今週の一枚(2015/06/08)
Essay 726:語る→つながる→広がる→生きのびる
中洲にカモメのカップル二組がダブルデートしているみたいで面白かったので。
まだ考えてます
ということで、前回にひき続いて、APLAC式出会い系サイトの話です。いや、まだ考えているんですよね。APLAC「人」サイト〜Level01:ライトヴァージョンなんか、既に作ってあったりして。まだ細かな詰めが出来てないけど、作りながら考えてるって感じです。あの、もう興味があったら書いてっていいですよ〜。ただ、工事中なので書いてるそばからガンガン体裁が変わっていくかもしれませんが(書き込んだ発言は保存しますから大丈夫のようにするつもりです)。
これで、一人一スレッド限定(自分のスレッドしか書き込めない)で、好きなことをなんでも書いてもらうと。
なんでこんなことしようとしているか、どう回していけばいいかのルール作りや、想定トラブル解決法とかゴチャゴチャ考えてます。これが今一番頭の中を占めているので、もうこれをそのままエッセイのテーマにします。
だいたいのネタは、先に書き出しておくと、
・メンタルコントロール(セリフカウンセリング)〜語るシス
・「人」って結局なによ?知り合ってそんでなんか良いことあんの?
・つながるだけでは足りない、新しい地平が見えなきゃ
・人生ファシリティのシェアリング経済
・生存戦略としてのオウンドメディア
ほかにもいろいろあります。もうねー、シャブシャブ鍋をやってるときの肉のアクみたいに、掬ってもすくっても直ぐに出てくるね。キリがないからこのくらい。
ばーっと一気書きすんぞ。
語るシス
排泄と浄化
カタルシス(もとギリシャ語、英語では"catharsis")とは、三省堂辞書サイトによれば
精神の浄化作用。「心の中に溜まっていた澱(おり)のような感情が解放され、気持ちが浄化されること」を意味します。
もともとは、アリストテレスが『詩学』に書き残した悲劇論から、「悲劇が観客の心に怖れと憐れみを呼び起こし感情を浄化する効果」をさす演劇学用語です。転じて、精神医療においては「抑圧されていた心理を意識化させ、鬱積(うっせき)した感情を除去することで症状を改善しようとする精神療法」をさします。さらに、一般化して、「心の中にあるわだかまりが何かのきっかけで一気に解消すること」をいいます。
もともとは、アリストテレスが『詩学』に書き残した悲劇論から、「悲劇が観客の心に怖れと憐れみを呼び起こし感情を浄化する効果」をさす演劇学用語です。転じて、精神医療においては「抑圧されていた心理を意識化させ、鬱積(うっせき)した感情を除去することで症状を改善しようとする精神療法」をさします。さらに、一般化して、「心の中にあるわだかまりが何かのきっかけで一気に解消すること」をいいます。
自分の頭や心を整理したり、スッキリしたかったら、他人に話す・書くのが一番いいです。
日記でもいいんですけど、日記って誰も読まないことを前提にしてるので(本当に前提にしているかは人それぞれ微妙だろうが)、今ひとつ盛り上がらない部分もあります。日記でも盛り上がれる人はいいんだろうけど、僕はダメです。こんなにあれこれ書くくせに日記はつけない。やっぱ違う。
じゃあなんで他人に言うと良いのか?ですけど、一つには、外に出した分だけ体内から減るからでしょう。第二に客観視出来るって不思議な作用がある。
やや不快な比喩をお許しいただきたいが、これって、肉体と排泄物の関係に似てると思います。特に二日酔いですごい気持ち悪い時に、吐くとスッキリする。同じ物体なんだけど、胃の中にあるのと、体外に出るのとではやっぱ違う。出した分だけ軽くなるということです。また、歯が痛くて七転八倒してもう死ぐ〜!ってやってたとき、抜歯した虫歯を見せてもらうと、チッポケな歯片に過ぎず、「こんなもんで苦しんでたのか」という客観的なスケールが分かる。
