治的な業績をあげたかとか、それでも彼に投票している選挙民はなにを考えているのかとか、これってあまりに一面的なものの見方でしかないのではないか?とかいう平均的な知能指数をもってたら考え付きそうなことを考えず、とにかく悪い。なにが悪いかというと、よく分からないんだけど、とりあえず顔が悪いとか、態度が悪いとか、ムカつくとか。どっかのクラスでイジメやってるコギャルレベルになっていくという。
B、さらにAからの派生として、物事の解決策も、よりシンプルに、より直接的になっていきます。
少年犯罪が多くなったり、精神障害者の犯罪が報道されると、すぐに「厳罰化」 にいきます。「あんなワケのわからない連中はビシバシ取り締って、死刑にすればいいんだ」という具合にシンプルになります。
実際の実害レベルでいえば、たしか統計をとれば、精神障害者の犯罪率は健常者のそれよりも低かったはずです。「犯罪を起こす可能性の高い連中は、どんどん死刑にせよ」というシンプルな理屈を適用すれば、健常者の方を先に死刑にすべきです。特に、じっくりクールに議論すべきときに、この種の厳罰化を威丈高にエラそげに怒鳴る人は、自己中で短気な傾向があり、カッとなったら何をするかわからず危険だから、まず率先してこういう人から殺していった方がいいとさえ言えます。だからもう実害なんかどうだっていいんですよね。マジメに議論する気なんかないんじゃないの。ただでさえワケのわからない世の中でイライラしているところに、またワケのわからない事件が発生したりすると、その「ワケのわからなさ」そのものが憎悪の対象になってるだけではないのか。
オーストラリアでも、麻薬中毒者のための公的治療設備として、政府が中毒者に麻薬を支給するというプランがあり、挫折してます。これは話すと長くなるし、たしかどっかで紹介した覚えがありますが、麻薬問題の現場前線に出ている人ほど、あるいはこの問題を真剣に考えている人ほど、そのプランを支持します。「もう、それしかないだろう」ということで。この問題から遠い距離にいる人(何にも知らないし何もしない自称「善良な市民」)ほど反対するという傾向があります。このプラン、実現したら刑事政策上画期的だったのですが、阿呆どもによってたかって潰されてしまったというのが僕の印象です。
同じように、オーストラリアでは、やれアジア人の移民が多くなったら制限しろとか、アジア人は背景にマフィア組織をひきずってるから危ないとか、マジに言う人もいます。言うまでもなく、アジア人のなかには日本人も入ってます。というか、そんなもん、いちいち区別するよな面倒なことしませんもん。日本人がイラン人とイラク人を区別して認識しようとしないのと同じ。そうかと思うと、ボートピープルの相次ぐ漂着で、「もっとエゴイスティックにオーストラリアの国益を守れ」という声が沸きあがって、前回の総選挙でこれを利用した(それもダーティな情報操作までして)現政権が勝ちを収めたりします。アメリカでテロがあったら、こんどは中東ルックスをしてたり、イスラム教徒は、「危ない」と言われたりしたり。
こんなの見てると、世界的にアホ化、誤ったシンプル化は進行している気さえします。ここまで来てたら、「つまりはユダヤ人が悪い、皆殺しにせよ」というレベルと、あと一歩ですよね。
この世界は加速度的に複雑になり、より多くの要素がより複雑に絡み合うようになっていくから、どんどん皆の手の届かない、ワケのわからないものになっていく。
世界が複雑に入り組めば入り組むほど、それに対応して人類も視野を広げ、より賢く、よりバランスのよいパースペクティブを持つべきなんだけど、実体はむしろその逆になりかねない。世界が複雑になるのと反比例して、人々はオタク化し、痴呆化し、イライラしてシンプルに物事を割り切ろうとする。
え〜とですね、こんな巨大なテーマをたかだか一編のエッセイで書けるわけなく、めちゃくちゃ消化不良です。こんなもんマトメなんかないです。ただ、この「不確実性の時代」においては、経済指導原理がどうとかいう以前に、もちろん景気がいいとか悪いとかいう以前に、人間の精神の方が先にヤラれてしまって自滅してしまうかもしれない、その種の危険性は気をつけておくといいのだろうなと思います。
あと一点、個人的に思うのは、昔はコントロール可能だったとかいっても、実際にコントロール可能だったときなんか一度もないと思います。だいたい自分の感情ひとつろくすっぽコントロールできない僕らが、どうやって社会や世界をコントロールするのよ?という気もするのですね。だから、あんなのは「コントロールできたような気がする」くらいでしょう。だから、世界は最初から不確実だったと思います。明日何が起こるかなんて誰にも分からない。それが普通、それでいいのだと思います。
そして、その当たり前の世界に生きていく僕らとしては、サッカーの選手のように、どっちの方向にボールが飛んでも、どのように展開していっても、即座に対応できるように、贅肉を削ぎ落として、フットワークを軽くしていくしかないと思います。まずゆっくり安心したいという、(敢えて言うけど)”怠け心”があるから、ベッドも必要だし、静かな家も必要。でも、それが中々手に入らないからイライラする。だから疲れる。だからよりゆっくり休みたいと思う。でも無い。またイライラして、疲れる、、、その悪循環って面もあると思います。
最初からそんなに多くを望まなければ、そのへんのキャンプで寝ても元気バリバリだったら、そんなに疲れもしないだろうなと。
というわけで、どうかお健やかに。
写真・文/田村
写真: Rocks and Opera House
★→APLaCのトップに戻る