吐き出すとか排泄とか汚いイメージがあるけど、「浄化」というのはそういうことでしょ?体内の不要物とか毒物とかを身体から外に出してしまって、体内の健康度を上げる。
愚痴なんかも同じことで、他人や社会に対する醜い感情(嫉妬など)を、そのまま身体内(ココロ内)に飼ってると、毒物を身体に入れてるようになるから、どんどん毒にあたっていく。自家中毒ってやつですよね。自分で毒を作って自分が当たってりゃ世話ないわって話ですけど。でもホントは世話(メンテ対処)は必要です。毒が広がっていく前に。
そういうカウンセリング、つか、心のメンテナンス技術があるわけです。ほんまもんのケアはプロにやってもらったほうがいいですよ。これも虫歯の治療と同じです。でも、自分でも歯磨きくらいは出来るだろ?ってことですよね。まあ、それでも難しいですけどね。そのなかで最も原始的で、もっとも手軽で、今この瞬間からでも出来るのが、「何か言え」ってことです。
思考凝集機能
外部に何かを発信するとなると、大事なお客様がやってくる日(子供の結婚相手がやってくるとか、義理の両親が訪ねてくるとか)の自宅みたいに、主要な出席予定メンバーには時間厳守!を言い渡し、朝から掃除機かけて、座布団パンパンはたいて、玄関きれいにして、、って、家のなかをレディにしますよね。それに似てる。いやしくも外部になにかを発言しようとしたら、ある程度まとめないと言えないですよ。日頃の人間の思考なんか、宇宙空間というか夢の空間みたいに、イメージの断片が、水族館の魚のようにひらひら〜と泳いでるだけです。まとまらない。目の前(意識野)を大きなサメがすーっと泳ぎ去ると「サメだよね〜」と思い、小魚集団がしゅわーっと進んでいくと「わあ、たくさんだあ」と思う。そんなもんでしょ、僕らの日常の”思考”なんて。もう「アホの子」みたいなもん。それを外部に「お出しする」となると、やっぱピー!って笛吹いて、関連情報に招集をかけます。でもって、「お前先行けよ」「いや、俺いいよ」とか順番譲り合ったりしながら、次々に口から発射されると。
つまり言ったり書いたりすると、そのトピックに関して、日頃とっ散らかって思ってるあれこれが一気にぐわーっと凝縮するわけですよね。全部集めてみて、綺麗に配置してみると、問題点もクリアに見えてくるし、もうそれだけで解決してたりすることもあります。
だから、語ることは、精神浄化につながるので「語るシス」だという。これって、掲示板でこないだパクってきたものですけど。
そこんとこ、どうなの?
でもねー、これいいっすよ。何がいいって、日頃つめて考えてないこと、考えてはいるんだけど詰めが甘いから形になってないことを凝集させる作用があることです。個別質問は前回にあれこれ書いたけど、あんなのいくらでもあります。
例えば、
「日本の年金、どんだけマジに信じてますか?信じる度を0〜100として何点くらいですか?じゃあ、信じない分どのような対処をしようとしていますか?具体的に言ってください。もし信じてないけど対処もしてないなら、それじゃヤバいじゃないですか?なんでそれで放置してるんですか?その理由を正直に言ってください。途方に暮れているのですか?それとも考えるのがイヤで目を背けようとしているのですか?」
とか、もう傷口にグリグリ突っ込むような(^^)。
イヤな質問かもしれないけど、でも、将来のパートナーになるかもしれない人からは聞いてみたくないですか?「そこんとこ、どうなの?」って。大体、みんな口頭では誤魔化すじゃないですか?「いやあ、困ったもんですなあ」とか。困ってるなら対策立てろよ、何かしろよ考えろよで、ソコんとこどうなのよ?と。
適当に誤魔化せないような質問を山ほど用意しますんで、真剣に答えようとしたら、ピーッと笛吹いて集合かけて「俺は、マジに、どうしたいの?」って結構考えこむと思います。思考が前に進む。そして、外に出すことでそれが凝集していって、形になりかける。明日の方針が、ぼややんとでも見えてくるって効用があります。
場
でもって、ここまでシリアスに自分のことを言う場って意外とありそうでないです。やっぱね〜、シリアスになればなるほど、思いつめるわけだから発言もちょいヤバくなったり、アブナくなったりもするわけですよ。「何のために生きてるのかなあ」とかさ。そんな迂闊に言えないでしょ?表面上の”なあなあ的クソ調和”を重んじるペルソナ(仮面)座談会みたいな世間の付き合いでは、よう言えんわ。
かといって、Yahoo掲示板みたいなところに正直に聞いてしまうというオボコい(関西弁で"幼い"、英語でいえばナイーブな)ことをすると、意地悪言うことで憂さ晴らしとか、説教爺みたいなのが、深夜の台所のゴキのように湧いて出てきて不愉快な思いをするよね。だから意外とそういう場ってない。
まあ、僕のように個人のサイトを作って、ガンガン言いたい放題書けばいいんだけど、まあ、普通リアクションないですよ。個人ブログでアクセス稼ぐにはしんどいですもん。でね、アクセス稼ぐために、ヒットしやすそうなネタを書いたりして、そうなるとウケ狙いに走る。それでアクセス多少上がってうれしいんだけど、そうなるとアクセス上げることが自己目的化してしまって、「言いたいことを言いたい放題」って本来の目的からズレてくるんですよね。だから、だんだんやってて面白くなくなり、カタルシスも生じず、てかフラストレーションが溜まって逆効果になる。浄化するつもりが毒が蓄積されるという、何やってんだか?になる。で、もうアフィリエイトに走ったりとか。
だから作ろうと。
しかもAPLAC経由だから、それなりに共通属性はあるし、話をわかってくれそうな度合いも高い。且つ、誰が読まなくても、最低でも僕は読みますよ。この「最低でも一人は絶対読む」というのが大事で、これで「外部」が確定するから、ピーっと笛の音も鋭くなるわけで、心の整理がしやすいだろうと。
レス禁止
で、あとはクソレスがついて不愉快な思いをするとかですけど、これはルール作りで考えてます。基本は「レス禁止」です。言うだけ。返事なし。だって言うことに意味があるんだもん。個人的にメールを受けるというのはあるけど、それでいい。掲示板ではあるけどそこで意見交換はナシ。
これねー、レス「あり」にすると、論争になったりして不毛なんですよね。掲示板とかネットの議論の不毛性というのは、25年くらいやってるから分かります。それを有意義で生産性あるものに転化させる仕切りテクニックはそれはそれとしてありますけど、でも、本質的に、こういう本音問題って、正しいか/間違ってるかではないですから。趣味に正邪なし、ですわ。「俺はタラコが好きなんです!」と言われても、「それは違うぞ!」って話ではないでしょ。
また、本音とか愚痴って(本音=愚痴だったりするのだ、多くの場合)、聞いてる方はムカついたりするわけですよ。だから夜のお仕事(バーテンさんとか、焼き鳥屋のご主人とか、ホステスさんとか)には多大な尊敬の念を抱いているわけですけど、多分、毎日聞いててムカムカしてると思うのですよね。社運をかけた大事な1億円の取引を寝坊してパーにした新人社員が説教くらってから飲みにきて「やっぱさあ、人間誰しもミスってあるんだからさあ、誰だって寝坊くらいするよね?それを一概に悪いって決めつけるのっておかしいじゃない?やっぱさあ、褒めて育てるって人材活用ができないとさあ、これからのグローバル時代に生き残っていけないわけでさあ」とか滔々と偉そうに目の前で述べてられたら、どうですか?
だからレス禁止。
まあ、本人が求めるならいいです。それも求めるときは「つゆだく」みたいに、レス指定ができて、スィーツ・ピリ辛と指定する。スィーツは甘めのレスだけつけてくださいって、「お仕事大変ですよね、頑張ってください」というレスだけ。ピリ辛は「お前、なんかカンチガイしてないか?」の「叱ってください」系のニーズに合わせるという。「レスは、激辛でお願いします」とか。まあ、これも馬鹿馬鹿しいかな。基本はレス禁止でいいか。本人が禁を破るのはよしくらいで。
「人」って結局なによ?知り合ってそんでなんか良いことあんの?
他者承認=領土開拓
世界観とは人間観だと思います。90%はそう。だって自分が干渉できる「世界」の構成要素はこの大自然と人しかないんだもん。でもって、実際に影響力があるのは「人」でしょう。自分の世界を広げるとか、自分の生き方を進むとか、前に進むとか、何が具体的にどう「進む」のかといえば、「誰かと知り合う」「誰かに認めてもらう」ということの積み重ねでしかないでしょう、結局のところ。単に知るだけだったら一人で黙々と勉強たり旅したりすればいいけど、さらに進んで自分の居場所という領土獲得をするためには、誰かの承認がいる。
だって「誰か」に認められるから、受験でも就活でも合格「入ってよし」が出るんだし、相手から認められるからこそ恋や結婚もあるわけだし、認めてもらえるから友達や仲間もできるわけです。要するに自分の周囲の人間模様って、自分を認めてくれた人が曼荼羅みたいに広がってるってことでしょう。強制配置の職場やクラス等では、認めてくれない人も沢山混じるから、それで辛い思いをすることもあるのだが、任意&自発的な人つながりは、この「他者認知」が結合手になる。
でも、認めてもらう(あ、いいなって感じで好ましく思ってもらう)っていっても、まずは自分が自分を発信しなかったら他人も認めようがない。表面上とりつくろってテキトーなこと言ってるだけだったら、訴求力がない。
他方で、表面的に波風たてないコツはこの訴求力を殺すことであり、忍者みたいに「風景に溶け込む」ことですよね。忍者漫画で石垣を描いた布を身体に覆い被せて擬態とするみたいな(あれ、ホントなんすか?子供心に嘘くせーって思ってたんですけど)。つまりは「居ても居なくてもいい人」=その他大勢の雑魚キャラ・エキストラになる術です。あなたが指名手配犯人ならともかく、他者認知を求めるならそんなことばっかやってたらダメでしょう。
「人目につく=悪いことが起きる」と無意識に思ってる人は、一般に人間というのはそういうことをする(目立つ人間を攻撃する)ものだと思ってるってことでしょ?そして世界(世間)とはそういう所だと思ってる。「世界観=人間観」だというのはそーゆーことです。でもそうなの?僕は全然そうは思わないよ。そんな奴ばっかじゃない。てか比率で言えばそっちの方がはるかに少ない。もし周囲がそんな人ばっかだと思うなら、それは見えてないのか、あるいは居場所を間違ってる。人間そんなに馬鹿じゃないし、心も腐ってないよ。少なくとも僕の周囲の曼荼羅はそうだよ。
また、そんな人の中で目立たなくても、優秀な成績やら仕事をすればいいんだ、認めてもらえばいいんだって思うかもしれない。そうだね、優秀なことは素敵なことだよね。でもそればっかじゃダメでしょ?スペックや偏差値ばっかの偏った世界観を自分で作ることになる。それって極論すれば、有能=生存許可、無能=死ねって世界観じゃん。通り魔とかトチ狂ってしまう人が、実は昔は優等生だったとかいうパターンが多いのも、スペック戦略が破綻してるからでしょう?上には上がいるからね。勝ち負け戦略というのは、最終的には最強になって天下を取るまで成功しないから、いわば「宝くじで一等を取る」ことでなんとかしようという戦略とも言えるわけで、それって思いっきりコスパや投資効率が悪いんじゃないかな。優秀でなくても愛されたり、認められている人はいくらでもいるよ。つーかほとんど全員そうだよ。君もその仲間に入りなよ。
さらに、仮にそんな嘘で塗り固めた自分ペルソナが好かれたって、要するに「嘘の自分」の人気があがってるだけで、あんまりうれしくない。
ということは、どんな形であれ、多少なりとも自分というものを打ち出していかないと認知されない。そのためには本音の部分をある程度「安心して」出せて、でもって全く孤独ではない、誰かに読まれているって場があるといいよねと。
他者訴求の絶対矛盾
いわゆる「出会い」を求める場合、避けて通れない絶対矛盾があると思います。何かといえば、他者の関心を惹く=訴求しようと思えば、
(1)嘘つき要素=自分を飾る(嘘をつく)という要素
(2)正直要素=素顔の自分をさらけ出すという要素
ここ、絶対矛盾ですよね。ありのままの自分を見て!といっても、寝起きのドヨヨン顔で涎垂らした顔写真を提示したら、やっぱり引かれてしまう。素直を感情を率直に表現しましょう!って、いきなり大号泣しても、やっぱり引かれる。
かといって一から十まで嘘で塗り固めてしまうと、ボロが出てた時にリアクションがキツくなる。「なあんだ」「嘘じゃん」ってなって一気に潮が引くようになる。これって破壊的な効果で、国会議員や有名人の経歴詐称なんかがバレると、別にそんな経歴がどうであろうが本人の政策や実力と何の関係もないというのが明瞭だったとしても、「そういう人」と見られて全てが崩壊する。昔、知ってる人で最盛期には年収数千万だったのに、最後はドヤ街で餓死同然まで落魄した人がいましたが、転機はやっぱり経歴詐称がバレたらしいです。大した詐称でもなかったらしいんけど、メインクライアントの大企業とかそのあたりは厳しいので、大手からバンバン打ち切られて転落していったという。嘘をつくというのは本当に怖いんですよね。時限爆弾仕掛けるようなものですから。
それに嘘は、客観的なスペックについてはつきやすいんだけど、ここでやろうとしている価値観系のことは嘘をつきにくい。というか、正解とか好感度がわからないから嘘がつけない。例えば「中絶」「安楽死」とかいうテーマでどう考えてますか?ってことを聞かれても、どう答えたらベストアンサーなのかもわからないでしょ。
自己表現技術
この絶対矛盾をどう解決するか?といえば、僕はこう考えます。いい出会いを求めるなら、まずベーシックにあるのは正直であることです。嘘つくとどっかで矛盾してくるし、そもそも訴求力が微妙に弱いんですよね、とりつくろった見解というのは。
でも本当の自分を出すとはいっても、なんでもいいわけではない。素顔の自分の出し方、ってのはあると思います。「よく見せる」のではなく、「誤解されない」って部分です。
あなたから見たら正直に言ってるつもりなんだろうけど、他人から見たら全く違ったものとして受け取られてしまうってことはあります。
例えば「格差社会です、貧困層が広がっています、どう思いますか?」って質問で、「やっぱり個々人の努力が大切だと思います」と書いたとしたら、「要するにあなたは弱者切り捨て派ですね、努力してない奴は死ねってことですね」みたいに理解されるかもしれない。確かに全然何もしないで他者のヘルプばっかり期待してる乞食根性丸出しの奴は勝手にしろよって気分にもなるかしらんけど、結果的に十分に稼げなかった人は全員乞食か?努力してないのか?といえばそこまで言うつもりはない。あるいはベーシックな原理として「頑張った人が報われる社会がいいよね」程度のことで、報われてない人は頑張ってないんだということまでは言ってない。でも、そう受け取られるかもしれない。
このへんの言葉の問題ってすごく難しい。でも、これって避けて通れないです。
知らない間に誤解されてたりもするでしょう。また、そのあたりで誤解するような人は、しょせんは「縁なき衆生は度し難し」で切り捨てた方がいいのかもしれません。そのあたりの判断。そういった練習にもなると思います。
そういった言葉尻や揚げ足レベルでなくても、同じように素顔や真実をさらけ出しているんだけど、それがポジティブに見えるときもあるし、ネガティブに見えるときもある。また、ポジに取ってくれる人もいれば、ネガに取る人もいる。
ここは本当練習したほうがいいと思います。上手になっておいて損はないです。飾るためではなく、誤解による下らない消耗を避けるために。
ダメな自分を受け止めてくれる人
本当に価値ある出会い、特に人生のパートナーとか、仕事の相棒とか、ロングレンジの人間関係の場合、いかに良い部分を認めてくれるかというよりも、いかにダメな自分を受け止めてくれるか、って部分が大きい。例えば、すぐに感情的に取り乱したり、ポロポロ泣いてしまう自分を、「ヒステリー女」だとか、「感情振幅キツすぎてつきあいきれない」って思う人もいるかもしれないけど、「感情が豊かなんだ」「感受性が強いんだ」「そうやって自分を出せるってのがまずいいことだと思うよ」って言ってくれる人もいるわけですよ。
ダメな自分を良いように受け止めてくれる、ダメな部分を上手に直してくれる、ダメと知りつつも他にもいい面があるから総合点で合格って判断してくれる、欠点だと思ってた部分は実は長所なんだと気づかせてくれるとか、そういう人との出会いというのは、これはとっても大事なことだと思います。Am I right?
安らぎとか癒やしとかいうのも、嘘ついて立泳ぎして疲れてるからもう沈んでしまいたい、川底にぺたんと足をつけて楽になりたいって潜在願望を満たしてくれるかどうかでしょう。「ああ、この人には嘘をつかなくてもいいんだ」って、一緒にいても全然疲れない人。かといってダラダラ堕落するわけではなく、逆に生産的な気分にしてくれる人。本当に貴重だと思いますよ。Do you agree?
だから正直にダメ自分を出すべきなんですよね。
その意味で世間の出会い系とか、求人とか、飾り立てて嘘つく方向とは真逆です。
しかし、あまりにも不器用に出してたら、それも困るので、素顔を出すなら出すで、ちゃんと出さなきゃ。そして出すには技術がいるとしたら、ちゃんと練習しなきゃ、です。
そういう場があるといいなあって。
ああ、書いてたらもうページが足りない。あとは駆け足。
つながるだけでは足りない、新しい地平が見えなきゃ
単に出会いがありました、だけでは足りないと思います。それによって、あなたの人生の新しいページが開かれるような出会いでなくちゃ。これは別に恋愛に限らないです。全然興味のなかったエリアへ誘ってくれる水先案内人的な人に出会うだけでも、新しい地平線は見えてきますもん。趣味のつながりでも、「あ、自分だけじゃなかった」ってレア趣味やニッチ嗜好に合う人を見つけるだけで、楽しくなります。
出会った後のことなんか僕が心配する必要もないんだけど、でも全体のグランドデザインでは、やっぱり行動というか、客観的に何かが変わるという結果が出て欲しい。特段なにも変わらないような単なる「知り合い」だけがどんどん増えても、意味がないとまでは言いませんけど、それだけじゃ辛いでしょう。Facebookの友達の数が増えた分だけ人生広がるのか、前に進むのかというと、あんまり比例しないとも思うのです。かえって人間関係メンテ雑務が増えたり(義務いいねとか)。
あーんまり見えてる風景が変わらない、地平線が見えてこないような人々100人と知り合うくらいだったら、地平線を見せてくれる一人と知り合ったほうがいいと僕は思う。
そういう形にしたいよなあって。でもどうやって?
結局、場の持っていき方というか、「変えよう」「進もう」って意欲のある人が入ってくるような感じの方がいいんでしょうね。本音ぶちまけて語るシスってのはあるんだけど、それによってさらに進めるって。単に愚痴を言うだけでも、グチグチ言ってるうちに段々吹っ切れてくるかのような。
人生ファシリティのシェアリング経済
これは話がでかくなるのでちょっとだけ。いつも書いてることですけど、先行き不透明で、大きなシステムとかメカニズムに頼れなくなっていくでしょう。国のシステムもどこまで正常に機能し続けてくれるか心もとない。資本主義が暴走して臨界までいっちゃうかもしれない。働いて→お金稼いで→お金で人生解決って方法論は、仕事がない・就職できないって時点で破綻します。お金がないと死ぬしか無い方法論。それを矯正補充するために国家や社会のピケティ的な所得再配分があるんだけど、そもそも国家自体にお金がない。また、国家が一部の強者の道具に使われてしまって、格差縮小に機能するというより、むしろ格差拡大に機能する場合もありうる(つまり庶民的にはお上なんか無い方がマシなんだが、歴史的にはそのケースの方が多い)。
じゃどうすんの?って言えば、システム外での互助ネットワークというのが、これまで以上に重要になっていくでしょう。戦乱に明け暮れていた中国大陸の庶民の生存システムみたいなものです。つまりは「横のつながり」で生きていくという方法。
以前紹介した世界的なシェアリング経済の波というのは、タテのものをヨコにしているともいえます。生産者→販売者→消費者という川上→川下の上下関係を、ヨコにして、普通のド素人同志をつなぐという消費者to消費者、C2C(コンシューマー)ですね。交通機関やタクシー会社という専門業者ではなく、車を持っててヒマな人が動くという。これは料理でも、教育でも、日常雑務でも、なんでもある。遊休資産や遊休能力を有効活用しようと。
教える技術は抜群にあるけど、少子化で大手予備校が倒産したので無職になり四苦八苦してる人がアパートに住んでいる。その一階の大家さんも経営苦しくて子供を塾にやれない。だったら、その元講師が大家さんの子供に教えて、その分家賃安くしてもらったり、飯食わせてもらったら、双方にとっても都合が良くはないか。
シェアリング経済は先進的な意味でいえば正解だと思うけど、正解をいうなら、そのために音頭を取ってネットワークを組織する会社そのものも実は不要ではないかって話になっていくと思います。やり方さえわかれば、あとは自分らでネットワーク組んでいってしまえば、それで足りるんじゃないかと。もちろん二者択一でもないし、また旧来の産業や国家構造とは敵対しないで補完関係に立てば良いのでしょう。
でも、発想そのものを突き詰めていけば、「誰かにやってもらう経済」から「自分らでやってしまう経済」に転換していくということで、要は物々交換的なやり方を円滑&洗練させていけばいいわけですわね。別に完璧でなくても、部分的であれ、それだけでかなり生きていくのは楽にはなる。だって家賃が無料 or 安くなるだけでも随分楽だと思うよ。
これまでは、そういうのって「たまたまバーター」みたいな感じだからアテにはできない。でもそれをコンスタントにアテにできるように、つなげちゃえってのが、Airbnb、Uber、Vayableというシェアリング経済の新興企業群でしょう?だとしたら自分らでひと通り人々と知り合ってしまえば、随時融通が効くようになりはしないか。
都会の仕事ナシ、金ナシ、住処ナシ、ご飯ナシと、地方の仕事アリ、金ナシ、住居アリ、ご飯アリという方程式モドキがあったとして、両項に共通して存在する「金ナシ」という要素は方程式的に消せるから、そうすれば合致するじゃんということでしょ。
個々人のレベルでひきなおせば、そういう仲間、いざというときに持ちつ持たれつでやっていける仲間をどれだけもってるかというのが、人生のファシリティ(資源・設備)になるんだろうな〜ってことです。
最終的には、てか本当言えば今日にでも欲しいんですけど、親が最近ヤバくなってきましたとか、介護で会社辞めなきゃとか、子供がちょっと面倒なことになってとか、いや自分がヤバいんですけどってなったら(ならなくても)、家族揃ってポンと無一文でそこにいけば、とりあえずは食える、住める、楽しくやれるって場所が欲しいですな。半分自給自足みたいな感じでやってて、仕事なんかいくらでもあって、とりあえず塀直して、草刈りやって、じゃがいもの皮剥いてとか、メシもせーのでまとめて作るから大広間みたいなところいけば誰でも食えるようになってて、スペースだけはやたらあるから適当にそこらへんに住んでとかね。
ただし、絶対必要な原則があって、波長が合うもの同志でないと、こういう共同生活というのは地獄になりうる。刑務所か軍隊か阿片窟みたいになってしまう。これはラウンドでバッパー渡り歩いていた人にはわかると思うけど、メンツが揃ってる時は天国なだけど、メンツが揃ってないとクソみたいな時空間になるのですよね。だからこそ人を選びつつも、つながっていくというのは大事なことだと思います。人がいればいいってもんじゃないのよね。
だからそういう出会いは、生き残るための「生存戦略」にもなるでしょうって、ピンドラみたいに。
出会い系とかホライズンとか言い出したのは、そのあたりまで見据えた未来戦略としての一面もあります。今の時点では何言ってんだ?って感じかもしれないけど、あと10年したらもう少し切実に意味がわかってくると思いますよ。
生存戦略としてのオウンドメディア
その場合、やっぱり自分訴求していかないと出会えない、つながれない、広がらない。これまでのように地縁血縁、そして戦後日本の大きなカナメだった「職縁」も大企業家族主義の衰退とともにしょぼくなっちゃいました。昔のエッセイ「ひとりぼっち」シリーズでも取り上げたけど、無縁社会とか孤族の国とか言われてますよね。それじゃ死んじゃうじゃん。
嫌な奴と無理につきあう必要はないけど、好きな人と付き合う分には文句無いでしょうに。それが孤族とか言われてるくらいなんだから、要するに「出会ってない」「つながってない」ってことであり、それじゃ広がっていかないよん。
でも、自分と波長が合う人って、実は少ないですよ。100人ランダムにいたら一人か二人じゃないかな?それを90%以上の合致率にするのが社交術ってもんですけど、それは世間遊泳術であって、仲間とかそういうレベルの話じゃない。
効率良くするには自分と似たような感性の共通属性の網がかかってると良いです。でもこの共通属性のカンドコロが難しいですよ。海外暮らし経験があるから波長が合うかというと、別に合わない。あれって海外に意味があるんじゃなくて、どういう動機で日本を出たか?って部分に意味があるのだと思います。単に社命で配属されているのと、会社辞めて徒手空拳で突撃していったのとでは全然違うもん。
だから最初に大きく投網をかけるような作業がいるし、共通属性のカンドコロを掴んでいくことも必要。単に同じマンションの自治会仲間ですとか、同じエリアに住んでます、同じ公園のママ友です程度の広がりだったら、合致率低いと思いますよ。せいぜい10人に一人、本当の意味で長続きするのは100人に一人くらいじゃないかな〜。
じゃあ、どうすれば広がるかといえば、とりあえずはネットでブログを〜という、オウンドメディアですね。他人のメディアを借りるようなFacebookとかtwitterとかSNSでは足りないと思う。あれって既につながってる人の連絡手段には都合が良いけど、ゼロから出会うには微妙にしんどいんじゃない?
やっぱ自分を自由に出せないとダメじゃないかと。そんな部分的な意見だけポチポチ言ってたって人格像の全体なんかわかりゃしないんだから、ある程度まとまって分量を多角的に出していかないと。持ってる引き出しの部分をあれこれ出す。そのためには既存のメディアでは足りないので、自前のメディア(ブログでもHPでも同人誌でも)を持っていたほうがいい。単に広告を出すとか、宣伝広報をするのではなく、そこで友だちになってしまうという。
企業レベルのマーケでいえば、消費者=友達みたいになってしまうという。そのための方法論。まあ、早い話が、今僕がA僑だなんだで毎日ドンパチやってるのがそれで、あのメンツというのは、僕にすれば全員「お客様」「消費者」ですよね。でもそんな風に思ってないし。ただの「仲間」ですわ。大事なね。今やってるのは、APLACというブランド(しょぼいんだけど)の暖簾分けをやって、日本でエージェントやっちゃえば?やり方教えるよとか、APLACの膨大なコンテンツ一定の著作権料で自由に編集して電子書籍で出せばいいじゃんとかそんな話もしてます。これもシェアリング経済の一環で、APLACというある種のビジネス資産(コンテンツやら乏しい集客能力やらSEOやらフィルタリング機能やら)をシェアさせてあげる、でもリターンは貰うという。そこでは消費者=友達=仲間=ビジネスパートナーでもあるという。しかしてその実体は?といえば、飲み友達ってのが一番近かったりするんだけど、それがいい。それがオウンド・メディア・マーケティングでしょ。
だもんでせっせと自分のHP持ちなさいよってオススメしたり、HTMLちょこっと教えたりもしてますが、でもオウンドメディアは、将来的に個人が生き延びていくための生存戦略でいえば、戦略拠点たりうると思う。それだけのポテンシャルはある。でもポテンシャル(潜在力)というのは「潜在」してるから見えない、わからない。顕在化させないと。伸びしろもあるだけじゃダメで、伸ばさなきゃ。引き出しもあるだけじゃダメで、ちゃんと引いて中身を出して、綺麗に陳列しなきゃ。というわけで、ここでも自己表現技術というのが大事なものになるでしょう。
だったら練習しようぜってことで、このサイトも練習の場になったらいいなと。そういう思惑もあります。
文責:田村